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■Le stagioni −いとしかた−■ |
珠洲 |
【0277】【榊 遠夜】【陰陽師】 |
はらはらと硝子森の葉が揺れないのに頁だけが踊ります。
小さな子供ならば身体一杯に抱えてなお落としそうな大きな書物。
ときに瞬く光の糸で綴られた題字。
Le stagioni
卓の上でぱたりと硬い表紙を開いたのは先程のこと。
マスタが眺める前でしきりと訴えて踊る一頁にある文章を読んでみましょうか。
* * *
「……それでぇ?」
赤い髪をゆらゆらと風に任せる下で作り物のような銀の眸を眇めて問うのはエスターテ。
草臥れた印象の街道で彼女は腕を組み、両の足で大地を踏み締めて立っていた。
照りつける陽射しは随分と厳しい。
張り出した木の枝葉がなければ旅人には酷な道だろうと思わせる。
「お前には関係ないさ」
「そりゃそうなんだけどね」
濃い影の中、ぽつんと幹にもたれる男が答えるのに見下ろすエスターテは溜息と一緒に声を落とした。
彼女が見る男の姿は赤い。盛りを過ぎただろう年の頃、あるいはまだ外見より多少は若いかもしれないその姿は荒んだ暮らしをする者特有の気配とも言うべきものをまとっている。だが赤はそれに由来するのではない。
「あんたが何か、求めてたから」
「……なんだ、そりゃぁ……」
けふと小さく咳き込んで、男は唾を吐く風にしながら口中の血を吐いた。
胸か腹か、あるいは別か、身体のどこを病んでいるのかは知らないが手遅れだ――だって。
「お前、あれか。死神ってやつ、か」
「違うわよ」
自覚はあるんだ、と言いかけてやめた。
銀色の瞳に映る男は己の死を理解してはいない筈だ。
ただ求めるものがあって、その為に誰かを待ち続けていた。
通る者の少ない寂れた街道の片隅で。何日も、何日も。
「……まあ、いいやな」
呟く相手の前にしゃがみこむ。
男の病んだ顔に重なって見える死んだ顔。
「オレが死んじまうまで話……付き合え、よ。嬢ちゃん」
「…………いいけど」
あんたは死人なのよ、なんて言えなくてエスターテはそれを飲み込み空を仰いだ。
青い青い、雲さえもない鮮やかな一枚の布のような夏の空。
木陰で朽ちることもなく誰かを待つ男には酷く似つかわしくない鮮やかさ。
死んだ男の声を聞きながらつと思ったこと。
(街道を誰か、通りがかったりしないかしら)
そうしたらこの繰り返す男の望みも叶うかもしれないのに。
奥で乾いている気持ちも潤うかもしれないのに。
――それで、オレの子供がいるってわかったんだが、よ。
目が見えないって、それで、遺跡のお宝売って金作って――地道に稼げなんて言ってくれんじゃねぇぞ。見ての通りの病人だったんだ、仕方ない、仕方ないんだよ。
けど預けた商人も、まっとうじゃない気がしたからなぁ……ああ、ちゃんと届けてくれたのか……確かめてくれたら、それでいいんだ。それで――
会いたい。いいや会えなくてもいいからせめて。
ずっとずっと昔のように、君を遠くから見れたなら。
――今更会えるかよ。いいんだ。いいんだよ。もう――
* * *
彼等がこうして書を開くということは、手助けが欲しいと心の何処かで思っているということ。
ささやかな出来事ですけれど断ったりはいたしませんよ。
ただ、マスタは御客様に押し付けるということを彼等への協力としているものですから。
おいでになった早々、申し訳ありませんけれど。
宜しくお願いいたしますね。
――それは書を介して出逢う、いつか、どこかの出来事のひとつ。
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■Le stagioni −いとしかた−■
いとし、愛し。
いとしかた、愛し方。
あいしかた、愛し方。
望むがままのそれならば焦がれるわけなどあるものか。
** *** *
「死しても心に残る、か」
街道の半ばに立ち街の方角を並び眺める中、藤野羽月が視線の先もそのままに呟いた言葉に榊遠夜が頷いた。
「男には沢山の捨てられぬものが有ったのだろうな」
「そうだね。今更、と言うのは、きっと」
言葉とは裏腹に今更にしたくないという気持ちが多少なりともあるから。
愛しい、恋しい、逢いたい。
そんな心達。
「愛しい――あるいは哀しいのか」
いとしい、愛しい。かなしい、愛しい。哀しい。
本来の世界での文字を思い返す。
一つの綴りに幾つもの意味。読み方が違えばまるで異なるそれを考えた遠夜に今度は羽月が「そうだな」と応えを返し、首を巡らせた。追うように遠夜も振り返るとその先に少女と男。黒瞳にそれを映して遠夜は言葉を続ける。
「もしかしたら、あの男性の気持ちは、今、そう言う気持ちなんじゃないかな」
溢れ出て抑え隠しきれない愛しさ。
(溢れるのは「愛」じゃなく「哀」かも知れないけれど)
並んで二人が見遣る先では件の男の傍にエスターテがしゃがみこみ、それから羽月と遠夜にとってそれぞれに大切な少女が膝をついて何事かを話していた。
皮肉気な男の表情が時に歪みまた戻る。
それは少女――リラ・サファトとの会話に『愛しさ』を零しそうになるからであるかもしれない。
『お話を、聞こうと思うんです。幸せな、楽しい思い出のお話』
そう言っていた彼女がどんな風に男から思い出を引き出しているのかは二人の位置からは解らないけれど。
可能なら会わせたい。そしてせめて何か伝えることが出来れば。
そんな風に考えたのだろう妻の、あるいは妹分の行動が男に何らかの心情の変化をもたらすといい。
――と、そこでばさりと羽音が落ちた。
「戻ったみたいだぞ」
羽月と遠夜が話すすぐ隣にいながら言葉を挟まずにいた倉梯葵が、走り書いた地図と商人の特徴を記したメモを手に低く言う。応じてその羽音の源である鳥へと遠夜が手を掲げればすいと舞い降りたそれはしばしの間を置いて一枚の紙にと変じた。術によるいっときの使役。
うん、と遠夜がそれに対して頷く様子を葵は静かに見る。
「リラさん」
その間に羽月が呼び招く声は大きくはないが芯の張った通る声だった。稚さの残る面差しを巡らせてリラがそれに応じて立ち上がる。男とエスターテの傍から離れるときに話した何事かがかろうじて耳に届き。
「持って来ますから、待っていて下さいね」
言外に告げることを羽月は確かに聞いた。
おそらくは他の二人も聞いただろう。
だから一緒に会いに行きましょう。
「思い出してくれて助かった」
「そうだな」
街道から少し外れる形で小さな集落がある。
ひたすらに男が記憶を引きずり出した結果、宝を預けた商人はそちらを回るのだと聞いていた。
――換金出来る店にゃあちっと遅れるがいいかね。
――いいさ売って金を届けてくれ俺はもうダメだから。
そんな遣り取りがあったのだろうか。
「遺跡の方は距離もあるか」
「その気になれば向かえる……かな」
「跡が街方向の途中で街道から外れていたんだったな」
「多少薄れはしても間違いなく。村の方も仕入れが来た、と話していたよ」
他の荷馬が通ったなら別だけど、と遠夜は付け加えたが皆それは無いと考える。エスターテや男の話からすれば人はその商人以外通っていない、そもそも人が通っていれば四人が訪れることも無かったのだろうから。
「……間に合う、よね」
普段よりも速い歩調で進むのを、他よりも細い足を動かして並ぶリラがぽつりと言う。
「当然だ」
「うん。羽月の言う通りだ」
羽月と、遠夜と、それぞれが即座に返す。
葵は歩き去った木の根元に今も居るだろう姿へと視線を投げてからリラの頭をくしゃりと撫で。
そうして頬の辺りから笑みに動く表情をライラック越しに眺めて男達は無言のままに互いを見た。
頼みを果たすつもりでいるならば善し。
自分たちは見届けた後に男を妻子に会わせるだけだ。
だが、誠意を持たぬのであれば――
** *** *
その商人は、特徴を事細かに聞いておかなければ探し出すにも難しい平凡な、平凡過ぎる程の容貌だった。
ほんの少し奥目気味の小さな瞳がきょときょとと忙しなく動いている。
「あんたが善良な人間てヤツなら声もかけなかったんだが」
商人が、唐突に現れた男女に街を出る邪魔をされたのはつい先程のことだった。
鋭く尖った目の男と見慣れぬ装いの男が手近な食堂で、隅のテーブルに商人と座り、隣のテーブルに黒衣の男と一人だけ浮いた印象の華奢な娘。
言わずもがな、順に葵、羽月、遠夜、リラである。
四人が街で聞き歩いてじきに追う相手も滞在しているとは判明したのだが、当人を見付けたのは宝を売り払う直前だった。
聞いていた通りの外観の宝を最も高く買い取る店に。
そういう考えだったとは聞き込む間に容易く知れたが、善意の有無が判じかねる。であるので遠夜が商人に続いて店に入り、売った後に向かう先を確かめた。
羽月では和装ということで多少注意を引くし、葵はリラの体調を一度診ておきたかった。リラ自身がというのは他の者が心配するし、という訳だ。
その点、遠夜であれば距離を開けても式神なりという手段がある。
実際そうして商人の向かう先を確かめて。
――それで、オレの子供がいるってわかったんだが、よ。
目が見えないって、それで、遺跡のお宝売って金作って――
商人は、どこにも立ち寄らなかった。
いそいそと荷をまとめて宿を出た。
自身がいつ死んだか。遠くはない筈の過去さえも朧になった男がひたすらに想っていた妻子の家は、聞けばこの街で、尚更縋る思いで商人に宝を託したのであろう。けれど平凡な商人は男の案じた通りに心根はけして平凡でも善良でもなかった。
宝を売り払った後も態度に変化はなく、悠然と街を去ろうとしたのだ。仕入れを行い、交渉を行い、そうして後から到着した四人でさえ聞き歩けばすぐに見付けた妻子の暮らす場所に向かう素振りもなく。
街中ではないが、別の方角から出ればすぐの家。
そこが男の心残りが暮らす場所であったのに。
「行き倒れから頼まれただろう?」
何事か言いかけた男が口を噤んだのは羽月が青い瞳をすいと冷ややかに眇めたからだ。その間に葵は意味有りげに遠夜とも視線を交わしてから、人目につきにくそうな通りを見、商人を見る。
「ここで言いたくないなら別にそれでもいいけど、こっちは」
そこで言葉を切った。
声を抑えて言えば商人の方で勝手に想像を働かせてくれるというものだ。びくびくと葵の目線を追っていた商人は表情を強張らせる。
自分達四人の中で今相手を威圧しないのはおそらくリラだけだ。
どのような連想を自分達と人気のない場所の組み合わせから考えたのやら。だが状況次第では多少は、と考えながら葵は内心で薄く笑っている。まったく、と。
(作業用ナイフ一丁で考える事じゃないな)
なんのことかと誤魔化しを試みる商人を観察するに、そこまでふてぶてしくもないとは思う。思うが仮にそうなれば葵は躊躇しない。
その思考はやはりどこかしら雰囲気にでも現れるのか、商人が位置関係や会話の相手であることをおいても特に意識しているのは葵のようだった。
「……葵……」
つと洩れたリラの細い声に気遣う色が覗く。
長い時間でもないが短くもない。彼女の気質では商人の不誠実への感情を維持するにも難しいのだろう。
やはり商人の行動を確かめた後にでも男の元に先に帰らせておけばよかった。羽月か、遠夜か、どちらかと共にであれば安全であったろうに。今更だ。
ふと息を吐いた音。
それは羽月であったのか葵であったのか、遠夜の位置からは解らなかった。ただ商人がそれで大きく肩を揺らしたことだけが。
葵と羽月は商人と同じテーブルに居たので表情の変化がはっきりと知れる。深い呼吸は別の手段――この場合は商人の恐れる方向の、だ――を考えたかと誤解したらしい。つまり、乱暴には慣れていないだろうリラを遠ざけて自分を、という。
「たいした小心だ」
ぎりぎり葵の耳に届いた羽月の早口には同意する。
そこへ差すふわりとした姿の影。
「リラさん」
席を立ち近付いた少女は悲しげに、羽月を見てから商人を見下ろす。小柄な姿を見上げる商人はけれど傍の二人と更に少女の背後の黒衣を確かめて、逃げることも頭には浮かばない。
「……私達、あの宝物をあなたに預けた人に、頼まれました」
「ちゃんと届くか気になる、とね」
はい、と遠夜の補足に頷くリラ。
「ずっと……、ずっと奥さんと子供さんのこと、心配されているんです」
嘘だ、と商人が呟いたのには「嘘じゃない」と葵が即座に返す。
死に瀕した男から商人は依頼され、四人は死んで尚焦がれる男を見かねたエスターテを介して依頼された。それだけだ。
あんな死人みたいだったのに、と言う。
「死んでるだろ」
言葉を拾い上げるようにして間を置かず「そうだ」と葵が素っ気無く、淡々と首肯すれば商人の顔から血の気が見る間に引いていった。
「死者の依頼、というのも無くはないからね」
「遠夜は死者から請けたことが?」
「仕事柄、無くもないよ」
羽月が遠夜の声に問うて返る答えがまた商人の顔を青くする。
効果的だと葵は今度は沈黙して相手を見。
「あの宝物を売ってのお金でないと……意味が、ないんです」
「余程の心残りだぞ」
リラが瞳を揺らして言い募るのにそろりと言葉を添えてみた。
ぎくりと、いまや自身が死者に近い顔色となった商人は忙しなく葵を見、羽月と遠夜を見、リラを見、それからまた葵を見た。
「金は、他と混ざって」
「買い戻せば俺達が頼まれた通りにしてやるさ」
「元の値で買えるとは」
「あんたの腕次第だろ。商人」
顔を覗き込むようにして相手に近付いて、低く葵が告げた言葉はリラには聞こえないように。他の二人ならば唇を読んでも気にはすまい。
「――ま、納得しないなら命がけでもいいんだが」
かち、とさり気なく鍔を鳴らした様子を見るに羽月は読み取っていたらしかった。
** *** *
距離感もおかしくなりそうな、どこか朧な感覚。
不可思議の多い世界であるのであるいは誰か――例えばエスターテであるとか――が何か影響を与えているのかもしれないが、この場合は実際に街道の元の場所が往路よりも短い期間で見えてきたので良しとしよう。
変わらぬ姿勢で二人は自分達を出迎える。
リラが抱えた袋を広げて二、三の宝を見せると男は赤く染まったままの唇をぱくりと一度開いてそれから目元を中心に顔をゆがめた。それだ、と擦れた声。
そして男が商人に頼んだ事をそのまま四人に話そうとするのを遮る形、懐かしさを宝の向こうの妻子に見ているくせに恐れて逃げを打とうとするのを阻む形で告げたのは誰だったのか。
一緒に街に行くのだと。
誰もが男を妻子に、たとえ相手には見えずとも会わせようと考えていたので、誰が告げてもおかしくはなかった。
男が躊躇する。いいや、と小さく口篭る。
咳き込んでまた血を吐いて。
死んだ男がまだ病からの血を――
――ほんの少しだけでいいんだよ。
そんな風に思って遠夜は男を見る。
一緒に、と言われて男は何事かを言いかけたのだ。けれどすぐに口を噤んで自分で否定してしまう。叶わない出来る訳もないと自ら定めてしまっているのだろう。
そんなはずはないのに。
だから。だから、もし。
ほんの僅かにでも素直に、気持ちを出せるのなら。
「僕達に出来るのは手伝いだよ。ほんの少しのね」
それは貴方が望んで初めて差し出せる手。
ちらりと男を窺い見てから遠夜は一度訪れたばかりの街、正確には街がある方向へと顔を向ける。近くはない位置のそこには、男の愛であるのか哀であるのかが今も溢れて向かう妻子が生きている。
「きっとここで色々と考えてしまうんだろうけど」
言いながら身体を動かして男の正面を空ける。
さびれた道の先、街は見えなくとも。
「ほら――貴方が見るべき風景、見るべき子供、見なくちゃいけないものは沢山溢れているよ」
ずっと考えている間にも溢れるその、気持ちと同様に。
座ったままのくたびれた男は血で汚れた口元を、リラの差し出したハンカチで拭われてから――遠慮するも遅かった。彼女はこういったときとても手早い――伏せた面の下で動かして。
「見て、どうするってんだ」
「今更なんて言葉も無い」
語尾に習い性の如く付けかけた男の言葉を奪い、遮る。
穏やかな、人当たりの良さそうな若い面差しに変化はないけれど、遠夜の声の底には揺るがない強さがあった。
「遅くなんてない。貴方がやり直したいと願うのならば」
換金を考えたのは今回が初めてだったのかもしれない。繰り返してついに身体が限界に至ったのかもしれない。
そのどちらにしても、男があの街の近くに向かわなかったとは思わない。幾度となく街で暮らす二人を見詰めたのではないか。
「貴方が願うのであれば、僕達は力になる」
遠夜の向こうに広がる何の変哲もない旅路。道。
男はぼんやりとそちらへと顔を向けていたが、問うように遠夜に瞳を巡らせた。
「遅くなんてないんだよ」
だから、貴方の『今更』という言葉に隠された意味を。ずっと宝の行方を案じていた理由を。思い返す気持ちの源を。
遠夜はただ笑いかける。ごく自然に力付けるように。
そうして告げるのはただ一言。
「さあ、見て」
そうして背を押され、男も一応覚悟を決めたはずなのだけれど。
この通りの病人だ歩くにも、とそれでもまだ躊躇う様子であるのには羽月が顔の動きで遠夜を示してのたまった。
「其処の泣き虫陰陽師も手伝うと言っている」
「要は異世界の術者だ」
葵が説明すれば男もそうかと頷いて遠夜を見る。
泣き虫、と言われた当人は苦笑してはいたが男と目が合うとにっこりと笑って手を差し出した。
「勿論」
本当は癒す為だとか、そういう類のものではない。
己の死を理解していない男が最後に去り行くときに手伝い、という形の方が意味合いとしてはるかに正しい。口にはしないけれど。
「大丈夫。会いに行けるよ」
男に言いながらエスターテを見る。
一緒に立ち上がった彼女はひらりと手を振って短く一言だけ。
「行ってらっしゃい」
またいつか、と言うのを背に街へ向かう。
途中で振り返ればもう姿は見えなかった。
** *** *
換金した金を確かに、と受け取って一同は向かう。
何度か足を止めた男に声をかけてはまた歩き――当人は気付かず懐かしいと周囲を見回すが、男と話す度に住民から不思議そうに見られるのはやはり他人には見えていないからなのだろう。それに男が死者であると再確認しつつ一度入った街を別の方角から抜ける。
さほどの距離を置かずに見えた幾つかの民家。
こじんまりとした花壇が小さな家の片隅にあって、そこが男の妻子の家だった。
「場所は、知っていたんだ……本当はよ」
「そうか」
詳しくは聞かない。
何度か金を、例の商人とは違い信頼出来る者か業者を介して届けたのかもしれないし、金ではなく贈り物かもしれないし。あるいは会うことを考えて、そのくせ実行出来ずにいたのかもしれない。
だがどのような理由があって知っていたとしても関係はない。
「……ああ……こんな、家だったのか」
親の家にアイツが居る頃に見たのが最後だったから。
震える声を隠しもせずに呟く男の腕をリラと遠夜が支えている。
頼りなく小さな足取りで男が家に近付いていく。
金の詰まった袋を抱えた羽月が一歩、先んじる形で立ち男を振り返って僅かに思案する風に眉を寄せた。男の立つのが家を囲む小さな柵の向こうであったのだ。
けれどどうにもそこが限界のようだと苦笑する従兄弟から判断して扉を叩いた。
「――失礼」
思い出話の中で、歌だとか言葉だとか、伝えられるものがあればとリラは考えていて道中も男と話していたのだけれど間に合わなかった。少し惜しいとは思う。
「でも、たくさんの思い出……素敵ですよ」
「……音はな、この辺に引っ掛かってるんだが短くて、よ」
咽喉を指で叩いて笑う男は咳の止まった自分に気付いていない様子だ。出て来た女と子供から視線を離さずにそれだけを、リラの独り言に返した男の表情は己の病どころではないと語っていた。
「――」
おそらくは女の名を呼ぶ。腕の中の小さな、焦点の合わない子供を見る。両の腕が知らず上がる。もう一度呼ぶ。女は気付かない。ただ羽月の説明を聞いている。説明は、それは。
ああ、とついに男が息を吐いた。
男がそれに至るのを待っていた羽月が回りくどく伝えていた依頼の内容と、経緯を簡潔な説明に切り替える。
死んでしまった男のことにも言及は免れない。
だから気付くのを待った。
「俺は、俺は、そうか」
気を使ってくれたんだなと唇を歪める。泣き笑い。
その姿を見上げている間にリラはやはりと考える。
引っ掛かっている音。それを伝えられたらと。
「ほんの少しだけでも、引っ掛かっている音を贈りませんか?」
「……なにを」
「きっと届きますから」
促すリラに「そうだね」と遠夜が援護の声を上げれば葵も「そうだな」と同意する。
「独り言だけど、障害持つと別の感覚が発達するってな……聞き取りそうだよな、歌。独り言だけど」
葵が更にこれみよがしに呟いてみれば、視線を彷徨わせて男はようよう短く音を洩らし始めた。
とても素朴な、ほんの少しだけの旋律。
耳に届いたその音は、羽月の話を聞いてそれでも涙を落とすことは堪える眼前の女に届いていない。変わらない表情にそれは知れる。
繰り返す短い曲はごく一部分であるのだろう。
拙く微かでぎこちない。
伝わればいいのだが、と羽月もまた思うその前でふと子供が瞳を動かした。何も映し込まない瞳を、だ。
母親の変化を感じ取って落ち着かない様子でいた子供が彷徨うばかりの眸を羽月の更に向こうへと。
確かに焦点が合っている。
背後の何処か、誰か、それは確かめるまでもないはずの。
ほろほろと男の輪郭が滲んで崩れていく。
完全に溶けはしないけれど周囲と境界を曖昧にしていく。
「ほら……きっと、聞こえています」
リラが示す家の前では羽月が頭を下げてこちらに戻ってくるところだった。その向こうで女が子供を抱えてついに嗚咽を洩らしながら建物の中へと戻っていく。
子供は母親の肩越しに今も瞳を向けていた。
涙混じりの声で女が何事かを子供に話しかける。子供は尚もこちらを――男を見る。女は大きくなってきた子供を揺すり上げて、悲しいだろうに震える声で歌い出す。
ああ、同じ歌だ。
風程のささやかさで男が言う。
ほろりとまた輪郭は曖昧さを増す。
遠夜はしばらく溶ける男の姿を見詰めていたが、大丈夫だね、と問うでもなく言うと男に添えていた手を下げた。同様にリラも。
「よかったじゃないか」
葵の変わらぬ声音に男が頷けばその拍子に溢れた涙が弾けて溶ける。歪んだ顔は何度も見せられたが今の歪みは幸福そうだ。
「心が満たされたのであれば、その潤う気持ちのまま、次へと進めばいい」
涙が溶けて淡い残滓だけを散らす只中で羽月の言葉にまた頷けば、涙もまた散る。散り溶けて淡く残る。
「歌と一緒にきっと、思い出も……お子さんにも伝わりましたよ」
だといいなと家の中の女と似た嗚咽交じりの声がリラの言葉に返す。血に汚れていた口元は今はただ柔らかい。
「それじゃあ、旅立とう。貴方の歌はきっとあの子に残るから」
いつかそれを聞く為に今は違う道筋へ。
遠夜がここで男を導くのは穏やかな果て。
差し出した手に男がほろりと頷いて、溶けた。
消えた男の残滓は涙と同様の淡い、淡い微かな光。
それはゆらゆらと漂い一つ二つと妻子の居る家へと向かい、そこで溶けていく。
家の中からは今も涙声の歌。
いとしいとし、と。
浮かんだ言葉はまさにその想いの糸だった。
** *** *
いとしかた。
焦がれ求めて逢い満ちる。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0277/榊 遠夜/男性/18歳(実年齢18歳)/陰陽師】
【1879/リラ・サファト/女性/16歳(実年齢19歳)/家事?】
【1882/倉梯葵/男性/22歳(実年齢22歳)/元・軍人、化学者 】
【1989/藤野 羽月/男性/16歳(実年齢16歳)/傀儡師 】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは。ライター珠洲です。
扱い辛いオジサンの心残りを解決して下さってありがとうございます。頂いたプレイングでライターがほろほろ来てました。
どの部分、どの言葉も捨て難く、欲張った結果ちょっとぎゅうぎゅうかもしれません。意図した使い方と異なる部分はご容赦下さいませ。
* 榊遠夜 様
全体として中年男性を宥めているような、面倒見の良い印象がライターにはあったのですがどうでしょうか。
榊様の職業からするとこういった心を残す相手とも言葉を交わすことは多いのだろうなと勝手に過去を想像してみます。年齢以上に内面に余裕がありそうですよね。
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