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■その日の黒猫亭■

蒼井敬
【7061】【藤田・あやこ】【エルフの公爵】
 小さく軋んだ音を立てて扉を開く。
 店内を見れば、客の姿はふたりだけ。
 肝心の主さえも見当たらない。
 ひとりはテーブルに積まれた本を読み続け、誰かが入ってきたことにも気付いていない。
 そしてもうひとりは、こちらに気付いてちらと目配せをしてきたが自分から口を開く気がないようだ。
 こちらの出方を伺っているのだろう、口元には微かに笑みが浮かんでいる。


 やぁ、いらっしゃい。


 そんな声が聞こえた気がした。
その日の黒猫亭



1.
 シュレディンガーの猫、という話がある。
 蓋をされた中にいる猫、その生死は蓋を開けるまではわからない、それまでは猫は生きている。というものだ。
 いまだ論争が絶えないテーマではあるが、あやこにしてみれば「ジョーダンじゃない!」というものに思える、らしい。
 そんなとき、ひとりの教授が『番犬理論』というものを持ち出した。
 実際に蓋を開けて中を見なくとも、鏡のようなもので安否を確認することができた場合はどうなるのか、その鏡も猫の安否を確認する番犬の代わりが勤まるのではないか、云々。
 教授はこの説を否定し、そうなれば勿論、ここでも学生たちとひと悶着起きることとなったが、そこにあやこが持ち出した案のせいで論議は更にややこしくなってしまった。
「そんなの犬を酔っ払わせちゃえばいいんじゃない」
 酩酊した犬の判断では猫の安否など正確に把握できるはずがない。
 だが、そうなれば酩酊した状態で確認された猫の状態はどう捉えられるのか、生死の確認としては有効か無効か、という論議があったかは半ば不明だ。
 しかも、この論議に終止符をつけられるような実験はおおよそ不可能であり、教授も学生もあやこの投下した説を半ば真剣に半ば不真面目に喧々諤々言い合っている中、あやこはある店のことを思い出した。
 その店のことを何処で聞いたのかはあまり覚えていないのだが、思い出した途端あやこの口に何かを企んでいる笑みが浮かんだ。
「良いオモチャ……もとい、実験台があったわね」
 その夜、札束を握り締めたあやこの姿が繁華街から少し離れた人気のない路地にあった。
「確か、この辺りのはずだけど」
 きょろきょろと周囲を見渡してもそれらしいものはなかなか見えない。
 いい加減出てきなさいよ、勿体つけるんじゃない! と空に向かって怒鳴りそうになったとき、ようやくその店は姿を現した。
 何処にでもあり、何処にも存在しないという奇妙な店。
 店主は現在常に不在であり、そこには妙な常連客らしきものがいつもいるという。
 店の名前は、黒猫亭といった。


2.
 軋んだ音が立つ扉を開いて中に入ると、テーブル席にひとりの男が座っていた。
 あやこが入ってきても目線ひとつ動かそうとしない男の手にはスケッチブックがあり、開いたページを見つめながらなにやら考えている最中のようだった。
 はて、この男が番犬かしら? 常連ならばその一匹であることは間違いないはずだが。
 そう思いながらしばらく男を観察していても、一向に男がこちらに気付く様子はない。
 先に焦れたのはあやこのほうだ。
「ちょっと良いですか」
「ん? 珍しいな、客が来たのか」
 あやこの言葉に、男はようやくこちらを見るとそう呟いた。
 あまり身嗜みには気を使っていないようだが、見苦しくはないので問題はない。少々痩せぎすの感はあるがひょろ長いというまででもない。
 一見する限りそれほど特異なものには見えなかったが、その辺りは顔に出さずあやこは笑顔で挨拶をした。
「はい、この店に来るのは初めてなんです。藤田・あやこといいます、よろしければお名前を聞いても良いですか?」
「俺か? 増沢柳之介だよ」
 何処か億劫そうにそう答えながらも、女性に声をかけられたのは満更悪い気分でもないらしい。
「スケッチブックを持ってますけど、柳之介さんは絵を描かれるんですか?」
「ああ、一応画家でね。これで食ってる」
「それはどのような……」
「普通の、絵だよ」
 あやこの言葉を遮って増沢がいやにはっきりと言い切った様子に、あやこはぴんときた。
 どうやらこの男、いつも「普通の絵」と主張してはいるが周囲にはあまりそういう目で見られていないようだ。ということはすなわち、この男の描く絵には何かある。
 あやこの願い通り、良いオモチャ、もとい実験台がちゃんと準備されていたようだ。
「いまも絵を描かれるところだったんですか?」
「いや、何か浮かんだら描こうかとは思ってたんだが……」
 言いながら、今更のように増沢の目がきちんとあやこを捉え、そして……じっと見つめてきた。
「お前さん、おもしろい顔してるな」
 おもしろい顔、という単語にかちんときかけたあやこだが、いまは口論をしてはいけない。それで実験台に出て行かれては元も子もなくなってしまう。
「おもしろい顔、ですか?」
「ん? あぁ、悪い。作りが悪いとかいう意味で言ったんじゃなくてだな、どうもたまに人だのなんだのの姿が周囲とは違って見えるらしいんだが。俺にいま見えてるのは……」
 話しながらどうやらあやこを描こうとしているらしい増沢を制して、あやこはにっこりと笑って話題を移動させる。
「絵も描いていてもらって良いんですけど、折角だから飲みません?」
「俺はもう飲んでるぞ? 飲みたければ勝手に飲めばいいんじゃないか?」
 そう言った増沢のテーブルの傍らには確かにグラスがひとつ置かれている。
「いえ、こうして会えたんですからふたりで。支払いは私が持ちます」
 突然の申し出だったが、増沢はさして怪しむような顔はせず、ただひとつだけ気になったことらしい疑問を口にした。
「散々飲ませておいてどろん、は勘弁してくれよ?」
「そんな人聞きの悪いことするはずないじゃないですか」
 にっこり笑いながら、あやこはまとまった金があることを茶封筒に入れてある鐘を嫌味にならない程度に見せてみる。
 といってもこれはあやこの身から出た金だけではない。
 この店での実験結果がどのようなものになるかいっちょ賭けてみなさいよと教授学生も巻き込んだ賭け金である、が、全額返却するようにという命は聞いていない。
 そして、あやこの懐にはもうひとつあるものが隠してあったのだが、増沢はそれには気付かず出自も気にならないのか支払いを気にしなくて良いというあやこの言葉にすっかり飲む気になったらしい。
 此処に至り、ようやく実験を兼ねた宴が行われる運びとなった。


3.
「……なぁ、コレ何杯目だ?」
「なに? そんなの数えられるようだったらまだ飲めるでしょ、ほら、飲んで飲んで!」
 テーブルに置かれているグラスをじっと睨むように見ながらそう呟いた増沢の言葉は聞き流して、あやこは更に酒を飲ませていく。
 実際彼が飲んだグラスが何杯目なのかなどあやこもさして覚えてはいない程度には気持ちよく酔っているが、ここにはあくまで実験として来ているのだから観察者としての冷静さは失っていない。
 一方、増沢のほうはテーブルとグラスを睨んでいる目の焦点もやや怪しくなってきている。酒に弱い男というわけではなさそうだが、これには裏がある。
 金のほかにあやこが隠し持っていた秘薬『奈落の肝臓』。
 それを少しばかり、もとい、だいぶと混ぜて最初から飲めや歌えと囃し立てながら何杯もグラスを空にさせている。
 余程のうわばみでなければいい加減意識を失ってもおかしくない量をおそらく増沢は飲まされているのだが、潰れる気配はないもののてっきり楽しく酔うタイプだと思っていた増沢の口数は徐々に減り、ただじっとテーブルとグラスを交互に見つめ続けている。
「柳之介ぇ、楽しくないのかぁ」
 酒の席は無礼講がお約束とばかりに外見年齢は上である増沢のことを呼び捨てにしながらも、このまま潰れられてはどうしようかと内心少々不安を感じていないでもなかった。
「楽しくないことはない……ないけどな……」
 あやこのほうをまったく見ていない増沢の目はかなり据わっている。
 酔わせすぎたか? とあやこがいぶかしんだとき、それがあやこの期待を裏切るものではないことがわかった。
「……さっきから、店の中がごちゃごちゃしてきてるぞ」
 ちなみに、あやこには一切何も見えていない。
 いったいこの男の目はいま何を捉えているのか。それこそが自分が此処へ来た目的のものではないかと思いながら更に酒を勧めようとしたあやこの手が止まった。
「動くな、いや、動いてもいいが自然に動け!」
 突然の怒号にあやこは一瞬何事かと思ったが、増沢の目はあやこにはまったく向いておらず店内を睨みつけている。
 すっと増沢の手からグラスが離れた。その手には代わりにスケッチブック、反対の手にはスケッチ用のペンらしいものが握られる。
「……お前はそこに立ってろ、お前はそっちだ、バランスが悪い」
 この男、普段から描いているときにこんな煩く指示を言うような男なのだろうかと考えている間に、増沢は殴り付けるようにスケッチブックへ何かを描き込んでいく。
 作業を邪魔しては怒鳴りつけられるかと思いはしたものの好奇心や探究心を押さえ込むことはなかなかに難しい。
 心の中でだけ失礼しまーすと呟きながら、そっとあやこはスケッチブックを覗き込んだ、途端。
「……何、これ」
 思わず、そんな声が漏れてしまった。
 そこに描かれているのは間違いなくいまあやこがいる黒猫亭だ。あやこの視界に入っている店内そのままの光景が描かれている。
 だが、絵の中に描かれている店内はひどくごちゃごちゃとしていた。
 人の顔をしている人では決してないもの、人の身体をしているのに頭だけはまったく違うもの、全身がまったく何かわからないもの、形さえもきちんと掴めないもの。
 ひとつだけ言えるのは、この絵の中に通常人と呼べる存在がひとつもいないことだけだった。
 それらが皆、手にグラスや欠けた茶碗を持ちながら如何にも楽しそうに酒を飲んでいる。
 塗り潰されているようにしか見えない部分も、驚くほど緻密に描き込まれているのだということがわかる。
 増沢は確か「見えている」と言っていたとあやこは思い出した。
 では、いま描かれているこれが本当に見えているのだとしたら、この店内はいまいったいどういう状況なのだろう。
 ぞっと背中に冷たいものが走ったのをあやこは不本意だが感じた。
「ちょ、ちょっと、柳之介……描くの止めてくれない?」
 慌ててあやこがそう制しても増沢の耳には一切届いていないのだけはわかる。
 と、あやこの目が増沢が新たに描き加えたものを見た途端、思わず大声が出そうになった。
 あやこが、いた。
『絵』の店内に、いつの間にかあやこの姿が描かれ始めている。
「ちょ、ちょっと! 私を此処に混ぜるのはやめてよ!」
「なんでだ? お前さんもいるんだから描くのは当たり前だろ?」
 増沢としては至極当然の行動らしいが、この奇怪な集団の中に放り込まれている自分というのは絵だとしても何処か薄気味が悪い。
 いや、とあやこはそのとき気付いた。
 店内が、変化していっていた。
 店自体は変わっていない。内装はそのままだ。
 だが、何かの気配がする。先程まではまったく人気のなかった店に、何かの気配が強まっていく。
「なに、これは何なの!?」
「さて、これでお前さんの姿もちゃんと入ったぞ」
 混乱しているあやこの言葉を待っていたかのような増沢の台詞をきっかけに、ぐるりと何かが反転したような感覚があやこに襲い掛かった。
 一瞬感じた眩暈の後、あやこが目を開けたその光景に、絶句した。
「これは……何処!?」
 黒猫亭のはずだが、まったく違う黒猫亭にあやこは放り込まれていた。
 人のようでまったくそうでないもの、形さえもはっきりしないもの……。
 先程まで絵でしか見ていなかったものたちがあやこを取り囲んでいる。
 瞬間、あやこは理解した。
 此処は、絵の中だ。
「なんで! どうしてこうなるのよ!」
 あやこが叫んでも黒猫亭の風景は変わらない。それどころかあやこの周囲にいたモノたちが徐々にあやこに近付いてくる。
『おや、お客だよ』
『やぁ、いらっしゃい』
『一緒に飲もうじゃないか』
『今日はあんたの奢りだろう?』
 けらけら笑いながら彼らはあやこを取り囲む。
 助けてと言う暇さえもなく、あやこの姿は『彼ら』の塊へと押し潰された。


4.
「酔いは醒めたかい?」
 不意にそんな声が聞こえ、あやこは慌てて目を開いた。
 場所は黒猫亭のままだが、絵の中ではない。
 自分の意思で入ってきたときの『黒猫亭』に、あやこは戻っていた。
「なんだったの、あれは……」
「随分と飲んでいたようだね」
 ついそう呟いたあやこにくつくつと笑い声がかけられる。
 見れば、いつの間にか黒尽くめの男がテーブル席で突っ伏していたあやこを愉快そうに眺めていた。
 増沢の姿は何処にもない。
 いったいあれはなんだったのだろうかとあやこが考えていると、また先程のくつくつという笑い声が聞こえてきた。
「アルコールはもう十分のようだね。水がいるなら持ってくるが?」
「柳之介……さんは?」
「とっくに帰ったよ。彼はあまり飲ませすぎないほうが良い。あまり良い酔い方をしない男だからね」
 そう言いながらテーブルに水の入ったグラスが置かれた。
「それで? キミがこの店に来た目的は果たせたかい?」
 突然の男の言葉にあやこはぎくりと身を竦ませながらゆっくり視線を動かした。
 見れば、男はにやにやと笑いながらあやこのほうを相変わらず眺めている。
「さっきのあれは、夢?」
「ここで起こることはすべて現実さ。受け入れるかどうかは自由だがね」
 ただ、と男は話を付け加えた。
「この店は飲むための場所なんだ。実験だの見世物だのという使われ方をされては少々心外ではあるだろうね」
 目的を見透かされていたような言葉に、あやこはまた少々据わりの悪い気分になったが、男はまたくつりと笑った。
「本当に許可できないようなことはこの店では基本的には行えないので気にすることはないさ。少々悪ふざけが過ぎた気はするがね」
「はぁ、じゃあ……私そろそろ失礼します」
 先程まで見ていた悪夢のような光景が現実だったのか虚構だったのかは把握しづらいが、今日はこれ以上この店に留まっているのは得策ではないだろう。
 そう思い、さっさと店を退散しようとしたあやこを、男がまた「ちょっと待ちたまえ」と呼び止めた。
「これはキミが持っていると良い。ちょっとしたお土産さ」
 言いながら、男から手渡されたものを見たとき、あやこの口からまた小さな叫び声が出た。
 それは、人にはとても思えない奇怪なものたちの群れと共に楽しげに酒を飲み交わすあやこの姿が描かれた一枚のスケッチだった。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)       ■
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7061 / 藤田・あやこ / 24歳 / 女性 / 女子大生
NPC / 増沢柳之介
NPC / 黒川夢人

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■         ライター通信                    ■
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藤田・あやこ様

この度は、当依頼にご参加いただき誠にありがとうございます。
黒猫亭へのご来訪、増沢を酔わせて怪奇画を描かせ百鬼夜行にということだったのでこのような形にさせていただきましたが如何でしょうか。
だいぶ酒癖が悪い男になってしまいましたが、実際に出現させるような力を増沢は持っていないため、彼が描いた百鬼夜行の絵の中へあやこ様に入り込んでいただきました。
お気に召していただければ何よりです。
また機会がありましたときは、よろしくお願いいたします。

蒼井敬 拝