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■蝶の慟哭〜一片の葉〜■

霜月玲守
【4345】【蒼王・海浬】【マネージャー 来訪者】
 秋滋野高校という、極々ありふれた高校がぽつりと郊外にある。校則は厳しくなく、それでもある程度の節度を持っている。至極普通の高校である。
 その校内に、大きなイチョウの木が立っていた。樹齢はゆうに百を越すであろうか。どっしりとした木の幹が、歴史を感じさせるかのようだ。
 驚くべき事は、その長いであろう樹齢や、大きなその風格だけではない。通常黄色い葉を散らす筈なのに、そのイチョウの木は薄紅色の葉を散らすのだ。様々な科学者や生物学者が何人もイチョウの木を訪れ、調べ、研究を続けているが、未だに答えは出ていない。遺伝子の事故が起こったのかも知れない、という科学者がいたものの、それが本当であるかどうかはまだ証明されていない。
 そんな不思議なイチョウの木は、いつしか秋滋野高校の生徒達にとって、おまじないの対象となっていった。
 やり方は至極簡単で、薄紅色のイチョウの葉に、願いを書いて持ち歩くと言う事だけだ。勿論、既存のおまじないのように誰にも見られてはならない、という規約は存在している。
 そしていつしか、そのおまじないに関して特異の現象が起こり始めた。
 願い事の中でも、負の感情を孕んだものが特に叶えられていると言うのだ。
 そうした中、秋滋野高校の女生徒が一人、イチョウの葉を握り締め震えていた。
「私が……私が……」
 迫下・祥子(さこした しょうこ)は何度も呟き、薄紅色のイチョウの葉をぎゅっと握り締めたまま、震え続けていた。
 握り締めている葉には『クラスの皆、いなくなればいい』と書いてある。そして見つめる先にあるパソコンのディスプレイ画面には、一つの記事が表示されている。
『高校生、屋上から飛び降りる』
「私のせい……私のせいなの?」
 ガタガタと震えながら、祥子は呟く。これは単なる偶然なのだろうか?ただの憂さ晴らしでやっただけなのに、現実味を帯びてしまうなんて。
 祥子はふらりと立ち上がり、机の中に入っている小刀をそっと取り出す。ガタガタと震えながら、握り締めていたイチョウの葉を切り刻み始めた。が、一つの傷も入らない。何度も何度も打ち付けるが、傷は全くつかないのだ。
「どうして……どうしてぇ?」
 次第に祥子は叫び始めていた。小刀を握り締め、何度も打ち付ける。何度も、何度も。そうしていつしか、小刀は祥子の左手を何度も打ち付け始めていた。
 不思議と痛みは感じなかった。ただ、赤い血がだらだらと流れ続けた。赤く熱い、生命の証。それがだらだらと祥子の左手から流れる。でも、痛くない。
「……あはは……ははは……!」
 祥子は笑い、打ち付け続けた。何度も、何度も。


 次の日の新聞には『高校生、謎の自殺』の記事が載ったのであった。
蝶の慟哭〜一片の葉〜


●序

 願いを叶える為に、何かを犠牲にしなければならない。


 秋滋野高校という、極々ありふれた高校がぽつりと郊外にある。校則は厳しくなく、それでもある程度の節度を持っている。至極普通の高校である。
 その校内に、大きなイチョウの木が立っていた。樹齢はゆうに百を越すであろうか。どっしりとした木の幹が、歴史を感じさせるかのようだ。
 驚くべき事は、その長いであろう樹齢や、大きなその風格だけではない。通常黄色い葉を散らす筈なのに、そのイチョウの木は薄紅色の葉を散らすのだ。様々な科学者や生物学者が何人もイチョウの木を訪れ、調べ、研究を続けているが、未だに答えは出ていない。遺伝子の事故が起こったのかも知れない、という科学者がいたものの、それが本当であるかどうかはまだ証明されていない。
 そんな不思議なイチョウの木は、いつしか秋滋野高校の生徒達にとって、おまじないの対象となっていった。
 やり方は至極簡単で、薄紅色のイチョウの葉に、願いを書いて持ち歩くと言う事だけだ。勿論、既存のおまじないのように誰にも見られてはならない、という規約は存在している。
 そしていつしか、そのおまじないに関して特異の現象が起こり始めた。
 願い事の中でも、負の感情を孕んだものが特に叶えられていると言うのだ。
 そうした中、秋滋野高校の女生徒が一人、イチョウの葉を握り締め震えていた。
「私が……私が……」
 迫下・祥子(さこした しょうこ)は何度も呟き、薄紅色のイチョウの葉をぎゅっと握り締めたまま、震え続けていた。
 握り締めている葉には『クラスの皆、いなくなればいい』と書いてある。そして見つめる先にあるパソコンのディスプレイ画面には、一つの記事が表示されている。
『高校生、屋上から飛び降りる』
「私のせい……私のせいなの?」
 ガタガタと震えながら、祥子は呟く。これは単なる偶然なのだろうか?ただの憂さ晴らしでやっただけなのに、現実味を帯びてしまうなんて。
 祥子はふらりと立ち上がり、机の中に入っている小刀をそっと取り出す。ガタガタと震えながら、握り締めていたイチョウの葉を切り刻み始めた。が、一つの傷も入らない。何度も何度も打ち付けるが、傷は全くつかないのだ。
「どうして……どうしてぇ?」
 次第に祥子は叫び始めていた。小刀を握り締め、何度も打ち付ける。何度も、何度も。そうしていつしか、小刀は祥子の左手を何度も打ち付け始めていた。
 不思議と痛みは感じなかった。ただ、赤い血がだらだらと流れ続けた。赤く熱い、生命の証。それがだらだらと祥子の左手から流れる。でも、痛くない。
「……あはは……ははは……!」
 祥子は笑い、打ち付け続けた。何度も、何度も。


 次の日の新聞には『高校生、謎の自殺』の記事が載ったのであった。


●始

 密やかに、誰にも知られる事なく、進み始める。ゆらゆらと揺れながら。


 蒼王・海浬(そうおう かいり)は新聞を見ながら小さく溜息をついた。
「どうして、こうも愚かな事が起こり得る」
 海浬の目線の先には、件の記事があった。謎の自殺と表されたその記事は、左手の甲を打ち続けたという異常性を大きく取り上げていた。麻酔をしていた訳でもなく、自殺をした女子高生の精神状態が特におかしかった訳でもなかった。彼女の両親によると、最近何かに怯えたようにはしていたが、会話は普通にできていたし、ちょっとした傷でもバンソウコウを貼る程、痛みに敏感だったのだという。
「……何?」
 海浬は記事を読み進めるうちに、その異常性に呟く。
 少しの痛みをも過剰に感じやすかった彼女が、明らかに痛みを(むしろ、熱いという感覚かもしれないが)感じないというのは有り得るのだろうか。その点においては、海里は新聞と同じ意見であった。
(ただの愚行という訳ではないのかもしれない)
 海浬はそう考え、新聞から目を離した。
(だが、所詮人間のする事だ)
 海浬はばさりと音をさせて新聞を置く。本来ならば、そこでその件については終了する筈であった。単なる珍しい事件として、海浬の頭の隅にでも置かれて終わりであった。
 だが、海浬の携帯電話が鳴り響いた。聞きなれた着信音ではあったが、それは始まりの合図でもあった。
「……アトラス編集部?」
 海浬は発信相手を見て呟いた。そしてそっと通話ボタンを押し「もしもし」と応じた。
「ああ、蒼王さん?碇です」
「どうした、急に」
 海浬が尋ねると、碇は少しだけ押し黙り、口を開く。
「新聞、見たかしら?」
「見たといっても、多少だが」
「秋滋野高校の生徒が自殺した記事は、読んだ?」
 碇の言葉に、海浬はぴくりと眉間を動かす。何というタイミング、何と言う悪戯。それは確かに、先ほど見たばかりの記事である。
「……読んだみたいね」
 碇は海浬の無言を肯定と取り、呟く。
「あの事件の異常性は、分かったでしょう?」
「それで、取材でもする気なのか?」
「その通りね。流石じゃない」
(誉められてもな)
 海浬は思わず苦笑する。碇の考えそうな事くらい、今の会話の流れならば誰でも分かる事である。
「詳しい話は事務所でするわ。都合がつくかしら?」
「ああ。……では、今から向かう」
 海浬はそう言って電話を切った。電話を切った後に、妙に可笑しくなった。笑い声までは出ないが、運命とやらに遊ばれたような感覚になっていたのである。
「……この俺を」
 海浬は小さく呟き、携帯電話を胸ポケットに突っ込んだ。そして手短に支度を済ませると、アトラス編集部へと向かうのだった。


 アトラス編集部は、いつも通りに騒然としていた。忙しそうに動き回る人間達を避けつつ、海浬は碇を探した。
「蒼王さん、良く来てくれたわね」
 碇の方から海浬に気付き、手をひらひらと振った。海浬はそれに小さく頷いて応え、碇の元に行く。
「説明するから、そこに座ってくれるかしら?」
 碇はソファを勧め、資料の束を持ってから自分もソファに腰掛ける。
「秋滋野高校の生徒、と言っていたな」
「ええ。秋滋野高校二年生、迫下・祥子さん。特に突出した能力は無かったようね」
「それは、確かなのか?」
 海浬が念を押すように尋ねると、碇は肩を竦めつつ「表面上はね」と付け加えた。
「学校側に対して、ここから動かずに手に入れられる情報なんて、そんなものしかないのよ」
「だからこそ、詳しい情報を手に入れたいと言う事か」
「そういう事よ。回転が速くて助かるわ」
 碇はそう言い、そっと微笑む。海浬は小さく溜息をつきながら「それで」と口にする。
「秋滋野高校自体に問題があると言う事は無いのか?」
「それはどうかしら。表立って分かる事や、アトラスから出来得る限りの情報網を使ったんだけど、相手は高校だから」
 つまりは、有益と思われる詳細な情報は手に入らなかったと言う事だろう。海浬は小さく「ふむ」と呟く。
「全く違う観点でもないのか?」
「全く違う観点?」
「自殺とは無関係そうな、秋滋野高校に纏わる話とか」
「そうねぇ……」
 碇は呟き、ぱらぱらと資料を捲った。その時に小さく「あ」と呟き、積み重なった資料の中から、左端をクリップで留めてあるコピーの束を海浬に手渡す。
「一応、秋滋野高校についての資料よ。ここで出来るだけの、ね」
 海浬は資料を受け取ると、碇と同じようにぱらぱらと捲り始めた。そして、その中の一枚で手を止めた。
「……これは何だ?」
「何?」
「イチョウの葉が赤いという、木だ」
 海浬に言われ、碇もぱらぱらと資料を捲る。
「本当だわ。……普通、イチョウの葉は黄色よね?」
 海浬は頷き、考え込む。暫くし、資料を手に立ち上がった。
「ともかく、行ってみる事としよう。……ここでこうしているだけでは、何も進まないからな」
「宜しくね」
 碇はにっこり笑ったが、やはり海浬は笑み一つ返す事なく、手を軽くあげただけに留まるのであった。


●動

 ゆっくりと、だが確実に広がる、波紋。最初は小さく、だんだん大きくなっていく。


 秋滋野高校は、裏山のある割合にして大きな高校であった。校舎は綺麗で大きく、校庭も整って広い。学業やスポーツが盛んに行われているのかもしれない。
「ここが、秋滋野高校か」
 ぽつりと海浬は呟く。今は授業中なのか、ちらほらとサボっているような生徒がいるだけで、しんと静まり返っている。丁度、体育の授業もないのだろうか。校庭には人影が殆ど無い。
「生徒に話を聞きたかったんだが」
 海浬は呟き、辺りを見回した。表立って学校側に尋ねたとしても、碇に渡された資料と何ら変わりの無い答えを得るだけとなるだろう。それならば、最初から詳細な事情を持っているだろう生徒達に話を聞いた方が遥かに早い。
「……何してんの?」
 突如した声に振り返ると、そこには秋滋野高校の制服に身を包んだ男子生徒が立っていた。薄っぺらな鞄を持ち、制服はだらりと着崩している。
「今、登校か」
「まあね。……説教でもする気かよ?」
 一瞬構える男子生徒に、海浬は「まさか」と答える。
「丁度良い所に来てくれた、と思っているだけだ」
「丁度いい?」
 訝しげに尋ね返す男子生徒に、海浬はこくりと頷く。
「話を聞きたいと思っていたんだが、生憎と授業中のようだからな」
「話って……どっちのだよ?」
「どちら?」
 海浬が訪ね返すと、男子生徒は忌々しそうに「ちっ」と舌打ちをしてから口を開く。
「屋上から飛び降りた自殺と、左手を刺しまくった自殺。どっちのだよ」
 海浬はぱらぱらと碇から貰った資料を捲る。確かに、祥子が自殺をする前に、田中・香苗(たなか かなえ)この学校の屋上から飛び降り自殺が起こっている。しかも、彼女が自殺を図る三日後という、関連付けたくなるような近い日付である。
 海浬は、少しだけ俯いている男子生徒をじっと見つめ、至極真面目な顔で「どちらも聞きたい」と答えた。
「俺は、この学校の事は知らないに等しい。だから、少しでも有益と思われる情報は手に入れたい」
「大体、あんたは何者なんだよ?」
「……取材だ。尤も、新聞や週刊誌といった俗物的なものではないがな」
「じゃあ、何なんだよ?取材なら、俗物的に決まってるじゃねぇか」
 男子生徒の言葉に、海浬は小さく溜息をつく。
「俗物的ではないとは言い切れないが、真摯に事件と向き合う事だけは約束する」
「……本当かよ?」
「俺の名にかけて」
 海浬の名、太陽神にかけて誓った。そのまっすぐな目に、男子生徒は小さく「ちっ」と舌打ちをし、俯きながら口を開いた。
「あいつらどちらも、俺のクラスメイトなんだよ」
「二人とも、同じクラスだったのか」
「ああ。……手首を刺した迫下は、軽い苛めにあってたんだ」
「もう一人の方は?」
「苛めどころか、苛めにあっていた迫下をよく庇ってたよ。俺らはよくやるぜ、と思ってたけど」
「庇っていた?」
 妙な話である。もしも苛めていたのが香苗であるならば、祥子が香苗を殺し、それを悔いて自殺したという構図が簡単に出来上がるというのに。
「田中が死んだ後、迫下は妙に怯え始めたんだ。その様子に、苛めてた奴らも手は出さなかった。青白い顔をして、震えてたんだからな。そうしたら、自殺しただろ?俺らはてっきり……」
「迫下・祥子が田中・香苗を殺害し、それを悔いて自殺を図った」
 海浬がそう言うと、こっくりと男子生徒は頷いた。
「でもそれって、おかしいだろ?迫下が苛めてた奴らを殺したんなら、まだ納得はいくんだけど」
「……イチョウの葉の呪いよ」
 更なる別の声がし、海浬と男子生徒は振り返った。すると、そこには同じく秋滋野高校の制服を着た女子生徒が立っていた。
「お前、あんなん信じてるのかよ?」
「あら、侮れないのよ?……特に、負の感情が絡んだらしっかりと叶うと大評判よ」
 突如現れた女子生徒も、男子生徒同様に制服を着崩していた。
「遅れて登校したら、面白い話をしているのね」
「俺はこの学校の情報には詳しくないからな」
「まあ、そうよね。イチョウの葉のおまじないだって、知らないでしょう?」
「赤い葉だという、イチョウか」
 それは有名なのね、と女子生徒は呟いた。碇の渡してくれた資料に、今まで多くの研究者が訪れて謎を解明しようとしたと説明にあったから、この学校のイチョウがおかしい事が有名なのは、生徒たちも心得ているのだろう。
「イチョウの葉のおまじないまでは知らないのかしら?」
「お前、おまじないって……」
「あら、良く効くって噂なのよ」
 馬鹿にするかのような男子生徒の口調に、女子生徒はそう言って返す。海浬も小さく頷きながら「そうだな」と言う。
「まじないというのは、案外侮れないものだ。言葉となるからな」
 海浬の言葉に、女子生徒は「でしょう」と言い、男子生徒は「わからねぇ」と呟く。
「うちの学校の、イチョウの葉が薄紅色なのは知っているって言ってたわよね?それに願いを書いて、持ち歩くの。丁度、こんな風に」
 そう言いながら、女子生徒は一枚の葉を取りだす。そこに書かれているのは「彼氏が見つかりますように」である。
「お前、なんだよその願い事」
「何よ、いいじゃない。祈らないよりも祈った方がいいでしょう?」
「……負の感情を孕んだら良く効く、というのはどういう事だ?」
 海浬は女子生徒と男子生徒の話を割って入る。今はそんな戯言に付き合っている場合ではない。
「そのままの意味ね。……嫌な感情を持った願い事は、叶いやすいって事。別れちゃえとか、怪我してしまえとか」
「だから、呪いと言ったのか。……つまり、田中・香苗と迫下・祥子は呪いによって自殺したと?」
「じゃないの?それで、本当に死んだから怖くなったんじゃない?」
「ならば、迫下・祥子は少なくとも田中・香苗だけをターゲットにしたわけじゃないだろうな」
「え、何?じゃあ、俺らのクラス全員恨んたって事か?そういや、あいつ一度キレた時に『皆、いなくなってしまえば良いのに』とか言ってたもんな」
 男子生徒がびくりと体を震わせる。が、女子生徒は「良かった」と言ってけらけらと笑う。
「願った人間がいなくなったんだから、あたし達は大丈夫って事じゃない」
 海浬はぴくりと眉間に皺を寄せる。不愉快な会話である。が、女子生徒も男子生徒もそれに気付いていないようだった。
(愚かしい)
 海浬は小さく溜息をつく。
「本当に、迫下・祥子はイチョウの葉のまじないをしていたのか?」
「していたわよ。だって、私ちらっとだけど見たもの。あの人、イチョウの葉を持っていたわ」
「見間違えじゃないのか?」
「絶対、あれはイチョウの葉よ。田中さんが死んだ時だって、何かを握り締めて震えてたし」
「イチョウの葉を握り締めてたって?」
 男子生徒はそう言って小馬鹿にするように女子生徒を見たが、海浬は小さく頷いていた。もしもイチョウの木にそれだけのことをやってのける能力が本当にあるのならば、説明は一応つくのだと。
「最後に、イチョウの木がどこにあるかを教えてくれないか」
「イチョウの木なら……ほら、あそこよ」
 女子生徒の指差す先に、赤い木が見えた。紅葉の季節でもないのに。恐らく、そこに赤色の葉をしたイチョウの木があるのだろう。
 海浬は「色々どうも」と言ってから、その場を後にした。背中越しに女子生徒が「あの人、かっこよくない?」と言っていたが、あえて無視をする事にしたのだった。


●見

 広がる波紋は、だんだんと侵食していく。気付かぬうちに、人知れぬうちに。


 イチョウの木は、校庭の端にあった。先ほど女子生徒に見せて貰った薄紅色のイチョウの葉よりも、幾分か赤い葉が茂っている。
 まだ、イチョウの葉が色を変えるには早い。というよりも、赤いという色自体がおかしい。確かに、このイチョウを調べに幾人もの研究者達が訪れるであろう。珍しいとしか形容できない。
「これはまた……面妖な」
 海浬は呟き、じっと見つめた。ただ、イチョウの葉が赤いだけではない。木全体に赤黒い、負の気がねっとりと絡みついているのである。
(どれほどの負の願いを、この木は孕んで来たんだ?)
 考えると、キリが無い。様々なものを見てきた海浬ではあったが、これほどまでに負の気を孕んでいる木というのも珍しい。というよりも、このレヴェルまでに達していれば、とっくの昔に朽ち果てるか暴走しているか、はたまた邪悪な波動を溢れ出していても何ら不思議はないのである。
 それなのに、目の前にあるイチョウの木は、朽ち果てる事も暴走する事も邪悪な波動を出す事もなく、ただただ負の気をねっとりと絡ませつつ佇んでいる。
(このような事が、可能とは)
 逆に感心すらしてしまうほどである。凄い、の一言だ。
(俺でも、この気を扱えといわれると少し困るな)
 実際にやってみせろといわれれば、扱えぬほどではなかろう。それでもおおよその力を封じている、という事もあって、大分の力を消費せざるを得ない事は一目瞭然であった。
「何故、こうしてまだ立っていられる?」
 魔樹と成り果ててもおかしくはない状況で、まだ人間界に存在し得る木として存在するイチョウの木。それに、このイチョウの木以外にも流れ出していてもおかしくはない状況なのに、イチョウの木だけに留まっている負の気。どれもが不可解なことばかりである。
「……これならば、願いを叶えるだけの能力もあるだろうしな」
 海浬はぽつりと呟く。イチョウの木に絡みつく負の気は、そう思わせるのに充分なほどの力を持っているのである。
(イチョウの木自体を調べるしか、無さそうだ)
 海浬はじっとイチョウの木を見据えた。悠然と立っているイチョウの木は、常人には葉の色以外には特に不審な点はないように見えるだろう。だが、少しでも能力のある者ならば、すぐに異常に気付く事が出来る筈である。
 それでも、誰もこの木の異常性を言ってはいなかったのではないか。
「イチョウの葉のおまじない、か」
 人が二人自殺している状況下で、異常性を無視することは出来ない筈である。
 海浬は碇からもらった資料に、再び目を通す。だが、ここ近年でそのような報告や調査依頼があったということは見受けられない。このイチョウに注目しているのは研究者達だけであり、能力者は名乗り出ていないのである。
「ともかく、イチョウの木自体を知らねば」
 海浬はそっと目を閉じ、イチョウの木の幹に触れた。


 海浬はイチョウの木の中へと入り込む。実際に入っているわけではなく、イチョウの木の記憶へと入り込んでいったのである。
 いくら異常性の高い木であるとは言え、もとは苗木であり、種であった筈だ。どこから普通のイチョウと道を違えたか、辿っていけば必ず見えるはずである。
(これは)
 海浬は広がるイチョウの記憶の、はっと息を飲む。
 イチョウの葉は、最初は黄色の葉をつけていたのである。他のイチョウと何ら変わらぬ、極々ありふれたイチョウの木。
 だが、イチョウの木はだんだんと葉の色を変え始める。ちょうど、例の「おまじない」をする者が出てきた辺りからである。
(しかし……最初はなんと、綺麗な色だろうか)
 海浬は、おまじないに用いられているイチョウの葉を見て思う。初期のイチョウは、美しい黄金色にも似た色であったのである。おまじないを試みる、若い生徒達。どの者達もイチョウの葉に願いをしたため、大事そうにしまいこみ、懐に入れて去って行く。
 しかし、その色は曇り始める。黄金色から黄色へ、黄色から橙へ、橙から薄紅へ。その変わり目ともいえる場面には、必ずといっていい程、陰気な目をした生徒が一人か二人いたのであった。
(負の感情を孕んだ願いを、しているのか)
 海浬は妙に納得した。陰気な目に宿るのは、狂気である。狂気は負の気を呼び、負の気はイチョウの木に溜まる。
 負の願いが良く叶う、というのは、恐らく気のせいである。人間、誰しもいい思いよりも嫌な思いのほうが印象に強く残る。とても素晴らしく良い事よりもちょっとした悪い事の方が印象に残りやすい。それを受けて、今あるイチョウの木のおまじないも「負の感情を孕んだ方が叶えられやすい」というようになったのではないだろうか。
(全ては、自らが望んだ事なのだな)
 海浬は小さく頷く。
(……さて、どうするか)
 理由は分かったが、イチョウの木をどうするかについて迷う。
 自分が太陽神といえども、そこに存在する全ての物が自らの所有ではない。この世界の人も自然も、全ては意思を持った存在なのだ。イチョウの木をどうこうするつもりは、これっぽっちもないのである。
(あくまで、取材だからな)
 海浬はそう考え、イチョウの木の記憶から出ようとした。……と、その時だった。
「この力は、必ずや糧となろう」
(何だ?)
 イチョウの木の記憶に、不可解な声が響いてきたのである。まだそれは、イチョウの木が種であった時のものだ。
「必ずや、必ずや糧に」
(糧、だと?)
 イチョウの木の記憶を辿り、声の主を探す。種という時期である為か、曖昧な空間構成である。何度も記憶空間を固定しようと試み、そして漸く一瞬だけはっきりとした画像を海浬は映し出した。
「少女……」
 それは、虚ろな目をした少女であった。


●結

 積み重なる侵食に、どろどろと内側が溜まっていく。動けなくなる迄。


 イチョウの種を植える少女は、慈しむように土を叩く。ぽんぽんと赤子をあやす如く。
「お前の力は彼の力へと。彼の力は全て一つに」
(なんだ、この少女は)
 海浬は少女を観察する。が、何分古い記憶の映像な為、上手くは見えない。ざざざ、というノイズが混じってしまう。
 少女は立ち上がり、見えるはずの無い海浬を見つめた。そしてにっこりと微笑んだのである。相変わらずの虚ろな目をして。
「お前、は」
 はっと海浬が目を開けると、そこは目を閉じた時と同じイチョウの木の前であった。海浬は溜息を一つつき、そっと木の幹から手を離した。
「おおよその事は分かったが……あの少女は」
 恐らくは、あの少女から始まったのだ。だが、何分古い映像の為か、少女の正体がいまいち掴めない。実際に顔を見る事ができたのも一瞬だけだった。
(学校側で調べても……無駄だろうな)
 イチョウがまだ種だった頃の映像に、この学校は出てこなかった。どこまでも広がる平地の中で、種は植えられたのだから。
「イチョウの赤い葉の理由が分かっただけでも、良しとするしかないのだろうな」
 海浬はぽつりと呟く。負の感情をそのまま木に絡めて留めている為に、イチョウの葉は赤く染まる。ただそれだけえも分かったというのは、取材としては申し分ないのかもしれない。
 イチョウは、負の感情を孕んだものだけを叶えているわけではないのに、印象が強い為にその噂が立ったという、それだけなのである。
「……手助けは、必要か?」
 海浬はイチョウの木に問い掛ける。だが、イチョウの木からは何の意志も感じられなかった。ただそこにあるだけ、受け入れるだけ。受け入れるだけで、拒む事はしない。受容しているだけなのである。
「まるで、器だ」
 ぽつりと、海浬は呟く。負の感情を受け取る受け皿のように、受容するだけのイチョウの木。それがまた薄紅の色を濃くしていき、また負の感情を孕んだ願いが成される。まるで終わりの見えぬ、メビウスの輪だ。
 海浬はちらりとあの少女の顔が思い浮かんだが、軽く頭を振った。あの少女の招待は、どうせ今の時点では知りえるだけの情報が足りないのだ。ならば、今分かっている事だけを整理すればいいだけの話だ。
 くるりと踵を返しかけ、海浬はふと振り返った。すると、燃えるような赤のイチョウの葉がひらひらと海浬の手元に舞い降りてきた。
 その葉にも、負の気がほんのりと染み込んでいた。また少し、赤くなっているような気がした。
「また誰かが、願ったのか」
 海浬はイチョウの葉をポケットに入れ、振り返る事なくイチョウの木に背を向けて歩いた。ひらひらと赤き葉を震わせる、イチョウの木を背中に感じながら。


 再びアトラス編集部に訪れると、編集部は閑散としていた。あの三下でさえも珍しく帰ってしまったのだとか。
「全く、私だけが取り残されているみたいで堪らないわよね」
 碇はそう言いながら、海浬に珈琲の入ったカップを手渡す。海浬は「そうだな」と答えながら、カップを受け取る。
「それで、結局自殺の原因はイチョウの木でいいのかしら?」
「恐らくは。そう思わせざるを得ない、と言った方が正しいだろう」
 海浬はそう言いながら、ポケットから一枚の葉を取り出した。赤い色のイチョウの葉である。
「それがイチョウの葉?……薄気味悪いわね」
「だろうな。……だが、秋滋野高校の生徒達にとっては、これがおまじないの道具となっている」
 あの学校に何人いるのかは知らない。だが、少なくとも半数以上はおまじないを行使しているのだろう。面白半分に、興味本位で、憂さ晴らしに。実際におまじないをしないであろう男子生徒まで知っているような、そんな噂なのだから。
「怖いわね」
 碇はそう言い、イチョウの葉から目を離して珈琲をこくりと飲んだ。海浬は小さく頷き、珈琲を口にする。
 赤い色のイチョウの葉を見ながら口にした珈琲は、長い間アトラス編集部に放置されていたのか、妙に苦かった。
(……イチョウの葉、か)
 口の奥に残る苦味に、海浬は小さく溜息をつくのであった。

<一片の葉を見つめつつ・終>

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【 4345 / 蒼王・海浬 / 男 / 25 / マネージャー 来訪者 】

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■         ライター通信          ■
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 お待たせしました、コニチハ。霜月玲守です。この度はゲームノベル「蝶の慟哭〜一片の葉〜」にご参加いただき、有難う御座いました。
 初めてのご依頼、有難う御座います。淡々としながら事を進めるといったように描写させて頂きましたが、如何だったでしょうか。
 このゲームノベル「蝶の慟哭」は全三話となっており、今回は第一話となっております。
 一話完結にはなっておりますが、同じPCさんで続きを参加された場合は今回の結果が反映する事になります。
 ご意見・ご感想等、心よりお待ちしております。それではまたお会いできるその時迄。