■SPECIAL TRACK ■CHRISTMAS CAKE■■
宮本ぽち |
【0086】【シュライン・エマ】【翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】 |
少年は静かに枕元を離れた。
ベッドに横たわる老婆の息遣いは浅く弱く、しかしそれでもようやく安定しつつある。
清潔にクリーニングされた暖色のカーテンを通して病室に差し込むほの白い光。完全に夜が明けるのはまだもう少し先のようだ。よく磨かれた窓ガラスの向こうにはクリアなコバルトに包まれた街並みが佇んでいる。
もうじき、12月22日の朝が来る。クリスマスイブまであと二日。それまで老婆は生きてくれるだろうか。
「達哉」
不意に老婆がそう言った。寝言らしかった。少年はちらりとベッドを振り返り、痩せこけて皺の寄った老婆の寝顔をしばらく見詰める。
「ごめんね、ばあちゃん」
そして少年はそう呟いた。それは冬の空気のように透き通った声だった。
少年は窓を開け、ベランダの手すりを乗り越えて冷たい空気の中に音もなく身を躍らせた。5階の病室から飛び降りた少年の姿はどこにも見えず、後にはただ夜明け前の高揚に満ちた静寂が広がるだけだった。
「どこも同じような映像ばかりだな」
と桐嶋克己管理官が半ば呆れ気味に呟いた。沢木氷吾警部補も同意の相槌を打ちながら桐嶋の前にティーカップを差し出す。
「仕方ありませんねえ。明後日はイブですから」
「他にもっと大事な話題があるだろう」
「不愉快ならば消しましょうか?」
「つけておけ。一般庶民の風俗を研究するのも悪くない」
「仰せのままに」
沢木は苦笑して手に取りかけたリモコンをテーブルの上に戻す。二係の狭い部屋にちょこんと安置された14インチのテレビにはクリスマスムードに華やぐ街や人々の姿が映し出されていた。ファッションビルのジュエリーコーナーに溢れる男性たち。売れ筋のクリスマスプレゼントをランキング形式でレポートするアナウンサー。スイーツショップが趣向を凝らして作り出したクリスマス限定ケーキの紹介映像等々……。いつもと変わらぬクリスマス前の光景である。
「何か予定はあるのか?」
「いつもと同じですよ。克己さんは?」
「俺もいつもと同じだ」
「お互い変わり映えしませんねえ」
「お互い変えるつもりはないさ。ところで」
桐嶋はカップを置いて狭い二係の部屋を見回した。「やけに静かだと思ったら耀の姿が見えんな。どこに行った?」
「ケーキを買いに行っていますよ。耀ちゃんのお墨付きの老舗だそうでして」
「クリスマスケーキか? 今から注文しても間に合うまい」
「でしょうねえ。本人もそう言っていました。間に合わなければ二つ三つみつくろって買ってくると……ああ、帰って来ました」
軽やかな足音を聞きつけて沢木は腰を上げ、耀のティーカップにお湯を注ぐ。それとほぼ同時に粗末なアルミドアが開き、「さっむーい!」という声とともに白い紙箱を手にした耀が飛び込んできた。
「まるでガキだな」
寒さで鼻を頬を真っ赤にした耀の姿に桐嶋は半ば呆れる。耀はりんごのようなほっぺをぷっと膨らませて桐嶋をひと睨みした後で耳あてとマフラーを外した。
「ねえねえ沢木さん。ケーキ屋さんのおじさんが言ってたんだけどさあ」
「何だい」
「去年とおととしとね、クリスマスケーキが一個なくなってるんだって。ケーキがなくなってるっていうか、24日にお店が終わったあとに売り上げを計算すると、何回計算してもちょうどクリスマスケーキ一個分のお金が足りないんだってさ。ケーキはひとつ残らず売れてるのに、だよ?」
「レジの金が合わないことくらい、珍しくはないだろう。24日のケーキショップといえば修羅場のような忙しさだろうし、釣りの手渡しミスがあってもおかしくはない」
「でも、クリスマスケーキって5250円なんだよ。お釣りの間違いでちょうど5250円足りなくなることなんてあるかなあ?」
耀の反論に桐嶋は「それはそうだな」と言って腕を組んでしまう。
「ケーキを渡すときにお会計をし忘れたとは考えにくいしねえ」
沢木は湯で温めたカップに紅茶を注ぎ、濃厚なミルクを垂らして耀の前に差し出した。「そこのお店のクリスマスケーキって完全予約制なんだっけ?」
「そう。おじさんの完全手作りで、50個のみの限定生産。早くに予約で埋まっちゃうの。注文したお客はちゃんと名簿にしてパソコンに管理してあるんだって。お金は後払いで、ケーキを渡してお金を受け取るたびにプリントアウトした名簿にチェックを入れるのに、24日の売り上げを計算するとなぜかケーキ一個分のお金が足りないの。おかしくない?」
耀は一気にそこまでまくし立てた後でミルクティーを口に運んだ。その後で「あちっ」と悲鳴を上げて慌ててカップを置く。
「……それで、ね」
耀はもう一度慎重にカップを持ち上げ、ややうつむき加減に、上目遣いで沢木と桐嶋をちらりと見た。「おじさん、今年もケーキがなくなるんじゃないかって心配してるのね。そこのおじさん、すっごくいい人なのね。それでね、あたしが警察の人間だって話したらね……」
「“うちで調べてあげる、任せといて”とでも言ったのかい?」
「呆れた奴だな」
沢木の言葉に小さく肯いた耀を見て桐嶋が溜息をつく。「この歳末の忙しい時に余分な人員を割り振る余裕などないぞ」
「まあまあ、いいじゃありませんか」
沢木が穏やかに桐嶋を制する。「注文客の名簿はお店にあるわけですし、それをひとつひとつ調べるなり聞き込みをするなりすればいい。といってもさすがに50人すべてに話を聞くのは億劫ですから、24日にケーキを渡したお客を重点的に調べればかなり絞り込めるんじゃありませんか。足りなくなるのは24日の売上金ですから」
「そうそう。それにね、名簿は少し調べてあるんだ。怪しいのは24日にケーキを受け取った前川達哉(まえかわたつや)って人。その人の家に電話しても“ うちはケーキなんか注文していないし、第一、達哉はもう死んでる”って言われるんだって。なのに去年もおととしも24日に本人がケーキ受け取りに来てるの。その前川さん、今年も24日に予約入ってるんだ」
「ふむ。それは奇妙だな。ま、クリスマスにケーキの調査というのも暇つぶしにはちょうどいいか」
桐嶋も考え直したように肯く。「とはいえ、この部屋を無人にするのもちょっとな。いつものように助っ人を頼んだらどうだ? そいつと俺たちのうちの一人でちょうどいいだろう」
「なるほど。それでは誰が行きましょうか」
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SPECIAL TRACK ■CHRISTMAS CAKE■
「おや」
ノックに応じてアルミのドアを開けた沢木は軽く目を見開き、その後でふわりと微笑んだ。「これはこれは。頼りになるかたがおいでくださったものですねえ」
「それはどうも」
シュライン・エマは軽く苦笑いして会釈する。ソファにかけた桐嶋もシュラインの姿を認めて軽く眉を持ち上げた。
「それで、エマさん。僕たちのうち誰が同行すればよろしいでしょう」
「そうですね。桐嶋さんにお願いできますか?」
最初から決めていたらしく、シュラインは考える間も見せずに答えた。桐嶋は「ほう」と言って肘掛の上に頬杖をつく。
「以前に一度会っているが、調査で組むのは初めてだな。氷吾から話は聞いている。しかし、馴染みの氷吾ではなく俺を指名するのか?」
ケーキの調査ということで甘党の嗅覚を期待したとはまさか桐嶋の目の前では言えない。そんなことを考えて小さく笑いを漏らしたシュラインを桐嶋が怪訝そうに見る。沢木のほうは気付いたのであろうか、シュラインの前に紅茶のカップを置きながらくすりと笑いを漏らした。
「桐嶋さんは大の甘党ですからねえ。ケーキの行方を追うのならばこれほどうってつけの人物はいない」
「……氷吾、何か言ったか?」
「いいえ、別に」
沢木はいつものようににこりと微笑んで桐嶋のきつい視線をかわした。
「それじゃ、早速前川達哉くんの電話番号を確認させてください。それから電話帳を。達哉くんの住所を割り出して、前川家に聞き込みに行きましょう」
「なるほど。氷吾の話もまんざら誇張ではなさそうだ」
事務的な口調でてきぱきと調査方針を述べるシュラインに桐嶋はくすりと笑った。
耀がシェトワから持ち帰った前川達哉の電話番号は電話帳に記載されており、住所は簡単に割り出せた。前川家へと向かうリムジンのリアシートでシュラインは耀の予備調査によって作成された資料に目を通す。
耀が怪しいと睨んだ前川達哉の風貌は十四歳前後だという。店側がケーキのことを前川家に問い合わせても「達哉は三年前に死んでいる」との一点張りだそうだ。さらに、前川家の小夜子という老婦人は今回のケーキ店『シェトワ』の常連で、三年前までは毎年クリスマスケーキを予約していたとか。達哉は小夜子の孫で、たいそう可愛がられていたらしい。念のため耀がチェックしてきた前川小夜子の電話番号は達哉のものと一致。同居していたものと思われる。
怪異の存在を含めて考えるならば、達哉の霊が来られなくなった祖母の代わりにケーキを買っているとも考えられる。しかしにそうだとしても、達哉の霊がなぜそんなことをするのか、ケーキと小夜子や達哉にどういうつながりがあるのか、小夜子がなぜケーキを買いに来られなくなったのか、その辺りを確認する必要がありそうだ。
「これはおまえのことか?」
シュラインの隣でシェトワの予約客のリストに目を落していた桐嶋が名簿をシュラインに示して問う。桐嶋が指した欄には“シュライン・エマ”という名前とともに草間興信所の電話番号が記されていた。受取日は24日になっている。
「ええ。名の知れた老舗ですから、一度くらい食べてみたいと家族と話していて」
シュラインが予約したのは件の5250円のケーキである。サイズも大きめだ。数人、恐らく家族みんなで切り分けて食べることを前提として作られているのであろう。惜しげもなく飾られたガラス細工のようなイチゴ、見た目も濃厚なホイップクリーム。中央にちょこんと佇むサンタクロースの砂糖菓子はソリを引く砂糖菓子のトナカイを撫で、それをログハウスの形に焼き上げられた厚いチョコビスケットが見守る。雪を模して全体に降りかけられた粉糖が柔らかさを演出しており、昔ながらの素朴なケーキであることがうかがえた。
「ふむ。確かに、どれも悪くないケーキだ」
桐嶋は耀が持ち帰ったシェトワのケーキのカタログをぱらぱらとさせた。「だが、どれも家族向けだな。一人身には大きすぎる」
「桐嶋さんは、ご家族は?」
シュラインの後ろで窓の外の景色が猛スピードで流れていく。12月22日。クリスマスイブまであと二日となった街の景色は華やいでいた。にぎやかな赤と緑の看板やきらきらとした宝石に服、サンタクロースの衣装に身を包んでチラシを配ったり呼び込みをしたりする売り子たち。行き交う人々も互いに寄り添い合い、幸せに微笑んでいるようにすら見えた。
「さあな。昔はいたが」
桐嶋はまるで他人事のように言って葉巻をくわえる。その後で窓の外を見やり、「着いたぞ」と言って組んだ脚をほどいた。同時にタイヤがかすかに軋んでリムジンが前川家の前に停まり、二人は白い息を吐きながらアスファルトの上に降り立った。
(昔はいたってことは、ご家族はもう亡くなっているのかしら)
コートに腕を通す桐嶋の背中を見ながらシュラインは内心で呟く。(もしそうだとしても、“さあな”という言い方は不自然ね)
「何をしている。行くぞ」
桐嶋に促され、シュラインの思考はそこで一時中断した。
「知りません」
桐嶋が警察だと名乗って手帳を見せると渋々二人を中に入れたものの、達哉の母の恵子という女性は不愉快さを露わにしてそう断言した。 「今度は警察だなんて……いい加減にしてください。確かに12月25日に義母の見舞いに行くとシェトワのケーキが置いてありますけれど、私たちは関わっておりません」
「事件の犯人に亡くなったご子息の名前を使われているんですよ。あまりいい気分ではありませんよね?」
というシュラインのもっともな指摘に恵子は「そうですが」と言って目を伏せる。
「犯人が達哉の名前を騙っていることは事実。ということは、犯人はこの家……恐らく達哉か小夜子と何か関わりがあると考えるのが自然だ」
桐嶋は通された居間のソファに腰を沈め、やや前かがみになって体の前で両の腕を組み合わせた。
「前川家を疑っているわけではない。だが、手がかりとして達哉や小夜子のことを聞かせてほしい」
恵子は膝の上に乗せた両手を握り、伏せた目をかすかに揺らす。しかし、やがて観念したように語り始めた。
「私たち夫婦は、達哉が小学校に上がった頃から夫の親――義母の小夜子と亡くなった義父のことです――とこの家で同居していました。達哉は明るくて人なつっこい子で、義母とも仲良しでした。毎年クリスマスイブには義母と一緒にシェトワにケーキを買いに行ったりもしていたんです。でも、中学校に上がる頃からでしょうか、達哉が義母を避けるようになって。ケーキを一緒に買いに行くこともなくなって……」
恵子はいったん言葉を切り、小さく息をつく。「思春期ですもの、家族をうっとうしく思ったとしても仕方ありませんよね。義母もそう思っていたようですが、本音は寂しそうでした」
「でしょうね」
思春期の男子は難しいお年頃である。それまで仲良くしていた家族とも意図的に距離を置くようになり、家族と一緒に出かけるのを好まなったり家族に暴言を吐いたりすることもある。それはある意味では自我と自立の顕れなのだが、これまで仲良くしてきた家族の側にとっては寂しいことであろう。
「達哉は家にいても義母や私たちと喋らず、部活だと嘘をついて遅くまで外をほっつき歩いていることもありました。それがたたったのでしょうか、深夜に高校生のバイクに乗せてもらっているところを大型車に衝突され、あっさり死んでしまいました」
それが三年前の冬、ちょうど12月25日の午前二時頃だったと恵子は言った。
「その前日の24日の夜、義母はいつものようにシェトワでクリスマスケーキを買って来ました。義母は昔からあのお店の常連で、クリスマスはいつもシェトワのケーキでお祝いしていたんです。その年も達哉と一緒に……家族みんなでクリスマスのお祝いをしようと言っていたのですが、達哉があんなことになって。それがショックだったのでしょう、元々体があまり丈夫でなかった義母が体調を崩し、病院に入って……回復の見込みは恐らくないとまで医者に言われて」
シュラインは小さく息をつき、ゆっくりと首を横に振って視線を落した。達哉と祖母はすれ違ったまま死に別れてしまったのだ。疎ましいと感じていた祖母が誰よりも自分を愛していたことを気付かずに。いや、もしかしたら達哉は気付いていたのかも知れない。ただ思春期特有の照れ臭さと意地のせいでそれを受け入れられなかっただけなのかも知れない……。
「お宅では何か動物を飼っていらっしゃいますか? 小夜子さんが可愛がっていた動物などは」
シュラインは出された湯飲みに軽く口をつけながら尋ねた。お金が消えるという点から昔話の化ける動物を想像してのことである。「恩返しのようにお孫さんの姿を借りてケーキを買い届けている……という可能性もあるかと思いまして」
「そう……ですね。そうだといいですね」
恵子は弱々しく笑って肯いた。「でも、うちでは動物は飼っていません。ただ――」
恵子は席を立ち、居間に面する大きなカーテンを開けて窓の下を示した。立って行って窓の下をのぞきこんだシュラインは怪訝そうに恵子を見る。窓の下に置かれた踏み石の上には、プラスチックの小さな皿がぽつりと置かれていた。
「飼っていたわけではありませんが、義母は昔から野良猫を可愛がっていました。達哉が生まれた頃から餌をもらいにここに通って来ていたそうで」
恵子は寂しそうに言って皿を見やった。「灰色一色の、あまりきれいじゃない野良猫です。義母は毎日欠かさず餌や牛乳をあげていて……入院する時も猫のことを心配していました。義母が入院してからは私が餌を出しているんですが、時々食べに来ているようです」
「猫、か」
桐嶋は窓を細く開け、首だけ出して庭を見回した。人の気配を警戒しているのかまだ餌の時間ではないのか、猫の姿は見当たらない。
「小夜子さんの入院先を教えていただけますか」
「構いませんが」
シュラインの意図に気付いたのであろうか、恵子はやや眉を寄せる。「義母はいつ亡くなってもおかしくないほど容態が悪いんです。あまり体に負担をかけるようなことは……」
「心得ている。二、三、話を聞くだけだ」
桐嶋はそう言い、恵子に小夜子の入院先を教えてくれるように言った。
“いつ亡くなってもおかしくない”という恵子の言葉はまんざら嘘でもなさそうだった。痩せこけた体に幾本もの点滴やチューブをつながれ、酸素マスクをあてがわれて横たわった前川小夜子の姿は病人そのものであった。頭もやや錯乱しているのか話もあまり通じず、結局分かったことは小夜子が今でも達哉を愛しており、達哉に会いたがっているということのみであった。
代わりに、看護師や看護助手から気になる情報を聞くことができた。入院して間もなくの頃から、小夜子は「達哉が会いに来てくれた」とドクターやナースに喜んで話して聞かせることがあったというのだ。達哉が会いに来るのは決まって夜らしい。そして、去年・おととしの12月25日の朝には恵子が言っていた通りシェトワのケーキが病室に置いてあり、小夜子は嬉しそうに「達哉がケーキを買って来てくれた」と話したというのだ。
「猫が達哉くんに化けて恩返しに来ているのかも知れません」
病院の玄関前の自販機で温かい飲み物を買い求め、手を温めながらシュラインは白い息を吐く。冬の日は短く、四時前だというのに太陽はすでに傾きかけていた。
「ああ。小夜子の最後の注文が三年前、小夜子が入院したのも三年前のクリスマスの直後。店の金が消えるようになったのはおととし……すなわち二年前、小夜子の最後の注文の翌年だ。奇妙に符合する」
桐嶋は砂糖を多めにしたコーヒーの紙コップ片手に患者用休憩スペースに腰を下ろす。「気がかりなのは小夜子の容態だ。明後日までもつかどうか」
「達哉くんが持ってきた思い出のケーキを食べたら小夜子さんの体も回復するかも知れません」
「何?」
シュラインらしからぬやや非現実的な言葉に桐嶋は怪訝そうに顔を上げる。シュラインは「冗談です」と軽く肩をすくめ、ちょっぴり寂しそうに笑ってみせた。
「いくらクリスマスだからって、そんなこと有り得ませんよね」
「そうだな。有り得んことだ」
桐嶋もこくりと喉を鳴らしてコーヒーを飲んだ。「だが、有り得ないことがあってもいい。クリスマスだからな」
「……そう、ですね」
シュラインは一拍置いて相槌を打ち、ごくごく小さく微笑んだ。
しかし、すぐに笑みを消して背後を振り返る。
「どうした?」
「いえ。ちょっと」
桐嶋の問いに答えつつもシュラインの青い目は慎重に周囲の景色を注視している。「灰色っぽいものがちらっと見えたんです。例の猫かも知れません」
桐嶋の眉がひょいと持ち上がる。なおも辺りを見回していたシュラインが「あ」と小さく声を上げた。
猫だ。グレーの、薄汚い猫が背中を低くしてよたよたと病院の中庭を横切っている。
「待って」
追おうとした桐嶋の腕をシュラインがつかむ。「走って追いかけたら余計逃げてしまいます。静かに追いましょう」
そして散歩でもするかのような足取りで、一定の距離を保ちながら殊更にゆっくりとと猫の後を追う。高齢らしい猫はお世辞にも敏捷とは言い難い動きで中庭を抜け、道路に面した側に回り込み、足を止めた。
猫はそのままその場に座り込み、じっと空を見上げている。そこは小夜子の病室の真下であった。
「ねえ」
50メートルほど離れた位置からシュラインがそっと声をかける。猫の体がびくっと震え、耳が後ろに倒れた。
「小夜子さんが可愛がってた猫でしょう?」
猫は答えずに、前足を突っ張って尻を高々と上げ、警戒の姿勢をとっている。
「怖がらなくてもいいわ」
シュラインはその場に膝をつき、敵意のないことを示すように両手を軽く広げてみせた。「イブに買いに行くんでしょ、ケーキ」
猫の眼球がすっと細まる。
「でもね――知ってると思うけど――小夜子さん、明後日までもつかどうか分からないの。私に考えがあるんだけど、聞いてくれる?」
そう前置きした後で、シュラインはひそかに頭に描いていた筋書きを猫に話して聞かせた。後ろで聞いていた桐嶋が「なるほどな」と半ば感心したような声を漏らす。
「どうかしら」
話し終えた後でシュラインはじっと猫を見つめる。「今日はもう遅いから明日にしようと思うんだけど、協力してくれる?」
――もちろん。ありがとう。
シュラインの問いに答えるように、不意に男とも女とも知れぬ声が鼓膜を震わせた。冬の空気のように透き通っていて、それでいてどこか脆さを感じさせる声であった。声の主を求めて顔を上げるも、頭上にはからりとした冬の空が広がるだけだ。そして視線を戻した時には猫の姿は消えていた。
「今の声……猫かしら。それとも達哉くん?」
シュラインは覚えずそう呟いていた。
日はとっくに暮れ、時計の針は九時前に達していた。
気を抜けば簡単に持ち去られてしまいそうな意識。目の前に広がるのは病院の天井なのか雪空なのか、それすらも判然としない。懸命に頭を傾け、視界に捉えた壁掛けカレンダーでここが病室であることをようやく思い出す。
小夜子は必死でカレンダーの数字を追った。小夜子の視力はカレンダーに大書きされている数字すら読み取れないほど衰えていた。それでも小夜子は日にちの数字の上に大きく付けられたバツの印を懸命に数える。今日の日付がすぐ分かるようにと看護師が毎日書き込んでくれるものだ。
バツの数は23個だった。ということは、今日は24日。クリスマスイブである。
「お義母さん。今日はイブよ」
脇で果物をむいていた恵子が微笑とともにベッドの上の小夜子を覗き込む。「今年も達哉がケーキを持って来てくれるといいわね」
「達哉……」
誰よりも愛しい孫の名を呼び、小夜子は音もなく涙を流す。涙は耳を濡らし、枕にしみこんでいくが、それを拭うこともできずに小夜子はただ涙を流し続ける。
そのとき、静かなノックとともに病室のドアが開いた。応じた恵子が「あら」と微笑みかける。シュラインは軽く会釈し、桐嶋とともに病室へと入った。
「こんばんは、小夜子さん」
そしてベッドの脇で身をかがめ、小夜子の顔を覗き込む。「今日は達哉くんに頼まれてケーキを持って来ました」
小夜子の目が大きく見開かれた。
シュラインの目配せを受けた桐嶋が両手に持った箱をサイドボードに置き、慎重に開封する。中から現れたのはシェトワのクリスマスケーキだった。
「早速食べようか、お義母さん。ちょっとお皿を洗ってくるから」
恵子は小さな食器棚から出した皿を手に病室を出る。恵子の足音が遠ざかった、その時であった。
「ばあちゃん」
不意に、最愛の孫の声が小夜子の耳を打った。
小夜子は声のしたほうに懸命にゆっくりと顔を向けた。本当はすぐに振り向きたかったのに、その命令に応じられるだけの体力はすでに小夜子から失われていた。
「達哉」
いつの間にか部屋の中に立っていた孫の姿。小夜子の涙が一気に堰を切った。
「ばあちゃん。一緒に食べよう、ケーキ」
達哉は腰の後ろで手を組んでにっこり微笑んだ。
「二人でケーキを食べているんでしょうか」
病室の外の廊下でベンダーの紙コップを片手に恵子が呟く。時刻は十時に近くなっていたが、病室の厚い扉の向こうからはささやかな笑い声と食器の音が漏れ出していた。三人は達哉が現れたことを確認して病室から席を外している。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
シュラインは恵子に向かって腰を折る。恵子は「いいえ」と言ってシュラインを制した。
「義母はもう長くありません。明日までもつかどうか分かりませんから……お礼を言わなきゃいけません。本当にありがとうございます」
今日は12月23日。――クリスマスイブではない。
すべてはシュラインが考えたことだったのだ。小夜子は24日まで生きられるかどうか分からない。病院側と家族に協力を請い、カレンダーのバツ印や会話などで今日がイブだと小夜子に思い込ませる。一日中ベッドに横たわってテレビすら見ない小夜子に日付を勘違いさせることはそう難しくない。そしてシュラインが予約しておいたケーキをシェトワに頼み込んで一日早く作ってもらい、達哉からと称して病室へ。最後に達哉の姿を借りたあの野良猫に現れてもらう……。おおむね、そういった筋書きであった。
「本当に……ありがとうございます」
恵子はもう一度シュラインに頭を下げて目を潤ませる。それから慌てて目頭を押さえ、「少し風に当たって来ます」と言って小走りに階段を降りて行ってしまった。
「楽しい時間を過ごしているといいですね、小夜子さん」
「ああ」
桐嶋は砂糖増量ボタンを押してコーヒーが出てくるのを待っている。「もしかしたら最後のクリスマスになるかも知れんしな」
シュラインは無言で桐嶋を見上げた。
「長くはもつまい」
短い電子音が三度鳴り、コーヒーが出来たことを知らせる。桐嶋は長身をかがめ、扉を開いて紙コップを手にした。
「そう思ったからこそクリスマスイブを一日繰り上げたのだろう? 悔いのない時間を過ごせていればいいが」
「――ええ」
シュラインは心からそれを願い、温かい紙コップをそっと両手で包み込む。
そのとき、ナースセンターの方向が急に騒がしくなった。注射や薬を満載した金属のワゴンをガラガラと押す者、センターを飛び出す者。ワゴンとともに数人のナースが小夜子の病室へと飛び込み、その後に白衣を翻したドクターが続く。分厚い扉の向こうからはナースたちの声とドクターの矢継ぎ早の指示が聞こえてくる。小夜子の病室のナースコールが押されたのだとシュラインは悟った。
「血圧、心拍低下!」
「自発呼吸が……」
「気管内挿管の準備! 急いで! 念のためカウンターショックのチャージを!」
シュラインの白い手の中で紙コップがかすかに震える。桐嶋は無言で残りのコーヒーを喉に流し込み、空のコップをゴミ箱に放り投げた。紙コップが箱の内壁に当たる乾いた音が、やけに大きな残滓を伴って響いた。
小夜子が息を引き取ったのはそれから三十分後のことであった。
すぐに駆けつけた恵子は涙を流したが、気丈に病院関係者に応対していた。やるべきことはたくさんある。清拭が済んだら遺体を自宅に運び、経帷子を着せ、葬儀や火葬場の手配、死亡広告の準備、親類への連絡。儀式が一通り済めば墓地や相続の問題もある。人が一人死ぬと短い間に次々とやるべきことが押し寄せるのは悲しむ時間を与えないようにするためだろうか。忙殺されていたほうが悲しみに浸る間もなく、冷静でいられるのかも知れない。
院内の喧騒が一段落し、シュラインが外に出ることができた頃にはすでに日付は24日になっていた。
(ケーキを……達哉くんを待ってたのね、小夜子さんは)
きんと音を立てて凍える空気。やけに寒いと思っていたら雪が降り出している。シュラインの吐く息は言葉は白い水蒸気となり、ちらちらと舞う雪の中へと吸い込まれていく。
(イブを繰り上げなければ、小夜子さんはあと一日生きられたのかしら)
植え込みの段に腰を下ろし、小さく息をついて視線を落とす。楽しみに待っていたものが訪れて、気が抜けたように旅立ってしまったのではないか。そんな思いが小魚の骨のように喉のところにひっかかっている。
背後に足音を感じてシュラインはゆっくりと顔を上げる。
病院から出て来たのは桐嶋だった。
「風邪を引くだろうが。中に入らないのか」
「もう少しここにいます」
シュラインは膝の上で重ね合わせた己の手をきゅっと握った。それから、顔を上げずに問う。
「これでよかったんでしょうか」
「どういう意味だ?」
「イブを繰り上げてよかったんでしょうか、ということです」
シュラインは初めて目を上げて桐嶋を見た。「小夜子さんは達哉くんのケーキを待っていました。たぶんそれを支えに今日まで生きてきたんだと思います。だとしたら……あと一日、生きられたかも知れません」
「生きたいという気持ちだけではどうにもならないこともある」
桐嶋は穏やかに首を横に振った。「小夜子は死ぬ前に達哉と会い、幸せな時間を過ごせたんだ。猫も小夜子が死ぬ前に恩を返せた。それで充分だろう」
「……ええ」
「きっと幸せでしたよね、お互いに」
シュラインはようやくわずかに笑みを見せた。「きっと幸せでしたよね、お互いに」 桐嶋は「ああ」と相槌を打って体の後ろに手をつき、半ば脚を投げ出すようにして息をついた。
「悔いはないだろうさ。お互い、もう長くないと分かっていたことだ」
「お互い?」
「あの猫、達哉が生まれた頃から前川家に現れるようになったと言っていただろう? ということは今は恐らく十七歳前後だ。……そろそろ、寿命だろう」
そう呟いて桐嶋は再び空を見上げる。暗い空から絶え間なく落ちてくる白い雪のせいか、遠くにかすむ街の明かりがうっすらとぼやけて見える。
ふと気付くと、グレーの猫が二人の前方数十メートルの所にいつの間にかちょこんと座っていた。
「あんた」
シュラインは思わず腰を浮かせ、猫に歩み寄っていた。「昨日の――」
猫は逃げることなく、シュラインが近付いてもその場にお行儀よく座り続けていた。
<私は、小夜子おばあちゃんに大変よくしてもらいました>
不意に、透き通った女性の声が静かに聞こえてくる。目の前のグレーの薄汚い猫が語りかけているのだと分かった。
<だから何か恩返しをしたいと思っていたのですが……今回のことは、私の力だけではありません>
猫の体からすうっと影のようなものが立ちのぼる。透明な陽炎のようなそれは徐々に形を成し、小夜子の病室に現れた前川達哉の姿へと変貌を遂げた。
<俺、後悔してたんだ>
陽炎の達哉はそう言って涙を流した。<ばあちゃんが俺のこと愛してくれてたって、死んだ後にようやく素直に受け入れられたから……>
「だから、達哉くんが死んだ夜にみんなで食べる予定だったケーキを届けることにしたの? 家族の思い出のケーキを」
シュラインの問いに達哉は泣きじゃくりながら肯いた。
<ばあちゃんが可愛がってた猫のことは知ってたから、一緒に恩返ししようって相談して猫の体を借りたんだ。この猫ももう寿命だったのに、俺のわがままに付き合ってくれた>
猫の体から離れた達哉はその場に膝をつき、猫の首をそっと抱く。猫は気持ちよさそうに達哉の腕の中で目を閉じ、ゴロゴロと喉を鳴らした。
<ケーキのお金のことは申し訳なく思っています>
やがて目を開いた猫が言った。<私たちの力では本物のお金を用意することはできなくて……やむを得ず、幻術の類を使ってお金を準備しました。ケーキ屋さんには本当に申し訳ないことをしました>
「それでケーキは完売したのに売上金が足りなくなったわけだな」
桐嶋は軽く髪の毛に手をやって呟いた。「なに、心配するな。金は俺が立て替えておいてやろう。ケーキ三つ分の金くらい、私費でどうにでもなる」
<ありがとうございます>
猫の目がぎゅっと閉じられ、そしてまた開かれた。濁りかけた眼球の上を濡れた膜がうっすらと覆っていた。
<本当に……ありがとうございました>
猫と達哉の声が重なる。達哉は猫を抱いて立ち上がり、猫は達哉の胸に体を預けて目を閉じた。
一瞬、びゅうと強い風が拭いてシュラインと桐嶋は反射的に目を閉じる。
風がおさまったときには達哉の姿はなく、ただ老いた猫の死骸がその場に横たわっているだけだった。
猫の死体はダンボール箱に入れて恵子に渡し、前川家の庭に埋めてくれるように頼んだ。恵子は最初は戸惑っていたが、事件の真相を話すと快く承諾し、猫を連れて帰ってくれた。
「今度一緒になったら、達哉くんも素直になれるでしょうね」
音もなく雪が舞う夜空を見上げながらシュラインは白い息を吐いた。「猫と、お孫さんと……。愛されていたんですね、小夜子さん」
「ああ。たまにはこういう人情話も悪くない」
葉巻に火をつけた桐嶋が呟く。人情話というあまりにも大雑把なくくり方にシュラインは小さく苦笑したが、いかにも桐嶋らしい物言いではある。
「日付が変わってしまったな。もうイブか」
桐嶋は某海外高級ブランドの腕時計に目を落として息をつく。「今日は事件解決とイブを祝して食事でも……とはいかんな」
シュラインが興信所でクリスマスを過ごすつもりであることを悟っていたのであろう、桐嶋はひとつ肩を揺すって自分の言葉をすぐに撤回した。シュラインも微笑とともに肯く。
「ええ。クリスマスは家族と過ごします」
「だろうな。だが、ケーキはどうする? おまえが予約していたシェトワのケーキは小夜子に渡してしまっただろう」
「仕方ありません。朝になったら洋菓子店を回ってみます」
24日はどこに行ってもデコレーションケーキなんか売り切れているのかも知れませんが、と付け足してシュラインは肩をすくめる。「見つからなければ零ちゃんと一緒に自分でケーキを作ります。そういうのも悪くありませんもの」
「ふむ」
桐嶋は顎に手を当て、ふと思い出したように背広の内ポケットに手を差し込んだ。チェーンのついた財布を開け、中から一枚の紙片を取り出す。
「代わりにこれを持って行け」
と差し出された紙片を受け取ってシュラインは目をぱちくりさせた。シェトワのクリスマスケーキの引換券ではないか。受取日は24日夕方、宛名は桐嶋の名前になっている。
「おまえのケーキが小夜子に渡った分、前川達哉の分のケーキは用無しになってしまっただろう? だから代わりに俺が買い取ったのだが……おまえにやろう。ささやかだが、事件解決の礼代わりだ。代金もすでに払っておいた。去年とおととしの分も含めてな」
「あら。ありがとうございます」
シュラインは心から礼を言って引換券を財布にしまった。その後で「ふふ」と小さく笑み、探るように桐嶋を見やる。
「本当にご自分で召し上がるために買い取ったんですか?」
「どういう意味だ?」
「桐嶋さんはお一人なんでしょう。一人身のかたがあんな大きなケーキを買うでしょうか」
もしかすると、最初から自分への礼としておさえておいてくれたのではなかろうか。そんな気がしてならない。
「フン。うぬぼれるな」
桐嶋は舌打ちしてそっぽを向き、紫煙を吐き出した。「氷吾や耀たちと食べるのも悪くないと思ったまでのことだ」
シュラインは「そうですか」とだけ相槌を打ち、それ以上追及することはしなかった。桐嶋は「興信所まで送ってやる。乗れ」と言ってさっさと一人で歩いて行ってしまう。
(――尊大な態度や不遜な物言いばかり目に付くけど、実は結構可愛い人なのかも知れないわね)
シュラインは内心でそんなことを考え、そっと笑みを漏らして桐嶋の後を追った。 (了)
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
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■ ライター通信 ■
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シュライン・エマ様
お世話になっております、宮本ぽちです。
調査依頼に続いてのご注文、まことにありがとうございました。
ご自分のケーキを達哉と小夜子のために提供してくれたエマ様のお気持ちにじんと来ました。
恐らく、興信所で皆で食べるために予約しておいたケーキだったのでしょうね…感謝しております。
もしまた二係にお力を貸してくださることがあったら嬉しいです。
前年に引き続き今年もお会いする機会に恵まれ、大変光栄に思っております。
来年の予定は不透明ですが、またいつかどこかでお会いできました折はよろしくお願いいたします。
宮本ぽち 拝
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