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■アトラスの日に■

モロクっち
【2240】【田中・緋玻】【翻訳家】
 某月某日、白王社ビル内、月刊アトラス編集部。
 編集長碇麗香が檄を飛ばし、シュレッダーを稼動させ、記者その壱たる三下忠雄が悲鳴を上げる。
 麗香の目を盗むようにして、船舶模型情報誌に目を通しているのは、記者その弐。無口で無愛想な御国将。緑茶が入ったマグカップを傍らに、どこか覇気のない様相で、時折自分の影にちらりと一瞥をくれている。
 どやどやと応接室に外国人数名が入っていった。何でも、イギリスの秘密結社の幹部たちだそうだ。日本が気に入ったらしく、最近よく編集部でその姿を見かける。彼らがこの編集部にやってくるようになったのは、イギリス人の作家兼オカルティストがアトラスに関わるようになってからだった。集団が入った後に、そのイギリス人が黒尽くめの少女を伴って、応接室に入っていく。リチャード・レイと蔵木みさと、ふたりは最早この編集部の『住人』だ。

 多くの冒険者を抱えて、編集部はこの日も回っているのだ。
 ここは地球で、その縮図がここにある。
 シュレッダーに悪戯をするグレムリン、デスクの上に鎮座するぬらりひょん、暗がりの吸血鬼、影の中の蟲、深淵へと続くドア。
 すべてがここに、収まっている。
■アトラスの日に■


■まぎれもない夢のもの■

 ガレー船が堕ちて砕ける夢を、この夜も見た。
 目覚めてから、自分がいま居る世界がベッドの中であることを知って、安堵の溜息をつく毎朝がある。田中緋玻の平穏の日常はすっかり砕けてしまった――空を渡る黒いガレー船のように。
 彼女は先日、夢の世界を旅するはめになった。神々と怪物が当たり前のように存在し、空と海をガレー船が渡り、猫が人間以上の知性を持つ、平面の世界を。
 厄介なことに巻き込まれたものだわ、と緋玻は目をこすりながら身体を起こす。
 夢の世界からは無事に戻ってくることが出来たが、ついでに、向こうの世界にあるものも連れてきてしまった。それが、緋玻の夢に夜な夜なあらわれる、黒いガレー船である。東京に座礁したガレー船は、緋玻の日常とともに砕けてなくなってしまった。この騒ぎが起きたのは恐らく誰のせいでもない。真相を知るものは東京でも10名あまりに過ぎない。
『空飛ぶガレー船が堕ちてきて通行人と走行中の車がたくさん吹っ飛んだ』という事実さえも、やんごとなき組織の圧力がかかり、一般には報道されていないのだ。
 だが、どうでもよかった。
 長いこと人の世界に触れ、ここで生きてきた緋玻は、これまでにも時代の流れを受け入れ続けている。また、流れが変わっただけだ。それを受け入れなければならない。
 ――ついていけなくなったら、『田舎』に引っ込めばいいんだし。
 彼女は嘆息し、部屋の片隅にある箱を見やった。幾枚もの札で封印されたその箱の中には、夢の世界に深く関わるものを入れてあった。それさえ突き返せば、悪夢はやむだろうか。
 ――どっちだっていいわ。

 しかし緋玻は、近所でも評判のいいケーキ屋に向かっていた。封印の箱は部屋の隅に置いたまま、かわりに愛用のバッグを抱えて。混み合っているレジに無言で並び、緋玻はマドレーヌとクッキー、そしてその店自慢のシュークリームを買い求めると、その足で白王社ビルに行った。

 緋玻をガレー船ごとこのうつし世に戻したのは、おそらく、蔵木みさとという少女なのである。『一件落着』してから、緋玻は彼女とも、彼女の保護者とも会っていなかった。別れたとき、みさとは意識もはっきりしていて、外傷もなかったが……。
 ――あたし、心配してるの?
 ドライアイスが詰め込まれた紙の箱を見つめて、緋玻はひとり、エレベーターで物思いにふけった。
 ――地獄に縁もない彼女のこと、心配してるの? あたし、そこまで変わったの? 変わったのは時代の流れなんかじゃないってこと? ……馬鹿馬鹿しい。
 苦笑いさえ漏れては来ない。
 緋玻はいつもの冷めた瞳で、アトラス編集部の喧騒を見つめ、素通りし、応接室のドアを開けた。


 蔵木みさとの保護者はそこにいて、鞄の中に書類を詰め込んでいるところだった。これから出かける、といった様子だ。しかしさほど急いでいるようでもなかったし――やはりと言うべきか、みさとの姿はここにはなかったので、緋玻は口を開いた。
「生きてたのね」
 言葉通りの、それは『ご挨拶』というものだ。
「随分なご挨拶ですね、アケハさん」
 リチャード・レイは憮然とした表情でそう返した。
「顔色は悪いようだけど、あなたもちゃんと戻ってこれたなんて、正直意外だわ」
「顔色が悪いのはいつものことです。……何か、ありましたか?」
 彼は珍しく苦笑して、支度の手を休めた。緋玻はつっけんどんに、甘い匂いを放つ紙箱をレイに渡す。
「何かあったか聞こうとしたのはあたしのほう。みさとちゃんが元気ならそれ渡して。元気じゃなかったらあなたが食べて」
 箱を受け取ったレイは、しばらく無言で目をしばたかせていたが、やがて大きく頷いた。
「ありがとうございます。彼女に渡しておきましょう」
「じゃ、元気なのね」
「……そういうわけでもありませんが、喜ぶでしょうから。アケハさん、直接ミサトさんに渡していただけたら嬉しかったのですが……」
「あたしがお見舞いだなんて、白々しいだけよ。……彼女、どこか悪くしたの?」
「いえ」
 レイはいつもの難しい顔に戻り、小さく鼻でため息をついた。
「ただ、眠れないようなのです」

 それもそうだ、と緋玻は思い返す。
 夢の世界は、美しくもあったし面白くもあったが、それ以上に恐ろしいところだった。ことに人間にとっては酷な世界であったかもしれない。緋玻は、知らず、見たものをレイに話して聞かせていた。
 空を渡るガレー船と、海のうえの巨大な月。
 神々の影、
 地獄の鬼すらも知らなかったベクトルのエネルギー。
 すべてが生命を脅かしているわけではなくとも、確実にあの世界のものは異質であった。あの世界においては、緋玻たちそのものが異質であったのだから。
 そんな世界が、眠りという薄皮一枚に隔たれている。
 緋玻ですらも、眠りたくなくなることがある。
 彼女は夢を渡るものになってしまった。多感な年頃のみさとが、触れてはならない世界であったかもしれないし、体験してはならない事変であったかもしれない。

 田中緋玻は、心配していた。

 曖昧になってしまった夢と現の境界を。
 自分をとりまく時間の流れを。
 魂を蛞蝓に奪い取られた少女を。
 ガレー船とともにこちらの世界にやってきてしまった船乗りを。
 顔色の悪いイギリス人作家を。

 神の手のひらの上にある世界そのものを。


「そうだ……。彼、どうしてるの?」
 メビウスの思案を断ち切って、緋玻はレイに尋ねた。
 彼、というのが誰を指しているのか、レイはすぐに察したようだ。意外にも(緋玻はいつでも最悪の状況を念頭に入れているから、大概こう思う)レイは表情をやわらげた。
「イハン=マヌウさんですね。問題ありませ――」
 レイの静かな答えを、騒々しい声と音と行動が見事にさえぎった。
「おおおーーーッッ!! 焔使いの姐さん! ひっさしぶりだべやー!」
「ち、ちょっ……」
 がば、と緋玻に抱きついてきた男こそ、緋玻が一秒前まで安否を気遣っていたイハン=マヌウ。緋玻はほとんど脊髄反射で、男にうっちゃりをお見舞いしていた。
「何すんの!」
「ぬぉあーーーッッ!!」
 レイが肩をすくめたすぐ横を、マヌウの長躯がかすめていく。青白い肌の船乗りは壁に激突し、あわれな失神ぶりを見せた。
「……」
 投げ飛ばしてから、緋玻は船乗りが夢の世界で出会ったときの格好のままであることに気がついた。長い黒髪に赤い髭、大航海時代の海賊のような風貌で、彼はのびている。
「……アロハシャツくらい着せたら?」
「我々の世界の着物は臭いと手触りが気に入らないのだそうです」
「……ということは、向こうの世界の記憶もそのまま? 大丈夫なの?」
「はじめは完全に封じていただきましたが、落ち着いてから徐々に解いていく方法をとりました。今はもうほとんどすべての記憶を思い出しているはずです」
「そう。――リチャード、あなた、保護する人間がどんどん増えるんじゃない?」
 緋玻は肩の力を抜くと、のびた船乗りに近づいて、びしばしと平手で頬を打った。んあ、と声を上げて船乗りは目覚める。
「いってェっしょ、何すんだ!」
「それはこっちの台詞よ。女にいきなり抱きつくなんて、この国じゃ失礼なことなのよ。あなたの世界じゃ知らないけど、……とにかく、猫に唾かけるくらいとんでもないことなの。わかった?」
「猫に唾? そら、なまらヤバイべや。あやまる」
「あら、素直ね。意外。……郷に入りては郷に従え、って言うでしょ。あたしたちもあなたの世界では、あなたたちに従ってたはずよ」
「ん」
「……帰らないの? それとも、帰れないとか?」
「鍵、もらった。いつでも帰れる」
 マヌウは腰の袋を叩いて、笑いながら立ち上がった。
「でもな、ちいっとだけ、観光中よ。未知の世界の冒険は海の男の浪漫だべや!」
 この世界の「ちいっと」は、夢の世界の時間に当てはめると、どのくらいの歳月になるのか。またしても緋玻は、束の間心配をしていた。
 神々がいて当たり前のあの世界と、神々がどこかに行ってしまっているこの世界。大地は丸く、船が空を渡ることは出来ず、宇宙は息もつけぬ死の空間だ。
 この世界は、船乗りにとって異質なのである――
 曖昧になってしまった境界を、再び塗り固めることは出来るだろうか。
「行きましょうか、アケハさん」
 不意にレイが、緋玻を誘った。
「……どこに、何しに?」
「ミサトさんに、これを渡しに行くのですよ。マヌウさんもご一緒に」
 彼の手の中にあるのは、まぎれもなく現実のもの。

 緋玻はそこで、少しだけ考えることにした。




<了>

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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【2240/田中・緋玻/女/900/翻訳家】

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               ライター通信
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 モロクっちです。いつもお世話になっております!
 今回はお見舞い編ということで、ほのぼのと書かせていただきました。殺伐とした回想が入っていますが、モロクっちのクトゥルフとしてはほのぼのしているはず(笑)。若干長めになっております。新入りの船乗り、気にかけていただけて幸いです。彼はこんなに元気でした(笑)。