■過去の労働の記憶は甘美なり■
水月小織 |
【4567】【斎藤・智恵子】【高校生】 |
東京では仕事を選ばなければ稼ぐ手段に困らない。
かと言って、紹介する者を選ばなければどんな目に遭うか分からない。
いつものように『蒼月亭』のドアを開けると、こんな文句が目に入ってきた。
『アルバイト求む』
さて、ちょっと首を突っ込んでみようか…。
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過去の労働の記憶は甘美なり
バレエという習い事は高嶺の花だという。
それは教室の費用だけではなく、練習に必要なレオタードや体を冷やさないためのニット、動きを見るためのスカートやタイツ、踊りに必要なシューズ、そして発表会のための衣装…両親は「そんな事は考えなくてもいいから、のびのびやりなさい」と言ってはくれるが、高校生ともなると流石に色々と思うところがある。
「はぁ…」
そんな溜息をつきながら斎藤 智恵子(さいとう・ちえこ)は、学校の友人に紹介されたカフェへの扉を開けた。
『蒼月亭』…普段はカフェだが、そこのマスターが短期でも割のいいアルバイトを紹介してくれるという。紹介してくれた友人は二日ほどのバイトで、欲しかったアクセサリーを買えたと智恵子に教えてくれた。
バレエのレッスンや部活などがあるので、長期のアルバイトは出来ないが、せめて最近傷み気味になってきたトゥシューズぐらいは自分で買いたい。緊張しながらドアを開けると、チリンとドアベルが鳴り、それと共に優しい声がかけられた。
「いらっしゃいませ、蒼月亭へようこそ」
そう言ったのは長身で色黒の男だった。智恵子は書いてもらったメモを見ながら、おずおずと声をかける。
「あ、あのっ…ナイトホークさんという方はいらっしゃいますか?」
すると長身の男がふっと笑った。それが人懐っこい笑みだったので、それで智恵子の緊張感がいくらか和らぐ。
「ナイトホークは俺だよ。何の用があるのか知らないけど、取りあえず座って」
そっとカウンターの一つに水の入ったグラスが置かれた。智恵子はそこにちょこんと座り、ナイトホークを見上げる。
「私、友人の紹介でやって来ました斉藤 智恵子と申します。あの、ここで日数単位でのアルバイトを紹介してもらえると聞いたのですが…」
そう言うと智恵子は自分が持っていたメモをナイトホークに差し出した。そこには友人の名前とちょっとした紹介文が書いてある。ナイトホークはそれを見ながら口元に手をやり考える。
「へぇ…バレエのトゥシューズを自分で買うために、か」
「はい。ロシアのグリシコというメーカーのシューズが足に合っていて踊りやすいんですけど、結構高いんです…せめて練習用のシューズぐらいは自分で買いたいと思っているんですが、長期のアルバイトは出来ないんです」
俯きながら智恵子はそっと眼鏡を上げた。制服のリボンに長いお下げがかかっているのが見える。すると目の前にクッキーが乗せられた皿が差し出された。
それに驚き顔を上げると、ナイトホークがにこっと笑う。
「ちゃんと仕事あるから、取りあえず深呼吸して俺の奢りでなにか飲まない?コーヒーが飲めるなら、それがお勧めなんだけど」
その笑顔が智恵子を安心させた。一体どんな仕事を紹介してもらえるのかまだ分からないが、その笑顔だけで何となく大丈夫だという気がする。
ふうっと一つ深呼吸。
「ではコーヒーをお願いします。アルバイトの方もよろしくお願いいたします」
「かしこまりました」
ウエイトレスの経験があるということでナイトホークが紹介してくれたのは『Shangri-la』という店だった。
「結構給料いい店だから。でも、帰りがちょっと遅くなるから終わる頃に迎えに来る」
そう言われたので安心してきたのだが、実際行くとそれは普通の店ではなかった。
「バ、バニーガールですか?」
話を聞くと最近までは普通の飲食店だったのだが、不況の影響もありウエイトレスの衣装をバニーガールに変えたという。流石にこの格好をするのは恥ずかしいので、智恵子が断ろうとすると、店長の男が両手を合わせて頭を下げた。
「一日だけ入ってくれればいいから、お願い出来ないかな」
「で、でも…」
「明日には新しい子が入るんだけど…ちょっとお給料もプラスするからこの通り!」
そこまで言われては断れない。それに断ったことで、アルバイトを紹介してくれたナイトホークに何か迷惑がかかるのは困る。智恵子は小さく頷きながら、小声で話す。
「今日一日だけですよね?」
「一日だけだから、お願い」
「私で良ければ頑張ります…」
はっきり断れば良かったのかも知れないが、これだけ必死に頼むと言うことは本当に人手が足りないのだろう。それにこの店なら、学校の誰かが来るということもなさそうだ。人に見られて色々と説明に困るのは避けたい。
智恵子が引き受けたことに安心したのか、店長はホッと息をつき更衣室へ案内する。
「じゃあ、服のサイズはクリーニングの袋に書いてあるから着替えて。お酒とかを持っていくだけだし、他の子もいるから大丈夫」
そうは言われたが、いざ衣装に着替えてみると袖のカフスや衿、蝶ネクタイなどがどうも自分になじんでいない気がする。それに網タイツと足回りもやはり恥ずかしい。着こなし慣れてないせいで、どうしても猫背気味になる。
すると智恵子の後ろで着替えていた女性がにっこりと微笑んだ。
「あら、ずいぶん若いけど新人さん?」
「いえ…今日一日だけアルバイトさせていただきます。斉藤 智恵子と申します」
ぺこりと頭を下げるとその女性が一瞬目を丸くした後でくすっと笑う。
「ダメよ、お客さんに本名名乗っちゃ。私は『サツキ』って名乗ってるから、智恵子ちゃんは今から『ハヅキ』って名乗るといいわ」
「ありがとうございます」
なんだか自分が知らない世界のようだ。
どうしていいか分からず立っていると、サツキは自分が座っていた椅子を智恵子に勧めた。
「お下げも可愛いけど、全部おろした方がいいわね。ここ座って」
そう言われ、智恵子は胸元まであるお下げをほどく。その髪をサツキがブラシで丁寧に梳く。その様子を鏡越しに智恵子はそっと見ていた。
着ている衣装も似合っていて、堂々としている。立ち振る舞いが違うと、それだけで印象も違ってしまうのだろうかというぐらい、サツキにはバニーガールの衣装が似合っていた。
「何かあったら私に言って頂戴ね」
「よろしくお願いいたします、サツキさん」
誰か話せる人がいると少しは心強い。これで何とか一日こなすことが出来るだろうか…。
「お姉ちゃん可愛いね、眼鏡っ娘ってやつかい?」
「い、いえ…」
仕事が始まってみると、色々な男性がやって来てかなり忙しかった。その中でも智恵子は新顔で、バニーガールの中ではただ一人眼鏡をかけているせいなのか、やけに声がかかる。
「やっぱり恥ずかしいです…」
そう思うと自然に顔が赤くなり、仕草がおずおずしてしまう。それが初々しいせいで、また客が声をかけてくる。
「姉ちゃん、名前は?」
強面の男がそう言いながら智恵子を呼び寄せた。動揺を悟られないよう、智恵子は一生懸命それに答えようとする。
「さ…は、ハヅキと申します」
うっかり本名を言ってしまうところだった。それを不審に思われてないかとそっと顔を覗き込むと、その真っ直ぐな瞳に男の方が目を反らす。
「ハヅキか…。水割り一つ、それと…」
するとその男はスーツのポケットから札を出し、それを智恵子が持っているお盆に乗せた。どうしていいか分からず戸惑っていると、男が小さな声でこう言った。
「とっときな。別に変な意味じゃねぇ…頑張りな」
「あ、ありがとうございます」
ぺこりとお辞儀をし注文を伝えに行くと、サツキがこれから客に持って行くビールを注いでいた。もらった千円札はどうしたらいいのだろう…智恵子はサツキの側に行き、小声でチップをもらったことを告げた。
「あの、これは店長さんにお渡しするべきでしょうか」
その言葉にサツキがサーバーを動かしながら首を横に振る。
「ダメダメ、それはお客様がハヅキちゃんにくれたんだから取っておいていいの。ね?」
「そうなんですか?」
「そうよ。それはハヅキちゃんの応援のためにくれたものなんだから、店長なんかに渡したらお客さんがっかりよ」
自分の応援のためにくれたもの…。
そう思うと、もらった千円札が急に貴重なものに思えてきた。それをそっと胸元にしまい、智恵子はキッチンから渡された水割りをトレイに乗せた。
まだやっぱり恥ずかしいし、まじまじと見られたら赤面してしまうが、せめてこれを出す時だけは笑顔を見せたい。慣れないハイヒールででも、堂々と歩きたい。
「お待たせ致しました、こちら水割りになります」
いい客ばかりではないが、悪い客ばかりでもない。
時には「バニーガールと言うにはちょっと胸が足りないかな?」などと言われて恥ずかしい思いもするが、それでも何とか笑顔でいると一緒にいる誰かが「セクハラですよ」とか言ってくれたりもする。
そうしていると別の席から声がかかった。
「ねえ、煙草に火つけてくれないかな」
来た。
前もって説明はされていたが、客に「火を付けて」と言われた時は胸元に入れていたライターを出さなければならないのだ。恥ずかしいのでその声がかからなければいいなと思っていたが、避けて通るわけにも行かないらしい。
「はい、かしこまりました」
そっと胸元からライターを出す。
恥ずかしくて俯いてしまいたいが、火を付ける時にそんな事をしたらお客様に怪我をさせてしまうので、智恵子は頑張ってライターに左手を添えた。
「不慣れですので、手が震えてしまうかも知れませんが」
そう前置きしてそっとライターに火を灯すと、煙草の先が近づけられ煙が着く。
たった何秒かの出来事なのに、それでも人の煙草に火を付けるなど初めてなので緊張した…無事に出来たことに智恵子は思わずホッとした。
「火傷とかなかったでしょうか?」
「お姉ちゃんが可愛いから、おじさんハートが火傷しそうになっちゃった」
どっと辺りにいる客がそれを聞き笑った。智恵子も思わず笑いながらライターを元の位置に戻し、一つお辞儀をして後ろに下がっていく。そして客から見えないところまで来て、トレイを持ったまま真っ赤になってしゃがみ込んだ。
「は、恥ずかしかったです…」
何か悪いところはなかっただろうか…そんな事を思いながらそっと客席を見ると、煙草を付けた客達は楽しそうに呑んだり笑ったりしている。そこにサツキがやって来た。
「ハヅキちゃん、立派だったわよ」
「すごく恥ずかしかったです。あんな感じで良かったのでしょうか?」
「お客様が満足してるんだから、良かったのよ。気に入られたらまた呼ばれるから、頑張らなきゃね」
くすっと悪戯っぽく笑うサツキを見て、智恵子はようやく立ち上がった。アルバイトに来ているのに、こんなふうにさぼっているわけにはいかない。
「お願いしまーす」
「はい、少々お待ち下さいませ」
そうやって仕事をこなしていくうちに、少しずつ他のバニーガールの人たちとも話せるようになってきた。
「バレエやってるんだ。自分でトゥシューズ買うなんてえらいね」
「そんな事ないです…何か一つだけでも自分でやれたらと思っただけですので」
そんな一生懸命な態度が気に入られたのか、寒そうだからとバニー用の燕尾ジャケットを貸してくれたり、ちょっと態度の悪い酔っぱらいがいると「ハヅキちゃんはヘルプだから」と助けてくれたりしてくれた。
「ハヅキちゃん燕尾ジャケット似合うわ。やっぱりバレエやってるから足の形とか綺麗だもの」
サツキがそう言って褒めてくれるのが嬉しかった。最初は恥ずかしくて仕方なかったが、レオタードやバレエの衣装だと思うと頑張って背筋を伸ばそうという気になる。メニューを聞いたり、お酒を出すのにも慣れてきた。
そんな時だった。
バタンと裏口が開きその音に振り返ると、そこにナイトホークが立っていた。
「いらっしゃいませ」
何を言っていいのか分からず智恵子がそう言うと、ナイトホークはあっけにとられたような顔をした。走ってここまで来たのか息が少し上がっている。
「…ここがバニーガールの店に変わったってさっき聞いて来たんだけど…何か、もしかして結構平気?」
「あっ、いえ…そういうわけでは…」
改めてそう言われるとすごく恥ずかしい。
智恵子が赤くなった顔をトレイで半分隠しながら俯くと、ナイトホークは困ったように溜息をついた。
結局最初の条件と違ったと言うことで、時間は一時間ほど残っていたがそこでアルバイトは終了になった。
バニーガールの衣装から元の服に着替え鏡を見ると、まだ髪の毛をおろしているせいか映っているのが自分じゃないような気がする。
「ハヅキちゃん…じゃなかった、智恵子ちゃん」
「サツキさん」
まだ店が忙しいせいで、サツキが給料の入った封筒を智恵子に向かって差し出す。
「今度発表会があったら教えてちょうだい。給料袋の中に私の住所と本当の名前書いた紙入れたから」
「はい、今日は本当にありがとうございました」
その袋をそっと受け取り、智恵子はその中にチップでもらった千円札を入れた。そしてサツキや店長、他のバニーガールにもお辞儀をしてそっと裏口から出る。
パタンとドアを閉めると、電灯の下でナイトホークが頭を下げた。
「…ごめん、俺がちゃんと確認しなかった。嫌だったろ、こんなバイト」
確かにびっくりしたし、恥ずかしかった。でも、自分の力でお金を稼ぎ、チップを受け取ったりするのは嫌ではなかったし、新鮮な体験だった。智恵子はそっと首を横に振る。
「いえ、びっくりしましたけど楽しかったです…それに、お仕事にいいも悪いもありませんから」
「いや、それでも高校生にこんなバイト振ったらダメだ」
「気にしないで下さい。楽しかったのは本当ですから」
空を見ると少しだけ欠けた月が昇っていた。だんだん寒くなってきた街を、智恵子はナイトホークと並んで歩く。
「そういえば給料ちゃんと確認した?一万入ってるはずなんだけど…」
「いま確認しますので、お待ち下さい」
給料袋の中には一万円札と千円札、そしてメモが入っていた。智恵子はそのメモをそっと街灯の下で見る。
「あ、サツキさんの名前…」
そのメモには『私の本当の名前もちえこなの』と書かれていた。その偶然がなんだか嬉しくて、智恵子は思わずくすっと笑う。
「ちゃんと入ってました。自分で働いたって思うと、なんだか嬉しいです」
自分で頑張ったお金で買ったトゥシューズは、きっと足になじむだろう。
その日のことを思いながら、智恵子は袋を大事に両手で抱え込んだ。
fin
◆登場人物(この物語に登場した人物の一覧)◆
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
4567/斎藤・智恵子/女性/16歳/高校生
◆ライター通信◆
初めまして、水月小織です。
少し給料の良いウェイトレスの仕事と思って引き受けたら実はバニーガールの仕事…ということで、色々と戸惑いながらも一生懸命頑張る姿を書かせていただきました。胸元からライターを出したりというのは、その仕事をやっていた人から聞いた話ですが、赤くなりながらも一生懸命にやっている姿が目に浮かびました。そんなところが書けていたらいいなと思っています。
リテイク、ご意見は遠慮なく言ってください。
またご縁がありましたらよろしくお願いいたします。
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