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■沼に棲むもの■

やまかわくみ
【1252】【海原・みなも】【女学生】
 こんな処に沼など在ったろうか。
 市街からそう離れていない場所に、ぽつんと残る雑木林。
 周囲が概ね住宅に覆われていると云うのに、ここだけ頑なに人間が踏み入る事を拒んでいる様な。
 そんな荒れ果てた小さな異界に、沼は静かに存在していた。
 大きく濁った水溜りにも見えるその沼は、近寄るものを飲み込もうと大きく口を開けた何かにも見える。
 しかし、実際近くまで行って覗き込んでみると、その水は思いの外澄んでいた。
 底が見える沼に、触れてみようと手を伸ばす。
 と、まだ指先が濡れぬ内に、水面に波紋が広がった。
 何か居るのかと目を凝らすが、何も見えない。
 勘違いか。風で水面が揺れただけだろうか。
 否、矢張り何か居る。
 水面に顔を近付けた。すると、それも近付いて来た。
 そして、
 龍神様になった日

 それは俄かに水面に躍り出た。
 水面すれすれまで顔を近付けていたみなもは、思わず悲鳴を上げてひっくり返る。そして少し情けない格好のまま、目を丸くした。
 異形のものが、水面に波紋を描きながら立っている。胸から上は人間のそれだが、頭には角を戴き、腕には鱗と長い爪があり、下半身は完全に龍と呼ばれるものの姿。
「龍神、さん?」
 しかし、その人間の部分は愛くるしい女の子。この場にみなもの妹が居たら「龍神ちゃん、萌え〜♪」などと云いそうな、龍神と呼ぶには可愛すぎる容貌をしていた。
 これが噂の「すべてを見通す龍神様」なのかと、半ば呆然と龍の体を持つ女の子を見つめる。
 みなもは、この龍神に逢う為ここへ来た。全てを見通す龍神に、自分の将来を見通して欲しいと思ったのだ。
 自分が将来何をすべきか、何がしたいのか、解らないから。
 将来の為に色々な経験をしようと、たくさんのバイトもした。けれどそれが逆に、将来への不安と迷いを増大させた事も否めない。
 他人には無い能力を持つ自分に、どんな未来が待っているのか。
 もしかすると、自分が望んでいないものを見る事になるかも知れない。来ようかやめようか散々迷った。
 ついでに道にも散々迷った。
 ともあれようやく辿り着いたのだと、みなもは立ち上がって口を開く。
「お願い」
 しかし、先に声を発したのは龍神の方だった。
「今日だけわたしと入れ替わって!」
「はい?」
 唐突過ぎる申し出に、みなもは声を裏返らせる。それに我を取り戻したのか、龍神は慌てて頭と手を振った。
「ああ違う。あなたが来る時の為に何度もお願いの練習してたから、全部云った気になってた」
 ごめんを連呼する龍神に、と云うよりその容姿にそぐわない言葉遣いに、みなもは困惑しながらも笑顔を作る。
「そんなに謝らないで下さい。それより、何かあったんですか」
 仮にも神と名の付く龍神が、自分と入れ替わって欲しいなどとは尋常ではない。持ち前のおせっかいを発揮するみなもに、龍神は肩を落としてみせた。
「わたし、もう耐えられない」
 と、龍神はみなもに話した。
 元々彼女は人間で、ある時この沼に迷い込み、先代の龍神と親しくなったと云う。先代が亡くなり龍神を継いで、以来ずっと龍神として全てを見通して来た。しかし、どんなに悪い展開がその先にあっても、自分には何も出来ない事に我慢ならなくなった様だ。
「あの子が危ないって判ってるのに、ここじゃどうする事も出来ない。あの子に、せめて伝えたいの。だからお願い。今日一日だけで良いから、龍神様を代わって」
 どうやら、龍神は恋をしているらしかった。その相手に、何らかの危険が迫っているのだろう。
「お願い」
 彼女の切実な表情に、みなもは断る術を持たなかった。
「今日一日だけなら、何とか」
 それを聴いた龍神の顔が、ぱっと明るくなる。
「本当? ありがとう!」
「いいえ、あたしが少しでも役に立てれば嬉しいです。それで、どうすれば良いんですか」
 龍神は、鱗の生えた右手を差し出した。
「手を取って」
 みなもが腕を上げると、龍神はその手をそっと握る。触れた場所から変化が始まった。爪が伸び、鱗が生える。逆に、龍神の手からは爪が引っ込み、鱗が消えて行く。
 自分が人魚の姿に変わるのとは、似ている様で全く違った。自分が自分でなくなる気がする。みなもは目を閉じた。
 尻尾が伸び、頭に角が生えて来るのが感じられる。
 やがて変化が止まり、目を開けると、目の前には一人の女の子が居た。
「ありがとう。それじゃあ、行って来るね」
「はい。行ってらっしゃい」
 こうしてみなもは、一日だけ龍神様になった。
 予定とは少し違ってしまったが、これで自分の将来を見通せる。
 方法は、泳ぎ方の様に自然と頭に入っていた。
 みなもは沼の中心目指して泳ぎ出す。沼は存外深かった。
 一番深い処に足を着けて水面を見上げる。20メートルは潜ったのに、沼の底まで綺麗な筋を描いて届く木漏れ日が、水中の景色に馴染んでいる筈のみなもにすら異世界を思わせた。
 自分の存在が沼を通して無限に広がる。沼こそが、すべてを見通す龍神様だと解った。龍神様と呼ばれる人間は、それを具現化する糸口に過ぎない。
 みなもは、腕を伸ばして自分の将来を探した。

 みなもは、人魚の姿で独り、海を泳いでいる。
 と、不意に投網に引っかかり、漁船に引き上げられてしまった。
 人魚が釣れたと云うニュースは瞬く間に世界に広がり、一大センセーショナルを巻き起こした。
 有名になったみなもはタレント活動を始めて、世界中を人魚なのに飛び回っている。

「そ、そんなのイヤです」
 有名になるのはまあ良いとして、漁船に釣られるなどと云う間抜けな真似は絶対にしたくない。そんな将来は絶対に厭だ。
 他に、もっとましな将来は無いのだろうか。

 みなもはごく普通の主婦だ。
 普通に大学を出て、就職先で出逢った男性と結婚。夫は仕事が忙しいのに家族の事もきちんと考えてくれる、優しい人だ。
 子供は小学生の息子が一人。やんちゃなところもあるが、父親に似た優しい心根を持つ子だ。
 夕食の支度をしていると、息子が学校から帰って来た。しかしどこか様子がおかしい。
 どうしたのかと訊くと、息子はみなもを恨めしそうに見る。
「みんなが、ボクは変だって云うんだ。ボクにだけ水かきがあるから」
 小さな両の手を広げて前に突き出した息子は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
 みなもは息子を抱き締める。
「それは、あなたの大切な個性なの。今度そんな事を云われたらこう云い返して。君達は水かきを持っていないから羨ましいんだろう、って」
「わかった」
 みなもは、良い子ねと息子の頭を撫でた。

「あたしの息子は、水かき持って生まれて来るんでしょうか」
 今は鱗に覆われている自分の手を、思わず見る。人間の姿の自分には水かきなど無いが、夫からの遺伝と云う可能性もある。夫が誰だか気になったものの、何だか怖いのでそれ以上は見ないでおいた。
 他にも、命と引き換えに地球を救ったり、好きな男と駆け落ちしたり、ニートの挙句引きこもりになっていたり、異世界に飛ばされて勇者として活躍したり、人魚研究をする学者に捕らえられたがそこに恋が芽生えたり、と夢や幻のごとくおよそ有り得ないものから、あるかも知れないと思えるものまで、様々な将来を見た。
 結局、将来をいくら覗いたところで、将来に対する不安は全く消えないどころか、更に膨らんだだけだった。
 溜息を吐いて、ふと龍神は何をしているだろうと思い至る。
 好きな相手に、より良い未来へ進む為の助言をしているのだろうか。
 すべてが見通せる今なら、龍神がどうしているかも判る筈だ。みなもは龍神の今を探した。
 どこかの路地で龍神は、みなもと同学年位の少年に、まるで喧嘩でもしているかの様な口調で怒鳴っていた。
『だから、絶対に今日帰る時はあの道を通らないで!』
『うるさいなあ。どの道を通って帰ろうがオレの勝手だろ』
『違うの! あの道を通ったら死んじゃうんだよ!』
『お前、頭おかしいんじゃないの』
 少年は迷惑そうに龍神を睨み付ける。
『とにかく、邪魔だからもう付いて来るなよな』
 その言葉に、龍神は途方に暮れて立ち尽くす。少年はそのまま去って行った。
「酷いです。龍神さんの善意を踏みにじるなんて」
 少年の帰り道を覗いてみる。
 細い路地から少し太い道路に出る交差点で、少年は物凄い速さで突進して来るトラックに撥ねられた。即死の様だった。
 少年の、他の未来の可能性を探してみたが、見付からない。どうやら何年も先と違って、数時間先の未来はかなり限定されるらしかった。
 龍神の気持ちを想うと胸が痛む。
 みなもが水面に上がると、ちょうど龍神が戻って来た。
「お帰りなさい。どう、でしたか」
「気は済んだよ。出来る事はしたから」
 龍神は、悲しそうに笑うとみなもに手を伸べる。
「ありがとう。今日一日、龍神を代わってくれて」
「あたしこそ、色々勉強になりました」
 みなもはその手を握った。角が無くなり、尾が消え、爪も鱗も無くなる。龍神に、それが戻った。
「じゃあね。良かったら、また遊びに来て」
「はい、喜んで」
 手を振って、龍神は水底へ帰って行った。みなもはそれを見届けて、自分も踵を返す。
 あの少年は今頃どうしているだろう。もう帰り道だろうか。雑木林を出て道を歩きながら、みなもはそんな事を考えていた。
 と、交差点の反対側を、こちらに向かって見た事のある人物が歩いている。あの少年だ。そしてここは、あの交差点だ。
 止まって、と叫ぶ前にトラックが物凄い速さで突っ込んで来た。思わず目を瞑り、顔を覆ったったみなもの耳に、大きな衝撃音が響く。
 止められなかった。惨劇を想像しながら目を開ける。
 そこには、電柱にめり込んだトラック。
 そして、それを呆然と眺める少年の姿があった。
 どうやら龍神の助言が気になって、一歩を踏みとどまったらしい。
 良かった、と呟いて、みなもはその場にへたり込む。
 そして思った。
 自分の将来は、悩んでも迷っても、自分で決めて行くものだ、と。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1252/海原・みなも/女性/13歳/中学生】

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■         ライター通信          ■
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海原・みなも様

初めまして。ご発注ありがとうございます!
みなも様のお悩み、これで少しは晴れましたでしょうか。
お気に召して頂ければ幸いです。不満があれば仰って下さいね。
では、またお逢いできる日を心待ちにしつつ。

やまかわくみ 拝