■童話のように■
珠洲 |
【4345】【蒼王・海浬】【マネージャー 来訪者】 |
彼は疲れていた。とてもとても疲れていた。
彼は空腹だった。とっくの昔に背中とお腹が結婚していた。
彼は咽喉が渇いていた。それでも煙草を吸っているのがなかなか末期だが、本当に渇いていた。
だから。
だから自慢の勘も推理力も鈍っていたのだ、きっと。
「リンゴ?」
事務所のごちゃごちゃと要不要入り混じって積み重なる応接テーブルの上に、ひとつ転がっていたそれを訝しげに取り上げつつ流れ作業で煙草と交換さながらにガブリと齧りついても彼を責めることは出来ない。多分。
「誰かの差し入れか」
言いながらむしゃりとさらに一口。
差し入れにしては一つだけをテーブルに置いておくのも奇妙な話なのだが、零の気配が給湯室にあった為に「移した分のとりこぼしだな」と勝手に結論付け、油断してしまったのだろう。これもおそらくよくある話だ。
だが今回はよくある話にするべきではなかった。
むしゃむしゃと景気良く齧っていた彼がふぅと一息ついたところで、奇妙な睡魔が迫ったのである。
いや、睡魔と言うにはあまりにも冷たく暗い。気絶する瞬間というのはこういったものか。それを考える前に彼の意識は沈み、足先から頭へと順に力が抜けて行った。
瞼が重い。とろりと引き下ろされるままに視界を閉ざせば知覚を全て遮断するのも簡単だ。
「お兄さん?戻ったんですか?」
靄の向こうから零の声。それから軽い足音が鼓膜を刺激する。
だがそれにも彼は反応せず、その身体はついに崩れ落ちてソファと床を打ち鳴らした。
その拍子に、揺れたテーブルの山積みの書類の下に潜り込んでいたらしきメモが一枚ひらりと揺れる。
書かれた文字を見たなら彼も手を伸ばさなかっただろうに、とは今更だが。
『白雪姫リンゴfromクラインの魔女』
――某日。草間興信所所長・草間武彦。
怪しいリンゴ齧って昏睡寸前の睡眠に突入。
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■童話のように■
「武彦さん!」
悲痛な叫びが耳に入り、蒼王海浬はそちらへと顔を向けた。
見知った人物の名前はやはり見知った事務所から放たれたものらしい。
知らぬ仲でもないしとソールを引き連れて草間興信所の扉をくぐれば、室内は普段と変わらず掃除の意味がない書類の散乱ぶりだったが、応接セットの辺りがなにやら普段と違う。
事務所の女性陣が屈みこんであれこれと話しており、その手前の素直そうな若者が振り向くと会釈してきた。鷹揚に頷いて返すと、ソールと一緒にそちらへ向かい、見えてきたのは床に突っ伏す興信所所長。
「…………」
ぴく、と眉が跳ねた。
なにをしているのだこの男は。
周囲の真面目な表情と比べて草間自身が非常に安らかに眠っているので、どうも危機感が抱けない。
これは何かの遊びか、草間の悪ふざけか、一体何がどうなって汚れた床に所長が倒れているのだ。
見下ろす草間の背中。彼の近くに奇妙に目を引く紙切れを見かけ、ソールからそれを受け取った海浬は書かれていた内容になるほどと呆れた息を吐いた。
『白雪姫リンゴfromクラインの魔女』
「ふざけたメモだ」
言い捨てて、隣の若者に差し出す。
読んだ彼が言葉を探して、けれど上手くコメント出来ないままに結局表情自体も動かし損ねた微妙な面持ちでそれを屈みこんでいる女性に手渡すのを横目に、海浬はただソールの紅い毛に指を潜らせた。。
** *** *
気が付けば三人が横たわる草間を見下ろしていた。
詳しく言うなら、櫻紫桜と蒼王海浬が屈みこむシュラインの上から覗き込んでいる状態だ。
零にはブランケットとクッションを取りに行って貰った。武彦にしろ零にしろ、あるいはシュラインにしても事務所で日を越える事は珍しくない以上、常備されてしかるべき物品である。もっとも、わけのわからない昏倒男を休ませる為に使われるとはそれらも考えはしなかったに違いない。
「白雪姫リンゴ……」
海浬から紫桜、紫桜からシュラインへと巡ったメモを睨んで小さく呟く。
草間の状態を確認しながら紫桜がその表情を見た。理知的な目元が微かに引き攣っている。
「クラインの魔女、というのはなんでしょうか」
「……そっちは多分、零ちゃんの友達の事だと思うわ」
「なんだ、犯人も判っているのか」
パソコンを借りて情報収集を考えていた海浬が、手間が省けたと声を上げるのにはシュラインは何度か左右に首を振った。なんとはなし、草間に近付いていた紅毛に包まれた龍のような、ソールというその生物を眺めながら補足する。
「武彦さんが、変な物試作しては寄越してくる、って以前に言っていたもの」
「……あの、それなのに食べたんですか」
控えめに紫桜が示した先に半分以上を齧られた林檎。
確かに署名のように差出人まで判る状態であった物を食べるのは、相手が厄介事を起こす常連だと知っているなら迂闊どころではない筈だ。
――三人は、メモが散乱する書類の下に潜り込んでいた事を知らない。
知ったとしても、草間をなんとか起こした後に「だから片付けなさいと言っているのに」といった類の台詞を投げつけたりはするだろうが。
「探偵にしては警戒心の無い事だな」
「……お腹空いてたのね武彦さん」
海浬の言葉を聞き流してシュラインが草間をそっと抱き起こす。その優しい仕草と逃避にも思える言葉に愛を見るかどうかは人それぞれだった。
「白雪姫、というくらいだし、童話繋がりの解決策だと思ったんだけど」
零が持ってきたクッションとブランケットをソファに整えながらシュライン。
紫桜も周囲の書類を片付けて草間が充分に身体を広げられるスペース作りを手伝っているのだが、彼女の発言に僅かに気恥ずかしさを覚えてしまう。
どんな移動をしたのか散乱し尽している様子の事務所内の書類や資料の類。手掛かりとなりそうな物を探しつつそれを片付けている海浬はまるで気にする様子も無いが、つい先刻のシュラインの行動は擦れていない紫桜からすれば目の当たりにすればいささか恥ずかしくなるものだったのだ。
『童話ならまずキスね。今回は、王子様が眠っているけれど』
林檎を寄越した人間を確認し――予想通りというか、やはり零の友達とかいう人物だった――揃って呆れた溜息をこぼした後、抱き締めたままの草間にシュラインは滑らかに頭を傾けて唇を寄せた。その慣れた動きに反応が遅れ、慌てて視線を逸らした紫桜と、髪一筋程も表情を変えなかった海浬を背後にしばし彼女は草間を重なり、ややあって顔を上げると息を吐く。
『どうだ』
『駄目ね。起きてくれないわ』
『……多少寝息が浅くはなっているようだが』
『そう思って繰り返したけど、これ以上は駄目みたい』
居心地悪く立っていた紫桜の傍らで海浬とシュラインが言い交わし、結局、なんとかするまで草間にはソファでお寝み頂こうという事になったのである。
「疲れているなら休ませてあげたいけれど、変な物食べて無理矢理じゃあね」
ゆっくりと草間の身体を持ち上げて、ソファに移す。
途中で零にも手伝ってもらい、シュラインと紫桜は二人がかりで草間の背も叩いてみた。が、林檎の「り」の字程度の欠片も咽喉から出てはこないまま。起きた時に身体が痛まないように、と配慮して柔らかな即席簡易ベッドに横になった草間を再度紫桜は見る。
「……くすぐってみるかな」
「そうね。試してもいいかも」
「ところで……その友人とやらに連絡は取れないのか?」
熟睡する興信所所長を見下ろして相談する二人の背後から、海浬が束ねた書類を持って近付いて来た。
適当にまとめたそれを零に手渡しながら問うたのは当然の内容だったのだが、しばし宙を見て零は頭を振る。
「電話したりしないので、判りません」
「そうか」
ソールが足元に寄ってくるのに任せて海浬が思案するようにあらぬ方を見遣り、何事か呟いていたそんな時。
おざなりなノックが響いてから耳をつんざくブザー音。
扉を見、もしやと草間に視線を落としたシュラインと紫桜。海浬はそのまま扉を見て。
「おい、クサマ!ちょっと頼まれてくれ」
朗らかな語調で男が一人、紙袋を抱えてその微妙な場面に乱入した。
** *** *
両脇から軽く触れるか触れないかでくすぐってみる――反応無し。
少し強く押し当ててくすぐってみる――これも駄目。
思い切って鼻をつまんでみるとすぐに口が開いた。塞ぐとそのまま呼吸が止まりそうで――起こせない。
登場した男と向かい合っているシュラインが見たら絶叫しそうな勢いで頬を引っ張ってみる――素晴らしく変形しただけで眠りっぱなし。
「……だめだ」
「どうしましょう」
零と二人、草間を目覚めさせるべく基本的な事を仕掛けてみたのだが成果は芳しくなかった。
沈黙してのどかに寝こける姿を見下ろすと、背後からの会話が元気良く耳に届く。
怖い。なんとなく怖い。
振り返る事はせずに、見えはしないが視線をずらして会話中の二人を窺う紫桜である。
「管理人がよ、オッサンが起きないっつって半狂乱で暴れててなぁ。それでクサマに誰か寄越して貰おうかと」
「かこつけてちょっかいかけに来たというわけね」
「いいじゃねえか。別に押しかけてねぇだろ」
ジェラルド・フィラッツォとかいうその人物の言葉にシュラインがこれみよがしに肩を竦めて。
「悪いんだけど、今はこっちも武彦さんが同じ状態なの。ごめんなさい?」
――敵だな、と海浬は会話を聞きながら思う。
この二人はおそらく草間を挟んでの敵対関係だ。その手の意味合いで。
ひととおり書類を片付けながら手掛かりを探したが、見つからない。後は草間の周囲の崩れて折れて散乱しきった場所だけだ。ソールの運んできた分を事務机に放り出して振り返る。長身の男女が睨み合う姿が際立っていた。
「ところで、フィラッツォさん」
初対面だからと気遣う海浬の語調にひょいと肩を竦めるジェラルド。
「呼び捨てタメでいいぞ、ってなんだ?」
「いや結構。貴方とこの『クラインの魔女』なる零嬢の友人は同じマンションだとか」
「おう」
「その人物の連絡先は判りますか?」
「逃げたぞ」
「……逃げた……」
呆然と繰り返す紫桜の声を聞く。シュラインもこめかみを押さえて苦々しげだ。
もういっそのこと『全てを見通す力』で解決してしまおうか。そう思う海浬の前でジェラルドが笑って続けるには。
「今回はオッサン巻き込んだからなあ。管理人に絞め殺されるの避けたんだろうよ」
「だったらどうすればいいのかは判らないということ?」
「いやぁ?クサマに仕掛けるなら走り書きででも説明付けてんじゃねぇか?」
怖い女房ついてるしな、とにやにや笑うのにはシュラインが睨み返す。
つまりは手掛かりがやはり室内にあるということか。
視線を向けた海浬の求めを察して零が記憶を探れば、すぐに心当たりがあった。
「そういえば、小さなメモがもうひとつあったような」
「それですか」
「それね」
「それだな」
各々頷いて捜索を開始する。
シュラインと紫桜が直接草間にアクションを起こしている間に、海浬がソールと一緒に黙々と片付けていたお陰で残る場所は眠る草間の周囲のみ。一斉に紙を集め、振っては挟まっていないか確かめ出した。
その妙な光景をすり抜けてジェラルドが草間の枕元へ。
「つーか童話ならキス基本だろ。試したのか?」
「もう試したから結構よ」
「そりゃ残念」
けたけた笑って丸めた背を伸ばす。
(もしかしてこの人、シュラインさんの反応楽しんでるんじゃないだろうか)
そんな風に思ってついジェラルドの長身を見上げる紫桜に、相手も気付いた。
にんまり笑うと何気なく近付いて紫桜を覗き込んで来るのに、無意識に後退ったのは登場してからの彼の言動……というかそれから推測される嗜好のせいだろうか。いや別に人の趣味嗜好をどうこう言うつもりは無いのだけれど。
でも自分には勘弁。
「別に俺が試してもいいよなあ?」
「はぁ、いえ、別に繰り返す必要も無いと思います」
「あんたは入口あたり下がっときなさい。青少年に声かけない!」
「おーひでぇ」
鋭く飛んだシュラインの言葉にジェラルドはやはりけたけた笑うと素直に引き下がる。助かった。
なにやら微かに粟立ってしまった二の腕を宥めるようにさすりつつ、今の一場面を無かった事にする紫桜。そのままメモ捜索に参加しようとしたところで「あったぞ」と海浬が声を上げた。終始一貫して冷静な人物が見つけてくれたらしい。
わやわやと集まり一斉に海浬の手元を覗き込む。
その小さな紙には走り書き。
『安眠?1個で24時間くらい(なにやら童話にちなんだ書き出し)
意中の人とか。消化時間で変化するかも
染色いるかな(染料の控えらしき単語)毒ナシ
気絶より眠り姫 調理後の変化が』
「……これですか?」
「……多分な」
「……説明というより、ついでに持ってきただけみたいね」
「参考にはなるだろう。これでなんとかなるんじゃないのか?」
一人淡々と述べる海浬の言葉に再度メモを見る。
害は無い(筈)という事と、時間経過で目が覚める(ただし長い)事程度しか判らないのだが。
「ここに」
海浬が更に示したのは片隅だった。
ごく小さな文字はむしろ隠すように存在しておりそれは。
『頭から水かけとく』
――長い長い沈黙の中で海浬の足元から紫桜の足元、シュラインの足元、ジェラルドの足元へと歩き回るソールの紅毛だけが微かに音を立てていた。
** *** *
視界の端ではなにやら櫻紫桜がジェラルドから林檎を渡されている。
よもや紙袋から出したあれまでが『白雪姫リンゴ』ではあるまい、と思いながらもなんとなく、力を使うのはやめておいた。
別に面倒だったとかではないのだが、力を使って見通した挙句、紫桜が押し付けられた林檎が『白雪姫リンゴ』だったら関係無いままで終わる訳にもいかなくなると、そう考えた程度だ。
去り際に振り返れば、ソファの草間を前にシュライン・エマが葛藤している。
起こそうか、無害なら休ませておこうか、いやいやでもやっぱり、と海浬の知る彼女とは違う落ち着かない仕草。
「……行くぞ」
まあ無事ならいいだろう、としばらく眠りこける草間の姿を眺めた後、蒼王海浬は踵を返す。
優雅なその仕草を彩るように、紅毛の聖獣が付き従っていた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086/シュライン・エマ/女性/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【4345/蒼王海浬/男性/25/マネージャー 来訪者】
【5453/櫻紫桜/男性/15/高校生】
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■ ライター通信 ■
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・はじめまして。こんにちは。ライターの珠洲です。
最初と最後だけちょっと違いますが、中間部分は同一にしてみました。
プレイングを生かせなかったりもしているのですが、ご満足頂けるといいなぁと怯えつつ。
・蒼王海浬様
どこまでも冷静に動いて頂く形になりました。きっとソールもちょこちょこ動いているよね、と勝手に足元うろつかせたりしております。そういう一緒にいる生物が好きなのでライターが楽しみました。ありがとうございます。
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