■過去の労働の記憶は甘美なり■
水月小織 |
【0086】【シュライン・エマ】【翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】 |
東京では仕事を選ばなければ稼ぐ手段に困らない。
かと言って、紹介する者を選ばなければどんな目に遭うか分からない。
いつものように『蒼月亭』のドアを開けると、こんな文句が目に入ってきた。
『アルバイト求む』
さて、ちょっと首を突っ込んでみようか…。
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過去の労働の記憶は甘美なり
「ふふー♪」
小春日和の日差しの中、シュライン・エマは大きなバッグを肩から提げ、手にはしっかり風呂敷で包んだ瓶を抱えながら都内の小路を歩いていた。
古くから変わらない街並み…少しだけ狭い道を歩いていくと途中で道が開け、大きな蜜柑の木がある一軒家が見えてくる。そこがシュラインの目的地だ。
玄関の引き戸は猫が自由に出入りできるよう少しだけ開けられており、日なたで猫たちがあくびをしながら目を細めている。
「こんにちは。やっぱりふわふわは可愛いわ…」
シュラインがやって来たのに気付いた猫たちは、ふっと顔を上げ自分達の方へと誘うように目を細めたりしている。その様子に思わず玄関先で立ち止まり猫団子に手を突っ込んで暖かさを堪能していると、庭の方から人が近づいてくる足音がする。静かだが、芯のぶれていないしっかりとした足音…ここの家主である太蘭(たいらん)だ。
「おや、シュライン殿。こんにちは」
「こんにちは、太蘭さん。これは先日のお礼…私が作ったザクロ酒なんだけど、よろしければ」
先日事務所の仕事で必要な専門知識について協力してもらったので、そのお礼にと自分で作ったザクロ酒を持参してきたのだ。風呂敷から出すと、ザクロの実で赤く染まった酒が光に透け地面に綺麗な影を落とす。
「これはいい物を。せっかくここまで来たのだから、上がっていってくれないか?猫たちもシュライン殿が来ると嬉しいらしい」
「ありがとう。子猫ちゃん達は大きくなったかしら」
太蘭の家には成猫六匹に子猫が四匹いる。元々シュラインはふわふわしたものが好きなのだが、ここに来ると遠慮なく触らせてくれるのが嬉しい。前にシュラインが買ってきた首輪をした猫たちは、太蘭が玄関を開けるとてくてくと家の中に入っていく。
「ああ、今が一番やんちゃ盛りだな。毎日走り回って賑やかでいい…どうぞ」
「おじゃまします」
きっとこの様子なら、自分がバッグに入れてきた物が役に立つだろう。
履いた靴を玄関できっちりと揃え、シュラインは猫が入っていった部屋に上がっていった。
焙じたてのお茶と一緒に、自宅で漬けたというキュウリや茄子のぬか漬けという渋いお茶請けを味わいながら、シュラインはそっと太蘭の顔を見た。仕事のお礼のザクロ酒は実はきっかけのようなもので、本当はバッグの中に入っている物がここに来た一番の理由だ。
「太蘭さん、実はお願いがあるんですけど…」
「ん?何用だ」
初めて会ったときは何となく取っつきにくそうだと思ったのだが、ちゃんと話をすると太蘭は結構優しい所がある。猫がよく懐いているのもそういう部分があるからなのだろう。猫が興味深そうに鼻を近づけたりしているバッグから、シュラインはそっと色々な物を出した。
猫用のむだ毛取りブラシにつや出しブラシ。拭き取り用のボディータオル、爪切りに毛玉取りようのはさみ…普通に触るのもいいのだが、寒くなってきているのできっと抜け毛も多くなっているだろう。そう思って色々と持ってきたのだ。
「よろしかったら、猫の抜け毛処理のお手伝いいかがですか?たくさんいると大変そうかな…なんて」
取り出したブラシに猫たちがわらわらと集まる。
猫と遊びたい…だけ言うとちょっと不自然かと思って、ブラシなどを持ってきたのだがやっぱりおかしかっただろうか。そんな事を思っていると、太蘭が目の前のお茶を飲みくすりと笑う。
「あまり気が付いてなかったが、そろそろそんな時期か。折角だからお願いしようか…それに、なかなかそういうことに気付いてやれないからとてもありがたい」
「ありがとう。さーて、どの子から梳いちゃおうかしら。みんな一辺に出来ないから順番ね…太蘭さんもブラシどうぞ」
今日持ってきたのは、むだ毛取り用のゴムで出来たブラシだ。ペット雑誌の記事を書いたときに、それを使って猫の毛を楽々取っているのを見たので、それから自分でもやってみたかったのだ。
「これね、すごい抜け毛が取れる上にブラシについた毛を取るのも簡単なのよ。子猫ちゃんのお母さんは何て名前なのかしら」
白黒の猫をブラシでそっと撫でると、その感触が気持ちいいのか首を伸ばして目を細めている。猫はたくさんいるのだが、シュラインが知っているのは白猫の「一文字(いちもんじ)」だけだ。太蘭は自分の側で寝ころんでいる一文字をブラシで梳きながら、シュラインの前にいる猫を指さす。
「ああ、シュライン殿の目の前にいる白黒のは『国広(くにひろ)』だ。大人の猫は全部日本刀から名前を取っている」
確かに一文字も国広も日本刀の銘だ。そう思っていると太蘭は全部の猫を紹介してくれた。
茶トラが「安綱(やすつな)」全身よもぎ猫が「虎徹(こてつ)」黒猫が「長船(おさふね)」、白とよもぎの二色が「正宗(まさむね)」…それに全身白の「一文字」と、子猫たちの母親の「国広」で大人は全部らしい。自分達の名を言われると猫たちはふいと顔を上げ、またシュラインの周りで他のブラシに顔をすり寄せたり、長い尻尾を子猫たちにじゃれつかれていたりしている。
「みんな日本刀なのね。国広ママは子猫ちゃん達のお世話で大変そうだから、念入りに手入れしてあげないとね」
ブラシを嫌がるかと思っていたが、そっと撫でるようにやってているせいか国広はリラックスして毛を梳かれていた。ブラシだけでなく、もう片方の手で猫の体や肉球を触りまくれるのが何だか嬉しい。
「む…季節のせいか、やはり毛が抜けるな。一文字は白だからよけい目立つのかも知れないが」
近くにくずかごを寄せ、ブラシについた毛を取りながら太蘭がほんの少しだけ驚いたような顔をした。シュラインが言ったように、ゴムについた猫の毛は少し手でくるくるやると一カ所に集まってきれいに取れる。
「猫によって毛がたくさん抜ける子と、そうでもない子がいるのよね。ダブルコートで毛が生えてる子は夏でも冬でもびっくりするほど抜けるわよ。大人達が日本刀って事は、子猫ちゃん達はまた別の名前なのね」
別のブラシを手でそっと触ったり、大人達にじゃれたりしている子猫もまた可愛い。日本刀でなければ一体どんな名前が付いているのだろう…今度は長船を膝に乗せブラシで撫でるように毛を梳いていると、太蘭は一度立ち上がり子猫を四匹手に抱えてきた。
「明治から昭和にかけて、大工道具や小刀などの手仕事道具を作った鍛冶師に『千代鶴是秀(ちよつるこれひで)』という方がいて、子猫たちはその道具の銘だ。三毛二匹は名前を頂いたが」
太蘭の話では茶白が「神領(しんりょう)」これはノミの銘で、白黒が「蘭契(らんけい)」…こちらはカンナらしい。手仕事道具に銘が入っているというのが珍しいので、シュラインはその話を興味深そうに聞いている。
「ノミとかにも銘が入っているものがあるのね。三毛ちゃん達は何て名前なのかしら」
「三毛は『千代鶴』と『是秀』だな。是秀が雄だからそれで見分けるといい」
「えっ?是秀ちゃん雄なの?」
三毛猫の雄。
それを聞き、シュラインは太蘭から是秀を受け取った。見ると確かに雄だが、三毛猫の雄はほとんど見ることがないほど珍しい。それをまじまじ見ていると、膝の上の長船と抱きかかえている是秀がニャーと鳴く。
「三毛の雄は珍しいのか?」
「ものすごく珍しいのよ。普通でも『三毛猫は幸運を招く』って言われるぐらいなんだけど、雄だと更に強い運があるっていうの。三万匹に一匹の確率でしか生まれないらしいんだけど…でも、可愛いから何でもいいわよね」
シュラインは抱いていた是秀に頬ずりし、そっと床に降ろした。三毛猫の雄は染色体異常があるので生殖能力がないとか、なかなか育ちにくいとかいろいろあるが、そんな事はおそらく太蘭にとってはあまり関係のないことだ。
大事なのは太蘭が猫たちを大事に思っていて、猫たちが太蘭を好いている事だけだ。それに三毛の雄が高価で取引されると知った所で、太蘭のことだから「そうなのか」で済みそうな気がする。
「…幸運を招く猫が二匹も家にいるのか。まあ確かに猫がいるだけで幸せだ…一文字、そろそろ交代だからどけてくれ」
結局それが一番だ。
たとえ生まれた子猫たちが全部同じ色だったとしても、太蘭は分け隔てなく可愛がるだろう。家に帰れば一人じゃなくて、誰か待っているものがいる…それで充分だ。
「三毛ちゃんだけじゃなくて、十匹もにゃんこが飼える状況ってそれだけで幸せだと思うわ。ああー本当に可愛い…ふわふわが膝や足下にいるってだけでたまらないわ」
そう呟くとシュラインはふとあることを思い出した。
猫にまみれている所を見て、うらやましがる知り合いが何人かいる。こんなにたくさんの猫に囲まれることはあまりないし、子猫の写真は今撮っておかないとあっという間に大きくなってしまうだろう。いそいそとバッグから携帯を取りだし、それを太蘭に渡す。
「太蘭さん、良かったらこの携帯で写真撮ってくれる?」
「別に構わないが、どうするんだ?」
「可愛い所は待ち受けにして、後は猫大好きな皆に送ってうらやましがらせようと思って。ナっちゃんとか子猫の写真絶対喜ぶと思うのよね…」
……つい愛称で呼んでしまった。
だが、太蘭は子猫を集めながら少しだけ笑う。
「ナっちゃん…とは、もしかして蒼月亭のナイトホークの事か?」
「ええそうよ。もしかして二人は知り合いなのかしら」
確かナイトホークを間にして話をしたことはなかったはずだ。だがナイトホークと太蘭は元々古くからの知り合いだったらしく、子猫を一度店まで連れて行ったこともあるらしい。ナイトホークが猫好きというのも知っているようで、写メールを送るというシュラインに何かを考えるような仕草をする。
「……なら、他の猫好きにも送ってやるといいかも知れんな。うらやましがらせるために可愛い写真を撮るか」
「もちろんそのつもりよ。きっとメール見て『触りたいー』って言うんでしょうね…ふふっ、ちょっと楽しみ」
何枚か猫にまみれている写真や子猫の写真を撮ってもらい、シュラインは悪戯っぽく笑いながらメールを送信した。
件名:猫まみれ
太蘭さんの所の可愛いにゃんこにまみれてます。いいでしょー。
幸運を呼ぶ三毛猫ちゃん二匹の写真も送るわね。実物は写真の何倍も可愛いし、肉球がぽわぽわでそれだけで天国です。
お休みの日にでも見に来ると良いわよ。
シュライン
成猫たちの毛を手入れしたあと、お風呂は苦手そうなので持参してきた猫用のボディータオルで体や足を拭き、前足の爪を丁寧に切ってあげた。キャットタワーが置いてある部屋には爪研ぎ用のボードなどもあるようだが、子猫の尖った爪はたまに切った方がいいだろう。
「ああー幸せ。すっかり猫を堪能したわ」
持参してきた猫用ジャーキーも皆美味しそうに食べてくれたし、皆人懐っこいのでその辺の猫カフェ以上に楽しんでしまった。
そろそろ帰ろうかと荷物をしまい始めると、太蘭がそっと近づいてくる。
「シュライン殿、漬け物とかは食べる方か?」
「えっ?ええ、お漬け物とか結構好きよ」
そう返事をすると、横からスッと紙袋が差し出された。中は新聞紙でくるんであるので見えないが、蜜柑なども一緒に入っている。
「家で漬けた白菜漬けだが、良かったら食べてくれ。蜜柑も近所に配ったりしたのだが、なかなか消費しきれないので、事務所のテーブルにでも置くといい」
お礼に来たつもりだったのに、すっかり楽しんだあげく漬け物までもらってしまった。
「猫と遊びに来ただけみたいなのに、もらっちゃって申し訳ないわ」
「いや、作るのは好きなんだが一人で食いきれなくてな、かといって少なく作ると美味くない。何度も近所に配りに行くと嫌がらせのようだから、もらってくれるとありがたい。ザクロ酒は食前酒にでもして飲ませていただこう」
ふっと太蘭が笑って千代鶴と是秀を抱き上げる。
どうやら自分が持ってきた果実酒を太蘭は気に入ってくれたようだ。それが嬉しくて、シュラインも玄関先に向かいながら笑う。
「また猫を見に来てもいいかしら」
「ああ、玄関の戸が半開きの時は家にいるから、近くに来たときは寄るといい。ほら、お前達もシュライン殿に挨拶しないとな」
ぴこぴこと、猫の手を持ち太蘭が横に振った。それに合わせたかのように子猫たちがニャーと鳴く。
「それじゃあ、おじゃましました。猫ちゃん達もまたね」
生け垣を出て小路を歩く。
バッグから携帯を取りだし、先ほど待ち受けに設定した子猫四匹の写真を見て思わずにっこりする。
「ふふっ、零ちゃんや武彦さんにも写真見せてあげなくちゃ。連絡入れてないから待ってるかな…でも、お土産もあるからいいわよね」
今日はちょっと上機嫌。携帯に入った可愛いデータと、左手に提げた嬉しい紙袋。
そんな小さな幸せを感じながら、シュラインは足取りも軽く草間興信所のあるビルへと足を向けた。
fin
◆登場人物(この物語に登場した人物の一覧)◆
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
◆ライター通信◆
ご参加ありがとうございます、水月小織です。
太蘭が飼っている猫たちのトリミングお手伝いということで、猫たちの名前を全部出してみたり、途中で写メールを送ったりしています。猫の名前はずっと考えてあったのですが、全部の名前を出せたのはこのノベルが初めてですね…こだわりがある模様です。
猫好きだと写真でも狂おしいですよね…子猫の肉球の柔らかさはそれだけで幸せです。
リテイク、ご意見は遠慮なく言ってください。
他にお預かりしているノベルもお早めにお届けできるよう頑張ります。
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