■怪の牢■
エム・リー |
【4790】【威伏・神羅】【流しの演奏家】 |
気付けばそこは見知らぬ山村だった。
人の手を離れて久しいと思しき田畑は、今や荒れ放題となっている。
遠くに見える山並みの上には、妖しく光る半月が横たわっている。
そぞろ歩けば、山間のものとは思えないような、生温い風が頬を撫ぜる。
あなたは、この山村の中に迷い込んでしまったのだ。
人の住む気配の感じられない廃墟を横目に、あなたはしばらく暗がりの中を歩いて行く。――と、視界が突然大きく開き、その向こうに佇む立派な屋敷が姿を見せた。
門戸に掛けられた表札に彫られた苗字は、どうにも読み取れそうにない。
「――おや、お客人かね」
不意に、何の前触れも無くかけられた声に振り向けば、あなたの目に、いつ現れたものかも知れぬ、白髪の老婆が飛び込んだ。
ひん曲がった腰に、手入れなど考えも及んでいないであろうと思しき白髪。真白な装束が、漆黒ばかりの闇の中で、奇妙な程に際立っている。
「あんた、この屋敷がどんな場所かを知ってて立ち入ろうというのかい?」
訊ねられ、あなたは静かにかぶりを振った。すると老婆はキシキシと嗤い、枯れ落ちそうな指で門戸の向こう――つまりは屋敷に向けて言葉を継げた。
「この中にはね、気の触れちまった妖が一人ばかり住んでんのさ。その昔、ここの当主につけられちまった楔のせいで、かわいそうに、正気を失っちまったのさ。キシシシ、だからねえ、この屋敷は呪われていやがんのさ。立ち入れば最後、呪いに喰われちまうか、気が触れちまうかしかないのさ」
そう言って、老婆はキシキシと枯れ木が軋みをあげるような声で嗤い続ける。
呪いを断ち切れば良いのでは?
訊ねたあなたに、老婆はぬらぬらと光る眼差しを持ち上げ、あなたの顔を覗きこむように首を傾けた。
「ああ、ああ、それもまた可能さね。ただしね、この屋敷は呪いのせいであちこちひん曲がって迷路になっちまってる。それをすり抜けて、妖のいる座敷牢まで辿り着ければ、あるいはそれも可能かもしれないねえ」
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怪の牢
夜の、うっそりとした暗闇ばかりが広がっていた。
気付かぬ内に、いつの間にか夢の内へと迷い込んでいたらしいと、威伏神羅は眉をしかめる。
怪異は東京という街中の至る箇所で息づいている。ゆえに、自らの意思と関わりなくそれに巻き込まれていくのは、言ってしまえば茶飯事な事なのだ。
山深い何処かにある村のようであると思いつつ、横目に流れていく廃墟の数々を確かめる。だが、廃墟は文字通りの廃墟のようでもある。人気など微塵たりとも感じられない。
畦道のそれを彷彿とさせる道を行く神羅の足を、雑然と伸びた草花が行く手を阻むかのように絡め取る。
街灯などは一つもない。
街中であればぐうと伸びているはずの神羅の影も、ここでは輪郭すらも滲まない。
虫の声も聴こえない。木立ちの揺れも聴こえない。
「……闇が全てを呑んでおるのか……」
独りごちる声までもが、うっそりとした闇の中へと消えていった。
山村を抜け、少しばかり傾斜になった道を上り行く。
足元を照らす明かりがあるわけではないが、しかし、神羅は本より闇の属に数えられる怪異たる存在なのだ。闇など、足を引き止めるものには成り得ない。
傾斜を上り詰めると、そこには、これまで横目に流してきた幾つもの廃墟とは異なる、一目で富豪の住む屋敷なのだと知れる館が建っていた。
幾許かの威圧感をも放っている門戸と、その奥に続く手入れの届いた広い庭。門戸には表札と思しきものが下がってあるが、そこに記されてある文字が何たるものであるのかは、なんとも定かではないようだ。
表札を上目に見遣っていた視線を、そのまますいと横へ移す。
闇の向こうに何者かの――否、神羅にとっては見知った者の気配がある。
「……そなたもここへ迷いこんできたのか」
訊ねると、その者はぬうと姿を現して、闇よりもなお黒い眼で神羅をとらえた。
「まあ、そんなところだな。……っていうか、おまえとはつくづく顔を合わせるな」
そう返しつつ現れたのは、洋菓子に通じる者であるならば一度は見聞した事のあるであろう、黒衣のパティシエ・田辺聖人だった。
「ふふぅ。実にの。そなたとはつくづくと縁があるようじゃ。多生の縁といったやつかの」
「おまえが多生とか言うのか? ……それはそうと、この屋敷なんだが」
「ふむ。人気の途絶えて久しい屋敷であるようじゃの」
「村の全てが無人なんだそうだ」
神羅の言葉に、田辺は神妙そうな面持ちを浮かべ、目を細ませる。
「……ここはどこなのじゃ? ――およそ人間の住む場所とは思えぬが」
返し、神羅は頭上を見遣る。
月も星もない、全くの暗黒が広がっていた。空気は淀み、どこからか腐った水の臭いまでもが漂っている。
田辺は神羅の問いかけに対し、刹那、間を置いた。
「今日、俺のところに依頼が入ったんだが」
「ほう」
「電話の主は老婆だったようだ。しわがれた声の、どこかそら寒いような」
「ふむ。して、内容とはいかなものであったのだ」
訊ねる神羅に、田辺は再び口をつぐみ、対する神羅をじっと見つめていた。
電話口で、老婆と思しき依頼主は、こう言った。
昔、とある家に一人の妖が住み着いた。以来、その家は富と名声、溢れるほどの金をも手にいれた。
初めこそ、家の者達は妖を大事にしていたが、しかしある時、ふと思ったのだ。
もしも妖がこの家を後にしていったならば、その時にはこの家も自分達も終いだ、と。
むろん、彼らが揃ってそれを怖れ始めた。その最悪な結末を逃れるために、彼らはあらゆる手段を講じたのだ。
そして、ある日。
一人の術者によって、彼らの恐れは見事に消し去られたのだ。
すなわち、妖は術者の手によって屋敷の中に縛り付けられ、以降、外界に踏み出る事の出来ない身となったのだ。
家は潰える事のない富を手に入れた。その恩恵を受け、ふもとの村もまたそれなりに富んでいった。
だが、妖は日に日に狂気を呈していった。
そして、狂気は次第に家の全てを、ひいては村の全てを呑みこんでいったのだ。
神羅の眉根があからさまにしわを寄せる。
「囚われたのは座敷童か」
「断言は出来ねえが、恐らくはそうだろうな。住んだ家には莫大な富が寄せられるが、その家を後にすれば、家はたちどころに崩壊してしまう。……まさにその伝え通りだ」
「人間の強欲を満たすがために封ぜらるるとは哀れじゃの」
顎に手をあて、深いため息と共に告げた神羅の言葉に、田辺は同意を意味する頷きを返した。
「俺は、依頼主に訊ねた。それで、なにをどうしてほしいのか。その家はどこにあるのか、とな」
「して?」
「次の時には、気付けばこの場所に立ってたってわけだ。……電話もむろん切れてやがるし、さてどうしたもんかって思ってたところだ」
「……なるほど」
神羅は屋敷の中に目を向けて大仰な息を一つ吐く。
「人間が己の都合のみで妖の意を無視して留めたのじゃ。その恩恵にあずかっていた村の全てが呪われていったとしても、無理からぬ話じゃろうて」
そう告げて、己の腕に刻まれている封印に目を落とす。それは衣服のせいもあってか、見目に映るものではない。が、その存在は確かめずとも知れるのだ。
「まあ、確かにな。別にこの家の者をどうこうしてやろうというのは感じないが、しかし、」
神羅の言葉に賛同した田辺が、静かな口調でそう告げかけた。が、神羅は田辺をその場に置いて、わずかな躊躇も見せずに門戸をくぐり入ったのだった。
背中から、田辺が追ってくる足音がする。
神羅は田辺を待つ事もなく、やがて見えてきた家の入り口である引き戸に手をかけた。
引き戸には施錠もなされておらず、また、窺う限りでは、やはり、家の中は無人であるようだ。
しかし、家の中は庭同様に手入れが届いているようで、多少の埃などはあるものの、さほど大きな荒れといった影は見当たらない。
玄関から入り、すぐに長細い廊下が続いている。右手には幾枚もの襖が並び、襖にはそれごとに四季折々の花々の絵図が描かれていた。
磨かれた廊下は、神羅と田辺が歩むと同時に小さな軋みを発する。
神羅が腹の底に浮かべている静かな怒気を察してか、田辺は家の中に踏み入って以来、あまり口を開く事なく黙していた。
一番手前の襖に手をかけ、引き開ける。
桜の絵の描かれた襖はすたりと鋭い音を放って開かれ、その向こうに、客間のような和室が姿を現した。
卓袱台の上には湯気ののぼる湯呑が二つ用意されている。
「……歓迎されておるようじゃの」
頬の片側を吊り上げてニイと笑むと、神羅は次の襖に手をかけた。
菖蒲の絵が描かれた襖の向こうには、なぜか部屋ではなく土壁が姿を見せていた。
次に、彼岸花が描かれた襖を開ける。
襖はすたりと鋭い音をたてて開かれ、井草の香りのする和室が姿を現した。
和室には大きな仏壇が置かれ、線香の小さな火がちらちらと揺れている。
「仏間か」
呟いた、その時。
奥の襖が、誰の手を介する事もなく、鋭い音をたてて開いたのだ。現れた和室の、やはり奥側の襖が開かれる。その奥の部屋の、奥側の襖が開かれた。
幾つもの連鎖で開かれた襖は、うっそりと広がる闇の中にあって、ぽかりと口を開けた何者かの腑の臭気をも放っているようだ。
「……神羅、これは罠かもしれん」
呟き、神羅の腕を引きとめようとした田辺の手を振りきって、神羅は彼岸花の襖をくぐり抜けた。
「上等じゃ。……今日の私は腹の居所が悪い。邪魔立てする輩がおれば容赦はせぬ」
返しながら畳の上を歩き進める。
線香の煙が、仏間を行く二人の背中を追いかける。
神羅は、しかし、振り向く事もせずに、片手をびょうと振り上げた。
仏壇に飾られてあった彼岸花の首がふつりと落ちる。それと同時、まとわりついていた線香の煙もまた、姿を消した。
襖は、二人が部屋を横切っていくのに合わせるかのように、次から次へと開いていく。――時には奥の襖が。時には横手の襖が。
まるで招かれでもしているかのように、やがて二人は屋敷の一番奥の部屋へと辿り着いた。
雪洞の中で小さな火が揺れている。その火の影に、和服姿の少女が一人立っていた。
少女の手には紅色の手毬が持たれている。
「そなたが囚われた童か」
訊ねる神羅に、少女は応えを返す代わりに手毬をぽんとついた。
見れば、手毬は少しばかり歪な形をしている。
「……誰の頭蓋じゃ」
続けて問うた神羅に、少女はニタリと笑みを浮かべて首をかしげる。
手毬に見えたそれは、新旧は定かではないが、血糊の染み付いた人間の頭蓋であったのだ。
「言葉も失くしたか。……哀れじゃの」
大きなため息を一つ。
と、田辺の声が神羅を呼んだ。
「見ろ、神羅。この部屋、外から札で封じられている」
言いつつ、その内の一枚を剥ぎ取ってふらりと振ってみせている。
それは確かに札だった。が、剥ぎ取られた事によって効力を失せたのか、或いは寿命であったのか。あるいは田辺の力によるものなのか。
ともかくも、それはたちどころに黒く腐り、風化して失せていったのだ。
「この札が、そなたを捕らえておったのか?」
田辺の傍らへ移動し、数多の札を見上げつつ、神羅は少女に問い掛ける。
少女は、やはり黙したままで、――しかし、追いすがるような目で神羅を仰いでいる。
神羅はわずかに肩を上下させ、小さな笑みを零してみせた。
「……哀れじゃの」
神羅の手が、数多ある札の上を滑るように移動する。
札は見る間に黒ずんで風化していき、程なくして一枚も残す事なく失せたのだった。
最後の一枚が風化した瞬間、屋敷の中を強い風が吹きぬけていった。
風があげる唸り声にも似た低い音をたて、風は屋敷の中を巡るように吹き抜けると、やがて、襖を破って外界へと逃げ延びていった。
「……あれは、今までこの一帯で迷うていた人間共の魂魄じゃの」
神羅が吐き捨てるように呟く。
頭蓋がぽうんと床を弾む。
気がつけば、少女の姿はどこにも見えなくなっていた。
代わりに、家中があげる軋みが耳を劈いた。
「神羅、さっさと出るぞ」
田辺の手が神羅の腕を掴み、引き寄せる。
家は見る間に崩れていく。まるで砂か何かで造られた家であるかのように。
崩れていく家の中を突っ切って、二人はやがて庭の中へと足を踏み入れた。次の瞬間には、たった今まで建っていたはずの屋敷が、跡形もなく崩れ落ちてしまっていたのだった。
変わらず、闇は闇のままだ。
だが、今は虫の声が聴こえている。風が木立ちを揺する音が聴こえている。
空気は幾分か清浄さを取り戻したようだった。
が、
「誰じゃ」
じり、と踏み込んで、庭の奥へと視線を向けた神羅の目に、姿の薄らいだ一人の老婆が映りこむ。
老婆は、和服の襟元に、先ほど風化させたものと同じ札を数枚挟みいれている。
「そなた、術者か」
訊ねた神羅に、しかし、老婆は深々とした礼を残すと、吹き抜ける風に散るように、静かに消え失せていったのだった。
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【4790 / 威伏・神羅 / 女性 / 623歳 / 流しの演奏家】
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ライター通信
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いつもお世話さまです。
彼岸花のルートは、他の二つのルートに比べ、若干怪奇色が濃いものとなっています。
神羅さんからいただいたプレイングは、そもそもの依頼主である老婆への追求も書き込まれてあって、拝見した時にはひどくニヤリといたしたものです。
また、しばらくぶりのシリアス寄りなノベルとなりましたが、いかがでしたでしょうか。
少しでもお気に召していただけましたら幸いです。
それでは、またいつかお会いできますことを祈りつつ。
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