■黄泉路よりの訪問者■
エム・リー |
【2991】【大徳寺・華子】【忌唄の唄い手】 |
常であれば、四つ辻の上には、月も星も無く、ぼうやりとした薄闇ばかりが広がっています。
が、今、其処には確かに望月の姿があります。
月は、四つ辻に措いてはあってはならぬ禁の象徴です。それは黄泉路の深奥にある地獄の釜の蓋が開いてしまうためであるといわれています。
今、その上には、確かに望月が輝いています。
黄泉路の深奥が開かれ、封じられていた咎人が、地獄より這出て来るのが、見えるでしょうか。
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黄泉路よりの訪問者
「これは、また、悪い時にいらっしゃいましたねぇ」
たてつけの悪い引き戸をようやく開けて中を覗くと、がらんと静まり返ったその中に一人の男が立っていた。
何処をどう迷いこんだのか。気付けば其処は東京の街並とは明らかに異なる路地の上だった。
華子は、然し迷いこんだその地の上であっても平静を崩す事もなく、寧ろ揚々とした面持ちで歩みを進めて来たのだ。
見上げれば其処には阻むもののない天空を一望出来る。ごみごみと入り組んだ高層の建築物ばかりが並ぶ風景に比べれば、今その視線に映る景観は、寧ろ望ましいものでもあったのだ。
天には緋色で染め上げられた望月が姿を見せている。
やけに大きな月だ、と。華子が気に留めたのは、唯その一点のみであったのだけれど。
緋色の月が放つぬらぬらとした血色の灯火は昼日中の如くに煌々と地を照らし出す。――見れば、路地の其処彼処に人為らざる者達の姿が有った。
「どうしたんだい、そんなに慌てて」
右往左往している妖共に声を掛けると、その内の一人、河童と見受けられる者が口を開けた。
「どうしたもこうしたもないや。そら、月だ、月だ、月が出た。ありゃあ災いを運ぶ門なのさぁ」
そう返す河童の言葉に、他の妖怪達が「ひゃあ」と悲鳴をあげて散らばった。散り散りになった妖怪達は、路脇に点在している家屋の中へと逃げて行く。
華子は妖達のその挙動を確かめながら、ふうん、と小さく頷く。
「あんなにも見事な月なのに、――あぁ、だからこそ、災いの元なのかねえ?」
訊ねると、河童はおろおろと周りを見遣りながら忙しなく首を縦に動かした。
「ああ、ああ、そうさあ。ここには月はあってはならねえモンなのさ。黄泉路の釜の蓋が開いて、中から災いが這出てくるからねえ」
「ふぅん、釜の蓋」
「と、ともかく、あンたも早いところ隠れた方が身の為さ」
河童はそう云って華子の袖を引っ張り、走りだそうと息巻いた。が、華子はそれには応じず、河童一人だけを先に行かせた。
「私は大丈夫。後できっと行くから、先に行っててちょうだい。用事を一つ済ませたら直ぐに追い付くから」
そう云って微笑むと、河童は幾らか躊躇した後、ひょうと鳴る風の様に走り去った。
路は舗装の成されていないものだ。だが不思議と、整然とした印象を覚える。それは恐らく、旧い都等を彷彿とさせるような景観だからだろうか。例えば旧い時代の京や鎌倉等の路地は、こういった景観であったかもしれない。
日中の如く明るく照らされた路地の向こう、路地と路地との結び目、辻があるのが見える。見れば路地は全てで四つ程あるらしい。ならばその辻は四つ辻といった処であろう。
その四つ辻の傍らに、一軒の鄙びた家屋があるのが見える。遠目にも半壊している様に見えるその棟に、華子はふらりと足を寄せる事にしたのだった。
「悪い時にって云う事は、あの子達が云っていたのは事実だっていう事ね」
開けた引き戸をきちんと閉めて、手近にあった椅子を手前に引いて腰をおろす。
半壊したようにも見えたその棟の中に居たのは、人間の見目をした壮年の男。和服を身に纏い、縁のない眼鏡をかけている。その眼鏡の奥で、知慮深げな眼が双つ、穏やかに笑みを浮かべていた。
「連中は皆もう逃げましたか」
発せられた声も穏やかなものだった。男はそう述べつつ、華子の前に湯呑を一つ置いた。
「皆、って訊かれると、頷くのは難しいかしら。まぁ、私が会った子達は皆、家の中へ入って行ったけど」
返し、湯呑を受け取って一口啜る。
「ハハハ、確かにそうですね。あなたは此方へ入られたのは今回が初めてなのだし」
男はそう述べて笑い、頭をぼさぼさと掻き撫でた。
「ふふ、この場所も何だか一風変わってるけど、あなたも少し変わってるのね」
華子はそう述べて頬づえをつく。男の顔を見上げれば、男は少し照れたように小さく笑った。
「ところで、黄泉路の釜から這出て来る災いっていうのは、何の事なの?」
「ええ、……そうですねえ。こういう時にいらしたというのも、縁なのかもしれません」
応え、男はしばし弱ったように緩く笑っていたが、やがてすうと華子の顔を見遣って言葉を続けた。
「お気付きかもしれませんが、この場所は現世とは異なる場所になっています」
「ええ」
「ここに来るまで歩いていらした路ですが、あれは全部で四つありまして、それぞれ路の終わりに橋が架けられているんです」
「橋?」
「はい、橋です。一つは現世へと通じているもので、残りの三つは何れも黄泉へ通じるものなんですよ」
「ああ、成る程」
男の言葉に頷いて、冷めかけた茶を再び口に運ぶ。男はさらに続けた。
「基本的には黄泉から此方へ戻って来るモンはいやしません。黄泉は大きな門戸で塞がれていて、一度入れば滅多な事じゃあ出てこれやしないもんですから、まあ当たり前っちゃ当たり前なんですが。……で、その黄泉の深奥には、生人であった頃に大きな咎をやらかした輩が封じられておりまして」
「それが”黄泉路の釜の蓋”なんだね」
訊ねると、男は眼鏡を押し上げながら頷いた。
「月が架かった時にだけ、ちらっと開かれるんですよ。それでもまあ、月が再び雲に隠れる時までの短い間ではあるのですが」
「その短い時間に、その連中が這出て来るってわけね」
男は華子の言葉に無言で頷き、閉めてあった引き戸を手馴れた動作で引き開けた。
緋色の――否、それは既に噴き上げる血潮の色味だ。赤錆色の月光が、地表を舐めるように照らし出している。
「何事もなく終われば……なんて思っていましたが」
呟く男の表情は曇り、声は僅かに沈んでいる。
「そうもいかなそうなのね?」
問いながら男の隣に立つ。男は「ええ」と唸るように応じると、弱り顔で望月を仰ぎ見ている。
華子はその男の横顔を見遣りつつ、ついと首を傾げて笑ってみせた。
「私、お手伝いするわ。お役に立てるかどうかは判らないけど、これも”縁”でしょう?」
男は華子の言葉に暫しの戸惑いを見せてはいたが、それも束の間。再び穏やかに微笑んで華子の顔を真っ直ぐに見つめた。
「……助かります、ありがとう。……あぁ、そうだ。俺は詫助と呼ばれてます。どうぞお好みで」
「私は大徳寺華子。こちらこそよろしく、詫助さん」
ふふと笑って首を傾げる。心無しか、詫助の頬が僅かに色を浮かべた。
路地には惑う影の一つも残ってはいなかった。
「どうやら、皆ちゃんと逃げたようですね」
草鞋で歩く詫助の足が、ぺたりぺたりと音を鳴らす。
緋色の満月が路の上に詫助の影をくっきりと落とし、光る。
「ねえ、詫助さん。その咎人が通る橋っていうのは、もう見当がついているの? 橋は全部で四つあるのよね」
「その内の一つは現世への橋ですから、正しくは可能性があるのは三つになりますが」
華子の問いに頷いて、詫助はふと足を止めた。
「でも、まあ、分かりますよ。――ほら、月が」
告げながらつうと指を示す。その挙動に合わせ、華子もまた月を確かめる。
「影はこっちに伸びている。という事は、月はあちらに出ている事になります」
そう続ける詫助に、華子は「あぁ」と呟き、頷いた。
月が出ているのは、初めに華子が歩んでいた路地から見て、真っ直ぐ先の方面だ。
「文字通り、月が門戸だっていう事ね」
小さな笑いを洩らしつつ、華子はその月を見遣る。
橋の方角――月の下から、生温い風がヒョウと音を立てて流れ吹き抜けた。
橋は木造で、緩やかな山の形を成していた。
煌々と照っている満月は辺り一面を昼日中の如くに照らし出しているのだが、にも関わらず、橋の向こうは黒い靄がかかったようになっている。
川はさほどには広くないようではあるが、流れている水は黒々としていて、今にも氾濫しそうな勢いだ。
「何時もはこんなんではないんですよ」
申し訳なさげに肩を竦め、詫助が静かに口を開けた。
「何時もはもっと綺麗で穏やかな川なのかしら」
訊ね、詫助に目を向ける。詫助は「そうなんですよ」と返して笑い、そして次の瞬間、その眼をすうと細めて川を見遣った。
「来たのね?」
詫助の表情の変化を受け、華子は頬をゆっくりと緩ませる。
目を遣れば、濁流の中、浮き沈みしている数多の腕があるのが見えた。それらはしばし川水の中をさまよっていたが、やがて一つ、また一つと川底へ沈んでいったのだった。
だが、一つだけ。
泥を浴びたような腕が、川岸をしっかりと掴み取ったのだ。
川はいよいよ流れを荒いものへと変えていくが、その腕は流れなど構わずに、ぬらりと動き、這出て来る。姿を見せたのは、ずるりと伸びた藻の如き黒髪の、骨と皮ばかりの――それにしては腹ばかりがぽこりと出ている――男であった。
「餓鬼みたいね」
悠然と笑う華子に、詫助は大きく腕を振るって声をあげた。
「これは人の肉を至上の喜びと見出していた者です! 今もなおその執着は人の肉にこそ残されている。華子さん、離れて!」
逃げろと云う詫助の言葉に、しかし、華子は悪戯めいた笑みを返しただけだった。
「ねえ、詫助さん。地獄を抜け出してきた咎人さんは、どういう処分を受けるの?」
餓鬼は、真っ直ぐに華子へ向かい足を寄せる。
歩く毎に、体中から腐敗した肉の塊が垂れ下がり、崩れ落ちている。腐臭が鼻をついて漂う。
開かれたあぎとからは蛆虫がぱたぱたと零れ、空となった眼孔が華子の姿を捉え、笑う。
「永劫、救済のない闇の中へ――」
華子の問いかけに応えつつ、詫助は急ぎ走り出した。が、餓鬼は既に華子の目と鼻の先にある。華子さん、逃げてください。そう述べようとした、刹那。
華子はゆっくりと手を動かして、餓鬼の首へと指を這わせた。
浮かんでいるその表情は艶然として妖しく、そして美しい。
「いい子」
唄うようにそう呟くと、餓鬼は途端に勢いを失い、がくりと頭を垂れて跪いた。
「永劫続く闇の底へ遣られるのなら、いっそ私の元へと下るがいい」
跪いた餓鬼の首に指を這わせ、やがてその腕を餓鬼の背中へと回す。
「……華子さん……?」
ようやく追いついた詫助が、華子の挙動に眉根を寄せた。
「この子はもう私のもの。――――永久に続く無明の底へ、沈めておく事にするわ」
詫助の顔を覗きこんでそう云うと、華子は眼をすうと細める。
その口許を、うねる蛇のように、舌が這っていった。
赤錆色で充たされていた天空が再び厚い雲で覆われた。辺りは一面の薄闇で包まれる。
川を流れていた濁流はその勢いを弱め、穏やかなで静かな水音へと変容していった。
視界が薄闇で覆われていくのと同時に餓鬼はその姿を消していた。――否。始終を見ていた詫助は、華子の足元の陰が瞬時にして餓鬼を飲み下していったのを、確かに見ていた。が、対する華子の笑みが余りにも艶然としていたから、詫助はそれが何であったのか言及しようとはしなかった。
「御陰様で助かりました」
先刻の湯呑とはまた異なるものを差し伸べて、詫助は穏やかに頬を緩めた。
差し出したのは温かな湯気の立ち昇る煎茶。それに栗蒸し羊羹。
華子は楊枝で羊羹をつつきながら詫助を眺め、軽く首を傾げて訊ねた。
「詫助さん、さっきの私を見て、引いたりしてない?」
確かめるような眼差しで詫助の顔を覗きこむ。
茶屋の中には散り散りに逃げていった妖怪達が集い、唄やら噺声やら、心地良い喧騒で充たされている。
詫助は妖怪達に向けて酒を振るまいながら、つと目を細ませてかぶりを振った。
「とんでもない。華子さんには感謝しています」
「そう? 良かった。嫌われたりしちゃったらどうしようって思ったわ」
羊羹を一口頬張り、微笑む。
「嫌いになる理由が在るはずがありませんしね。御礼とまではいきませんが、まぁ、お時間の許す限り、ゆるりとしていってください」
詫助は華子の言葉にそう返して微笑み、菓子やら茶やらを載せた盆を持って妖怪達の方へと歩いて行った。
茶屋の壁からすり抜けてきた夜風が、華子の髪を一筋さわりと撫でていく。
華子は詫助の背中を一瞥すると、やんわりと目を細ませ、ゆったりと睫毛を伏せた。
妖怪達が唄う都都逸が、夜風に乗って流れ始めた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【2991 / 大徳寺・華子 / 女性 / 111歳 / 忌唄の唄い手】
NPC:詫助
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■ ライター通信 ■
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お正月のノベル以来の御目文字ですね。改めまして、はじめまして。
この度はご発注、まことにありがとうございました。
実はこのノベルを書くにあたり、もっとも悩んだ部分は、華子さまの口調に関してでした。
さて、どういった言い回しで書こうかと思い悩んだ結果、今回はこのような口調で書かせていただいたのですが。
……その、イメージしているものと違う、等といった点がございましたら、遠慮なくお申しつけくださいませ。
詫助ですが、華子さまの妖艶さに多少惑っているようです(笑)。
もしもよろしければ、またからかいにいらしてくださいませ。
それでは、今回は本当にありがとうございました。少しでもお気に召していただけましたら幸いです。
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