■花は空に舞い■
むささび |
【0086】【シュライン・エマ】【翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】 |
風の香りが変わった。それまで歩いていた雑踏の、排気ガスや埃にまみれたそれから、いつの間にかしっとりとした花の香りに包まれていたのだ。木漏れ日も静かな桃の苑。街の中にこんな場所があると気付く人は、殆ど居ないだろう。ついさっきまで聞えていた雑踏のざわめきも車の音も聞えない。静かだった。
「ふぅ。これで終わり…か。これもつとめとは言え、面倒よのう」
木々の向こうから聞えてきたのは、その言葉遣いには似合わぬ、少女の声だ。白い髪に真っ赤な瞳、うっすらと紅色のさした着物を着た少女は、都会の真中に現れた桃の苑と同じくらい、異質な雰囲気を持っている。少女の周りには敷き布が敷かれ、その上にはちょっと変わった品が並んでいた。
|
花は空に舞い
風の香りが変わった。それまで歩いていた雑踏の、排気ガスや埃にまみれたそれから、いつの間にかしっとりとした花の香りに包まれていたのだ。木漏れ日も静かな桃の苑。街の中にこんな場所があると気付く人は、殆ど居ないだろう。ついさっきまで聞えていた雑踏のざわめきも車の音も聞えない。静かだった。
「ふぅ。これで終わり…か。これもつとめとは言え、面倒よのう」
木々の向こうから聞えてきたのは、その言葉遣いには似合わぬ、少女の声だ。白い髪に真っ赤な瞳、うっすらと紅色のさした着物を着た少女は、都会の真中に現れた桃の苑と同じくらい、異質な雰囲気を持っている。少女の周りには敷き布が敷かれ、その上にはちょっと変わった品が並んでいた。
「おや、シュラインどのではないか!よういらした」
気配を察したのか、先に声をかけてきたのは少女の方だった。彼女、天鈴(あまね・すず)と知り合ってしばらく経つ。
「莫竜さんの様子、見に来るって言ったでしょ?…それから、これお土産」
と、布をかけた籠を持ち上げて見せる。
「わざわざ済まぬのう」
「レモンクリームタルトなんだけど。…好き嫌い、あったりする?」
道々不安に思っていた事を聞くと、鈴はにっと笑って、無い、と答えた。
「それに、シュラインどのの料理はとても美味いからのう。何でも楽しみじゃ」
「それは光栄だわ。どうぞ」
と、籠を手渡すと、鈴は嬉しそうに礼を言った。
「丁度な、蔵に入っておった品を外へ出しておったところじゃ。見て行かれるか?」
「そうさせて貰うわ。何だか色んな物があるのねえ」
鈴について庭に足を踏み入れると、更に強い桃の香りがシュラインを包み込んだ。一年中常に花を咲かせ実を付けるここ、寿天苑の桃の木は、仙界の木を移植したものなのだと聞いたのはこの間の事だ。苑を作ったのは鈴たちの先祖に当たる仙人で、ここには彼が集めた古今東西の不可思議な品々や、彼やその係累たちの発明品が納められていたのだと言う。だが、ある時苑が燃え、蔵にあった品々は散り散りに流出してしまった。それらを再び集め、苑に戻していくのが苑に住まう者の責務なのだと鈴は話してくれた。
「ふうん、筆に、植木…それから…」
敷布の上の品々を一つ一つ眺めていたシュラインは、端にどっさりと積まれた卵を見て思わずあっと声をあげた。鶏卵にしては少々大きめな卵、これには見覚えがある。確か数ヶ月前の事だ。卵型チョコに紛れてある店の店頭に並んでいたこれに、ついうっかり触ってしまったシュラインは、奇妙な目にあったのだ。
「ど、どうしてこの卵がここに…」
「ほう。もしやシュラインどのも、試しの卵に触れられたか?」
シュラインの声に、鈴が振り向いて眉を上げる。
「試しの…卵?これが?」
「そうじゃ。これも仙の作りしモノの一つじゃからの」
封じたから大丈夫じゃ、と言いながら、鈴がつんつんと卵の山を突付く。
「これはな、夫婦や恋仲の男女が、その絆を確かめる為に使うものなのじゃよ。心が離れかけた時、はたまた逆に、新たな一歩を踏み出そうと言う時に、己や相手の心の内に抱えるしこりを見出し、解きほぐし、互いの絆を確かめ合う。心を開き、通じ合えれば殻は割れ、絆の鳥が生まれる。シュライン殿がこうして無事で居られると言う事は、きっと共に卵に入った者と、心がきちんと添うて居たのであろ」
「心が…ねえ」
シュラインは、卵に入った時の事を思い出して、ふっと小さく笑った。確かに、最初はちょっとイライラしたけれど。彼の思わぬ一言に何故か心のしこりがほぐれた気がして、戻った後、一冊の本を密かに探してみたりしたのだ。いつも一緒に居る筈の彼の、新たな秘密、と言うには大げさだけれど、知らなかった一面を見つけた気がして、嬉しかった。が。ふと一つの可能性に思い至って、シュラインは我に返った。
「ねえ、もしも心がその、通じ合えなかったら?」
「卵のまま腐るだけじゃ。…実を言うと実験段階では殆ど腐ったのじゃよ」
「…え」
シュラインはそろそろと卵の山から離れた。危ない危ない。それにしても、絆の鳥、と言うのはどんな鳥なのだろう。鈴に聞くと、彼女は少し考えてから、色々なのだと答えた。絆の形は人それぞれ、大きかったり小さかったり、一つたりとも同じ形のモノは無いのだと。その時、敷布の端っこで微動だにせずこちらを見ている白い鳥に気がついた。
「このコ…こないだのコよね?」
そうだよ、と答えるように鳴いた白い鳥は、すっくと立ち上がるとぺたぺたとこちらに歩いてきた。珍しい、純白の川鵜。名前は呑天と言うのだと、先日聞いたばかりだ。遥か昔に仙の力を与えられた彼は、巨大な鳥に変化して、シュラインたちを乗せて飛んでくれた。あの時の気分は、ちょっと忘れられない。上空の風はさすがに冷たかったけれど、呑天の体は温かくて気持ちよく、そのままいつまでも飛んでいたいくらいだったのだ。その後一度来た時には見かけなかったから、久しぶりの対面だった。
「やっぱり可愛い…」
しゃがんで見ると、呑天が『なあに?』と言うように首をくいっと横に曲げた。ついつられて自分を首を傾げると、今度は逆に曲げて見つめ返してくる。
「シュラインどのの事を思い出しておるのじゃろ」
後ろから鈴が言った。
「え?忘れられちゃってるの?私」
多少哀しい気分で聞くと、鈴は首を振った。
「いや。はっきりとは思い出せておらぬだけじゃ。大分頭が良いとは言え、鳥は鳥じゃから」
鈴は笑うと、茶を淹れて来ると言って籠を持ったまま屋敷に入って行った。呑天は相変わらず、真紅のつぶらな瞳でシュラインを見詰めている。
「…さ、触っても平気かな…」
鈴に聞いてみた方が良いだろうかと思いつつも、右手をそおっと伸ばしてみる。呑天が少し身体を強張らせた時にはどきりとしたが、思いがけない事に、差し伸べられたシュラインの掌に、彼は自ら頭をそっと乗せたのだ。
「こ…これは」
どういう表現なのかしら。と内心悩んだものの、どうやら拒絶されては居ないのらしいと解釈して、シュラインは思い切って左手も伸ばして翼に触れた。そっと、あくまでも触れる程度に、白い翼を撫でてみる。少し脂っぽい感じもしたが、白い羽毛の手触りは気持ちが良い。しばらくそうして撫でていると、今度は呑天の方からぴょん、と彼女の膝にもぐりこんで来た。
「おお、すっかり思い出したようじゃの」
戻ってきた鈴が言うと、呑天がくぇ、と返事をした。相変わらず奇妙な声だが、そう言われるとシュラインも悪い気はしない。
「抱っこしても大丈夫かな」
と鈴に聞いてから、呑天を抱いて立ち上がった。
「ほれ、ここに。莫竜の様子も見える」
縁側に鈴が置いた盆を挟んで、並んで座った。横を見ると、見覚えのある掛け軸が揺れている。滝に花、大きな竜が、今は下降するようにこちらを向き、小さな竜が彼の背に沿うように舞っている以前見た時とは、竜たちの位置は違っていた。大きな竜の名を莫竜。この掛け軸にずっと昔に封印されていたものが、何時の間にやら抜け出していたのを封印し直したのは、先月の事だ。寂しがりの莫竜が、もう抜け出さずとも済むようにと、それまで滝しか無かったこの掛け軸に、新たな景色と友となる存在を描き足す事を提案したのは、シュラインだった。賑々しくはしてみたものの、上手くやっているのだろうかとずっと気にしていたのだ。今日この寿天苑を訪れたのは、一つには莫竜の様子を見たいが為だったのだが。案ずる事は無かったらしい。竜達の遊ぶ掛け軸から流れてくる空気は、華やいでいて、彼らの声すら聞えてきそうなくらいだ。
「楽しそうね」
シュラインが言うと、鈴もああ、と頷いた。
「あの小さな竜を、育てておるらしい」
「育てて…って、大きくなるの?」
「どうであろうな。長い年月を経れば、そのような事も起こらぬとは言い切れぬ」
「随分、曖昧じゃない」
鈴の言い回しに、シュラインは苦笑した。
「仕方なかろう。わしはこの姿のまま、シュラインどのよりも随分長う生きてきたが、曖昧で無いものなど殆ど無い。全ては流転し、姿も、時に本質すら変える事もある。先の事なぞ言い切る方が嘘つきじゃ」
「なるほど」
シュラインが頷いて、湯のみに手を伸ばした。家事なぞ殆どしないという鈴だが、何故か茶だけは上手く淹れる。良い香りに目を閉じていると、鈴が先を続けた。
「確かなのは、今ここに、こうしてわしらが居り、茶は美味く、それから…この『れもんくりーむたると』がそれにも増して美味じゃ、と言う事だけよ」
クリームを頬にくっつけて笑う鈴を見て、シュラインはつい、吹き出しそうになって、それからやっぱり笑ってしまった。
「おひげ、ついてるわよ」
指摘されて気付いた鈴も笑い出す。桃の苑に、梅雨の晴れ間の陽が差し込んできた。家を出る時に垂れ込めていた低い雲は、いつの間にか既に消えている。水分をたっぷり含んだ空気を、久しぶりの日光がしっとりと輝かせていた。その中を、数枚の桃の花びらが静かに舞い落ち、緩やかな風がそれらをシュラインの方に運んでくれる。仄かな香りが、鼻をくすぐった。膝には呑天がうつらうつらしており、隣の鈴は一心不乱にレモンクリームタルトを平らげている。自分も一切れ二切れ口に運びつつ、舞い落ちる花びらを見詰めていると、不思議と心が凪いで来るのが分かる。
「ねえ、鈴さん」
「なんじゃ?」
またクリームを口の端につけて、鈴が顔を上げる。
「平和ねえ…」
ありがたきことよ、と頷いた鈴の髪から、桃の花びらが一枚舞って落ちた。
<花は空に舞い 終 >
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
<登場NPC>
天 鈴(あまね・すず)
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
シュライン・エマ様
ご発注、ありがとうございました。ライターのむささびです。
『花は天に舞い』楽しんでいただけましたでしょうか?呑天は沢山撫でていただけて嬉しかったようです。空の散歩も、と思ったのですが、気持ちよすぎて眠ってしまいました。すみません。レモンクリームタルトは、二人で食べてしまったようです。なお、風の中で漂っていた桃の花びらが一枚、シュライン嬢の髪についたままになってしまいました。大したものではありませんが、記念にお持ち下さったら光栄です。
むささび。
|