コミュニティトップへ



■【---Border---】〜No1、甘美な紅〜■

雨音響希
【5566】【菊坂・静】【高校生、「気狂い屋」】

 『私には時間がないの。もうこれしか方法がないのよ。』

 “怖い・・怖い・・嫌・・こないで!!”
 直ぐ背後に近づいてくる気配に、彼女はパニックになりながら前へと走った。
 なかなか動かない足がもどかしい。
 “速く!速く!!もっと速くっ!!!”
 もっと運動しておけばよかった。
 そんな後悔はした所でもう遅い。
 そもそも後悔というものは、物事が先に進まなくなった時、詰まった時、失敗した時にするものであって、結局の所結果が出なければ後悔のしようがない。
 後悔と言うものは、先を見越してするものではない。
 過去を振り返ってするものだ。
 つまり・・彼女はこう言う状況に陥らなければ“運動しておけば”等と言う事は微塵も思わなかったであろう。
 すぐ真後ろに感じる息遣いに、思わず叫びたくなる。
 けれど乱れた呼吸からは叫びは出てこない。息をするだけで精一杯なのだから・・。
 “はぁ・・っはぁ・・っはぁ・・”
 走って走って・・いつの間にか彼女は見知らぬ森の中へと来ていた。
 鬱蒼と生い茂る木々で空は見えない。
 そして・・・いつの間にか気配がなくなっていた。やっと、振り切れたのだ。
 “良かっ・・・”
 ガクリと足元がなくなる。
 崖からうっかり足を滑らせてしまったのかも知れない!なんて不注意な・・・。
 彼女は咄嗟に手を突こうとして・・・。
 グサリと、鈍い音を確かに聞いた気がした。
 けれど彼女は自身に起こった出来事を知る術もないまま、永遠の国へと旅立って行った。

 『時間がないのよ、私には。だから・・もう・・・』

 * * * * * * *


 無残にも、腹部を貫かれた女性の写真が一枚だけデスクの上に鎮座していた。
 京谷 律(きょうや りつ)はそれから視線を逸らすと、手に持った報告書に落とした。

 数ヶ月前から、村の内外で変死体が発見される事件が数件起こっている。
 被害者は皆20代から30代の若い男女で、首筋に2つの穴が開いている。
 腹部には何かが貫通したようになっており、それが直接の死因と考えられている。
 この事件で一番不可解な事は、被害者達が極度の出血をしていると見られるにもかかわらず、現場やその近くに血痕の跡は見られていない。
 警察では凶悪犯による猟奇殺人事件だと考えられており、被害者達はどこかで腹部を貫かれた跡に現場に運ばれたと見ている。
 しかし、いまだ犯人の足取りはつかめておらず、それをあざ笑うかのように被害者は増え続けている。

 「それで、村周辺では吸血鬼の仕業だと噂されている・・か。」
 律は小さく呟くと、ふっと微笑を浮かべた。
 「もしヴァンパイヤの仕業の場合・・どうして腹部を傷つける必要がある?どう考えたっておかしい。」
 そっとカラーコンタクトを取る。
 左目が赤いのは、別に出血しているわけではない。
 「ヴラド ツェペシュよりむしろ・・・」

 『エルジェベット バートリ』



 『急募:この度ある山村に猟奇殺人事件の調査を任されました。そのアシスタントをしてくださる方を募集します。調査期間は現地に行ってみないと分かりません。報酬は調査期間と調査内容によって変動いたします。泊り込みになるかもしれませんので、それなりの用意をしてきて下さい。詳しくは 京谷 律まで。』


 * * * * * * *


 「【---Border---】を体験、読む時の注意事項が書いてあるから、以下をよく読んでね。」


 【---Border---】を体験するまたは読む時の注意事項
  1、体験もしくは読んでいる最中に寒気や悪寒、耳鳴り、その他何かしらを感じた場合“絶対に後を振り向かないで”下さい。
    また、同様に自身の“真上も見ないで”下さい。
  2、何らかの理由で席を立ったり、どうしても後を振り向かなくてはならなくなった場合、体験または読むのを止め、心を落ち着けて深呼吸をしてから振り向いたり、立ち上がったりしてください。


 「え・・?これに何の意味があるのかって?・・・さぁ、ただの注意事項だから、理由なんてないんじゃない?」

 律はそう言って微笑むと、そっとカラーコンタクトを瞳にはめた・・・。


【---Border---】〜ファイル1、甘美な紅〜



■適性

 
 この館の不思議な雰囲気はつかみ所がなかった。
 菊坂 静は夢幻館の前に立つと、ふっとその雰囲気に神経を集中させた。
 様々なモノが混じり合っている空間・・・けれどそれは決して不快なものではなかった。
 沖坂 奏都が館から出てきて、待っていましたと言うようにふわりと笑顔になる。
 「静さん、いらっしゃませ。本日はどのような御用で?」
 「特にはないんですけれど・・・」
 「それなら、少々手伝っていただきたい事があるのですが・・・」
 お手をお貸し願えませんか?と言う奏都の言葉に、静は首を捻った。
 なにかあったのだろうか・・・?
 とりあえず、奏都の導きにしたがって夢幻館の中を歩く。
 複雑な造りのこの館は、数百はあろうかと言う扉と、上下に伸びる無数の階段によって構築されている。
 その全ては他のものと一切変わる事無く、ひたすら同じ扉が廊下の端まで続いていた。
 そしてその扉の中からは、時に穏やかな雰囲気を感じ、時に恐ろしいほどに禍々しい雰囲気を感じた。
 しばらく歩いた先、1つの扉の前で立ち止まると奏都はコンコンを2回、扉をノックした。
 「はい?」
 細く繊細な少年の声が中から響く。
 「律さん、お客さんです。」
 「お客さん・・・?」
 「例の事件の・・・」
 “例の事件”?
 静が首を捻るよりも早く、扉が内側に開いた。
 そこに立っていたのは1人の少年だった。
 透ける様に淡い金色の髪、真っ白な肌、そして・・・今にも折れそうなほどに華奢な体つき。
 全身から発せられるオーラはあまりにも儚い。
 こちらが少しでも酷く接したならば、壊れて消えてしまいそうな雰囲気さえ持っていた。
 「静さん、こちらは京谷 律(きょうや りつ)さんです。律さん、こちらが菊坂 静さんです。」
 「初めまして。」
 丁寧に頭を下げる静に習い、律も丁寧に頭を下げる。
 そして顔を上げ、にっこりと微笑み―――その笑顔は純粋で、小さな子供を思い起こさせた。
 「えぇっと・・・張り紙を見て来てくれたの?」
 「張り紙・・・ですか・・・?」
 何の事だか解らずに首を傾げる静に、律がキョトンとした視線を向ける。
 しばらく2人が無言で見詰め合い・・・ややあってから、奏都がポケットから1枚の紙を取り出して静に手渡した。

 『急募:この度ある山村に猟奇殺人事件の調査を任されました。そのアシスタントをしてくださる方を募集します。調査期間は現地に行ってみないと分かりません。報酬は調査期間と調査内容によって変動いたします。泊り込みになるかもしれませんので、それなりの用意をしてきて下さい。詳しくは 京谷 律まで。』

 それを読んでやっと全てを理解した静だったが・・・。
 順序が逆だったように思う。
 普通は律に会わせる前にこの紙を渡すようなものなのだが――――
 「静君なら、俺の服で大丈夫・・・だよね?」
 「着る服のジャンルは少々違う気がしますけれども。」
 そう言って奏都が苦笑した。
 「それじゃぁ静君、入って?」
 律がそう言って扉を大きく開け放つと、中に入って行った。
 静もその後に続き・・・
 「・・・ごゆっくり。」
 奏都は一つだけ頭を下げると、扉を閉めた。
 「とりあえず、そこに座って?」
 律が静に目の前のソファーに座るように手で合図をした。
 それに素直に従うと、ソファーの上に腰を下ろす。
 柔らかいソファーは静の重みを優しく受け止め、包み込む・・・
 「今回の事件なんだけど、警察の方では猟奇殺人事件として調査をしてるんだ。でも、もしかしたら“Border”が関係しているのかも知れないって言う事もあって、こっちに捜査要請が来たんだけど・・。」
 「“Border”ですか・・・?」
 「所謂、あちらとこちらの境界線だよ。」
 律はそう言うと、パチリと電気を消した。
 窓には分厚い鉄のカーテンが下りてくる。
 真っ暗になったその部屋で、静と律の呼吸だけが大きく響く。
 「今から、ある実験を行います。・・付き合ってくれる?」
 「えぇ、どうぞ。」
 「ありがとう。」
 ピンと、何かが張り詰める音がする。
 音の振動が終わり、しばらくの静寂の後で再び何かが張り詰める。
 その音は段々周期を早め、音の振動も段々と早く、短くなる。
 それはいまや1つの音にしか聞こえなかった。
 ピーンと響く1つの真っ直ぐな音だった。
 「今、この部屋に一つの世界が誕生したよ。1つの音が作り出す不思議な世界・・。俺が言葉を紡ぐたび、世界が揺れているのが分かる?」
 「えぇ。」
 集中しなくても分かる、確かな崩壊の音・・・。
 単一の世界は壊す事が容易い。他のものを入れてしまえば直ぐに壊れてしまうのだ。
 律が言葉を紡ぐたび、危ういほどに世界が揺れ動く。
 それは見るものでも、聞くものでもない。
 “感じるものだ”・・・。
 「この、一つの世界に他の世界を組み込むね。・・感じて、その境界を。確かに存在する“Border”を・・。」
 静はただ首を縦に振った。
 言葉を紡いでしまえば、儚く散ってしまいそうなほどに世界が危ういからだ。
 「行くよ。」
 小さな合図の後で響く、低音の振動。
 それは段々とこちらの世界を侵食しようと、迫ってくる。
 徐々に崩壊を迎える世界。
 それが、ある1つの線上でピタリと止まった。
 力の均衡が取れている場所が出現したのだ。
 どちらも一進一退の攻防を繰り返す線・・・。
 「感じる?」
 小さく響く律の声さえも、この均衡を崩しそうになる。
 静はそっと、その線・・・“Border”に触れた・・・。
 ほんの刹那吹いた風・・その後に、どちらの世界も崩れた。
 正確に言えば消え去ったと言った方が良いのかも知れない。バラバラに散ってゆく世界は、甘美な儚さを持って消えて行った。
 「境界の、Borderの崩壊だよ。」
 律はそう言うと、電気を点けた。
 窓から淡い光が差し込み、段々と部屋の中に昼間の活気が戻ってくる。
 「今のは・・?」
 「適性検査・・と言ったら、怒るかな?」
 「検査・・・ですか?」
 「・・うん。Borderに触れると言う事は、それなりの危険を伴うんだ。こちら側の世界も、あちら側の世界も、危険な事に変わりはない。あちらにはあちらなりの危険があり、こちらにだって一見見えにくいようだけど危険は多々存在しているんだ。でも、最も危険なのはBorderだよ。2つの世界をギリギリの所で分ける境界線。2つの世界が鬩ぎあっている丁度中間の部分。そこが・・・Borderが一番危険なんだ。」
 「Borderが・・?」
 「そう。物事には方向性と言うものがあるんだ。こちら側の世界はあちら側の世界に向かって方向を定め、日々侵食しようと進んでいる。そして・・あちら側の世界もこちら側の世界に向かって進んでいるんだ。つまり、こちら側もあちら側も明確な方向が定まっているんだ。それはほとんどの場合は変わる事のない方向性だよ。だからBorderほど危険ではないんだよ。」
 「つまり、Borderには方向性がないと言う事なんですか?」
 「Borderは2つの力の釣り合った線上の事だよ。だから・・・Borderには方向と言う概念がないんだ。」
 静は一つだけ、同意の意を示す頷きを律に返した。
 「それで・・何故最もBorderが危険なんですか?」
 「方向性の中で住まう人々にとって、方向性のない世界は危険だよ。人はこの世界で重力と言う一つの方向性によって地に足をつけているんだ。でも、ひとたび重力の方向性を抜ければ無重力・・つまり、重力と言う方向性のない世界に進むんだ。人は地に足を着けることが困難になり、空へと飛び立つ。」
 「それで・・?」
 「それでも重力以外の方向性がまだ働いているんだ。空気の方向性だよ。外からも中からも、丁度人の肌をBorderとするように、空気はそれぞれの方向性を持ってこちら側に向かって来るんだ。」
 「その全ての方向性がなくなった時・・どうなるんですか?つまり、Borderに触れた時、僕達は・・?」
 「方向性のない物体は拡散し『無』に陥るんだ。光りも闇も、進む道も帰る道も、何もない世界だよ・・。」
 「存在の消失・・・と言う事ですか?」
 「うん、一言で言えばそうかな?」
 律は頷くと、部屋の隅にポツリと置かれた小さな丸テーブルの上からポットを取った。
 その横で逆さまにされたコップを返し、透明な水をその中に注ぐ。
 「だから、、適性検査が必要なんだ。Borderに触れた瞬間に消失する人が・・少なくないんだよ。」
 「そうだったんですか。」
 律はコップを静に差し出した。
 冷たい感触が手に伝わり、どこかモヤモヤとしていた心をふっと軽くさせる。
 「気分を害しちゃったら、ごめんね・・・?」
 静は、気にしていないと言葉に出す代わりに頭を振った。
 「それで、僕はどちらなんです?」
 「あの時・・微かにだけど、風が起こったのを知っている?」
 世界が崩れる前に吹いた、ほんの微風・・。
 「えぇ、知ってます。」
 「あれが適しているか適していないかを分ける最大のポイントなんだよ。静君は、誰がなんと言おうと適しているよ。その心の強さや、気高さが、Borderの無方向世界に立ち向かう最大の武器になるんだ。」
 「そう・・・ですか・・・。」
 静は頷くと、コップの水を一口だけ口に含んだ。



□考察


 律が事件の大よそのあらましを話している間、静はただ黙って聞いていた。
 あまりに悲惨な猟奇殺人事件に、思わず目をそむけてしまいたくなる・・・。
 「今回の事件の事なのだけど、さっきも言った通り・・俺はBorderが関係しているんだと思うんだ。あちら側の出現だよ。」
 「異なる者が起した事件と言う事ですか?」
 「・・・人にあらざる者の仕業ではないと思う。あくまで、人から脱した者の仕業だと・・・。」
 人から脱した者・・・人に限りなく近い、あちら側の人間。
 何かに魅入られてしまい、あちら側へと入り込んでしまった哀れな人。それが、人から脱した者だ。
 人にあらざる者とは、その存在自体が異なる者、こちら側の世界とは相反する者の事だ。
 「魅入られし人は、人にあらざる者よりも強いんだよ。引き込む力が、思いの力が・・・。」
 「被害者達から無くなっていたのは、血液だけですか?」
 「うん。それだけだよ。でも・・・腹部の内臓は破損が酷かった・・・。」
 それはそうだ。串刺しにされたのだから・・・。
 「そこに、何か意味があるんですか・・・?」
 「俺は、ヴラド ツェペシュだと思うんだ。」
 「ヴラド ツェペシュ・・・?」
 吸血鬼ドラキュラのモデルと言われた15世紀ルーマニアのワラキア公ヴラド3世。
 ツェペシュとは、「串刺し」の意で、彼は串刺し公とも呼ばれていた。
 「確かに、言われてみればそうかも知れませんけれど、状況が違いすぎませんか?」
 「ヴラドは自国を守るためのものだった。トルコや西ヨーロッパからの圧力に耐え、ワラキアを独立国として維持し続けるための・・・。」
 「犯人は何かを守るために被害者達を串刺しにしていると?」
 「それはまだ分かんない。でも、方法はヴラドだよ。けど・・もしかしたら犯人はエルジェベット バートリかも・・・。」
 「エルジェベット・・・?」
 静は小首をかしげた。
 確かに“バートリ”の名に聞き覚えはあった。
 「エリザベート バートリ・・の方が一般的かもね。他にも、色々と読み方はあるけど・・・。」
 「若い女性を殺しては、絞り取った血を浴槽に満たし・・つかっていた・・・あの、エリザベートですか?」
 「そう。そうする事で自身の美貌が保てると思っていた・・・。」
 微かに胸の奥でモヤモヤとしたものが広がる。
 それはだんだんと痛みを持って広がり、胸のムカツキを覚える。
 「美貌なのか、何なのかはわかんないけど、被害者達は血液だけを抜き取られている。俺が思うに、犯人は“殺す事”ではなく“血を抜く事”に拘っている気がして・・。」
 「ただ殺害するだけでしたら、血液を抜くなんて面倒な事はしないですしね。」
 「死ではなく血・・・。犯人は血によってなにを得ようとしているのかな・・・。」
 暗い沈黙が部屋に充満し、広がる。
 「やはり、エリザベートなのでしょうか・・・?」
 「一つの可能性論としては、それなりの力を持っていると思う。」
 嫌な・・・・本当に嫌な話だった。
 もしもエリザベートだとしたならば、なんて身勝手な言い分なのだろうか。本当に、身勝手な・・・。
 静は思わず天井を仰ぎ、そっと瞳を閉じた。


■捜索


 小さな村はどこか懐かしく、それでいて酷く恐ろしい雰囲気を纏っていた。
 村の入り口まで送ってくれた夢幻館が手配したと言う運転手は、物知り顔で頭を下げて去って行った。
 「つか、アイツ・・・久々に見たな。」
 「まぁな、俺らはわざわざ運転手頼むような遠くに行かねぇしな。」
 「そうかな?俺は結構送ってもらうよ。」
 律がその後に、学校に行ったり病院に行ったり・・・と続ける。
 「律の場合は特殊なんだよ。俺らはそんなとこには歩いて行ける。」
 神埼 魅琴がそう言って肩を竦め、小さく溜息をついた。
 「それにしてもここは・・・」
 梶原 冬弥が村を見詰めると、口を噤んだ。
 小さな村からは、言い表せないほどの異様な雰囲気が漂ってきていた。
 それは・・瞳を閉じなくても分かるほどにはっきりとした濃さで静を包み込む・・・。
 「この村自体が、あちらに侵食されようとしているね・・。」
 「そうですね・・。」
 「とりあえず、ホテルに泊まるんだろ?早いとこ行こーぜ!」
 「魅琴、今日泊まるのはホテルじゃなく、旅館だ!旅館!」
 「飯出て寝られるとこならみんなホテルなんだよ!」
 その解釈だと、例え公園でもホテルになってしまう。
 コンビニでお弁当を買ってきて出してあげれば・・・あとは公園のベンチで眠れるだろう。
 随分と大雑把な性格なのだと、静は理解した。
 「今日泊まるのは、この旅館だよ。」
 律が、この村にしてはそれなりに大きな建物の前で立ち止まり、3人を振り返った。
 木の看板には『涼月(りょうげつ)旅館』と書かれている。
 「まぁまぁ、ようこそお着きになりまして。」
 中から1人の女性がつつと走り出し、4人に頭を下げる。
 「どうも・・・。この度は警察署より要請を受けて参りました、特殊捜査班の京谷 律と申します。」
 「あらあら、これほどまでお若いとは・・・それで、こちらは・・・?」
 「あっと・・。」
 「京谷さんのお手伝いをさせて頂きます、菊坂 静と申します。」
 静は僅かに微笑むと、丁寧に頭を下げた。
 「それと、助手の梶原 冬弥と神崎 魅琴と申します。」
 「よろしくお願いしま〜す。」
 冬弥がピシっとした挨拶をし、魅琴がそれをぶち壊す。
 「まぁまぁ。ご丁寧に・・。私は涼月旅館のオーナーの紺野 美恵(こんの みえ)と申します。」
 40代も半ばになろうかと言う年頃の美恵は、人の良さそうな微笑で会釈をすると4人を旅館の中へと案内した。
 「こちらです」と小さく言いながら旅館の扉を開け・・・その瞬間、凄まじく禍々しい雰囲気が4人に襲い掛かった。
 「これは・・。」
 「随分と面白そうなとこじゃねぇか。」
 「お前の考え方のがおもしれーよ、魅琴。」
 ニヤリと黒い笑顔を見せる魅琴に、冬弥が溜息をつく。
 「ここは、あちら側の世界となにかしらの関わりがある所だよ・・。」
 「Borderなんですか?」
 「違う。Borderにしては世界がまとまってない・・。ここはきっと・・・・」
 「どうしたんです?」
 中々入って来ない4人を、美恵が眉根を寄せて見つめる。
 静と律はふっと視線を合わせた後で、何事もなかったかのように旅館へと入って行った・・・。


 それなりに広い部屋に、4人は案内された。
 荷物を部屋の端へと置き、窓からの風景にしばし目を留める。
 「・・さっきは、驚かせちゃってゴメンネ?」
 「何がですか?」
 「特殊捜査班の事だよ。すっかり忘れてて・・言っていなかったじゃないか。」
 「言ってなかったのか!?」
 律の言葉に冬弥が声を荒げる。
 すっかり失念していて・・・と弁解する律の顔を穴が開くほど見詰めた後で、すーっと静に視線を移す。
 「・・・何か?」
 ニッコリと微笑み返すと、冬弥が「いや、ちょっと・・・」と小声で言い、視線を逸らした。
 「それより、この場所の事なんですけど・・・。」
 「ここ・・?」
 「この雰囲気は何ですか?あちら側の世界との関わりのあるところだと言っていましたけれど・・?」
 「この旅館に出入りする人の中に、犯人がいるんだよ。それも、頻繁に出入りをする人・・。」
 「つまり、ここの従業員の中に犯人がいって事か・・?根拠は?」
 魅琴が窓の外から視線を外さずに律に質問を投げかける。
 「この雰囲気は、Borderで隔てられたあちら側の世界が近くにあるからじゃない。さっきも言ったけど、世界がまとまってない。」
 それは静も感じていた。
 純粋な雰囲気ではなく、なにかが混じりあい、絡み合っている雰囲気・・。
 「あちら側の人・・それも、人にあらざる者ではなく、人を脱したものの場合・・その人達は、隠す事の出来ないあちら側の雰囲気を引き連れて来るんだ。」
 「つまり?」
 「人にあらざるものの場合、人でないと言う自覚からか、本能的にあちら側の世界の空気を消す事が出来るんだ。きっと自衛本能のためなんだろうけど・・・。でも、人を脱した者の場合・・・あちら側の空気を消すことが出来ず、引きずったままこちらの世界に現れるんだ。」
 「そうする事でこっちとあっちの空気が混じりあう場所が出来るって事か?」
 「そう。その人が通った場所に、道筋に、あちら側の空気は残るんだ。あちら側の世界の消滅まで・・・。」
 冬弥の言葉に1つだけ軽く頷く。そして視線を足元に落とし・・・
 「あちら側の世界の消滅・・・ですか?」
 「世界は日々構築され、日々崩れて行くんだ。こちら側の世界は大きな基礎の世界だから、1つのまとまりとして存在している。けれどあちら側の世界は言わば突然発生した産物に過ぎないんだ。特に、人を脱したものが作り上げた世界は・・・。」
 この世界に無数に存在する、あちら側の世界。それと数を同じくして存在する、Border。
 「まぁ、普通の人には感じる事すら叶わないからね。あちら側の世界も、Borderも・・。」
 だからこちら側の世界は一見すると平和なのだ。
 世界が一つしかないから・・・。
 世界が一つしかないと思い込んでいるから・・・。
 「それにしても、ここの従業員・・・か・・・。」
 面倒そうな顔をしながら冬弥が髪を弄る。
 「さっき、紺野さんに頼んで従業員を紹介してもらう事にしたんだ。その・・・事件の証言を取るため、と言う目的なんだけど・・・。」
 「協力します。」
 静はそう言うと、にっこりと微笑んだ。


 しばらくして、美恵が部屋に連れてきたのは4人だった。
 ルームの間宮 桜(まみや さくら)20歳、同じくルームの松久 未夏(まつひさ みなつ)26歳、調理の坂本 一志(さかもと かずし)23歳、案内の紺野 光一(こんの こういち)46歳。
 皆一様に、あちら側の空気を引き連れている。その濃度は、濃い。
 濃すぎて誰が誰なのか、特定がつかない・・。
 「それではまず、間宮さんから。」
 律はそう言い、美恵に合図をする。
 美恵が桜以外の3人を外へと連れ出す。
 「えーっと、事件があった日、なにか覚えている事、感じた事、不審な事、何かありましたら教えてください。」
 桜が僅かに空中を眺める。
 「亡くなった則原さんって、知ってるわよね?あの人、亡くなる日の前日・・おかしかったのよ。様子が。」
 「・・様子がおかしかった・・・ですか・・?」
 静が一瞬だけ律と視線を交わす。
 「そー。なんかねぇ、血の浴槽がどうのこうのとかぁ、エルさんとかがどうとかって・・・。」
 血の浴槽・・エル・・。
 4人は直ぐにある人物の名前が浮かんだ。エルジェベト・バートリ・・。血濡れの伯爵夫人・・。
 「その他には何か言っていたことはありますか?」
 「さぁ〜あ。あたしあんまり則原さんと仲良くなかったからなぁ〜。どうせだったら、他の人に聞いてみたらどう?則原さんはここのお得意さんだったし・・。」
 「そうですか・・。それでは、事件前日も含め、なにか気になった点はありませんか?どんな些細なことでも良いので・・。」
 「ん〜。ない。かな・・?」
 桜はそう言うと、小首をかしげた。
 「エルなんとかっつーのは、エリザベート・バートリの事じゃねぇのか?」
 黙っていた魅琴が急に話し始め、桜が眉根を寄せる。
 「エリザベート・・?誰それ・・。」
 「若い女性を殺害し、永遠を手に入れるために・・その血で浴槽を満たしていたんです。」
 律の随分割愛された説明に、桜はふぅんと小さく頷くと、ポソっと言った。
 「そんなにしてまで、美しくなりたいかなぁ。ん〜でも、覚えておくわ。拷問特集とかで名前を見たりするかも知れないしね、そんな時、友達にあたしその人知ってる〜とか言って、自慢しよう!」
 桜ののん気な言葉に、静はふっとため息をついた。
 「それでは、何か思い出した事とかありましたら・・・。」
 「は〜い、了解〜。」
 桜はにっこりと微笑んでひらひらと手を振ると、部屋を出て行った。
 次に呼ばれたのは未夏だった。
 さっぱりとした初夏の雰囲気を引き連れながら颯爽と現れた未夏に“未夏”ではなく“深夏”の方が合っているのではないかと思う。
 「則原さん・・?私は別にこれと言った関係はないわ。一志さんかオーナー達が仲良さ気だったけど・・。私とか桜はそんなに知り合いじゃなかったのよね〜。」
 「お得意さんと聞きましたが・・?」
 「そうよ。って言っても、こんな辺鄙な村でしょ?3回くらい泊まればお得意様の仲間入りよ。利用者なんてほとんどいないんだから。」
 「そうですか・・・。」
 「あ・・でも、則原さん、事件当日の夜中・・凄い顔して裏の林の方に走って行ったのを見たわ。」
 「裏の林・・・何時頃か覚えてますか?」
 「真夜中よ。ふっと目が覚めて、夜風にでも当たろうとしたら・・・あの日は満月だったから、月明かりでね。ほんの一瞬だったけど・・・。」
 「そうですか・・・。」
 「私が知ってるのはこれくらい。また何か思い出したら来るわ。」
 「えぇ。それではよろしくお願いします・・・。」
 未夏は爽やかに手を振ると、来た時同様颯爽と部屋を出て行ってしまった・・。
 次に現れたのは、一志だった。
 「則原さん・・・?あぁ、別に俺自体が仲良かったわけじゃねぇんだけど、あの人が結構絡んできてさぁ。」
 「則原さんからですか?」
 「そー!あの人一人身だから、人に引っ付きたがるんだわ。もー俺としては大迷惑って感じ。」
 一志はそう言うと、ため息をついた。
 「事件当日など・・・何か覚えている事はありますか?」
 「いや、別に・・・。俺最近この村に戻ってきたばっかりだし・・・。まぁ、里帰りしてただけなんだけどな。」
 「里帰り・・・ですか・・・。」
 「嫁が村の外なんだわ。ま、なんか思い出した教えるわ。」
 一志はそう言うとヒラヒラと手を振って出て行ってしまった。
 最後に4人の前にやってきたのは、美恵と光一だった。
 この2人は夫婦でこの旅館に寝泊りしている。
 「犯人ねぇ・・・。少なくともこの村の人だとは思いたくないね・・・。」
 「そう言えば関係ない事かもしれないんですが・・・。最近桜ちゃんの様子がおかしいんですよ。情緒不安定と言いますか・・・。」
 「それは何時頃からですか?」
 「そうねぇ・・・。事件が起きる2週間くらい前からかしら・・・?」
 「もちろん、以前から喜怒哀楽の激しい子だったけれど・・・。」
 「最近は激しいどころの騒ぎじゃないんですよ。」
 「と、良いますと?」
 「急に泣き出したり、怒り出したり・・・。」
 「その原因に心当たりは?」
 「いえ、人懐っこい子なんだけど、自分の事はあまり話したがらない子だから・・・。」
 「そうですか・・・。」
 「まぁ、なんの関係もないかもしれないけど・・・。もしかしたら、ただのお年頃なのかもしれないしね。」
 美恵はそう言うとニッコリと微笑んだ。
 「事件が解決すれば、桜ちゃんも元に戻るでしょうし・・・。」
 「えぇ。早期解決に、全力を尽くします。」
 「お願いしますね。それでは今晩の夕食は7時ですので、7時になりましたらこちらにお運びしますね。」
 美恵がそう言って、腕につけている細い時計を見つめた。
 時刻は5時過ぎ・・・。
 外は既に赤く染まっていた。


□確定


 「静君は分かった・・・?」
 「なにがですか?」
 「犯人だよ。本当、わかりやすい犯人だな。」
 「え・・?」
 冬弥の言葉に、静は首をかしげた。
 「犯人は、俺達が言っていない事まで言ってしまったんだ。」
 律がそっと囁く。
 最大のヒントを・・・。
 静の顔がはっとした表情を作り出す・・・。
 「確かに、事実は事実なんだ。でも、犯人は知らないと言っていた。それなのに、事実を話し出すなんておかしいじゃないか。しかも、2つも・・・。」
 「それでは犯人は・・・。」
 「間違いないと思うよ。ほとんど・・・。」
 静は頷くと、窓を開けた。
 冷たい風が部屋の中を舞い踊り、暗く湿気った空気を散らす。
 「口は災いの元・・・ですね。」
 「でも、Borderを見つければ自然と分かる事だから。」
 律はそう言うと、瞳を閉じた。
 そうやってじっと動かないでいると、まるで死んでしまっているみたいだ。ザワリと、胸が騒ぐ・・・。
 パッと瞳を開いた律と、視線がかち合う。
 静はなぜかふいと瞳を逸らしてしまった・・・。


■Border


 裏の林・・・と言うよりは、裏山と言った所だった。
 鬱蒼と生い茂る木々は空を狭め、足場はそれほど良いとは言えなかったが、悪いと言うほどでもなかった。
 静は瞳を閉じた。
 確かに強まりつつあるあちら側の気配に、思わず気が引き締まる。
 「っかー!なんだこりゃ!ウザッテー!」
 「俺はそこまで文句と無駄口をたたくお前の方がウザッテーよ。」
 「あぁ〜?なんだと冬弥!テメ・・・綺麗な顔してっからって調子こいてんじゃねーよ!」
 「・・・顔は関係ないだろ!?」
 背後からキャンキャンと騒ぎ立てながらついてくる2人に、思わず静は苦笑していた。
 緊張感の欠片もない2人に、何故だか安心感を覚える。
 気は引き締まっているが、緊張はあまりない。
 「あっ・・。」
 背後で小さな声がして、何か重たいものが落ちる音がした。
 「どうしたんですか?」
 地べたに力なく膝を突く律。その顔は、青白い・・・。
 「・・・その、ちょっと・・クラっとして・・。」
 ヘラリと微笑む顔に、力は見られない。
 「また“アレ”か・・・?」
 「アレ?」
 「貧血だよ。」
 冬弥がそう言って、律の顔を覗き込む。
 「本来こうなった場合血を飲ませないと・・・」
 「アイツはハーフなんだよ。人と吸血鬼の。」
 魅琴の言葉を聞くより前に、静は右手首の包帯をシュルリと外した。
 「おまえっ・・・」
 手首を見ていた魅琴が思わず声をあげる。
 静の細い手首についた、無数の傷跡。
 それは古いものから新しいものまであり・・・痛々しい・・・魅琴は思わず目を背けた。
 思わず自身の右手首を掴んでしまう―――。
 律の元に駆け寄ると、静は躊躇なく幾つかの傷口を開いた。そして、手首を律の口元に持って行く・・・。
 「静!!!」
 冬弥が声をあげる。それには、驚きの他に悲しみが混じっているようにさえ感じた。
 コクコクと小さく喉を鳴らしながら静の血を飲み―――律がぐったりと閉じていた瞳をパチリと開いた。
 「気がつきましたか?」
 「え・・・あっ・・・。」
 律の視線が真っ直ぐに静の手首に注がれ、その瞬間、顔色を変える。
 「俺っ・・・!!ごめんなさいっ・・・俺がっ・・・また・・・傷つけて・・・飲ませ・・・血っ・・・」
 カタカタと震えだす律の肩に手を置くと、静はふわりと柔らかく微笑んだ。
 「飲ませる?血?何の事?僕はただ怪我をしただけだよ。ね?」
 そう言って冬弥と魅琴を見やる。
 「・・・あぁ。」
 冬弥が何かを言おうとして、頷いた。
 とりあえず先に進もう。そう言うと、魅琴が律の事を抱き上げた。
 今さっき貧血で倒れたばかりの律に、あまり無理をさせるわけにはいかない。元々律の体力は酷く少ないらしく・・・確かに、言われれば納得が出来た。
 華奢な体つきも、全身から滲み出る儚いオーラも、今にも壊れてしまいそうなほどに繊細だ。
 魅琴と律が先に立って歩き、その後ろを冬弥と静が歩く。
 「なぁ、アレ・・・なんなんだ?」
 「何の事ですか??」
 「手首・・・」
 「怪我をしただけですよ。」
 ふわり、穏やかに微笑むその笑顔は色っぽくもどこか寂しげだった―――。

 
 あちら側の気配の強い方へと、どんどんと進み・・・急に視界が開けた。
 視界が開けたと言っても、別に木々がなくなったわけではない。
 空気が強い方向性を持って、ばらばらの方角から一つの方向へと向かっているのだ。
 混じりあった方向性ではなく・・強く、揺ぎ無い力だった。
 「ここが・・・Borderだよ。」
 律が目の前の空間を指差す。
 そして・・何かの線に沿って、すーっと宙を滑らせる。
 あの、夢幻館で行った時と同じ、世界の狭間の空間。それは確かに巨大な力を持ってそこに存在していた。
 「・・・行こう。」
 「さってと、犯人さんのお出ましってか?」
 そう言って最初に律と魅琴がそこを通り、次に静が通る。
 一瞬だけ感じる、言葉に言い表せないくらいの不安感。
 体がバラバラになってしまいそうなほど、無の空間・・・それはほんの刹那の出来事だった。
 Borderと言う、境界の空間を抜ける間の出来事だった。
 そして抜けたそこ・・体中に纏わりつく、あちら側の世界。
 「大丈夫か・・・?」
 「えぇ、大丈夫です。」
 頷いた静の背後から、冬弥もやって来て・・・4人は、真っ直ぐに濃い気配の方へと進んだ。


■人から脱した者


 暗く暗鬱な雰囲気、身体に纏わりつく重い影。
 ねっとりとした濃厚な気配が、1歩1歩と踏みしめる度に静に襲い掛かる。
 胸が苦しいような、息をするのが困難な状態だ。
 「・・っはぁ・・っはぁ・・。」
 それは隣を歩く律も同じらしく、額からは汗が一筋滑り落ちる。
 「だぁぁ、キッメー場所。」
 「ルッセーぞ魅琴・・・。」
 この涼しい・・いや、寒い気温の中で垂れる汗は、発汗作用に従ってのものとは違っていた。
 禍々しい空気は、一定の規則性を持ってある方向へと引っ張られていた。
 ・・ザっと、木々が分かれた。
 空が四角く切り取られた場所・・・。
 そこに、人から脱した者は座っていた。
 長い髪を風になびかせ、ただ、空を見上げて。
 「・・見つけましたよ。」
 苦しそうな律の声が辺りに響く。
 黒い瞳がこちらを見、そして・・・満面の笑みで4人に言葉を投げかけた。
 「いらっしゃい。」
 「間宮・・・桜さん。」
 律の呼びかけに、桜はただ微笑んで頷いた。
 「うん。そう。」
 サァっと風が吹く。それは、先ほどまでとは方向を別としていた。
 4人の背から吹く追い風ではなく、4人に吹く向かい風。
 強烈な血の匂いが全身にこびりつく。
 しかし、地面に血の跡はない。
 「どうして私だと分かったの?」
 「俺は、確かに“永遠を手に入れるため”と言いました。けれど、貴方は直ぐに美と結びつけました。普通だったら“生”と結びつくはずなのに・・・。」
 「こじ付けね。それだけ?」
 「そして貴方はこうも言った。“拷問特集とかで名前を見たりするかも”と。俺がいつ、拷問と言う言葉を出しました?確かに、エリザベートは鉄の処女を使ってメイド達を殺害していました。それは事実です。では何故貴方は拷問だと思ったんです?俺はただ、メイド達を殺害したとしか言っていないのに・・・。」
 「そんな些細なことに気付くなんてさすがね。不思議な男の子達と・・・吸血鬼と鬼の怪奇探偵さん。」
 桜が不敵な微笑を口元にたたえながらそう言った時、静の隣で律が膝を折った。
 「どうしたんですか・・・!?」
 そう言ってぱっと隣を見た瞬間に、事の重大さに気がついた。
 全身を震わせ、どこか1点を見つめている律。
 顔は蒼白になり、小さく悲鳴を上げながら何かを呟いている。
 「ヤバ・・・発作か・・・?!」
 冬弥の声が響く。しかし、それ以上に強く儚い声で律がうわごとのように言葉を紡ぐ。
 「・・・けて・・・やめて、来ないでっ・・・ごめんなさいっ・・・。ごめんなさいっ!ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
 繰り返される謝罪の言葉は、誰に述べられているのかは分からなかった。
 心拍数が異常に増加し、呼吸も荒く小さくなる。
 何かのショック状態に陥っている律に、静は唇を噛んだ。
 事態は一刻を争うものだった。
 しゃがみ込み、そっと頬に両手をそえ、こちらを向かせる。
 せわしなく動く瞳はどこを見ているでもなく、明らかに焦点が合っていない。
 「律君、僕の目を見て?大丈夫だから、ね?」
 「・・やっ・・・!!」
 イヤイヤをするように、首を軽く振る。苦しそうに吐き出される息に、もしも色が付いていたならば、赤だろう。
 血の滲んだような、残酷で甘美な紅―――
 「ゆっくり息をして・・・僕の名前、分かる?」
 静の視線は優しかった。しっかりと律を瞳の奥に閉じ込めて、ふわりと包み込む。
 「来ないで・・・。」
 瞳を潤ませながら、本当に些細な抵抗を見せる律に何度も言葉をかける。
 段々と弱まってくる震えが、律をこちらに引き戻されようとしている事を告げる。
 焦点が合う。儚く消えてしまいそうなほどに弱弱しい視線が静の視線と合う。
 「・・・静・・・君・・・?」
 「お帰り。」
 ふわりと優しい微笑み。ソレを見て、律が安心したかのようにふっと全身から力を抜いた。
 クテンと、静の腕の中で気を失う。
 きっと精神的に疲れたのだろう・・・。そう思ったその時、背後から走ってきた桜が物凄い力で静から律を奪った。
 それはとても女性が出せる力ではなかった。
 いくら華奢で軽そうな律でも、女性が小脇に抱えられるはずがない・・・。
 「梶原さん!神崎さん!」
 「わぁってる!おい!このクソアマ!律の事返しやがれっ!」
 「おま・・・口が悪すぎなんだよ!」
 こんな時までも不毛な口喧嘩をする2人に、呆れるどころか少し尊敬の念を送ってしまいそうになる。
 緊張感がないと言うか、何と言うか・・・。
 「貴方達は、分からないでしょうね。死んで行く悲しみなんて。」
 「あ・・・なんだって・・・?」
 「私ね、不治の病に侵されているの。後半年の命って医者に言われたわ。けど・・・私はまだ20よ!?やりたい事の半分もやっていない!夢だって、まだ叶えてない!」
 「だから、人を殺めたんですか?」
 「・・血には延命の効果があるって、聞いたのよ。あのエリザベートも、死の間際まで美しかったと書いてあったわ!多少の犠牲は必要だったのよ!」
 静は僅かに眉をひそめた。
 それは、同情の念からだった。彼女を酷いと罵る前に、可哀想だと心から思った。
 自己のために犠牲を省みない彼女。それは・・・あまりに身勝手な我侭だった。
 「貴方達が丁度立っているその真下に、ヴラドが眠っているのよ。その真上に来た人々は、さながらトルコ兵ね。」
 つまり、この下に何かしらの物が埋まっているのだ。
 おそらくは・・・巨大な杭かなにかが・・・。
 「私がこのボタンを押せば、そこが開く仕組みなの。なかなかハイテクでしょう?ここに来た人達は皆その中に落ちて、私のために命を捧げてくれたわ。」
 捧げたのではない。奪われたのだ。彼女によって・・・。
 「俺達の事、殺そうってわけか?」
 「えぇ。いずれね。でも、こっちの怪奇探偵君の方が先・・・・・」
 桜は小脇に抱えた律を見やった。
 「・・・・・ふふ。」
 「やめてくださいっ!!」
 妖しく微笑んだ桜の、手元で何かが光った。
 銀色にぬめりと輝く・・・小さなナイフだった。
 小さいとは言っても、それで胸を一突きすれば心臓まで届くくらいの長さはある。
 「儚くて、今にも消えてしまいそうな男の子。折角こんなに綺麗なんだから、今すぐに、終わらせてあげるわ。混血は、肌のためにも良いし。」
 「ったく、あのアマ!ざっけんじゃねーぞ!?律が怪我したら奏都に怒られるのは俺らの方なのによ〜っ!!」
 「そー言う問題じゃないだろっ!?」
 冬弥がそう叫んで、刹那、すっと意識を集中させた。
 何か透明で不安定な物体が桜の方へ飛んで行き・・・
 「きゃっ!?」
 短い悲鳴の後で、落ちるナイフは微かに律の腕を傷つけた。
 けれどそれはほんの一筋赤い線が入っただけで、命に関わるようなものではなかった。
 「さっすが、冬弥の“壁”は展開はえーな。」
 「練習の成果だろ?」
 桜が律を腕から落とし、膝を折った瞬間・・・静の足元が急に冷たくなった。
 足元で1陣の風が吹く・・・。
 地面に膝を折った時、偶然にもスイッチが入ってしまったのだ・・・!
 「うぉっ!?ヤベ・・・静っ!?」
 一番近くに居た魅琴が手を伸ばすが、それは虚しく空を切った。
 咄嗟に出した手を、何者かが掴み、引っ張り上げる。
 「奏都・・・さん・・・?」
 目の前に居た人物の名前を、驚き半分に口に出す。
 「えぇ。危なかったですね。」
 表情こそ穏やかに微笑んでいるものの、手には小さなナイフが握られ、その刃先はしっかりと桜の心臓に向けられていた。
 少しでも桜が動いたならば容赦なく飛んで行きそうだ・・・。
 「あぁ、やはり律さんは気絶してしまったのですね。直ぐに後から警察が来ます。諦めてください、桜さん。」
 「警察・・・!?そんな所に入ってしまったら、私は・・・」
 奏都が薄い微笑を浮かべながら、桜の足元でぐったりと眠る律の身体を抱き起こすと、律の身体を魅琴に預け・・・
 「あぁ、不用意に動かないでくださいね。今、ちょっと調子が悪くて・・手加減が出来る常態ではないので。」
 「・・・貴方達のせいよ!私の人生・・・台無しだわ!」
 「けれど、被害者達の生涯を無理やり閉じたのは貴方です。未来も過去も、全てを閉じたのは・・・貴方です・・・。」
 静はそう言うと、桜に同情の瞳を向けた。
 浄化され、闇が消えつつある彼女は、段々と殺気がなくなって行く・・・。
 「さて、それでは俺達は引き上げるとしましょうか。ここには特殊な結界を張るましたから、彼女はここから出られません。後は警察に任せましょう。」
 「・・・そうですね・・・。」
 静は小さく頷いた。
 「はぁぁ〜なんか疲れた。ってか、腹減った〜・・・」
 「なんでお前はそんなに切り替えが早いんだ?単細胞生物なのか!?」
 律を抱えた魅琴が歩き出し、その隣を冬弥が歩く。
 地面の下から香る、血の匂い。
 それは全身にべったりと纏わりつき、絡みつく。
 息苦しいほどの重さを持って・・・。
 “痛いよ、悲しいよ、怖いよ、寒いよ、寂しいよ・・・”
 聞こえてくる死者達の念は、確かな力を持って静の腕に、足に、背に、纏わりつく。
 そっと、心の中で彼らに祈りを捧げた後で、静はBorderを通り、こちら側の世界へと帰ってきた。


 「あぁ、そうです。桜さん。貴方は一応大本は人なので分からないかも知れませんが、ここは被害者達の念で満たされているんですよ。可哀想ですから、俺の力を少しわけてあげましょう。大丈夫ですよ、ほんの少しですから。小指の爪ほどにも満たないくらいですよ。・・・ほら、段々と聞こえるでしょう?見えるでしょう?被害者達の姿が、声が・・・。」
 4人が向こう側に行ってしまったのを確認した後で、奏都は冷酷に微笑むと、桜に頭を下げた。
 桜の表情がどんどん青くなり、ついには真っ白になる。
 カタカタと震える肩、何かを言っている唇。そして、1点を見つめたまま、力なく頭を振る。
 「いや、来ないで・・・。お願い、許して・・・。」
 「許して・・・とは、随分な物言いですね。彼らだってそう願った。けれど、それを許さなかったのは貴方でしょう?さぁ、楽しんでください。警察が来るほんのひと時の間だけでも、彼らとの対話を・・・ね。」
 そう言い残すと、奏都はの4人後を追った。


 奏都がBorderから出てきて直ぐに、あちら側の世界から悲鳴が上がった。
 それは確かに桜の声だった。
 「どうしたのでしょうか・・・!?」
 「そうですねぇ・・・。あの場所に残った、死者達の念にでもあてられたんでしょう?ほら、警察が来ましたよ。」
 赤いライトが小さな村を照らす。
 チカチカと回るライトは木々に反射し、まるで巨大な手が手招きしているようにさえ見える。
 こちらにおいでと・・・。


□終幕の時


 後日、新聞には一面にあの事件の事が取り上げられた。
 間宮 桜は逮捕され、判決が下る前にこの世を後にした。
 「彼女はあちら側の世界の住人になりましたよ。」
 「え・・・?」
 夢幻館に呼ばれた静は、出された紅茶の香りを楽しんでいた。
 高級感漂う香りが静の鼻をくすぐる。
 「どこかに彼女の異界が発生したんです。それは俺にもわからないんですが・・・。」
 律はそう言ったきり、押し黙ってしまった。
 そして、静もその件については詮索をしない事に決めた。
 もしも彼女が異界で力をつけ、こちら側に侵食してこようとしたら、きっと分かる・・・。
 「それでは今回の報酬なんですが、これくらいでどうでしょうか?あまり多いとは言えないので申し訳ないのですが・・・。」
 渡された小切手に並ぶ、ゼロゼロゼロ・・・3・・。
 普段の報酬の3倍近い値段に、思わず驚いてしまった。
 「え・・・あの・・・」
 「今回は、どうも有難う御座う。その・・・俺が迷惑をかけちゃったみたいで・・・。」
 「そんな事ないよ・・・。」
 「もしまた機会があったら、よろしくね??」
 「そうだね。」
 静は穏やかに微笑むと、カップを置いた。
 「・・静君は、彼女があちら側の世界に引き込まれた要因は何だと思う?」
 「自分の命の期限を知っての事じゃなかったの?」
 「それも、一つだけど・・彼女を引き込んだのはヴァンパイアだよ。」
 「どう言う事?」
 「可笑しいと思っていたんだよ。幾ら腹部を貫こうとも、被害者達の血液がこれほどまでなくなるはずがないって・・・。静君覚えてる?被害者達の首筋についていた2つの穴を。」
 「・・・もしかして、それが・・・?」
 「吸血鬼だよ。確かにあの村に存在し、遺体を発見された場所へと移した・・・。ヴァンパイアだよ。」
 律が机の上から数枚の紙を静へと渡した。
 なにか良く分からない記号のようなものが並び、最後に赤い文字で“合致”と言う判が押されている。
 「これは?」
 「被害者達の首筋から、微量な唾液が検出されたんだ。被害者達の血と混じり合った・・・。その唾液は、確かに吸血鬼の規則性を含んでいたんだ。」
 「吸血鬼の規則性・・?」
 「物事の根本的なところの事。俺も詳しくは知らないんだけど・・・。DNAのようなものだと、俺は思ってる。」
 「それで?」
 「今回の事件、遺体発見現場の周りに足跡らしきものはなかったんだ。そして間宮さんは、遺体を移動した覚えはないと証言してた。警察の方も、女性一人で遺体を動かすのは無理だと言っている。だから、共犯者がいるのではないかって・・・。」
 律がそっと窓を開けた。
 少しだけ冷たい空気が、部屋の中に一つの方向性を持って入ってくる。
 「発見現場の周囲には、誰も近づいた後がなかったんだ。そして、これは非公式なんだけど・・・間宮さんは共犯者についてこう証言しているんだ。」

 『ドラキュラよりも現実に近い、ドラクルだと・・・。』

 ドラクル・・・それは、あのヴラドの父で悪魔公と呼ばれていた人物・・・。
 「確かに、彼女は間違った証言はしてないよ。ドラクルと言う愛称で呼ばれるヴァンパイヤを、俺は知ってる・・・。」
 「と言う事は、今回の事件は・・・その2人が起こした事になるの?」
 「うん。でももしかしたら、ドラクルが間宮さんを魅了したのかも・・・。あちら側の世界へと・・・。」
 「心の隙間から・・・?」
 その隙間から入り込む甘い誘惑は、じんとした痛みと温かさを持って沁みこんで行く。
 決してその力に購えなくなるまで・・・。
 「これで、遺体の発見現場に足跡がなかったのも納得が行く。彼は空ですらも、自由に歩ける。」
 高く晴れ渡る空に、鳥達が舞い遊ぶ。
 自由に、何の障害もなく・・・。
 「そうだね・・・。」
 静はそう言うと、薫り高い紅茶を飲み干した。


      〈END〉

 
 ◇★◇★◇★  登場人物  ★◇★◇★◇

 【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】


  5566/菊坂 静/男性/15歳/高校生、「気狂い屋」


  NPC/京谷 律/男性/17歳/神聖都学園の学生&怪奇探偵
  NPC/梶原 冬弥/男性/19歳/夢の世界の案内人兼ボディーガード
  NPC/神崎 魅琴/男性/19歳/夢幻館の雇われボディーガード
  NPC/沖坂 奏都/男性/23歳/夢幻館の支配人

 ◆☆◆☆◆☆  ライター通信  ☆◆☆◆☆◆

  この度は『【---Border---】〜ファイル1、甘美な紅〜』にご参加いただきまして有難う御座いました。
  作中、犯人が「エリザベートも、死の間際まで美しかった」と言っていますが・・・実際には違います。
  1611年、貴族裁判でエリザベートは終身禁錮刑になりました。本来なら死刑のはずでしょうが、エリザベートは王室と血縁関係のある貴族でしたので・・・。
  エリザベートはチェイテ城の一室に幽閉され、1614年8月21日に享年54歳で死去しました。
  その身体は痩せ細り、かつての美貌(エリザベートは若い頃は美女でした)は見る影もなくなっていたと言います。
  もう1人、ヴラド ツェペシュは、1476年にブカレスト近郊でオスマン・トルコと戦って戦死したと言います。
  甘美な紅を執筆するにあたって、エリザベートとヴラドをかなり調べたのですが・・・。
  色々と恐ろしいことが書いてありました・・・。その恐ろしさのほんの一欠けらでも作中に盛り込めていればと思います。

   それでは、またどこかでお逢いいたしました時はよろしくお願いいたします。