コミュニティトップへ



■蝶の慟哭〜一片の葉〜■

霜月玲守
【2726】【丘星・斗子】【大学生/能楽師小鼓方の卵】
 秋滋野高校という、極々ありふれた高校がぽつりと郊外にある。校則は厳しくなく、それでもある程度の節度を持っている。至極普通の高校である。
 その校内に、大きなイチョウの木が立っていた。樹齢はゆうに百を越すであろうか。どっしりとした木の幹が、歴史を感じさせるかのようだ。
 驚くべき事は、その長いであろう樹齢や、大きなその風格だけではない。通常黄色い葉を散らす筈なのに、そのイチョウの木は薄紅色の葉を散らすのだ。様々な科学者や生物学者が何人もイチョウの木を訪れ、調べ、研究を続けているが、未だに答えは出ていない。遺伝子の事故が起こったのかも知れない、という科学者がいたものの、それが本当であるかどうかはまだ証明されていない。
 そんな不思議なイチョウの木は、いつしか秋滋野高校の生徒達にとって、おまじないの対象となっていった。
 やり方は至極簡単で、薄紅色のイチョウの葉に、願いを書いて持ち歩くと言う事だけだ。勿論、既存のおまじないのように誰にも見られてはならない、という規約は存在している。
 そしていつしか、そのおまじないに関して特異の現象が起こり始めた。
 願い事の中でも、負の感情を孕んだものが特に叶えられていると言うのだ。
 そうした中、秋滋野高校の女生徒が一人、イチョウの葉を握り締め震えていた。
「私が……私が……」
 迫下・祥子(さこした しょうこ)は何度も呟き、薄紅色のイチョウの葉をぎゅっと握り締めたまま、震え続けていた。
 握り締めている葉には『クラスの皆、いなくなればいい』と書いてある。そして見つめる先にあるパソコンのディスプレイ画面には、一つの記事が表示されている。
『高校生、屋上から飛び降りる』
「私のせい……私のせいなの?」
 ガタガタと震えながら、祥子は呟く。これは単なる偶然なのだろうか?ただの憂さ晴らしでやっただけなのに、現実味を帯びてしまうなんて。
 祥子はふらりと立ち上がり、机の中に入っている小刀をそっと取り出す。ガタガタと震えながら、握り締めていたイチョウの葉を切り刻み始めた。が、一つの傷も入らない。何度も何度も打ち付けるが、傷は全くつかないのだ。
「どうして……どうしてぇ?」
 次第に祥子は叫び始めていた。小刀を握り締め、何度も打ち付ける。何度も、何度も。そうしていつしか、小刀は祥子の左手を何度も打ち付け始めていた。
 不思議と痛みは感じなかった。ただ、赤い血がだらだらと流れ続けた。赤く熱い、生命の証。それがだらだらと祥子の左手から流れる。でも、痛くない。
「……あはは……ははは……!」
 祥子は笑い、打ち付け続けた。何度も、何度も。


 次の日の新聞には『高校生、謎の自殺』の記事が載ったのであった。
蝶の慟哭〜一片の葉〜


●序

 願いを叶える為に、何かを犠牲にしなければならない。


 秋滋野高校という、極々ありふれた高校がぽつりと郊外にある。校則は厳しくなく、それでもある程度の節度を持っている。至極普通の高校である。
 その校内に、大きなイチョウの木が立っていた。樹齢はゆうに百を越すであろうか。どっしりとした木の幹が、歴史を感じさせるかのようだ。
 驚くべき事は、その長いであろう樹齢や、大きなその風格だけではない。通常黄色い葉を散らす筈なのに、そのイチョウの木は薄紅色の葉を散らすのだ。様々な科学者や生物学者が何人もイチョウの木を訪れ、調べ、研究を続けているが、未だに答えは出ていない。遺伝子の事故が起こったのかも知れない、という科学者がいたものの、それが本当であるかどうかはまだ証明されていない。
 そんな不思議なイチョウの木は、いつしか秋滋野高校の生徒達にとって、おまじないの対象となっていった。
 やり方は至極簡単で、薄紅色のイチョウの葉に、願いを書いて持ち歩くと言う事だけだ。勿論、既存のおまじないのように誰にも見られてはならない、という規約は存在している。
 そしていつしか、そのおまじないに関して特異の現象が起こり始めた。
 願い事の中でも、負の感情を孕んだものが特に叶えられていると言うのだ。
 そうした中、秋滋野高校の女生徒が一人、イチョウの葉を握り締め震えていた。
「私が……私が……」
 迫下・祥子(さこした しょうこ)は何度も呟き、薄紅色のイチョウの葉をぎゅっと握り締めたまま、震え続けていた。
 握り締めている葉には『クラスの皆、いなくなればいい』と書いてある。そして見つめる先にあるパソコンのディスプレイ画面には、一つの記事が表示されている。
『高校生、屋上から飛び降りる』
「私のせい……私のせいなの?」
 ガタガタと震えながら、祥子は呟く。これは単なる偶然なのだろうか?ただの憂さ晴らしでやっただけなのに、現実味を帯びてしまうなんて。
 祥子はふらりと立ち上がり、机の中に入っている小刀をそっと取り出す。ガタガタと震えながら、握り締めていたイチョウの葉を切り刻み始めた。が、一つの傷も入らない。何度も何度も打ち付けるが、傷は全くつかないのだ。
「どうして……どうしてぇ?」
 次第に祥子は叫び始めていた。小刀を握り締め、何度も打ち付ける。何度も、何度も。そうしていつしか、小刀は祥子の左手を何度も打ち付け始めていた。
 不思議と痛みは感じなかった。ただ、赤い血がだらだらと流れ続けた。赤く熱い、生命の証。それがだらだらと祥子の左手から流れる。でも、痛くない。
「……あはは……ははは……!」
 祥子は笑い、打ち付け続けた。何度も、何度も。


 次の日の新聞には『高校生、謎の自殺』の記事が載ったのであった。


●始

 確実な始まりというものは存在する事はなく、ただ漠然としているものである。


 テレビのニュースというものは、毎日様々な出来事を伝えている。良いものもあれば、悪いものもある。
「……また、事件……」
 丘星・斗子(おかぼし とうこ)は、テレビを見てぽつりと呟いた。頭の中では、良いニュースも悪いニュースも当然のようにある、と言う事は分かっていた。それでも、悪いニュースと言うものは聞くたびに胸が痛む。
 特に、人の死が関わるものは。
 斗子は自らが着ている黒い服を見、小さく溜息をつく。既に黒の服は、斗子の日常に溶け込みつつあった。両親の喪に服する為の、黒い服が。
『……昨日、秋滋野高校に通う女生徒が自殺しました。学校側では苛め等の問題が無かったかどうかを確認中です』
「自殺……」
(何て、悲しい事を)
 斗子は目を伏せる。どういう理由であっても、自らの命を絶つという事は愚かな行為でしかない。
 テレビが次のニュースに移った時、不意に電話が鳴った。斗子は送信相手を見、はっとして電話を取った。
「もしもし、丘星です」
「斗子さん?私、碇よ」
 電話の相手は、月刊アトラス編集部の碇・麗香であった。以前、取材の手伝いをした事があるのだ。
「前はどうも有難うね」
「いえ」
「早速だけど……お願いしたい事があるの」
 碇の言葉に、斗子は「分かりました」と答えた。その返事に碇は電話の向こうで頷き、後で編集部に来てくれるように頼んできたのであった。


 アトラス編集部に行くと、相変わらず慌しく人々が動き回っていた。斗子は碇を探し、きょろきょろと辺りを見回す。
「斗子さん、こっちよ」
「あ、はい」
 碇が招く応接用のソファの所まで行き、そっと腰掛けた。
「早速だけど……秋滋野高校って知っているかしら?」
 碇に言われ、斗子は「あ」と声を上げた。朝見たニュースで聞いた高校名であったからだ。
「朝、ニュースで報道を」
「されていたわね。でも、ニュースが伝えている事はほんの一部にしか過ぎないのよ」
 碇の言葉に、斗子は体を強張らせる。
「自殺ではない、と言う事ですか?」
 ならば、と斗子は思う。
(もしそうなら、酷い事を)
 ぎゅっと斗子は手を握り締め、碇の言葉を待った。碇は「難しいわね」と言いながら、言葉を続けた。
「自殺という状況ではあるの。でも、自殺という割には不可思議な点が多いのよ」
 碇はそう言い、資料を出して斗子の前に並べた。そこには自殺したと報じられている秋滋野高校の生徒、迫下・祥子の写真もあった。碇はぱらぱらと資料を捲り、一枚を斗子のすぐ目の前に置いた。そこには、祥子が発見された時の状況が詳細に書かれていた。
 斗子はその資料を手に取り、じっと見つめてから目を鋭くさせた。
「……何故、手の甲なんですか?」
「それなのよ。警察でも、その点は不思議がっていたそうよ。なんでも、それだけの出血を伴う傷を手の甲につけているにも関わらず、彼女には躊躇うような傷はなかったというの。痛みを感じているならば、絶対にあるであろう傷が」
「麻酔でもしていたんでしょうか?」
「いいえ。彼女の体からは、麻酔や睡眠薬と言った類は何も発見されなかったそうよ」
 碇の言葉に、斗子はじっと資料を見つめる。部屋に一人ぼっちで、小刀を左の手の甲に打ち続けた少女。躊躇う事もなく、痛みを感じる素振りも見せず。
「何か、遺書のようなものは発見されたんですか?あと、動機だとか」
「どちらも、見つかっていないわ。あえて言うなら……そうね、彼女がこうなってしまう一週間前に、屋上から飛び降り自殺を図ったクラスメイトがいるのよ」
「一週間前……ああ、そう言えばニュースで見た気がします」
 いい感情を得なかった為、斗子は覚えていた。どうして命を絶つのだろうかと、深い疑念に囚われてしまって仕方がなかったからだ。
「まさか、あれも何か不可思議な点があるんですか?」
「……動機が全く分かっていないのよ」
 碇はそう言うと、また別の資料をパラパラと捲って、一枚を斗子に手渡す。斗子はそれを受け取り、ざっと目を通す。確かに、迫下・祥子と同じクラスの少女であった。名は、田中・香苗(たなか かなえ)。
「高校に、何か問題があるというわけじゃないんですか?」
「問題、といっていいのかは分からないけど……」
 碇はそう言いながら、すっと何かを取り出した。ビニール袋に入っているそれは、イチョウの葉であった。それも、通常のような黄色でも緑でもない。
 薄紅色なのだ。
「……これは」
「イチョウの葉よ、見ての通り。だけど、秋滋野高校にあるイチョウの葉は、そんな風に薄紅色をしているのよ」
 斗子はイチョウの葉をじっと見つめる。
「何でそんな色なのかは、たくさんの研究者が調べているけど分からないそうよ」
「そうですか……」
 碇は「そうそう」といい、悪戯っぽく笑う。
「その葉を使ったおまじないもあるそうよ」
「おまじない、ですか」
「そう。……そのイチョウの葉に、願い事を書いて持っておくそうよ。それだけならば良くあるおまじないでしょう?」
 碇の言葉に、斗子は頷く。神秘性の高い物は、しばしばおまじないの道具にされる。丸くて綺麗な石だとか、四葉のクローバーだとか。
「ここからがこのイチョウの葉を使ったおまじないの特徴なんだけどね。このおまじないが良く効くのは、負の感情を孕んだものだそうよ」
「負の感情」
 斗子は確認するように呟く。碇は「そうよ」といいながら並べられた資料の一枚を取り出す。
「怪我をすれば良いのにとか、別れてしまえば良いのにだとか……そういうのが叶いやすいと言われているみたいね」
「それは……哀しいことですね」
 斗子は溜息をつきながらそう言い、気を取り直すように目の前に並べられている資料を手にとる。
 負の感情を孕んだ願い、という言葉が妙に頭に残る。
 それをおしつつも、ざっと資料に一通り目を通した。碇の出した資料には、高校の略歴や土地に伝わっている簡単な話なども入っていた。
「どうかしら。調べてみてくれない?」
 碇の言葉に、斗子は真っ直ぐに碇を見つめて頷いた。目には、強い意志を秘めているのだった。


●動

 流れるままに時は過ぎ、いつしか満ちていく。


 斗子は秋滋野高校前に立っていた。校門の前に立ち、じっと学校全体を見回す。
「ここが、秋滋野高校」
 二つの命が消えた、高校。もしもそれが自殺などではなく他意があったとしたならば。
(見逃せない)
 斗子は資料を握り締め、ぐっと奥歯を噛み締めつつ校門をくぐった。
 碇の調べた資料によると、秋滋野高校はそれなりに歴史のある高校のようであった。水と緑の豊かな土地で、子どもの教育をより豊かなものにする為に創立。特に目立った事件もなく、今日に至っていた。
 あえて言うならば、近年一本のイチョウの木が赤くなり始めた事であった。今はまだ薄紅色だが、将来的には真っ赤になるのではないかという勢いで赤くなっている。
 土地に関して言えば、神が降り立つ山として高校の裏にある山、秋滋野山は奉られていたらしい。
 碇の資料の中に、秋滋野山に伝わっている説話の一節が載っていた。
『……その山、神降り給ふ山なり。花、咲き乱れて満開になりぬ。季節が巡りしとも、色は褪せず。人々、その色に酔いしれし。神の御声を花に書きとめ、皆こぞりて神を呼びぬ……』
「神が降り立つ山」
 ぽつり、と斗子は呟く。確かに目の前に聳え立つ山は、緑が多く残っているので神秘性を感じる事ができる。だが、神が降り立つような浄化された空気はそこにはなかった。何処にでもある、一般的な山。特に清浄な訳でも、穢れている訳でもない。至極普通の山なのだ。そこそこに清浄であり、そこそこに穢れている。
(それとも、何かあれば降り立つのではと思えるようになるのかしら?)
 斗子は資料と山を見比べつつ思い、ゆっくりと辺りを見回した。
 問題のイチョウの木は、碇の資料によれば校舎裏にあるのだという。斗子はぐるりと見回し、校舎の裏へと向かって歩き始めた。
「樹は、地に根を張るもの」
 校舎裏に向かいながら、ぽつり、と斗子は呟く。
「異変があるのならば、その土に問題があるんじゃないかしら」
 斗子はそう言いながら前を見、はっと息を呑んだ。思わず足も止めてしまった。薄紅色が目に飛び込んできたのだ。
(薄紅色とは、桜色)
 例えば、ひらひらと舞い散る桜の花弁のような。
(もしくは……血色)
 桜の木の下には死体が埋まっていると、言われている所以ともいえる色。妙に美しいその色の葉は、確かにイチョウの形をしていた。
 斗子はイチョウをじっと見、魅入られたかのように目を逸らさなかった。
(屍体)
 ふっと、頭に浮かんできた。薄紅色が、余りにも死体を想起させるものだから。まるで、梶井基次郎だ。
 斗子はぐっと奥歯を噛み締め、再び歩き始めた。
「……まるで、花」
 斗子は呟き、何かに気付いて歩きながら碇からもらった資料を取り出す。そして、一枚の資料を取り出してじっと見つめた。
「咲き乱れて満開になりぬ。季節が巡りしとも、色は褪せず」
 一節を読み、斗子はイチョウを見上げる。目に飛び込んでくる、薄紅色。
(昔は、花といえば桜の事だった。ならば、きっとここにかかれているのも桜の花だろうと思っていたけど)
 季節が巡っても色褪せない桜の花。つまりは、ずっと薄紅色を保っていたと言う事だ。まるで、目の前にあるイチョウの木のように。
「……神が、降り立つというの?」
 斗子は小さく呟き、足早に歩く。一刻も早く、イチョウの木を見たくなっていた。それは単なる興味ではなく、表現できぬ不安に駆られたからだ。
(嫌な予感がする)
 そう思うたびに、斗子の足は早まっていきいき、ついには駆け足となっていた。急がなければならないような気がした。イチョウの木が逃げていくわけはないだろうと、頭の中では分かっているというのに。
「……本当に、薄紅色」
 ぽつり、と斗子は目の前の情景を見て呟く。薄紅色の葉を風に揺らしながら、イチョウの木が悠然と立っている。奇妙な光景である筈のそれは、何故だかとても美しく、また満開の桜の花を思わせた。
 むしろ、花ではないかと思わせられる。美しく咲き誇る、桜の花のように。
 斗子はぎゅっと拳を握り、軽く頭を振った。今は、この美しいイチョウの木に見入っている場合ではないのだ。
「……教えて」
 斗子はそう囁くと、ゆっくりと手を木の幹に向かって伸ばした。幼子の頭を、優しく撫でるかのように。


●見

 誰も気付かぬその状態に、初めて気付くのは何時の日か。


 斗子は木の幹に手を当て、意識を集中させる。そうする事によって、木にある残留思念を探る事が出来るのである。
「あなたをこんな木にしたのは、誰?」
 斗子の問い掛けに答えるかのように、木は残留思念を斗子に与えていく。
 最初に入ってきたのは『クラスの皆、いなくなればいい』という思いだった。極度の被害妄想から、自分がクラス全体から嫌われていると思い込んでいる女の子の願いだった。思い込みによって生み出された毎日が苦しくて辛くてたまらなかったから、戯れに願ってみたようだった。だが戯れに願ってみた、という思いの裏には、どろりとしたどす黒い感情が渦巻いていた。
(……でも、これではないわ)
 斗子は眉間に皺を寄せつつ、その思念を払いのける。
 次に入ってきたのは『別れてしまえ』という思いだった。友達の彼氏を好きになってしまった女の子の願いだった。表面では幸せで良いねと祝福しつつも、その裏にはじくじくとする痛みを伴う思いで溢れていた。こんなもので叶う筈が無い、と思いつつも、淡い期待を抱いていた。
(これでもない)
 その次に入ってきたのは『俺以外の奴らに決定的な欠陥を』という思いだった。家族にないがしろにされてきた男の子の願いだった。お前は駄目だから、という言葉を何度も何度も言われてきた彼は、ならば自分よりも皆が劣っていれば自分が優位に立てるのだと思ったのだ。友人に対してにこやかに笑う顔の裏に、友人達を嘲る笑みを浮かべている。
(これでもないわ)
 斗子は次々に押し寄せる負の感情に、思わず溜息をつく。
 嫉妬、欺瞞、恐怖、絶望……。イチョウの木の残留思念には、そういった負の感情がぐるりぐるりと渦巻いているのだ。目を背けたくなるほど。
『……力を』
 突如、今までと全く異なる強い思念を捕らえ、斗子ははっとした。
『力を、集める』
(力を集める?)
 そこにあるのは、今までのような黒いどろどろとした感情ではなかった。良く言えば純粋な、悪く言えば空虚な。
 そうだというのに、今まで聞いてきたどの残留思念よりも強かった。
『力を集め、目的を為す。その為に力を、力を……』
 斗子はそっと木の幹から手を離した。ざわ、と風が拭いてイチョウの葉を揺らす。
 薄紅色のイチョウの葉を。
「……あれは一体、誰なの?」
 斗子は木に向かって尋ねる。木はその問いに答えない。ただ悠然とそこ立ち尽くしているだけだ。
「これ以上、死を喚ぶのはやめてほしいの」
 ぽつり、と斗子は呟く。
「死は奪っていくだけ。全てを奪い去っていくだけなの」
 斗子の頭に、嫌な映像が一瞬だけ流れる。もう二度と体験したくない、恐ろしい経験。そのような経験を、この木によって起こさせたくないのだ。
「どうして力なんて……」
 斗子は「必要なの?」と言いかけ、何かに気付いて口を噤む。
「……神の御声を花に書きとめ、皆こぞりて神を呼びぬ」
 碇から貰った資料にあった、説話の一節。神の御声を花に書くという行為は、碇が言っていたイチョウの葉に願いを書きとめるというおまじないに酷似してはないだろうか。
「自分というものが表に出ているものだとしたら、裏にいるのは自分ではないと言う事よね」
 つまりは、裏は自分ではなく神となる。
 思っていても言えぬ言葉を、考えていても口に出せぬ感情を、神が代わりに語ってくれるのだとすれば。それこそが「神の御声」となりうるのではないか。
「皆こぞって神を呼んだわ。……神を」
 そしてその行為が神を呼ぶ、という行為になるのならば。神というものは死となるのではないだろうか。
「……神とは、死の事なの?」
 ぞくり、と背筋を震わせて斗子は木を見上げる。美しいとまで思った薄紅色が、今は恐ろしいように感じられた。
 その時だった。斗子は突如気配を感じ、振り返った。すると、そこには少女がぽつりと立っていた。黒の髪に赤の目、着ているものは落ち着いた黄金色の着物。
「神とは、神」
 少女はそう言い、じっと斗子を見つめた。斗子を見つめる少女の目は、全てを映さぬのではないか、と思わせられるほど虚ろだった。
「じゃあ、あなたが神?」
 斗子が尋ねると、少女はゆっくりと頭を振った。
「神はまだ降りてこぬ。降りてこられる為に、力が要るのだ」
「力って、負の感情のこと?」
 斗子の問いに、少女は蔑むような笑みを浮かべた。
「人間の感情がそれを選んだだけであり、最初は同等だったのだ」
「どういう事?」
「負の感情を願ったのは、他でもない人間ではないか」
 その言葉で。斗子ははっとした。イチョウの葉に願いを書くというおまじないは、最初はどういう願いでも良かったのだ。それを、負の感情が特に叶うのだと言われ始めた為に、今のような状況に陥ってしまったのだ。
「正の感情を願っていれば、良かったというの?」
 斗子は尋ねるが、少女は答えなかった。斗子はぐっと奥歯を噛み締める。
 正の感情ばかりを願うのは、無理な話だ。人間はつい、負の感情を孕んだ事の方が印象に残りやすい。良かった事よりも、悪かった事の方が心に残る。ちょっとだけ嬉しかった事は忘れるのに、ちょっとだけ嫌だった事はよく覚えている。どうしてそうなのかは分からない。だが、そう言う風に出来ているのだ。
 自己防衛のためだとか、今後の為だとか、色々言われてはいる。実際の所どうなのかは分からないが、確かなのは負の感情の方が残ると言う事だ。
「負の感情を孕まないなんて、無理よ」
「力が蓄えられるならば、どちらでもいい」
「良くないわ。そのせいで、命が……!」
 斗子はそう言って俯く。目の前の少女が言う言葉に対して、もどかしさが付随してたまらなかった。どう言えば自分の感情を分かって貰えるのかも分からず、どうすれば理解して貰えるのかも分からない。
 言葉にすればするほど、手の中からすり抜けていくかのような感覚を覚えるのだ。
「力は蓄えられる。それで構わない」
「力が蓄えられるなら、死を喚んでもいいというの?」
 少しだけ荒くなった斗子の問いに、ただ少女は微笑を返した。虚ろな目で、虚ろな表情で。それでも口元を歪ませて笑って見せた。
『皆こぞりて神を呼びぬ』
 あの一節が、頭の中で渦を巻く。呼ぶのが本当に神なのかも分からないまま、皆呼ぼうとしたのではないか。
 そんな斗子の思いに構う事なく、少女はくるりと踵を返した。
「待って……!」
 斗子は慌てて少女を追いかけるが、気付けば少女の姿は消えてしまっていた。後に残るのは、斗子とイチョウの木だけだ。
「……どうして」
 ぽつりと呟き、斗子はひらひらと舞い降りてきたイチョウの葉を手にとった。
 桜の花のような、血の色を想起させるような、薄紅色の葉を。


●結

 時は進む。力は満ちる。いつしか目的を為さんが故。


 アトラス編集部で、碇は斗子のレポートを読んで「そう」とだけ答えた。
「イチョウの葉のおまじないには、力を蓄えるという意味があったのね」
「ええ。しかも、手当たり次第の」
 手当たり次第、と自分で言ってから、斗子は妙な感覚に襲われた。
 少女は、力が蓄えられるならば正だろうと負だろうと構わないといっていた。それを手当たり次第だと思ったものの、斗子にはどうしても少女が負の力を蓄えようとしていたように感じられてならなかった。
 人間は、負の感情をより印象的に覚えてしまうものだから。
 まるで少女は、今の状況を人間のせいにしているかのようだった。自業自得なのだと、言わんばかりに。
「あなたが会ったという、少女の存在も気になるわね」
 碇はそう言い、ぱらりと斗子のレポートをめくった。
「一体、何者なのかしら?」
 碇の問いに、斗子は「どうでしょう」と言って口を噤んだ。
 虚ろな少女、蔑みの笑顔、蓄えようとしている力。
 どれをとってみても、あの少女が何者なのかを指し示すようなものは何もない。あえて言うならば、碇が用意した土地に纏わる説話に登場する「皆」のうちの一人なのだろう。
 つまりは「こぞりて神を呼びぬ」皆のうちの一人。
「黒の髪に、赤の目……黄金色の着物、だったわね?」
 碇はそう言って、悪戯っぽく笑う。
「もしかして、イチョウの木の化身だったりしてね」
「え?」
「ほら、黄金色って元々イチョウの葉の色でしょう?」
 なるほど、と斗子は思う。もしかしたら、そうなのかもしれない。秋滋野高校の生徒達がイチョウの葉にかけた願いを受け入れてばかりだったから、あのような虚ろな目をしていたのかもしれない。
「そうかも、しれませんね」
 ぽつりと斗子が言うと、碇は「そう?」と言って少しだけ淋しそうに笑った。
「冗談だったんだけどね」
「ええ、分かってます。だけど、そう言う風に思えてきちゃって」
 斗子はそう言い、小さく溜息をつく。
 どうして、人間は負の感情を孕んでしまうのだろうか。そして死を喚ぼうとしてしまうのだろうか。
 答えはきっと出ないが、決して神を呼ぶためではない。決して。
「あら」
 碇がレポートの中から何かを見つけ、取り出して斗子に手渡した。斗子はそれを受け取り、思わずじっと見つめた。
 いつの間にか紛れ込んでしまっていた、薄紅色のイチョウの葉であった。

<一片の葉をじっと見つめて・終>

□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【 2726 / 丘星・斗子 / 女 / 21 / 大学生/能楽師小鼓方の卵 】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
 お待たせしました、コニチハ。霜月玲守です。この度はゲームノベル「蝶の慟哭〜一片の葉〜」にご参加いただき、有難う御座いました。
 初めてのご依頼、有難う御座います。落ち着いた雰囲気を持った、だけど芯の強い綺麗な人という風に描写させて頂きましたが、如何だったでしょうか。
 このゲームノベル「蝶の慟哭」は全三話となっており、今回は第一話となっております。
 一話完結にはなっておりますが、同じPCさんで続きを参加された場合は今回の結果が反映する事になります。
 ご意見・ご感想等、心よりお待ちしております。それではまたお会いできるその時迄。