■週末のバトラー■
エム・リー |
【4790】【威伏・神羅】【流しの演奏家】 |
場所は、都心部の街中。
路地をいくつか折れ入った場所に、モダンな洋館がひっそりと佇んでいます。
看板の代わりに掲げられているのは薔薇をメインとしたリーフ。芳しい花の香りに惹かれて門をくぐれば、そこには執事やフットマンに扮した数人の殿方が、扉を潜り抜けた貴方をお出迎えするのです。
「おかえりなさいませ」
催されるのは春のお茶会。
庭に置かれたテーブルを囲む、桜をメインとした春の花々。運び、並べられるのは洋菓子職人が腕を揮い手がけた洋菓子の数々。
――――の、はずだった。
「うおおおぉぉぉお! 誰だ、うぉれが作った菓子を食ったのはぁぁあ!」
漂う上質な空気を壊すのは、キッチンで洋菓子を手がけていた洋菓子職人の叫び声。
彼の前には、並んだ数枚の白磁の皿。その皿には菓子がのっていたのだと思わせる痕跡が残されている。
――そう。洋菓子の数々は、テーブルに運ばれる前に、何者かによってことごとく食されてしまっていたのだった。
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週末のバトラー
都会の喧騒を外れ、民家も絶えたその場所に、その洋館はひどくひっそりとした佇まいで建っていた。
決して大きな邸宅というわけではない。一見すれば、それは少しばかり小洒落たイメージを有しているだけの――そう、外観からすれば、ドイツのそれを模して建てられたようだ――、いわばなんの変哲もない、ただの館に過ぎないものだ。
アーチ型の門にはバラをメインとしたリーフが飾られ、そこには客人が到来を知らせるために用いる呼び鈴が用意されていた。
門の向こうには春を思わせるに相応しい造りのなされた庭が広がり、その中を白い石で敷かれた歩道が伸びていく。
晴れ渡った、心地良い蒼穹の下、真白な外装の洋館と、真白な歩道と、目にも鮮やかな緑とが広がっている。
この全てが、今、館に訪れる客人達を迎えるためのものなのだ。
「おかえりなさいませ、シオン様」
呼び鈴を鳴らし、数十秒。
仕立ての良い燕尾服に身を包んだ侘助と、やはり同様に燕尾服を身につけた野田灯護とが、シオン・レ・ハイを出迎えに現れた。
シオンの出で立ちはといえば、ドイツの館を思わせる洋館とは異なり、英国紳士を思わせるようなものである。すなわち、黒いタキシードに白シャツ、カフスボタンに磨き上げられた靴。――全てが一流ブランドで揃えた高価品だ。
――だが、ひとつだけ。
「こ、こんにちは。お招きありがとうございます」
恭しく腰を折り曲げる二人に対し、シオンもまた深々とした礼をする。その動作に合わせ、シオンの頭の高い位置でとめられたツインテールがゆらゆらと揺れた。
「――すげえ……いえ、お見事な縦巻きロールだ……ですね」
野田の目が、真っ直ぐにシオンのツインテールへと向けられる。
「え? そうですか!? ちょっと着合いいれてきたので、そう言っていただけると嬉しいですっ」
いかつい中年男といった見目とは裏腹に、シオンは満面に笑みを浮かべて頭を撫でた。その指先に、ツインテールの結び目につけた桜の花飾りが触れる。
「お荷物をお持ちいたします」
燕尾服姿の侘助がシオンに微笑みを向けて、白い手袋をつけた両手を差し伸べた。
シオンは一頻りふるふるとかぶりを振って遠慮を見せたが、何度目かのやり取りの後に、それでもやはり遠慮がちにではあるのだが、持っていたアタッシュケースを侘助へと手渡した。
侘助は預かったアタッシュケースを野田へと渡し、そして、ふとその視線をシオンの後ろへと向けた。
「申し訳ありません、シオン様。――奥様と神羅様がちょうどお帰りになられましたので、しばしお迎えに行って参ります」
「え? お、奥様ですか!?」
思わず振りかぶって後方を確かめたシオンの目に、青丹色の和服の女と、黒いパンツスーツ姿の女とが映った。
青丹色のちりめん地に、鮮明な色使いで四季折々の花々が描き出されているという、見目にも美しい訪問着を身につけた女は、黒澤早百合。
一方、飾り気はないながらも、細身にデザインされたパンツスーツにパンプスを合わせるといった出で立ちの女は、威伏神羅。
以前、とある不思議なホテルの中での面識を得た事のある二人は、この洋館を訪れるその途中で、偶然にもばったりと顔を合わせていたのだった。
「あら、あなたとは初めましてね」
出迎えに現れた侘助を見上げ、和服姿の早百合はフフと小さな笑みをこぼした。
「おかえりなさいませ、奥様」
恭しい礼を見せた執事とフットマンに、早百合の表情が大きな喜色を滲ませる。
「奥様ですって!? ねえ、もう一度言ってくださらない? 奥様って、もう一度!」
「――奥様」
「ああっ! 素晴らしい響きだわっ! ね、もう一度」
「おかえりなさいませ、神羅様」
終わりのない繰り返しを広げている野田と早百合を横目に、腰に手をあてがった姿勢で立っている神羅に向けて頭を下げた侘助に向けて、神羅はフフンと鼻を鳴らした。
「田辺の菓子が食せるという事であったから、もののついでに来てやったわ」
「ありがとうございます。――田辺はただいま皆様にお出しするためのアフタヌーンティーを用意しております。後ほど神羅様の元へご挨拶に伺わせますので、もうしばらくお待ちください」
そう返して、侘助はふと穏やかに頬を緩めるのだった。
「オ――――ホホホ! どうじゃ、わらわが築き上げたこの夢のような喫茶は!」
八名もの客人が一堂に会したリビングでは、この日開かれたこの執事喫茶のオーナーたる井の頭弁天が高々とした笑い声をあげていた。
「わらわがナンパ――もとい、声をかけて回り、今日この日のために集めたイケメンを取り揃えてみた喫茶じゃ。客人方は各々この者達を好きなように跪かせるが良いぞよ!」
高笑いと共にそう告げる弁天の言葉に、中藤美猫とシオン・レ・ハイとが惜しみない拍手を送る。
リビングの一面はガラス張りになっていて、その向こうには手入れのなされた春の庭が広がっている。
開け放たれた窓からは涼やかで心地良い風が流れこんでくる。
さわさわと静かに動き回りながら、丸テーブルに座っている八人の前にそれぞれ揃いのカップを置いていくのは、フットマンのデューク・アイゼンと糸永大騎、それに野田灯護。
デュークの動きは流麗そのものといった風で、初めてフットマンを担当した者であるなどとは、到底信じ難いものだ。
「ねえ、ねえ。あなた、お名前は?」
自分の前にカップを置いた灯護の腕をしっかりと掴み、色香といったものを全面に押し出して微笑みを浮かべているのは黒澤早百合。
「の、野田」
「野田くんっていうの? 下の名前は? 独身よね? 年上の女ってどう?」
怒涛のごとくに問い掛けてくる早百合に圧倒されたのか、灯護の顔には明らかな戸惑いの色が滲む。
「失礼いたします。――奥様、私共は、こちらでは、下の名を持たぬ身でございます」
戸惑いを顕わにしていた灯護に救いの手を伸べたのは、ゆったりとした笑みを乗せた侘助だった。
「――奥様、ですって?」
早百合の目が光る。同時、灯護は早百合から解放されて、それに代わり、今度は侘助が早百合の手に捕らえられるところとなったのだ。
「美猫さ――お嬢様は、お茶はなんにいたしましょうか」
美猫と鎮とが座っているテーブルはデュークが担当するところとなった。
「え? お茶、ですか?」
目をぱちくりとさせる美猫に、デュークはふわりとした笑みを浮かべてうなずく。
「紅茶の茶葉でございます。ダージリン、アッサム、キームン、ニルギリ。フレーバーティーも各種ございます」
「え……じゃあ、美猫はミルクに合うものがいいな」
「では、ルフナにいたしましょう」
小さな礼を残し、踵を返す。そこには鎮が座っていたはずだったのだが――鎮はいつの間にかイタチ姿をとっていた。
「俺もそれにする! ミルクティー! ミルクティー!」
鎮が身につけていたタキシードをそのままミニチュア化させたかのような服をまとったイタチが、椅子の上でじたばたとシッポを振るわせる。
「かしこまりました」
続けて鎮にも礼を残すと、デュークはそのまま静かにテーブルを後にしていったのだった。
「あら、あなたとは初対面ね」
テーブルの担当となった糸永大騎の顔を見上げ、シュライン・エマは頬杖をついて微笑みを浮かべた。
大騎はシュラインの笑みを受けてわずかに肩を竦め、少しばかり口許を緩めてみせただけで、特に言葉を返そうとはしない。
「私もこの方とは初めましてなのです」
マリオンがシュラインに続き、
「あたしもでぇすわ」
八重がちょこんとうなずいた。
「……俺は日頃はテーラーをやっている」
三人の視線を受けて、大騎は金色に光る髪を無造作に掻き混ぜ、ため息をひとつ吐く。
「テーラー? あら、じゃあ、今日のこの燕尾服はあなたが?」
「ああ。……いや、はい。こちらの衣装は、全部俺が……私が担当いたしました」
「なるほどなのです。一般的な燕尾服と比べて、ちょっと変わったデザインをしてると思ったのですが、大騎さんのオリジナルだったですね」
なるほどとうなずくマリオンを見やり、大騎は胸ポケットから小さなメモを抜き取って、改めて三人を順に確かめる。
「お飲み物はどうしますか」
「おのみものはなにがあるのでぇすかしら」
「紅茶の茶葉ならばある程度は」
「じゃあ、あたしに似合うおちゃをお願いするわ」
大騎の顔を覗きこんで、八重が胸を張った。
「――では大奥様をイメージしたもので、ダージリン・オカイティーをミルクで淹れてまいります」
「オカイティーがあるという事は、もしかしたらシッキムもあるでしょうか? あったら、私はそれをお願いしたいです」
マリオンの表情が輝き、大騎はそれにうなずいた。
「じゃあ、私は木苺を使ったフレーバーティーを」
「かしこまりました、旦那様」
リビングの、一番窓際に近いテーブルに案内されたのは、威伏神羅と早百合、そしてシオンの三人だった。
「お飲み物はどうしますか」
不慣れな燕尾服がぎこちなく感じられるのか、テーブルの担当となった灯護は首元を気にしつつも三人の顔を順に確かめる。
「私は何でも。――あの、何か甘いものがあれば嬉しいのですけど」
黒髪を頭の高い位置でツインテールにまとめたシオンが、灯護に満面の笑みを向けた。
「ええと、甘いものですか。――あぁー、確かここって紅茶がメインだとか言ってたような」
灯護の口からは、仰々しい物言いはいつの間にか消えている。
「あら、紅茶がメインなのね。じゃあ私はニルギリを貰おうかしら」
艶然とした笑みを浮かべ、早百合は頬杖をついて灯護を見やる。その視線から逃れるように、灯護はついと視線を外して神羅に顔を向けた。
「うん? 私か? ううむ、紅茶と言われたところで、生憎と詳しくないものじゃからのう。……田辺は奥におるのじゃろう?」
「田辺さんだったら、さっきからずっと菓子とか焼いてるみたいっすけど」
「ふむ。ならば、私は田辺の好みに任せよう。神羅がそう申していたと伝えてくれたらそれで良い」
「何だか分かりませんけど、了解しました。――で、シオンさんは?」
神羅の言葉にうなずきながら、灯護は、今度はシオンを見やる。
「じゃあ、私も田辺さんにお任せでいいでしょうか。――私もあまり詳しくないですし、その、せっかくですし」
ヒゲを生やした中年が、そう口にしてほんのりと頬を染めた。
灯護は少しばかりげんなりとした面持ちで早百合とシオンとを見やり、
「少々お待ちください」
と言い残し、リビングの隣に続くキッチンの方へと消えていった。
「各々、飲み物の注文は済んでおるかの? ささ、今日は良い日和に恵まれた。茶の用意が整うまでの間、花咲くこの庭先で思うさま春を堪能するがよいぞよ」
窓の傍で、弁天が再び高らかにそう告げた。
リビングに面した庭はそれなりに広く、手入れも届いており、そして何より、春の色とりどりで覆われていた。
過ぎる風は心地良く、見上げればそこには雲ひとつない蒼穹が広がっている。
――――春や春 春爛漫の、といったところであろうか。
リビングを越えたキッチンからは、鼻をくすぐる香ばしい匂いが漂ってくる。
「――ああ、いい匂いですね」
テーブルについたままのシオンがぼんやりと呟いた。
他の皆はこぞって庭先へと出て行ったというのに、彼は今、どうしてもこれ以上の動きを取る事が出来そうにない状態だった。
「当店自慢のお抱えパティシエがの、特製洋菓子を手がけておるのじゃ」
ぬっと顔を突き出してきたのは弁天であったが、シオンは、さほどには驚いた様子も見せず、ただぼんやりとうなずいた。
「私、今日で三日目なんですよ」
「三日目? 何がじゃ?」
「三日前に食べたカップ麺を最後に、買いだめしておいた食べ物が無くなってしまって……」
消え入りそうな声に合わせ、腹の虫が盛大な声で不平不満をまくしたてる。
「な、なるほど。もう間もなく出来るはずじゃからな。もうしばし待っておれ」
今にもふっと倒れこんでしまいそうなシオンを残し、弁天はその足を庭先へと向けた。
「しっかし、本当に、無駄ってぐらいにごーじゃすだな」
庭の花々の間を縫うようにしてチョロチョロと走り回っているのは、イタチ姿の鎮だ。
他の皆は、花々の美しさやら何やらを話し合っているのか、足元をちょろちょろと走っている鎌鼬の事になど気がつく様子もない。
大きく伸びた蕗の影に身を潜め、鎮は後ろ足で立って周りを見やった。燕尾服姿の男達は、リビングの中を忙しなく動き回っている。
「……ん?」
鼻先をくんくんと動かして、カウンターに視線を向ける。――そこには、出来上がったばかりなのだろうと思しき洋菓子が皿に盛り付けられ、置かれていた。
「おおおおお!」
呟き、目を輝かせる。
おりしも、時間はおやつの刻の近くを指していた。
つまり、鎮は今、猛烈に空腹だったのだ。
「あれ? これって」
一足早く庭を引き上げてリビングへと戻ってきたマリオンは、カウンターに置かれた数枚の白磁の皿に目を向けた。
皿の上には焼けたばかりの洋菓子が、デコレーションも美しく盛り付けられてある。
見れば、向こうにはサンドウィッチを乗せた皿と、――おそらくはスコーンが乗るのであろうと思われる皿も用意されていた。
「ケーキ、ですね」
呟いた言葉に、自分でうなずいてみる。
きょろきょろと周りを確かめてみるが、リビングの中には誰の姿も見当たらない。
マリオンの頬がゆるゆると緩められていった。
「ん? これ、お待ち」
庭先に出た弁天の手がしっかりと掴み捉えたのは、なぜかこそこそと弁天を避けて歩いている早百合の肩だった。
早百合は弁天に掴まれた肩を確かめて、それからそろそろと窺うように、弁天の顔を確かめる。
「おぬしとは、確か初の対面じゃの。……しかし、はて、初めてといった感じがしないのはなんでかのう」
しげしげと早百合を眺める弁天と、しかし、その弁天の視線から逃れるように目を泳がせる早百合。
「さ、さあ? もしかしたらどこかですれ違ったりした事でもあったかしら、オホホホホ」
「いいや、違うのう。――はて」
この日の弁天の勘は、奇妙なほどに冴え渡っているようだ。
「ああ! そうじゃ! おぬし、あれじゃな! 宮内ち」
「オホホホホホ、なんのことやらさっぱりですわ。それでは失礼」
言いかけた弁天の言葉を半ば無理矢理に遮って、早百合はいそいそと逃げるように、リビングの中へと戻っていったのだった。
「とてもいいにおいがしますわね」
シュラインの肩の上で、八重がすんすんと鼻を鳴らす。
「八重? 今日のその言葉遣いは」
「あら、オホホ。むかしから、ごうにいったらごうさいんともうしますでしょう」
「郷に入ったら郷に従え、ね」
オホホと上品な笑みを落とす八重を肩に乗せた状態で、シュラインはふと頬を緩めてうなずいた。
「まあ、そうね。――やっぱり日頃は見慣れない風景だものね。執事だとか、フットマンだとかって」
「だからこそ、わらわがこのように席を企画したのじゃ。ゴージャスであろう?」
ぬっと顔を突き出して来たのは、先ほどまでは早百合と話をしていた弁天だ。
「非日常を味わい、日頃の疲れを癒す。これがコンセプトなのじゃ。じき、お茶の用意も整うであろうほどに」
庭先に出てみたのはいいものの、神羅の視線は落ち着きを得ないままだ。
庭に置かれた白いテーブルと椅子。花開いている桜の艶やかさに、色濃いものとなりつつある春の緑。しかし、そういった見目美しい風景は、神羅の心を落ち着かせるものとしては今ひとつの決定打に欠けていたのだ。
神羅からわずかばかり離れた場所では、美猫が、やはり同じように視線をきょろきょろと動かしている。
「どうしたのじゃ、おぬしら。――ははぁん、さては恋の相手を捜しておるのじゃろう? どうじゃ、我ながら名推理であろう?」
満面にニヤつきを湛えた弁天が、神羅の背中でウフフと笑い声を漏らした。
「な、なにを莫迦なことを。わ、私はただ単に小腹が空いただけじゃ」
「ウーフーフー。そのような事を申して。いやいや、なかなかにウブじゃのう」
「な、な、な、な」
弁天の言葉に焦りを滲ませている神羅を横目に、弁天は、今度は美猫へと顔を向けて笑みを浮かべた。
「美猫。おぬし、やはりデュークにするのかえ?」
しかし、美猫はふるふるとかぶりを振った後に、大きくつぶらな瞳で真っ直ぐに弁天を見上げるのだった。
「さっきから鎮がいないの」
「ふえ? 鎮じゃと?」
返ってきた言葉に、弁天が思わず目をしばたかせた、その時。
「ぎ――――いああああぁぁあ! だぁれだぁぁ! うぉぉぉれええの作ったケーキを黙って食っていったのはぁぁああ!」
ゴージャスでセレブな空気で満ちていた洋館の中に、突如、野太い絶叫が轟いたのだ。
庭にいたゲスト達――すなわち、シュライン、早百合、八重、神羅、美猫の五人は互いの顔を見合わせた後に、何事かとキッチンへ走り出した弁天に続き、リビングの中へと駆けて行った。
「つまり、ここに置いてあったケーキが、ことごとく無くなってしまっていた、と」
テーブルのセッティングなどをしていた侘助が、白い手袋をつけた手で眼鏡のフレームを押し上げる。
リビングには、今しがたまでキッチンに詰めていた田辺――燕尾服の上着は脱ぎ、シャツの袖はカフスで留めている。つまり、いつもと変わらぬ出で立ちだ――の姿があり、カウンターに並ぶ白磁の皿を指して苛立たしげに爪先で床を叩いていた。
「ああ、そうだ。あれはそば粉を使ったガレットを用いているから、今日はもう同じものは作れないぞ」
「ふうむ」
田辺の言葉にうなずいて、侘助は軽くアゴを撫でて息を吐いた。それからちらりとゲスト達の方に視線を向けて、
「皆様方には大変失礼な事ながら、お出しする洋菓子が紛失してしまうという事態が起きてしまいました。――長くお待たせしてしまう事となり、大変申し訳なく思います」
そう告げて、深々と頭を下げる。
それを受けて、テーブルについていたシュラインが「ふむ」と小さなうなずきを返した。
「田辺さんが作った魅惑のケーキが食べられないとあっては、せっかくの楽しみが半減してしまうわね」
「申し訳ございません」
侘助に続き、デュークが恭しい所作で頭を下げる。それに倣い、大騎と灯護とが続いて頭を下げた。
「折角、せぇーっかく味わいに来たのに。……うん、まあでも、こちらの皆さんの執事姿を見れただけでも、充分に楽しいけれどもね」
艶然とした笑みを浮かべつつ首を傾げるシュラインの横では、八重が小さな体全体を震わせ、怒りを顕わにしている。
「あたしのおやつをとるなんでなんてしつれいなのでぇすか。ゆるしませんことよ!」
そう述べて、小さな拳でテーブルをバンと叩きつける。が、その行為で手が痺れたのか、次の時には手を震わせて涙目になっていた。
「そうねぇ。ケーキは作り直したらいい話だけれど、でも、黙って食べちゃうのはよくないわよねえ」
別のテーブルでは、早百合が腕組みをとった姿勢で目を細めている。
「でも……誰が食べてしまったのかが分からないのでは、どうしようもないです」
美猫がちょこんと首を傾げ、それを受けて、神羅が「いやいや」とかぶりを振った。
「なにも、犯人は一人だけしかおらぬという事でもあるまい。自分一人だけが少しばかりつまむ分にはバレなかろうと高をくくった者達が、一つづつ食べていったという事も考えられる」
「おおお、素晴らしい推理です!」
神羅とテーブルを共にしているシオンが感心したようにうなずいた。
「――では、犯人は複数いるかもしれないっていう事ね」
同じく、テーブルを共にしている早百合が目を光らせる。
神羅は無言でうなずいた。
と、手の痺れが治まったのか、八重が再び怒りの声を張り上げる。
「ひとりだろうがふたりだろうがどうでもいいのでぇすわ! あたしのしゅうねんをおもいしるがいいのですわ!」
「……八重、言葉遣いがなにがなにやらな状態になってるわよ」
シュラインが静かなツッコミをいれる。
「どちらにしても、犯人は案外簡単に見つかると思うの」
八重に向けたツッコミの後、シュラインは静かな声音でそう続けた。
シオンと鎮の肩が大きく震える。
「ケーキを食べた犯人の口許。甘い香りが残されてるはずでしょ? ねえ、田辺さん。お皿に盛り付けてあったケーキはどんなものだったの?」
「……ガレットオランジェだ」
呟くように答えた田辺にシュラインは大きくうなずいた。
「ガレットにオレンジをのせて、チョコでコーティングしたものよね」
「オレンジにチョコだわね!」
すかさず、八重が鼻を鳴らす。それと同時に神羅と早百合とが席を立ち、ゲストやスタッフに関わらず、リビングに集まっている全ての者の面持ちを確かめた。
と、早々に、八重の鼻がオレンジとチョコの残り香を突き止める。
「あなたでしたのでぇすね!」
八重の指がズビシ! と指したのは、八重やシュラインとテーブルを共にしていたマリオンだった。
マリオンはどこか気恥ずかしそうに――しかし悪びれた様子を見せず、肩を竦めて笑みを零す。
「いや、だって、美味しそうなスイーツが用意されていたんですよ。美味しそうなものが目の前に置いてあるのに、それをそのままにしておくといった行為は、食べ物に対して失礼な事だと思うじゃないですか」
「なにぅををを」
怒りの八重を、大騎が静かに宥めている。
と、それに続き、早百合と神羅がそれぞれにズビシと指を指した。――それぞれの先には、シオンと鎮の姿がある。
「シオンとやら。そなた先ほどから何を動揺しておるのじゃ」
「鎮くんって言ったかしら。――ねえ、口許にチョコがついてるわよ」
同時に発せられた言葉に、シオンと鎮とが同時に飛び上がった。
「す、すすすすすいません! あんまりにもお腹が空いてたので、ついっ」
テーブルに突っ伏して両手を合わせるシオンに対し、イタチ姿のままの鎮は逆切れ気味に声を張り上げる。
「だって腹減ってるとこにあんなゴージャスケーキお預けされてみろー! 拷問以外の何物でもないじゃないかー!」
キレ気味に叫ぶ鎮を、田辺が真っ直ぐに睨めつける。鎮は田辺の視線を受けて体を大きく震わせ、侘助の傍へと走り寄って、その後ろへと身を隠してしまった。
「まあ、まあ。いいじゃないの。新しいケーキを作るだけの材料はあるんでしょう?」
シュラインの言葉が、場に漂い始めたなんともいえない空気を一蹴する。
田辺がうなずくのを確かめて、早百合と美猫が同じタイミングで手を挙げた。
「お手伝いしますわ、田辺さん。ふふ。私ってお料理とかお菓子作りとか得意なのよ。家庭的な女だから」
「とんでもございません、奥様。奥様のお手を煩わせるなど」
「あら、構わないのよ」
引き止める侘助の横をすり抜けて、早百合はしずしずと田辺の横で艶然とした笑みを浮かべた。
「あの、だったら美猫もお手伝いしたいです」
早百合に続き、美猫もそう述べて首を傾げる。
「ここはお客様の喜ぶことをしておもてなししてくれるお店だって聞きました。だったら美猫、<お手伝い>でおもてなししてほしいです」
ちょこんと首を傾げて、テーブル担当のフットマンであるデュークを見上げる。
デュークは一頻り美猫の顔を見つめ返していたが、やがて小さな息を一つ吐き出し、
「よろしくお願いいたします、――お嬢様」
そううなずいて、深々とした礼を見せた。
早百合と美猫、それに、肩に八重を乗せたままのシュラインが田辺についてキッチンの奥へと消えていった後、シオンはどこか所在なさげにリビングの中をうろうろと歩き回っていた。
「シオン様、どうぞお席に」
侘助と灯護がシオンを席へと手招くが、シオンは恐縮しているばかり。
「あの、本当に申し訳ありませんでした。――わ、私、三日ばかり何も食べてなくて……その、ついつい」
もじもじと頬を赤らめるシオンに、灯護は満面の笑みを浮かべてうなずいた。
「ま、しょうがないじゃないですか。食っちまったもんはどうしようもないんだし。それより、あれ、美味かった?」
実は俺も食いたかったんだとこぼした灯護に、シオンは首を大きく動かし、目を輝かせる。
「とっても美味しかったです! オレンジとチョコがまたとっても絶妙で! クッキーみたいなのがサクサクしてて、また……!」
「それは何よりです」
侘助が微笑みながらうなずいた。と、その侘助を見たシオンは、突然、何事かを思い出したかのように手を打った。
「そういえば! あの、侘助さん。私のアタッシュケースを貸していただけませんか?」
「アタッシュケースですか? かしこまりました」
「どのようなケーキを作るのじゃ?」
キッチンの横から田辺を見つめていた神羅が、改めてエプロンを締めなおしている田辺に向けて声をかけた。
「うん? まあ、定番で、ショートケーキにでもするかなと思ってるが」
「ほう。しっかりと気合を入れて作るがよいぞ」
「――ところで、神羅」
「ん?」
「おまえ、ネックレスなんか珍しいな」
「こ、これから得意先との打ち合わせでの。たまには洒落こむのも良かろうと思うてな」
「ふん。――今度新しいやつを買ってやる」
「……な、なにを」
「なんじゃなんじゃ。ここにも春が来ておるようじゃのう!」
「べ、弁天っ!」
「だって、据え膳食わぬはって言うしなあ」
イタチ姿のままの鎮が大きなため息を吐いた。
その横では、マリオンが鎮と同様に大仰なため息を漏らしている。
「そうですよねえ。あんなに美味しそうなスイーツが目の前にあるのに、あれを食べずに我慢出来るひとなんか、この世に存在しませんよ」
「なぁにを大袈裟な事を。少なくとも俺は食わずにいられるが」
「うわ、糸永さん! いや、そんなの信じられないのです。それは人間として問題ありなのです」
「そうだ、そうだ」
「阿呆。人間も人外も関係ないだろうが、そういうのは。要は堪え性があるかどうかってだけだ」
「うわ、酷っ!」
「あんまりなのです、糸永さん!」
「た、田辺さんっ!」
突如キッチンに現れたシオンは、振り向いた田辺に向けて、なんの前触れもなしにアタッシュケースを広げてみせた。
見れば、中にはあらゆる種類の眼鏡が納められていた。
「……は?」
「私、今日はとんだ失礼をしてしまいましてっ! お詫びといってはなんですが、私、今、眼鏡屋さんでアルバイトをしてましてっ」
言いつつ、取り出した眼鏡は、フレームにウサギの絵が描きこまれたものだ。
「これ、私のとっておきっ……。今日のお詫びに、田辺さんに差し上げますっ!」
「……は?」
「そ、それと、私も働かせていただけないでしょうか!? あの、働いてる方が落ち着くんですっ!」
「……はあ。……じゃ、あっちで着替えて。ああ、執事長の侘助に一言断ってからな。確か予備の燕尾服があったはずだ」
「はい! ありがとうございます!」
三時はすっかり過ぎてしまったが、どうにか夕方の内に二種類のケーキが焼きあがった。
早百合が焼いたケーキは、どういった仕掛けによるものか、自らの意思をもった生き物であるかのごとくにウネウネと動き回っていたが、それはそれ。田辺の素早い処置でどうにか事なきを得た。
「庭で食すには、ちいとばかり肌寒くなってしまったかの。まあ、良い。ビージーエム代わりに、わらわが歌の一つでも歌ってしんぜようほどに」
「弁天様、BGMにはうってつけの曲を用意してございます」
オペラ歌手よろしく歌いだそうとしていた弁天だったが、デュークの制止で、その美声は披露の場を失った。
「サティでもかけましょう」
侘助がゆったりとした動きで盤をデッキに仕掛ける。
こうして、長いようでいて短かい時間は、ゆったりとした音楽と共に流れ、過ぎていったのだった。
「神羅様、お仕事のお時間でございます」
いつの間にか後ろに立っていたのは、キッチンに詰めていたはずの田辺だった。
キッチンでの作業のために上着を脱いでいたはずの田辺だが、今はその身に燕尾服をまとっている。
「馬子にも衣装――とでも言ってやりたいところじゃが、そなたはいつも黒衣でおるからのう。……さして変わりばえのないようにも見える」
神羅は頬にゆらりとした笑みを浮かべ、からかうような口ぶりで田辺に向けてそう述べた。
「は、まあ、格好なんざどうでもいい。――どうだった、今日は」
「はて、何に関する感想が欲しい? 菓子に関する感想か? それとももてなしに関するものか」
「どちらもだ」
神羅の言葉に、田辺はふいと顔を背けつつ、そう告げる。
神羅は田辺の表情を見上げてクツリと笑むと、
「そうさな。菓子は、まあ、そなたの手がけるものであれば、不味いはずもなかろう。もてなしも上々であったのではないのか? そなたとは今日はあまり面識を得られなんだが」
「俺は厨房係だったからな。――まあ、いい。おまえ、今日はこれから仕事か?」
「うむ。得意先との打ち合わせがあってな。これでもなかなかに忙しい」
「そうか」
と、田辺は神羅の顔を見やり、目を細ませて、呟いた。
「今度時間のとれる時にでも連絡しろ」
「――ふ、考えておこう」
返し、席を立った神羅に、田辺は深々と腰を折り曲げた。
「それでは、またのお帰りをお待ちしております」
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員 / 旦那様】
【1009 / 露樹・八重 / 女性 / 910歳 / 時計屋主人兼マスコット / 大奥様】
【2098 / 黒澤・早百合 / 女性 / 29歳 / 暗殺組織の首領 / 奥様】
【2320 / 鈴森・鎮 / 男性 / 497歳 / 鎌鼬参番手 / 坊ちゃま】
【2449 / 中藤・美猫 / 女性 / 7歳 / 小学生・半妖 / お嬢様】
【3356 / シオン・レ・ハイ / 男性 / 42歳 / 紳士きどりの内職人+高校生?+α / シオン様】
【4164 / マリオン・バーガンディ / 男性 / 275歳 / 元キュレーター・研究者・研究所所長 / お坊ちゃま】
【4790 / 威伏・神羅 / 女性 / 623歳 / 流しの演奏家 / 神羅様】
・NPC・
【井の頭・弁天 / 〜異界〜井の頭公園・改〜 より出張 / オーナー】
【デューク・アイゼン / 〜異界〜井の頭公園・改〜 より出張 / フットマン】
【野田・灯護 / 熊太郎派遣所 より出張 / フットマン】
【糸永・大騎 / tailor CROCOS より出張 / フットマン】
【田辺・聖人 / 四つ辻茶屋 / フットマン】
【侘助 / 四つ辻茶屋 / 執事】
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ライター通信
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このたびはゲームノベルへのご参加、まことにありがとうございました。
執事喫茶という時事ネタ(?)、のってくださった皆様には多大なる感謝を贈りたいと思います(笑)。
少しでもお楽しみいただけていればと思うのですが、いかがでしたでしょうか?
今回は他クリエーター様からNPCをお借りしてのノベルとなりましたが、その辺の絡みなど、問題などございましたらお声がけくださいませ。
>威伏・神羅様
いつもありがとうございます。
何気に田辺とイチャついていただいてますが、気のせいだと思います(笑)。
ところで、神羅様ってメイド服とか似合いそうですよね(なにを唐突に)。いえ、パンツスーツも和服も素敵ですけれど。
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