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■クィーン・アメリア号の謎 前編■

九流 翔
【2512】【真行寺・恭介】【会社員】
 東京湾に幽霊船が出没するという事件から2週間が経過した。
「それで、今日はなに?」
 いつものように歌舞伎町の片隅にある骨董屋を訪れた葉明は、カウンターに座って新聞を読む老人へ向けていった。老人はチラリと彼女を見上げ、そして新聞を折りたたんだ。
「明日、横浜港へ客船が入港する。それに乗って台湾まで行ってもらいたい」
「なに? 台湾へ行くなら、飛行機でいいじゃない。なにも船に乗って余計な時間を浪費する必要はないはずよ」
 そう言うと葉明は懐から煙草を取り出して火をつけた。
「おまえを台湾へ行かせることが目的なのではない。その船に乗ることが重要なのだ」
「どういうこと?」
「上海幇の連中が、その船でなにかをしているという匿名の情報が入ったのだ」
 その客船は台湾船籍の超大型客船クィーン・アメリア号。横浜港を出港し、1度、外洋へ出てから南下するというルートを取り、台湾西岸の高雄まで16日をかけて航海する。
 アメリア号を所有しているのは台湾に本拠を構える巨大総合企業「華仙」グループだが、設立から十数年と決して古くないにも関わらず、台湾屈指の巨大企業となった経緯は、様々な黒い噂で塗り固められている。上海系犯罪組織の息がかかっているという噂は、もはや公然の秘密とすら言っても良い。
「それを調べてこいってこと?」
「そうだ。その客船でなにが行われているのかを調べ、それが我々にとって害になり得ることならば、実力をもって潰すのだ」
「わかったわ」
「今回も人選は任せる。吉報を期待しているよ」
 小さくうなずいて煙を吐き出すと、葉明は踵を返して店から出て行った。

クィーン・アメリア号の謎 前編

 東京湾に幽霊船が出没するという事件から2週間が経過した。
「それで、今日はなに?」
 いつものように歌舞伎町の片隅にある骨董屋を訪れた葉明は、カウンターに座って新聞を読む老人へ向けていった。老人はチラリと彼女を見上げ、そして新聞を折りたたんだ。
「明日、横浜港へ客船が入港する。それに乗って台湾まで行ってもらいたい」
「なに? 台湾へ行くなら、飛行機でいいじゃない。なにも船に乗って余計な時間を浪費する必要はないはずよ」
 そう言うと葉明は懐から煙草を取り出して火をつけた。
「おまえを台湾へ行かせることが目的なのではない。その船に乗ることが重要なのだ」
「どういうこと?」
「上海幇の連中が、その船でなにかをしているという匿名の情報が入ったのだ」
 その客船は台湾船籍の超大型客船クィーン・アメリア号。横浜港を出港し、1度、外洋へ出てから南下するというルートを取り、台湾西岸の高雄まで16日をかけて航海する。
 アメリア号を所有しているのは台湾に本拠を構える巨大総合企業「華仙」グループだが、設立から十数年と決して古くないにも関わらず、台湾屈指の巨大企業となった経緯は、様々な黒い噂で塗り固められている。上海系犯罪組織の息がかかっているという噂は、もはや公然の秘密とすら言っても良い。
「それを調べてこいってこと?」
「そうだ。その客船でなにが行われているのかを調べ、それが我々にとって害になり得ることならば、実力をもって潰すのだ」
「わかったわ」
「今回も人選は任せる。吉報を期待しているよ」
 小さくうなずいて煙を吐き出すと、葉明は踵を返して店から出て行った。

 その2人は客の目を大いに惹きつけた。1人は葉明。長い黒髪に小麦色の肌。胸もあらわな黒のイブニングドレスを身に着けている。切れ長の瞳で、どこか冷たい雰囲気を漂わせている女性だ。大変な美人といえるが、そこには鋭い棘が潜んでいる。
 もう1人はパティ・ガントレット。銀髪のツインテールに白い肌。盲目であるのか、手にした杖で周囲を確認しながらも、しっかりとした足取りで歩いている。整った顔立ちをしているが、やはり葉と同じく冷たい印象を受ける女性だ。
 だが、それ以上に2人を注目させている要因は、この2人がそれぞれ犯罪組織のボスであるということだろう。無論、それに気づく人間は少ない。しかし、船にいる何人かの関係者は2人の動向を注視していた。
 横浜港を出航した日の夕方、船内の豪奢なホールでは夕食を兼ねた立食式のVIP用のパーティーが催されていた。横浜、高雄を往復する定期航路というだけであるにも関わらず、このクィーン・アメリア号には日本の政財界関係者も多く乗船していた。
「与党幹事長、大手企業の会長、省庁の事務次官クラス、女優に俳優。まるで見本市ね」
 シャンパングラスを片手にホールにいる人物を眺めていた葉が皮肉げな声音で小さく呟いた。ホールのあちこちではVIPと呼ばれる人間たちが挨拶を交わしている。
「ここまで大物と呼ばれている人間が多いというのも妙な話ですね。なにかイベントでもあるのでしょうか?」
 しばらくホールを歩き回っていたパティが葉に近づきながら小声で言った。確かにその疑問はもっともであるような気がした。豪華客船とはいえ、ただの定期航路でしかない船にここまで政財界の大物が集まることは稀である。
 例えば時として、こうした豪華客船では世界のVIPに招待状を送り、オークションなどを開催することもある。世界的に貴重な文化品や貴金属などが主で、そうしたイベントが催される場合には、船内に各国の著名人が溢れることも珍しくない。しかし、このクィーン・アメリア号では、そうしたイベントが開催されるという案内はされていなかった。
「そうした話は聞かないわね」
「そうですか」
 葉の答えにパティはなにかを考え込むかのように沈黙した。
 そんな2人にタキシードを身に着けた30代前半の男性が声をかけてきた。黒髪に黄色がかった肌。恐らくは日本人だと思われる。
「お嬢さん、少しよろしいですか?」
「ええ。構いませんよ」
 それまでとは打って変わって微笑を浮かべた葉は、人当たりの良さそうな人間を装いながら男性と話した。男性は三森と名乗った。話をして行くにつれ、この男が都内にある総合病院の外科部長であることを葉とパティは知った。
 三森は多弁で、2人を口説こうとしていることは明白であった。そうした三森の言葉を葉は微笑を浮かべながら受け流し、パティは興味なさそうに他へ注意を向けていた。

 わずかにネクタイを緩めながら1人の男が船内の廊下を歩いていた。黒のスーツにライトグレーのシャツ。会社員にもボディーガードにも見える。真行寺恭介は船内の各所に設置された監視カメラの位置を確認し、船倉へと向かっていた。
 恭介がパーティーの会場へ足を向けることはなかった。葉らとの話し合いにより、彼女たちが陽動役として動き回っている間に、恭介は船や組織に関する情報を得るという打ち合わせがなされていた。また、そうでなくともVIPとして招かれていない恭介はパーティーへ加わることができない。近づいただけで警備員が寄ってくるだろう。
 廊下やホール、デッキなどに設置された監視カメラの位置を頭へ叩き込み、恭介は船倉へ入った。豪華客船とはいえ、運ぶのは人間だけではない。貨物船ほどではないが船倉に荷物を積むことはある。そうした荷の中に武器などを混入させることは、恭介の人脈をもってすれば簡単なことであった。目的の梱包を探し当てて中身を確認する。
 数本のナイフ。グロック系の拳銃。暗視装置。盗聴器。無線。そうした様々な装備がいくつかの梱包に分けられていた。そのうちグロックと無線装置を取り、他の装備品は残しておく。下手に武装をして警備員に身体検査でもされれば、身動きが取れなくなる危険性を考慮したのだ。現在は最低限の装備だけで良い。
 拳銃はグロック・モデル26。グロックシリーズの中では最小サイズだ。恭介がグロックを選択した大きな理由は部品の大半がプラスチックであることだ。
 こうしたVIPが乗る船には要所に金属探知機などが設置されている。そうした装置をかわしつつ拳銃を携帯するには、こうしたプラスチックフレームの拳銃でなければならない。それでもX線検査装置があればアウトだが、そこまでは設置していないだろうと恭介は踏んでいた。当然、ナイフも金属製ではなく強化プラスチック製の物にした。
 拳銃を懐に忍ばせた恭介は小型のイヤホンとピンマイクを装備した。イヤホンは骨伝導式の物で周囲に会話が漏れることはない。あとは同じ装備を葉とパティへ渡せば連絡が取りやすくなる。
 船倉を出た恭介は何気ない様子を装いながら、まず船内の配置を把握した。事前に入手した図面で船の構造は理解しているが、実際に自分の目で確認することで図面との誤差を修正し、また警備員の配置なども頭に叩き込んでおく必要があった。
 その途中、警備員に怪しまれないように葉とパティの部屋へ近づき、ドアの下にある隙間から無線装置を放り込んだ。
(あれは、鄭吏泊じゃないか)
 カジノルームへ足を踏み入れた恭介は、そこにいた人物を見て若干の驚きを感じた。台湾最大の犯罪組織、四海幇の大幹部である鄭吏泊。台湾人である鄭が台湾行きの船に乗っていることは不思議ではないが、そもそも彼が日本に来ていたことが驚きであった。
 台湾には多くの犯罪組織が存在しているが、その中でも最大と謳われているのが四海幇と竹連幇の二つであった。厳密に言うなれば、竹連幇の系列に属している葉にとっては商売敵ということになる。
 それと同時に、上海幇と噂のある華仙グループの船に、四海幇の幹部が乗っていることに恭介は違和感を覚えた。同じ中国系犯罪組織であるが、大陸と台湾の関係を象徴するように上海幇と四海幇の関係は最悪と目されている。
(これは、なにかありそうだな)
 四海幇の大物が、敵対勢力の関係する船に乗る理由。それが気になった。

 パーティーも終わり、葉と別れて船内を歩いていたパティは、ふと嗅ぎ慣れた臭いを感じた。香水や花の香りではない。酒や麻薬よりも身近な臭い。血の臭いだ。常に瞼を閉じているため、彼女は他の感覚が常人よりも敏感になっている。廊下の所々に置かれたバラの甘い香りに混じり、確かに血の臭いをパティは嗅ぎ取っていた。
 その臭いをたどるように歩を進め、パティは1枚のドアの前で足を止めた。ドアの向こう側からむせ返るような濃い血の臭いが漂っていた。この階は主にVIPが宿泊するスイートが多い。恐らく、この部屋に泊まっているのもVIPの1人だろうとパティは思った。
「どうかなされたのですか?」
 ドアの前に立つパティを、鍵をなくして部屋に入れないでいると思ったのか、近くにいた警備員が近づいてきた。
「いえ、この部屋から変な音が聞こえたものですから」
「変な音ですか?」
 パティの言葉に警備員は怪訝な表情を見せた。血の臭いを嗅いだと言ったところで信用してもらえないことは理解していた。そのため、パティは物音を聞いたと嘘を吐いたのだ。そのほうが普通の人間は動くと今までの経験から判断した。警備員はドアに耳を当てた。
「なにも聞こえませんね」
 警備員はドアから耳を離してパティを見た。
「ですが、確かに聞こえたのです」
「そうですか」
 警備員はなにか悩むように黙ったが、無線を手に取るとどこかへ連絡した。しばらくして数人の警備員が駆けつけてきた。パティの聞き違いと思いながらも、VIP用の部屋であるだけになにかがあってはいけないと考えたに違いない。
「三森さま、どうかされましたか? 三森さま?」
 ドアをノックしながら警備員が声を上げる。その声を聞いて廊下に人が集まりつつあった。こうした光景は滅多になく珍しいのだろう。
 しかし、同時に警備員が口にした名前を聞いてパティは若干の驚きを感じていた。どうやら、この部屋の主は先ほど、パーティー会場で声をかけてきた外科医であるようだった。
「返事がないな」
「念のため、開けて確認してみるか。もしかしたら、倒れているということも考えられるしな」
 警備員たちはそれぞれに言い、カードキーをスロットに挿し込んだ。ジーっという電子錠の外れる小さな音が響き、1人の警備員がドアノブに手をかけた。
 ドアを押し開けた瞬間、なんとも言えない臭いが漂った。それは明らかに血の臭いであった。だが、嗅ぎ慣れない人間にとって、むせ返るほどの血の臭いは異臭としか感じられない。警備員たちは顔をしかめたまま部屋へ入った。
「うっ……」
 部屋の中ほどまで進んだところで警備員の1人がうめいた。そこに転がる物体を見て瞬く間に顔が青ざめて行く。
 赤い毛の絨毯の上に1人の男がうつぶせに倒れていた。若い警備員が近寄ろうとしたが、別の警備員がそれを制した。生死を確認するまでもなく、男が死んでいることは誰も目にも明らかであった。頭部を割られ、そこから溢れた大量の血液が赤い絨毯を、さらに紅く染めていた。血はまだ乾いておらず、死亡してから間もないことが窺えた。
 タキシードを着た30代の男。それは紛れもなく三森であった。

 船に常設されたバーに恭介と葉の姿があった。基本的に別行動としているため、こうして顔を合わせることはなるべく避けたほうが良いということは理解しているが、それでも情報交換をするためには必要であった。
 無線だけで済ませるということも考えたが、犯罪組織が関係している船である以上、どこで無線を傍受されているとも限らない。すべての情報が第3者へ筒抜けになるよりは、こうした情報交換のほうが安全だろうと判断したのだ。
 バーは薄暗く、特に恭介たちがいる辺りは人目につきにくい。また不特定多数の人間が出入りしているため、ここで初めて会ったというふうに装うことも可能だ。
「そう。鄭吏泊がね……」
 恭介の話を聞き終えた葉が小さく呟いた。葉も恭介が感じたのと同じ印象を受けていた。なぜ、上海幇の関係する船に四海幇の人間が乗っているのかということだ。
 葉と恭介が事前に行った情報収集によれば、華仙グループは台湾を拠点としているが、その実態は上海幇が運営していると断言しても差し支えないほどだ。実際、役員には上海幇の大幹部と目されている人物が名を連ねている。
 恐らく中国本土よりも、日本とのつながりが深い台湾に利権があると踏んで進出したのだろう。違法な手段で稼いだ莫大な資金を背景に華仙グループが伸し上がってきたのだとすれば、十数年という短い期間で台湾最大手の企業に成長したこともうなずける。
「そういえば、この船はやたらとVIPが多いが、なにかあるのか?」
「特にイベントはないようよ。パーティーで確認できただけで、10人以上のVIPと呼ばれる連中が乗っているわね」
 社会的に成功している人間が豪華客船に乗ることは不思議ではない。日本では馴染みがないが、欧米では豪華客船での旅行が一般的となっているからだ。
 だが、特にイベントも催されないにも関わらず、ここまで日本国内のVIPと呼ばれる人間が集まっていることも疑問であった。特に政治家や企業の会長、社長職に就いている人間が多いように感じられる。
「人が死んだらしい」
 その時、2人の耳にそんな言葉が聞こえた。一瞬、顔を見合わせた葉と恭介だったが、すぐにストゥールから立ち上がるとバーを出た。廊下を行く人の流れは1つの方向へ向かっていた。それが事件現場へ向かっていることを想像することは容易だった。
 そこはバーよりも数階上にあるVIP用のフロアだった。廊下に集まった人々の香水や体臭に混じり、血の臭いを葉と恭介は嗅ぎ取っていた。その臭いの先は1つの部屋であった。部屋の前には数名の警備員が立ち、誰も中に入れないようにしている。
「葉」
 声をかけてパティが歩いてきた。周囲の人間に悟られないように恭介は2人と距離をとった。辺りには上海幇、四海幇の人間もいた。
「なにがあったの?」
 葉がパティへ訊ねた。
「三森が殺されました」
「そう。死因は?」
「鈍器で頭部を殴打されたことによる頭蓋骨陥没と、出血多量でしょう」
 目を閉じているにもかかわらず、まるで自分で見てきたことのようにパティは言い、葉は驚いた様子もなく静かにうなずいた。これほど濃い血の臭いを漂わせているのだから並の出血ではないだろう。直接の死因は頭部への殴打かもしれないが、それ以外にも傷があると葉は考えた。頭部を割られただけでそこまで出血するとは思えない。
「問題なのは時間です」
「どういうこと?」
 パティの言葉に葉は眉をひそめた。
「我々が三森と別れてから死体が発見されるまで、20分と空いていません。その間、この部屋に三森以外の人間が入ったところを、警備員は見ていないのです」
「誰かが入り、出てくるところを警備員が見逃したということも考えられないかしら?」
「それはないと思います。部屋の入口が見える位置に少なくとも2人。しかもドアの前で立ち、2分と経たないうちにわたしも声をかけられました。VIPが多い階であるだけに、警備も手薄ではないかと」
 葉とパティが小声でそんな会話を行っている間、恭介は部屋を遠巻きにしているギャラリーへ注意を向けていた。もし本当に部屋の主が誰かに殺されたのだとすれば、それを実行した人間が他の客に混じって見ているかもしれないと考えたのだ。
 恭介から見て、あからさまに挙動がおかしな人物はいなかった。しかし、上海幇の人間と思われる何人かが、落ち着きのない様子でどこかと行き来を繰り返していた。

 翌朝。クィーン・アメリア号は横浜港へ引き返すこともなく、太平洋を高雄へ向かって進んでいた。昨夜から何度か船内放送で船長のコメントが発表され、三森は転倒した拍子にテーブルに頭部を強打して死亡したということになっていた。
 これは事故死とすることで日本へ引き返す時間を省いたことと、乗客へ広がりかけた不安を取り除くためと予想された。殺人事件ともなれば、日本領海内で起きていることもあり、横浜港へ戻って警察の捜査に協力しなければならなくなる。
 静けさを取り戻した船内を恭介は遺体安置所へ向かっていた。こうした外洋の航行も可能な大型客船には教会や遺体安置所なども設けられている。すでに船ではなく、海の上に浮かぶ巨大な街と言っても差し支えないほどの施設と規模を誇っているものだ。
 遺体安置所は船倉の片隅に存在していた。遺体が腐敗しないように極端に冷房の効いた無機質な部屋へ入った瞬間、恭介は寒気すら覚えた。周囲には誰もいない。死体があるとわかっている部屋に好んで近づく人間などいないのだろう。
 冷蔵庫の扉を連想させるステンレス製のドアを開くと、そこには男性の遺体が仰向けに横たわっていた。死体の載せられたプレートを引き出すと、防腐剤の強い臭いが鼻を突いた。すでに防腐処理は施されているようだ。
 死体を見た瞬間、恭介は思わず眉をひそめた。死体の胸部には大きな穴が空いていた。掌ほどの大きさで、そこから大量に出血したのだということが窺えた。
 恭介は懐からラテックスの手袋を取り出し、それを両手にはめると胸部の穴へ片手を突っ込んだ。死後硬直は完全に終了していた。生命を失った肉は強張り、まるでゴムのような感触を恭介に与えた。そして胸腔には本来あるべきものがなかった。
(心臓がない?)
 そこには心臓が収まっていなかった。他の内臓はあるようだ。しかし、心臓だけが奪い去られたかのようになくなっていた。
 そこから心臓を奪うために三森を殺したという見方もできた。むしろ、頭部の傷は致命傷ではなかっただろうと恭介は判断した。頭部を殴って意識を朦朧とさせ、その間に心臓をくり抜いて殺害したのかもしれない。
 誰が、なんの目的で心臓を奪ったのか。思いもよらぬ出来事に恭介は思案を繰り返した。しかし、情報が不足していることを悟り、遺体安置所を後にした。

 朝のラウンジには数組の客がいた。そうした客から少し離れた席に座り、パティは1人でコーヒーを飲んでいた。目の前にある巨大な窓からはデッキの様子が見下ろせ、その先には朝日を反射する大海原が広がっていた。
 そんな中でパティは2人連れの男に注意を向けていた。カタギを装ってはいるが、発せられる独特の雰囲気を完全に隠すことができないでいる。パティはその2人を上海幇か四海幇の人間だと推測した。
「まずいことになったな」
「三森先生が殺されるとは……」
 男たちはコーヒーを飲みながら周囲には聞こえない小声で話しているが、聴力の発達したパティには筒抜けであった。
「例の件、呂大人はどうするつもりなんだ?」
「どうするもないだろう。これだけの人間が集まっているんだ。予定通りに進めるしかあるまい」
 呂大人。それは上海幇の幹部である呂成景だとパティは理解した。つまり、この男たちは上海幇の人間ということである。なにかの思惑があって四海と上海の人間が同じ船に乗っているにせよ、敵対勢力の幹部に尊称である大人を用いたりはしない。
「しかし、三森先生がいなくても大丈夫なのか?」
「この船にも何人か医者がいる。呂大人はそいつらに任せるつもりだろう」
 その内容から男たちがこの船で行われる重要な事柄について話しているということは理解できた。だが、周囲の目を気にしてか重要なことまでは話そうとせず、上海幇がなにを企んでいるのかまでは把握することができなかった。
 しばらくして2人の男は何事もなかったかのように席を立ち、それぞれの持ち場へと戻って行った。愚痴とも受け取れる内容だけに、仲間の耳を気にしてこのような場所で話していたのだろう。しかし、それは迂闊な行動であったとしか思えない。
(三森が死に、医者がいないと困る。どういうことでしょうか?)
 話から推測するに医者が重要なポジションを占めているとパティは考えた。だが、それがなんなのかまでは情報が足らずに判断することができなかった。

 横浜港を出航して2日目の昼過ぎ。船倉に下りた葉は図面を片手に歩き回っていた。以前、恭介が武器を確保するために下りた際、同時に船倉を調べて問題はなさそうだという報告を受けていたが、それでもこの船になにかが隠されているとすれば船倉しかないと葉は考え、改めて自分の目で確認することにしたのだ。
(確かに、おかしなところはなさそうね)
 寸法的にもおかしなところは見当たらない。こうした大型船で良く用いられるのは、隔壁などの位置をずらし、図面には記載されていない部屋などを造って密輸に利用するという手法であった。しかし、クィーン・アメリア号にはそれもなさそうだ。
 やはり思い違いか、と考えながら引き返そうと階段に足をかけた瞬間、葉は違和感を覚えた。慌てて図面を覗き込み、船倉の高さを確認すると、図面では5メートルとなっているが、それにしては階段の段数が足りないような気がする。
 今まで広さばかりに囚われていて高さに注意を払うことはなかったが、改めて見ると高さが合っていないように感じられた。葉は船倉へ戻り、床を調べ始めた。なにかがあるとすれば船倉のさらに下と考えたのだ。床の高さを上げることで、船倉の下に図面にはない空間を作ることができる。そうとしか考えられなかった。
(これは……)
 しばらくして葉は船倉の床に扉のような亀裂を発見した。それは荷箱によって塞がれているようになっていたが、明らかに扉としか思えない形状をしていた。塞ぐように床へ積まれているいくつかの梱包を動かし、葉は扉を開けようとした。
 しかし次の瞬間、頭部に強い衝撃を受けて葉の意識は遠のいた。
(しまった……)
 床へ倒れた葉は誰かの足を見た。相手の接近に気づかなかった己の迂闊さに歯噛みするとともに、この場で自分の命が終わるかもしれないと覚悟を決めた。そのまま葉は身じろぎすら取ることができず、意識を失った。

 その晩。早くも2人目の犠牲者が現れた。殺されたのは与党幹事長の村瀬一郎。三森と同じように自室で何者かに殺害されたようだった。護衛の人間が目を離したわずか数分間の出来事であった。三森と同様に殺害現場である部屋は立ち入りが禁止され、乗組員以外は中へ入ることを許可されなかった。しかし、辺りに漂う濃い血の臭いから、現場の様子を窺いに訪れた恭介は大量の出血があったのだろうと考えた。
 遺体が安置所へ運ばれたのを確認して恭介は再び忍び込んだ。村瀬の遺体は三森の隣に安置されていた。以前と同じようにプレートを引き出すと、仰向けに横たわった死体が姿を現した。70歳近いにも関わらず皺が少なく、その肥え太った体躯は浜辺に打ち上げられて息絶えたトドを連想させた。
 やはり三森と同じく心臓は抜き取られていた。しかし、村瀬の場合はそれだけではなかった。背中を大きく切り裂かれ、肝臓と腎臓も奪い去られていたのだ。70歳を越えた老人の、それも肥満体型の人間の内臓に価値があるとは思えない。恭介はここに来て初めて壁にぶち当たったかのような錯覚に陥った。
(なぜ、内臓を抜き取る必要がある?)
 それが若い人間の物というのであれば、まだ納得できる部分はある。保存さえ適切に行えば、移植にも利用できるからだ。しかし、70を越えた老人の内臓など移植に耐えられるものではない。
 異常な性質を持った犯罪者の仕業。そんな考えが脳裏をよぎった。しかし、現時点で船内にそうと窺わせる人物は見当たらない。また、警護が離れた数分の隙を突いて村瀬を殺害し、内臓を抜いて逃亡することが可能なのかという疑問も感じていた。並の人間には不可能とすら言える犯行だ。
 遺体を元に戻した恭介は、思案を巡らせながら船倉を後にした。

 完


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
 2512/真行寺恭介/男性/25歳/会社員
 4538/パティ・ガントレット/女性/28歳/魔人マフィアの頭目

 NPC/葉明/女性/25歳/犯罪組織のボス

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■         ライター通信          ■
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 九流翔と申します。ご依頼いただきありがとうございます。
 遅くなりまして申し訳ありません。今回はこのような調査結果となっております。
 リテイクなどございましたら、遠慮なく申し付けください。
 これらの情報を元に調査を続行していただけると幸いです。
 では、またの機会によろしくお願いいたします。