■魔女とネズミ■ |
珠洲 |
【1854】【シノン・ルースティーン】【神官見習い】 |
ああ、とキャダン・トステキは泣きたい気持ちで相手の話を聞くしかなかった。
きらきらと照る中天から降る光も眩しい硝子細工の森。
しかし間違いなく彼の視界は重く苦しい。
「……つまり」
それでも確かめなくては。
どこぞに居なくなってしまったラットのモルと響き渡る疾走音との関係を。
「つまり、うちのラットのモルは……」
そういえばアーシアが起き抜けに「モル」とか「チーズ」とか言っていた。
呼ばれた当の本人というか本ネズミが傍で返事してチーズ齧ってたのは見たけどなんてことだろう。
ちらりと見遣った先ではそのアーシアが、見事なプラチナブロンドをこれまた見事な寝癖で絡ませてふわふわとキャダンの切ない表情を見ているばかりだ。いや見えちゃいないのだけれども。
「モル、ぺろり」
「そちらの御宅の書棚で本を漁った挙句に本に入り込んで中からチーズを失敬して今も逃げている、と」
「そして物語の中に居た魔女は怒り狂い、主役のネズミがモルとやらを追い回している」
アーシアの稚い言葉を聞きつつキャダンはもはや頭を下げるばかりのままに、眼前に立つ何やら偉そうな態度の男の言葉を拝聴する次第だ。
背後で他の団員が荷物をまとめ、時折響く破砕音に意識を向けている。
ああ、とキャダンは再び泣きそうになりながら遠くの声を聞く。体躯と比較してやたらと通る大きな声がまたなんとも言えず。
――うわぁんおいら食べても美味しくないよぅ!
――おぉっとそんな動きじゃおいらのチーズは取れないぞ!
お前のチーズじゃないだろうチーズジャンキーめ。
「大層なご迷惑をおかけしまして」
もはや謝罪なのか力尽きて倒れ伏す寸前なのか解らない脱力具合でもって、キャダンは目の前の男に詫びる。他にどうしろというのだ。
だって男が言うには怒り狂った魔女は今も館というか書棚を荒らしに荒らして本があっちこっちに散っているというのだから。これは片付け要員を提供すべきか。
「そう思うならさっさとモルとやらにチーズを返却させろ。替えを買って渡しても魔女とネズミは納得せんぞ」
「食べていたら」
「ちなみに魔女は共に出て来たネズミに魔法をかけてな」
「あの」
「ネズミは現在そこの馬車に勝るとも劣らぬ大きさで森を駆け回っている――モルとやらを一呑みの予定らしい」
「な――っ!」
その大きさが邪魔をして今も捕まえられない様子だが、という男のどこかしら愉快そうな言葉はキャダンの耳を素通りした。
そんな巨大ネズミが森を駆け回っている?
冗談ではない。下手をすれば馬車が破壊されるではないか。上等ではないが安くはないのにそんな、しかも団員達も危ない。いや既に自業自得で一匹危ないけれども。
普段の淡々と落ち着いた風貌を男が知るわけもないが、打ちひしがれたキャダンの様子を瞳を眇めて見下ろしていた彼はしばし思案する風にしてから口を開いた。曰く。
「最近、それなりに訪ねてくる者もいる。そっちの連れ共々頼んでみてはどうだ」
魔女もネズミも元が書の住人である以上、傷つけたりましてや死に至らしめるような流れは認められない。捕獲ともなれば難度も上がろう。
そういう理由から、と男は補足したのだが。
「齧られんよう気をつけることだな」
「モル、ぺろり」
言い捨てて去って行く男の愉しげな声音。
そして繰り返して告げられるアーシアの言葉が耳になんだか痛かった。
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■魔女とネズミ■
硝子森。その書棚。言葉を織る白い頁。
シノン・ルースティーンが足取りも軽く向かうのは大事な大事なお友達であるリラ・サファトから話を聞いた、そんな場所。。少しばかり不思議な本を見てみたり、書いてみたり、そんなことをするのかと考えながら向かう。
「どんなところかな」
楽しく歩くことどれだけだったのか。
時折なにやら感覚が誤魔化されている風にも思いつつ晴天の下で広い世界を眺めながら、そうして辿り着いた硝子森はきらきらと冴えた空気の中で陽光を弾いていた。
「わぁ、綺麗〜」
ひょいとかざした手の下から弾く光に劣らずきらきらと、青い瞳が森へ向けられる。
しかしそのまま怪訝そうにシノンは数歩進んで「ん?」とばかりに耳を澄ましてみた。たいした苦労もなく人の声が複数見つかるのだけれど。
「何か騒がしいような?」
近付けば近付くほどにそれはけたたましく、そう、巨大な何かが森を走り抜けたり叫びが上がったり――巨大な何かは更に森の奥だったので遠目だけれども乗り物程度にはあるような気が。
「大きい動物だなぁ。でもネズミみたい」
だけど硝子森ってこんなに賑やかなものなのかな。
あのふわふわと優しげな親友が話す内容から想像するのはもっとこう……静かな、落ち着いた場所、だったのだけど。
そうしてちりちり鳴り響く硝子のささやかな音。それを掻き消す音が延々と続く森の中。
清芳はモルと思しき(というかまず確実にモルである)声がふと途切れたのを案じ、馬車から僅かばかり離れて木立を覗き込んだ。どこもかしこも硝子で眩しい。
「よもや食われてしまってはいないだろうが……」
「食べられてたらおいらここにいないよ」
独り言のつもりが足元からちょろりと小さな声。
見下ろせば、根の下に出来た空洞からキャダン曰くのチーズジャンキーが問題のチーズ包みを背負って彼女を見上げていた。ぴくぴくと鼻先とヒゲが揺れる。
思わず周囲を見るも問題の巨大化ネズミの気配はなく、おやそういえば音も遠く静かなようだとちらりと思った。
そして改めて見下ろすラットとその背に乗る、というか圧し掛かる大きさのチーズの詰まった包み。風呂敷なんぞどこから用意して本の中からとんずらしたのやら。
「まだ呑まれてはいなかったのだな」
「まあね。あんな大きいだけのネズミに捕まるもんかい」
「キャダンさん達が心配しているぞ、モル」
彼らの心配はむしろ馬車の破損である可能性も高いのだが、きりと真面目な顔で清芳が言うとその辺まるで解らない。
己のすばしっこさを誇るように小さな身体を反らしてちょっと背中の重みに負けかけた、そんなおつかいネズミに向かい合い膝を着いた。
「清芳さん?……おや」
その辺りで伴侶の動きを見咎めて近付いて、清芳の頭越しにモルを見る馨。
意味有りげに目を細めて「これはまた」とか何とか言う背の高い男が呟く様子にモルは居心地悪そうにヒゲを揺らした。
あれだ。子供が説教の予感に落ち着かなくなるような、そんな感覚。
「物語は楽しかったですか?」
お土産まで頂戴してきたと伺いましたが。
添えられた言葉に多少なりとも自覚はあったらしい、後ろめたいとばかりにラットは尻尾をはたりと動かしてみる。意味がない。
沈黙したモルと見下ろす馨。間に清芳。
何事かを清芳が言う前にふと一つ溜息を落として馨はチーズを大量に包んだ(とはいえラットの持てるサイズだが)モルの荷物の中身を量った。欠片が大量にあるらしくデコボコとした形、人の片手の平に余る全体からして丸々かっぱらってきたのかもしれない。
「いくらラットとは言え」
「おいらチーズに目がなくてさぁ……」
「だからといって物語を構成する大事な要素を勝手に失敬してしまうのは感心しません」
「つい、ふらふらと、えへへ」
そもそも他所様の物をかっぱらう点からして問題なのだが、とりあえずは物語限定とする。
小動物の愛嬌を使ってみるチーズ失敬犯の試みをあっさり流して話す馨。そうしてこのままキャダンを呼び書棚に連れて行けば解決だ。
しかし、そんな風に思ったところで流れが変わるのも妙なお約束であったりするものだ。
「つい食べてしまったのだな……」
今回、解決方向に流れていたのに路線変更としたのは言わずもがな、ここにいるのは馨とモルと。
「気持ちはよく解る、解るぞ、モル!」
清芳である。
男とラットの視線が向かう先で彼女は思わしげに、重々しささえ覗かせて握り拳を作っていた。
「好物を前にして思わず、そうだろう?」
「……うん……」
ええとこの人こんな感じだったかしらん。
この森に一緒に来た人だけどもう少し落ち着いてたような。
むしろ気圧される勢いで途方に暮れるモルがちらりとずっと上にある馨の顔に目線で聞いてみる。にっこり笑顔が返ってきた。が、答えになってない。
「私だって目の前に好物の甘味があったならば――」
くぅっ!と声を洩らしてもきっと違和感はないだろう。
見上げる他種族のつぶらな瞳を感じつつ馨はどうしたものかと思案していた。モルの話から清芳さんの(ある種の)箍が外れてしまったらしい。そんなところであるけれども。止める程のものだろうか、さて。
「たとえそれが人様のものだと言うことがわかっていても、誘惑に負け食べてしまうことがあるかも知れん」
意志薄弱と己を叱咤する他ないが、とそこで一拍。
あらぬ方を見遣りふいと一度かぶりを振ってから清芳は続ける。
「何処か後方で、それは僧兵として如何なんだと言う声が聞こえたがさておくとして」
「……」
空耳ですよと胸中でのみ相槌を打った馨は、隣でいまだモルを前に語る清芳の姿を見守っていた。それともさておかれた声は己のどこかがのたまって、彼女に察知されたのだろうか。有り得なくもない。
しかしてそれもともかくとしよう。
「――そう、どれだけ見ないようにしても見てしまうことはあるのだ。そのときにそれが好物であれば常よりも鮮やかに映ったところでおかしくはない」
「……うん……?」
いっそ今の間にモルを捕獲してしまえばいい。
馨は清芳が意図せずもモルを引き止めた現状を見逃すほど呑気ではないのだ。そもそも彼女に近付いて早々に機会を失った辺りは原因共々棚に上げておく。
ともかくこのラットを確保、そして先程に考えた通りキャダン同伴で書棚へ――
「アーシアさん?こっちに何かあるんですか?」
「う、あー」
だが生憎と一度逃した機会は戻らない様子だった。
キャラバンの踊り子が頭にタオル――寝癖直しだろうか湿った物を乗せたままふらふらと覚束ない足取りで近付いて来、それを追って現れたのはリラ・サファト。この幼い精神の踊り子が懐いていることもあって面倒を見がちな彼女がアーシアの手をはっしと捕らえる。それをまた追って藤野羽月が少し緊張の色を乗せて近付いて来た。
彼と自分は拾い上げた遠くからの音。
「だが、だがな。モル」
馨と羽月が察知した微かなそれはぐんぐんと大きくなり。
「ぅひゃぁあああああああ!」
「リラさん!」
「あ――アーシアさん!」
「食べてしまって謝らずに逃げると言うのはよくない」
そして馬車と並ぶ大きさの生き物はチーズを抱えたラットが奇声を発して逃げ出したその場所を、つんと可愛らしい鼻の下から大きく口を開けて抉っていった。
「モル、いいか?」
咄嗟に羽月がリラを庇い、リラがアーシアを庇い、なにやら覚えのある体勢の三人。モル、と零したアーシアから視線を一人膝を着いたまま話す女性に移す馨。
「怒りと言うのは連鎖する」
「いませんよ、清芳さん」
「――あれ?」
無意識のまま眼前を襲った巨大化ネズミを避けていた僧兵は、彼のいささか力の抜けた声にぱちりと瞬いた。左右を見、正面を見、ネズミの去った方を見る。騒音は遠くだがまた響いてきている。
「何処に行ったんだモルは」
「……」
大物だ、と目の前の男女より僅かばかり年若い様子の二人は互いを見交わした。
疾走していったネズミを避けておきながら体勢も同じままにモルへ言葉を尽くしている。あまりにもこの一幕の僧兵は大物であった。
さて同じ頃合の書棚。
ふむ、とキング=オセロットは外の喧騒に耳を傾ける。
聞いた経緯からすれば先程の森の沈黙はてっきり件のモルとやらが、ついに捕まり飲み込まれたかと案じもしたが程なく喧騒は蘇った。
「見失っていた、というところかな」
「知った事か」
普段の偉そうな様子が幾分消えて代わりになんというかこう……生活に疲れた、というか、そういった空気が漂う書棚の主をちらりと見てオセロットはやれやれとばかりに僅かに肩を揺らしてみせる。
『なかなか賑やかなことで』
『まったくだ』
訪ねるなりの挨拶に返してみせた余裕はどこへ行ったのだろう。
いや、あれも疲れて投げ遣りだったのかもしれない。
「ええい思い出すだけでも腹が立つ話じゃないか!」
館の奥、いつも訪れる場所。
そちらから張りのある女性の怒鳴り声が入り口近くに立つオセロットとマスタの耳を散々に叩いた。何度目かはもう数えていない。
「随分と彼女はお怒りのようだ」
「……」
怒れる女性つまり魔女は本に配慮しているのだろうか。
問えば「本には」と返された。本以外とはこの場合マスタであると思われる。
「まったくなんてネズミだろうね!うるさいよ館!ネズミもラットも変わりゃしないんだからバタバタ鳴るのはおやめ!おやめったら!」
再び届いた声についでばさばさと何かの落ちる音。
「配慮?」
「あれでも傷まない」
「ほう」
繰り返して確かめると、応じる声はもう自棄酒でもかっくらって不貞寝しそうな程である。それでも惨憺たる有様だろう書棚を思っているマスタの姿にオセロットはしばし案じる風にしてみせてから、そうだな、と提案した。
「この書棚には何かと世話になっていることであるし」
実際のところ話を聞く頃には決めていたりするのだがそこはそれ。
口に出すようなことでもないのだ。
「私で良ければ片づけを手伝おう。それに」
魔女の相手が少しばかり必要だろうが落ち着かせて損はあるまい。
「傷まないとしても、本が手荒に散らばっているのもあまり気持ちのいい光景ではないからな」
「そうか」
「そうとも」
書の量の多いことは主に問うまでもなくオセロットは知っている。
一人では捗りもしないかもしれないが、その辺りもどうやら解決しそうだと近付く集団に顔を向けた。
「あれっリラ?すっごい偶然だねっ」
「シノン?あ、前にお話したから……?」
「うん、そうなんだけど、どうかしたの?」
瑞々しい声を追ってざわめきが増していく。
それがね、と話し始める場を見遣りそれから背後の叫びをまた聞いた。
「どうやら人手も充分なようだ」
「……そのようだ」
素直に喜んでみせる性格ではない書棚の主。
かくして硝子森の書棚に常にない大人数が集まることとなったのである。
■魔女とネズミ■
チーズを巡って追い追われ。
怒る魔女逃げるラット追うネズミ。
硝子森のある日のちょっとした出来事ですけれど。
でもそれは、居合わせた人々が世話をやくことになるのです。
――まあなんてお気の毒!
「……氾濫?」
「散乱……」
「どちらも正しいな」
かくして書棚の整理班に入った藤野羽月は開かれた書棚の光景に沈黙し、思わずとばかりに呟いた。
片手に偶然出会った親友の手土産、片手に踊り子の手を握って彼の奥さんが訂正する。これも訂正というか思わず零れたコメントという風情だったり。
一人淡々と判定するオセロットはさほどに表情を変えなかった。
「川のようだ」
「洪水ですね」
これだけの本を落として回る魔女の怒りは如何ばかりか。
などとまでは考えなかったけれど、若夫婦は揃って床を支配する勢いで広がる本の装丁を眺める。しかし散り方は壮絶ながら、よくよく見れば本そのものはただ置いたという様子で傷みはない。
気を遣っているのだな、と妙な部分で魔女の配慮を確認して仲良く笑う。
アーシアは不思議そうにしながらそんな二人を見ていた。
更にその三人を視界に捕らえつつどうしたものかと考えるのはオセロット。
「まったく!」
今もぷりぷり怒る魔女が実は一同の前で本を落としテーブルを叩き、かと思えばどっかと椅子に座ってそこからマスタに本を投げる。今も後頭部にくらって傾いだ彼は本の状態を確かめてから無言で棚に押し込んだ。
(まずは落ち着かせるべきか)
見ると聞くでは大違い、ではなく全く変わらず想像通りのお怒りだ。
「……まず一服、というのも良いかもしれないな」
ならば必要なのは茶と茶菓子。
オセロットの声に反応した羽月とリラ、さらにはアーシア。
じゃあ私が、といそいそと手荷物を確かめるのはリラである。
ならばと羽月とオセロットは互いを見た。アイコンタクトというものはときとして非常に簡単なのだろうか、揃って馬車の方で団員とまだ何事か話す団長つまりキャダンに顔が向く。
「そうだな、チャイ、だろう。シノンさんから受け取ってもいたことだし」
「ならばそれに合うもの、か」
近い街ではなく馨が先んじて向かったように、マスタ経由で書棚から買出しであろうか。なんにせよそれは二人が見る先の彼の役回りのようであった。
「魔女さんにお出ししたら、私も片付けお手伝いしますから!」
「ああ。リラさんが加わるのは心強い」
「お掃除大好きですから、張り切ってやっちゃいます」
言って早速調理場へ向かう細い背中。
では自分達は魔女を宥めつつ彼女に先んじて片付けよう。
「ああもう!チーズごととっとと持っておいでったら!」
……宥めつつ。そう、魔女を宥めつつ。
今度は顔面で本を受け止めたマスタを横目に羽月とオセロットは、溢れる本の川というかもはや湖を越えそうなその一室に踏み込んだ。
外も頑張っているらしく「うぇええええん!」だの「ひー!」だの主にモルの声が小さく小さく続いているわけで。
ああ、あちらも大変そうだ。
** *** *
「――っ」
咄嗟に飛び退き尻尾を避ける。
「見事な尻尾さばきだ」
「ちょっと標準より長いかな」
頭上からかかった声と降ってきた幾つかの小袋。
ひゅーっぽとん、と狙ったように見事に清芳の手の中に落ちたそれはチーズ。
「預かって来たから、じゃあねっ」
「ありがとう」
「はーい」
すいと頭上から飛び去ったシノンは馨から預かった分を清芳に渡すとぐるんと周囲を確かめた。大丈夫、通りすがり、なんていうついてない人は見当たらない。
「っていうか動物もいないな〜」
収まるまで隠れているのかも。
風に乗って高く高く、冬のどこか硬い空気を味わいながら見下ろす森。
きらきら眩しい中で動き回る姿はすぐに見つかるのだ。
「それにしても、なんだか大変だけど」
――いい加減止まらんと話は変わらんぞー!
ぞー、ぞー、ぞー……
反響する清芳の声もしかし走る塊には通用しないらしい。
つまりモルとかいうチーズを盗んだラットも清芳の叫びを聞かないということだ。いや聞く暇もないのかも。なんといっても捕まれば丸呑みらしいし。
走る塊の移動を確かめて、順路というか逃げ方追い方の癖らしきものをチェックする。地上では一心に追う清芳。今頃彼女の相方さんは地道に準備を整えているのだろう。
「よし!」
意外に広い硝子森を移動する姿をしばし追ってシノンは駆け下りる風に乗った。
ぐいぐい運ばれる感覚を楽しみながら近付く毛皮ににっこり笑う。
「後で皆でお茶会っていうのもいいよね」
リラは上手にチャイを淹れているかなぁ。
館でシノン持参のスパイス(特製である。自慢の配合・効能だ)をきっと活かしてくれているだろう親友を思ったところで着地。
きゅ、と柔らかい毛を握ってそれから。
「人の物を、っ、てっ!?」
「ああっチーズが落ちてる!もったいない!」
「危ない!」
馨はチーズをわざわざ用意したのである。
『あると思うか』
不機嫌にそう書棚の主が言うので苦笑しながら買出ししたのである。
いや書を利用してなんていう手っ取り早い移動を提供してくれたので時間は別にいいのだが、わざわざ、商店で奇妙な顔をされながら大量に買ってきたのである。
多少買いすぎても後々料理に使えばいい(その為に他の材料も幾分購入したり)と思いもしたが、それでもかなりの分量をこうして用意したのである――足止めなり罠の餌なりにと。
「……」
しかし、と馨は無言のままこめかみを揉み解しつつ、二匹(大小の差は凄まじいが)と一人(風に乗れるからと周囲の確認を請け負ってくれた)の駆け去った方を見送った。
「……手段としては有効でした、か」
なんだろう。術の一つを使うよりも早くモルがチーズをかっぱらった。
食欲が鼠体の基本性能を上回って活動させたというわけであったのか。
そもそもは、チーズを少しずつ、撒餌として使うつもりで馨は大小ネズミの追いかけっこルートを確かめていたのである。とにかくモル捕獲(の為に巨大化ネズミをまず捕獲)という目的でもって、大地の精霊にも協力を願っていたところであった。
そこへ早速ネズミ二匹が近付いているという情報を精霊が伝えてくれたのだ。
ならばと根のしっかりた木を選ってそちらへとチーズでもって早速誘導しようとした。そう、そのつもりだった。
というか方向はけして間違っていなかったようなのだが――
気持ち程度に開いた道筋から木々の密集する、つまり硝子葉の溢れる場所へと突っ込んでいった二匹と一人。ネズミに乗った人物――十中八九、シノンだろうけれど無事だろうか。
流石に落ちて破片になった硝子を見て考える。
咄嗟に防ぐ姿勢を取ったことは確認したが、いやはや、なかなかに危険な森ではないか。こうなると。
「おや」
しかし考えを読んだかのように硝子葉の欠片は細かな粒子になって風に溶けた。
便利ですねと反射の宝石を見送ってから改めて馨は考える。
待て!だとか、足を止めろ!だとか、非常に馴染み深い日常的に聞く声がしきりと耳に届くのだが近くなったり遠くなったり。彼女とも一度合流するとして、だ。
「モルの進行を誘導して、術で双方共に捕縛……と」
問題は、二度目撃したあの勢いである。
大小共にもしや止まるという動作を忘れてしまっているのではなかろうか。
有り得なくもない。
ちらりと考えつつ馨は改めて大地の精霊に呼びかけた。
とにかく土と木々に根回し。
常に地道な作業を忘れない、彼は非常に堅実だ。
** *** *
しかし作業の地道さでは書棚の整理も負けてはいない。
そして報われなさではあるいは遥かに勝っている。
「そもそも本を読みたいからってネズミを書棚で自由にさせるあんたがいけないんだよ!」
「……」
今も片付ける端から魔女がマスタに本をぶつけていて、片付けなのに片付けにならない。
リラが台所を借りてお茶の用意をしているのだが、それとキャダンの買出しが終るまでマスタの頭は大丈夫だろうか。羽月とオセロットが手伝い始めてから両手の指でなお余る回数だけ本をぶつけられているのだけれども。
「……」
黙々と片付ける書棚の主の首から上ばかり狙う魔女のコントロールは優秀である。
「ええい捕まえたらあのネズミをチーズにしてやろうかね!」
それは流石にキャラバンの仲間が縋って止めるでは、と思ったが見回す他の団員が慌てる様子もなくて微妙に心配になった羽月。しかしこの広大なというか何故だか端に行き当たらなくなった書棚の片付けをしていると、なんというかもう、色々どうでもいいやと思いたくなる気持ちが解らなくもない。
「では大切なチーズを取られて怒っているというのは、外のネズミだと?」
「そうさ。わたしゃ人の物語にちょっかいかけたから怒ってるんだからね」
多分、両者共に物語に入り込んでチーズを盗んだ、という一通りの行為に機嫌を損ねているのだろう。
オセロットが果てのない(まさに言葉のままに果てがない室内での)整頓作業に飽きる様子も見せず、動きつつ魔女に話を振る内容を聞きながら羽月も動く。片付かない本の氾濫に足元をひたしつつ、ひたすらひたすら。
リラとアーシアが戻れば要領も変わって楽になる、といい。
(しかし、アーシアさんはこちらで手伝って貰った方が良かっただろうか)
作業の合間に窺うも台所は遠いのか状況が解らない。
踊り子がリラと一緒に茶葉とミルクを抱えていたので見送ったものの、彼女に話しながらでは多少手間取るだろうかと今更ながらに気にかかるのだ。失敗や大変な事故は考えてはいないけれど、しかしやはり。
いやいや。
ふるりとかぶりを振って羽月は拾った本を同分類の一画へと積んだ。
ある程度の決まった作業のおかげでいらぬ心配をする余裕が生まれる様子。
「だが、禍とは追いかけ回せば捕まえられるわけではないと思うのだが」
「禍!禍とはうまい言い方じゃないか。たしかに迷惑だからねぇ」
マスタに本はぶつかるものの、オセロットがじわじわと魔女の怒りを逸らしている。
これならば茶菓子が届くまでにマスタの頭が変形することもない。
「本当にあんたがネズミに本を見せなきゃ良かったのに!」
「……」
――多分。
そろそろリラさん達は鍋を仲良く覗き込んだりしているだろうか。
怒りを逸らして貰ってもなお本が当たるマスタの無言の背中、煤けた空気を感じながら羽月は奥さんが奮闘している台所の有様を考えてみた。
そう、仲良くチャイを二人は今頃。
二人は当然、仲良く、チャイを。
作ってはいたのだが。
「あ」
「あー」
製作途中でリラとアーシアは二度目の「あ」を追加した。
並ぶ二人の前には鍋がぶくぶくと。
「牛乳噴いた」
「ふいた」
なんだか「きゃー!噴いちゃった!」とかいう段階を通り過ぎている。
茶葉とスパイスで色やら香りやらが添えられている液体は、沸騰し泡立ち平鍋から吹き零れてしまった。が、慌てず騒がす揃って二人は鍋を確かめてから、火を落とした。
「……スパイスもドバッと入っちゃいましたし……」
袋から一気に鍋に入ったそれが一度目の「あ」であるのは言うまでもなし。
折角シノンから教わった飲み物なのに、他所の使い慣れない台所で挑戦するのは無謀だったのかしら。
そういう問題でもなく、外と書棚を案じている間にうっかりしでかした、そういう次第であるのだ。うーんと火を止め鎮まった液体を前にしばし考えるリラ。
しでかしたといっても、しかし飲めない訳でもない気がする。
「……うん」
「う?」
「こんな時もありますよね☆」
「あー、ん」
考えること一息分。
なかなかの即断でリラは結論を出した。
「言わなきゃ気付かない気付かない。飲めるんだから大丈夫」
こくりとアーシアが稚く頷けば「ですよね」とほんわか微笑んでトレイの上で温めたカップに向き直る。
そこで一度止まって耳を澄ませばバタンと扉の音。
「団長さんのようですよ?」
「キャダン」
「はい。お茶菓子も届いたみたいで良かったです」
美味しいお菓子と一緒ならチャイがたとえ少しばかりクセが強い味でも大丈夫。お菓子と一緒に美味しく頂ける――はずだ。
「モルさんとネズミさんを捕獲出来たら、シノンと一緒にもう一度淹れましょう」
チャイ?とたどたどしく言うアーシアに頷いて、リラは羽月が彼女を考えたように、シノンを考えた。
「うまくいってるのかなぁ……」
怪我なんてしないといいけど。
なんといっても『硝子森』なのだから。
「割れ物だもんね……硝子って」
ひとりごちてアーシアと一緒にチャイを書棚に持っていく。
菓子もこちらで添えようかと思っていたのにキャダンはどうもそのまま直行した様子であった。
** *** *
「あぶなかった……びっくりしちゃったよ!」
咄嗟に風で硝子葉から身を守ったが、でなければシノンは今頃傷の一つや二つ作っていたはずだ。ありがとう、と周囲の精霊に伝えてから乗り物状態のネズミの身体もチェック。
「うん、大丈夫だねっ」
にっこり笑うが生憎とネズミには見えず。
巨大なネズミは今も小さなラットを追っているのだが、見失うのと予想以上の(火事場のナントカというものとも思える)ラットの逃走速度及びすばしっこさのおかげで上下左右に盛大に動く。リラが乗ったら心配どころじゃないぞ、とこっそり思いつつネズミの毛を何気なく撫でてみた。
ぴくりと動くのが面白い。
「急に乗ってごめんね?あたしはシノン」
話す間もネズミはラットを追いかける。
時折どすんと木にぶつかっては硝子が盛大に鳴ったり割れたりそして消えたり。
「話は聞いたけどさ、まずちょっと落ち着こうよ。さっきから森を荒らしちゃってるし大変だから」
ぴくぴくと動く耳からすると聞こえてはいると思う。
だがしかし聞くのと聞いて従うのは別物だ。つまりまるで止まらない。
「へへん!おいらが捕まるもんかい!」
「こら!からかわないんだよっ!」
前方でちょろちょろと動くモルのちょっかいも原因ではあるか。
なんだか孤児院にいるときと同じことを話してるなと少し考えながら、シノンは上下左右に動く背中に乗ったまま大小二匹にあやし続けた。
「うーん……」
なんとなく、周囲で木がちょっと違う様子でざわめいている。
一度空から他の人達との距離を確かめようと思っていたけれど、この気配というか精霊達の感じからすれば上手い具合に移動している様子。
「……よし、じゃあ」
とりあえず行動を決めつつ合流まではなんとか宥めておこうじゃないか。
そんな気持ちでもってシノンはまた声を上げた。
「だからまず止まって!ほら!」
「呪縛符持ってる知り合いに札を借りれば良かったな」
片や声で片や音でと賑やかな二匹を辿るのは容易であるのだ。
速度が尋常でなく捕獲し損ねただけであって、各々が辿れば適当なところで合流も出来る。長い付き合いであれば尚更だった。
「そうすればまあ……どちらも止められたのだろうが」
「止めるという部分が少し難しいですからね」
散々追い回した割には僧服はさほど乱れていない清芳が、自分同様に罠なりに使えばとシノン経由で預けたチーズをもぐりと食べつつ言う。
捲り上げた袖から覗く腕に硝子の傷もないのを確かめてから、渡したチーズの使用方法について確認すべきか考えた馨の目線。
気付いた清芳は「いや」と摘んだチーズの残りを頬張ってから彼を見た。
「馨さんの術も効き目は強いのだけれども!」
「ありがとうございます。清芳さんがお手伝いして下さるなら次は大丈夫でしょう」
「ああ、うん。そうだな」
それにシノンも幸い怪我もなくネズミの上に乗ったままであるらしい。
これは大地から伝え聞いたことだ。
膝をつき地に触れる。
大小二匹の行方は走り回るルートに誤魔化しを少し入れてもらえば――無論大層なものではなく、木に枝葉を伸ばし気味にしてもらって空間を広くしたり狭くしたりする程度だけれど、それで充分誘導も出来た。
進行方向を確かめてから馨は清芳を促すと歩き出す。
「少し歩けば泉がありますから、そちらへ」
「彼女には?」
「伝わっているようです。さて」
三度目の正直といきたいものですね。
「足を止めれば何とかなるのだが」
「無論、次は止めます」
「そうだな。三人でかかれば」
「終われば残った分で料理を――ケーキなんかも良いですね」
「ケーキか」
ふいと瞳を輝かせた清芳の表情に馨は笑う。
そして巨大ネズミの上でもシノンが「終わればお茶会、リラのチャイ」と楽しく予想していたり。
** *** *
シノン嬢が味を楽しみにしているリラ嬢のチャイ。
では、そのお味は如何程であるのか。
「……」
「……」
「……」
鼻にアーシアがしたように皺を刻んでから一口。
沈黙した魔女の微妙な表情の意味を一同はなんとなく理解出来るような出来ないような。
「……ふん」
ぐいーっ。
一息に飲み干して魔女はふっと息をついた。
「淹れ慣れない物にしちゃ飲めない事もないね」
誉めているのか誉めていないのか。
フォロー?
ちょっと牛乳ッ気が人によっては引っ掛かるかもしれないけど、なんだか渋みが人によっては引っ掛かるかもしれないけど、なんだかスパイスの匂いがぷんぷんと強いけど、でも飲めるし。
流石にスパイスと沸騰の両方は失敗だったかな。
ちらりと考えつつ、リラはアーシアの膝に落ちる菓子を拾ってやる。
羽月やオセロット、キャラバンの一同も最初の一口二口で一拍置いたものの以降は普通に飲んでいるのは慣れるということか。
火加減も気をつけなくちゃ、と改めて心に刻みつつ羽月が先に仕分けて積んでおいた本をちょこちょことそれぞれの棚をチェックしていく。
「それで話の続きだったかね」
「そう――貴方のいた書の話だった」
「というと……モルさんの入ったお話ですよね」
「そうともチーズを山盛り盗んでいったネズミさ!」
「……わぁ」
べちん、という音の被害者はキャダンである。今回は。
監督不行届じゃないかいこの馬鹿者!
魔女の怒りはすぐに甦る。
ゆるゆるとかぶりを振るばかりの羽月の様子にリラは早々に繰り返される行動なのだと察し、とりあえずアーシアをキャダンに寄らせないことにした。多分キャダンとマスタの傍が危ない。そして傷んでいない本は魔女自身が本からの人であったというのもあるのかも。
「ああ、どれだけ文句を言っても足りないが……まあいいさ、そろそろ外も片付くだろうし話してやろうか」
「モル、ぺろり」
「そうだねぇ。モルとやらはぺろりかもしれないが良いんじゃないかね」
良くない。
言いかけたキャダンは魔女の眼光に沈黙。
そもそもモルのかっぱらいが問題なので仕方ない。
ふん!と鼻息荒く魔女はリラからチャイのおかわりを貰いつつ指をひょいと曲げた。一冊の本が一同――主として話を振ったオセロットと興味を示したリラの前に広がるようにして、ぱたりと下りる。
「見るといいさ。話してやるが絵も見るといい」
もっとも魔女とネズミは本の外だがね。
愉快そうに付け加えるその『魔女』である。
マスタは何も言わず、時々わざとらしく頭を撫でながら本を片付けているが、彼の制止がないなら素直に読んで大丈夫なのだろう。と思う。
よもやモルのように物語に入ったりはしない、はず、だ。
「では、遠慮なく」
「……あ、かわいい……」
大きさはそれなりのもので、開いたその頁にある絵を眺める。
ぐるりと羽月や彼に促されてアーシア、キャラバンの年少組なども一緒に頭を寄せたところで魔女がそろりと書かれた言葉の通りに声を紡いでいく。
「ちょっとした話さ」
『それは
仲間よりも少しだけ長い尻尾を持っている
毎日毎日、ネコに見つかってはいじめられる
そんなネズミのおはなしです』
ざ、ざざざ、と枝を叩く音が大きくなる。
ちりちり光って眩い硝子の葉が揺れる。
「来たな」
「来ましたね」
水場のある分だけ開けたそこで清芳と馨は近付く音を待つ。
「だからね!一度止まってみようよっ、モルも」
「止まったらおいら食べられちゃうじゃないかぁ!」
合わせて自己主張の激しくなる声に揃って苦笑いする間にモルとネズミと、言い含めるシノンとが木々を抜けた。
「シノンさん!」
「モル!こっちだぞ!」
流れる彼女の髪とネズミの体毛、それ以上に先程に比べて落ちている速度。
清芳が身を翻して腕を伸ばす。そこには、そこにあるのは。
「あああチーズ!」
お前まだチーズいるのか。
なんて言ってはいけない。
掲げた清芳の白い腕の先に燦然と(モルにとっては)輝いて見える一塊のチーズ。ミニチュア風呂敷包みを盛大に揺らして事の発端であるラットはぐりんと方向転換をした。
またしても鼠体能力を上回った好物への執着。
「うわぁおいしそう!」
「素晴らしいジャンプだが」
つぶらな瞳をきらきら光らせるラットに行いについて言い聞かせようとした清芳は、後々馨が充分に話すだろうと考えて唇を閉じた。代わりに好物に誘われるというちょっと共感しちゃいそうなラットにチーズを与えておけば静かなもの。
「止まって止まって止まって」
「そのまま風で抑えて下さい」
ネズミの視界にモルがうっかり入れば、前方で根や土で抑えようとする馨だとか風圧で制限をかけているシノンだとか、彼等の労力がきっと無駄になる。
もぐもぐと明らかに胃袋以上の分量であるチーズ塊にかぶりつくモルを手の上に乗せたまま、じりりと清芳はネズミから距離を取った。
「やはり尻尾が長いな」
ばちんばちんと暴れる様を眺めつつ、馨さん頑張れ、シノンさんも、と応援しておく。本当に、呪縛符の一枚もあれば手間ももう少し省けただろうに。
「もう!森で暴れるのはダメだからねっ」
シノンが叱るというよりも言い聞かせる調子でネズミに何度目か、話す頃には巨大ネズミは木の根に足を止められ土に埋もれ、疾走の土埃でずいぶんな汚れようだった。
その大きなヒゲと目が揺れる前に降り立ったシノンが次いでぐるりと振り返る。
そしらぬ風にチーズを齧りうっとりした顔の小さなラットにも一言。
「人の物を盗むのもだよモル!」
「その通りです」
「……馨さん」
ぎくりとモルがヒゲを立てたところで更に降る馨の声。
ああと穏やかな微笑みの彼の空気に清芳は静かに手の上のモルを差し出した。
「好きな物を食べる前に、謝罪と反省は必要でしょう?」
「はぅ」
ひょいと摘み上げられてもチーズをモルは離さなかった。
むしろ唯一の縋れる物だと言いたげに小さな手をめりこませて馨の圧力に耐えていた。
「うーん、小さくならないなぁ……先にあたし知らせてくるねっ」
「気をつけてな」
言うなり飛び上がったシノンが木立の上を滑るようにして去っていく。
見送ってから清芳は大きくなったままのネズミに寄り、そっと毛並みを整えてやった。水場であるし、少しは汚れも落とせるだろうかと。
「ええとおいらおいら」
「私と清芳さんに話をしても意味がありませんよ」
「……あぅ」
モルについては馨さんに預けておけばいいか。
『おねがい魔女さん、わたしはネコになりたいの』
「その為の条件がチーズだったのだな」
物語から出てきてしまった為に、ネズミも魔女も存在しない屋内の絵。
そこで言葉だけが残っている。
『ならばお前の仲間からチーズをひとかけ貰っておいで
魔女の話だと言ってもいけない 願い事だと言ってもいけない
宝物にしている上等のチーズを皆から
ひとかけひとかけ貰っておいで
この皿からなみなみと、溢れるまで』
オセロットの目の前でめくられる頁。
そこには散々ネコに追われながら手に入れた宝物のおいしいチーズ、だけどそれをいつもネコに追われるばかりの少しだけ目立つネズミ――魔女と同様に出てきているので不思議な空白がある――に分ける仲間たちの絵。
「だからネズミさんは怒ったんですね」
あー、と空白部分に手を伸ばすアーシアを撫でながらリラがぽつり。
そりゃあ怒りもするかとキャダンは落ち着かなくなったところに思い出したように魔女から本の襲撃を受けていた。
「まさしく禍であったのだな」
ぱらぱらと思いついて進めた頁はまた屋内で、きっと魔女の家なのだろう。
いかにもな釜や薬草が描かれている中の質素なテーブルの上にシチュー皿。
「……随分な量だ」
それを奪い去り逃走中のラット。
まさに自業自得の危険であるわけで。
「しかし――モルとやらが手の平サイズであるなら全て持って逃げるのは苦しいだろう。やはり幾らかは食べてしまったということも有り得るのではないか」
「だったらそれこそ丸呑みさ」
「ぺろり?」
どすのきいた魔女の声に無邪気なアーシアの声。
無言でいた羽月が「その」と言葉をそこで挟んだ。
「仮に食べてしまっているとして、だ。ただのチーズとは言えないとは承知しているが、だが他のチーズでは駄目なのだろうか。いっそ様々な種類であるとか……無理はあるとは思うがしかし」
「別のチーズねえ」
「そうだな――カビが回りにはえてるカマンベール、青カビが美味いといわれるブルーチーズ、スパゲティにかけると美味しいパルメザンレジャーノ…色々ある訳だが」
「珍しかったりはするだろうけどねえ、で、他には?」
本人も言った通りに無理は承知の上。
窺うようにして一度言葉を止めた羽月に愉快そうにして魔女が先を促す。
いつの間にか手に杖があるが出すつもりだろうか。
「フルーツチーズ、スモークチ−ズもすてがたいな。モッツァレラも薄く切ってトマトと共に食べると美味なのだが」
と、思いきや、種類と言うか己の嗜好を覗かせるコメントの途中で杖がコツンと開いた頁を戻してから叩いた。そこは仲間のネズミがたくさん登場している場所で。
「……む?」
「うっわぁ!ネズミがいっぱい!」
大小二匹を確保しましたよ、と報告に来たシノンが目を丸くする。
気付けば羽月のチーズ話を涎垂らしそうな勢いで聞く大量のネズミが現れていた。
「魔女さん……凄いです」
そしてリラの感嘆の声に魔女はふふんと胸を張り。
** *** *
「いいかい勝手に入って来た挙句に物を持って行くなんて鍋にされても文句はいえないんだよこのラット!」
馨にまさしく首根っこ捕まれた状態でモルは魔女に散々に罵られていた。
シノンの連絡に幾分遅れて大きなネズミと小さなラットが清芳と馨に連れられて戻ったのだ。大きなネズミは苛々とまだ尻尾を揺らして足を動かしていたものの、羽月のチーズ談義に誘い出された(来れるようにしたのは魔女だが)仲間達がちょろちょろと周囲を動き回ってはモル丸呑みも出来かねる様子。
「持ち逃げしたチーズは、あの仲間達が大事に集めて蓄えていたチーズなのだそうだ。その場面を知っていたかは、今更だが」
「……」
魔女が屋外だからと本ではなく杖で攻撃しようとしたのを押し留め、オセロットが静かに話すとモルのヒゲはちょろりと萎れた。普通のチーズならかっぱらっても良い、という話でもないけれど背景は知らせておこうと思ったのである。
キャダンがモルをして「衝動のネズミだと思えば」と言って魔女に一発追加されていたのを思い出す。そうか衝動ならば考えさせればまだ理解もするのか。
「……おいら」
「謝るのはわたしにじゃないよ!あっちの少しだけ目立つネズミさ!それからチーズをお返し!」
「えええ!?」
「モル」
「は、はい。残り返します」
反射的に上がった不満の声も馨が名前を呼べばびくりと収まる。
そのままぷらりと摘まれたままのラットを魔女は一睨みし、大きなネズミへと近付いた。杖で身体を軽く叩く。
「丸呑みが出来たら望みも叶ったんだがねぇ」
まあ叶えば話が変わっちまう。
一転優しげに微笑んで魔女は杖をゆるゆると動かした。
書棚の入り口近くを羽月が見ればリラが隣のアーシアに劣らぬ稚さでもって、瞳を輝かせて魔女の動きを見ている。魔女の魔法に興味をそそられるのか。
「あんなに大きくなっていたのに……凄いですね、アーシアさん」
「うー……う、ん」
揃って羽月に顔を向けて同意を求めるので、微笑んで頷いた。
見守る前で大きなネズミは仲間と同じくらいの、ただ尻尾だけがするりと長く見事な、そんな小さなネズミに。
「これなら丸呑みされまいよ」
ふん、とこれも何度目かの鼻息で魔女はぷらりと垂れるモルを見た。
とっとと謝れ反省しろと言うその目に心得た馨がぽんと放り出す。いや本当に放ってはいないけれども。
「けじめはきちんとね」
「……はい……」
促されてしおしおと、モルはネズミに近付いていく。
代わりに周囲の仲間のネズミ達が揃って離れて来るのを見ながら、残り、ということはと案じる様子のオセロット。
「やはり幾らかは食べたのだな」
「物語が変わるだろうか」
聞き拾った清芳と二人、考える様子。
確かに集めていたチーズならば量も変われば困りものか。
いや待てよとそこで馨は己の荷物を思い返した。
あるではないか。可不可はともかく代替品が。
「お前の言うチーズがあれば選ばせるところだよ」
「……流石にいちどきに買い揃えるのは、いや、やってみるべきか」
「それくらいならあのモルとやらに集めさせるってものさ!」
魔女と羽月の遣り取りを推し測る。
チーズならありますよ、と言ってみるのも一つの選択肢のようだ。
「種類はそれほど多くはありませんが」
近付いて話せば羽月にまとわりつくネズミ達が魔女より先にぐりんと振り返り仰いで来た。チーズかね?と目は口ほどに物を言い。
「そこに残りがあります」
指差して大量のチーズと食材が入った荷物を示せばネズミ達は次の瞬間、川から氾濫した瞬間の水のごとくにそちらへ駆けて行った。
「ここでも氾濫か……」
「……素早いですね」
見ればオセロットと清芳も驚きと感心の表情でネズミ達の大移動のちチーズ物色を眺めている。
「で、その間にお茶会の準備vってね」
「お菓子と軽食と、お茶と――」
調理場に並んで立つ二人の少女。
羽月を迎えに行ったという感じだろうか、アーシアが入り口に戻ったのを見送ってからシノンとリラはまず湯を沸かしていた。
「ところでさ、リラ」
土産に持ってきて親友に預けたチャイのスパイスを確かめつつシノンは何気なく問うた。
「チャイは上手く出来た?」
「……えへへ」
そして返ったのは微妙な、笑ってごまかしちゃえ☆という印象の声。
手元の予想以上に減ったスパイスを確認してシノンはそうかそうかとリラに笑った。
「入れ過ぎた?」
「ちょっと……沸騰もしちゃった」
「よし、じゃあ今度は一緒に淹れよう」
頷いて茶葉とスパイス、牛乳と水、配分や火加減の話をする彼女達を知っているのは無人の館そのものだけ。
後は書棚を片付けて、それから皆で食事をして。
『けれどね、少しだけ目立つネズミ。
よぅく考えてごらん。
お前は本当にネコになりたいのかい?』
ごめんよぅと謝っても許せるわけでもなかったけれど、一度去った仲間達がめいめいの手にチーズの欠片を持ってそれを残った分に乗せるから。
「ぁいたっ!」
長い長い尻尾で一発叩くだけで許してやった。
『自分だってネコに追われるのに
なんにも聞かずにチーズを分けてくれた仲間のことを
よぅくよぅく考えてごらん』
『ねぇ 少しだけ目立つネズミ
ネコになって 食べるチーズは おいしいだろうかね?』
歌と踊りとさざめきと。
小さなネズミ達も一緒になって楽しむちょっとしたお茶会。
開いた背景だけの挿絵、そこに記された話を読んでオセロットは小さく笑った。
満足そうにモルと仲良くチーズケーキを頬張る清芳と元大きなネズミを見、それからもう一度本を見る。
最後の頁には、じきに魔女とネズミと仲間達が戻るだろう。
『いいえ 魔女さん きっとチーズはおいしくない
ネコになって たべるチーズは
魔女さんの つくる くすりよりも ずっとずっと まずいでしょう』
『いうものだね すこしだけめだつネズミ
そんな しつれいなネズミのおねがいなんて
わたしは 聞いてやらないよ』
『それでけっこう ワタシはネコにはなりません』
『だってワタシはネズミだもの』
――そんなお話の中に。
** *** *
「大変なご迷惑をおかけしまして、はい」
キャダンが先程のモルさながらにしおしおとマスタの前に立つ。
しかし謝るだけの為に偉そうな男に近寄ったのではないのだ。
「迷惑ついでにちょっと聞きたいんだが」
「なんだ」
「エルザードの方で何か面白い……そうだな、情報通だとか、あれこれ見て回って知識があるだとか、そういう人間はいないかな」
「探し物でもあるのか」
「いや、そろそろ興行のネタというか刺激になりそうな物に狙って当たりたいと思って」
「……勤勉なことだ」
「こういう稼業で固まった演目になったら終わりだからね」
そうか、と書棚の主は一冊の本を取り出した。
刺激という意味では茶会に興じる最中の見物している人々とて充分にキャダンの要望には応えるだろうが、まあよかろう。
条件を繰り返し言わせながら指を走らせて本を開く。
「この辺りでどうだ」
「うん?……ほう」
地図と名称とがくっきりとそこには刻まれていて、覗き込んだキャダンは目を細めて僅かばかり笑うと「よし」と頷いた。
「いいじゃないか、じゃあここに」
礼も兼ねて協力してくれた人々を送りつつ向かおうか。
茶会が終わる頃に声をかけると決めてキャダンはその場所の名前を舌の上で転がした。
「ギルド――ファラク」
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【1854/シノン・ルースティーン/女性/17歳/神官見習い】
【1879/リラ・サファト/女性/16歳/家事?】
【1989/藤野 羽月/男性/16歳/傀儡師 】
【2872/キング=オセロット/女性/23歳/コマンドー】
【3009/馨/男性/25歳/地術師】
【3010/清芳/女性/20歳/異界職】
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■ ライター通信 ■
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はじめまして、こんにちは。くるくる(場面が)回る話と相成りまして、ご参加ありがとうございます。ライター珠洲です。片付けと捕獲ですが分けるべきかちょっと考えたりしつつ一括で。
さて、キャラバン企画ということですから、次の目的地がございます。
最後にキャダンが言っている通り、向かうはエム・リーWRの【ギルド「ファラク」】。
キャラバンの馬車で楽をしてエルザードにお戻り下さいませ。
繰り返しまして、ご参加ありがとうございました。
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