■D−ZONE■
青木ゆず |
【6684】【水谷・美咲】【小学生】 |
誰もいない店内に、ラップ音が響き渡る。奇麗に積み重ねた皿が一枚、勝手に宙を飛び、派手に音を立てて割れる。
「いつものことですね」
と、裕一郎は呟き、割れた皿を片付けようとした。
その時だった。
ふっと周囲が真っ暗になり、重苦しい雰囲気が漂い始める。
嫌な予感がした。
こんなこともあろうかと、裕一郎は胸ポケットに常備している小型ペンライトをつけ、周囲を照らした。
両脇にあるのは灰色の壁だった。灰色の廊下がどこまでも続いている。どこかのコンクリートの迷路に迷い込んだようだ。
悪質ないたずらか、それともなにか意味があるのか。
「恐らく、数多の幽霊の一人がここに私を呼び込んだのでしょう」
裕一郎は溜息をつく。喫茶店に住み着いている幽霊の誰か。いつもは姐御が抑えてくれているのに、こんなことは数十年ぶりだった。
冷静にライトを当てながら視線を駆け巡らせると、裕一郎の真後ろの壁に黒く、大きな文字が書かれていた。
A
ふっと裕一郎は笑う。
「始まりの宴ですか……。無事に帰れますかね」
まあ気長にいきますか、と滅多に吸うことのない煙草を一本取り出し、裕一郎はふかし始めた。
|
「D−ZONE」
■序章■
喫茶店の扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んできた。これまでの喧騒も街の明りも一切のものが消え、目の前には巨大な暗闇が立ちはだかっている。水谷・美咲は立ち止まり、首を傾げた。
「喫茶店の扉開けたはずなんだけど、なんでこんなに暗いの……?」
ああ……なんかいるんだね、ここ。なにも見えない暗闇の中で、美咲は口癖のように呟く。
いつも不思議現象に巻き込まれているから慣れている。しかし小学校からずっと寄り道をしてきて、最後に足を運んだ店に異空間があるとは思いもよらなかった。外は蒸し暑く、日が暮れる時間だ。アイスが好きで散々食べ歩いてきたが、少しお腹もすいている。
面倒なことは避けたい。帰ろうと思って扉を探るが、そこにはなにもなく、空気を掴んでしまった。暗闇の中でも当たり前のように普段見えているものが、なぜか全く見えなくなっている。力が制御されているようだ。ということは、身近にいる幽霊に訊ねて助言をもらうこともできない。
「どうしよう」
立ち往生していると、不意に仄かな灯りが美咲の視界に入った。その方向に視線を向ける。うっすらと人影が見えた。
「人がいる……」
美咲は灯りに向かって走り出した。
*
「あれ……何ね、ここ。確か喫茶店入ろうとしたとこ……?」
眠たげな表情で、平泉・雪華は前後左右を見渡した。突然我が身に起こった出来事に、しばらくなにが起きたのか理解ができずにいる。
数秒前、香ばしい匂いに惹かれて雪華は確かに寂れた喫茶店のドアを開けたはずだった。なのにそこにはありふれた喫茶店の光景はなく、ただ無限の闇が続くばかりだ。
気味が悪い。後退り、戻ろうとした。取っ手のあったはずの場所に、固いコンクリートの感触が返ってくる。壁伝いに数歩歩き、何度か軽く叩いてみる。無機質な反応しか戻ってこない。
「妙なことになっとる……」
少しだけ不安になりながら、雪華は己に憑いている狐を呼び出そうとした。
呼び出す感覚はいつも通りだ。しかし、反応がない。全くない。
「……何で力が使えへんの……」
雪華は眉をしかめ、澄んだ柘榴の瞳で闇を見つめた。なにも見えないのに、閉塞感が肌に染みてくる。
「ここが原因か」
呟いた時、どこからか話し声が聞こえてきた。
「どなたはんかおるん?」
雪華の問に、微かだが反応が返ってくる。声の方向を頼りに手探りに歩くと、薄暗い灯りの中に煙草をふかしている男性と制服姿の女の子の姿が見えた。
*
時折通り過ぎて行く人々が、藤田・あやこを振り返る。
あやこの制服のスカートはコギャルのように短い。それでも足首から太ももにかけてのラインは艶っぽく、誰もが一目惚れしそうな美脚だ。あやこは全く気にしていない様子で歩いている。一見女子高生に見えるが、これから大学の夜間部に行く予定だった。
今にも雨が降り出しそうな天気だ。じっとりとした湿度があやこの肌にまとわりついてくる。
「暑いわね」
冷たいものが飲みたかった。腕時計を見ると、まだ講義が始まるまでには時間がありそうだ。肩にかかる髪を振り払い一休みしようと、喫茶店を物色する。缶ジュースでもよかったが、喫茶店のほうが素敵な出会いがあるかもしれないなどと考えてみる。もちろん、男との出会いだ。
大通りから一本それると、ひっそりと佇む喫茶店が目に飛び込んできた。
「ああいうところのほうが、穴場だったりするのよ、よし!」
持ち前のパワフルさで一気に喫茶店に向かって突進する。勢いあまって体が扉にぶつかりそうになったが、物体の感触はなく、あやこはすり抜けるように突如闇の中に放り出された。直後に固いものに全身を打ち付けられる。
「いたたっ」
転んだようだ。上半身を起こして辺りを見回すと、男性の声が降り注いできた。
「大丈夫ですか」
他に二人、微かな灯りの中で、不安そうな表情をしている人がいる。
起き上がり、あやこは冷静に事態を察知した。
*
「あらら」
シュライン・エマは切れ長の目を細めた。仕事帰りに立ち寄ろうとした喫茶店。ドアに手をかけた瞬間、闇が襲った。
「色々と不思議なことに出会うけれど、これはまた妙な御呼ばれね」
腕を組み、五感を研ぎ澄ませて冷静に辺りを観察する。持物も一緒に呼ばれたようだ。鞄の中身を確認するが、欠けているものはなにもなかった。
どこからか男性と女性の入り混じった話し声が聞こえてくる。煙草の臭いがシュラインの鼻孔をくすぐった。ちらり、と遠くのほうで僅かな灯りも見える。ペンライトだろうか。混じり合っている声に特に悪意は感じないが、敵か味方かすぐに判断できない為、シュラインは様子を伺うつもりで静かに傍に歩み寄った。
女の子が一人、女性が二人、男性が一人。表情から見て、どうやらシュラインと同じく巻き込まれた人々らしい。煙草を吸っているのは男性だ。
「あ。また人だ」
女の子がシュラインに気づき、指差した。ペンライトの灯りがシュラインに照らされる。
「おや、あなたも巻き込まれたようですね」
男性の穏やかな声が聞こえてきた。とりあえず仲間だ、とシュラインは悟る。単独行動よりも、一緒に行動して手を貸したほうがいいかもしれない。
「丁度調査の帰りでペンライト等は私も出せるわ」
シュラインは鞄の中からペンライトを取り出し、4人の輪の中にすっと入っていった。
*
「もう誰もいらっしゃらないようですね」
裕一郎は確認するような表情で言い、ペンライトを四方に照らす。
「10分経ったけど誰も来ないわ」
「せやな」
あやこの腕時計を、雪華が覗き込んでいる。誰も来る気配がない。裕一郎は頷いた。予め自己紹介と自分の経営する喫茶店に幽霊が住み着き、悪質な悪戯でもしているのかもしれないということを全員に伝えてある。
「まさか人が来るとは思っていませんでした。どうもすみません、巻き込んでしまったようで」
裕一郎は溜息をつき、もう何本吸ったかわからない煙草の煙を吐き出す。ライトの灯りに紫煙が浮かび上り、ゆっくりと消えていく。周囲は煙草の臭いで満ち溢れていた。
「店主さん、一応密閉空間摸してそうだし、煙草はゴールの後に楽しみません? ここには小さい子もいることだし。私は吸わないけれど……」
シュラインは膝を抱えて座り込んで居る美咲を見て笑い、すかさず鞄から携帯灰皿を取り出した。恐れ入ります、と裕一郎は差し出された灰皿に短くなった煙草を入れた。
「大人の仕草だね」
美咲が明るい声を出す。緊張していた空気が一気に緩んだ。
「壁の上登れたら全体の印象も見れそうだけれど……」
シュラインはペンライトを動かし、Aというアルファベットを見つめ、次に天井を見上げた。天井にも灰色のコンクリートが続いている。抜け道や換気口らしきものは見当たらず、空間は完全に塞がれていた。
「幽霊さんの特殊空間なら難しそうかしらね。起こる現象や壁の状態、上空や床の進行による変化等から、この迷路の主催者の嗜好や意図、人物像掴めないか冷静に観察し、臨機応変に対応して行くしかないかな」
物腰静かに言うシュラインに、皆賛同する。
「こうゆうとこでは落ち着くのが一番やな。ちょっぴり不安やけど、みんなおるしなんとかなる」
雪華に反応するように美咲が立ち上がる。制服のスカートを両手ではたいて拳を作り、親指を立てた。
「よし! なにが起こるかわからないけど、まあ進まなきゃ出られないみたいだし。とにかく行こ」
元気に歩く美咲に釣られるように、4人も歩き始める。コンクリートの中に靴音だけが、静かに響き渡っていた。
■A−ZONE■
冷たい空気が、暑さに溜め込んだ身体の熱を冷ましてくれる。
美咲は両手を広げながら平衡感覚を保つようにして歩いていた。いつも見えているものが見えないのもなんだか不思議だ。見えないとすっきりすると思う反面、ちょっとつまらないような気もする。本来こういうところなら、美咲にはたくさん見えるはずだった。
暗闇に目が慣れてくる。直線が続く。ひとつのペンライトの丸い灯りが、美咲の行く先を背後から照らしてくれる。裕一郎が予備にひとつ消しておきましょうと言って、今はシュラインのペンライトを使っていた。
「Aときたら次はBが見える場所へ行けってことかしら?」
後ろから話すシュラインの言葉に、あっそうか、と美咲は思う。よくあることだからすっかり忘れていた。自分はAという道を歩いているんだった。
「Zまであるのかなあ」
ふと出た疑問を美咲は口にする。
「Dまでしかないと思います」
裕一郎の言葉に、「根拠は?」とあやこが訊く。
「私の経験ですかね。Dはアルファベットの四番目の文字です。よん。し。つまり死の意味を表すんじゃないかと。我々が死ぬのか、この迷路の主催者が死んだのかわかりませんが」
「きっしょいこと喋るなあ」
雪華の声が響き渡る。確かに気持ちが悪い。美咲が振り返ると、裕一郎は何かを思い出すように遠くを見つめ、しみじみと語り始めた。
「50年くらい前ですか……あの時は「いろはに」の4つの森を3ヶ月彷徨いました。脱水症状になって死にかけました。70年前は数字の4まで書かれた木造の屋敷を延々と歩いていました……」
「あんたいくつや。20歳くらいにしか見えへんで」
裕一郎は雪華の問には答えず、笑ったまま「懐かしいですねえ」とだけ呟いた。あからさまに年齢を隠している様子だ。
「彷徨い込んだ理由はわかったの?」
シュラインが裕一郎を見つめる。
裕一郎はライターを取り出した。着火音。ライターの先端に小さく燃え上がった炎がゆらゆらと揺らめいている。
「完全に幽霊が仕掛けた罠です。で、過去2回の経験から思ったわけです。木造なら燃やしちゃえばいいと」
全員の冷めた視線が裕一郎に集中する。
ただ一人、裕一郎が相当なジジイであることにショックを隠しきれない様子のあやこが、遠い目をして裕一郎を見つめていた。
「冗談ですよ。ただ言語より、数字に強い意味を感じますね」
裕一郎はスーツの内ポケットにライターをしまう。
美咲は裕一郎の袖を引っ張り指差した。最初の分岐点。道は右、左、真ん中に分かれている。
「美咲さんはどちらへ行きたいですか」
裕一郎に言われて美咲は考える。霊感が働かないから考えるしかない。しかし考えてもわからない。
「こっち」
右を指差す。
「どうしてそっちへ行こうと思ったの?」
シュラインが口紅でマークをつけながら質問をしてくる。
「うーん、直感!」
言って美咲は駆け出した。美咲が走っても、大人4人の足ならすぐに追いつくから、はぐれる心配はないと思った。様々な分岐点を直感で進む。ペンライトがちゃんと行き先を照らしてくれる。安心だ。
不意に、美咲の耳に高く澄んだ音色が聞こえてきた。リーンという風鈴に似た、涼しげな音だ。美咲は立ち止まり、辺りを見回した。
風はどこからも吹いて来ない。歩みを進める。歩いても歩いても、暗闇の中からその音が聞こえて来る。何度も振り返る美咲に、あやこが問いかけた。
「どうしたの?」
「あの、さっきから風鈴みたいな音が聞こえるんですけど……たぶん風鈴」
一同は顔を見合わせる。
「なんも聞こえへんで?」
みんなには聞こえていないようだった。美咲は首を傾げた。自分にだけ聞こえる。いつもの能力が働いているのだろうかと思う。でも能力は封じられているはずだ。
歩き出す。音はやまない。ふと、美咲のうちに不安が湧いた。
みんなに言ってみる。励ましてくれた。自分が幼いから、大人達は優しい言葉をかけてくれるのかもしれないと思う。しかし自分だけ風鈴の音が聞こえることが不安なわけでも、この空間にいることが怖いわけでもない。
気持ちが変だ。胸の中がもやもやしている。不安を振り払い突き進んで行くと、やがてBと書かれた扉が見えて来た。
扉を直前に、美咲の動きが止まる。力が抜けたように美咲の表情が突然虚ろになる。その様子に一同は目を瞠った。
「……殺される」
美咲が呟く。一瞬場の空気が固まった。美咲はすぐにもとの表情に戻り、不思議そうな顔でみんなを見つめる。
「あれ……私今なにか言いました?」
「『殺される』って。自分で言ったこと気づいてないのね?」
シュラインが確認する様子で訊いてくる。美咲は頷いた。どうやら無意識に言っていたらしい。
「うーん、よくわからないけど生きて帰れるでしょ。アイス食べたいし」
美咲はそう言ってBの扉に向かって走り出す。
その根拠のない自信はどこから来るんだ、という空気が満ちたが、誰もなにも言わなかった。
一足早くBの扉についた美咲は、笑いながらみんなに手を振る。雪華が美咲に反応し、手を振り返した。
「しゃあない、とりあえずこないな気味悪いとこから出やな!」
Bの道を進もう。気力を振り絞り、雪華は美咲の後を追った。
■B−ZONE■
空気が張り詰めている。ぴりぴりとした緊張感が肌に伝わる。Aの迷路を歩いていた時はもう少し緩やかな雰囲気が流れていたような気がする。
雪華は一同を見渡した。みんなも同じことを感じている様子だ。息を呑んで気力を振り絞り、左手を壁に当てて歩き始める。
Bの扉を開けてから最初の角を曲がったとき、リーンという音色が響いてきた。美咲の言っていた風鈴のことだろうか。音は雪華の心に純粋に染み込んでくる。
「ほんまや、風鈴の音が聞こえる」
「私にはなにも聞こえませんが……」
裕一郎が言う。美咲に目をやると、首を傾げていた。美咲に風鈴の音は聞こえなくなっているようだ。あやこもシュラインも、聞こえないという。
気のせいやろか、と思い耳を澄ます。微かだが、風の音も混じっている気がする。でもコンクリートの中に風は吹かない。
どれだけ歩いても、襲ってくるものはなにもない。あるのは風鈴の音色と靴音と闇だけだ。雪華は思い切って瞳を閉じた。左手を頼りに暗闇の中に身を委ねてみる。
アメリカから帰国したばかりの身に、日本の繊細な音色は小気味がいい。左手から伝わるコンクリートの冷たさは、どこか気持ちがよかった。緊張はあるが瞳を閉じていれば恐怖は全く感じられず、むしろ心地よい場所にいるような気さえしてくる。
そや、楽しいこと考えよ。雪華は心の中で呟いた。
日本でやりたいことや行ってみたいところを考える。風鈴の和の響きに触発される。本格的な夏が来たら、祭りへ行きたい。太陽が西に影を落とす時間帯に立ち並ぶ屋台を想像する。屋台ならではの食べ物の匂い。宵闇に活気づき、群がる人々。笑顔が笑顔を呼んで、はしゃぎまわる子供たち。
「楽しいで〜」
妙な声が周囲にこだまする。
後ろ姿に独特な雰囲気を漂わせ完全に我が道を行っている雪華に、誰も口を挟めるものはいない。沈黙の漂うコンクリートの中で、雪華は我に返って瞳を開けた。
「あかん、場違いやった」
誰にも聞こえない程度の小さな声で呟き、肩をすくめる。
「雪華さん、なにを考えていらっしゃったんですか」
裕一郎がそっと訊ねる。
「うち、アメリカから帰国したばかりそやさかいに、日本でやりたいこと考えとった」
「コスプレとか」
「抹茶アイス食べるとか!」
それぞれ自分の趣味を言ってくるあやこと美咲に内心ちゃうねん、と突っ込みながら、雪華は苦笑した。
「あら」
シュラインが立ち止まり、曲がり角を見つめた。
「ここさっき通ったところだわ」
照らされたペンライトに、シュラインのつけた赤い口紅が光る。左手法でループしてしまったようだ。
「何ね、壁際に出口あらへんかった……」
雪華は落胆して、コンクリートにつけていた左手を離した。ドンマイ、と美咲が肩を叩いて雪華に微笑む。
「行ってないところを探してみましょう」
理性派のシュラインとあやこが相談して、道を割り出している。
二人を見つめながら、祭りのことを雪華は頭からかき消した。風鈴の音色はそのままに、現実は閉塞的なコンクリートの道がどこまでも続くだけだ。この道を作った者の正体も意図もまるで見えない。力も使えない。眉間にしわを寄せ、雪華は考える。
ほんまに出られるんやろか。誰が、なんのためにこの空間を作り出したんやろ。店主はんはここを作り出した張本人は幽霊言うてたけど、うちらに伝えたいことでもあるんやろか。
「何の用でうちを呼ばはったんや、うちには何も出来へんで? 特にここにおる以上は」
雪華は宙に向かって叫んだ。静寂が辺りを包み、雪華の声だけが虚しく響く。
シュラインとあやこが探り当てた道に雪華を招いた。
とにかく脱出せな。なんとしても帰らなあかん。仕事も友達も待っとる。
雪華は決意を固めるように胸に拳を当て、まだ行っていなかった道に入り込む。暗闇が続くと、雪華の心もそれに比例するようにだんだん暗くなってくる。きっと周りにいるみんなも同じ気持ちだろう。
不意に、風鈴の音に混じって、ひたひたという音が雪華の背後から聞こえてきた。誰かが裸足で歩いているような足音だった。
立ち止まり、雪華は振り返った。
誰もいない。一瞬美咲かと思ったが、美咲は雪華の隣にいる。
あどけない小さな足音が、後ろから静かについてくる。
ひたひた。ぴりぴりとした空気の中を、ひたひた。立ち止まってみる。音が止む。歩き出すとまた音が鳴る。一定の距離を保って、足音がついて来る。
子供やろか。雪華は思う。足音には敵意も悪意もまるで感じられなかった。
雪華の動きに従って動く小さな音に、暗くなった心が少しだけ晴れる。
「かわええなあ」
雪華は呟き、微笑んだ。裕一郎が不思議そうな顔をして見つめてきた。
「どうしたんですか」
「なんかついて来るねん。足音聞こえへんの?」
「足音?」
裕一郎が振り返る。釣られて一同が振り返る。
「なにも聞こえませんが」
「またうちだけ!?」
びっくりして叫ぶ雪華の耳に、足音が迫ってくる。身構えるが、なにも見えない。足音はすっと雪華の横を通り過ぎ、やがて遠くなっていく。
「あ、待ってや」
雪華は足音を追って駆け出した。導かれるように突き進むと、やがてCの扉が見えてきた。足音はその中に消えていき、静かになった。代わりに一際風鈴の音が大きくなる。
ふと雪華の頭の中に、和風造りの家の縁側に背中を丸めて座った子供と、その斜め上の軒下に吊るされた風鈴のシルエットが流れ込んできた。
見えるのは、黒い影だけ。まるで断片的な映像を見ているようだ。風鈴が風に煽られ、軒下から落ちる。数秒してそのシルエットは霧散した。ガラスの割れる音が雪華の耳に響く。
「なんや、今の……」
風鈴の音がやむ。きっとまた、雪華にだけ見え、聞こえたものだろう。妙な寂莫感が雪華の胸のうちに押し寄せてくる。
足音の子供と、シルエットの子供は同一人物だろうか。同一人物だと考えて、足音が自由にCの扉に消えていったことを思えば、あの子供はこのコンクリートの中を知り尽くしていることになる。
「この迷路の首謀者やろか」
でも、雪華達に危害を加えようとする気配は一切ない。無害なのかもしれないと、雪華は思う。誰かに伝えたくて、周りを見る。裕一郎とシュラインは各自ペンライトをつけてコンクリートの強度をはかったり叩いたりしている。美咲とあやこの姿がない。
見るといつの間に進んでいたのか、Cの扉の前で美咲とあやこが会話をしていた。
「……認知可能な現象は科学の範疇よ」
「うん」
「何故なら私達の五感は物理的な手段に依存しているから」
「うん」
「コンクリ、石灰岩は歪むと圧電効果といって電磁波を発生するの」
「…………」
美咲の顔がだんだん雲っていく。そういえばあやこは量子力学を専攻しているとか言っていた。
「またレコード同様に電磁気を歪みとして記憶する事もできるの。恐らくこのトンネルは人間の脳波を……」
なんや、ようわからんけど難しい話しとる。雪華は二人の様子を見ながら思った。美咲は真剣にあやこの服と顔を見比べている。
「えーと、その制服とあやこさんの美貌とあやこさんの口から出る言葉がミスマッチなのがすごく不思議です」
二人の間に沈黙が流れる。理系で悪かったわね! と言わんばかりの表情であやこは素早く美咲を自分の後ろに回した。
「用件があるなら言いなさい!」
あやこはCの文字に叫ぶ。その声に一同が振り返る。返事はない。誰にも、なにも聞こえないようだった。
「じゃあ衝撃を与えて再生するしかないわね!」
あやこは短いスカートの中から見えるものも気にせずに太股をたくし上げる。
裕一郎だけがさりげなく目を伏せていた。あやこが取り出したものがライトに照らされ、鈍く光る。雪華の視界にそれが飛び込んできた。拳銃だ。あやこは既に構えの体勢に入っている。
「あかんっ!」
雪華は思わず止めに入ろうとした。こっちから衝撃を与えたらあかん。この迷路の首謀者はきっとうちらに危害を加えようとしているわけではないんや――雪華の言葉は銃の音にかき消された。
■C−ZONE■
何者かの悲鳴が全員の耳に響き渡る。
能力が封じられている中で、あやこの放った弾丸だけが質量を伴ってコンクリートに当たる。命中率は最強だ。
「さあ、行くわよ!」
あやこはナイフと銃を握り締め先陣を切った。
「パワフルな方ですね」
裕一郎はぽつりと呟いた。
Cの扉を開けると、ずっしりとした重たい空気が闇を包み込んでいた。
――僕をそっとしておいて。
あやこの耳に、優しく弱々しい声が飛び込んでくる。応えるようにあやこは叫んだ。
「じゃあ、なんで私達をここへ呼んだの!?」
あやこは銃を天井に向かって連発させた。
「生かして還すつもりなんでしょ? 希望を叶えて欲しいから呼んだんでしょ? 私はこれから講義だったのよ。あなたに付き合えるほど暇じゃないわ!」
声はそれきり聞こえてこなかった。あやこの心に、負の感情が湧く。内心声の主に脅しをかけていた。ここから出られたら、能力を使ってやるわ。人の不幸を願うと成就するという能力を。幽霊というものが本当に存在するのなら、そしてもしそれが通用するのであれば――死んでからもなお打ちのめされればいい。
「あやこさん」
銃を構えるあやこを、シュラインがそっと制した。
「銃はやめましょ? ここは密閉されてるし、みんな驚くわ」
我に返ってみんなの顔を見る。みんな憂鬱そうな表情で黙っていた。闇を貫いた轟音。そして悲鳴の直後の銃声。他の同行者にはストレスになるかもしれない。
「……わかったわ」
頭に手を置き、目を閉じた。少し錯乱していたような気がする。あやこは落ち着こうと一呼吸置き、銃を閉まった。あやこが冷静になるタイミングを見て、裕一郎が訊ねてくる。
「なにか聞こえたんですね?」
あやこは頷いた。身体にまとわりつく空気が、鉛を背負っているようにひどく重い。
「どんな声でなんと言ったんです? 私達には聞こえませんでした」
「子供の声だったわ。多分男の子。『そっとしておいて』と」
手短に要点をまとめる。子供、という言葉に雪華が反応した。シルエットのことを話す。
「子供……ですか」
裕一郎は真剣な表情で考え込んでいた。あやこは問いかける。
「なにか思い当たることでもあるの? その喫茶店に住み着いている幽霊っていうのに子供は?」
「さあ、把握していないので全く覚えていません」
スマイルで言う裕一郎に、一同はがくっとうなだれそうになる。
「ただ何日か前、男の子が一人でふらっと私の店に入ってきましたね。美咲さんと同じ、7、8歳くらいでしょうか」
「様子は?」シュラインが訊く。
「特に変わったところもなく、落ち着いていましたね。彼はホットココアを頼んだのですが、飲み終えたあと暑そうにしていたので、サービスで冷茶をご馳走しました」
渋い……。アイスティーとかジュースならともかく、子供に冷茶かよ! 突っ込みの視線が裕一郎に注がれている。
「おいしそうに飲んでいましたね」
裕一郎は周囲の視線を気にしていない様子で楽しそうに笑う。
「で、死んだんやろか、その子」
雪華の問に、シュラインは首を振り、鞄からメモ帳を取り出した。シュラインのつけていたペンライトの灯りが弱くなっている。
「詳しく調査しないとわからないけれど、店主さんのお店の辺りで子供が亡くなったっていう情報はないわね」
「この迷路の首謀者が子供で、その子供が裕一郎さんの喫茶店に来た子だと断定するにはあまりに根拠がなさすぎるわね……」
あやこはシュラインに頷きながら言った。
「世の中不思議なことはたくさんありますから。あの子かもしれないし、そうじゃないかもしれない。深く考えないほうがいいですよ。時にあやこさん、講義は大丈夫ですか」
裕一郎があっけらかんと口を挟む。
「大丈夫もなにもここから出られなきゃしょうがないじゃない。もう、こうなったら一日くらい休んだって平気よ」
腕時計を見てはっとする。時計の針が、A―ZONEで見たときと同じ数字で止まっている。秒針が動いていないのだ。壊れたのか、時間が進んでいないのかわからない。どのくらい間経過したのだろう。続く道を見る。いくら目を凝らしても闇しか見えないコンクリートの中に、あやこは未来(とき)を忘れた自分の心を見出した。みんないる。なのに暗闇の中をただひたひたと、一人で歩いている気がしてくる。妙な孤独感に襲われる。
それだけこの場の空気が、心が、重い。
眩暈を起こしかけて堪える。その時くいっとあやこの手が引っ張られた。
見ると美咲があやこの手を掴んでいた。
「あやこさんの手、冷たくて気持ちいい」
美咲の顔色が少し悪い。それでも笑う美咲にあやこは微笑を返した。美咲の温かな、小さい手。毎日楽しくがむしゃらに生きてきたけど、ここへ来て人間の温もりというものを久しぶりに実感したような気がする。
ナイフを握り締めていた手をあやこは緩める。
死んでからもなお打ちのめされればいい――その気持ちを撤回しようと思った。美咲の手がそれをやめさせた。
「ありがとう」
あやこは美咲に言った。
「もう少しで罪悪感に苛まれるところだったわ」
美咲はよくわからないのか、不思議そうな表情をした。
「さあ、進むわよ。とにかく出られればいいんでしょ」
あやこは周囲に気持ちを悟られないように突き進んだ。角を曲がると無機質な階段が見えてくる。階段の先にDという文字が見えた。
シュラインのペンライトが2、3度弱々しく点滅し、消えた。
「これで最後……かしら」
灯りのなくなった暗闇の中に、シュラインの声が響いた。
■D―ZONE■
裕一郎がシュラインの背後からペンライトを照らし、サポートする。
階段を数十段上がり、Dの扉をゆっくり開くと、相変わらず闇が続いていた。
一歩づつ、慎重に歩みを進める。これまでなにも起きていない。シュラインは思った。否――実際には起きているのかもしれない。美咲と雪華の聞いた風鈴の音、足音、シルエット、あやこが聞いた子供の声。悲鳴は少しだけ聞こえたが、いずれもそれぞれが各ゾーンで見たこと、聞いたこと、感じたことを口頭で伝えてきただけで、シュラインの実感を伴わない。
先ほど裕一郎と調べていたが、コンクリートには歪みも生じず、亀裂ひとつ走らない。
冷静に観察してきた。そのつもりだった。しかしここへ来て、シュラインの理性は崩れ落ちそうになっている。
C−ZONEに入った辺りから漂い始めた、重苦しい空気。Dの扉を開けてから、それが強くなった。なにかに追いかけられているような――正確には追いつめられているような切迫感と焦燥感が交錯しながらシュラインの心に流れ込んでくる。体が重く、胸をナイフで貫かれたような痛みが走る。心が、痛い。
異様なまでの空気の重さをみんなも感じ取っているようで、誰もが無口になっていた。迫り来る重圧感に、ただ歩くのがやっとだ。
この心の痛みはなんなのだろう。シュラインは考えていた。どんな時でも冷静で、どんな事件が起ころうがドライに処理してきた。それなのに自分の意識とは無意識に噴きあがる心の血に、理性だとか調査の目だとか、そんなことがどうでもよくなってくる。
コンクリートの中に、誰かの強い意識があるような気がしてならない。操られているのとは少し違う。心に直接誰かの意識が目に見えない形で流れ込んでくるのだ。
先ほどから美咲の様子がおかしい。真直ぐな道を覚束ない足取りで歩いている。幼いから、体感していることが一番身体に出てしまうのかもしれない。
「大丈夫!?」
後ろから聞こえてきたあやこの声に、シュラインは振り返った。美咲がその場に膝をついて、呼吸を荒くさせている。シュラインも駆け寄るが、体が上手く動かない。
美咲は弱々しく肩を弾ませていた。あやこが美咲の額に手を当てる。
「ちょっと、熱があるじゃない」
先ほど美咲があやこの手を握っていたのをシュラインは見ていた。それで納得した。美咲はあの時、もう身体に異変が出ていたのだ。
「いつものことです……どうぞ皆さんは先に進んでください」
美咲は床にへばりながら、ひらひらと手を振る。
「あんた放って進めるわけあらへんやろ。出る時はみんな一緒や」
雪華が鍛えてるからと美咲を抱えようとした時、裕一郎が横からひょいと美咲を背負った。
「皆さんもこのゾーンで体が重く感じられるでしょう。体力を消耗させてしまいますよ。美咲さんは私が背負います」
裕一郎は飄々とした顔をしている。
「何であんた、そんな余裕なん?」
「過去2回経験がありますから」
あの時は一人でしたし、4人もいらっしゃれば心強いですよ。裕一郎はそう言って笑い飛ばす。シュラインは鞄から熱さましを取り出し、美咲の額に貼り付けた。
体を引きずるようにして、シュラインは歩く。額に汗が滲んでいる。
迷路は思っていたより単純だ。最初は迷路に法則性や、なにか意味があるのかと思っていた。しかし、無機質で無意味な道が続いているだけだった。アルファベットの意味も密かに考えていた。Dの意味に思い当たることがない。裕一郎の言った通り、言語に意味はないのかもしれない。AからDに至るまでに共通してみんなが感じていたのは、この空気。Aでは冷たく緩やかな空気が、Bではぴりぴりとした緊張感が、Cではずっしりとした重い空気が。そして今の切迫感。各ゾーンで、美咲は不安になり、雪華は寂寞感を覚え、あやこは少し錯乱していた。それは多分彼女達の意識ではないとシュラインは思う。今、シュラインの胸を貫いている痛みは、自分の意志によるものではないからだ。
「シュラインさん、顔色が悪いですよ」
裕一郎が言った。
「大丈夫よ……」
絞り出した声が想像以上に小さかったことに内心驚いた。裕一郎の背中に体を預けている美咲を見つめ、最初に彼女が虚空を見つめて言ったことをシュラインは思い出す。
殺される……。
AからDにかけての空気の動きを反芻する。これは誰かの心の動きかもしれないと思う。「殺される」と美咲に言わせた人間の気持ちだろうか。
死んでいるのかいないのか、誰がなんのために自分達を呼び込んだのか。
思考が止まる。いつものような理性が働かない。
「だめ……これ以上頭が働かない」
シュラインは息苦しそうに壁にもたれかかった。その時。
――深く考えないで。
声がシュラインの耳に飛び込んできた。優しそうな男の子の声だ。
「え?」
シュラインは辺りを見回す。4人以外、誰もいない。
――なぜかあなた達の意識と僕の意識が、リンクしているんだ。
再び声。あやこが聞いたものと同じ声だろうか。
「どうかされましたか?」
裕一郎が訊く。
「声が聞こえたのよ、男の子の。能力が使えないはずだわ。私達、誰かの気持ちの……意識の中にいるみたい。ねえ店主さん」
シュラインは目を閉じて壁沿いに、流れるように座り込んだ。軽い貧血を起こす。ここからは冷静に、シュラインのこれまでの経験と勘で裕一郎に訊ねる。
「男の子が店主さんの店に来たのって何日前かしら」
裕一郎の喫茶店に異空間ができたのなら、裕一郎と関わりのあった何某と考えたほうが妥当だ。この声の人物がもし喫茶店に来店した男の子なのなら、唯一、裕一郎が声の主と顔を知っているはずだ。裕一郎は指折り数える。
「4日前……ですね」
4という数字に閃く。
「4日。死を悟った人間の4日間の心の動きを、私達は追っていたのかもしれないわ」
――そのとおりだよ。
今度は全員の耳に声が聞こえてきた。あっ、という雪華の叫び声に、シュラインが目を開ける。目の前に、いつの間にかなかったはずの扉ができていた。
E
扉には大きく、そう書かれていた。
■最終章■
涼しい風が吹きぬけていく。目映い光が差し込んできた。最後の扉をみんなで開ける。Eの扉から先へ進むと、深緑に生い茂った低緑樹がどこまでも広がっていた。空は青く、露に濡れた葉が光に反射してきらきらと輝いていている。
緊迫感から一気に解き放たれる。その場にいた全員の心が、凪いでいく。
――これが、今の僕の気持ちだよ。
落ち着いた声が全員の頭の中に響く。姿はどこにもない。美咲が裕一郎の背中から飛び降りた。まだ少しふらつきながら、美咲はゆっくりと問いかけた。
「あなたは、死んで……安らかになったっていうこと?」
――僕はまだ、生きてる。僕は今眠っているんだ。夢って不思議だね。夢の中で4日間の僕の胸中を思い返していた。そうしたら偶然あなた達が入り込んできた。わかりやすいように適当にアルファベットを打った。各アルファベットの……1日ごとの気持ちが、美咲さん雪華さん、あやこさんシュラインさんに入れ替わりに伝わっていたみたい。
それぞれの名前も、感じていたこともこの声の主は知っていたのだ。
「追いつめられていた理由はやっぱり……」シュラインが訊く。
肯定ととれる間が流れ、その後に声は言った。
――僕はもうすぐ殺される。
場の空気が動揺する。声の主にやはり思い当たったらしい裕一郎は、確認するように訊ねる。
「あなたは4日前店に来たお客様に間違いありませんね?」
――うん。前から行ってみたいと思っていた。あなたのところへ。
「あの時、もう死を悟っていたのでしょう。なぜ私に伝えてくれなかったのです?」
――あの時はまだ、漠然としか事の重さを理解していなかったから。
緩やかだったA−ZONEの空気を思い出す。少年が喫茶店に来店した日に、もう宴は始まっていた。
「どこにいるの? 私達5人で、今からでも助けに行こうと思えば行けるわ」
あやこが焦った様子で腕時計を見る。時計の針が正常に動いていた。
――無理だよ。今お父さんとお母さんが家に灯油まいてる。
5人の間に沈黙が流れる。心中だろうか。しかし声は至極冷静で、諦めているようにも思える。死を悟り苦しみの果てに見出した心境が、このE−ZONEなのだろうか。焦燥感も寂しさもなく、ただ穏やかにこの声の主は命の終えるのを待っているのだろうか。
望みも、助けが欲しかったわけでもない。ただなにか不思議な力が働いて、偶然5人は起きるであろう事件の直前に居合わせてしまったのだ。
「うちに聞かせてくれたあの風鈴の音は……なんやったん?」
雪華が疑問を投げかける。
――……去年買った風鈴の音だけが、救いだったんだ。あの心理状況の中で唯一癒されたのが、あの音だった。壊れちゃったけどね。雪華さん、僕の変わりに今年のお祭りたくさん楽しんできて。お祭り、僕も行きたかった……。
「何言うとる」
雪華は首を振り、B―ZONEで流れたシルエットを思い出しながら、青空に向かって力いっぱい叫んだ。職業柄、家族とのよりよい別れを実現してきた雪華にとって、小さな子供が親に殺されることは、あまりに悲しい事件だ。
「なあ、生きてや。生きてうちらに会うて。顔見せや。好きな風鈴買うたる。夏になったらうちと一緒にお祭り行こ。手ぇ繋いで、一緒に楽しも」
――今、お母さんが部屋に入ってきたよ。
もう叶わない願いだよと、雪華に言っている気がした。
布団に入っている少年。灯油の臭いに満ちた部屋の中にナイフを持ってそっと少年に忍び寄る母親の姿。実際はわからない。しかし誰もの頭の中に、そんな想像が膨らんでいた。事件はもう、すぐに起こる。わかっていてなにもできないもどかしさが5人の心のうちに沸いてくる。それでも少年の声は明るい。
――ありがとう。最後にみんなに会えて僕は独りじゃないと思った。みんなが一緒に過ごしてしてくれたから嬉しかった。
声がか細くなっていく。最後にひとつだけわがまま言わせて。声は言った。冷茶をみんなで飲んで。もう僕は永遠に裕一郎さんの喫茶店には行けない。だからお願い。僕のために飲んで。裕一郎さんの冷茶、美味しかったよ……。ああ――声は深い溜息を漏らした。あの喫茶店を思い出して眠ったから、みんなと意識が繋がったのかな。
全員の視界の端から、見ている光景が砂のようにさらさらと消えていく。それが意味することはもう理解できていた。
――さようなら。
哀切の入り混じった声が、風に吹かれて、遠くに聞こえた。
*
「あんたらどこ行ってたんだい?」
女性の声がして気がつくと、ありふれた光景の喫茶店に舞い戻っていた。ボックス席に4人、突っ伏すように眠っていた。美咲が最初に目を覚まし、みんなを叩き起こす。熱は引いたようだ。裕一郎だけがカウンターの近くに倒れていた。裕一郎は起き上がり、ボックス席の様子を見渡した。
「皆さん大丈夫そうですね」
「5人とも、意識だけ飛ばされていたみたいだね。入り口付近にみんな倒れてたから、そこの席に移動させたよ。おっと、あんたは別だけどね」
大体なにが起きたのか理解しているような口調で、女性は裕一郎に笑った。
「はいはい、姐御さん。お世話になりました。今回は深い闇の中を彷徨っていましたよ」
「また、奇妙なことが起きたようだね」
「ええ」
裕一郎は飄々とした顔で4人に冷茶を入れ、盆に乗せて差し出した。喫茶店の中は少し蒸し暑い。
「これがあの子に淹れた冷茶です。たった一つの願いを叶えましょう。あの子のために、皆さん飲んでは頂けませんか」
裕一郎の言葉に4人は顔を見合わせ、力強く頷いて冷茶に手をつけた。裕一郎以外顔も名前も知らない少年を想って、喉に流す。
さらさらと時が流れる。5人の意識と少年の意識に差が生じていたのだろうか。D−ZONEにいた時までは、時間が流れていなかった。異空間に紛れ込む前と、紛れ込んだ後の時間に大きな差はない。
「美味しい」
それぞれが呟いた時、消防自動車と救急車のサイレンの音が喫茶店の前を通り過ぎていった。事件は起きた。みんな雰囲気を感じ取っているのか、野次馬の如く立ち上がる者は誰もいない。深い闇を通り抜けて、最後に見せてくれた凪いだ空気と澄み渡る青空が、目に焼きついていた。少年がそこへ辿り着けてよかったと誰もが思う。
「おや、涙雨……」
姐御が目を細め、そっと呟いた。喫茶店の窓から見上げると、鈍色の空の下を小雨が静かに降り注いでいた。
<了>
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】
【7061/藤田・あやこ/女性/24歳/女子大生】
【5792/平泉・雪華/女性/28歳/エンバーマー】
【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【6684/水谷・美咲/女性/7歳/小学生】
NPC
【4364 /唐津・裕一郎 /男性 /?歳 /喫茶店のマスター、経営者】
【4365 /姐御/女性/?歳 /裕一郎の手伝い人、兼幽霊】
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■ ライター通信 ■
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初めまして&こんにちは。青木ゆずです。「D−ZONE」へご参加いただきどうも有難うございました。そして長くて申し訳ございませんっ(謝)。楽しすぎて筆が止まりませんでした。まだまだ書くつもりだったのですが、書きすぎかかもと途中で我に返りました。お時間のあるときに読んで頂けましたら幸いです。序章では同行される方の特徴や性格等がわかるよう、あえて個別にしませんでした。
書かせていただき、大感謝です♪少しでも楽しんで頂けたら幸いです。
水谷・美咲様
2度目のゲーノベへのご参加、ありがとうございます。
和み役&熱が出て弱っていくということでしたがいかがでしたでしょうか。
美咲様のクールなんだけれどもどこかお茶目な性格に、大変楽しく書かせていただいておりました。また、いじりすぎていましたらすみません。楽しんでいただけたら幸いです。またご縁がございましたら、宜しくお願い致します。
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