■T・W・I・N■
宮本ぽち |
【1108】【本郷・源】【オーナー 小学生 獣人】 |
「ねえ、刑事さん」
田宮徹はふふっと声を出して笑った。「ぼくはやってませんよ」
「それを決めるのは私たち」
刑事課の柳・鏡華(やなぎ・きょうか)刑事は古ぼけたデスクに肘をつき、きつい目で田宮を見据える。しかし田宮は動じずに刑事を見下ろし、あまつさえ細く切れ上がった瞳に皮肉っぽい冷笑を浮かべている。
「現場の血痕はあなたのものと一致した。あなたのその左手の傷、犯行時に被疑者にやられたんでしょう? あなたを見たっていう目撃者もいるのよ」
「それはぼくの分身ですよ。ぼくじゃない」
「分身? 幽霊みたいなものかしら」
付き合いきれない、といった表情で鏡華はふんと鼻を鳴らす。「それならどうして指紋や血痕が残ってるの? 幽霊なら指紋も血痕もないでしょう。違う?」
「幽霊なんていうちゃちなもんじゃない。あいつはちゃんとした分身ですよ。もっとも、被害者に攻撃されるようじゃぼくの分身としては落第点ですけどね。あんな出来損ない、さっさと逮捕してください。好きにしてやってくださいよ」
鏡華は軽く舌打ちした。決定的な物証で逮捕されたというのに、この自信は一体何なのだ。
「賭けませんか」
と田宮は言い、机の上に肘を乗せて神経質そうに両の指を組み合わせた。
「あいつはまた人を殺しますよ。ぼくが捕まったのをいいことにね。あいつは俺から解放されたがってる。だから、ぼくがここで動けない以上は好きに動き回るはずです」
「何を賭けるの?」
「また同じような事件が起こったらぼくを釈放してください」
鏡華の眉がぴくりと吊り上がった。田宮は無精ひげの散らばった口元をさかんに気にしながら不敵な笑みを浮かべる。
「だってそうでしょう。ぼくがここにいる時に同じ手口の殺人が起こったら、犯人はぼくじゃないってことですよ。釈放されて然るべきです。そう、今夜あたり起こるんじゃないかな。今夜は確か満月のはずだから」
「・・・・・・模倣犯ということもありうるわ。あなたと同じ手口だからって、あなたがやったという証拠にはならない」
鏡華が舌打ちとともにその台詞を吐き捨てた、そのときだった。
「や、柳!」
どたどたという足音とともに先輩刑事が取調室に飛び込んでくる。その表情に困惑と動揺を読み取って鏡華は腰を上げた。
「まただ。ビルの屋上での刺殺。目撃者は田宮徹を見たと言っている」
「あはははははは!」
と笑ったのは田宮だった。振り返った鏡華はぞっとした。田宮は腹を抱え、さもおかしそうに笑い転げている。それはまるで子供のように無邪気な笑顔だった。
「だから言ったでしょ」
くすくすくすと笑いながら田宮は言う。「ぼくじゃなくて、ぼくの分身がやったんだって」
あどけない田宮の笑い声が狭い取調べ室の壁に不気味に乱反射した。
鏡華は目の前の小さなドアを睨みつけるようにして立っていた。慌しく立ち働きつつも、同僚や先輩たちがちらちらとこちらを見ているのを背中に感じる。
このドアの向こうにあるのはかつて刑事課の物置だった部屋。現在は沢木・氷吾(さわき・ひょうご)がたった一人で統括する刑事課二係の拠点となっている。ここに仕事を頼むのは刑事課では手に負えぬ奇怪な事件が発生した時だけだ。
ノブに手を伸ばす。と、がちゃりという音とともにノブが回ってドアが開いた。
「おや、柳さん」
沢木氷吾がにこにことした顔をのぞかせる。「やっぱりね。そろそろ来るんじゃないかなーって思ってたんだ」
この男のスローな口調とほんわかした雰囲気には溜息が出る。それでも、田宮の件をこの男に依頼するしかないのだ。
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T・W・I・N
かちゃ、というかすかな音とともにブラインドが小さく開く。指で押し広げたその隙間から油断なく眼下を見下ろす宮本署の本郷警部補の目は真剣そのもの。
どうぞ、という声に目を上げると沢木・氷吾(さわき・ひょうご)警部補がアンパンを差し出した。本郷警部補は鷹揚に肯いてアンパンにかじりつく。そしてまたブラインドをかちゃっと指で開けて鋭い目を窓の外に投げる。まさに“デカ”の目つきであった。
ただひとつ――本郷警部補が六歳の女児であるという事実を除けば。
「さっきから何やってんの?」
本郷・源(ほんごう・みなと)警部補に白い髪の少女が呆れ顔で問う。耀(あかる)という名の少女は紫色の瞳で源をじろじろと眺め回した。顔の両脇にリボンをあしらったおかっぱの黒髪、高級感漂う桜色の和装。上品な源のいでたちは警察署には不似合いである。
「こうやって犯人の動向をうかがうのは刑事の定番じゃろう?」
源の口からは年齢と清楚な服装からは想像もつかぬ言葉遣いが飛び出す。「そして、アンパンも張り込みの定番じゃ」
「別に張り込んでないし」
「不粋なことを言うでない。“デカ”というからには張り込みの気分を味わいたいというお茶目な乙女の遊び心じゃろうに」
「デカぁ? あんた、本気で言ってんの? 沢木さんにアンパンまで買いに行かせて何様のつもり?」
「口の聞き方に気をつけぃ!」
源は帯に差し込んだ扇子で耀の額をぱしっと叩いた。
「わしは警部補じゃぞ。おんしは民間人であろうに。子供が警部補に対して慣れ慣れしい口を聞くでない!」
「年下にそんなこと言われたくないよ!」
十二歳の耀は六歳の源に本気で腹を立てる。「ちょっと桐嶋さん、なんなのこいつ! さっさと連れて帰ってよ!」
「そういうわけにはいかん」
宮本署刑事課二係のスペースは八畳ほど。その隅に置かれた小さな応接ソファに腰を下ろしたきつい目の男が耀に苦々しい表情を返す。切れ上がった目に険しく掘り込まれた顔立ちは猛禽類を想起させる。オールバックにまとめた髪も固そうで、触れれば指に突き刺さってしまうのではないかと思わせるほどだ。
「そいつ――もとい、本郷源警部補は今日付けで宮本署に着任した正式な警部補だ。本庁からの特別な辞令でな」
「はあ? こんな子供が警部補? しかもいきなり警部補ってことはキャリア?」
「まあ、そういうことになるんだろうな」
警視庁捜査一課の桐嶋・克己(きりしま・かつみ)管理官は灰皿に葉巻の灰を落とし、沢木が淹れたコーヒーをすする。沢木はくすりと笑って桐嶋に耳打ちした。
「いくらなんでも六歳の子が警部補になんかなれるわけがありませんよねえ。また克己さんの“特別な”お計らいですか」
「・・・・・・いや」
桐嶋は顔を上げ、耀と一緒になってぎゃーぎゃー言い合っている源をちらりと横目で流し見る。
「もっと上からの特別な命令だ。何でも、あのガキ――もとい警部補の実家が相当な権力を持っているらしい。実家から警察に手を回して警部補の職を手に入れたようだ。俺も今朝出勤していきなり紹介されたのだ。もちろん反対したんだが、聞き入れてもらえなくてな。何がなんだか分からん」
「ほう。克己さんより権力を持っている人もいるのですねえ。考えてみれば克己さんもいち管理官、上にはまだまだ階級がありますものねえ」
「・・・・・・貴様、何か言ったか?」
「いえいえ、何でもありませんよ」
突き刺さるような桐嶋の視線をかわして沢木はふわりと微笑む。
「しかし、みすぼらしい部屋じゃのう」
源はぴょこんと椅子から降り、腰に手を当てて二係のオフィス――と呼べるほど上等な空間ではないが――を見回した。八畳ほどの空間にデスクがひとつと、小さな応接セットがひとつ。元々は物置として使われていた部屋をあてがわれたというから仕方ないのかも知れないが。
「窓際部署なので仕方ありません。特命警部補には似つかわしくない場所でしょうが、こらえていただけませんかねえ」
「特命警部補?」
沢木の言葉に源は首をかしげる。沢木はにっこり微笑んだ。
「本郷警部補は本庁の特別な命令によって着任なさったのでしょう? それならさしずめ“特命警部補”といったところかと」
「うむ、そうじゃの。特命警部補か」
いい響きじゃ、と源は鼻の穴を膨らませる。「誉めてつかわす、アンドン刑事(デカ)」
「あんどん?」
沢木は目をぱちくりさせる。源はぴっと人差し指を立てて得意そうに胸を張った。
「おんしはぼーっとしておるから昼行灯、略してアンドンじゃ。あだ名をつけるのも刑事ドラマの基本じゃろう」
「なるほど」
と沢木は苦笑する。「それでは克己さんは?」
「あやつは“マドンナ”じゃ」
「マドンナぁ?」
あんぐりと開かれた桐嶋の口からぽとりと葉巻が落ちる。きゃはははは、と笑い転げたのは耀であった。
「ねえねえ、あたしは? あたしは何デカ?」
「そうじゃのぉ」
源は腕を組んで小柄な耀の体を頭のてっぺんから足の先までじろじろと眺め回した。
「“幼児体型”刑事(デカ)で決まりじゃな。きょうびの子供は成長が早いからの、十二歳といえばそろそろ胸もボイーンとなってくる頃じゃろうに。おんしのはまるでまな板じゃ」
「な」
耀の顔がかあっと紅潮する。「六歳のガキにそんなこと言われたくないよ!」
「ガキとは何じゃ! わしは警部補じゃぞ!」
「付き合い切れん」
桐嶋は舌打ちとともに葉巻を灰皿に押し付けた。「氷吾、俺は帰るぞ。子守はよろしく頼む」
そして、肩をいからせて二係を出て行く。やれやれ、と沢木は小さく肩をすくめた。
「特命警部補、まずはこちらへ」
沢木は耀と睨み合う源をやんわりと引き離して応接ソファに座らせる。それからふと思い出したように顎に手を当てた。
「そういえば、特命警部補のあだ名は何にいたしましょう?」
「そうじゃったな。とびきりかっこいいのを頼むぞ、アンドン」
「それなら“アフロンジャー刑事(デカ)”っていうのは?」
と言ったのは耀であった。
「アフロンジャー刑事(デカ)! それはよい、気に入った」
源の目がきらんと輝く。が、すぐに怪訝そうに首をかしげた。
「なぜおんしがアフロンジャーを知っておるのじゃ? 話した覚えはないぞ」
「あーら、ごめんあそばせ。申し遅れましたがアタクシの仕事は情報収集屋なんですのよ」
おほほ、と耀は似合わぬ笑い声を立てる。「あなたのことくらい調査済みですわ。おでん屋『蛸忠』の売り上げはいかがですの? 最近寒いからさぞかし実入りがよろしいことでしょうねえ。ミスリルのアフロは大事に保管してあるのかしら?」
「・・・・・・ほほーう。おんしとは良きライバルになれそうじゃ」
ふふふ、と源は口の端で笑う。ふふふ、と耀も不敵な笑みを返した。
「沢木さん、少し静かにしていただけませんか」
二係のドアの方から厳しい女性の声がする。長身の女性が腰に手を当てて眼鏡の奥からきつい目でこちらを睨んでいた。沢木は彼女ににっこり微笑んでから源に顔を向けた。
「特命警部補、あのかたはぼくの後輩の柳・鏡華(やなぎ・きょうか)さんです。彼女のあだ名は何にしましょうか」
「ふーむ」
源は袴の下の脚を組んで無遠慮に鏡華を眺め回す。鏡華は露骨に不愉快そうな表情をしたが源はお構いなしだ。
「よし。おんしは“スコッチ”じゃ」
鏡華の顔がびしっと音を立ててこわばる。耀は腹を抱えて笑い転げた。
アフロンジャー刑事(デカ)こと本郷源・特命警部補に早速仕事の依頼が舞い込む。草間興信所からやってきたシュライン・エマという女性が容疑者・田宮徹の自宅を調べている間、釈放を求める田宮を足止めしておいてほしいというものだった。源はラジカセをひっさげて早速取調室へと向かった。
田宮は見るからに神経質そうな男だった。唇は蝋細工のように薄く、服の下の体躯は貧弱そのもの。切れ上がった瞳には冷たい光が宿る。留置場暮らしでヒゲを剃ることもままならないのであろう、右手で盛んに無精ヒゲを気にするしぐさが印象的だった。
「おんしが田宮か。わしは特命警部補・アフロンジャー刑事(デカ)じゃ」
どん、とラジカセを机の上に置いて源は胸を張る。田宮はかすかに唇を歪ませた。
「おい、スコッチ」
立ち会った鏡華に源は顎で命令する。「カツ丼はまだか?」
「は?」
スコッチ刑事(デカ)こと柳鏡華は眼鏡の奥で幾度か目を瞬かせた。
「本気で言っていたのですか?」
“田宮にカツ丼でも食わせてやれ”とは言われたが、まさか本気とは思わなかったのだ。
「当たり前じゃ! 取調べ室といえばカツ丼、カツ丼といえば取調べ室じゃろうに! おんしは何年刑事をやっておるのじゃ!」
どん、と源は机を叩く。鏡華は舌打ちして携帯電話を取り出した。「もちろん特上じゃぞ、分かっておろうな」という源の声が鏡華の苛立ちに追い討ちをかける。
特上カツ丼を待つ間、源は沢木から借り受けた資料に一通り目を通した。特命警部補として着任した以上、事件の概要はきっちり把握しておかねばならない。
投身自殺のためにビルの屋上まで上がって来た男女が月のきれいな夜――しかも決まって午前零時ごろに立て続けに五人刺殺されたというのが今回の連続殺人事件の概要。うち、五人目の被害者が抵抗し、犯人が持っていたナイフを奪って犯人の左手に切りつけた。結局被害者は犯人の逆襲にあって無残に刺し殺されてしまったわけだが、その時に現場に残った血痕によって田宮が浮かび上がったのだった。
そして田宮を取り調べている最中に同じ手口で六人目の犠牲者が出た。現場近くで田宮を見たという目撃者に田宮の顔を見せたところ、「間違いなくこの男だ」という確認がとれた。
被疑者名、田宮徹。二十七歳独身。普通の小学校、中学校、高校、大学を経て現在は小さな会社の会社員。生まれてすぐに母を亡くし、父に連れられて父の愛人の所で暮らすも父は田宮が六歳の時に死亡。五件目までの一連の連続殺人事件の犯行時刻には「自分の部屋で一人で寝ていた」と主張しているがそれを証明する者はなく、アリバイはないに等しい。「今回の連続殺人は自分の分身がやったのだ」などと不可解なことを言う割には心理学を毛嫌いし、オカルトに傾倒している様子もないようだ。
やがてカツ丼が到着した。
「ほーれ、見るのじゃ。うまそうじゃろう」
重厚な陶器の丼の蓋をとると芳醇な香りが食欲を刺激する。とろりとした黄金色の卵にふんわりと包まれた肉厚のカツ。湯気と一緒に昆布のきいたつゆの香気がたちのぼる。
「さ、遠慮なく食べるがよい。取調べに疲れた容疑者は刑事(デカ)のあたたかさに触れ、涙を流して自白するのじゃ」
「だから、ぼくじゃありませんよ」
田宮は神経質そうな目を血走らせて激しく舌打ちする。「ぼくの分身がやったことです」
「ふん、強情な奴じゃ。それでは・・・・・・」
これはどうじゃ、と源はラジカセの再生ボタンを押した。日本人なら誰もが一度は耳にするであろう物悲しい調べがテープから流れる。
「のう田宮。故郷(くに)のお袋さんが泣いておるぞ。そんな姿をお袋さんに見せてよいのか?」
「ぼくの母はぼくが生まれてすぐに死にました。父もすでに死んでいます。資料に書いてあったはずですが」
「ぬ・・・・・・日本男児が細かいことを気にするでない。言葉のあやというものじゃ」
テープの前奏が終わる。源は両手を組み合わせ、すうっと息を吸って目を閉じた。旋律に乗せて、手袋を編んでくれた母の愛をうたった詞を高らかに歌い上げる。時にたおやかに、時に強く。田宮の唇の端が激しく痙攣するのが分かった。
「いい加減にしろ!」
田宮は甲高い声で叫び、デスクに拳を叩きつけた。成人男子とは思えぬ高音だった。さすがの源も目をぱちくりさせる。
「ふん。シャレの通じぬ奴じゃ」
つまらん、と舌打ちして源は田宮のカツ丼に箸をつけた。
「では少し刑事(デカ)っぽい真面目な話をしようかの。おんしの分身が自殺志願者ばかりを狙うのはなぜじゃ?」
言いながら、源は「これは本当の取調べじゃ」と内心でぞくぞくする。
「自殺志願者を狙って何が悪いんです。死のうとしている人間を殺して罪になるのですか? ぼくが殺さなくてもどうせあいつらは死ぬんですよ。第一、自殺志願者には腹が立つんですよね。殺されそうな目に・・・・・・死んだほうが楽だという目にあったことがあるんですかね、あいつらは。“生きたくても生きられない人たちがたくさんいるんだから自殺なんてとんでもないことだ”なんて青臭いことを言うつもりはありませんがね、死んだほうが楽だという目に何度も遭いながらも死ぬことすら許されない人間がいるということを忘れないでほしいですね」
田宮は血走った目を見開き、口角に泡をつけながら一気にそうまくし立てた。まるで自分は殺されかけた経験があるかのような口ぶりだ。
「ほほう。それでは月夜の晩・・・・・・それも午前零時頃ばかりに犯行を重ねるのはなぜじゃろうの?」
「零時頃の月がいちばん美しいからですよ。ちょうど中天に達する頃・・・・・・誰にも邪魔されず、空の真ん中で煌々と孤高の輝きを見せて」
田宮は詩でも吟じるかのように朗々と歌い上げ、うっとりを目を閉じて顎を持ち上げる。女のように白く華奢な喉がむき出しになった。
「月は美しい。ぼくにとっては月が唯一の光。あの夜、月に導かれてぼくはあいつを殺した。ねえ、月光を浴びたナイフがどれだけ美しいかご存知ですか? 血を浴びるとなおさら美しいんですよ」
「殺した?」
源の眉がぴくっと動く。
田宮はゆっくりと目を開いた。
「ええ、殺しましたよ。自分の父親を。月夜の晩に」
開かれた田宮の目には勝ち誇った笑みが浮かんでいた。
「二十一年前にね。だからもう時効でしょう? 現在、殺人の時効は二十五年になったそうですが、改正の遡及効は及ばない(犯行後に条文が改正されても、犯行時の条文が適用される)のが刑法の大原則・・・・・・」
薄い唇の端がかすかに持ち上がる。「もちろん、月夜に父親を殺したからといって今回の連続殺人事件の犯人がぼくだということにはなりませんよね」
田宮は口元に手を持っていき、くすくすくすとさもおかしそうに笑い続けた。
「トラウマがあるみたいだよ、あの田宮って奴」
二係のデスクの椅子に前後逆に座り、自称沢木の助手・耀は頬杖をつく。
「子供の頃にずいぶん悲惨な目に遭ったみたい。小さい頃にお母さんが死んで、お父さんは田宮を連れて愛人の所に転がり込んだんだって。このお父さんが無職で飲んだくれで、ホステスの愛人の稼ぎで暮らしてたんだってさ。酒乱の気もあって、何かというと田宮を殴ったり刺したりしてたみたい。幼児虐待って言えばそれまでだけど、何度も殺されかけたんだって。それと、愛人が田宮の存在を疎ましがってたんだね。“隠し子がいると思われたらいやよ”なんて言って。だからお父さんは田宮を家に閉じ込めて外に出さなかった。愛人の機嫌をそこねたらお父さんはおまんま食べられなくなっちゃうから。それである日田宮は父親を殺しちゃった。何かの拍子か、正当防衛あるいは過剰防衛か、狙ってやったのかは知らないけど。警察もまさか六歳の子供がやったとは思わなかったんだろうな」
「ほほう。奴はすでに殺人を経験済みというわけか」
源は口をきりりと結んで腕を組む。「分身が生まれたのも虐待の経緯からかの?」
「多分ね。本人は話したがらないみたいだけど」
ふーむ、と唸って源は窓辺に歩み寄った。ブラインドの間に指を差し込み、かちゃりと音を立てて開く。わずかな隙間から下界をのぞく。そしてまたかちゃり、と指を入れる。
「ちょっと、アフロンジャー刑事(デカ)」
耀が腰に手を当てて源を睨む。「そんなに楽しいの、それ。あんまりブラインドいじらないでよ」
「固いことを言うでない、幼児体型刑事(デカ)」
「誰が幼児体型よ! そんなに言うならあんたはさぞかし立派なモノを持ってるんだろうね、いっぺん見せなさいよ!」
「ぎゃー、何をする! 乙女の柔肌をおいそれと晒せるものか!」
そこへ草間興信所から協力にやってきたシュライン・エマが入って来るが、源と耀は気付かない。沢木の説明を受け、長身のシュラインは青い瞳をぱちくりさせて源を見た。
「沢木警部補。人員の手配をお願いいたします」
きびきびした声とともに長身の女性が二係に飛び込んでくる。黒い髪に涼しげな目元、警察官の制服。警視庁超常現象対策本部・対超常現象一課(対超一課)のオペレーター、不動・望子(ふどう・のぞみこ)巡査だと沢木が紹介する。望子は背筋をぴんと伸ばして名を名乗り、源とシュラインに向かって頭を下げた。心霊事件である可能性が高いと見て本庁から応援にやってきたのだという。
「ほお。何か進展があったのか?」
望子の声に源が気付いて問う。望子は肯いてから口を開いた。
「結論から申し上げれば、今回の事件の犯人は田宮の別人格である可能性があります」
「多重人格ということ?」
シュラインが先回りして待ったをかけた。「人格が複数でも体はひとつのはず。今回は田宮が警察にいる間に分身が事件を起こしているのよ。多重人格では説明がつかないわ」
「多重人格である疑いはかなり濃厚です。幼い頃の経験が原因なのでしょう。ただ、厳密に言えば多重人格とは少し違います。もしかしたら・・・・・・」
心霊的なプロファイリングを得意とする望子がもたらした仮説に源と耀は目をぱちくりさせて顔を見合わせた。
眼下に広がるのは騒々しいネオンと車のヘッドライトの数珠、行き来する人々の頭。足元から吹き上がる冷たい風にさらされ、帽子を目深にかぶった茶髪の女はゆっくりと歩を進める。闇の中へ、コンクリートの縁の突端へ。その先に待つのはさらなる闇である。
もはやフェンスは超えた。その先には冷たい風に吹かれる幅3メートルほどのコンクリートが頼りなく広がる。女は無言でその上を歩く。コンクリートが途切れた先にあるものは死という名の永遠の闇。それを望んでこのビルの屋上に上ったはずなのに、いざとなると足がすくみそうになる。下界から吹き付ける夜風に体温を奪われているせいばかりとも思えない。怯え。躊躇。そんな感情が明らかに彼女の歩みを鈍らせていた。
「死ぬんですか?」
不意に背後で笑いを含んだ男性の声がした。振り返ると、フェンスのこちら側に薄い微笑とともにひょろ長い男が立っていた。右手で顎をさかんにさすっている。
「怖いんでしょ?」
男はふふっと笑ってみせた。「自殺しようとしたものの、いざとなると怖くて飛び降りることができない。ぼくはね・・・・・・腹が立つんですよ、そういう人間を見ていると。死にそうになったことがあるんですか? 殺されそうになった経験があるんですか? ないんでしょ? あればさっさと飛び降りられるはず」
血走った眼に徐々に敵意と殺意が燃え始めるのが見てとれる。女は茶色い髪を小さく揺らして息を呑んだ。ポケットに差し込まれた男の右手の中で、凛とした月光を受けてちかりと光る銀色の刃を見たのだ。二人の頭上では中天に差し掛かった月が青白い光を無言で地表に投げかけていた。
「死ぬ恐怖も知らないくせに自殺を考えて、そのあげくに“やっぱり怖いから死にたくない”。腹が立つんですよ! 死ぬことすらさせてもらえない人間だっているのに! ぼくはあなたみたいな人を何人もこの手で殺してきた、月に導かれて!」
成人男子のものとは思えぬ甲高い絶叫が月の光に吸い上げられ、墨を流した空へと広がる。ひゅうひゅうという音は闇を渡る風のものか。
「ああ・・・・・・なんて美しい」
不意に男は恍惚の表情を浮かべて月を仰ぎ見る。ナイフを持った右手を顔の辺りまで上げて冷たい刃に月光を反射させる。角度を変えるたび、研ぎ澄まされた切っ先に万華鏡のように乱反射を繰り返す月光の粒子が男の目にも反射する。
「ねえ、綺麗でしょう」
男はナイフの光を茶髪の女に示し、両手を広げてゆっくりと歩み寄る。「血で彩られるともっと綺麗なんですよ。ぼくはその光を見たい。協力してくれますよね。あなたは自殺志願者でしょう? それならここから飛び降りようがぼくに殺されようが同じですよね?」
薄い唇が両端の限界まで持ち上げられる。大きく見開かれた目が輝いているのは月の光が進入しているからなのか、それとも殺人に接する興奮ゆえか。じりじりと男が迫る。女も本能的に後ずさる。しかし背後には粗末なコンクリートのへりがあるだけだ。
「どうしたんですか。そのままさっさと飛び降りればいいでしょう」
男はくすくすくすとさもおかしそうに笑ってナイフを構える。「やっぱりできないんでしょ? 怖いから。それならぼくが殺してあげますよ!」
男が一気に間合いを詰める。ごうっと吹きつける風に女の茶色い髪が揺れる。きらきらと冷たい光を放つ切っ先が迫る。
そのとき、乾いた発砲音が夜の帳を引き裂いた。
「威嚇射撃は済ませました」
屋上に現れた沢木はまっすぐに天に向けた腕をゆっくりと水平に伸ばし、黒光りする銃口を男に向ける。「次は当てます。警官の銃の殺傷能力は三流ですが、一応“拳銃”ですからねえ。肩や足でも当たればそれなりに痛いですよ」
「田宮徹、おんしは完全に包囲されておる! ナイフを捨てるのじゃ! ぬふふ、一度言ってみたかったのじゃこの台詞!」
源は愛用のコルト銃――弾はコルクだ――を分身に向ける。しかし望子の容赦ない一言が源を現実に引き戻す。
「危ないから子供は下がっていてください」
「何を抜かす! わしは特命警部補じゃぞ、巡査が警部補に向かって――」
「分かったから少し黙っていてください!」
望子は源を無理矢理退け、厳しい声で男に武器を捨てるように告げる。そして教科書通りに腕をまっすぐに伸ばし、片膝をついて拳銃を構えた。巡査に足蹴にされた特命警部補は地団太を踏む。
ふたつの銃口に狙われて男は一瞬目を揺らす。茶髪の女はその隙を逃さなかった。素早く男の足を払う。不意をつかれた攻撃に男はしりもちをついた。その拍子にナイフが手から飛ぶ。女は足を飛ばしてナイフを遠くに蹴り飛ばした。コンクリートの上を冷たい金属音が転がった。
「それじゃ、一緒に来てもらいましょうか」
シュラインは目深にかぶった帽子と茶髪のウィッグを脱ぎ捨てて男を見下ろした。おとり捜査にひっかかったのだとようやく悟って男は目を丸くした。
「柳さん? どうも、沢木です。田宮さんは・・・・・・ああ、そう。ありがとう」
沢木は宮本署に詰めている柳と話して携帯電話を切った。「田宮徹さんは現在も取り調べ室で尋問を受けているそうですよ。ということは、あなたはやはり分身ですね」
シュラインはまじまじと男を見た。神経質そうに顎を撫でる手つき、左手の甲に見える切り傷の跡。それにあの喋り方、笑い方、台詞の内容。不精ヒゲがないことを除けば田宮そのものである。源はしげしげと彼を眺め回した。
「ほほーう。おんし、ほんに田宮にそっくりじゃのう。名はなんと申す?」
分身は「トオル」とだけ答えた。
「あなたが今回の一連の事件の犯人ですね? 六人ともあなたが殺した」
望子の言葉にトオルは薄笑いを浮かべる。薄い唇も、そこにこびりつくような笑い方も田宮にそっくりだった。
トオルを署に連れて帰り、シュラインと望子はトオルの、源と耀はスコッチこと柳鏡華刑事とともに田宮徹の尋問に当たった。
「あいつが捕まったんですか」
田宮は相変わらず不敵な笑みを浮かべる。
「らしいのう。おんしにそっくりじゃったぞ」
「でしょう? あいつはぼくの分身ですから」
田宮はくすりと笑った。
「あの不動望子とかいう巡査が言うには、おんしの分身は父親からの虐待によって生まれたそうじゃの?」
虐待を受けている間の痛みと記憶を肩代わりさせるために生み出された別人格。虐待を受けている間の痛みと記憶を別人格に持たせることで田宮は本体の人格を守ろうとした。しかし虐待を受けている時間があまりにも長かったため、次第に別人格のほうも本体から独立し、強い意思を持つようになった。そしてその力の強さのため、最後には体まで分かれてしまった――。それが望子の推理だった。
「なんであんたの分身は連続殺人なんか起こしたんだろうね?」
「さあ――」
耀の問いに田宮は目を閉じ、小さく息を吸う。「あいつはぼくの分身。ぼくはかねてから自殺志願者に敵意を抱いていたから、それが反映されたんじゃないでしょうかね。月の光に魅入られたのも同じ」
田宮は小さな窓に目を向ける。四角い空の中央に青白い月が無言で輝いている。
「それとも、ぼくを痛めつけるつもりだったのかな。表の世界で生きているのはぼくだから。あいつが犯罪を行えば捕まるのは当然このぼく。あいつなりの復讐だったのかも知れません」
「トオルはおんしを恨んでるじゃろうのぉ。おんしの痛みと記憶を肩代わりさせられるためだけに生まれてきたのじゃから」
「でしょうね。でも分身にそんなこと言われる筋合いはありませんよ。痛みを受けさせるために生み出した分身なんだから。ぼくの代わりに痛めつけられることがあいつの仕事なんですよ」
「あんた、友達いないでしょ」
耀が憎々しげに吐き捨てた、そのときだった。
「ああ・・・・・・美しい」
田宮はふらふらと立ち上がり、吸い寄せられるように窓辺に近づいた。ガラスに手と顔を押し付けて冷たい月に見入る。右手がズボンのウエストの内側に差し込まれる。鏡華は眉を吊り上げた。ポケットから取り出されたのは小さなナイフだった。所持品は厳しくチェックしたはずなのに、なぜ田宮がナイフなど持っている?
「ほら、見て・・・・・・きらきらと輝いているでしょう」
誰に言うでもなく、田宮はうっとりとした表情でナイフの刃に月光を反射させる。
「血を浴びると余計に美しいんですよ。例えばこうやって――」
田宮は冗談めかして言い、刃を自分の喉に向ける。だが、銀色の切っ先は田宮の喉に食い込んだ。皮膚が裂け、赤い糸が筋となって首を伝う。
「・・・・・・なんだと」
田宮の顔色が変わる。ナイフを握る手が何か大きな力にでも抗うかのようにぶるぶると震える。
「誰か・・・・・・誰か、止めてください!」
源と耀はわけが分からずに顔を見合わせる。しかし田宮の額からは汗が噴出し、目は大きく見開かれて、冗談などではないことが読み取れる。
「やめろ! ぼくは死にたくない! 刑事さん、止めて! 止めてください!」
田宮の言葉とは裏腹に、ナイフは徐々に首に食い込んでゆく。源は息を呑んだ。まるで、田宮の意志に反して田宮の手が自らの喉を裂こうとしているかのように見えた。
「いやだ! やめろ! 助け――」
源の表情がこわばる。耀は喉の奥で悲鳴を上げる。鏡華が舌打ちして飛び出した。しかし遅かった。
田宮のナイフは、あっさり己の喉に突き刺さっていた。
リノリウムの床に瞬く間に赤い水溜りが広がる。
「・・・・・・畜生・・・・・・」
田宮の目からは涙が滴っていた。「トオルのやつ・・・・・・最後の最後に・・・・・・」
それ以上言葉をつなぐことはできなかった。田宮はゆっくりと血の海の中に倒れ込み、動かなくなった。鏡華が激しく舌打ちし、携帯で119番しながら取調室を飛び出す。源と耀も彼女に続いた。田宮はもはや絶命しており、この場所にいても仕方ないと判断したからだった。
トオルの尋問が行われていた部屋でもまったく同じことが起きていた。ナイフを握り締め、喉から溢れ出した血の海の中にトオルが倒れていたのだ。鏡華が事情を説明する。沢木が言うには、トオルも「月がきれいだ」と言って窓辺に立ち、刃に月光を反射させながら喉を切り裂いたのだという。
そしてトオルは「ざまあ見ろ。これで解放された」と言って事切れた。
「・・・・・・最後の最後に、トオルが田宮の意志を支配したんだ」
へなへなと座り込みながら耀が呟く。「これがトオルの復讐・・・・・・土壇場でトオルの意志が本体を上回った」
復讐は達成されたのだと呟く耀に、源は返事をすることができなかった。
「自分の存在に気付いてほしかったんでしょうね」
望子はそう呟いて血の海の中に膝をつき、トオルの顔の上にそっと手をかざして瞼を閉じてやった。源は望子の言わんとすることを察しかねて黙って彼女に顔を向ける。
「どうしても解せないことがあるんです。田宮に対する復讐ならば、なぜ田宮が捕まっている間に犯行を重ねたのか。田宮が警察に留置されている間に同じ手口の事件が起これば・・・・・・少なくとも六件目に関しては別人の犯行なのではないかと誰だって考えます。事実、宮本署もそう考えたからこそ二係に捜査を依頼したのでしょう」
源はかすかに眉を寄せた。
「自己顕示欲が強い。私はトオルの人格をそう分析しました。犯罪者は自分に疑いがかからないことを望むもの。それなのにトオルはあえて田宮徹の犯行ではないと思わせた・・・・・・自分の存在を知らしめたかったからという以外に、理由は考えられません」
「田宮の分身として――田宮の裏の人格として、日の当たらない場所でずっと生きて来たし、そうしなければいけなかったんじゃからな」
当然じゃ、と源は呟いた。「それでは何のために生まれてきたのか分からぬではないか。誰かに自分の存在を知ってほしかったのじゃろう」
毛布を巻かれ、担架に乗せられたトオルの体は、源や沢木たちと何ら変わらない普通の人間のものにしか見えなかった。救急隊員たちに運ばれて行くトオルを源は無言で見送った。 (了)
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
1108 / 本郷・源(ほんごう・みなと)/女性/6歳/オーナー 小学生 獣人
0086 / シュライン・エマ /女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
3452 / 不動・望子(ふどう・のぞみこ)/女性/24歳/警視庁超常現象対策本部オペレーター 巡査
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■ ライター通信 ■
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本郷・源さま
こんにちは、宮本ぽちです。
このたびはご注文いただきまして、誠にありがとうございました。
またお会いできましたこと、嬉しく思います。
前半はコミカルなテイストを目指したのですが、事件の性質上、後半はシリアスになってしまいました。
あのノリのままで通そうかとも思ったのですが、ご参加いただいた以上、本郷さまだけを事件の謎解きや真相と無関係な場所に置くことはできませんので、やむを得ずこのような形に・・・;
ちなみに、母の愛を歌った曲の歌詞は著作権の関係で書けませんでした。どうかご了承ください。
ただ、耀との掛け合いは書いていて楽しかったです。
もし機会がありましたら、また耀に会いにいらしてくださいませ(笑
なお、田宮とトオルの台詞の中に自殺志願者に対する相当に不適切な記述がございますが、それは彼らの「非常に偏った価値観」の上にのみ成立するものであり、私がそう考えていないことはもちろん、このような価値観が一般に通用するものではないと認識しているということを念のために申し上げておきます。
宮本ぽち 拝
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