■とまるべき宿をば月にあくがれて■
エム・リー |
【0187】【高遠・紗弓】【カメラマン】 |
薄闇と夜の静寂。道すがら擦れ違うのは身形の定まらぬ夜行の姿。
気付けば其処は見知った現世東京の地ではない、まるで見知らぬ大路の上でした。
薄闇をぼうやりと照らす灯を元に、貴方はこの見知らぬ大路を進みます。
擦れ違う妖共は、其の何れもが気の善い者達ばかり。
彼等が陽気に口ずさむ都都逸が、この見知らぬ大路に迷いこんだ貴方の心をさわりと撫でて宥めます。
路の脇に見える家屋を横目に歩み進めば、大路はやがて大きな辻へと繋がります。
大路は、其の辻を中央に挟み、合わせて四つ。一つは今しがた貴方が佇んでいた大路であり、振り向けば、路の果てに架かる橋の姿が目に映るでしょう。残る三つの大路の其々も、果てまで進めば橋が姿を現すのです。
さて、貴方が先程横目に見遣ってきた家屋。その一棟の内、殊更鄙びたものが在ったのをご記憶でしょうか。どうにかすれば呆気なく吹き飛んでしまいそうな、半壊した家屋です。その棟は、実はこの四つ辻に在る唯一の茶屋なのです。
その前に立ち、聞き耳を寄せれば、確かに洩れ聞こえてくるでしょう。茶屋に寄った妖怪共の噺し声やら笑い声が。
この茶屋の主は、名を侘助と名乗るでしょう。
一見何ともさえないこの男は、実は人間と妖怪の合いの子であり、この四つ辻全体を守る者でもあるのです。そして何より、現世との自由な往来を可能とする存在です。
彼が何者であるのか。何故彼はこの四つ辻に居るのか。
そういった疑念をも、彼はのらりくらりと笑って交わすでしょう。
侘助が何者であり、果たして何を思うのか。其れは、何れ彼自身の口から語られるかもしれません。
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かげしげき木のした闇のくらき夜に
からり、ころり からり、ころり
視界を塞いでしまう程ではない薄闇が、時折思い出したように灯を宿し、一つ二つと陰を落とす。
道すがら擦れ違うのは、背丈も身形も定まらない夜行。見れば夜行の主は垢舐め、後追い小僧、朧車。から傘、百々目鬼、人狐。何れも人ならぬ妖ばかり。
高遠紗弓は、安穏とした笑みと共に頭を下げて通る夜行に会釈を返しつつ、つ、と、周りを見渡した。
まるで見た事のない場所だ。
薄闇の内に在るのは大路を結ぶ四つ辻。路脇には茅葺の屋根がこじんまりと佇んでいる。窓らしい部分にはガラスではなく、代わりに戸板が立て掛けてある。
紗弓は大路の一つの上にあり、100メートルほど離れた位置にある辻を、しばし思案気味に見遣っていた。
辻の其々向こうには、どうやら木造らしき橋の姿が見うけられる。その向こうの景色は、――――それはどうにも、幾ら眼を凝らしても、確かめる事は出来なかった。
大路の向こう、闇の内へと消え往く夜行のものであろうか。
からり、ころり からり、ころり
下駄の音が幾つも響き、愉悦気に唄う声が紗弓の耳をさわりと撫でた。
楽はァ苦の種ェ 苦はァ楽の種ェ 二人ィしてェする人のォ種
さわさわと唄う声が夜風を残し、薄闇の内へと融け消える。
「お前ェ死んでも寺へはやらぬゥ 焼いてェ粉にして酒でェ飲むゥ」
夜行の唄が消え入ると、替りにとばかり、女の声が闇を揺らす。
僅か驚悸し振り向けば、何時の間にか、艶やかな姿体の女が一人立っていた。
華やかな花柄の打ち掛けに、赤い長襦袢。帯は前で結び、結い上げた黒髪には鈴のついた櫛が一本揺れている。
「――――花魁?」
呟けば、女は目尻を緩めて微笑を浮かべ、ぺこりと小首を傾げて見せた。
「ぬし様とは初めての御目文字でありんすね」
発せられた声色は、鈴が鳴る音に似ていた。
「……あなたは?」
訊ねると、女は手にしていた扇子を少しばかり広げて口許を覆い隠し、眼差しだけを細めて笑みを滲ませる。
「ホ、ホ。無粋な方でありんすねぇ。相手に何事か訊ねる時は、己から名乗り出るが道理というものでありんしょう」
女は一頻りそう笑ってみせた後、広げていた扇子をぱちりととじて紗弓の顔を見上げ、黙した。
「ふむ、確かに。これは失礼。私は高遠紗弓。此方へは、どうして足を踏み入れたのか判らない。見たところ、少なくとも東京ではないようだが」
返すと、女は満足そうに頬を緩め、片手を持ち上げて櫛の鈴に指を這わせ、睫毛を伏せた。
「どうにも、櫛を一つ無くしてしまいんした」
「櫛?」
女が名乗りを返そうとはせず不意にそう告げたのに、紗弓はふと眉根を寄せて女を見遣る。すると、女は艶然とした笑みを浮かべて紗弓の目を覗きこみ、
「愛らしい、鼈甲細工の櫛でありんす。此方の大路の何処かで落としてしまいんしたようなんでありんすが、わっちにはどうにも見つける事が出来んせんでありんした」
「大路の何処かに?」
訊ね返し、紗弓はついと大路に視線を寄せた。
視界に入るのはやはり一面に広がる薄闇。更に、大路の道幅は20メートル程は有るだろうかと見受けられる。その大路が合わせて四つ。
「……確かに、見つけるのは容易ではないだろうな」
眉根を寄せて思案顔をしてみせた紗弓の赤い双眸を覗き込んで艶やかな笑みを浮かべると、女はついと両手を合わせて首を傾げ、
「わっちの代わりに見つけてきてはくれんせんか?」
「……?」
不躾とも云える女の言葉に、紗弓はちらと女を一瞥する。
「ぬし様がこ此方の場所に来んしたのも、なにかの縁だと思いんす。此方は僅かばかり変わった場所でありんすが、ぬし様の心を慰めるだけのものもあるでありんしょう」
ふうわりと微笑みながらそう述べて、女はついと袖を揺らした。
「わっちの名は立藤。此方で待っていんすので、宜しゅうお願いしんす」
立藤に送られて大路を進む。
四つの大路が重なっている場所――辻に行き当たって足を止め、路の脇に目を送る。其処に、古びた一軒の家屋の姿があった。
家屋は、強風が吹けば――或いは地震等が来れば間違いなく崩壊してしまうであろうと思われる見目をしているが、窺う限り、どうやら中には人か何かが居るらしい。ぼうやりと灯った火がちらちらと影を揺らし、時折話し声のようなものも洩れ聞こえる。
紗弓はその灯を横目に送り、辻を越えて大路の一つへと足を踏み入れた。
途中、夜行と擦れ違い、愉しげに歌う都都逸に目を細ませて、そうして初めて、紗弓はふと足を止める。
――――そういえば、私は何故この大路を選択したのだろうか。
――――いや、そもそも。この場所は果たして何なのであろうか。
ビル群もなく、車の通りもなく、それどころか忙しげに過ぎる人々の群も見当たらない。
薄闇の中、何の前触れもなく姿を見せる小さな家屋は、その何れもが古びた日本家屋。瓦屋根に、ひょろりと伸びた枝が庭先を飾っている。
通り過ぎるのは夜行。しかしそれもおどろおどろしいものではなく、むしろ気の良さげな妖怪達ばかり。中には酷く気さくに挨拶なぞしてくるものもいる。
見上げる天には月も星もない。墨汁を引っくり返したような黒い空だ。
しばしの間思案していたが、程なく再び足を進め、大路の向こうに見える橋を目指し、歩く。
――――否。これはもしや現ではなく夢であるやもしれぬのだ。ならば、今はこの場を楽しむのも悪くはない。
足の向くままに。只、身を任せてみるのも良かろう。
擦れ違った夜行の声は随分と離れ、小さくなった。薄闇はしっとりとした感触で紗弓を包み、さわさわと流れる夜風が、艶やかな黒髪を梳いて流れていく。
橋の姿が幾分か近くに見え始めた。見れば橋の傍近く、真白な百合が風に揺らぎつつ芳香を散らしている。
「百合……? 山百合か」
ふわりと舞う芳香に引き寄せられるように進み、その花に手を添えて膝を屈む。手を添えれば、花はまるで頭をもたげるかのように、闇を照らすほのかな灯火のように純白を揺らした。
風が凪いだ。
何処からか、小さな鈴の音に似た音がした。
「立藤さん?」
立ち上がって振り向くが、そこにはしっとりと広がる闇の姿が在るばかり。
不審に思い、再び耳をすませる。――――確かに、鈴の音に似た音がする。
さわり。凪いでいた風が一陣吹いて、紗弓の頬を撫ぜて過ぎた。
「 」
ふ、と。名を呼ばれたように思い、紗弓は橋の方に身体を向けた。
真白な百合がさわりと揺らぐ。
その百合に照らされているかのように、橋の上で人影がひとつ、静かに揺れた。
「――――母様……?」
半歩程踏み出して、橋の手すりに指をかける。しかし、どうしてもそれより前には進めない。
人影は灯りもないのにぼうやりと照らし出され、その全容こそ判然とはしないが、僅かに見えるその面立ちは、確かに懐かしい母のそれに似ていた。
「……母様」
呟くと、人影は――人影の口許が、柔らかな微笑を滲ませた。
「母様……!」
気付けば、紗弓は必死にその人影へと問いかけていた。
否、問いかけようとしていた。
しかし、何故か言葉は声を成そうとはしなかった。
――――母様、私は正しいのだろうか
幾分か強い風が吹き、紗弓の髪を大きく揺らした。思わず目を閉じ、再び開いた時には、もう既に人影は失せていた。
それでもしばしの間、橋の周囲に目を凝らして人影の揺れているのを捜してはみたが、やはり何処にもそれは見出せそうにない。
紗弓は小さな溜め息を洩らし、そして思い出したように、百合の花へと視線を投げた。
「……?」
見れば花の根元、葉に隠れるようにして、滑らかな光沢が顔を覗かせている。手を伸ばしてみれば、それは鼈甲で作られた可愛らしい櫛だった。
「ああ、助かりんした。ありがとうございんす」
紗弓の手の中の櫛を見遣り、立藤は嬉しそうに目を細めた。
「橋の傍の百合が隠していたようだ」
「そうでありんすか。それは見つかりんせんはずでありんすね」
手渡した櫛を髪に飾りながら、立藤は小さく笑って首を傾げる。
「辻の散策は楽しめんしたかぇ?」
「……そうだな」
答え、ふと口を噤む。
口を閉ざした紗弓を見遣り、立藤は只艶然と笑んでいるばかり。
チリン。立藤の櫛の鈴が小さな音を響かせて、しっとりと広がっている闇がふわりと揺れた。
遠く、夜行が唄う都都逸が聞こえる。
「中々面白い場所であるようだ。……懐かしい人影とも邂逅出来た」
「そうでありんすか」
紗弓の言葉に、立藤は一言だけそう返し、ついと足を進めて紗弓に背を向けた。
楽はァ苦の種ェ 苦はァ楽の種ェ 二人ィしてェする人のォ種ェ
さわりさわりと夜風が揺れる。
鼻をくすぐるのは山百合の甘い芳香。
しっとりと広がる薄闇は静謐。遠く近く寄せる波のように、歌声ばかりが空気を揺らす。
「また何時でも来てくんなまし。お待ちしておりんす」
不意に振り向いた立藤が、ふわりと柔らかな微笑みを見せた。
紗弓は肩を竦めて小さく笑い、彼女の去っていくのを見送った。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0187 / 高遠・紗弓 / 女性 / 19歳 / カメラマン】
NPC:立藤
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■ ライター通信 ■
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はじめまして! この度はご参加くださいまして、まことにありがとうございました。
しっとりとした和の空気を楽しんでいただければと思いつつ書かせていただきましたが、
果たしてお楽しみいただけたかどうか、心配でもあります。
書いている側としてはとても楽しく書かせていただけたので、
紗弓様にも少しでもお楽しみいただけていれば、と思います。
それでは、今回はこの辺で。
また機会がありましたら、お声などいただければと思います。
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