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■古書の海■

神月叶
【0086】【シュライン・エマ】【翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
 月坂(つきさか)と言う、なだらかな坂がある。
 名前の通り、夜に上っていくと見事に月の映えるたたずまいをしている。
 江戸、もしくは明治、大正といった古い時期に出来た建物がまだ多く残っている一画でもある。
 無論、修繕や改築などを経てはいるが、住人や所有者の多くは建物の元の姿を維持しようと努めてきたのだ。
 それだけ、建物自体が人々に愛されてきた町なのである。
 坂の両脇には古い家が立ち並び、そのほとんどが庭に桜を植えている。
 別名、桜月坂(おうげつざか)とも呼ばれる所以である。

 その月坂の上に、一軒の古書店がある。
 神月堂古書店、と。そう軒に看板がかかっていなければごく普通の民家と変わらない。
 周囲の家々と同じく、都内にしては割と大きな順和風建築だ。
 「商い中」の木札が下がった引き戸をガラリと開ければ、古びた紙とインクの匂いが鼻腔をくすぐる。
 店の中は明るすぎない程よい照明で、天井近くまでそびえる棚には古今の書物が分野別に並べられている。
 カウンタのある奥を透かし見れば、更に続く本の海が垣間見える様だ。
 レジスターすらないカウンタはむしろ、店と奥との単なる境にしかなっていない様にも思える。そのカウンタでさえ、年代物の木製の文机なのだ。
 何もかもが古い。


 カラリと奥の戸が開き、そこから影が滑り出た。
「あら。いらっしゃいませ」
 艶やかな黒髪の少女である。戸口から半身だけを覗かせた拍子に長い髪がさらさらと背中から零れ落ちる。
 にこりと笑みを形作った少女は、次いで困った様に眉根を寄せた。
「申し訳ないのだけれど、虫干しの最中なんです」
 言われてみれば確かに、棚には空きが目立つ。
「もし何か本をお探しでしたら、お手伝いいただければ差し上げますけれど」
「夏野」
 少女の声を遮る様に、低く艶を帯びた声音が空気を震わせた。
 いつの間にか、長身の青年が棚に凭れて腕を組んでいる。黒い髪をした、色白の青年である。この古びた空間の中、異彩を放っている。
 時を止めたかの如き空気に溶け込んでいる少女とはかなりの差だ。
「柊」
 呼ばれた青年は少女とは異なる意味合いを込めて眉を寄せた。
「俺は知らんぞ」
「平気よ。だって、人手がある方が早く片付くと思わない?」
古書の海



■古書店

 月坂(つきさか)と言う、なだらかな坂がある。
 名前の通り、夜に上っていくと見事に月の映えるたたずまいをしている。
 江戸、もしくは明治、大正といった古い時期に出来た建物がまだ多く残っている一画でもある。
 無論、修繕や改築などを経てはいるが、住人や所有者の多くは建物の元の姿を維持しようと努めてきたのだ。
 それだけ、建物自体が人々に愛されてきた町なのである。

 その月坂の上に、一軒の古書店がある。
 神月堂古書店、と。そう軒に看板がかかっていなければごく普通の民家と変わらない。
 周囲の家々と同じく、都内にしては割と大きな順和風建築だ。
 「商い中」の木札が下がった引き戸をガラリと開ければ、古びた紙とインクの匂いが鼻腔をくすぐる。
 店の中は明るすぎない程よい照明で、天井近くまでそびえる棚には古今の書物が分野別に並べられている。
 レジスターすらないカウンタはむしろ、店と奥との単なる境にしかなっていない様にも思える。そのカウンタでさえ、年代物の木製の文机なのだ。
 何もかもが古い。
 古いが、手入れの行き届いた店だ。
 いい店だ、とシュラインは思う。朽ちた古さではなく、活きた古さ、そういった雰囲気がこの店にはある。
 一体どんな人物が主なのだろう。家と同じに年を重ねた人だろうか。
 思いを巡らせながらシュラインがゆっくりと店内を見回していると、カラリと奥の戸が開き、そこから影が滑り出た。
 棚を彷徨っていた視線がそこへ引き寄せられる。
「あら。いらっしゃいませ」
 出てきたのは艶やかな黒髪の少女であった。戸口から半身だけを覗かせた拍子に長い髪がさらさらと背中から零れ落ちる。
 にこりと笑みを形作った少女は、次いで困った様に眉根を寄せた。
「申し訳ないのだけれど、虫干しの最中なんです」
 言われてみれば確かに、棚には空きが目立つ。
「もし何か本をお探しでしたら、お手伝いいただければ差し上げますけれど」
「夏野」
 少女の声を遮る様に、低く艶を帯びた声音が空気を震わせた。
 いつの間にか、長身の青年が棚に凭れて腕を組んでいる。黒い髪をした、色白の青年である。この古びた空間の中、異彩を放っている。
 時を止めたかの如き空気に溶け込んでいる少女とはかなりの差だ。
「柊」
 呼ばれた青年は少女とは異なる意味合いを込めて眉を寄せた。
「俺は知らんぞ」
「平気よ。だって、人手がある方が早く片付くと思わない?」


■古書の海

 目の前で繰り広げられるやり取りに、シュラインは目を瞬いた。
 おそらく、並ぶ二人の男女が纏う雰囲気が対照的であったせいもあるだろう。それでいて、どこか似通っているという印象も受け、シュラインは思わず微笑んでいた。
「すみません。お客様を放ったらかしにして」
「気にしないで。見てて楽しいから」
 今度は恐縮しかけた夏野がその言葉を聞いて目を瞬く。
 憮然とした顔の柊には構わず、シュラインは夏野ににっこりと笑いかけた。
「よかったら手伝わせてもらうわ。古書店の奥、っていうのも興味あるし」
 柊は部外者が手伝う事に賛成ではないらしいが、見た所立場は夏野の方が明らかに上だ。年齢では柊の方が年嵩だろうが、それだけでは測れない部分が二人の関係には存在している様だった。
「ありがとうございます。坂井夏野(さかい・なつの)、と申します。こちらは柊(ひいらぎ)」
「シュライン・エマよ。今のところ特に探している本はないのだけれど、辞書や事典で変わったものがあれば見せてもらいたいわ」
 ぺこりと頭を下げる夏野とは正反対に、柊はだらしなく棚に凭れたままで表情を和らげようとしない。夏野がちらりと視線を送ったきり何も言わないので、シュラインも柊の事は一旦蚊帳の外に置くことにした。
 促されるまま、カウンター代わりの文机の奥へと進む。
 夏野が出てきた戸の向こうは、渋味のある板張りの廊下になっていた。中も純和風の造りになっているらしい。
 右手には水周り、左手には客間らしき部屋がある様だ。
「辞書の類はいくつかあった様に思うのですけれど。どういった物かまでは私も見てみないとわかりませんね……」
 申し訳なさそうに言いながら、夏野は廊下の突き当たりにある戸を引き開けた。
 どこの古書店も辞書類はそう多く扱っていない。古いものが見つかれば幸い、といった所だ。
「なにぶん量が多いので、客間の方に少しずつ出しながら作業しましょう」
 そこに広がる光景にシュラインは思わず息を呑んだ。
 正に書の海。
 かなり広いであろう部屋の壁際は採光も兼ねた窓際以外は全て書棚で埋められ、ぎっしり書物で埋められている。そこからはみ出した書籍があちこちで大小の山を作り、部屋の中程にある書棚との間を埋めていた。和綴じの本は勿論、中には本の形になっていない文献すらある。
 足の踏み場も無い、と言いたくなるような部屋だったが、辛うじて人一人が通れるように畳が顔を出している。
 計画的に積み上げられている事が窺える「書庫」だった。
 古びた紙の匂いとインクの匂いが混ざり合い、“古書店”独特の空気を醸し出している。
「すごい……。これだけ集めるのに、持ち込みだけじゃ無理だったんじゃない?」
 まさか少女、あるいは先刻の青年が店の主ということはないだろうが。
「えぇ。店主の者がしょっちゅうあちこちに古書を探しに出かけているもので」
 現に今も道楽旅行に出かけているのだ、と夏野は小さく苦笑した。
「あら、困った店主さんね。――ご家族の方?」
「はい。店主の神月は私の祖父にあたります。祖父ったら、買い入れた本をほとんど全部読んでしまうんです」
 どこか楽しげな夏野につられて笑いながら、ふとシュラインは入る時に見た店名を脳裏に思い浮かべた。
 神月堂――と。確かそのように看板があがっていた。
 どこかで聞いた気がする名だ。さして珍しいというものでもないだろうから、依頼人の中にもそういう名を持つ者がいたかも知れない。
 だが、草間の口から単なる依頼人とは違うニュアンスでその名を聞いた覚えも、おぼろげにだがある。
 同時に、己が目の前の少女と初対面であることもまた動かせない事実だ。
「さて。どこから手をつけましょうか?」
 帰ってから草間にでも聞いてみようか。
 考えながら、シュラインは借り受けた白手袋を嵌め、書物の山に挑みかかるかのごとく腰に手を当てた。
 到底一日やそこらで終わる量ではない。これを、二人でやっているのだとしたら既にかなりの労力を費やしている事だろう。
 店に並んでいる本が少ないのも、納得できる気がした。
「こちら側が作業済で、ここからが未整理のものです。作業中、気になるものがありましたら気にせず手にとって下さいね」
 広い書庫の、三分の一程まで進んで夏野がシュラインを振り返る。
 湿気を払う為に風を満遍なく通そうと思えば、一気に作業をしてしまうのは難しいのだろう。
「了解。じゃ、始めましょ」
 一度客間まで共に行き、その後はそれぞれのペースで作業にかかる。
 普段は日当たりのいい庭に面している客間だったが、今日は作業の為に雨戸で日陰を作っていた。爽やかな風が室内を吹き抜けていて、虫干しには絶好だ。
 カタン、と。
 ごく小さな音にシュラインが振り返ったのは、何度目かの往復の時だった。
 書庫になっている部屋から更に廊下を折れて奥に、もう一つ同じ様な引き戸がある。音はそこからした様だった。
「えぇと、柊くん……だったかしら」
 目を凝らすまでもなく、戸の前に先程の青年が立っているのが見えた。
 たった今しがた、奥の部屋から出てきたものらしい。そこが青年の自室であるとも思えないが、もしかしたら自分たちが作業にかかってからはずっとそこにいたのだろうか。
「――――」
 柊は一瞬何か言いたげに口を開きかけ、すぐにまた閉ざした。訳が分からずに書庫の前で立ち止まってしまったシュラインを気にしているのかいないのか、軽く瞼を下ろしてため息をつく。
「仕様が無い。手伝ってやる」
 偉そう。
 シュラインがまず思ったのはその一点に尽きる。いくら部外者が入り込むのを嫌がる性質だからといって、その物言いはないだろう。
「柊」
 客間から戻ってきた夏野が眉を顰めたのも当然だった。
「……俺が運べばいいんだろう」
 謝ることなく言い置いて、魔よけの植物の名を持つ青年は書庫へ滑り込んだ。
 顎に指を置いてため息をついている夏野と共に中を覗き込めば、いささか丁寧さには欠けるものの書物は傷つけない動きで柊が本を積み重ねている所だった。
「すみません。礼儀を知らなくて」
「気にしないで。彼が動いてくれれば私達も楽になるんだし」
 どうしてだか日の当たる客間には、柊は立ち入ろうとしなかった。自然、運び出された本の山は手前の廊下に新たな山を築くこととなる。
「気持ちいいお天気なのに、勿体ないわね」
 客間で風がよく通るように本を整理しながら、シュラインはちらりと去っていく柊の背中を見やった。
「日の光が、苦手なんです。見るのもあまり好きではないらしくて」
 日陰も作っているのに、という言葉は夏野の付け足しによって口の中で消える。
 日光アレルギーなのかしら、とシュラインは胸の内で呟いた。
 魔除けの名を戴きながら受ける印象は相反するもの。そんな青年はもっと何か別のものの様にも思えたけれど。
「お手伝いだけさせてしまって、すみません」
 結局、シュラインの目を惹く様な辞書の類は見つからなかった。どこにでもあるものではないから、それは特に落胆する程のことではないのだが。
「お茶をこうしていただいてるし、色んな本を見れたし。それで十分よ」
 お菓子も美味しいし。
 煎茶と共に供された和菓子は見た目にも爽やかな初夏の装いをしている。
 客間とは廊下を挟んだ台所でのにわか茶会に、柊の姿はない。作業が終わるとさっさと二階へ消えてしまったのだ。
「本当に助かりました。ありがとうございます」
 店の戸口まで見送りに出てきた夏野に笑みを返して、シュラインはゆっくりと坂を下り始めた。なだらかな坂は上りも下りも楽でいい。
 ふ、と。
 何気なく振り返って見上げた窓に、黒髪の青年が垣間見えた、気がした。



[終]



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員

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■         ライター通信          ■
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こんにちは、ライターの神月叶です。
この度はゲームノベル「古書の海」に参加いただきましてありがとうございました。
坂の上の古書店はいかがでしたか?
残念ながらお探しの書物は見つからなかった模様です。
辞書って古書店には少ない…、と日頃のちょっとした感情を思い返しながら書いていました。
蔵書が増えた頃のまたのご来店、お待ちしています。

それでは、PC様の今後のご活躍を祈って。