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■『螺旋』にて■

森田桃子
【0187】【高遠・紗弓】【カメラマン】
 街の夜は長い。
 都会の深夜を「眠らない街」と称したのは誰だったか――橙や青や白のネオンは、夜明けの光がその手を叩くまでさざめくように人々を誘う。喧騒は遅くまで止まず、目を閉じれば瞼の裏に滲み込んで来るように遠くの怒鳴り声が耳に届く。

 人は、生きるも死ぬもただ一人である。
 母の闇を抜け、脳裏の闇に辿り着くその瞬間まで、人はただ一人で孤独を暮らす。
 ただ、それに耐えられなくなる瞬間がある。
 深い海の底に沈み、いくら足掻くも己の力のみで息を継げなくなる瞬間がある。
 そんな時、人は遠い夜空に向け、ただ一心に両手を伸ばすのだ。

 気が付けば、その店の扉を開いていた。
 薄暗い店内に他の客の姿はない。冷蔵庫が立てる微かな震動音だろうか、さほど広くない店内でその音は非道くくぐもって耳に届く。
 もう、閉店だろうか。そんなことを思い、ゆっくりと踵を返そうとしたとき。
「――風が強いよ」
 カウンターの奥から、つやめいた女の声が言った。
「もう店じまいにしちまおうかと思っていたところさ。入るならとっとと入って、その戸を締めとくれ」
螺旋にて 〜終わらないこと、変わらないこと〜


 もう使うこともないと思ったまましまい込んでいた鍋や皿は、2日前のゴミの日に思い切って全部出してしまっていた。いまはカウンターの内側と、食器棚にいくつか残っているのみである。
 昼間、きれいに雑巾がけをしたあとで、カウンター席以外の席には照明が当たらないようにしてしていた。その方が、なんとなくしっくりくるんじゃないかと考えたからだった。
「……週末まで居座ると、せっかくの決心が鈍っちまうから……ね」
 暗やみに向けて、店内ひとり佇む女――――伊杣那霧がポツリと呟く。いざ店を畳もうと決心してから、どれだけの日にちが過ぎてしまっただろうかと考える。
 ある日突然、綺麗さっぱり。
 そんな潔い店じまいに憧れを抱いてはいたものの、毎日ちらほらと現れるそれぞれの常連客の顔を見ると、後ろ髪を引かれるような思いのままずるずると何週間も過ぎていった。
 今日を、本当の最後にしよう。昼ごろ目覚めたときに、那霧はそう決心して店にやってきたのだった。
 外が暗くなり始めるのを待って、ゆっくりと暖簾を出した。暖簾が雨や風に濡れて、この町の風景に馴染むまでは続けていこうと思って開いた店だった。いまだ真新しさを残す暖簾の紺色を見つめ、いまだ自分の心に未練がたっぷりと残っていることを知って那霧は小さく苦笑した。
 時は、少しずつ流れていく。
 町の色や人の姿も移り行き、太陽と月だけが交互に昇り沈みを繰り返していき、いつかは皆、静かに土に還っていく。
 店内に引き戻り、結わえあげた髪を指先で正しながら、鍋の中身を確認した。
 牛蒡と鰯の旨煮を、1番大きな鍋に一杯。
 今日という日に現れた客に、厭が応無しに持ち帰らせるつもりで作ったものだった。



 カラカラカラ、と、ひどく遠慮深げに引き戸を引く音を耳に聞き、思わず那霧は苦笑した。
「…………」
 視線を投げた戸の隙間から、良く見知った女の顔が店内を覗き込んでいる。
「いらっしゃいな。まだ外は冷えるだろう、早く入っておいで」
「…………」
 こくん、と小さく頷くと、女――――高遠紗弓は、するりと店内に滑り込んで戸を締めた。
 もとは端正な、どちらかというと冷たい印象を与える面立ちの紗弓である。が、今夜に限ってはどこか落ち着きがなく、哀しげな表情を見せている。
「……なに、子供みたいに湿っぽい顔してるんだい。また飽きもせずにふろふき大根かい?」
 紗弓の様子とは裏腹に、那霧はからからと豪胆に笑って彼女を迎え入れる。近いうちに店を閉めることは、客の中でただ紗弓にだけポツリと漏らしていた事実だった。
 いつにも増して暗い店内の様子に、この無口で懐っこい客はありと何かを感じたものであるのだろうか。
「ママ……今日が最後?」
 大根を蒸し直し、いそいそと酒の仕度を進めている和服の後ろ姿に、紗弓が問う。僅かに、那霧の手が止まったが――――その仕草は彼女自身の背中に隠され、紗弓の目に留まることはなかっただろう。
「そうだよ。起きたときにね、『ああ今日で終わりにしよう』って決めたんだ。……来てくれて、有り難うね」
 ふろふき大根の小鉢、旨煮の小鉢、それに少し温めた酒のグラス。那霧が順番にカウンター席の前に並べていくと、紗弓が那霧を見上げて呟く。「ママも一緒に、呑もう」

 暗い店内で、ただふたり静かに酒を酌みあっている。
 何かを那霧に語りかけようとしては、やめる――――何度かそんな仕草を繰り返しながら、紗弓は翳った表情のままそっとグラスを傾けた。
「まったく、今日はずいぶんと辛気臭い顔するね。……心配で、店を畳めなくなっちまうじゃないか」
「…………ママ」
「まだ、あんたには教わらなくちゃいけないことがたくさんあるからね。あたし、まだ自分だけの力じゃ、満足する写真1枚も撮れりゃしないんだからさ」
「…………ウン」
 ――――繋がり続けていることの、約束だ。
 お店がなくなっても、ふたりの『友情』は続いていく。
 この店で過ごした穏やかなひとときも、おいしいご飯も、決して消えてしまうわけではない。
「ママ、ありがと。……これからも、よろしくね」
 ぽんぽん、と頭を少し強めに撫でられ、紗弓は嬉しそうに笑った。空になった器をそっと両手で支え、浅く首を傾がせながら曰う。
「ふろふき大根、おいしい。もっと」



 土産だと、プラスチックケースからはみ出てくるほどの旨煮を持たされた。
 いつもと変わらぬ別れ、そして土産。携帯電話の中には、那霧の携帯電話の番号が記録されている。
 何が変わるわけでもない。
 ただ少し、交わり方が変わるだけだ。
「お腹が空いたら電話しなさい。いつだって、お腹いっぱいおいしいものを食べさせてあげるから」
 実の母親が生きていれば、きっとこんなふうに別れを惜しまれるものだったのだろうと紗弓はいつも思う。そしていつも、叱られながら愛されながら、そっと繋がって生き続ける。
 駅に向かう角を曲がるときにふり返り、小さく手を振った。見えなくなるまで、見送ってくれる――――それも那霧のやり方なのだと、紗弓は知っていた。
「……ママ、か。次からは、『那霧さん』って呼ばせるようにしなきゃだね」
 口許に小さく笑みを浮かべたままで、那霧は小さな溜め息を吐き、ふたたび店の中へと舞い戻っていく。
 店内には、紗弓の好きなふろふき大根に添えたゆずの香りが、いまだ浅く残っている。

 東京の空の下で、全ては全てに繋がっている。
 それぞれがそれぞれの場所で、強い笑みを絶やさぬままつねに戦いを乗り越えているのだ。
 彼女は、彼女の戦いを。
 そして那霧は、那霧自身の戦いを。

 静かな、池袋の夜である。
 客人がいなくなったことでことさらに閑散とした暗い店内にひとり、那霧はカウンターに頬杖を突く。

(了)

■□■今までのご愛顧、本当にありがとうございました。 森田桃子■□■