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■『螺旋』にて■

森田桃子
【1685】【海原・みたま】【奥さん 兼 主婦 兼 傭兵】
 街の夜は長い。
 都会の深夜を「眠らない街」と称したのは誰だったか――橙や青や白のネオンは、夜明けの光がその手を叩くまでさざめくように人々を誘う。喧騒は遅くまで止まず、目を閉じれば瞼の裏に滲み込んで来るように遠くの怒鳴り声が耳に届く。

 人は、生きるも死ぬもただ一人である。
 母の闇を抜け、脳裏の闇に辿り着くその瞬間まで、人はただ一人で孤独を暮らす。
 ただ、それに耐えられなくなる瞬間がある。
 深い海の底に沈み、いくら足掻くも己の力のみで息を継げなくなる瞬間がある。
 そんな時、人は遠い夜空に向け、ただ一心に両手を伸ばすのだ。

 気が付けば、その店の扉を開いていた。
 薄暗い店内に他の客の姿はない。冷蔵庫が立てる微かな震動音だろうか、さほど広くない店内でその音は非道くくぐもって耳に届く。
 もう、閉店だろうか。そんなことを思い、ゆっくりと踵を返そうとしたとき。
「――風が強いよ」
 カウンターの奥から、つやめいた女の声が言った。
「もう店じまいにしちまおうかと思っていたところさ。入るならとっとと入って、その戸を締めとくれ」
螺旋にて 〜全ては、つながっている〜


 もう使うこともないと思ったまましまい込んでいた鍋や皿は、2日前のゴミの日に思い切って全部出してしまっていた。いまはカウンターの内側と、食器棚にいくつか残っているのみである。
 昼間、きれいに雑巾がけをしたあとで、カウンター席以外の席には照明が当たらないようにしてしていた。その方が、なんとなくしっくりくるんじゃないかと考えたからだった。
「……週末まで居座ると、せっかくの決心が鈍っちまうから……ね」
 暗やみに向けて、店内ひとり佇む女――――伊杣那霧がポツリと呟く。いざ店を畳もうと決心してから、どれだけの日にちが過ぎてしまっただろうかと考える。
 ある日突然、綺麗さっぱり。
 そんな潔い店じまいに憧れを抱いてはいたものの、毎日ちらほらと現れるそれぞれの常連客の顔を見ると、後ろ髪を引かれるような思いのままずるずると何週間も過ぎていった。
 今日を、本当の最後にしよう。昼ごろ目覚めたときに、那霧はそう決心して店にやってきたのだった。
 外が暗くなり始めるのを待って、ゆっくりと暖簾を出した。暖簾が雨や風に濡れて、この町の風景に馴染むまでは続けていこうと思って開いた店だった。いまだ真新しさを残す暖簾の紺色を見つめ、いまだ自分の心に未練がたっぷりと残っていることを知って那霧は小さく苦笑した。
 時は、少しずつ流れていく。
 町の色や人の姿も移り行き、太陽と月だけが交互に昇り沈みを繰り返していき、いつかは皆、静かに土に還っていく。
 店内に引き戻り、結わえあげた髪を指先で正しながら、鍋の中身を確認した。
 牛蒡と鰯の旨煮を、1番大きな鍋に一杯。
 今日という日に現れた客に、厭が応無しに持ち帰らせるつもりで作ったものだった。



 あの日、牛乳を所望した女のことは、那霧自身良く覚えていた。
「コーンバンワ♪ また来ちゃった★」
 薄暗い店内に、太陽の光りが差し込んだようである。鮮やかな金の髪と、燃えるような紅い瞳。
「そろそろ店じまい、ってときにこの間も来たね――――いらっしゃいな。もうあまり料理が残っていないんだけど」
 後ろ髪を引かれる思いながら暖簾をしまおうと、ちょうど戸口で立ったところで行きあった。存在するだけで、その場の空気を華やかにする女。
 そういう女もいるのだと、那霧は思う。
 そして、螺旋の店じまいに最も相応しい客であっただろう、とも。
「大丈夫大丈夫! 今日は、自分で持ち込みがあるのよ。女将も一緒にと思ってね」
 何が大丈夫なのかまったくもって不明である。が、そう云いながら、みたまは手持ちのバッグを顔の横でひらひらと振った。形が歪むほど、何がしかの物体が押し込まれている。
「相変わらずみたいだね。座って……今日も牛乳で良いのかい?」
「ええ。それと、お酒を少しだけいただけるかしら」
 カウンターの上にいそいそと土産物を広げながら、みたまは那霧の言葉にそう返した。
 日付が変わるころになってふらりと現れた女の独り酒は、陽気である。

「これが、1番上の娘がくれたお土産。良くわからないんだけど、代用品じゃないししゃもなんですって」
「あら、随分気の利いた娘さんじゃないかい? 焙って出そうか」
 がさがさと開かれた紙包みの中から、ふっくらと肥えたししゃもがその姿を現した。上質の干物からは、不快な生臭さは立たない。みたまからそっと両手で包みを受け取って、那霧はコンロに向かいあう。
「それでね、これが、2番目の子がくれたお土産。学校でカルメラ焼きを作る実習があったらしくて、それを持ってきてくれたの」
「その若さで、姉妹の娘さん?」
 家庭科の実習でカルメラ焼きを作る学年と云うなら、せいぜい小学校の低学年か中学年くらいであろうと那霧は推測した。と云うことは、ししゃもをみたまに持たせた『1番上の娘』というのは、もう少し上の年だと云うことになる。
 膨らみきっていないカルメラ焼きの表面も、ところどころがホイルにくっついたいびつな形も、そう思えば微笑ましい大作である。
「それでね、これが、末っ子ちゃんの貰ってきてくれたやつ」
「……すごいね、3人姉妹の母親なのかい」
「どの子も大切な、私のかわいい娘たちです♪」
 末の子が持たせたと云う包みの中には、小さな菓子包みがいくつも入っていた。それぞれが子供たちの手製の包装らしい。
「チョコレート交換会っていうのをしたらしいの。前の日にあの子、自分のぶんをひとつずつ丁寧にラッピングしてたのよ」
 そんなこんなで、カウンターの上はみたまの持ってきた土産物で山になっていた。
「なんだか私、自分の幸せ自慢に来たみたい。本当はしんみりとね、暗いお酒を飲もうって思ってここに来たはずなのに」
「明日が頑張れる酒だったら、どんなものでも構わないじゃないか。そうだろう?」
 那霧の言葉に、みたまが苦笑した。「幸せって、呪いとかおまじないみたいに、身体の中に刻みこまれたまま逃げられない種類のものなのね?」



 持ってきたものを持ち帰るのも妙だからと云うみたまの言葉に、豪毅な女たちは彼女の土産物をふたりして完食することに成功した。
 その代わりの土産だと帰り際、みたまはプラスチックケースからはみ出てくるほどの旨煮を持たされた。上等の微酔い気分で店を出た彼女の後ろ姿を、女将はいつまでも見送っている。
「またおいしいお酒を飲みに寄らせてね。ごちさうさま♪」
 ひらひらと指先を振って、みたまは駅前通りへの角を曲がっていった。口許に小さく笑みを浮かべたままで、那霧は小さな溜め息を吐き、ふたたび店の中へと舞い戻っていく。
 彼女には、云うべきだったのだろうか。
 この店を畳み、自分が新しい人生を歩み始める覚悟をしたということを。
 でも。
「また、か。……そうだね」
 またいつか、会えれば良い。
 東京の空の下で、全ては全てに繋がっている。
 それぞれがそれぞれの場所で、強い笑みを絶やさぬままつねに戦いを乗り越えているのだ。
 彼女は、彼女の戦いを。
 そして那霧は、那霧自身の戦いを。

 静かな、池袋の夜である。
 那霧は『螺旋』と書かれたまだ真新しい暖簾を、ゆっくりと外し、店内にしまう。
「……繋がってる。そう、全てが、全てに」
 那霧は小さくひとりごち、和服を覆っていた前掛けをそっと外した。

(了)

■□■今までのご愛顧、本当にありがとうございました。 森田桃子■□■