■その日の黒猫亭■
蒼井敬 |
【6777】【ヴィルア・ラグーン】【運び屋】 |
小さく軋んだ音を立てて扉を開く。
店内を見れば、客の姿はふたりだけ。
肝心の主さえも見当たらない。
ひとりはテーブルに積まれた本を読み続け、誰かが入ってきたことにも気付いていない。
そしてもうひとりは、こちらに気付いてちらと目配せをしてきたが自分から口を開く気がないようだ。
こちらの出方を伺っているのだろう、口元には微かに笑みが浮かんでいる。
やぁ、いらっしゃい。
そんな声が聞こえた気がした。
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その日の黒猫亭
1.
ヴィルアの元にその手紙が届いたのは、昨日のことだった。
『黒猫亭で待つ』
封を見ると、差出人の名がきちんと載っていた。
「今度はきちんと名乗ったわけか」
この前の手紙では、相手は用件だけを告げ、名も書いていなかったことをヴィルアが指摘したことをどうやってかは知らないが聞いてのことだろう。
差出人とはさして面識はない。とある出来事を調べていたときに出会った程度だ。
だが、面白い奴だとは思っていたので、誘いを無下に断る理由もなかった。
いつ来いとは書いていないが、いつでもいる、もしくは相手がいる時間にそこへ辿り着けるようにどうせなっている寸法なのだろう。
黒猫亭という名にヴィルアは心当たりがないし、場所も勿論知らないが、何処へ行けば良いかはわかっていた。
ヴィルアが向かったのは夜の繁華街、そこから少し外れた途端、人の気配が一気に薄くなる。
同じ街なのかと思うほど静けさのほうが勝っている場所をもう少し先に進む。
そこに、見覚えのある通りがあった。
先日の事件まで、あることも知らなかった──本当に実在しているのかも疑わしい通りだ。
そこへ、ヴィルアは躊躇いなく入っていく。
馴染みの店へ行く近道として使っていると、招待主は言っていた。
何処にでも通じていて、何処にも通じていないとも。
望もうと望まぬとも、通りに入った者が行くべき場所へと連れて行ってくれる道。
だが、ヴィルアなら何処へでも望みの場所へ行けると、招待主は意地の悪そうな笑みを浮かべて言っていたものだ。
ならば、この道を通れば、招待主の待つ店へと行けるはずだ。
(さて、連れて行ってもらおうか)
招待主の名と黒猫亭という名を通りに告げるように頭に浮かべて歩を進める。
通りは一本道だ。分岐点はない。
歩いている間、今日は他の者と出会うことはなかった。
仮に出会ったところでヴィルアには関係のない者たちしかいなかったのだろうけれど。
数分、いや十数分ほど歩いただろうか。
ふと、視界の先にいつの間にかぼんやりと淡い明かりが窓から漏れている少々古びた店が姿を現していた。
その店の周囲には何も見えないが、空き地という意味ではない。
店だけが、闇の中ぼんやりと浮かんでいるような印象を覚えたのは、通ってきた道の所為もあるのかもしれない。
店先には、年代を感じさせる看板が掲げられていた。
右から左へ書かれたそれは『黒猫亭』とある。
どうやら、きちんと目的地に着いたらしい。
軋んだ音を出す扉を開く。
「──やぁ、いらっしゃい」
ヴィルアが呼び出した相手を探す前に、ほの暗い明かりだけが灯った小さな店の隅カウンターに溶け込むように座っていた男──黒川と名乗っていた招待主がそう笑いながら声をかけてきた。
2.
「人の名を聞いておいて自分がまだだったのでな、お前が興味なかろうと名乗らせてもらう」
黒川の顔と声を認めてから、木製のカウンターへと腰をかける前に、ヴィルアはそう言ってから自分の名を告げた。
考えれば自分は黒川へ名乗っていなかったということに気付いたからなのだが、聞いてことなかったということは興味がなかったのだろう。
「これは丁寧に」
それでも一応黒川は軽く会釈程度には礼をして見せた。しかし、やはりその態度に誠実さなどというものは欠片も見受けられないのだが。
「改めて、黒川──黒川夢人だ。まぁ、呼び方はなんでも構わないのでね、好きに呼んでもらえれば構わない」
形式的な挨拶はそれで済んだ。
何か飲むかと聞いてきた黒川の手にはすでに琥珀色の液体が注がれたグラスがあったが、店の主らしい者の姿は見当たらない。
というよりも、ヴィルアが訪れるまでこの店には黒川の姿しかなかったのだ。
「マスターは目下、留守なのさ」
「で、主がいないことを良いことに居座っているわけか」
同じくカウンターに座ったヴィルアの言葉に黒川はくつりと笑ってグラスを置くと、わざとらしく紳士的な振る舞いでカウンターの内側に立ってみせる。
「お望みなら、何か作ることもできますが?」
「客商売をしたかったら、まずその顔をやめることだな」
口調こそ丁寧に改めていたが、黒川の顔には相変わらず人を馬鹿にしたようなからかっているような笑みが浮かんでいる。
気分を害しはしないが、そうヴィルアが言うと黒川は軽く肩を竦めた。
「では、やめよう。何を飲むかね? マスターがいればなかなかユニークなものも飲めるのだが。まぁ、これが手頃だろうね」
そう言いながらひとつの瓶を持ってきてまた席へと戻ってくる。
「それは?」
「この店の名の由来となっている酒さ。といっても、ただのジンだがね」
戻ってくるときに持って来たらしい新しいグラスに黒川は瓶の中身を注いだ。
ただのジンの割には淡い光の加減で色が微妙に変わっているそれを、ヴィルアは軽く口にした。
「悪くはない」
「それは何より」
そう言ってまた黒川は自分もそれを飲みだした。
「ただ酒を飲むために私を呼んだわけではあるまい?」
なかなか用件を切り出さない黒川に、ヴィルアもグラスを傾けながらそう尋ねると、返ってきたのは相変わらず何処かからかっているような笑みだった。
「飲むためさ。そして、良い酒にはそれに合う肴があればなお美味くなるものだろう?」
くつくつと笑っている黒川の言葉にも、別段不快なものは思わない。
黒川がヴィルアから聞きたがっている話は人の死が絡んでいるものだが、それを酒の肴にすることを不謹慎だとはヴィルアもさほど考えない。
「で、詳細とはどの辺りから聞きたいのだ?」
「そうだね。では、キミがあの事件に関わったきっかけから始めてもらおうか」
「よかろう」
そう言って、ヴィルアもグラスの中身を味わいながら(畏まって話すような雰囲気でも相手でもなかったからだが)語り始めた。
3.
黒川がヴィルアから聞こうとしている話は、先日草間興信所へ訪れていたときに偶然関わることとなり、そのまま結末までを見届けることになった事件についてだった。
その事件には歌が絡んでいた。歌と、女と、そしてそうなれば無論付いてくる男の絡んでくる話。
「歌が聞こえたのが先かね? それとも彼女の姿を認めたときからかな?」
「同時だな。男がやって来たときにはすでに歌声は聞こえていたし、彼女の姿も見えていた」
「しかし、その草間氏というのは、なかなかにユニークな人物だね」
怪奇現象に関する依頼に頭を悩ませている草間の姿でも思い浮かべたのか、そんな茶々を入れて黒川はくつくつと笑った。
「話の続きを聞く気はないのか?」
「無論、あるさ」
「あのふたりの姿は、見たのだったな?」
その言葉に黒川は頷いた。
「あぁ。そしてキミに会えたわけだから、まぁあの男には感謝をしよう」
その言葉は無視してヴィルアはそこから先のことを続けた。
男の結末、歌姫の最後の歌。
事件背景というものは興味がないのだろう黒川は尋ねてこなかったし、ヴィルアも聞かれたこと以外はわざわざ答える気がなかったので話すつもりはなかった。
男の死に様を聞いても、黒川は小さく拍手をして「それはまた、荒っぽい真似をしたものだ」と言った程度だった。
「優雅さが少々欠けてはいるが、あの男の最期としては妥当だろうね」
男に対してはヴィルア同様黒川も興味がないらしい。
あくまで興味があるのは歌姫、復讐を果たした女(正確には、その歌にだけなのだが)にだけなのだろう。
「最後の歌を、キミはどう感じた?」
これは草間にも問われたことであり、ヴィルアの答えも同じものだった。
復讐のためではない彼女の歌を聞きたいと思うだけのものを、彼女は備えていた。
それを聞くことができないということは惜しいと感じたものだ。
ヴィルアがこの事件について話せるのはこれだけだった。
黒川のほうを見れば、満足そうに「成程」と呟いてまたグラスに口をつけている。
本当にヴィルアの話を肴にこの男は酒を飲んでいたのだが、何杯もグラスを重ねているはずなのにカウンターには空のグラスはひとつもないし、常に誰かが拭いているように汚れもしていない。
「随分と楽しんでもらえたようだな」
「それは勿論。聞けるものなら最後の歌を僕自身が聞きたかったものだね」
さぞかしこの店で歌ってもらえたなら場に馴染んだものをという言葉には、僅かだが本音が入っていたようにも聞こえた。
「聞きたいことはそれだけか?」
「そうだね、キミ自身のことを聞くのも悪くはないかもしれないが、いまはやめておこう」
「興味のあることはなんでも聞くように思えたが?」
「一気に何もかもを聞いてしまえばつまらないだろう?」
それならばヴィルアが此処に呼ばれた用事は済んだことになる。
「なかなか、良い店だな」
グラスを置いて、ヴィルアはそう言った。
黒川に対してというよりは、この店自体に言ったという話し方だ。
同時にそれは、暇を告げる挨拶でもあった。
「また、機会があれば来ることにしよう」
その言葉に黒川は引き止める気は無論なく、見送るつもりもないらしくヴィルアが店に入ってきたときと同じようにグラスを片手に笑みを浮かべているだけだった。
「今日は楽しませてもらえたよ、ありがとう。代金は僕が払っておく。ささやかな礼だ」
「この店は、いつでもやっているのか?」
「来たい者がいるときは必ず開く。マスターの方針でね」
その割に当のマスターは不在というのだからおかしな話だ。
「では、良い夜を」
その言葉を受けて、ヴィルアは店から外へ出た。
4.
ヴィルアが立っていたのは、繁華街の外れ──あの通りに入る少し前までいた場所だった。
だが、振り返ってもあの通りは見当たらない。
どうやら、いまヴィルアが使う必要がないためか、通りは姿を消してしまっていたようだ。
時計を見れば、夜更けに近い。
ふと、ポケットの中に違和感を覚えて中を探ってみると、いつの間にか小さなマッチ箱がそこには入っていた。
控えめに書かれた『黒猫亭』という文字と、小さな黒猫のイラストがあるだけの、何処にでもあるマッチだ。
裏を返せば、どうやらこれが『本来の』行き方なのだろう簡単な地図が載せられていた。
だが、この地図通り歩くよりもあの通りを利用した方が黒川の言葉ではないが近道ではあるようだ。
扱っている酒はなかなか良いものだった。ほとんどあそこへ居座っているのではないかと思うような黒川に対してもヴィルアは面白い奴だと好印象を持っている。
もっとも、ああいう手合いはあまり好かれることは少ないのだろうけれども、ヴィルアから見ればああいうものは付き合うにはなかなか面白い。
たまに行くには良い店を教えてもらえたようだった。
「また、手頃な肴ができたときにでも行ってやるか」
そう呟きながら、ヴィルアは街の中へと消えていった。
了
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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6777 / ヴィルア・ラグーン / 28歳 / 女性 / 運び屋
NPC / 黒川夢人
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■ ライター通信 ■
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ヴィルア・ラグーン様
2度目のご依頼、しかも前回の後日談とのこと、誠にありがとうございます。
黒川との会話とのことでしたので、灰原はいない夜の黒猫亭が舞台とさせていただきました。
初対面時より敬語を使用しなかったことがヴィルア様のイメージを損なっていなかったものか不安でしたが、そのままの口調を継続でということにしていただきありがとうございました。
前回の話をすることを軸に、黒猫亭でのやり取りもこちらである程度作らせていただきました。
お気に召していただけましたら幸いです。
またご縁がありましたときはよろしくお願いいたします。
蒼井敬 拝
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