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■愛すべき殺人鬼の右手<6>■

哉色戯琴
【4563】【ゼハール・―】【堕天使】
「事態が続くと、ファイルがはちきれてしまいそうだから。仕方ないけれど、彼には逝ってもらいたいの」

 黒猫の頭を撫でながら高峰が微笑する。雫はごくりと唾を飲み込み、小さな身体を緊張させていた。彼女の持つ圧力にも似た存在感は、子供には少し克ちすぎるのかもしれない――草間は、ソファーに腰掛ける高峰を見下ろす。

「彼は元々農場主だった。真夜中に広い場所を女装して闊歩するのが無上の喜びだった。生憎東京にはそういった広い場所はないけれど、似たような場所は、あるでしょう?」
「似たような、場所?」
「広い場所。人が居ない。生半可でなく広い廃墟を彼は求めているの。閉鎖された建物ではなく、もっと開けた、だけど巨大な廃墟。あるでしょう、雫さん」
「ッ、へ? あ――」

 雫はポケコンを覗き込む、そして草間を見上げる。

「――近くに、建設途中で頓挫した遊園地がそのまま放置されてる。例の三角形の結界、だっけ? その中心部、ちょっとした山になってるとこなの。買い手がまだ無くて――きっと、きっと恵美ちゃんここにいる!」
□■□■ 愛すべき殺人鬼の右手<6> ■□■□



「事態が続くと、ファイルがはちきれてしまいそうだから。仕方ないけれど、彼には逝ってもらいたいの」

 黒猫の頭を撫でながら高峰が微笑する。雫はごくりと唾を飲み込み、小さな身体を緊張させていた。彼女の持つ圧力にも似た存在感は、子供には少し克ちすぎるのかもしれない――草間は、ソファーに腰掛ける高峰を見下ろす。

「彼は元々農場主だった。真夜中に広い場所を女装して闊歩するのが無上の喜びだった。生憎東京にはそういった広い場所はないけれど、似たような場所は、あるでしょう?」
「似たような、場所?」
「広い場所。人が居ない。生半可でなく広い廃墟を彼は求めているの。閉鎖された建物ではなく、もっと開けた、だけど巨大な廃墟。あるでしょう、雫さん」
「ッ、へ? あ――」

 雫はポケコンを覗き込む、そして草間を見上げる。

「――近くに、建設途中で頓挫した遊園地がそのまま放置されてる。例の三角形の結界、だっけ? その中心部、ちょっとした山になってるとこなの。買い手がまだ無くて――きっと、きっと恵美ちゃんここにいる!」

■□■□■

「しかしまあ、お誂え向きな場所があったものですね」

 神山隼人は苦笑して呟く。セレスティの車で到着した一行は、ぽっかりと空いたような廃墟を眺めていた。都心に手付かずで残されているにはあまりにも広大で不自然な廃墟、廃園の遊園地。黒い夜になお暗い影を落とすアトラクションは、不気味なモニュメントのようにも見える。少々不気味な情景が、そこには広がっていた。
 お誂え向きと言えばお誂え向きである。夜目を調節しながら辺りを見回し、彼は溜息を吐いた。いい加減、義理も何も無い魔王の遊びに付き合うのも飽きてきた所だし――ここで決着は、付けておきたい所である。

「いい加減この矛盾に付き合わされるのもうんざりだしな……しかし、少々広すぎる感があるか。アトラクションの類もいくつか残されているようだし、隠れる場所には事欠かない」
「まあ、それはそうだろうね。いっそここら一帯焼き払ってしまった方が良いかな、きっと探しやすくなるよ。僕も少しはストレスの解消ができるだろうし」
「それで恵美さんまで燃やされてしまったら本末転倒ですよ。それに、麒麟さんは少し無茶が過ぎます……さっきだって本当、見ているこっちの心臓が危ないぐらいでした」

 七枷誠の言葉にくふふっと肩を揺らしておどけて見せる鴉女麒麟の、本音とも冗談とも付かない言葉に、綾和泉汐耶は溜息を吐いた。内臓を引き裂かれ取り出され、それでも平然としているだけの能力を持ち合わせているのは判っているものの、だからと言ってそれを推奨はしたくない。そして、無駄な人殺しは勿論のことである。
 順位としては、ゲインの始末よりも恵美の確保が優先事項になる。とにかくこれ以上の人死には避けておきたいし、あやかし荘という場所の要は恵美なのだ。彼女が死ねば嬉璃も消える。バランスは崩れて、あの場所は、簡単に壊れてしまうだろう――そんな悲しい事態になるのは、避けておきたい。

 車を振り返れば、まだシートに身体を預けたままのセレスティ・カーニンガムがノートパソコンに向かっていた。その横にはいつものように従僕が控えている。何事かの指示が出されれば、彼は頷いてダッシュボードを開けた。そこから出てきたのは、衛星携帯である。従僕はそれを、全員に手渡して行く。

「……ああ、間に合いましたね。見取り図を取り寄せることが出来たようです――すぐに印刷しますので、皆さんもう暫くそのままでお待ちを」
「確かにこう広いと迷いそうだな。地下なんかはどうなってるんだ、遊園地なら下水設備なんかもあるだろうし。他にも色々と仕掛けが施されていそうなもんだが」

 草間の言葉に、セレスティはキーボードに触れた。情報の読み取りで地図の状態を把握する、手の者から送られてきた添付ファイルを展開すれば、その様子は感じられた。地上にあるアトラクションの殆どは建設途中で放棄されている状態だが、地下の下水は整備されているらしい。他の施設状況なども見ながら、彼は顔を上げる。

「中央のステージには、地下があるようですね。舞台の演出用でしょうか。下水道なども整備されていますが、こちらは人が通れる場所は殆ど」
「アトラクションは、どのぐらい残されているのでしょうか。その他の施設の状態などは、どのように?」
「ショップの類はありません。中央のステージ、メリーゴーランド……それと、海賊船ですね。観覧車は鉄塔だけが残されている状態のようです」
「それなら、比較的探しやすいかもしれませんね。監禁や、解体……などは、多分室内のような場所で行われているでしょうから。恵美さんがいるとなると、その辺りでしょうか」

 汐耶は印刷された見取り図を眺めながら小さく呟いた。室内、雨風の凌げるような場所となると、随分限られてくる。スタッフルームもアトラクションの近くに設置されているし、それ以外なら中央のステージが怪しいぐらいだ。まずはその辺りを探索するべき、か。
 封印に関してはいじられている気配がある相手なのだから、この場合はその手段の考慮を完全に捨て去った方が良いだろう。単に以前までの術式に対して無効化されているのか、それとも封印全般に対してなのかがわからない。それならば、浄化の方向で持って行った方が良い――明らかに、『彼』は変質していた。二度目の対峙では悪意と敵意があったのだから、そこを足掛かりにすれば、どうにか。

 同じように渡されていた地図を見ていた誠は、ふっと気付いて面子を見渡す。調査員が自分を含めて五人と、草間、鬼鮫、何故か三下。セレスティのガードや従僕。一人、足りない。確かに同じ車でここに来たはずの者が、いつの間にか、消えている。

「神山、さん」
「はい? どうしました、誠さん」
「ゼハール、どこ行きました?」

■□■□■

「さあ、お楽しみの始まりですわ、我が君様。愉しい愉しいショータイム。愉悦と快楽と血と肉が手を取って踊り合う絶好で絶妙の時間がやっと始まります。中々長い時間が掛かってしまいましたが、これでやっと、私も存分に遊ぶことが出来ますのね」

 ゼハールは薄暗い場所で、くすくすと声を漏らしていた。目の前にはぼんやりとした眼で彼を見上げてくる傀儡の姿がある。同じ顔でいながら、眼の色だけは違う、身体。赤い眼を見下ろせば、そこに写る自分の姿が確認できる。
 皮の下が、不自然にぼこりと盛り上がった。何かが脈動し、息づいている気配が伝わってくる。そこから生まれる者に指令を出すのが、きっと、最後の役目になるだろう――この主のために彼が下す、最後の命令。たるんだ皮がぼこぼこと盛り上がる、だが、相変わらず人形の眼は虚ろなだった。そこに入っている魂は何も見ていない、ただ開いているだけで。

「そうそう、私は伝言を一つ預かっていたのですわ、ご主人様」

 ゼハールは可愛らしく小首を傾げ、頬に指を当ててみせる。しゃらん、と首から垂れた鎖が鳴る音が響いたが、やはり人形は何の反応も示さない。ぼこぼこと皮の下の脈動ばかりが、早くなっていくのが判る。

「『君が殺した二人の女性のうちの一人から作った心臓のビール煮は、私がおいしく頂いたよ』。我が君様からのお言葉ですわ。もう何十年も言いそびれていた事だったのだそうで、やっと伝えられましたわね。私も少々お零れに預かりましたの――とてもとても美味しゅうございましたわ、ご主人様」

 ぼごり。
 皮を突き破って、肉の塊が生まれた。
 一つ、それが下腹部から。
 一つ、それが大きく広げられた口の中から。
 肉はびくびくと痙攣し、ゆっくりとその形を整え、同時にその大きさを変えて行く。ゼハールはそれを眺めながら、自分の胸に腕を突っ込んだ。ずるりと取り出されたのは一枚の白い羽と、巨大な牙。それぞれを肉の塊の上に落とし、彼はにっこりと微笑む。

「其方の名はフレスベルグ、死者を食らう白き大鷺。神々の黄昏の折にもただただ喰らうことを続けた貪欲にして強欲の鳥。其方の名はニーズホッグ、有毒の熱泉に住まい世界樹の根を食う災厄の白竜。さあ――」

 ぶん、とゼハールは自分の鎌を振り上げた。

「参りましょうか、偽物の行進で」

■□■□■

「ッく、そ」

 敷地の中央、東寄りのメリーゴーランドの前。誠は襲い掛かってきた巨大な鷺の持つ嘴を寸前で避けるもバランスを崩し、アーケードの上を転がっていた。擦り剥けた腕が微妙な痛みを訴えてくるが、それほど深刻なものでもない――ポケットに突っ込んでいた紙を数枚乱暴に取り出し、ばら撒く。一枚一枚に『盾』の文字が綴られたそれが、向かってきた巨鳥の身体を受け止め、弾き飛ばした。数枚の紙が意味を失って地面に落ちる、長くは保てまい。彼は身体を起こし、鬼鮫に怒鳴った。

「ッなんなんだこれは、一体!?」
「こちらが聞きたい、が――あの堕天使の仕業と見て間違いが無いだろうな。呼び出したか何かをした神話の化け物と言った所だろう」
「この二匹だけだと思うか?」
「そう願っておきたい所、だ!!」

 言って鬼鮫は踏み込み、地に這い蹲るように身体を構えていた白竜に突進した。巨大な尾がそれを薙ぐように動くが、助走を生かして彼は跳躍し、それを避ける。そのまま刀で切り付けるが、牙によって弾かれた――二匹の化け物は、囲むようにしてゆっくりと距離を詰めてくる。

「フレスベルグにニーズホッグ、ですか……死者を食うものが死者の味方をすると言うのも、中々に面白い符号、でしょうか」
「そ、そそ、そんなこと言ってる場合じゃッ!! え、えうえう、な、なんでこんな化け物まで出てくるんですかぁああ!!」
「……。三下君、君はどうして付いてきたんです」
「だ、だって、恵美さんが心配だったんですよぅ! で、でもでもこんなのが出て来るなんて聞いてないですよぅう!!」

 役立たず・ドジ・失神屋と役立たず三拍子の彼が自主的に付いて来ようとする勇気を発したのは一応褒めるべき所なのかもしれないが、現状でははっきり言って足手纏い以外の何でもないのかもしれない。苦笑と溜息を同時に零しながら、セレスティは車椅子の後ろに引っ付いている三下を見遣った。本当に何をしに来たのだか分からないが、そうやって虐めてやるのも悪いだろう――現状は、とにかく目の前の化け物達の始末が優先である。
 運動能力が殆ど無い彼にとって、こういう戦闘の場に紛れ込んでしまうというのは少々都合の悪いことだった。手に触れているノートパソコンで他の調査員達の位置を見るが、一応奇妙な行動が起こっている気配はない。と言う事はここに集中して、仕掛けてきたのだろう。理由は無いわけではない、一番に人間が群れている。三下や鬼鮫、草間、そしてセレスティと誠。二匹の獣を仕向ける理由は、充分と言った所か。

「ッひ、うわぁあぁぁ!!」

 三下の悲鳴に顔を上げれば、巨鳥がセレスティ達に向かって来るところだった。だが彼はまったく慌てることなく、ただ、指先をくいッと動かす。周囲に張っていた水の膜に嘴が触れると同時に、その翼を無数の弾丸が貫いた。周囲の水を利用した結界である。身を守る事は出来るが、攻撃には転じにくい。

「草間さん」
「んぁ?」
「銃は、持って来ていますね」

 背後を警戒していた草間は、セレスティの言葉に上着へと手を突っ込んだ。そこから出て来たのは妙に禍々しい気配を発する、赤黒い拳銃である。呪遺物、呪われた業物であるそれは、IO2のエージェントである『ディテクター』の持ち物だった。
 セレスティの言葉の意味に彼は小さな溜息を吐くが、それでも四の五の言っていられる状況ではないと悟ったのだろう。そういう状況判断の早さは、探偵である彼に必要不可欠のスキルでもあった。ジャキ、と音を鳴らして安全装置を外し、草間は水の結界から飛び出す。

「鬼鮫、そっちの竜は任す!」
「フン! 坊主を死なすなよ!」
「誠、お前はこっちの鳥に集中してろ!」
「ッ、あ、ああ」
「翼を狙って落としちまえば――」

■□■□■

「ぶっちゃけた話をすると本当に本当に興醒めしたんだよ、本当に本当にさあ」

 はぁああッと巨大な溜息を吐いて、麒麟はそれを見下ろしていた。
 彼女の華奢な白い手の中には頭が握られている。こめかみを親指と小指で挟む形に固定された傀儡は、ただばたばたと脚を動かして暴れるばかりだった。その無様な姿に、麒麟は再び息を漏らす。腹を切り裂いて内臓を取り出して心臓を突き刺して、そこまで許したにも関わらず、結局はこの程度の可能性しか持ち得なかった相手。まったく詰まらない。期待があっただけに、興醒めを通り越して絶望に値する。

 敷地の中央、西寄りの海賊船の前。化け物二匹を放って逃げる最中の『彼』を捕まえた麒麟は、ぼんやりと空を見上げた。暗い空ではあるが、一帯に明かりがない所為か、少しだけ夜空が澄んで見える。風雅や風流を楽しんで荒んだ心を慰めなければ、とてもではないがやっていられない――そんな心地だった。

「僕はさ、君に結構な期待をしていたわけだよ、判るかい? 人の皮を剥いで、内臓を煮込んで食らい、骨までしゃぶり尽くすように加工して有効活用。聞くだけでなんとも醜悪で愉しそうな響きだと思っていたのに――現実は、これだ。所詮死体に振るう程度の暴力しかない。結局その程度で、ただ劣悪なだけ。そんなものじゃあさ――まるで楽しめないんだよ」

 ぎり、と指先に力を込める。僅かに皮が滑るが、頭蓋骨は固定されていた。腕を上げれば小柄な身体は簡単に宙吊りに出来る、そして、そのままで麒麟は言葉を続けた。

「もういいよ。これ以上は面白くなさそうだから。君はここまで。ここで終わり。死人は死人らしく暴れに暴れて地獄の地獄に逝き帰れ。僕は退屈な日常に君の記憶を埋没させよう。そして僕は続く、君は終わる、それで解決、完結、裁決だ。だから、もう要らない」

 ぎりぎりぎり。
 力が篭る。
 麒麟の顔色はまるで変わらない。
 その腹に、鎌が掛けられていても。

「離して下さいませ、鴉女様」
「おや、まだ居たのかゼハール」
「ええ居りますとも。もう少し遊んで掻き回して、でなければまるで面白いところの無いままに終わってしまいますもの。それは私だって本意ではありませんわ。私だって――遊びたいのですから」

 麒麟の背後に立っていたゼハールは、彼女の身体に引っ掛けていた鎌をぐいっと引き寄せた。腹の皮が破れて麒麟のワンピースが血に染まる、そして、その手がゲインの頭から離れた。傀儡はそのままに駆け出し、逃げて、行く――だが麒麟は追わない。その顔には、笑みが浮かんでいる。ゼハールの顔にも、同じように。狂気の狂喜に良く似たそれ。鎌に囚われた身体をくるりと翻し、麒麟はゼハールを振り向いた。悪戯にその首に腕を廻し、引き寄せる。
 ギリギリの距離で相対する顔。
 同じ表情の元で、二人は見詰め合う。

「それでは」
「いつかの続きを」
「始めると――」
「しましょう、か!」

 ゼハールは鎌を力任せに引き寄せる、麒麟の脊髄がブチリと音を立てて切れた。

■□■□■

 敷地の中央、ステージの前。荒い息を吐く汐耶の背を撫でながら、隼人は小さく息を吐いた。

「まったく――アバターまで引き摺りだしてくるとは思いませんでしたよ、ゼパルめ」
「ッ……アバター、? あの化け物達のこと、ですか?」

 ニーズホッグとフレスベルグに遭遇した際、セレスティは水の結界で守りながら、二人を逃がしていた。ここで全員が足止めを食らっていては恵美を探すことに支障が出る、二人は探索を、と。全力疾走でどうにか化け物達を振り切る事は出来たようだが、やはり置いてきた彼らの事は多少気になった。鬼鮫も付いているのだから誰かが死ぬということは無いだろうと思いたいが、流石にあの状況ではあまり期待も出来たものではない。汐耶はぎゅっと本を握り締め、身体を伸ばした。

 彼女の呼吸が落ち着いてきたのを確認してから、隼人はこくりと頷く。その視線は、ステージに向けられていた。遊園地が計画通りにオープンしていれば、そこでは着ぐるみのショーでも行われていたのだろうが、現状ではただ寂れているばかりである。既に設置され終えている無数のベンチが、妙に不気味だった。そこに、見えない何かが集ってでもいるようで――勿論、そんな気配は、無いのだが。

「あの化け物は、多分何かを媒介に呼び出された紛い物……でしょうね。神話の世界では見た覚えがある連中です。悪竜ニーズホッグ、屍喰鳥フレスベルグ」
「北欧神話で、ユグドラシルの上下にいる獣ですね。どちらも死者を食らうものだったと記憶しています」
「まあ、死人の僕にそれを使わすと言うのは彼一流の悪趣味なのでしょうが。しかしいい加減、彼の下僕のお守りも飽きてきましたね」
「飽きたとか、そういう問題じゃありませんよ。……人の命が今も、掛かっているんですから」

 汐耶は大きく息を付き、胸を撫でる。心音は落ち着き、呼吸も、安定している。何かに挑む際はとにかく万全の状態でなくてはならない、心拍や呼吸までも。いくら相手が『常人を圧倒する程度の暴力』――麒麟曰く――しか有していないとしても、直接的な戦闘では向こうに分がありすぎる。奇襲か何かを受ければ、確実に危険な状態に陥るだろう。ぱら、と彼女は本を開く。
 封じてある能力は多数あるが、やはりページを選んでいる時間というロスは痛いだろう。少々勿体無いが、すぐに使えるようにページを破っておいた方が良い。浄化のページを選び、汐耶はそこを切り離す。

「取り敢えず一番怪しそうなのは、このステージの仕掛け舞台の下でしょうね。どこかで操作できるものなのかしら……電力が通っていれば良いのですが」
「ああ、多分外部的な力でどうにか出来ますよ。災害時などに電力がカットされると閉じ込められてしまいますからね、ここに取っ手があります」

 ステージに上り、隼人は屈み込んだ。白く塗装されている舞台の中央部分が四角く隙間に縁取られているのが、夜の闇の中に見える。銀色の取っ手に指を掛け、隼人はそれを引き上げた。通常ならば三人ほどの力が要るのだろうが、この程度ならば彼一人でも容易く持ち上げられる。ぽっかりと開いた穴の中は暗く、脇に梯子が掛かっているのが見えた。使い魔に入り口を支えさせ、ふぅ、と彼は息を吐く。

「……血のニオイが、しますね」
「…………」
「さてと、ここからは逃げられないように、一応結界を張ってはいるのですが――どこに隠れているものか。きちんとここに居て欲しいものなのですが、どうでしょうかね」
「あまり進んで遭遇したいものでもありませんよ、私は。神山さんはどうなんです? 進んで、彼を捕縛したいのでしょうか」
「スーツが汚れるので、あまり相対したくは有りませんね」

 そういう問題ですか。
 そういう問題です。

 くすりと肩を竦める隼人の様子に、汐耶も苦笑する。あまり気張らず、それでも油断はせずに。そういうスタンスが大切なのかもしれない――だが、相手が半分近く本気で言っているのも判るだけに、微妙な心地もあった。隼人が先に梯子から下りて行くのに、彼女も続く。気付かなかった生臭いニオイが下に向かう程、鼻腔を刺激した。込み上げてくる嘔吐感に嫌な連想が働くが、それを意識しないようにする。

 下に付けば明かりはなく、ただ闇だけが広がっていた。ふわりと僅かに胸のポケットが光っているのに気付き、隼人はそこに手を入れる。小さなビニール袋に入れていた嬉璃の髪が、淡く光を発していた。近くに恵美がいるということなのだろうが――大まかな方向でもつかめないものかと、彼はそれを取り出す。くい、とそれは曲がった。妖怪アンテナ方式、らしい。

「これに従って進んでいけば、恵美さんはすぐに見付けられそうですね。それにしても少々暗さが過ぎますか、明かり……」
「ああ、懐中電灯ならありますよ。恵美さんの分の食糧や水と一緒に、アトラスの編集部からお借りしてきたんです」
「おや、それは準備の良いことですね」

 汐耶は懐中電灯のスイッチを入れる。
 目の前に、女の皮がぶら下がっていた。

■□■□■

 無言ではなかったが、何か声が交わされているわけでもない。麒麟はワンピースの裾を引き裂いて、、布地を腕に巻き付けていた。化学繊維は燃え広がり、麒麟の腕も焼く。だがその程度の痛みは今更問題ではない、今問題なのは、目の前で対峙している相手を薙ぎ倒すことの可否。漏れる笑いはただ、廃墟にこだまして行く。

「ああ、そうか――うん、今更気付いたけれど。結社の連中の殺害現場、あそこに皮を貼り付けたり文字を書いたりしたのは君だね、ゼハール」
「ええそうですわ。文字には少々細工をして、皆様の脚を鈍らせて頂きました。楽しい事は長引かせて遊んで弄り尽くす、そうでなければ退屈ですから」
「だったらもうちょっとあいつを強くしてもらいたかったのだけれどね――」
「あれでも充分強いとは思いますわ。常人に対しては、です、がッ!」

 言ってゼハールは一気に踏み込み、麒麟のフィールドに突入した。彼女が発する熱線でアーケードは歪み、捲れ上がっている。脚を捕らえられないようにしながらゼハールは自らの大鎌を振るう、そして麒麟の身体を捉える。何度目かしれないその動作を、麒麟は甘んじて受けた。
 何度も切断された脊髄、ワンピースの背中は幾重にも切り裂かれてずたずたになっている。この騒動に巻き込まれてからもう三着目の出費、今度は誰に請求したものか。笑いながら考える麒麟は鎌によって引き寄せられる、そのままゼハールに身体を寄せる。腕には炎が纏われていた。燃える繊維を撃ち出せばメイド服に引火する、シフォンのスカートがじりじりと音を立てて焼ける。

 首から垂れる鎖を掴んで力任せに引き寄せ、脚を掛ければ簡単にバランスは崩れた。超重武器の欠点は、身体のバランスが崩れやすいことである。転んだゼハールの腹を思いっきりに蹴り飛ばそうとするが、足首をつかまれて自分も転げる。熱を吸ったアーケードが指先を焼いた、ジュッと言う音がして髪からも嫌なニオイが発せられる。そのままに投げ飛ばされれば、券売機に身体が叩き付けられた。けふっと息を漏らす、ゼハールが鎌を拾っているのが視界に映る。

「いけませんわ鴉女様、淑女がみだりに脚を上げるなどなさっては」
「メイドが手を上げるのもどうかと思うのだけれどね?」
「それはそれでございますわ。しかし、しかし、どうにもこうにも。死なない身体と言うのはどうしようもなく、終わらないものなのでございますね。無限に楽しめるようで、その実マンネリズムとも隣り合わせ――鴉女様。実際の所その身体、どうすれば死にますの?」
「さあて、僕だって知らないよそんなことは。ゼハール、君だって自分の死に方なんか知らないものなのじゃないのかな? ああ、君は自分を作った魔王と縁が深いものなのかな――まあ魔王の殺し方ってのも、僕にはよく判らないのだけれどさ」

 くくくっと笑う麒麟に、ゼハールは肩を竦める。
 確かに、彼も死に方など判らない。彼の魔王が死ねば共に消えるものなのかもしれないが、何せ、魔王である。千をゆうに越える時間を存在し続けたものが、この先どんな危機で死ぬか消えるかするというのか、はっきり言ってそんなことはあり得ないとしか答えられない。たまに退屈で死にそうだと零すことはあるが、それでも現実には死ぬことなど無いだろう。そもそも死と言う概念が自分達には存在しているのか、そこからして、判らない。
 だが、仮にも人であるのなら、目の前の少女には死ぬ方法があるはずなのだ。彼女は鬼でも魔でも神でもなく、人なのだと言い切ったのだから。

「どうにも参りません、こうにもなりません――どうしようも、ございません。ただのマンネリズムを繰り返しているのでは我が君様も退屈してしまわれますわ、それは絶対にいけません」
「こっちもねぇ……君と遊んでいるのは中々心底から楽しいのだけれど、今回は一応目的があるからね。恵美ちゃんを取り戻してみたりあの変態を捕獲したり殺したり」
「そうですわね、そちらを演出した方が楽しいかもしれません。多分中央のステージに向かったはずですわ」
「ふうん、それじゃあそっちに行こうかね」

■□■□■

「ッく――ああもう、埒が開かない!!」
「まあ短気起こすなよ若人」
「落ち着いていられるか、まったくッ!」

 地面を転がりながら巨大な嘴を避け、誠は草間に向かって怒鳴る。いい加減紙も尽きて来たと言うのに、巨鳥、フレスベルグは悠々と飛び回るばかりだった。目立った攻撃は仕掛けられないものの、その巨大な口を避けるのは一苦労である。人間の頭蓋骨程度簡単に粉砕できそうなそれは、アーケードを抉って穴だらけにしていた。
 出来れば恵美を探す方に向かいたかったが、この化け物達の相手を脚の悪いセレスティと協調性皆無の鬼鮫だけに任せるわけにも行かない。草間は『こちら側』に対抗など出来ないものだと思っていたが、現在も身軽に嘴を避けつつ赤褐色の拳銃を扱っていた。何か妙な気配を感じ取れる呪遺物のようだが、それを追求している暇も無い。誠はごろごろと転がって避けまわる。

「おい誠」
「なんだハードボイルド」
「その固ゆでな探偵的な勘でしかないんだが、お前、さっきからわざと転がり回ってない、かッ!?」

 バサリと翼が風を打つ、その衝撃に耐えながら草間はガゥンッと銃を撃ち放つ。古いリボルバーのそれは強い反動を彼の腕に伝え、弾丸を進ませた。爆ぜた火薬の香りは無く、弾を装填することもない。それが打ち出しているのは、実弾では無いのか。誠はそれを眺めながら走り、また嘴を避けるように転がる。その際に、アーケードのタイルに指先から流れる血を押し付けて。

 飛び回る敵である以上、地上からその動きを追うのはあまり賢いやり方ではない。だが自分のシャツに意味付けをして飛び回っても、質量の差があって直接的な攻撃には繋げられないだろう――近付けば嘴と翼で捉えられるのが、オチである。かと言って言霊を練っている暇もそれほどあるとは思えない。油断をすればすぐに口が喰らい付いて来るし、背中側には毒息を吐く竜も控えている。
 注意深く観察したところ、相手の飛行範囲は実際の所それほど広いものでもない。狙う敵。誠や草間がそれほど逃げ回ることもせず一定範囲に止まっていることがその原因だろう。そして、根気強く草間がその翼を撃ち続けていることで、高度や速度も多少ながら鈍っている。範囲を概算して絞り込めば、集中して飛び交う地点を割り出すことは容易かった。そしてその地点を囲むように、アーケードに血を擦り付けて行くことも。

 草間が銃を撃ち放つ何度目かの音が響き、ケェエ、と言う鳥の鳴き声が大きく響いた。平衡感覚に訴えるような奇妙な音に一瞬ふら付きながらも誠は指先をタイルに押し付ける。汚れた傷口を乱暴に袖で拭い、誠はようやく体勢を立て直した。

「草間さん、一分だ」
「あ?」
「一分で良いから俺を守ってくれ、その間に言霊を繋ぐ」
「――りょーかい」
「一分、ですね?」

 不意に水の矢がフレスベルグの翼に打ち込まれる。見ればセレスティが軽く手を上げていた。しなやかな細い指先が巨鳥を指差すと同時に、空中に生まれた水の矢が向かって行く。空気中の水分が結合されているらしいそれを見上げ、草間もまた引き金に掛けた指を引いた。
 頭に響く鳴き声を無視しながら誠はスゥと息を吸い込み、心拍を落ち着ける。少々転がり過ぎた所為で節々が痛んだが、現実を認識するには丁度良いぐらいの刺激だろう。水の矢が飛ぶ音や銃が撃ち放たれる音をなるべく無視しながら、彼は思考する。

 神話の獣が直接呼び出されているとは考え難いのだから、なんらかの媒介を使ってここにあるのだと考えるのが妥当だろう。ならばその材料の状態まで戻してやれば良い――誠は草間の腕を引っ張り、血で作った結界から追い出す。そして真上にフレスベルグが止まるのを見計らって言葉を繋いだ。

「――波状と波及、輪状と壊朽。偽りの身体に寄せられる偽り魂は居場所を知らず。ここではない場所に帰るべきを諭すため、今この血の輪の中にその身体を留めさす」

 ぴたりと羽ばたきが止まり、大鷺が滑空する。それは青白くアーケードに浮かぶ輪の丁度中央に落ち、ビクビクと軽い痙攣を繰り返した。痛め付けられた翼は青血のような液体に染められているが、零れ出すそれも結界からは出て行かない。完全に隔離された空間が、そこに形成されていた。
 術式としては別物だが、一種の魔法陣、召還に似ているのかもしれない――ぼんやりと光を感じ取りながら、セレスティは考える。召還、そこに吹き込まれた、紛い物の魂を引き剥がす。

「その血は偽造、その肉は偽装、その意思は欺瞞。あるべき姿からは在り得ない質量と意識と意思とを捻り出された矛盾の結晶こそが汝の姿。巨大の翼、巨体の肉、巨鳥の嘴、全てを捨てあるべきの姿に戻ることを、ここに――『命じる』」

 がくん、と大鷺の首が仰け反る。折れんばかりに反らされたそれは背に接触し、そのまま、接合された。翼は閉じられて胴に溶ける、羽根はぼろぼろと落ちて、灰のような粒子に変わって行った。青い肉の色が強くなっていき、体液がじわじわと排出されてアーケードのタイルを溶かし、身体は単純な肉の塊に変わり、ずるりと縮小されていった。やがて小さな丸い肉の塊と一枚の羽根だけが残される――草間が、それに銃を向けた。一発の弾丸が打ち込まれると同時に、それが霧散して消える。

「さて、と」

 草間が視線を巡らすのに釣られてみれば、ニーズホッグの相手をしていた鬼鮫が、牙の一本にその刀を貫通させた所だった。身体がざらざらと崩れて行くところを見れば、竜の媒介は牙だったらしい。羽根よりは狙いが付けやすいところだったとは言え、一人で相手にしたのだから、大したものだろう。

「ゲインは、どっちに? 確か麒麟が追って行ったはずだが――」
「ああ、少し待ってください――おや」
「どうした、セレスティさん」
「麒麟さんは一旦西側に抜けたようですが、また中央に戻っているようです。私達も、ステージの方に向かいましょうか」

■□■□■

「ッ、あ」
「おや、皮ですねぇ」

 一瞬止まった思考が、のほほんとした隼人の声でもう一度動き出す。心音が耳を聾する感覚に、汐耶は取り敢えず懐中電灯の光をそれから避けさせた。干しているのだろう、皮。のっぺりとした顔は重力によって引っ張られて眼窩や口が伸びていた。現在行方不明になっている人間のものか、それとも既に死体が見付かっている女性のものか、一見しただけでは判らないし、何よりも伸びきって変わり果てた姿では検分も出来たものではない。

「ふむ、なるほど。擦り付けているのは脳ですね、脂肪分で皮をなめしているのですか。剥いだ後の皮と言うのは乾いて固まって罅割れてしまいますからね」
「そんなこと分析しなくても良いですよ……死んだ人の事はこのさい置いておいて、恵美さんを探すのが先決です。下手なものを見せられていたら彼女も参ってしまっているでしょうし」

 恵美はあやかし荘などという場所の管理人でいるにも関わらず、怖いこと、に対しては極端なほどに弱い。ホラー映画でも嫌がるのだと言うのに、殺人鬼に攫われた挙句殺人現場――否、解体の現場など見せられていたとしたら、その憔悴は酷いものだろう。
 もしも錯乱しているか弱っているかしているようならば眠らせたほうが良いかもしれない。隼人は手に持っていたたるんだ脚の皮を離し、嬉璃の髪が示す方向へと脚を向ける。汐耶はそんな彼を後ろから懐中電灯で照らしていた。

「……神山さんには、彼の状態がどうなっているのか、判るのでしょうか」
「と、仰いますと?」
「どうやらカードの封印は受け付けないように、『いじられて』いるようなんです、彼。何か細工をされたのならどういう風になっているのか、気配や何かで判ることは、ありませんか? 相手の情報は知っておいて損の無いことですし」
「そうですね、私はその『いじられた』状態の彼とは遭遇していませんから何とも言えませんが――封印、と言う状態。元々それはあまり彼にとって意味を成さないものだったのだと、蓮さんには聞いています」

 白いからこそ封じていられない、無邪気な狂気だからこそ劣悪でどうしようも無い。蓮はそう言ってシニカルに笑って見せた。狂人には、常人に計り知れない独特の論理があるのだと。そして特有の倫理で動くからこそ、何も罪悪感がない。裁けないし、捌けないのだと。
 封印というのは二種類の仕様がある。一つは聖の力で邪を封じる形式、もう一つは大を持って小を制する方式。邪では無い故に前者が不可能で、有する異常な願望の巨大さに後者も不可能。元々封印とは相性が良くなかったからこそ、ほんの少しいじるだけで、無効化も可能だった。

「封印が出来ないのなら浄化か、消滅させるか。それは、可能だと思いますか?」
「不可能ではない、と思いますよ。ですがゼパル、ゼハールの魔王がどこまで手を出してくるかが問題になります。まあ、あまりいじりすぎると人間の魂なんてすぐに壊れてしまう――」
「ッぅ……う、ふぇえッ」

 不意に響いた啜り泣きに、汐耶と隼人は黙った。髪を見ればぐいぐいと引っ張るように一方向に向かっている、恵美が近いことを示すように。汐耶は手に持った懐中電灯をぐるりと廻し、辺りを照らす――壁際に転がった肉の塊、と、蹲る少女の姿があった。

「恵美さん!」

 ジーンズにジャケットという格好で、恵美は蹲っていた。頭を押さえるようにして膝に顔を押し付け、限界まで身体を小さくしている。監禁されていた時間としては数時間程度だが、この異常な状況では充分な拷問だった。単純な監禁ではなく――彼女の足元には、赤黒い肉の塊が転がっている。筋繊維を剥き出しにした、人間の形の肉。生臭いニオイを強く発するそれを意識しないようにしながら汐耶は恵美に駆け寄り、膝を付いた。
 身体は小刻みに震え、小さな嗚咽ばかりが漏らされている。こちらを認識している気配はない。汐耶はそっと恵美の肩に触れる、彼女はひぃッと喉を引き攣らせた。

「嫌です嫌です嫌です、死にたくありません怖いのは嫌です、出してくださいお家に帰してくださいッいや、ですよぉ――いやぁああ、怖い、殺さないで下さい、殺さないでぇえッ!!」
「恵美さん、落ち着いて下さい、私です。判りますか? 助けに、来たんです。皆一緒に、三下さんだって一緒ですよ」
「いやぁあああ、もう、いや、怖い、ですよぉお! 怖くて、悲鳴、いっぱい、いや、やだ、死にたくない、死にたくないぃい!!」
「恵美さん、恵美さん――」
「助けて、助けてッ誰か、もうやだ、もう嫌だよぉ、おうち帰りたいよぉお!!」

 汐耶は肩を抱き寄せ、数度背中を撫でる。多少錯乱しているようだがまだ危害を加えられてはいないらしい、冷静な判断をする自分と、安堵している自分を感じた。ぽんぽん、と一定のリズムで背中を叩けば、ゆっくりと声の様子も落ち着いてくる。
 手足を見れば拘束されている気配はないようだが、ならば何故逃げようとはしなかったのか。彼女を抱きながら立たせようとしたところで――


 転がっていた肉塊が、バネ仕掛けのように起き上がった。


「やぁあああぁぁあ!!」
「ッ」
「と、成る程そういう仕掛けですか」

 汐耶に向かって手を伸ばしたそれの腕を掴み、隼人は苦笑した。手のひらには生肉の感触が伝わる、ぐちょり、乾き掛けの血液が指に纏わり付いた。力任せに腕を振ればその身体は跳ね飛ばされる、だがそれだけでは終わらないだろう。軽く手を振って血を落とし、隼人は恵美に向かって手を伸ばした。泣きはらした眼、その視界を覆うことで、意識を奪う――これ以上の情報入力は、酷だ。力の抜けた身体を汐耶が支え、ゆっくりと座らせる。
 そして彼女もまた本を構える。背中に恵美を庇いながら、眼を凝らして、闇の中にいるだろう肉の塊を伺う。

「ただの安全装置なら良いのですが、さて一体何者か。死体に何かを宿らせるのは、確実にゲインの仕業ではないでしょうから」
「そうですね、ただの女性の死体かと思ったのですが、まさか細工をされているとは……人形か、何かの魂が入っている、か」
「さあ、どうでしょうねぇ――」

 呟いて隼人は軽く指を鳴らす。使い魔が散って明かりを生み出し、暗闇を僅かに薙いだ。薄ぼけた空気の向こう側、壁際に這い蹲っている肉の塊。四つん這いになっているのかと思ったが、それはブリッジのような体勢をしているようだった。顔面は縦に裂け、腹の中には何かが埋め込まれている気配がある。ボキボキと骨が折れる音と共にそれは身体を揺らし、のそのそと四肢を動かす。節足動物のような動きに、汐耶は顔を顰めた。
 筋や腱が切れて、関節部分は骨が剥き出しになっている。人の身体の構造を完全に無視したそれは、化け物に近いのかもしれない。竜や鳥のように全くの別物ではなく、なまじ人間の形が残っているだけに、それは醜悪で気味の悪い物体だった。落ち窪んだ眼窩、大きく開いた顎。顔と思しき部分が汐耶と隼人の方を向く、と同時に、器用に跳躍した。

「ッ、く!!」

 汐耶は咄嗟に本を開き結界を作り出す。バシッと音がしてその身体を防ぐことが出来たが、飛び散る肉や腐った血液までは防げず、頬にばたばたと落ちた。不快感に顔を顰めると、視界の端で隼人が溜息混じりに飛び上がる。細長い身体を跳ばせ、その手で相手の顔面を掴んだ。グキッと音がする。圧砕された頭蓋骨、更にその首を捻れば、首の肉がぶちぶちと千切れれた。
 突き飛ばされたそれはまだびくびくと痙攣しながら起き上がる、首は半分落ちてぶらぶらと揺れていた。腹に埋め込まれた何かが、動いている気配。汐耶は背筋に走る寒気を感じ、硬い唾を飲み込む。

 完全な、化け物。
 完全な、醜悪。
 それでも、それは人間の身体。

「どうやら――身体に縛られてはいないようですね。完全な傀儡。ただ手近な肉に入り込んだ、憎悪」
「神山、さん?」
「ああ、スーツが汚れてしまいましたねぇ。草間さんにクリーニング代は必要経費として請求させていただきますが、その前にッ」

 壁を蹴って低く体勢を保ち、弾丸のような速さで隼人はそれに向かって突進した。僅かに眼が赤く光り、牙が目立つ。本性である魔物の面を微かに見せながら、彼は肉塊の腹に手を突き入れた。
 ぐずぐずと液体か固体か付かないものが擦れあう音が響く。スーツの袖は汚され、舞い上がる飛沫が顔までも黒く染めた。黒。腐った血液、そして肉。ばたばたと暴れる身体を足で踏みつけて黙らせ、隼人は、『それ』を引き摺り出す。

 『それ』。
 ゲインの最初の身体。
 子供のように手足が短い、だが胴体は成人男性のもの。
 肉は腐り落ちて、骨が露出している。
 手首は切り落とされていた。
 両脚も、存在しなかった。
 身体は腐乱している。
 だが、ばたばたと、腐食を撒き散らしながら、
 それは、生きていた。

「ッ、ぅ」
「ああ、なるほど――例の魔術師、ですねぇ――?」

 強くなる腐臭に汐耶は口元を押さえ、込み上げてくるものを飲み込んだ。瘴気によく似た気持ちの悪い空気が流れ出すのを感じる、その憎悪は、すでに人を超えたものに変わっていた。
 その教団、結社が何を目的としていたのか、何をしようとしていたのか、今となっては分からないし、どうでも良いことなのかもしれない。現在問題なのは、理想を破られた魂が魔にまで落ちていると言う事。死体でありながら死体を動かす、ゲインと同等以上のものまで変質していること。
 そして、それが、どうしようもなく邪悪であること。

 汐耶は本を開く。挟んでいたのは、切り離した浄化のページだった。指でそれを挟み、隼人の手に掴まれ引きずり出された『それ』にゆっくりと歩み寄る。既に無い四肢をばたつかせて声にならない呪詛を撒き散らしている姿。腐臭、腐汁、吐き気を覚えるほどの臭気、そして瘴気。
 ページを翳し、イメージする。水の流れ、清流、何もかもを洗い流して浄化する。何もかもを無くて、忘れて――生まれたままのように、真白に。

「逝って、下さい」

 汐耶はページを離す、吸い寄せられるようにそれは腐乱した身体に貼り付き――強い光を発しながら、青白い炎を上げた。
 熱は無い、浄化の作用の一つである。隼人は無感情にそれを眺めながら、眼を眇めた。身体の中にちらりと奇妙な影が見える、どうやらそれが死体を動かしている核のようなものらしい。炎に包まれた身体、その胸に、腕を突っ込む。魔物である彼にも少々浄化の力は働いたが、致命的なものではない、ちりちりとした痛みが生まれる程度だ。

 腕を引き抜く。
 出て来たのは、干乾びた左手だった。
 恐らくは、殺人鬼の、左手。
 それもすぐに、炎に包まれる。
 もがくように指が動き――やがて、炭化した。

■□■□■

「さぁて着痩せな美人さん、一体何枚着込んでいるのかなッ!?」

 麒麟は言って、『彼』の頭を掴んだ。首元から指を突っ込めば皮の感触がある、引き裂くようにべりべりと剥ぎ取れば、一枚、脱皮のようにそれが剥がれた。暴れる身体が彼女の脚を蹴るがそんなものはどうと言うこともない。
 敷地中央のステージ前。アーケードの上には何枚も何枚も引き裂かれた皮が舞い、風に転がされている。麒麟はゴミのように『彼』の身体を投げ捨て、くくくくっと笑った。皮の間から落ちたナイフを抱え、彼が蹲る。怯える姿は小娘のように、醜い。

「ほらほらどうした。僕と遊ぼぶんだろう。僕だけを見て僕だけを刺して僕だけを抉って僕だけを喰って僕だけを殺したまえ。熱して燃して溶かして殺して消してあげるからさぁ――嬲られるだけの傀儡ならさっさと火葬で終わらせてしまう」

 小さな唸り声を聞きながら麒麟は笑う。それを眺め、草間と誠は盛大な溜息を吐いた。

「あいつ、一応皮が遺体の一部だって忘れていないか……こんなに散らかしたら鑑定が大変だろうに、一応遺留品扱いになるんだろう、これ」
「まあ、その辺はお役所に任すとしても、だ。正直どっちが悪者だか判らんぞ、この状態」
「同感だ」

 キリングジャンキーという手合いではないながらも、麒麟には少々戦闘狂の気が強い。小柄な『彼』の身体を掴み、引き裂き、蹴り上げ、そして嬲る。悪戯に髪を燃やしてやればごろごろと転がって泣き叫ぶ、その姿すらも鑑賞して哄笑する。本当に、どちらが悪者なのだか分からない。
 一瞬呆気に取られながらも、セレスティは苦笑を漏らしていた。らしいと言えばらしいのだが、それで終わらせてはいけない。どれだけ無様な姿で転がらされていようとも、相手は十数名の女性を拉致監禁の挙句に殺し、皮を剥いだ殺人鬼――なのだから。

「呆気に取られている場合ではありませんよ、お二人共。ともかく麒麟さんには落ち着いて頂かなくては」
「あ、ああ、そうだな……しかし近付きたくない、熱そうで」
「そういう時は大人に任せろ。鬼鮫、行け」
「…………」

 草間の言葉に鬼鮫の眉間にぴきっと皺が寄せられる。ここでも一触即発の雰囲気を出されては流石に収拾がつかないと言うのに、どこまでも大人げない面子だった。はぁあッと溜息を吐き、誠は麒麟に大声で呼びかける――存外にすぐ、彼女は止まった。

「おや、どうしたのかな皆さんお揃いで。僕は今乙女のお楽しみの真っ最中なのだけれどな、出来れば無粋な邪魔なんかして欲しくない心地だよ。今から徹底的に燃やして決定的に殺して殺戮三昧のスプラッタ劇場が始まる予定なんだから」
「…………。いや、この際突っ込みの言葉は放棄しておくんだが。そいつ、単純な打撃やダメージでは死なないように出来ているんじゃないのか? 現にお前も何度かそいつを燃やしているはずだろう」
「んー、それはきっとあれだよ。皮被りの所為だと思うね。だから僕は現在べりべりとお代官ごっこよろしく剥いでいる状態だったりするのだけれど」

 言いながら麒麟は『彼』の顔面に何度も膝を入れている。血は出ないようだが顔面が段々とひしゃげて行くのはあまり精神衛生上良いものではなかった。少々顔を顰めながら誠は肩を竦める――が、眼を見開く。余所見をしている麒麟の隙を狙ってか、その白い脚に、深々とナイフが突き刺さっていた。

「――――おや」
「ッこら、油断するから!」

 『彼』は衝撃で一瞬力の緩んだ麒麟の腕から抜け出し、ごろごろと転がるようにして距離を取る。皮が剥がれた所為か、痩せた身体は一層に細っていた。その分動作も速い、両手に逆手でナイフを構え、乱れた長い金髪の向こうから赤い眼を覗かせ、『彼』は、ゲインは、がちがちと歯を鳴らす。引き攣ったような怯えたような様子を無感情に眺めながら、麒麟はフンッと息を吐き、脚に刺さったナイフを引き抜く。
 だがその屈んだ身体に、投擲されたナイフが更に無数刺さった。

「ッと。おー、見事に急所」
「落ち着いている場合かお前は! 皮の下にナイフを隠していた、のか――確かに皮を剥ぎ取ってからの方が危険はなさそうだが」
「ともかく、一旦動きを止めた方が良さそうではありますね。またナイフを投擲されると、麒麟さん以外は致命傷になりますから」

 言ってセレスティは軽く手首に触れた。微かに脈動が伝わり、不可視ながらもそこに力の刻印が残されているのが判る。螺旋状に繋がれた、文字のような文様――言霊だと言っていただろうか、あのマイペース気質の過ぎる青年は。
 麒麟が身体に刺さったナイフの一本を引き抜き、それを順手に構える。踏み込んだ身体にまたナイフが投げ付けられるが、それは紙によって止められた。誠が散らしたそれには、小さく『盾』の文字が記されている。立ち上がって逃げようと、『彼』の身体が起きる。セレスティは、眼を閉じた。
 その上空でゼハールは、下界を見下すよう静止している。

「言霊は世に散り可能性を構築し、未来を編纂して現に返る――命令します。傀儡に皮を被せ偽りを重ねる男、エドガー・ゲイン。君はもう、『停止』しなさい」

 硬直した身体を麒麟がナイフで突き刺す。熱で赤くなった刃が振り下ろされ、焦げながら皮が引き裂かれた。ばらばらと落ちるのはナイフ、それに混じって骨。腕や脚や肋骨、それは彼の物ではなく、恐らくは他の被害者達から取り出したものだろう。背中を大きく切り裂かれ、ずるりと皮が剥き取られる。何枚も何枚も重ねられていたものがもぎ取られる。
 身体は、頭部以外、骨のように細い。最低限のフレーム、その上に乗せられた頭が不恰好なほどに滑稽だった。麒麟は剥ぎ取った皮を全て燃やし付くし、彼も発火させる。子供の泣くような悲鳴が、微かに、上がった。破裂した眼球、縮れた髪の毛、何もかもが焼けて行くニオイと、音。

「鬼鮫さん、あんたの刀借りるぞ」

 誠は言うが早いか、鬼鮫から刀を奪い取っていた。古い器物は稀に憑喪神を寄せ、それから自らも神となる――鬼鮫の日本刀は、その神の域に達している業物だ。神ならば、同じ神を引き寄せるのも容易い。彼は眼を閉じて意識を集中させ、繋ぐ言葉を纏めた。

「七枷とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界と外れし物を悉く捕らえるもの。その名においてかの存在の魂をその肝に留めさす――俺が振るうは摩多羅の剣、陰の神にして冥府の番人が一柱、汝を往生させる事を力を持つ事を此処に『命じる』!」

 摩多羅神は牛頭天皇、別名を須佐之男命と言う。三種の神器である神宝天叢雲を使ったその神は、剣とも相性が良い。刀に神を降ろし、誠は踏み込む。それを眺めながら、ああ、と麒麟は声を漏らした。

「そうだ、結局僕は君に挨拶もしていなかったんだっけね、殺人鬼」
「ぁあぁ、ぉぁあ――ひぃいいッ」
「纏めて今からしてしまおうか。こんにちは御機嫌よう、そしてくたばれ左様なら――――」

 誠の剣が突き刺さる。
 引き抜かれた刃は、干乾びた右手を貫通していた。
 偽りの身体が崩れ、砂に帰る。
 召喚者の完全な消滅に、ゼハールの姿が消えた。
 その腕には、魂を二つ、抱えていた。



■□■□■ 参加PC一覧 ■□■□■

4563 / ゼハール         /  十五歳 / 男性 / 堕天使・殺人鬼・戦闘狂
3590 / 七枷誠          /  十七歳 / 男性 / 高校二年生・ワードマスター
2667 / 鴉女麒麟         /  十七歳 / 女性 / 骨董商
2263 / 神山隼人         / 九九九歳 / 男性 / 便利屋
1883 / セレスティ・カーニンガム / 七二五歳 / 男性 / 財閥総帥・占い師・水霊使い
1449 / 綾和泉汐耶        / 二十三歳 / 女性 / 都立図書館司書

<受付順>


■□■□■ 配布アイテム ■□■□■

これが勝利への鍵だ!
☆黒猫の眼(全員)


■□■□■ ライター戯言 ■□■□■

 お疲れ様でした……。『愛すべき殺人鬼の右手』第六話をお届け致します、哉色です。何やら濃いんだか冗長なんだか分からない状態で最高記録的な長さになってしまいました、申し訳ございません、げふり。バトルとかバトルとかバトルとか、いまいち書けてないのに長引かせてんじゃねぇよ! 申し訳ございません、あわわ。
 ともかくも長くお付き合い頂きましたシリーズ、ここで一応本編は終わり、最終回と言う名の後日談を残すのみとなりました。少しでも満足頂けている状態なら幸いです…それでは、失礼いたします。