■迷想館の午後■
雨宮玲 |
【0086】【シュライン・エマ】【翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】 |
なだらかな丘陵の頂上に立つ古びた洋館、麻生邸。その南側を改装した小ぢんまりとした昔ながらのクラシック喫茶『迷想館』。
クラシック喫茶の全盛なんてとっくの昔に終わってしまったが、道楽好きの爺さんは、有り余った資産の一部をこの喫茶店の運用資金にあて、上質なお茶と音楽を好む人々に、ささやかな安らぎの時間を提供している。
「でも、なんで『瞑想』でなく『迷想』なんですか、宏時(ひろとき)さん」
身寄りを失い、跡継ぎも兼ねて道楽爺さんこと麻生宏時に養子縁組することになった清春は、店の前にさり気なく出された看板を指差して言った。
「迷想って、迷ったり妄想したりすることでしょう? 静かに考える意味の、瞑想、ではないんですか」
「どちらだって同じじゃよ。若い者が細かいことを気にするな」
ほっほっほ、とサンタクロースみたいな妙な笑い方をする道楽爺さんにばんばんと背中を叩かれながら、そうだろうか、結構違うと思うんだけどな、などと思う清春である。
店内の右手奥には茶色の古ぼけたドアがあり、清春と『その相方』は普段そこを根城にしている。
でも、そのドアは誰にでも見えるわけではない。そのドアが見えるのは特殊な人々――たとえば霊感を持っていたり、霊と交信したりできる人達のみだ。
「見えないなら、見えないに越したことはないんですよ。こんなドアなんてね」
とは、麻生清春の言葉。
だからもし扉が見えても、見えないフリをしていたほうがいい。見えないならそれに越したことはない。美味しいお茶とデザート、それに美しい音楽だけで十分満足しておくほうが賢明だ。
もちろん、貴方が扉を潜りたいというなら、止めはしませんけどね。
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迷想館の午後 -恋の季節-
緩やかな坂が延々とつづいていた。
坂下からはたいしたことのない丘陵に見えても、一旦登り始めると、いつまで経っても登り終えない。永遠につづくかのように思える心臓破りの坂。冥府へ下る坂道もこんな感じではないかしらと想像する。
声を武器とする特性柄、心肺機能には自信のある彼女にとってすら、楽な道程とは言い難かった。
散歩がてらと登り始めたは良いけれど……。
シュライン・エマは、道半ばで足を止め、じっとり汗ばんだ額を手の甲で拭う。
暦は秋。
幾分過ごしやすくなったとはいえ、まだまだ日中は気温が上がる。風でも吹けば心地良いだろうに、生憎とまったくの無風だった。
「散歩のつもりだったけど、良い運動になってしまったわ……」
やれやれ。
切れ長の目を細めて丘の上を振り仰げば、辛うじて、古ぼけた洋館の影を認めることができた。ここまで来てしまったからには、と、シュラインは洋館を目標に定め、再び歩き出した。坂の傾斜は頂上に近づくにつれ大きくなっているようだ。館のてっぺんでくるくる回る風見鶏が、早くこちらへおいで、と誘っているようだった。上まで登り切ってから、風なんてほとんど吹いていないことを思い出した。屋敷の前まで来てしまうと、屋根のてっぺんが見えなくなり、風見鶏が回っているかどうか確かめることはできなかった。
シュラインの注意はすぐに風見鶏から逸れた。ふと顔を向けた先に、見慣れない喫茶店があったのだ。
「へぇ、こんなところに……」
どうやら館の一部を改装して喫茶店にしたようだ。一体いつから存在していたのか、館が建てられたと同時に喫茶店も併設されたような、古びた外観だった。屋敷や周囲の風景に違和感なく溶け込んでいる。味わいのある木材が彼女の気に入った。
店の名前は『迷想館』。迷う想い、と書いてめいそう。……『瞑想』ではないのかしら?
冥府の坂道を登ってきただけに(下った、ではなく登った、というところがなんとなく象徴的だ)、ちょっと不思議な気がする。異界に迷い込んでしまったような感じもするし、現実と異界の狭間に迷路があって、その道半ばで立ち往生しているようでもある。入り口へ引き返すべきか、出口を目指すべきか。出口を出たらそこは異界? だとしたら、入り口が現実世界への出口ということなる。つまりどちらも入り口になり得るし、出口になり得る。ま、どちらも変わりないか、と彼女は思い直した。シュラインにとっては、彼女の存在する世界こそが現実だ。
店の扉を潜ったらさらに迷路の奥深くへ迷い込んでしまいそうな気もしたが、そんなところすべてがむしろ彼女の気に入ったのだった。そんなわけで、シュライン・エマは店の扉をそっと押した。
店の奥のテーブルで、年の頃二十歳程度と思しき青年が、ぼんやりと文庫本を読んでいた。同じセンテンスを何度も繰り返し読んでいるような感じだった。
「こんにちは」
おそらく彼がここの従業員だろうと当たりをつけて、シュラインは扉を押したときのように、そっと声をかけた。彼を驚かせないためだったが、
「わっ!」
案の定、青年はびっくりして椅子から飛び上がった。文庫本が床に落ちた(ツルゲーネフの『はつ恋』だった)。
「驚かせてしまってごめんなさいね」
「いえ、すみません、お客様」青年は立ち上がってぺこりと頭を下げると、右腕を広げて伽藍とした店内を示した。「ご覧の通り空席はいくらでも御座いますので、お好きなところにおかけになって下さい」
ではお言葉に甘えて、と彼女は今しがた潜った扉に近い、窓際の席に座した。テーブルは、裾に細かい刺繍の入ったクロスで覆われていた。
「こんなところに喫茶店があったなんて知らなかったわ」
メニューと冷水を運んできた従業員に向かってシュラインは言った。
「はあ、僕もつい最近まで知りませんでした」いささか無特徴に過ぎるとはいえ、好青年と言って良い従業員は、間の抜けた返答をした。「物好きですよね。……あ、悪い意味で言っているのではありませんよ」
「ええ、そうね、私物好きよ」シュラインはくすくすと笑う。物好きでなければこんな喫茶店にふらりと立ち寄ったりはしない。「甘味と珈琲をいただこうかしら。何かお勧めのものはあるかしら?」
「そうですね、ブラウニーはお好きですか? エスプレッソ風味の……あ、それだと珈琲同士になってしまいますね」
「紅茶がお勧めなら紅茶をいただくわ」
「そうですね」青年は、うーん、とのんびり考える。商売根性のなさがいっそ潔い。青年は、さっき彼が座っていたテーブルの上に載った文庫本にちらりと目を向けた。「それでは、ロシア紅茶はいかがですか」
「素敵ね」
シュラインはにこりと微笑んだ。彼女の中性的だが魅力的な容貌に、心なしか従業員の青年の頬が赤く染まったようだった。
少々お待ち下さい、と心持ちどもりながら言って、たった一人きりの従業員は奥へ引っ込んだ。
店内には音楽がかかっていた。よくよく注意を払って聴いてみると、何らかのバロック音楽のようだった。チェンバロか何か、古い楽器が、瞑想するように、あるいは迷想するように音楽を奏でている。
シュラインはメニューの到着を待つ間、音楽に耳を傾けつつ、何とはなしに店内を観察した。温かみのある木材、慎ましいが上品な内装。迷想からはほど遠い――むしろ「調和」という言葉が相応しい空間だ。
が、内装にそぐわないものが一つだけある。
さっきから、何だか古ぼけたドアがちらちら見え隠れするのだけれど……。
シュラインは何度か瞬きをした。ドアは依然として存在していたが、なぜか現実感に欠けている。その姿形を捉えようとすると途端に消え失せてしまう、夢の中の登場人物のようだった。
ドアの幽霊、なんてことはないわよね。無生物の幽霊って何だか笑っちゃうわ。なんて思いながら、シュラインは表情も変えずにじーっと扉を見つめている。
「お待たせしました……」間もなくトレイを片手にやって来た青年は、シュラインの視線を追って、ぴたり、と動きを止めた。複雑そうな表情が、彼の顔を過ぎった。「……もしかしなくても、見えます?」
「扉のこと?」
「ああ、見えるんですね……」最近見えるお客様が多いなぁ、ぶつぶつ、などとつぶやく青年。「あまり、好奇心を示さないほうがいいかと思いますよ。憑かれますから……」
「憑かれる?」
「いえ、こちらの話」
青年は短く言葉を切って、テーブルの上に、ブラウニーがちょこんと載った皿と、紅茶を置いた。紅茶にはジャムを添えて。ジャムを舐めながらお茶を楽しむのがロシア式らしい。
「これは何の音楽?」とシュラインは青年に訊いた。
「ええと、誰の作品だったかな。バロック時代の古い作曲家です。奇想曲(カプリチオ)ですかね」
「あなたの選曲?」
「はい。どうも僕、古臭い音楽が好きみたいで……」
「素敵だと思うわ」
シュラインは古楽器の音色に耳を傾ける。まるで、数百年前の記憶がそのまま音楽に閉じ込められているようだ。
「何かお好みの音楽があればおかけしますよ」
「しばらく古い音楽を楽しませていただくわ」
「普段はどんな音楽をお聞きになるんですか?」
「気分によって色々ねぇ。クラシックも聴くし、へヴィメタを聴きたい気分のときもあるし……」
「へびめた?」
なんですかその外国語は、という風に青年は首を傾げた。シュラインは彼の仕種がおかしくて、ちょっと笑った。
「今流れているこの曲とは、似ても似つかないジャンルね。でも悪くないわよ、聴いてて気持ち良くなれるから」
「快楽は音楽の重要な側面ですからね。もちろん不快な音楽もたくさんありますが」
「快楽の定義にもよるんじゃないかしら? あなたの言うところの『快楽』は、精神的充足に近いイメージね」
「精神的充足以外の快楽があるんですか?」
「例えば大音量でメタルを聴いたときの快楽は、エクスタシーに近いんじゃないかしらね」
「うーん」青年は首を捻る。
シュラインはブラウニーを一口齧った。ほのかにエスプレッソの香りがした。
「働いている人に訊くのも変だけれど、お暇だったらご一緒しませんこと?」
シュラインは例の魅力的な微笑を浮かべ、わざとらしい上品な口調で言った。彼女は、そのわざとらしさが様になってしまう容姿の持ち主だった。
「もちろん、とても暇です」青年はシュラインの微笑に当てられて、相変わらずどぎまぎした様子で答えた。それならちょっとお待ち下さいねと言い置いて、青年は自分の分の紅茶を淹れにいった。シュラインと同じくロシア式紅茶をテーブルの上に載せると、「僕があんまり暇そうにしているせいか、皆さん、ご同席させてくれるんですよ。恐縮です」
「美味しいお茶は誰かといただいたほうが美味しいと思うしね」
「そうですね。茶飲み友達は大切です」
酒を飲む仲間と同じくらい、もしかしたらそれ以上に重要かもしれません、と青年は大真面目な顔で付け足した。変な真面目さといい、律儀な口調といい、今時古風な人物というか……なるほど。ここを異界と呼ぶならば、時間の逆行した異界なのだ、とシュラインは思った。
ところで、と彼女は言った、「私はシュライン・エマ。シュラインが名」
「あ、僕は麻生清春と言います。従業員です、一応」
「ここで働いているのはあなた一人?」
「ええ、接客は僕一人です。一人余計なのがいないこともないんですけど」
「ドアの向こうに誰かいるのかしら?」シュラインはちらりと扉に目をやった。
「いると言えば、いるというか……」麻生清春は口ごもる。
「幽霊でもいるのかしら」
「あのう、僕のこと気が狂ったとか思いませんよね」
「大丈夫よ、私もこちらの世界の住人だもの」
「ああ、それは、ご愁傷様というかなんというか」
清春は目の前で両手を合わせた。
シュラインは目を閉じ、扉の奥から何か聴こえてはこないかと耳を傾けてきた。
奇想曲に混じって、何か別の楽器の音色が聴こえた気がした。
「……ピアノ?」
「また何を弾き散らかしているのやら……」
奇想曲ならず、狂想曲とでも呼べば良いだろうか。民俗音楽的な旋律と独特のリズム、加えてセンチメンタリズムの混じり合ったピアノの音色。気まぐれに転調を繰り返すピアノは、それこそ店の名に相応しく、迷想めいている。シュラインは扉の奥が気になりだしたが、厄介事に巻き込まれるのも何だと思って黙っていた。厄介事は事務所だけで十分だ、と思う。
「……快楽の定義、とおっしゃいました?」
清春青年は扉から目を逸らすと、ふと口を開いた。
「ああ、音楽がもたらす快楽、について?」
「そのへびめたというのはわからないんですが、多分、ホールでオーケストラの生演奏を聴くときの快感に近いんでしょうね?」
「そうね、音の礫が直接脳を刺激する感じ」
「なるほど、わかりやすい喩えですね」
「メタルというだけあって、音の性質がより金属的なのよ。あとは電気的ってところかしらね」
「シュラインさんは、何か楽器を演奏されるんですか?」
「独学で色々、ね」
へぇ、それは凄い、と清春は目を丸くした。
「一番はやっぱり声ね。こう見えて、歌は得意なのよ」
「納得です」清春はうんうんと頷いた。「喋る声が滑らかですものね。声楽家は、話し言葉も流麗な方が多いと思います」
「麻生君は、ずばりピアニストでしょう」
「……あれ、なんでわかるんですか」
「ピアノを弾く人って、特別世間ズレしてるもの」
「世間ズレ? ……してますか」やっぱり、と肩を落とす青年。「まあ、元来がひたすら己の世界に閉じこもる楽器ですからね。仕方ないのかもしれません。声楽は、より表現が直接的というか、ダイレクトに観客へ伝わる楽器ですものね。歌ほど素晴らしい楽器はないと思いますよ」
「歌って、ある意味怖いわよ。音を出すのに物質を媒介しない分、もろに私という個性が表れてしまうから。誤魔化しが利かないのよね」
「ええ、ですから、良い歌を歌う人は素敵な人ですよね。シュラインさんも、素晴らしい歌い手だと思いますよ」
「聴いたことないのに?」
「聴かなくてもわかります」
聞き様によっては口説き文句とも取れる台詞を微笑と共に口にする清春を、シュラインはしげしげと眺めた。
「なかなか上手いこと言うのね。世間ズレも貴重な個性かしら?」
「は?」
首を傾げる麻生清春に向かって、シュラインは、いえ、こっちの話、とひらひら手を振った。あの人にもさらりと口説き文句を口にするくらいの甲斐性があればいいんだわ。
「歌ってね」シュラインは清春に向き直った。「恋をするとより素敵になるのよ。知ってた?」
「好きな人のために歌うんですね?」
「男女の恋愛は、今も昔も変わらず良い題材だからね。古今東西、大昔から、飽き飽きするくらい愛の歌が歌われてきているのに、未だにネタは尽きないのよ。人間は恋せずには生きられない生き物なのね」
「そうらしいですね。いまいちピンと来ないのですが」清春は、先ほど読んでいたツルゲーネフの『はつ恋』の文庫本を手に取った。「……恋の季節、なんですかね?」
清春は扉のほうへ顎をしゃくった。微かだが、相変わらずセンチメンタルなピアノの音色が響いていた。確かに、恋に悩む人間の音楽、と言えないこともないかもしれない。聴いているこちらまで無性に切なくなってしまう。
「シュラインさん」と清春は爽やかな笑顔で言った、「次は、シュラインさんの恋人とご一緒にいらして下さい。サービスしますよ」
「え、私の……恋人?」
ちらりと、良く見知った人間の顔が脳裏を過ぎった。あの人と一緒に喫茶店か……どんなものかしらね? ごたごたした事務所で、煙草と胃が悪くなりそうな珈琲をお供に過ごしているような人だから、こんな小奇麗な喫茶店では緊張して肩が凝ってしまうかもしれないわね。
「そうね……面白そうだわ」ある意味ね、と心の中で付け足す。
「楽しみですね、一度お会いしたいです」
面白そう、の意味を知ってか知らずか、清春青年はにこにこと、本当に楽しそうに両手を組み合わせた。女の子のような仕種だ。
……ふむ、ますます楽しみだわ。お化けのいる喫茶店なんて御免だ! と拒否する様が目に浮かぶようで、シュラインはふふふと怪しい微笑を浮かべる。
「? どうしたんですか?」
「いえ、何でも」
――秋は芸術の季節。
恋の季節でもある。あるいは好きな人をこっそり想う季節、か。迷想と言って良いかもね。
幸せな恋にせよ不幸せな恋にせよ、美味しい紅茶とお菓子と音楽を楽しみながら、好きな人を想う時間はきっと悪くない。
「さて、そうと決まったら早速話さなきゃ。今日はそろそろお暇するわ」
「またいつでも、いらして下さい。ちょっと坂道がきついですけどね」
「ええ、また」
シュラインは席を立って勘定を済ませると、清春に挨拶して店を去った。
依然として現実感に欠ける世界が広がっていた。シュラインは、丘陵の上から街を見下ろした。
少し風が出てきたようだった。木立のざわざわいう音が聴こえる。
風に背中を押されるようにして、シュラインは歩き出した。
大切な人のいる場所へ帰るために。
Fin.
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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■シュライン・エマ
整理番号:0086 性別:女性 年齢:26歳 職業:翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
【NPC】
■麻生清春
性別:男性 年齢:20歳 職業:音大生
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■ ライター通信 ■
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こんにちは。
『迷想館』シナリオへのご発注、ありがとうございました。お届けが遅くなってしまいまして申し訳御座いません。
さばさばした性格のシュラインさんですが、私のイメージは「素敵な女性」です。さばさばしているところも含めて素敵なのかもしれません。かっこいい女性がふと好きな人のことを考えている姿って様になりますよね。そんなわけで、ちょっと恋愛の話題も織り交ぜてみました。
これからますます人恋しくなってきますが、PL様ともども、穏やかな秋を過ごせますように。
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