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■白猿公の廟門■

追軌真弓
【2991】【大徳寺・華子】【忌唄の唄い手】
 草間武彦にとって、結城探偵事務所は美味い珈琲の飲める居心地の良い場所の一つだ。
 元華族の東屋だったというその建物はモダンな洋風建築で、公園から近い事もあってか、よく喫茶店に間違われては、入り口のプレートに刻まれた“探偵事務所”という文字に驚かれる。
 同じ探偵として、よその事務所が居心地良いってのは複雑な気分だが……。
 しかし目の前に出された香り高い珈琲の魅力は何にも替え難く。
 うん、やっぱり美味い。
 ついでに煙草も吸えるとありがたいんだが、まあそこは我慢するか。
 草間の目の前、珈琲カップを置いたテーブルを挟み、この事務所の所長・結城恭一郎が草間の持って来たレポートに目を落としている。
 その足元には白い狼が一匹寝そべっている。
 結城は煙草が全く駄目だ。
 結城の隣に立つ調査員・和鳥鷹群も煙草を切らさない男だが、所長の目の前では絶対に吸わないという。
「この白猿公は狭間とみてもいいようだね」
 元々は草間の事務所に持ち込まれた依頼だった。
 ある華僑が密かに祀ってきた神、白猿公が最近実体化したという噂が流れ、時同じく行方不明者がその廟堂の近くで相次いでいるという。
 草間は今回他に抱えた依頼が多く、とても手が回らない。そこで同業者――怪異がらみの依頼もこなす結城の元を訪れたという訳だ。
 何度もレポートを読み返す結城に、草間は聞いた。
「結城さんと和鳥だけじゃやっぱりGOサイン出ませんか」
 今、ここの調査員は一人欠員が出ている。
 渋い表情で結城は返した。
「ん……バックアップにもう一人欲しいかな」
 慎重だなあ。
 でもその手堅さがなきゃ、ずっと怪異がらみでなんか仕事できないよな。
「それじゃ、俺の心当たりあたってみます。そいつからここに直接連絡入れさせますから」
「それならこの件は引き受けるよ。草間くんも、どうしても断れない依頼人なんだろう?」
「ありがとうございます」
 苦笑する草間の前に、和鳥が新たに熱い珈琲を注いだカップを出す。
「草間さんて本当、美味そうに珈琲飲みますよね。良かったらもう一杯どうぞ」
 ああ、美味い珈琲は何杯あっても嬉しいさ。
「和鳥、お前ここで喫茶店開けよ。このブレンド、結構いけると思うんだが」
 和鳥は口元に手を当て小さく笑った。
「じゃ、草間さんからもこれからは珈琲代もらわないと」
「それは……困るな」
 赤貧にあえぐ探偵の呟きに、結城の足元で白い狼が身体を伸ばしあくびをした。

「ああ、もしもし? 今、暇か?」
 草間からの連絡。都合の良い時だけあてにしてくる男だ。
「……どうだ、お前向きの話だろ?」
白猿公の廟門

「ああ、もしもし? 今、暇か?」
 寝入りばなにかかってきた携帯電話につい出てしまってから、大徳寺華子は後悔した。
 暇も何も、私はもう寝る所なんだけどねぇ。
 華子はデジタルに変換された声を、柔らかな布団の中でぼんやりと聞いている。
 草間武彦の煙草に枯れた声は耳に心地よいが、内容はいつも厄介な頼み事だ。
「……どうだ、お前向きの話だろ?」
「え? ……あぁ聞いてなかったよ」
 聞いてなかったじゃないだろ、と草間が笑った。
「結城って探偵事務所で、誰か手伝ってくれないかって頼まれてるんだ。
元々うちに来た依頼だったんだが、今は調査が詰まっててな」
 以前咆哮鞭を試しに出かけた時、同行した男の姿を華子は思い出した。
 華子が知っている結城は、咆哮鞭で実体化させた雪狼を操りながらも穏やかで落ち着いた男だった。
「所長は結城恭一郎。今から連絡先言うから、メモして――」
「ええ!?」
 なんだ、知り合いだったか? と、苦笑する草間の声は、もうあまり華子の耳に届いていなかった。
「東京ってのは狭い街だねぇ」
 通話を切って華子が一人呟いた言葉は、皮肉な言葉とは裏腹に浮き立っていた。


 あくるの日の午前。結城探偵事務所の六角に張り出した応接スペースで、華子は結城と再会していた。
 もちろん結城の足元には雪狼が行儀良く座っている。
 大きく天井まで取られた窓に掛けられたレースのカーテンや、木製の手すりが優美な曲線を描く階段。
 明治に建てられた洋風建築の事務所は、華子には懐かしさを誘う造型で溢れていた。 名刺を差し出しながら、結城は改まった口調で切り出した。
「あらためまして。結城探偵事務所所長、結城恭一郎です。
それから、こちらは調査員の和鳥鷹群」
 珈琲を華子の前に置いた青年が軽く頭を下げる。
「宜しく。危なっかしい事は俺と所長でやるから安心して」
 やや幼い顔立ちの中で、左目の下の泣き黒子が印象に残る。
 表情は優しいものの、瞳だけがどこか遠くを見ているような青年だと華子は思った。
「俺が咆哮鞭を使ってるのは知ってるね?
鷹群が使うのは剣精で……見てもらうのが早いか」
 和鳥が壁にかけていた日本刀を手に取り、刀身を鞘から引き出した。
 抜刀――銀色の輝きが年若い女の姿を取る。
「……お初にお目にかかります。我が名は剣精が一騎、紅覇(くれは)。
古の約定により、鷹群様の刃となりて全てを屠る者。以後お見知りおきを」
 和鳥の肩の上に実体化した人工精霊は、清楚な長い黒髪をなびかせて微笑んだ。
 淡い黄色のワンピースは春の花、フリージアのように柔らかく裾を広げ、白い裸足の向こうはうっすらと透けている。
「これも八重垣の武器で、刀に人工精霊を載せているんだ」
 結城の言葉ににこやかに紅覇は微笑むと、和鳥の肩に寄り添う。
「お前、やけにあらたまってるな。普段そんな言葉遣いじゃないだろ」
 肩越しに渋い顔で和鳥は紅覇を睨んだ。
「本来名乗りは抜刀ごとに行うんです。
最近の使い手様方は面倒がる方が多過ぎますよ」
「あー、もう、紅覇は小言が多過ぎるんだよ!」
 耳を押さえた和鳥が刀を一閃させ鞘に納めると、紅覇の姿も消えてしまった。
 和鳥の左手の中でカタカタと刀――剣精・紅覇が震えている。
「来週件の廟門に行く事になってるんだ。
……草間くんから事件のあらましは聞いているかい?」
 携帯電話で草間が何か言っていた気がするが、正直眠くてあまり覚えていないのだ。「これ、草間さんがくれた資料です」
 和鳥が閉じられたレポートを華子に手渡す。
 ある華僑が密かに祀ってきた神、白猿公が最近実体化したという噂が流れ、時同じく行方不明者がその廟堂の近くで相次いでいるという。
「依頼人の名前は明かせないけれど、廟堂に入る前に会ってくれるそうだ。
とても責任を感じられていてね……」
 結城が苦い表情を見せたのは決して珈琲の味のせいばかりではないようだ。
 もともとは祀ってきた相手が祟っちまってるんだから、切ないじゃないか。
 ふと華子の脳裏に、己から命の刻限を奪った神の姿がよぎる。
 壁に紅覇を戻した和鳥が廟堂周辺の見取り図をテーブルの上に広げる。
「廟堂自体はごく小さいんだけどさ、その周りに広がる森が少し厄介かな」
「二人が白猿公を引き付けてる間に、私が行方不明になった人たちを探してくれば良いんだろう?」
 草間が自分に依頼してきたのは、戦う以外の役割を担当できるからだったのだろう。
「そこは私に任せてくれないかい?」
 華子の言葉に、結城と和鳥は異存なく頷いた。


 華子と結城、和鳥は白猿公を祀る森の入り口に立っていた。
「何だい、この呪言……」
 呪言が書き付けられた幾つもの杭が、森の中に突き立てられている。
 自分の背よりも高い杭を見上げ、黒々と筆を走らせた呪言を見た華子は不穏な空気を感じずにいられなかった。
 華子たちの他にもう一人の人物がいる。今回の事件の依頼者だった。
「私たちに伝わる緊縛の法です。
白猿公はこれで森の外へは出られなくなったはずです。
これ以上私たちの神が、無関係な人間を巻き込むなんて……嫌なんです」
 依頼者はまだ少女の面影が残る若い女で、華僑に連なる者らしいが顔立ちからは全く大陸の血を感じさせない。
 大陸を離れて久しいのだろう。
 遠い異国の地で、たった一つの神を心の拠り所に支えあって暮らしてきた一族。
 そう華子は思った。
「場合によっては白猿公そのものを消してしまうけれど……それでも構わないね?」
 結城の言葉は質問というよりも確認の意味合いが強い。
「お願いします。
白猿公はずっと私たちを見守ってくれた神様だから、止めてあげて欲しいんです。
神様にこんな事言うの、おかしいですか?」
 静かに笑った依頼人に和鳥が真面目な表情で答えた。
「おかしくないよ。そうやって大切に想われてきた神だから、きっと姿を得たんだろう」
 人々の想いを糧に、怪異は人の前に姿を現すのだから。
 依頼者だけをその場に残し、華子たちは森へと足を踏み入れていった。


 鬱蒼とした森の中には呪言を書かれた杭が連なるだけで、行方知れずになった人々の手がかりになるような物は無かった。
「残るは廟堂だねぇ」
 そう広くない森のはずだが、重く立ち込める雰囲気に三人の言葉も少なくなっていた。
「ありましたよ、所長」
 先を歩いていた和鳥が引き返してきた。
 足の悪い結城と女性である華子を気遣って、和鳥は道を確かめてきたのだ。
 森の奥、広く開けた草原の中心に廟堂はあった。
 決して大きな建物ではなく、元は朱塗りの華やかな柱も幾たびの風雨にさらされて色がくすんでいた。が、そこが人々の信仰を集めた場所なのは間違いなかった。
 屋根の下には青銅製の異形の怪物がずらりと並んで、華子たちを見下ろしている。
 むき出しの牙や長く伸びた爪は誇張されているが、根底になる生き物は猿の姿だった。
「華子さん……絶対に無理はしないで下さいね」
 咆哮鞭を振るい実体化させた雪狼に囲まれた結城が、緊張した面持ちで華子に告げる。
「随分と信用がないじゃないか」
「誰かの犠牲で得られるものは、少ないという事ですよ」
 結城は以前かけがえのないものを失くしたのだろうか。
 束の間、華子は結城の過去に想いをはせた。
「そうそう、大徳寺さん怪我させちゃ草間さんに怒られるし」
 結城の言葉を継ぐように和鳥も付け加えた。
 そして紅覇が和鳥へにこやかに言葉の刃を突き付ける。
「鷹群様が女性お一人も守れないようでは、私も次の使い手を見つけなければ」
「お前キツイよ〜」
 廟堂の軋む扉を開けて奥に進むと、窓から入り込む光が細やかな模様を床に散らせていた。
 香の匂いがかすかに漂い、闇との対比で床の光が強く感じられる。
「白面公が祀られてるのは上か? 華子さんは下を続けて探して下さい」
 吹き抜けになった広間から、階段を結城と和鳥は上って行った。
 華子はいくつもの小部屋の扉を開けたが、一向に人影らしき物は見当たらなかった。
 誰もいないなんて、何か見落としてるのかねぇ。
 華子の視界の横をきらりと光が掠めた。
 壁に掛けられた鏡の奥、この部屋にいないはずの人々が映っている。
「ここに!?」
 壁に駆け寄ろうとした華子の横を、白く巨大な獣の腕が伸びて鏡をなぎ払う。
 砕け散った鏡の欠片が、床にまた幾つもの世界を映し出した。
「……ソナタハ我ガ血ヲ分ケタ裔ノ者カ?
否、ソナタカラハ懐カシイ大陸ノ砂ノ匂イヲ感ジラレヌ」
 腰を落とした低い姿勢の白い猿が、くぐもった言葉を発しながら華子を見つめていた。
 黒い肌の中、金色の瞳が闇に浮かぶ月を思わせる。
 暗闇に浮かぶ、狂気を誘う二つの月。
「何だって人なんか攫うのさ! 喰うって訳じゃないんだろう?」
 間合いを計りながら華子は懐の咆哮鞭に手を伸ばす。
「何時カラカ我ハ、人々ガ祈ル姿ヲ見テキタ。
我ハチカラ無ク、タダ見テイルダケデアッタ……」
 空を切って白猿公の爪が華子の頬を掠め、幾筋かの黒髪を床に落とした。
「シカシ我ハ気付イタ……。
人ノ意識ヲ集メレバ、仮初メトハ言エ身体ヲ得ラレルノダト」
 華子の咆哮鞭が白猿公の腕を打ち据え、三体の雄鹿が周りを取り囲む。
「勝手な事をお言いでないよ!
大切な者のためなら、他人はどうなっても良いってのかい!?」
 白猿公が唸り声を上げ華子に襲い掛かろうとした刹那。
 冷気をまとった雪狼が白猿公を動きを遮り、結城が現われた。
「貴方が想う人々は、誰かの犠牲を望んでいませんよ。
そろそろ人の想いの器に戻る時ではないですか?」
 結城の言葉に一瞬白猿公の抵抗が止まる。
「所長! 大徳寺さん!」
 遅れて現われた和鳥が紅覇の刃を上段に構えた。
 剣精の刃の軌跡が真紅の残像を引き、白猿公の胸に刻まれる。
 急速に光を失いつつある瞳を華子たちに向け――いや、大陸にいた時分から見守ってきた一族に向けて白猿公は言った。
「愛シキ者ヨサラバ……。
束ノ間ノ邂逅ヲ胸ニ……我ハ再ビ、人ノ祈リノ器トシテ眠ラン……」
 砂が崩れるように白猿公の姿が消えた後には、青銅製の神面が二つに割れて落ちていた。
 それを拾い上げた結城がようやく笑顔を見せた。
「二階の祭壇にご神体は無くてね。
引き返してきたら華子さんは白猿公と戦ってるし、正直焦ったよ」
 広間の方から人々の声が聞こえてきた。
 きっと白猿公の作り出した空間が消えて、囚われていた人々が解放されたのだろう。
「大徳寺様にお怪我が無くて何よりです。
私もまだしばらく次の使い手を捜さずに済みました」
 笑顔を絶やさずそう言う紅覇に、がくりと和鳥は肩を落とした。


 喜びも悲しみも、人の想いは時に神すら形作る程強くこの世界に満ちている。
 そんな思いを胸に、華子は重苦しさの消えた廟堂を後にした。


(終)


■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
【2991/大徳寺・華子/女性/111歳/忌唄の唄い手】

■ライター通信
大徳寺華子様
二度目のご依頼ありがとうございます!
なのに納品が遅れてしまって申し訳ありません……!
白猿公に対する思いは、華子様の設定と合わせると切ないですね。
ともあれ、少しでも楽しんでもらえると嬉しいです。