■廻歪日■
霜月玲守 |
【0086】【シュライン・エマ】【翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】 |
●序
声が聞こえた。遠くの方で、ら、ら、らら、と。
その声は幼い少女のものであり、透き通った純粋なものであった。導かれるように歩いていくと、そこは今まで歩いた場所ではなかった。
むき出しになった、灰色のコンクリート。ひび割れた床。元は白かったのであろう壁に、硝子が埋まっていたはずの窓。
廃ビル、というのはすぐに分かった。そうして、視界の端に移る壊れたベッドや受付らしきカウンタ、それに綿が飛び出たソファから、おそらくは病院だったのだろうと予想もついた。いわば、廃病院だ。
天井を見上げると、そこに屋根は無い。傾き始めた太陽の光が、遮るものも無く差し込んできていた。
何故、突如このような場所に誘われたのかは分からない。本当に、気づけばここに立っていたのだ。
ぐるりと室内を見回すと、東の扉の前に箱が見えた。空になったケーキの箱は、美味しい事で有名なケーキ屋のものだ。それが今居る場所が自分の居た場所が繋がっている事を示しているかのようだ。
「だあれ?」
声がし、はっと振り返る。廃ビルの入り口に少女が立っていた。腰まである長い黒髪に、虚ろな赤い目。ふわりと風に揺れるワンピースは、純白。頭には赤いリボンが結ばれている。少女はくすくすと笑い、こちらをじっと見つめていた。
「ここは、アカコの世界。足を踏み入れたあなたは、完全に夕日が落ちるまでアカコと遊んでもらうの」
少女は自らを「アカコ」と名乗り、くすくすと笑いながらそう言った。そうして、アカコは自らの左手甲を見る。
巨大な絆創膏が貼ってある。どこか現実感の無い世界と少女であるのに、その絆創膏が現実感を呼び寄せる。
「これ……なぁに?」
アカコは笑うのをやめ、じっと絆創膏に見入る。
「あなたは、誰?」
じっとアカコの目が、こちらに向けられた。大きな澄んだ目は、吸い込まれそうだ。
「アカコ、鬼よ。鬼ごっこ。アカコは、鬼、鬼なの」
アカコは何度も「鬼」と繰り返す。すると、何処からともなく包丁が出現した。アカコは赤い光を受けた鋭い刃のそれを、ぎゅっと握り締める。
「アカコは鬼、鬼なの。鬼、鬼、鬼……!」
ぎらぎらと怪しく光る包丁を、アカコはじっと見つめる。だんだん、アカコの顔に歪んだ笑みが浮かんできた。
「ここは、アカコの世界。だから、アカコと遊んでもらえる」
アカコはそう言うと、ゆっくりと真正面を見据えた。笑っているはずなのに、どこか困惑した表情であった。
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廻歪日〜壱縷の雪兎〜
●序
唄が、遠くの方で響いていた。ら、ら、らら、と。
夕暮れに差し掛かった頃だった。
ふと気づけば、先ほどまで歩いていたのとは全く違う場所にぽつりと立っていた。むき出しになった、灰色のコンクリート。ひび割れた床。元は白かったのであろう壁に、硝子が埋まっていたはずの窓。
廃ビル、というのはすぐに分かった。そうして、視界の端に移る壊れたベッドや受付らしきカウンタ、それに綿が飛び出たソファから、おそらくは病院だったのだろうと予想もついた。いわば、廃病院だ。
天井を見上げると、そこに屋根は無い。傾き始めた太陽の光が、遮るものも無く差し込んできていた。
何故、突如このような場所に誘われたのかは分からない。本当に、気づけばここに立っていたのだ。
何か手がかりはないかと、廃病院の外に出ようと足を踏み出す。夢ではない証拠に、じゃり、という地面の感覚が足の裏に伝わってきた。
「こんにちは」
声に気づいてそちらを見ると、廃病院の入り口に少女が立っていた。腰まである長い黒髪に、虚ろな赤い目。ふわりと風に揺れるワンピースは、純白。少女はくすくすと笑い、こちらをじっと見つめていた。
「ここは、アカコの世界。足を踏み入れたあなたは、完全に夕日が落ちるまでアカコと遊んでもらうの」
少女は自らを「アカコ」と名乗り、くすくすと笑いながらそう言った。
「アカコが鬼よ。ほうら、鬼ごっこ。ちゃんと、逃げないといけないの」
アカコはそう言い、何処からとも無く包丁を取り出す。赤い光を受けた鋭い刃が、怪しく光る。
アカコはじっと見つめ、そうして歪んだ笑みを浮かべる。
「アカコの世界なんだから、アカコと遊んでね」
アカコはそう言うと、数を数え始めた。いち、にー、と順番に。
●歪
アカコと出会う、ほんの5分前。シュライン・エマ(しゅらいん えま)は事務所に続く道を、飾ろうとしている実のついた枝を抱きしめ、いつも通りに歩いていた。
(何かが、変ね)
シュラインは、ゆっくりと辺りを見回した。普段歩いている街の風景に変わりは無く、いつもの町並みに見えた。
あくまでも、見える。
思えば、この時から既に歯車が回り始めていたのかもしれない。
(どういったらいいのか分からないけど)
何が違うのか、事細やかに説明せよ、といわれたら言葉につまってしまう。詳しく「ここが違う」と指摘できるわけではない。
ただ、漠然と「何かが違う」と思わずにはいられないのだ。何かが変、何かがおかしい。詳しく説明することは出来ずとも、その違和感が確かにあるというのは事実だ。
(何かに似ているわ。ええと)
シュラインは記憶を手繰り寄せる。
今自分が体感している違和感は、以前、似たような体験をした事があった。普段と変わらぬ筈の町並みが、突如として不可思議なもののように思えてくる。
まるで、夢でも見ているかのように。
シュラインは小さくため息をつき、空を見上げる。太陽が傾きかけ、もうすぐ夕暮れが訪れる事を指し示している。
「逢魔が刻……か」
小さな声で呟き、そっと笑う。そのように言われているからと言って、本当に魔と出会う人なんて一握りも居ない。
(何処かの異界に行くのかしら)
一番可能性としてありそうなのは、異界というカテゴリーだった。世界の一部が別空間として認識されている、異界。今シュラインが感じている違和感は、まさにその異界に足を赴けようとしている時と酷似していた。
だが、異界に用事などあっただろうか。
(私に無くても、相手にはあるかもしれないわね)
シュラインはそう考え、苦笑混じりに相手に任せるようにしようと心に決めた。異界に引き込まれたならば、異界の主に「早めに連絡を頂戴」と頼めばいいだけだ。そうすれば、次からはちゃんとしてくれる……筈だ。
空を見上げると、太陽がいよいよ夕日になろうとしてた。
早めの事前連絡を頼む筈だった。
行き着き先が異界だろうから、きっとその主がいるだろうと思っていた。
もしかしたら顔見知りの異界の主が、急に自分を呼んだのかもしれないと思っていた。
そうであったならば、悪戯っぽく笑いながら「次からはちゃんと連絡してからにしてね」と頼むつもりでいた。
「こんにちは」
だが、目の前にいるのは見たことも無い少女だった。自らをアカコと名乗り、ここを「アカコの世界」と言い放った少女だ。
「こんにちは。ええと……」
シュラインは言葉を捜す。何から聞いていいのか、一瞬分からなくなってしまった。そんなシュラインの事を気にすることまく、アカコはただ「遊ぼう」と繰り返す。
「夕日が完全に落ちるまで、アカコと一緒に遊ぶの。鬼ごっこ」
それが、何度も繰り返してきたアカコの主張だった。アカコはしきりに「夕日が落ちるまで、鬼ごっこをして遊ぶ」と繰り返した。
(何だか妙な具合ね)
シュラインはそう思い、アカコに何かを言おうとしたその瞬間だった、
アカコの手に、包丁が握り締められているのを見つけたのは。
(本当に、鬼、になるのね)
あの包丁は、ただ持っているだけのものではない。自らを鬼とし、捕まえる側だと言っているのだ。
それはつまり、捕まえたらあの包丁を使う、と暗に言っているようなものだ。
(使うということは……一つ、よね)
シュラインは苦笑交じりのため息をつく。小さな少女が、物騒な事をして欲しくないとついつい思ってしまう。
「数えるよ。いい?」
「え」
アカコの言葉にはっとしたシュラインは、辺りを見回す。東西南北に、それぞれ一つずつ出口があった。
アカコが「いーち、にー」と数を数え始めた。シュラインはぐっと唇を噛み締め、北の出口に向かって走り出す。
「逃亡者は北へ行く、なんて何処かで聞いたけれどね」
シュラインは小さな声でそう呟き、苦笑交じりに走っていく。
出口から出たと同時に、ばたん、と音がした。
振り返ってみると、北以外の出口が全て閉まってしまったようであった。
●北
北に広がるのは、一面の銀世界だった。遠くの方に、海も見える。遠くと言っても、走っていけばすぐに到着できるだろう。
「こっちは、冬の海なのね」
感心したようにシュラインはいい、続けて「あら」と呟く。
見た目には極寒と言ってもいい状態だ。海岸の上には雪が積もっており、歩くとさくさくと音を立てて足跡をつけた。ぱらぱらと雪も降っている。
それなのに、心なしか肌寒いと感じる程度なのだ。
体感温度だけで言えば、秋の気配を感じ始めた頃に近い。又は、春の訪れを実感した辺りに。
「ここは、冬、よね。……冬だけど」
シュラインは呟き、きゅ、と音をさせて足元を見る。降り積もっている雪は、その感触だけが確かに雪であるだけで、冷たさも何も感じさせない。
作り物の雪のようだ。
「足跡残っちゃうけど、仕方ないわね」
シュラインはそう言うと、ぐるりと辺りを見回す。一面の雪と、離れたところに海。ただ、それだけの味気ない風景だ。
「流石に大きな雪だるま……は作っている暇はないわね。もう、アカコちゃんは十数えちゃったでしょうし」
シュラインはそう言うと、手にしていた枝を置き、出入り口付近に雪をかき集める。触っても冷たく悴むこともない雪だったが、手触りだけは確かに雪その物ではあった。
簡単に、手早く積み上げると、シュラインの腰くらいまではあるだろう山が出来た。それをぱたぱたと適当に手で固め、バリケードの壁のようなものを作った。
「これで、多少は時間稼ぎになるわよね」
そう呟いた瞬間、ぴた、ぴた、と音がした。足音だ。シュラインは思わずびくりと身体を震わせる。
(アカコちゃん、来ちゃったかしら)
シュラインは慌ててその場を離れ、近くに転がっていた板切れで穴を掘る。ざく、ざくと音をさせながら。掘るたびに雪が辺りに飛び散る。
「ふふ、ふふふ」
アカコの笑い声が穴を掘る背に聞こえた。近い。
まだ足がすっぽりと入るくらいの穴ではあったが、それ以上掘り進める事はアカコに掴まる事を指し示しているようであった。
(穴はもういいわね。だったら)
シュラインは穴を掘った周辺をぱたぱたと小刻みに踏みしめ、歩き回る。しっかり踏みしめ、ならすように固めていけば、つるつると滑るようになる。
「これで、いいかしら」
小さく呟き、シュラインは置いていた枝を掴んで走り始めた。
ちらりと後ろを見ると、アカコが包丁を手にしたまま、立ちすくんでいた。出入り口に設置されたバリケードのような雪の壁に、明らかな苛立ちを覚えているようだ。
アカコはそのバリケードが簡単に越せないと分かると、手にしている包丁で雪を切り裂き始めた。ぼろり、と一旦壊れるとあとはばらばらと簡単に壊れていく。
シュラインは前を向き様に積もっていた雪をかき集め、走りながらきゅっきゅっと固める。そして持っている枝についている実と葉を二つずつちぎり、雪の塊にくっつける。
雪兎の出来上がりだ。
シュラインはそれをその場に置き、再び雪の塊を手にする。
後ろではアカコがつるつると滑る地面に苦戦し、結果として穴にはまっていた。だが、穴はアカコの足くらいまでしか掘られてなかったため、安易に抜け出すことが出来たようだ。
(そういえば)
ふと、シュラインは気づく。
(穴を掘っていても、地面は出てこなかったわ。ずっと、白い雪があるだけで)
歩いていても、身体が埋まってしまうほど積もっているとは到底思えない程度だった。それなのに、掘っても掘っても茶色の地面は出てこない。
(掘り足りなかったのかしら?)
詳細は、分からない。
「ふふふ……あははは」
アカコが後ろで楽しそうに笑い、ぱたぱたと駆けてきていた。大人と子どもの差からか、流石に走っているシュラインには追いつけないようだ。
走って追いかける中、ふとアカコは足を止める。
シュラインの作った、雪兎が置いてある場所だ。
(足を、止めてくれた)
シュラインは小さく笑い、再び作った雪兎を設置する。それをどんどん繰り返し、結局5個の雪兎を設置することとなった。
そうして、辿り着いたのは海であった。
シュラインは少しだけ考え、小さく「うん」と言ってから海に入る。一瞬ひやりとした感覚があったが、それだけだった。
(当たったわ)
雪が降っているというのに、少しだけ肌寒い程度である気温を考え、海もそう冷たくないと判断したのだ。希望的観測ではあったが、それは見事に的中した。
冷たくないのだ。一瞬ひやりとした、ただそれだけだ。あとはぬるま湯にでもつかっているかのように、冷たくもない。
シュラインは水を掻き分け、沖へと向かう。
「確か、アカコちゃんは私の腰よりもちょっと背が高いくらいだったわよね」
ざばざばと掻き分けていくと、視界の端に赤い光が映った。
夕日だ。
夕日が半分くらい、沈みかけている。
(確か、アカコちゃんは夕日が完全に沈みきるまで、と言っていたわね)
シュラインは思い出しながら、夕日を見る。あと半分、逃げ切ったらシュラインの勝ちだ。
首付近までの深さまで来て、シュラインは振り返る。アカコは海へと向かって歩いてこようとしていたが、腰くらいまで水に使ったところでまごついていた。
泳いでいくか、それともこのまま待つか、考えているのだろうか。
「アカコちゃん!」
シュラインは叫ぶ。すると、ゆっくりとアカコが顔を上げた。
「雪兎の所で、足を止めていたわね」
「ゆきうさぎ?」
アカコが言葉を反芻する。
「そう、雪兎。さっき、私がちょこちょこと作って置いてきたの」
シュラインが言うと、アカコがくるりと振り返った。シュラインの作って置いてきた雪兎を、確認しているのだろう。
「ねぇ、アカコちゃん。雪兎、好き?」
「好き……?」
アカコは首を傾げる。
「雪兎。可愛かったでしょう?」
「かわいい……すき……ゆきうさぎ」
数々の単語を反芻し、アカコはゆっくりと首を横に振る。そして再びシュラインのほうを見、にたりと笑う。
「アカコは鬼。鬼ごっこは、鬼が追いかける」
アカコはそう言うと、ばしゃばしゃと音をさせながら海の中へ向かってきた。
(泳いでくる気かしら?)
シュラインは様子を見、ゆっくりとアカコがいる場所から横へと移動する。本当はすぐにでも海岸へと行きたいのだが、方向を誤るとアカコと遭遇する可能性のほうが高い。
慎重にアカコの方向を見極め、ゆっくりと岸に近づいていく。
アカコはばしゃばしゃと音をさせながら、歩いていた。頭の部分だけがかろうじて水面から見えるが、泳いでいる様子は無い。
海底を、地面と同じように歩いているようだ。
(息ができるのかしら?)
シュラインは疑問に思い、自らも顔をつけてみる。が、そこにあるのは自分の知っている海と殆ど大差は無い。息は出来ないし、どことなく塩辛い。
アカコの進みが、想像以上に速かった。無理も無い。シュラインは地上にいるときよりも水の抵抗を受けて遅くなっているが、アカコは地上と同じように海底を歩いているのだから。
(まずいわね)
シュラインは慌てて海岸へと向かう。水を掻き分け、時折横目でアカコの場所だけを確認して進む。
海の高さが腰くらいまで来ると、大分動きやすくなってきた。ただ、服は水を吸って重くなってはいたが。
(何となく、気持ち悪いしね)
そっと心の中で苦笑する。それに対する方法を考えている場合は無い。アカコが背後に迫っている今、やらなければならぬのは一刻も早く逃げる事。
濡れている服を何とかする暇など、与えられていないのだ。
ばしゃ、と一層大きな音を立てて海岸に辿り着いたと同時に、ぎらりと輝く刃が勢いよく横から突き出された。それはシュラインの腕をかすめ、つう、と赤い筋をつける。
「残念」
アカコがにた、と笑う。シュラインは切られた腕を押さえ、走り出した。水中よりも断然歩きやすい。
(新雪部分の方が、歩きにくいわよね)
じりじりと痛む腕を押さえながらも、シュラインは地面を見て走る。
途中、ぽた、ぽた、と血が地面に落ちているのが分かった。真っ白な雪に、シュラインの赤い血が模様をつける。
白地に赤の、水玉模様。
「あははは、ははははは!」
アカコの笑い声が聞こえる。赤い血を見たことで、興奮しているようだ。
(あと、少しよね?)
シュラインはちらりと横目で夕日を確認する。さっき見たときは半分くらい沈んでいた夕日が、あと少しで完全に沈みきろうとしている。
(だったら)
シュラインは手にしていた枝を、逃げる途中の地面にすっと挿す。ちょうど、海岸の中間辺りの場所だ。
「あ」
ずきん、と走った痛みに、シュラインの足がもつれた。無理も無い、ずっと走り続けている上に、途中で海にも入ったのだ。自覚している以上に身体が疲労していて、当然だ。
(いけない)
まだ沈みきっていない空にシュラインは慌てて立ち上がろうとする。が、足が動かなかった。
「捕まえた」
アカコが、シュラインの足をぐっと掴んでいた。立てないように、ぐっと。
「アカコの勝ちよ。鬼に捕まったら、鬼の勝ちよ」
(しまった)
シュラインはぐっと唇を噛み締め、アカコを見つめる。じりじりと腕が痛む。自覚してから、余計に痛みが増してきたような気がしていた。
アカコは血が流れているシュラインの腕をじっと見つめ、にた、と笑う。
「そこからにしよう」
「アカコちゃん……!」
シュラインが「やめて」と言おうとしたのと、アカコの包丁が振り上げられたのはほぼ同時だった。
ざくっ!
アカコの包丁は、地面を突き刺した。
アカコは突き刺した地面をじっと見つめ、それからゆっくりと視線を空へと移した。
夕日が完全に沈みきってしまっていた。
「残念……」
アカコは呟き、ゆっくりと立ち上がる。包丁は既に手にしていない。地面に突き刺したままにしていると、すう、と姿を消してしまった。
アカコがのろのろと歩いていくと、途中にシュラインが作った雪兎がいた。
「ゆきうさぎ」
アカコは小さく呟き、ゆっくりとそれに近づく。雪兎を見、ぎゅっと握り締めた。
ぼろぼろと、雪兎は元の雪へと崩れ落ちていく。
「あ……あああ」
アカコは搾り出すような声を上げ、走って中心部へと向かっていった。
途中、他の雪兎達を踏みつけてしまったが、それには全く気づいていないようであった。
●廻
はっとすると、先ほどまで確かに歩いていたいつもの道であった。
「あ」
シュラインはゆっくりと辺りを見回す。事務所へ続く、いつもの道だ。
(私、アカコちゃんに腕を)
思い出し、シュラインはそっと腕を見る。だが、そこに傷は無い。気づけば、海の中に入って濡れていたはずの衣服も全く濡れてはいない。
「白昼夢……?」
シュラインは呟き、改めて自らを見回す。
必死で走ったはずなのに、息も切れてなければ服も乱れては居ない。汗もかいていないし、何よりアカコに刺された傷が無い。
(最後、絶対にやられたと思ったんだけど)
沈みきった夕日に助けられたらしい、とシュラインは苦笑する。こちらでは、まだ夕日が沈みそうになっているだけで、沈んではいない。
不思議な世界だ、とシュラインは実感する。異界ならば、時間が経つ。時間軸が違う異界は殆ど無いといっていい。こうして過ごした記憶があるのに、記憶を裏付ける為のものが殆ど残されていないというのは珍しい事だ。
「そういえば……」
残されていない、と考えてから、シュラインは思い出す。確かに持っていた、実のなった枝を持っていないことに気づいたのだ。鞄と一緒に抱えていた、実のなった枝。
あちらの世界に挿して来たのだから無くなって当然とも思えたが、逆にこうして何事も無いかのように戻ったというのに、枝だけが元に戻っていないのは不自然なように感じた。
(そういえば、アカコちゃんの世界に行った時って、鞄は無かったけど枝はあったのよね)
一つ一つ思い出し、確認していく。あったものが向こうでは無く、向こうであったものがこちらにない。
(不自然だけど……でも)
シュラインは小さく「うん」と頷く。
枝を挿してきたのは、故意的だ。夕日が完全に沈みきる前に、雪兎を作る材料にもなった枝を挿したのだ。ちょうど、海岸の中間辺りに。
今こうして元に戻ったにも関わらず、それだけが戻っていないのは何か意味があるはずだ。全てが元通りになっていて、全部が夢であったと言い切ってもいい状況にはなっている。それなのにこのように元に戻っていないものが存在しているという事は、決して無意味ではないはずだ。
「アカコちゃん、か」
シュラインは呟き、そっと腕をさすった。
今は傷が無い、だが確かに刺されて傷となった腕の部分を。
<一縷の思いは雪兎に託し・終>
変化事象:北、海岸中間付近に実のついた枝が挿してある。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【 0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員 】
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■ ライター通信 ■
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お待たせしました、こんにちは。ライターの霜月玲守です。この度は「廻歪日」に御参加いただきまして、有難うございます。
シュライン・エマ様、ゲームノベルでは初めまして。いつも有難うございます。そして、この「廻歪日」の記念すべき第一号様です!明らかに怖い子に優しい接し方をしていただきまして、嬉しいです。お優しいです。
この「廻歪日」は、参加者様によって小さな変化事象をつけていただき、それを元に大きな変化事象としていただくゲームノベルです。今回起こしていただきました変化事象は、ゲームノベル「廻歪日」の設定に付け加えさせていただきます。
御意見・御感想など心よりお待ちしております。それではまたお会いできるその時迄。
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