■過去の労働の記憶は甘美なり■
水月小織 |
【0086】【シュライン・エマ】【翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】 |
東京では仕事を選ばなければ稼ぐ手段に困らない。
かと言って、紹介する者を選ばなければどんな目に遭うか分からない。
いつものように『蒼月亭』のドアを開けると、こんな文句が目に入ってきた。
『アルバイト求む』
さて、ちょっと首を突っ込んでみようか…。
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過去の労働の記憶は甘美なり
「住所はこの辺…よね」
少しずつ街路樹が色付き始め、秋から冬への訪れを感じさせるある日の昼下がり、シュライン・エマは住所の書かれたメモを片手に住宅街を歩いていた。
それは知人から来た一本の電話がきっかけだった。
『とある刀剣鍛冶師の家に忘れてしまった資料を、代わりに取りに行って欲しい』
その家では最近では珍しくなってしまった刀身彫刻などをやっているらしく、その取材に行った先で忘れ物をしてしまったらしい。忙しい時はお互い様なのでそれを引き受けたというのもあるが、その刀身彫刻がシュライン好みだ…と言われ、それに興味があったというのもある。
「何かこの辺りの佇まいは古き良き東京って感じだわ」
この辺りは古い建物が多いのか、道が少し狭く古い東京独特の雰囲気が残されている。
刀剣鍛冶師…一体どんな人物なのだろう。頑固そうな老人というイメージがあるが、シュラインが聞いたのは「太蘭(たいらん)」という名前だけだ。
「中国の方なのかしら?」
そんな事を思いながら歩いていると、ふわっ…と温泉の香りが漂ってきた。その香りが漂ってきた方を見ると、塀に囲まれた日本家屋の玄関先で、たくさんの猫たちが固まってひなたぼっこをしているのが見えた。人慣れしているのか、シュラインが立ち止まって見ていても、猫たちはあくびをしたり顔を洗ったりのんびりとしている。
「か、可愛い…ふあぁ…」
その愛らしい大量の毛玉たちにシュラインの表情が思わず緩む。玄関の引き戸は猫たちのために少しだけ開けてあり、それがまた何とも微笑ましい。
ふと猫たちが見ている視線を目で追うと、そこには立派な蜜柑の木があった。
「あら、もしかして…」
そう言えば『大きな蜜柑の木が目印』だと言っていたような気がする。メモしている住所と照らし合わせると、ここがどうやら目的の家らしい。
「ちょっとごめんね…ああ、遊べないのが拷問だわ…」
「にゃー」
煩悶と葛藤を抱えながら、シュラインは猫を踏まないように注意しながらそっと引き戸を開けた。とにかく忘れ物を受け取るのが先だ。
「ごめんくださーい」
玄関の奥には長い廊下が見えている。シュラインが声をかけると、奥の方から作務衣を着た黒髪短髪で赤眼の青年が、ゆっくりと出てきた。
「はい。何か用が?」
隻眼ではないはずなのに、何故かシュラインは心の中でイッポンダタラを思い出していた。赤い眼と鋭そうな眼光がそう思わせたのかも知れない。タタラ…という言葉から鍛冶を連想したのもあるのだろう。
一瞬その姿に感心感動してしまったが、慌ててシュラインは自分の名刺を渡しながら挨拶をする。
「あ、私はシュライン・エマと言うものです…こちらに知人が忘れていった資料を取りに来たのですが」
「ああ…遠いところからどうも。少し散らかってるが、上がってお茶でも一服」
太蘭が家に上がるよう言うと、今まで玄関先にいた猫たちがシュラインを招くように振り返りながら廊下を歩く。奥には子猫もいるようで、よちよちと太蘭の後を着いて歩いている。
「おじゃまします…」
この誘いを断る理由はないだろう。シュラインは玄関で靴を揃えながら、近くにいる黒猫の頭を撫でた。
「今忘れ物を持ってくるので、その辺にある物でも手にとって見て待っててくれ」
お茶と茶巾絞りにされた栗きんとんをシュラインに出すと、太蘭は一礼して客間を出て行った。その言葉に甘え、シュラインは辺りを見回す。
家だけではなく家具も結構歴史があるようだ。家の欄間に彫られている松竹梅もなかなか風情がある。板の間には香炉や日本刀だけでなく、古い銃のレプリカなども置かれていた。
「武彦(たけひこ)さん興味あるかしら…あら、この根付けとか素敵だわ。猫の形で可愛い…」
何だか見ているだけで飽きない家だ。
出された蓋つきの茶器も何だか立派そうだし、縁側の方を見れば蔵なども見える。
そうしていると太蘭が資料の入ったケースを持って現れた。それを見て、シュラインは慌てて座布団に正座をする。
「忘れ物はこちらで間違いないか?」
「あ、はい。今確認させていただきますね」
渡されたケースの中にはちゃんと資料が入っていた。それに興味があるのか、茶トラの猫が興味深そうに匂いを嗅いでいる。その頭を撫でて思わず微笑むと、太蘭はお茶を一口すすりシュラインに向かってこう言った。
「シュライン殿とおっしゃったか?翻訳をされていると伺ったが、日本の古文書にも詳しいのだろうか…」
「あ、はい…古書や刻印の解読もやったことがありますので、大丈夫ですが」
唐突な言葉に少し驚きながら、シュラインもお茶を飲む。
すると太蘭は少し笑ってこう言った。
「その関係で、仕事を一つお願いしたい」
それは興味深げな仕事だった。
親しくしている刀剣商から古い名刀を貸してもらい押型を取っているのだが、それを解読して欲しという事だった。押型…とは刀に彫られている銘などを写し取る魚拓のようなものだが、刀剣資料としては一番ポピュラーらしい。
「押型は俺一人で取れるのだが、そこに書いてある文字を解読してメモをするのが面倒で、押し型ばかりが溜まって仕方がない。先日取材に来た方から『解読に明るい方がいる』と聞いていたので、時間が許すのであれば是非お願いしたいのだが」
もしかしたら、このために受け取りを指名されたのだろうか…そんな事を思いつつも、有名な日本刀の資料が見られるのであればそれに越したことはない。実際の刀身を見られるチャンスもなかなかないだろう。
「私で良ければお受けします」
快く引き受けると太蘭はふっと柔らかい笑みを見せる。
「そう言ってくれるとありがたい。刀が置いてあるので奥の方の部屋になるが、一服してからにしよう。遠くから来ていただいたのに、茶も飲ませんようでは礼儀知らずも甚だしいからな」
「はい、いただきます」
お茶とお菓子を頂き、シュラインが案内されたのは一番奥の部屋だった。そこが押し型などをする部屋なのか、机の横には日本刀が置かれており、先ほどの客間とは違う凛とした空気が漂っている。
「シュライン殿はこちらの机を」
その机の上には和紙に取った押型が貼られた古書が置かれている。それをめくると押型を取った日付や刀の造り込み、長さや刃文などについては書かれているが、確かに茎(なかご)に彫られている文字についての解読がない。
「これをやればいいんですね?」
「お願いします。俺一人なら説明はなくてもいいのだが、誰かに預けるときに一言あったほうが後々役に立つかと思ってな。なかなか機会がなくてどうも後回しになってしまう」
「お任せ下さい。きっちり仕上げます…その代わり、解読を始める前に押し型を取るところを見せていただけるかしら。私、初めて見るから興味があるの」
本などでは見るが、実際どのようにやってみせるのかに興味がある。すると太蘭は机の上に置いてある日本刀を手に取った。
「まず目釘を抜いて、全部ばらすところからだな」
スッ…と静かに鞘が抜かれると、その下から美しい刀身が現れた。その刀身には剣に巻き付き剣先を飲み込もうとしている龍が描かれている。
「素敵…」
それは刀に彫り上げられた芸術だった。
刀身彫刻といってももっと簡素なものかとシュラインは思っていたのだが、そこに彫り込まれているのは緻密で繊細な龍だ。
「これは不動明王の化身の倶利迦羅(くりから)だ。武士に好まれたものだが、刀身彫刻は美しさだけではなく、加護を求めるという意味があったようだ」
目釘を抜き柄を外すと太蘭は刀を刀剣用の枕に乗せ、その上に和紙を乗せ固形の墨で紙をこすって丁寧に写し取っていく。
「何だか版画みたいな感じなのね」
「そうだな。これを上手く取るには結構コツがいる…鎬(しのぎ)筋とかは慣れないと難しい。今は写真もあるが、やはりこうやって一つ一つ取って、手入れをするのは楽しい」
本当に太蘭は日本刀が好きなのだろう。そう思うと、机の上に置かれている押型の解読をしっかりしようという気にもなる。
「ありがとう。じゃあ、取りかからせていただくわ」
「何か分からないことがあったら言ってくれ」
凛とした緊張感の中、シュラインは筆を使って解読した言葉を写し取っていく。
「長曽祢奥里古鉄入道…っと。二ツ胴切り落とし?」
「それは江戸時代に、罪人の死体を使って試し切りをしたという証拠みたいなものだ」
斬ることを突き詰めていったあげく、武器としての美しさを芸術にまでにしてしまったという点では日本刀は特異な武器だ。それに恐ろしさを感じると共に、やはり惹かれてしまう。一度テレビで銃弾を斬ったりしているのを見たことがあるが、他の「剣」ではそうはいかないだろう。
「太蘭さんも刀を打つのかしら」
解読した文を写しながらシュラインがそう聞くと、太蘭も墨を動かす手を止めずに返事をする。
「刀が欲しいという者はいるが、俺の気が向いたときに打つだけだな。拵(こしらえ・外装のこと)まで自分でやるから、半ば道楽みたいなものだ」
太蘭の売った刀が欲しい…という人の気持ちが、何となく分かるような気がした。
凛とした中で作られた刀は、きっとその斬れ味だけではなく刀としての美しさも素晴らしいのだろう。この環境で作られたのなら、きっとそうに違いない。
そんな事を思いながら、シュラインは筆を進めていった。
押型の解読は、ちゃんと資料としてまとめてあったのでシュラインが思ったより早く済んだ。押型を取り、手入れをしている太蘭を見てシュラインは他に何か手伝い事がないかを聞く。
「何かお手伝いすることがあったら言ってくれるかしら。お買い物とかがあったら、行ってくるけれど」
「…そういえば猫の餌が少ないか。そろそろ子猫たちにキャットフードを食べさせようと思っているんだが、猫を飼うのが久々なので何を選んでいいのか分からん…と、忘れ物を受け取りに来ただけなのに、そこまで頼むのは図々しいか」
「大丈夫よ。太蘭さん忙しそうだから行ってくるわね」
見たところ机の横に置いてある刀はまだある。きっと借りているのも期間を決めているのであろうから、しばらく専念させた方がいいだろう。それに子猫の顔もちょっと見たい。 財布を預かりふすまを開けると、廊下では猫が寝転がったりお互いじゃれ合ったりしながら待っていた。ここが大事な仕事場ということを知っているのか、シュラインが出てきてもその隙間から入っていこうとしない。
「にーにー」
甲高い声で鳴く子猫を思わず抱き上げながら、シュラインは頬ずりする。
「やっぱり可愛い…お仕事待ってるのね」
そっと廊下でシュラインは猫を堪能した。子猫の肉球は柔らかだし、猫たちは皆人懐っこく足下に擦り寄ったりしている。きちんと数を数えると、大人の猫が六匹に子猫が四匹だ。
「ちょっとした猫屋敷ね。ちょっと行ってくるから大人しく待っててね」
名残惜しげに猫に手を振り、シュラインは通りがかりにあったペットショップに出かけた。出がけに今まで食べていたキャットフードの種類はちゃんと見てきた。猫は餌を変えた途端に体調を崩すこともあるので、その辺は慎重に選ばなくてはならない。それと一緒に、離乳用のキャットフードについても説明を聞く。
「ドライフードでしたら、こちらのミルクカルシウムが含まれた物などがお勧めですが…」
「じゃあそれと、あと猫用の首輪とかあるかしら」
そういえば、太蘭の家にいた猫たちは首輪をしていなかった。飼い猫だと分かるように首輪をした方がいいかも知れない…というか、シュライン自体が猫と遊びたいので、ついキャットフード以外のおもちゃなども買ってしまう。
「思わず欲望のままに買ってしまったわ…」
首輪におもちゃだけでなく、マタタビや爪研ぎまで入った袋を下げながらシュラインは太蘭の家へと向かう。
「ただいまー…あら?」
さっきまで廊下にいた猫たちがいない。そっと袋を持ったままふすまが開いている部屋を覗くと、太蘭がヒモの先に輪ゴムをつけたもので一生懸命猫と遊んでいる。
「ほら、長船…こっちこっち」
最初に頭を撫でた黒猫の名前らしい。その様子が微笑ましいのでそっと覗いていると、子猫がそれに気付いたのか「にー」と高い声で鳴き、太蘭がそっと振り返ってくす…と微笑む。
「…ふすまの向こうから感じるプレッシャーに負けた。そんな所にいないで一緒に猫と遊ばないか?俺一人で十匹の相手は大変だ」
最初はちょっと眼光鋭い感じがしたが、結構可愛いところがあるのかも知れない。そんな太蘭に微笑みながら、買ってきたばかりの猫じゃらしを取り出す。
「丁度良かったわ。一緒に遊びたくておもちゃも買ってきたの。あと、みんなにお揃いの首輪も…おいでー」
近くにいた三毛の子猫を抱き上げると、他の猫たちもシュラインが買ってきた物に興味津々というように寄ってくる。
こんな出会いも楽しいかも知れない。また今度、何かを口実に猫と遊びに来よう。
買ったばかりの猫じゃらしを操りながら、シュラインと太蘭は日が差し込む和室で猫と遊び続けた。
fin
◆登場人物(この物語に登場した人物の一覧)◆
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
◆ライター通信◆
ご参加ありがとうございます、水月小織です。
忘れ物の受け取りをきっかけに、太蘭から普通の仕事を…ということで、押型の解読やら買い物やら、何だか色々とお願いする形になってしまいました。
シュラインさんはふわふわ好きのようでしたので、あちこちで猫が出張ってます。何だか微笑ましい感じがします。
リテイク、ご意見は遠慮なく言ってください。
またよろしくお願いいたします。
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