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■桜媛奇譚―雨歌の章―■

綾塚るい
【3626】【冷泉院・蓮生】【少年】
 咲かない桜があるという。
 何十年も、何百年も。
 芽吹きを待っているのか、それとも芽吹く事を拒んでいるのか――…


 廃村の中に在る古びた神社。その本殿の奥に一本の桜の古木が植えられていた。
 どれほどの年月を重ねた桜であるのか、巨大な幹がそれを物語っている。
 だが、神社の敷地内は見渡す限りの淡い桜色で覆われているにもかかわらず、この桜の古木にだけは花が咲いていなかった。まるでそこだけが冬に閉ざされているようである。
 その木の元で春の神である朧王は一人、瞳を閉じて佇んでいた。

 どれだけそうしていただろうか。ふと一陣の風が吹きぬけていくのを感じて朧王が瞳を開くと、目の前に深縹色の長い髪を湛えた一人の青年が姿を現した。夏神・蔓王である。
「来たか、蔓」
「参りました。ですが、これは……」
 久々に春夏が揃ったというのに、挨拶も少なに蔓王は桜の古木を振り仰ぐ。
 その表情に穏やかな色は無く、険しい顔つきで古木を見つめたまま朧王へと言葉を紡いだ。
「桜から血の香が致します。あまり宜しくない状況のように思いますが……」
「元は神木桜だが、このまま放っておけば禍つ神になる」
 朧王はそっと桜の幹に手を添わせる。途端に禍々しい邪気と、桜が抱き続ける遠い過去の記憶が朧王の掌へと流れ込んでくる。
「……私の眷属が禍つ神になるのは、忍びないのだがな」
「助ける事は叶わないのですか? 漣さんにご協力頂くなどしてみては……」
「あれはこの手の輩を好まん。歪みを抱き、邪となる前に断ち切れと言うだろう」
 綜月漣はそういう男だと朧王は言う。その言葉に、蔓王は微かに視線を落として寂しげに呟いた。
「……漣さんは時折酷く冷淡になられる」
 助力を願えばそれなりに手助けはしてくれるだろうが、漣は禍を招くものを酷く嫌う。事態が悪化するのは目に見えていた。
 朧王はうなだれる蔓王に向き直ると、真面目な面持ちで蔓王へと語りかける。
「季節が巡る。私はもう行かねばならぬが、蔓王。頼まれてはくれないか」
「……どうすれば?」
「桜の記憶を辿る。これに宿るのは姫神だが、眠りに付いたまま遠い過去の夢を見続けている。夢に入り込んで目覚めさせれば、今ならまだ間に合うかもしれぬ。折り良く夢の始まりは夏だ」
 夏であれば蔓王の領域だろうと言う朧王に、蔓王は頷いて返す。
「では、どなたかにご助力頂きませんと。僕一人では恐らくどうにもなりません」
「……すまんな。私の眷属をお前に任せるというのもどうかとは思うのだが」
「お気になさいませんよう。姉さまや冬王さまにもご協力頂く事になるかもしれませんが、翌年の春までには良いご報告が出来るよう努めてみます」
 言って、蔓王は静かな笑顔を湛えながら、古木を見上げた。
桜媛奇譚――雨歌の章――



■ 宿夢 ■

 ひとひらの花弁が眼前をよぎり、冷泉院蓮生は我に返った。
 空には朧に霞んだ月が浮かんでいる。直線状に続く真白の砂利道が、仄かな月光に照らされて次第に浮き彫りにされてゆく。沿道には、紅色の花弁をつけた無数の桜が植えられていた。
「……ここは?」
 見知らぬ場所だった。
 夢でも見ているのだろうかと思いはすれど、踏みしめる砂利の感覚や、目の前に広がる光景は、夢にしてはあまりにも鮮明過ぎた。だが、夏に桜が咲くなど聞いた事が無い。
 突然の出来事に呆然とする蓮生の傍らを、乾いた風が吹き抜けてゆく。その風に乗って花弁が舞い散り、白い砂利をうっすらと紅色に染め上げる。ただそれだけを見れば、美しく幻想的な光景だったが、蓮生を取り囲む空気はどこか禍々しく、陰鬱としていた。
 純粋無垢な気質の蓮生であるからこそ感じ取れる空気の穢れ。桜の一本一本から、邪気がにじみ出ているのが解る。
「どうしてこんなに……」
 この場の空気は穢れているのか――。
 漆黒の闇にポタリと落ちた光の滴のように、この世界と蓮生の存在とは、相容れないもののように感じられた。
 呼吸をする事さえ躊躇われるような穢れた世界の中、蓮生は哀れみの表情を浮かべながら桜の木々を見上げる。
「大丈夫か? ここで何があった?」
 返事は無い。
 桜の木々はただ静かに、赤い花弁を大地へ降り注ぐだけだった。
 まるで桜が血の涙を流しているように思えて、蓮生はもう一度木々へ向けて問いかける。
「ここで何があった?」

『……――オニイチャン』

 ふと、蓮生の問いに答えるように、背後から声が響き渡った。蓮生が振り返ると、そこには数人の幼い女の子が佇んでいた。全員が桜柄の和服に身を包み、長い黒髪を真っ直ぐに腰辺りまで垂らしている。
 人ではない、と蓮生は子供達を見た瞬間に悟った。
 確かに蓮生の目の前に居るのに、子供達の体は陽炎のように揺らぎ、その先の風景が透けて見えるのだ。
 今生には既に存在しない、かつて人間だった者達。
 その中の一人が、蓮生を見上げた後で、ついと指を動かして左方――砂利道の奥を指し示す。

『雨歌 ト 桜 ハ 向コウ――……』

「雨歌と桜?」
 人の名前だろうか。
 思いながら蓮生は女の子が指差した方を眺めた。だがそこには漆黒の闇が広がるばかりで、奥に何があるのかはっきりと見て取る事は出来ない。

『助ケテ アゲテ――……』

 懇願するような声に、再び蓮生が視線を戻すと、そこにはもう子供の姿は無かった。
 かつてこの地に生きていた子供達の魂が、救いを求めてこの地に留まり続けているのだろうか。
 穢れに満ちた世界。けれどその根底には計り知れないほどの深い哀しみが潜んでいるようにも感じられる。
 救える存在があるのなら、救ってあげたい――
 思い、蓮生は砂利道の奥へ向って歩き出した。


 道の終わりに、一つだけ花弁をつけていない古木があった。
 どれほどの歳月を重ねた桜なのだろうか。それは離れた位置からでも他者を圧倒するほどの存在感を放っていた。だがそれと同時に、桜の内側からは禍々しい邪気があふれ出ている。
 あまりの穢れの酷さに、蓮生が思わず後ずさりをした時。不意に泣き声が蓮生の耳に届いた。
 声に誘われるようにして視線をそちらへ向けると、一人の少女が木の下にしゃがみ込んですすり泣いていた。

『助ケラレナカッタ――……』

 長い黒髪を湛えた少女の声が、静寂を打ち破る。
 こちらに背を向けているため顔は解らない。振り絞るように呟くその言葉から、深い憎悪と哀しみとを感じ取った蓮生は、思わず少女の傍らに歩み寄ろうとした。だが――
「いけない!」
 突如、目の前に一人の青年が現れて、蓮生は行く手を阻まれた。
 邪気に満ちた世界の中、青年は身の内から溢れんばかりの神気を発しながら、両手を広げて蓮生を押し留めてくる。
「誰?」
 深縹色の長い髪と瞳を持ち、藍色の狩衣を身に纏った青年は、蓮生の言葉に返す事はせず、かわりにこう言い放った。
「近づいてはいけない。今貴方があれに近づいたら、邪気に飲み込まれてしまいます」
 青年の言っている意味が解らず蓮生が首を傾げた時。
 それまで後ろを向いていた少女が立ち上がり、蓮生の方へと視線を向けた。その姿に、蓮生は思わず息をのんだ。

『間ニ合ワナカッタ。助ケタカッタノニ――……』

 少女の足元には、同じ顔をしたもう一人の少女が横たわっていた。体は血にまみれ、既に事切れているのか、その顔からはまるで生気が感じられない。立ち尽くす少女は、蓮生を眺めながら血の涙を流している。
 その様子を見て、蓮生は苦しげに青年へと呟いた。
「一体何がおこっているんだ?」
「これはあの桜の古木に宿る神が見続けている夢です。僕達はその夢の断片を垣間見ているに過ぎません」
「夢? こんな悲しい夢を見続けているのか?」
 蓮生は青年の言葉を聞くと、思わず古木へと視線を移した。
「はい。恐らくあの少女を助けたかったのでしょう……それが出来なかった己に憤りを感じ、過去を変えようと繰り返し繰り返し夢の中を彷徨い続けている……今のこの状態では、僕達に手出しは出来ません」
 手出しは出来ないといわれて、蓮生は思わず唇をかみ締める。
「……でも泣いている。俺には苦しんでいるように見える」
「深い悲しみが夢に歪みを産んでいます。このまま放置しておけば人間に害をなす存在になってしまうでしょう。ですが貴方の気質はあまりに純粋すぎます。邪気に打ち勝つ事が出来ません」
「俺の事はどうでもいい! 助けられないのか?」
 まるで流すべき涙さえ涸れ果ててしまったかのように、花を咲かせていない桜の古木。
 怒りや哀しみを何処へぶつけてよいのか解らず、それら一切の感情をひたすら内に閉じ込め続けた結果、自ら邪気を孕む存在になってしまったように思えて、蓮生は胸が苦しくなるのを覚えた。
 だが、蓮生の言葉に青年は首を横に振って言葉を返してくる。
「無理です。あれは過去に実際に起きた出来事。それを捻じ曲げる事は不可能です……ですが、夢から目覚めさせ、現実を現実と認めさせれば、古木が禍つ神になる事は防げるかもしれません」
「古木も、彼女達も……助けられるのなら助けたい。あのままではあまりに……」
 あまりに残酷すぎる――。
 そう思った次の瞬間、周囲を眩い光が取り囲み、蓮生は咄嗟に己の瞳をきつく閉じた。



■ 雄滝村 ・ 伊―呂 ■

 どれほどの時が流れたのか。一瞬のような気もするし、随分と長い事瞳を閉じていたようにも思う。
 今まで目蓋裏に感じていた鋭い光が、次第に柔らかなものへと変化してゆく。それと同時に、先ほどまで周囲に満ちていた穢れが一転して、優しい澄んだものへと変わった気がした。
 耳に届くのは、頭上から降り注いでくる数多の蝉の声。その蝉の声に誘われるようにしてうっすらと瞳を開くと、いつの間にか月も夜の闇も消え去り、世界は夏の光で溢れかえっていた。

「……ここは?」
 周囲を見渡して、最初に言葉を放ったのは榊紗耶だった。
 先ほどまであったはずの桜の古木は消え去り、いつの間にか、眼前には古ぼけた鳥居が姿を現していた。その鳥居の向こうには、白砂利で埋め尽くされた道が真っ直ぐに続いており、遥か向こうにもう一つ鳥居が見える。
 続いて言葉を発したのは芳賀百合子。
「不思議な場所……どうして神様の通り道を塞いでいるの?」
 白い砂利道と二つの鳥居がある事から、ここが神域である事を察したのだろう。砂利道を「神様の通り道」と呼んだ百合子は、己の背後を眺めながら不思議そうに呟いた。
 前方にはどこまでも続く長い参道があるのに対し、鳥居の外――百合子達の背後には、巨大な屋敷が建てられ、土塀が参道を塞いでいる。
 百合子の言葉に、周囲を見渡していた冷泉院蓮生がぽつりと呟く。
「でも、さっきまで居た場所とは違うような気がする。ここは神聖な空気で包まれている」
「いえ、同じ場所なのでしょう。私が見た夜の世界とこの場所とでは、恐らく時間が違います。まだ、何も起こっていないのですよ」
 今この場に集っている全員は、恐らくあの惨劇を見ているのだろう。蓮生の言葉にそれを察し、返事を返したのは藤宮永だった。
 血まみれの少女と、それを抱くもう一人の少女――。
 樋口真帆は、微かに瞳を伏せながら、先ほど見た夜の光景を思い出した。
「この先に、あの二人がいるんでしょうか……」
 既に事切れていた少女。まだ何も起こっていないのであれば、あの少女はまだ生きて、この場所にいるはずである。
 その言葉に、五人とは少し離れた場所に居た蔓王がゆっくりと頷いた。
「先ほど皆さんが見た夜の光景は、神木桜が見ている夢の終わりです。そしてここからが夢の始まりになります」
 蔓王は一度全員を見渡すと、ついと鳥居の向こう側を指差した。
「この鳥居より先は雄滝(おだき)村と言います。距離がありますから少々見え難いと思いますが、向こうに見えるもう一つの鳥居の奥には雄滝御流(おだきごりゅう)と呼ばれる神社があります。御神体は、先ほど見た桜の古木です」
「桜の、古木……」
 蔓王の指差す方向を眺めながら、蓮生が反芻するように呟く。
 花をつけていなかったあの神木桜は、一体今どうしているのだろう。夢の始まりであるならば、まだ穢れを帯びていないかもしれない。蓮生は何より神木桜の状態を心配していた。
 蓮生の傍らに居た永は、束の間周囲を見渡し、やがて蔓王の方へと向き直った。
「古めかしい……どこか排他的な印象さえ受けます。このような地に突然私達のような者が入り込んでは、夢主に訝しがられるのではありませんか?」
「……私も、そう思う。お手伝いはしたいけど……村には入れてもらえないような気がする、かな」
 永の言葉に同意を示したのは百合子だった。自分の住んでいる村の因習的な空気を思い出したのだろうか、やや遠慮がちに百合子が呟く。
 蔓王は、一度頷くと、真帆と紗耶を交互に見遣りながらこう告げた。
「そうですね。確かにこのままでは村に入れません。ですから真帆さんと紗耶さんにご助力願おうと思います」
 その言葉に、真帆と紗耶はきょとんとした表情で顔を見合わせる。
「……何をするの?」
「私に出来る事なら喜んで協力します。でも私はまだ見習いだし、大きな事は出来ませんよ?」
 力を貸すといっても具体的に何をすれば良いのか解らずに、真帆と紗耶は首を傾げながら蔓王の言葉を待った。そんな二人に、蔓王は穏やかな笑顔を見せる。
「お二人とも夢を渡る力をお持ちでいらっしゃる。その力をお借りしたいのです」
 真帆も紗耶も、夢見の能力を持っている。夢の内容そのものを大きく変えることは出来ないが、それでも夢から夢へ自在に渡り歩ける力は、この場所において有効的だった。
「この鳥居は、夢の内と外とを隔てる境界になります。何もせずに鳥居を潜れば、間違いなく僕たちは夢の世界から弾かれてしまうでしょう。ですから夢見の力で、夢の内と外とを繋げて頂きたいのです」
「繋げる?」
 紗耶の言葉に、蔓王が頷く。
「僕達は元々この村の住人なのだと、夢主にそう思い込ませるのです」
 夢の改ざんとまではいきませんが、その部分だけ夢をすり替えるのだと、蔓王は言う。
「お二人の力をお借りして、僕達の存在を夢の中に馴染ませます。お二人とも、右手を僕の手の上に乗せて、僕に心を預けてください」
 蔓王に言われるまま、真帆と紗耶は蔓王の手のひらに己の手のひらを重ね合わせた。二人手を蔓王がゆっくりと握り締める。
 一体何が始まるのだろうと、全員が固唾(かたず)を呑んでその光景を眺めていると、不意に、それまで聞こえていた蝉の声がぴたりと止んだ。


 蝉の声、風に揺れる木々の葉擦れの音。夢の世界から、音という音の一切が消えてゆく。
 そんな中、「心を預けて欲しい」という蔓王の言葉の通り、真帆と紗耶は一度大きく深呼吸をすると、ゆっくりと瞳を閉じた。
 蔓王の手のひらから、とてつもなく大きな力が流れ込んでくるのがわかる。それと同時に、己の身の内が次第に熱くなってゆくのを、真帆と紗耶は感じていた。
 嫌な感じはなかった。全てを包み込むような優しさと、強さとを併せ持つ力は、そのまま蔓王の性質を表しているのかもしれない。その力に、自分達の体の奥底に沈んでいる潜在的な夢見の力が引き上げられ、沸きあがって来る。二人は己の体が浮遊するような錯覚を覚えた。その瞬間、重ね合わせた手の内から眩い閃光が放たれた。
 先ほどとは比類にならないほどの強烈な光は、強風と共に瞬く間に周囲に広がり、夢の世界を覆いつくしてゆく。


 気付いた時には、何事も無かったかのように世界に音が舞い戻っていた。
 じわじわと喚き立てるように鳴く蝉の声に、思わず両手で耳を塞いだのは百合子だ。
「……耳、痛い」
「すぐに慣れますよ」
 百合子の言葉に、蔓王は一度小さく微笑んでそう告げると、真帆と紗耶へ向き直って声をかけた。
「真帆さん、紗耶さん、お体は大丈夫ですか?」
 眠っている力を最大限に引き上げて夢の世界へ解き放ったのだから、体力を消耗してもおかしくはない。だが、それよりも自分の中に在る力の大きさに驚いて、紗耶と真帆はやや呆然としながら蔓王へと頷いた。
「平気。なんだか体が熱いけれど……」
「大丈夫です。でも今ので、私達は夢の世界に受け入れてもらえたんでしょうか?」
 力を放出したのは確かだが、目に映る光景は先ほどと何らかわりが無い。実際のところ、自分達が古木の見る夢の中に馴染んだのかどうかは、良く解らなかった。
 その時。

「そんな所で何をしておる」
 ふと誰かに声を掛けられて全員がそちらの方へ視線を向けると、鳥居の向こうに腰の曲がった老人と、まだ幼さの残る顔立ちの少女が佇んでいた。
 老人の顔は貧相ではないにしろ随分とやつれており、疲れが見え隠れしている。身に纏った和服も麻のもので、かなり着古したものだった。
 老人は鳥居の外にいる全員を一瞥すると、眉間に皺を寄せながら深い溜息をついて言い放った。
「もうすぐ御縄結いが始まるというのに……そんなところで油を売っとらんで、さっさと呂の鳥居に集まらんかね」
 これだから若い者は……と独り言のように言うと、老人は踵を返して真白の砂利道を歩き出す。
 残された少女は老人を見送ると、全員を見渡しながら声をかけた。
「皆まだ伊のところに居たのね。呂の御縄の儀式がもうすぐ始まるわ。村長(むらおさ)も気が立っているから、一緒に行きましょう?」
 どうやら真帆と紗耶の力が通用したのか、全員はこの村に最初から居たものとして捉えられているようだった。

 内と外とを隔てる鳥居を「伊」、遥か先に見える鳥居を「呂」と呼んだ少女は、長い黒髪に上質の桜柄の和服を身に纏っていた。まだ16、7歳程なのだろうか。均等の取れた顔は可愛いというよりも美しいと称した方が似合っている。けれど微笑む少女はどこか儚げで、物静かな印象を全員に与えた。
 蓮生は少女の顔を見た瞬間、先ほどの夜の光景を思い出した。間違いなくあの古木の下に居た少女だ。
「……雨歌? 桜? どっち?」
 泣いていた少女か、それとも死んでいた方の少女か。どちらも同じ顔をしていたから、今ここに居るのがどちらなのか、蓮生には解らない。
 少女は蓮生の言葉に一度微笑むと、こう言って返して来た。
「私は桜の方。雨歌なら拝殿で子供達と遊んでいるわ」
 早く行きましょうと告げてくる桜に従って蓮生が歩みを進めると、やがて真帆、百合子、紗耶、蔓王は伊の鳥居を潜って参道へと進んだ。
 一人残った永は、束の間鳥居を眺めた後で、全員よりも遅れてゆっくりと鳥居を潜り抜けた。


*


 伊の鳥居から呂の鳥居まではかなりの距離があった。
 参道の両脇には木々が植えられ、その奥には数多の家屋が軒を連ねている。
 呂の鳥居へ辿り着くまでの間、永はただ静かに村の様子を眺めていた。建てられている家屋は全てが木造平屋の簡素な造りで、土塀が突き崩されている家まである。時折家の中から参道へと村人が姿を現したが、彼らが身に纏う和服もまた上等なものとは言い難く、綻びが多く見られた。
 裕福な村ではないのだろう。その分、絹の和服を身に纏っている桜だけが、村の中でも特別な存在のように感じられた。
 それを裏付けるかのように、村人は桜の姿を見るや否や「桜媛様」と口々に名を呟き、深々と頭を下げて来る。六人を先導するように歩く桜は、そんな村人に軽く会釈を返していた。
 桜と村人との間には、一線を隔てた何かがあると察した永は、斜め前を歩く蔓王へと声をかけた。
「彼女はどのような立場にあるのでしょう? 皆随分と恭しく振舞っているようですが」
「村の巫女です。祀り神の声を聞き、それを村人に伝える役割を担っていますから……」
「なるほど」
 神事の巫女であれば、桜だけが上質な衣を着ている事も、村人達が桜に頭を垂れて来る事にも得心が行く。
 村人達は桜に拝礼すると、重々しい様子で鳥居へと向かって歩みを進めていた。

 大勢の人の気配に気付いた紗耶は、誰に問いかけるわけでもなく不思議そうに呟いた。
「呂の鳥居に随分と人が集まっているようだけれど、これから一体何が始まるの? 先ほど御縄の儀式と言っていたけれど……」
 その声が桜の耳に届いたのだろう。桜は歩きながら微かに顔を紗耶の方へと向けてくる。
「呂の御縄結いの儀式が始まるのは正午からよ。早朝に伊の御縄結いを終えたでしょう?」
「御縄結い……?」
 聞きなれない言葉に、紗耶が口元で小さく桜の言葉を反芻する。すると、隣を歩いていた百合子が桜のかわりに言葉を紡いだ。
「鳥居の注連縄、張り替えるんだと思う……御縄結いって、聞いたことあるよ」
「呂が終わったら、深夜には波の鳥居の御縄結いが行われるわ。波の儀式は女性だけで行うから、紗耶さんも百合子さんも真帆さんも、まだ休んでいて大丈夫よ」
 伊と呂は男の人の仕事だから頑張ってねと、桜は蓮生と永を見つめながら微笑んだ。


 桜の言葉から察するに、この村内には三つの鳥居があるようだった。
 村の入り口にある鳥居が「伊」。これから向おうとしている神社の前にある鳥居が「呂」。そして深夜に注連縄を張り替えるという「波」。
 蓮生は次第に近づいてくる呂の鳥居へ視線を向けた。
 ここからでも、その巨大さが手に取るように解る。あの鳥居の注連縄を張り替えるのだから、かなりの肉体労働になるだろう。蓮生は思わず瞳を細めながら呟く。
「一日かけて注連縄を張り替えるのか……でも俺、重いもの持ち上げるだけの体力が無い……」
 自然や動物達と意志の疎通を図る事は可能だが、その分体力が皆無なのは自負している。仕事をしろと言われても、肉体労働だけは自分の手に負えそうも無かった。
 蓮生のそんな言葉を聞いた桜は、ふふと楽しそうな笑顔を浮かべると、視線は鳥居へ向けたまま蓮生へ返した。
「御縄を張る人達は既に選ばれているでしょう? 蓮生さんや永さんは手鏡を持って鳥居の前に座っているだけよ」
 桜の言葉に、永がふと顔を上げる。
「鏡、ですか」
「そういうしきたりでしょう?」
 忘れてしまったの? とでもいう風に桜は首を傾げたが、やがて視線を落とすと、独り言のような言葉を零した。
「でもそうね。この祭祀自体、随分と久しぶりに行われるから……私もあまり記憶には残っていないわね……」
 三つの鳥居の注連縄を張り替えている間、村人は手に鏡を持ってその儀式を見守り続ける――古来から村に伝わる祭祀は、桜の言葉からも毎年行われるわけではないようだった。

 それまで参道を歩きながら、興味深そうに村を見渡していた真帆が、ふと桜へと質問を投げかけた。
「桜さんは村の巫女なんですよね。巫女は御縄結いの時、何をしているんですか?」
 巫女というからには、当然何か特別な事をするのだろう。
 紗耶も「儀式なら巫女が祈祷したりするのかな」と、真帆の言葉に付け加える。だが、桜から返ってきた言葉は予想外のものだった。
「何もしないわ。巫女に選ばれた人間は、時が来るまで何もしないの。だから波の御縄結いにも携わらないわ」
「時って?」
「……来年の三月まで。私の役目は、呂の鳥居の内側で、ただ静かに時を待つこと」
 来年の三月――
 一体何が行われるのか解らず、真帆は再び桜に問いかけようとした。だが、それを拒むかのように桜は歩く速度を速めた。

 気付けば呂の鳥居は目前。随分と古びてはいるが、伊とは比類にならないほど巨大な木造の鳥居が目に留まり、思わず真帆は口をつぐんだ。
 後ろを歩いていた百合子が、呂の鳥居を見上げた途端、僅かに顔をしかめる。
「……なんだろう……嫌な感じがする」
 呟いた百合子自身、何が嫌なのかは解らなかった。ただ鳥居と、鳥居に張られている古びた注連縄とが、百合子の心内に不快感を芽吹かせる。
 それは蓮生も同じだった。見えないものを見、それらと対等に渡り合える人間のみが感じ取れる何か――。それがこの鳥居にはあるようだった。
 桜は無言のまま、真っ直ぐに呂の鳥居を潜り抜けると、拝殿へと歩みを進めた。


 桜に従って呂の鳥居を潜ると、正面に荘厳な造りの拝殿が姿を現した。
 圧巻としか言いようのない巨大な拝殿は全ての柱が朱で塗られ、中央には見事な注連縄が張られている。参道に軒を連ねていた民家と拝殿とでは、雲泥の差の造りである。
 それに驚き、永は思わず感嘆の溜息を零した。
「これは……また見事な拝殿ですね」
「…………」
 だが、傍らに居た蔓王は、無言のまま険しい表情で拝殿を見上げている。蔓王のその様子に気付いた永は、首を傾げながら蔓王へ問いかける。
「どうかしましたか? 蔓王さん」
「いえ。どうという事はないのですが……」
 言いよどむ蔓王に、永が再び言葉を発しようとした時。
「あれは……雨歌?」
 蓮生の声が聞こえて、永は拝殿の脇に建てられた小振りの社殿へと視線を移した。社殿の前には、数人の子供達と一緒にお手玉で遊んでいる少女が居る。
 桜は蓮生の言葉に頷くと、穏やかな口調で少女の名を呼んだ。
「雨歌!」
 桜の声に、雨歌は束の間視線を彷徨わせ、やがて拝殿前に桜と六人の姿を見つけると、嬉しそうな笑顔を浮かべて手を上げた。



■ 雨歌 ■

 社殿の前に居た雨歌が、数人の子供達に背中を押されながらこちらへと近づいてくる。その雨歌の容姿を見た途端、紗耶は微かに驚きの色を浮かべた。
「……桜さんと雨歌さんは、双子なの?」
 一卵性なのだろうか。顔は言うに及ばず、長い黒髪も身長も、桜柄の和服までもが同じで、一体どちらが桜でどちらが雨歌であるのか、一見しただけではまるで見分けがつかない。
 紗耶は二人が立ち並ぶ様子を見て、思わず自分の兄の存在を思い出した。
 自分と魂を分けた半身――この二人にも、自分達と同じような繋がりがあるのだろうか。
 紗耶の言葉に返事を返したのは、雨歌の方だった。
「双子よ。見れば解るでしょ?」
 雨歌はさも当たり前といわんばかりに笑いながらそう言って、隣に佇む桜へと抱きついた。そんな雨歌に、桜はただ困ったような表情を浮かべるだけで、返事を返す事はしない。
 百合子は二人の様子を眺めながらニコリと笑顔を浮かべる。
「雨歌さんと桜さんは仲良しなんだね。同い年の姉妹って羨ましいな」
 百合子には歳の近い兄弟姉妹が居ない。もし自分も双子だったりしたら、色々と悩み事を相談出来るのになと、百合子はポツリと羨ましそうに呟いた。

「雨歌姉ちゃんお手玉はぁ?」
 気がつくと、それまで雨歌を取り囲んでいた子供達が、和服の裾を引っ張りながら雨歌を見上げていた。
 まだ遊び足りないのか、子供達は頬を紅潮させたまま両手にお手玉を握り締めている。雨歌はそんな子供達へ向き直ると、パンパンと軽く手を打ってお姉さん口調で言葉を紡いだ。
「今日はもうおしまい! これから大人は忙しくなるから、子供は帰って家の中で遊んでなさい」
 雨歌の言葉に、子供達は不服を示した。全員から「えー!」という不満の声が上がり、その中の一人が雨歌へと言い放つ。
「雨歌姉ちゃんだって子供のくせに、大人とかゆってるー」
「ねー。子供のくせにー」
 その様子を見た雨歌は、群がる子供達の一人を背ろから羽交い絞めするようにして抱きしめる。
「こらぁっ。誰に向って生意気な口きいてるのかなー!?」
 言葉とは裏腹に、雨歌はその顔に満面の笑みを浮かべていた。羽交い絞めにするといっても半ばじゃれあっているだけである。子供も雨歌に抱きしめられた事できゃっきゃと笑い声をあげていた。
「今日は御縄結いの日なんだから遊ぶのはこれで終わり! また今度皆で遊ぼう!」
 雨歌はそう言うと、子供達の頭を一人づつ撫でて背中を押す。子供達はそれで漸く雨歌と遊ぶ事を諦めたのか、笑いながら手を振って呂の鳥居の外へと走って行った。


「子供って元気よね。無邪気でさ、何も悩みなんてなさそうだし」
 子供達の後ろ姿を見送りながら、雨歌は軽い溜息とともにそんな独り言を零した。
 同じ顔をしてはいるが、儚げな印象の桜に対し、雨歌は明るく、どこか親しみやすい雰囲気を抱いた少女だった。
 そんな雨歌へ、桜が心配そうに言葉を紡ぐ。
「……雨歌、あんなに動きまわって大丈夫なの?」
「平気よ。桜は心配のし過ぎだって」
 桜が雨歌の体をいたわるような言動をしたことに気付いた蓮生は、ふと顔を上げると雨歌を見つめた。
 先ほどまで子供達とじゃれあっていた雨歌からは、体調の悪さなど微塵も感じられない。顔色が悪いというわけでもなく、むしろ儚げな空気を漂わせる桜の方が余程病弱なように見える。それでも、桜の言葉が気になった蓮生は、雨歌へと質問を投げかけた。
「具合、悪いのか?」
 口数は少ないが、それでも蓮生が雨歌を心配する気持ちは伝わったのだろう。雨歌は満面の笑みを浮かべて蓮生へと返してきた。
「悪くないわよ、ここのところ全く雨が降らない上に暑いから、ちょっと目眩はするけど」
「やっぱり目眩がするんじゃないの……」
「だから大丈夫だってば! 別に病気ってわけじゃないもの……もうっ、皆過保護過ぎ!」
 蓮生と桜の心配そうな視線を受けて、雨歌は苦笑交じりに「私は大丈夫だから」と念を押した。

 そのやり取りを眺めていた真帆は、百合子へ近づくと耳元でこそりと囁く。
「双子だから顔はそっくりですけど、雨歌さんと桜さん、随分性格が違いますね」
「ん、そだね。桜さんの方がお姉さんなのかな、静かな感じだね。雨歌さんの方がちょっと……えと、大雑把?」
 上手い言葉を見つけ出せず、百合子が少しずれた返事を真帆へ返す。真帆は百合子の言葉にあははと軽い笑い声を上げた。
「それを言うならちょっと短気な感じ、ですよ」
「そっか。短気で庶民的って感じかな」
「そうですね。庶民的っぽいですね」
 真帆と百合子がずれまくった会話を繰り広げていた時だった。
「……ちょっと二人とも、聞こえてるんですけど?」
 不意に雨歌の低い声が聞こえてきて、真帆と百合子は慌てて雨歌の方へ視線を向けた。
 真帆も百合子も、小さな声で話していたつもりだったが、その言葉は全て雨歌の耳に届いていたらしい。雨歌は、むむむと眉間に皺を寄せ、頬を膨らませながら二人をねめつけている。その様子に気付いた二人は、慌てて雨歌へとフォローを入れ始める。
「あっ、えと、えと、悪い意味で言ったんじゃないよっ! 明るくって元気で男の子みたいだなって思っただけで」
「そうですよ! 桜さんは女性らしくて物腰も柔らかですけど、雨歌さんはその正反対といいますか、肝っ玉母さんみたいで明るいなって思います!」
 真帆と百合子の弁明を聞いていた雨歌は、両腕を組みながら溜息を零した。
「あのね、全然褒め言葉になってないわよ、それ」
「…………えへ」
「…………あはは」
 明るいのは良いけど、男の子みたいで肝っ玉母さんって何よ、と雨歌が頬を膨らませながら拗ねているのを見て、百合子と真帆は互いに顔を見合わせると、誤魔化すように笑いあった。


 一方紗耶は、そんな三人のやりとりを微笑ましげに眺めていた。
 自分は率先して会話の中に入っていく性質ではないが、人の会話を聞いているのは楽しいものだと思う。何気なく視線を桜へ向けると、桜も三人から一歩離れたところで楽しそうな笑顔を浮かべている。自分と同じく巫女という立場に在る桜も、他人の会話に割って入るような性格ではないようだった。
 やがて、紗耶の視線に気付いたのか、桜がふわりと柔らかい笑顔を向けてきた。その笑顔を受けて紗耶も小さく微笑むと、思い出したかのように御縄の儀式のことを口にする。
「そういえばさっき、波の鳥居に行けるのは女性だけと言っていたけれど、何故?」
「拝殿から奥は男子禁制なの。だから必然的に波の御縄結いは女性。伊と呂は男性が行う事になっているらしいわ」
「伊と呂の鳥居、女性は手伝わなくて良いの?」
 波の鳥居の御縄結いは夜に行うと言っていた。とすると、自分を含め、真帆も百合子もそれまでは何もする事が無い。暇であるなら、いっそのこと手伝った方が良いのではないかと紗耶は思った。
 けれど桜は、紗耶の言葉に首を横に振って答えた。
「夜通し注連縄を張る儀式を行うから、それまで女性は家で体を休めているか、各々自由に過ごしているわ」

 桜がそう言った時だった。
 話を聞いていた真帆が、妙案を思いついたとばかりに軽く両手を叩いて笑顔を浮かべた。
「それでしたら、今から女性全員で水浴にでも行きませんか? 雨歌さん暑さで目眩がするって言ってましたよね。禊……とまではいきませんけど、暑い時は水浴で涼むのが一番です♪」
 何処かに泉や川などはないでしょうか、とにこやかに告る真帆の言葉に、一瞬桜と雨歌が顔を見合わせる。
「拝殿裏に川が流れているけれど……でも、川は今……」
 困惑したような、怪訝そうな表情。
 けれどそれに気付いた者はおらず、真帆の言葉にやや頬を紅潮させながら百合子が呟く。
「私も行ってみようかな。大勢で水浴って楽しそうだね」
「……そうね。夜まではする事がないのだから、ここに居ても仕方がないし」
 次いで紗耶が同意を示すと、真帆はその顔に満面の笑みを浮かべた。
「そうと決まれば善は急げです!」
 言うや否や、真帆は雨歌の背後に回りこむと、その背中を押し始める。
「ほらっ。こんなに暑いんだからたまには息抜きしないと。本番までにバテちゃいますよ♪」
「えっ、あ、ちょっと!?」
 突然背中を押されて驚いている雨歌を他所に、真帆はふと思い出したようにくるりと男性陣へと向き直った。
「あ、永さんに蓮生さんに蔓王さんは来ちゃダメですよ? 御縄結い頑張ってくださいね♪」
 女性の水浴をのぞき見たりしたら天罰が下っちゃいますからね、と冗談めかして男性三人へ告げると、真帆達五人は川へと向うべく、拝殿裏手へと姿を消した。


 女性陣が姿を消すと、まるで嵐が過ぎ去った後のように、周囲に静寂が戻った。
 永は五人を笑顔で見送った後で、溜息を零しながら蓮生と蔓王へ言葉をかける。
「女性というものは、どうにも群れるのがお好きなようですね」
 女性陣の勢いに押され、口を挟む事が出来ずにいた蔓王は、苦笑しながら永に返した。
「あはは。ですが、皆さん明るく優しい方々ですし。何も問題はないと思います」
 暫くの間は五人で楽しく過ごすのも良いかと思いますよ、と告げる蔓王の言葉に、蓮生も頷く。
「……このまま何も無く、皆無事で居る事は出来ないんだろうか」
 どうしても、古木のもとで血まみれになっていた二人の姿が蓮生の脳裏から離れてくれない。あんな辛い事など起こらず、皆この村で楽しく過ごしていて欲しいと願わずには居られなかった。
 そんな蓮生に、蔓王はいたわる様な笑顔を浮かべる。
「せめて夢の中だけでも、終焉を幸せなものに変えることが出来ればいいのですが……」
 それが出来るのかどうかは解らない。けれど今はまだ、雨歌と桜が無事で居てくれる事が、蓮生には救いでもあった。
「……行きましょう。御縄の儀式が始まってしまいます」
 永が二人にそう告げると、蓮生と蔓王は頷いて呂の鳥居へと向って歩き出した。



■ 御縄の儀 ・ 呂 ■

 正午を過ぎた頃、拝殿の前で直衣に身を包んだ宮司が祝詞をあげ始めた。
 朗々とした声に従うように、やがて呂の鳥居の前に多くの男衆が集い、列を成してゆく。その最後尾に蓮生と永、蔓王は場所を移すと、改めて村の周囲を見渡した。
 桜が言っていた通り、村人達は全員が手や首に小さな鏡を結い下げている。
 今から注連縄を張り替えるのだろう。やがて拝殿の脇から十数人の男達が、真新しい注連縄を御台に乗せてこちらへと向ってきた。

 永は鳥居に張られた古めかしい注連縄を見ると、瞳を細めながら呟いた。
「随分と古い時代に張られた注連縄のようですね。色褪せて腐食が始まっています」
 赤茶色に変色した注連縄は所々藁の捻り(より)が解け、紙垂(かみしで)は既に失われている。何とか原型を留めてはいるものの、もう数年したらぼろぼろに朽ちてしまいそうな程だった。
 だが、永の言葉に蔓王は首を横へ振って返してきた。
「どうでしょう。恐らく五年も経ってはいないと思いますが……」
「五年?」
 永は再び鳥居を見上げた。どう考えても二十年、三十年は放置していたかのような朽ち方である。わずか五年でここまで注連縄が変色するとは考え難い。
「……夏の祭は魂送り等、鎮の意が多くあります。此方の祭は如何様なものなのでしょう」
「祈雨です」
 蔓王が告げると、それまで静かに二人の会話を聞いていた蓮生が疑問を投げかけてきた。
「祈雨?」
「はい。雨乞いと申し上げればお解かりでしょうか。この地方は雨が極端に少ないので、夏季……特に旱魃(かんばつ)が酷い年に、村全体でこうした祭りを行うようです」
 それを聞いた永が、束の間思案した後で蔓王へ向き直る。
「御流神社でしたか。ここの祀神は桜の古木と伺っています。桜に祈雨とは、また奇妙な取り合わせですね」
「……そうですね。僕は神の側の存在ですから、人間が僕達に救いを求めて祀りを行う気持ちは解ります。ですが祭祀の詳細は不可解です。某の神が人間に形式を伝えたのか、長い時の中で人間が独自に創り上げて来たのか……」

 蔓王の言葉を聞きながら、蓮生は空を見上げた。
 近くに川があるというのに、村を吹き抜けてゆく風は妙に乾いている。木々の狭間から見える空はどこまでも青く、太陽は刺すような日差しを地上に向けて降り注いでいた。雨が降る気配は微塵もない。
「……少し、歩いてくる」
 何を思ったのか、蓮生はそう呟いて永と蔓王から離れると、踵を返して伊の鳥居の方へと歩き出した。


*


 雨が降らなければ、地に根付く植物は育たない。蓮生はそれを心配していた。
 参道に沿って植えられている木々に近づくと、蓮生はそっと根元の土に触れてみる。予想していた通り、大地はひび割れており、土を握り締めると、それは砂のようにいとも簡単に砕け散った。
 視線を遠くへ向けると、家屋の向こうに広がる田畑が見渡せる。だが、そこにもあるべきはずの緑が無かった。
「……水が涸れて、稲が育っていないんだ」
 度重なる旱魃(かんばつ)の所為なのだろう。土地に根付く全てが脆弱で、頼りない印象を受ける。
 蓮生は心を痛めながら樹木へと語りかけた。
「苦しいだろう。助けてあげたいけど……」
 天変地異だけは人間の手に負える代物ではない。だからこそ村人達は真剣に豊作を願い、祈雨の祭りを行うのだ。
 涸れた大地とそこにすむ人々に、せめて精神的な癒しだけでも与える事が出来ればと、蓮生は思わずにいられなかった。

 そんな蓮生の心を感じ取ったのか、風も無いのに周囲の木々がざわめき始めた。
 優しい葉擦れの音が響き渡る。その音色に耳を澄ましていると、貴方が辛いと思う必要は無いのだという植物達の声が聞こえてきて、蓮生はゆっくりと瞳を閉じた。
「この木々にはまだ穢れがない。空気が綺麗だ」
 夜に見た木々は、ただひたすら涙を流しているだけで何も語らなかった。けれど今、この場所を取り巻く空気はとても穏やかで、植物達は各々に感情を抱いているのが解る。
「これからここで何が起きる? 教えてくれないか。呂の鳥居から酷く嫌な気配を感じた……それが何か関係しているのか?」
 蓮生が植物に問いかける。
 花の咲かない古木は今はどうしているのか、何故雨歌と桜は血にまみれていたのか――。
 そこまで思い至り、ふと蓮生の脳裏に一つの疑問が過ぎった。
「あの時、あの場所に居た二人……どちらが桜で、どちらが雨歌なんだ?」
 既に事切れていた少女と、それを抱くもう一人の少女。
 双子なのだから顔が同じなのは当然だが、それゆえに疑問が膨らむ。
 その答えを求めようと、蓮生が再び木々を見上げた時だった。

 不意に背後に人の気配を感じて蓮生が振り返ると、そこには桜柄の和服を身に纏った一人の子供が佇んでいた。子供は蓮生を見上げながらにこやかに微笑んでいる。
 その子供の顔に、蓮生は見覚えがあった。
「もしかして……あの時の?」
 夜の夢の中で、雨歌と桜の居る場所を指し示したあの子供だ。
 蓮生はそれに気付くと、思わず子供の腕を握り締めた。子供の手は少しひんやりとしていたが、柔らかい感触はこの子が今ここに生きているという確かな証拠だった。
 蓮生はその事に、安堵にもにた溜息を零す。
 突然蓮生に手を握られた子供は、束の間驚いたように瞳を瞬かせていたが、ややあって再び笑顔を向けてきた。
「お兄ちゃんの周り、優しいね」
「え?」
 言っている事が解らずに、蓮生は子供を見つめながら首を傾げた。
「空気が綺麗。植物がお兄ちゃんのことすきって言ってる」
「ああ……」
「お縄のぎしき、もうすぐ終わっちゃうよ?」
 行かなくて良いの? と告げてくる子供に、蓮生は静かに微笑みながら言葉を紡いだ。
「君は誰? 名前は?」
 その言葉に、子供は首を横へ振って返してくる。
「名前、無いよ」
「…………?」
「巫女は名前を持たないよ?」
 何を今更聞いてくるのだろうとでもいうように、子供は不思議そうな顔をして蓮生を見上げている。
 夢見の力のおかげで、自分達は初めからこの村の住人として住んで居る事になってはいるが、実際は今日初めて来た場所だ。村の人間にとって当たり前の事を、蓮生は知らない。
「……村の巫女は桜じゃないのか?」
「桜媛様は今回のおまつりの巫女。でも役目が終わったら次の巫女が『桜媛』って呼ばれるから、本当の名前じゃない」
 私も巫女として産まれたから、いつかそう呼ばれると思う、と子供は少しだけ視線を落として蓮生に告げた。
「巫女は一人じゃないのか」
「うん。雨の日に生まれた女の子は、みんな巫女になるために生まれてきた子だって村長が言ってた。だからたくさんいるよ。ほら」
 言いながら、子供は一点を指差した。
 蓮生がそれを追って視線を上げると、参道からそれた小道の先に、一軒の屋敷が見えた。木々に覆われ、半ば隠されるようにして立てられた屋敷は、質素な造りではあるものの、他の民家に比べてかなりの敷地面積を有している。
「私達はあそこに居るの。桜媛様も、おまつりの巫女に選ばれる前はあそこにいたの」
「…………」
 村の巫女は、祈雨の祭りの度に代替わりをするのだろうか。何故雨の日に生まれた子供は名を与えられず、一つところに集められているのだろうか。
 次から次へと蓮生の中に疑問が生まれてくる。
 誰かに、詳しく村の事を聞いた方が良いかもしれないと、蓮生が思い至った時。不意に呂の鳥居の方で人々がざわめき始めた。
 何事だろうと蓮生が声のするほうを見遣ると、「早く運んであげて」と叫ぶ女性の声が聞こえてきた。
 どうやら何か起こったらしい。蓮生はその場に子供を残すと、呂の鳥居を目指して走り出した。



■ 枕辺の約束 ■

「雨歌が倒れた?」
 今だざわついている村人達の一人から仔細を聞きだした蓮生は、開口一番そう呟いた。
 川辺で雨歌が倒れ、自分では歩く事もままならなかった雨歌を、百合子や紗耶、真帆達が拝殿近くまで運んで来たのだという。
 水浴へ行く前、雨歌は目眩がすると言っていたが、別段顔色が悪いというわけでもなかった。だがもしかしたら、自分達に気をつかわせまいとして相当な無理をしていたのかもしれない。
 呂の鳥居の御縄結いは既に終わっていた。真新しい注連縄を張られた鳥居からは、初めて見たときよりも強い念のようなものを感じたが、今は雨歌の容態の方が心配だった。
 蓮生は村人に雨歌達の居場所を聞くと、急いで鳥居を潜り抜けた。


*


 雨歌を部屋へ運んだのは永だった。
 巫女である桜の妹が倒れたというのに、村人たちはまるで他人事とでも言わんばかりの様子で、誰一人として手を貸さず、見舞いにすら来なかったらしい。その事に蓮生は百合子酷く心を痛めた。
 既に時は夕刻。逢魔が時とでも言うのだろうか、連子窓の隙間から見える空は毒々しいほどの朱に染まっている。雨歌は依然として目を覚まさず、その顔色は死人のように青白い。皆無言のまま、眠る雨歌の枕辺を囲んでいた。

「私が水浴に誘ったりしなければ……」
 沈黙を破るように、ぽつりと零したのは真帆だった。
 暑さで目眩がするという雨歌に水浴を勧めたのは自分だ。水浴などせず、桜が言ったように体を休めていれば、雨歌は倒れたりしなかったかもしれない。真帆はその事で己を責め続けていた。
 蓮生はそんな真帆に向って静かに言葉を紡ぐ。
「真帆のせいじゃない。そんな事を言ったりしたら、多分雨歌は怒ると思う。それに、自分を責めるのはあまり良くない」
 蓮生は、他人が苦しんだり悲しんだりするのを自分の事のように捉えてしまう。だから今、真帆が自らを呵責している行為を見ているのは辛かった。
 蓮生は雨歌の傍らにすわると、そっとその額に手をあてる。心配しているみんなの為に、倒れた雨歌自身の為に、いま自分が出来る事は、雨歌の疲れた肉体と精神を癒してあげる事だ。
 少しでも自分の力が役に立てばいい……そう思いながら、蓮生はただひたすら雨歌の容態がよくなる事を願い続けた。

 そんな中、不意に桜が、紗耶と百合子、真帆の三人を見渡しながら言葉を紡いだ。
「貴方達はそろそろ波の御縄結いの準備をした方が良いわ」
 それに首を横に振って返したのは百合子である。
「でも、雨歌さんが心配だから……」
 百合子の言葉に肯定の意を表したのは紗耶。
「……そうね。御縄結いには村の人達も行くのだし、私達は雨歌さんについていた方が良いと思う」
 けれど桜は、百合子と紗耶に穏やかな笑顔を浮かべながらこう返した。
「大丈夫よ。私は元々御縄結いには行かないから、雨歌を見ていられるし……蓮生さんや永さんもついていて下さるから」
 雨歌の事は心配しないで御縄の儀式に行っていらっしゃいと、桜は告げる。
 だが百合子と紗耶と真帆は互いに顔を見合わせ、暫くの間その場から離れようとしなかった。
 そんな三人を、永が静かにうながす。
「桜さんもこう仰っている事ですし。蓮生さんが雨歌さんを癒して下さっていますから大事ありません。それに、雨歌さんが目を覚ました時、大勢で覗き込んでいては逆に『大げさだ』と叱られてしまいますよ」
 雨歌の気質からして、恐らく皆が心配すればするほど、元気な素振りを見せ続けるだろう。
 永の言葉に漸く三人は頷いて、「御縄結いが終わったらすぐに戻ってくるから」と言い残すと、躊躇いがちにその場を後にした。


 三人が波の御縄結いの準備の為に社殿から出て行くのを見届けた後、ややあって桜は雨歌の枕辺から離れた。
「少し雨歌を見ていてくださいませんか? 一応、村長に雨歌の容態を知らせてこなければなりませんから」
「……解った。俺が見ているから」
 桜の言葉に、蓮生は頷いて返す。桜は蓮生に礼を述べた後で、雨歌の眠る部屋を出ようとした。
 そんな桜を、不意に永が呼び止めた。
「桜さん」
 桜は一度足を止めると、ゆっくりとした所作で振り返り、首を傾げながら永を眺めてくる。
「……どうかしました?」
「このような時に申し訳ありませんが……後で、お時間が取れるようでしたら話をしませんか。少々お伺いしたい事がありまして」
 桜はやや怪訝そうな表情を見せると、永へと返した。
「今ここで話してはいけないのですか?」
 その言葉に、永は静かに頷く。
「貴方の用事が済んでからで構いません。今日の夜、呂の鳥居の前でお待ちしております」
 有無を言わせぬ永の物言いに何かを察したのか、桜は一度頷くと、
「……解りました。では後のほど」
 そう言葉を残して、雨歌の部屋から下がっていった。



■ 伝承 ・ 神託の巫女 ■

 雨歌が倒れてからどれくらいの時間が流れたのだろう。
 既に日は沈み、燭台に灯された蝋燭の炎が、雨歌の眠る部屋をぼんやりと照らしている。
 そんな中、蓮生は一人、眠り続ける雨歌の傍らに座り、看病を続けていた。
 今この場所には、蓮生と雨歌以外は誰も居ない。百合子、紗耶、真帆の三人は既に波の鳥居の御縄結いに出かけていたし、永は日が落ちると同時に、桜に話があるといって部屋から出て行ったきり戻ってくる気配はなかった。

 しんと静まり返る部屋の中、蓮生は雨歌の顔を眺めながら、そっとその額に触れてみる。雨歌は微かに身じろぎをしたものの、すぐに安らいだ表情を浮かべて軽い寝息を立て始めた。
 昼間倒れた時よりは随分と顔色が良くなってきている。蓮生はその事に安堵し、微かな溜息をこぼした。
「……桜も、疲れているんじゃないかな」
 村の巫女である桜の方が、課せられた責務は重いはずだ。雨歌がこれだけ心身共に疲れているのであれば、桜はそれ以上に体力を消耗している気がする。祭りは来年の三月まで続くと言っていた。それまでの間、少しでも二人の心が安らかであればいいと蓮生は思った。
 それと同時に、ふと蓮生の脳裏をよぎって行ったのは、御縄の儀式のときに出会った名前を持たない少女と、呂の鳥居の事。
「祈雨の祭りの度に、巫女も代替わりをするんだな……でも呂の鳥居……何故あんなに嫌な感じがしたんだろう」
 神社というものは神が座す場所、即ち神聖な空間であるはずだ。
 けれど呂の鳥居からは神聖な空気は感じられなかった。それどころか、穢れにも似た力が内にくすぶっているような感さえある。
 百合子もその事に気付いてたようだったが、御縄結いを神聖な儀式として捉えている村人達は、誰一人としてあの穢れを感知して居ないのだろうか。
 そんな事を考えていた時だった。

 不意に部屋の戸が開かれて蓮生が顔を上げると、そこには一人の老人が佇んでいた。
 古びた麻の着物を身に纏った、腰の曲がった老人――それは、この村に来て最初に出会った人間だった。
「村長……」
「雨歌の容態はどうかね」
 言いながら、村長はゆっくりと雨歌の枕辺へ歩みより、やがて雨歌を間に挟んで蓮生の正面に座り込んだ。
「……幾分顔色は戻ったようだの。全く、祭りの日に倒れおって」
 雨歌の事を心配しているというよりはむしろ、祭りの日に乱を招いた事への非難がこめられた口調だった。村人達が雨歌の見舞いに来ないのは、もしかしたら村長と同じ考えだからなのかもしれない。
 祈雨の祭りが大切なのはわかるが、祭りより何より大切なのは人の命だろうにと、蓮生は心内で寂しく思った。

 蝋燭の炎の所為だろうか、長い顎鬚を片手でさすりながら雨歌を見つめる村長の表情は、どこか重々しく陰湿なものに感じられる。波の御縄の儀式がまだ終わっていないから、その事を気にかけているのだろうか。考えながら、蓮生は雨歌へと視線を落とした。
「昼間よりは良くなっていると思う。でもまだ安静にしていた方がいい」
「……桜と違って、雨歌は昔からよく倒れたものだ」
「雨歌はどこか悪いのか?」
「いや。病んでいるという訳ではないようなのだが……どうにも人が集う場所は苦手らしくてな。こうした祭りの時や、人の多い場所に長く居続けると必ず体調を悪くするのだよ。だから雨歌は決して村内へは足を踏み入れん。幼い頃からずっと呂の鳥居内にある社殿で育てられた」
 何かある度に倒れるようでは、やはり巫女は勤まらんと、村長は独り言のように呟く。それを聞いた蓮生は、昼間に会った子供の言葉を思い出した。
「雨の降る日に生まれた子供が、祈雨の祭りの巫女になると聞いた」
 桜が巫女であるなら、双子である雨歌も巫女になる資格を持っているのではないだろうか。巫女が代替わりをすれば、次の巫女が『桜媛』という名を受け継ぐから、その資格を有する者は名前を持たないと言っていた。それなのに、何故雨歌には名前があるのだろう。
 蓮生の中に、そんな疑問が沸き起こる。それを見透かしたように、村長が言葉を紡いできた。
「桜も雨歌も、雨の降る日に生まれた子じゃよ……だが雨歌には巫女という大役は無理さね」
「……体調が、不安定だから?」
 蓮生の言葉に村長はゆっくりと頷く。
「巫女に選ばれた者が、神哭(かんなき)の祭りの前に命を落とすような事があっては、祈雨が成立せん。祈雨が失敗して逆に神の怒りをかってはならんからな……だから雨歌という名をつけて俗世へ戻した」
「……神哭の祭りというのは?」
 初めて聞く祭りの名だった。
 桜から来年の三月まで祈雨が続くとは聞いていたが、御縄の儀式以外にも村内で何か儀式を行うのだろうか。
 その問いに、村長が蓮生の顔を見つめてくる。
「お前さんはまだ若い。祭りのしきたりを知らんかったか……」
 村長の声はかすれており、やや聞き難くはあったが、蓮生は頷くと言葉の続きを待った。
「夏に御縄の儀式を終えた後、秋から冬にかけて飽贄(あきにえ)の祭りが執り行われる。そして翌年の三月に神哭(かんなき)の祭り。この三つの祭りを無事に終えることが出来て、初めて祈雨が完成する。その間、巫女は呂の鳥居の内側で精進潔斎を行い、神哭の祭りの日に御神木の前で祝詞を上げる……古くから受け継がれ続けた祭りの形式じゃ」
「飽贄と、神哭……」
 半年がかりで行われる祈雨の祭り。それぞれの詳細に関しては解らないが、古くから受け継がれてきたという村長の言葉に、蓮生は一つの疑問を投げかけた。
「祈雨の祭りは、一体どれくらい前から始まったんだ? それに、御神体は桜の古木と聞いているけど、俺はまだ見ていない」
 血まみれの少女が二人、夜の闇の中で泣いていた。あの桜の古木がある場所を、蓮生はこの村に来てからまだ一度も見ていなかった。一体あの桜の木は何処にあるのか。そして今、どんな状態にあるのか。蓮生にはそれが気がかりでならなかった。

 蓮生の問いかけに、村長は一度軽い溜息を零すと目を伏せながら語り始めた。
「拝殿より奥に御流川(ごりゅうがわ)という川が流れとる。今は水かさが減っているから、橋を使わんでも先にいくことは出来るだろうが……橋の向こう側に神楽殿、そこから山道を登ったところに本殿と御神木がある。……尤も、拝殿より奥は男子禁制だからの。お前さんが知らんのも無理はない」
「……男子禁制」
 桜も拝殿より先には女性しか入れないと言っていた。だから波の鳥居の御縄結いは女性が行い、伊と呂の鳥居は男性だけで行うのだと。だがそれでは、御神木を助けたくても傍に行く事さえ出来ない。
「神に仕えるのは女でなければならん。代々口承で村に受け継がれた話じゃて、今となっては真実は解らんがの……」
 そう前置きをした後で、村長は話を続けた。
「その昔、雄滝の村は今とは比類にならんほど豊かな土地だったそうな。水に溢れ、緑が茂り、田には稲穂が満ち溢れておった。それがいつの頃からか、御流川の水かさが減り、雨が降らんようになった。田に穀物が実らねば村は滅びる……」
 確かに、参道から見えた田畑に稲は育っていなかった。雨が降らず土がひび割れていれば、あれではどんなに人間が努力をしたところで、日々の糧を得るのは難しいだろう。旱魃はやがて飢餓を生む。人間は生きてはいけなくなる。蓮生はその事を思い、表情を暗くした。
「……飢えに苦しむ村人が、巫女を依憑(よりまし)にして神の言葉を聞いたところ、御流川の上流で男が土地を穢したという。村人全員が大急ぎで上流へ駆けつけたところ、桜の木の元で、村の男が血まみれになって死んでおったそうじゃ」
 その言葉に、蓮生は思わず息を呑んだ。
「……どうして死んでいたんだ?」
 だが、村長は「わからんよ」と、蓮生へ首を横へ振って返してくる。
「神は地に住まう人間の為に、緑をもたらし、水をもたらし、食物をもたらすが、時に天災をもって人を死に至らしめる。旱魃もその一つさね。男の血によって穢された神木桜の怒りが、御流川の水を涸らしたと言う」
 血を浴びた神の怒り――。
 蓮生は怒りや憎しみ、苦しみなどの感情は無縁に育てられた。だから死んだ男や、それによって穢された神木桜を哀れに思うことはあっても、何故神が人を苦しめるほどの怒りを覚えるのか理解出来なかった。
「巫女の神託で、穢れに触れた神木桜を祀れば村に雨が戻ると言われた。男子禁制となったのは、神木桜に宿る神の怒りを再び呼び覚まさない為……それが祀りの起源さね」
 全てを言い終えると、村長は疲れた表情のまま深い溜息を零した。
「……飽贄の祭りと神哭の祭りが行われる時のみ、男でも女性の衣を纏い、女の面で顔を隠せば拝殿より奥に入る事が許される……わしも過去に数回足を踏み入れただけじゃて、あまり拝殿より奥の事はしらんよ」
 古くから続く祭りの始まりは、決して楽しいものではなかった。神木桜に宿る神は、大昔に起きた出来事にいまだ怒り続けているのだろうか。だから村に雨を降らさず、村人達を苦しめているのだろうか。
 そんな蓮生の気持ちを察したのか、村長は顔を上げて蓮生を見つめると、穏やかな声でこう告げた。
「雨歌はわしがみておる。この部屋を出て右に折れた一室に床を用意した。お前さんは少し休みなさい」
 神の怒りを解き放ち、村に雨をもたらすことが出来れば、神木桜も村人も、雨歌と桜も苦しむ事などないのにと、蓮生は思わずには居られなかった。


*

 雨歌の部屋を出た後、蓮生は用意された一室へは向わず、社殿から外へと抜け出した。
 あんな話を聞いた後では、とても眠れそうにない。夜風にあたれば少しは心も静まるだろうかと思ったのだ。
 今日は新月であるのか、見上げた空に月は見えず、周囲は暗闇に覆われている。静謐な世界の中、蓮生は一人溜息を零した。
「……静かだな」
 まだ何も起きていない。皆が無事に、この村の中で生活している。今自分がいる場所は、神木桜が見ている夢の中だと解っていても、これから起きる事を変えることなど出来ないとわかっていても、それでもこの平穏なひと時がずっと続けば良いと願ってしまう。
「神木桜と話をしてみたいけど……俺が拝殿の奥に入り込んだら、やはり神は怒るんだろうか」
 そう考えて、蓮生が再び深い溜息を零した時だった。
 ふと、呂の鳥居の方角に小さな灯りが灯されている事に気付いて、蓮生は視線を向けた。
 灯火は一定の場所に留まる事無く、上へ下へと揺らいでいる。
「誰か居るのか?」
 ここからでは、暗くて何があるのか詳細は解らない。蓮生は不思議に思って、灯火のある方へと歩き出した。



■ 齟齬 ■

 砂利を踏みしめながら、灯火の光に向って蓮生が歩いていると、やがて女性の声が耳に届いた。
 何を言っているのか詳細までは聞き取る事が出来なかったが、声の質から、それが桜のものであることに気がつくと、蓮生はおもむろに声をかけた。
「……桜?」
 蓮生の声が相手に届いたのか、ふと声が止み、灯火が自分の方へ向けられたのがわかった。その光に映し出されたのは、桜ともう一人――
「……永さん」
 呂の鳥居に居たのは、桜と永の二人だった。そういえば二人で話があると出かけたのだったかと、蓮生は夕刻の二人の会話を思い出す。
 二人も蓮生の存在に気付いたのだろう。灯火を掲げながら、永が蓮生へと話しかけてくる。
「蓮生さんでしたか。闇夜に明かりも持たず、どうしました?」
「別に、どうというわけでもない。村長に、部屋を用意したから少し休むようにと言われて……でも眠れそうにもなかったから、外に出ただけだ」
 蓮生は二人の傍らまで来ると足を止め、二人を交互に眺めながらそう言った。
 そんな蓮生に、桜が穏やかな口調で話しかけてくる。
「雨歌の傍に、村長がついているの?」
「ああ。顔色も大分良くなっていたけど、まだ安静が必要だと思う。村長も心配していた」
 それを聞いた桜は一度押し黙った後で、ゆっくりと隣に居た永を見上げた。
「雨歌のところへ戻ります。永さん、失礼して構いませんか?」
 永は桜の言葉に頷くと、やんわりとした笑顔を浮かべた。
「構いません。私の方こそ、時間をとらせてしまい申し訳ありませんでした……またいつか、先ほどの件を伺いたいものですね」
 桜は二人に軽く会釈をすると、雨歌の居る社殿の方へと戻っていった。


*


 永は暫くの間桜の後姿を眺めていたが、ややあって蓮生へ向き直ると質問を投げかけた。
「雨歌さんの容態ですが、大分落ち着いたようですね」
 だが、蓮生は永の言葉に返す事はせず、ただじっと呂の鳥居を見上げている。不思議に思った永は、軽く蓮生を覗き込むようにして声をかけた。
「……蓮生さん?」
「ああ……何?」
「どうかしましたか? 先ほどから思案げにしていますが」
 問われた蓮生は一度永を見上げると、再び呂の鳥居の方へと視線を移した。
「何故だか解らないけどあの鳥居、とても嫌な感じがするんだ。でも村長は、雨歌がこの鳥居の内側からは出られないと言っていた。桜も御縄の儀式から神哭の祀りの日まで、呂の鳥居の内側で生活するみたいだ」
 永は手にしていた灯火を呂の鳥居へと掲げると、蓮生に倣うようにして鳥居を見上げる。
 真新しい注連縄を張った鳥居は、灯火の光に照らされて異様な存在感を放っている。闇夜であることが心理的に影響を及ぼしているのだろうか、それは真昼と全く違う様相を呈していた。


「雨歌さんが外へ出られないというのは、何故でしょう」
 永のその問いに、蓮生は先ほど聞いた村長の言葉を思い出す。
「雨歌は人の多く集まる場所が苦手らしい。何かある度に倒れると言っていたから……もしかしたら、穢れに弱いのかもしれない」
 人の多い場所は空気が淀む。人間の抱く念や情といったものが、場の空気を汚すからだ。
 そういった空気とは無縁に育てられた蓮生だからこそ、ほんの僅かな空気の淀みを敏感に感じ取れる。
「……この神社は普通と少し違う。鳥居から神聖な空気を感じ取れない」
 村内も拝殿も、別段嫌な気配は感じないのに、この鳥居からだけは邪念が滲み出ている。それが何故なのか、蓮生には解らなかった。
 そんな蓮生の隣で、永が呟く。
「この注連縄は左本右末に張られています。これは通例とは異なり、鳥居より内側に在る穢れや禍を閉じ込める意味で用いられるのですが……」
「穢れを閉じ込める?」
「ええ。ですがこの村では、禍をもたらす神を祀っているのではなく、あえて左本右末の注連縄で神の力を封じ込めているようです」
 永の言葉に、蓮生は束の間口を閉ざした。先ほど村長から聞いた話と、何かが食い違う。
「……村長は、神木桜に宿る神が怒っていると言っていた。その怒りを静めるために古木を祀り、祈雨を願っていると。だから、村人達が神を封じ込めるというのは……」
 おかしいのではないか――。蓮生は語尾を濁して永へと呟く。
 それを聞いた永は、蓮生へと静かに言葉を紡いだ。
「村長は何と仰っていたのですか? 神木桜の神が怒っているのは何故です?」
「村の男が神木桜を血で穢したのが原因で、神が村に旱魃を招いていると言っていた」
 だからこそ、蓮生は神の怒りを解き放ち、村に平穏が戻ってくれればいいと考えていたのだ。それなのに、何故村人は神を封じ込めるような真似をしているのか。
 再び沈黙した蓮生の隣で、永が怪訝そうな顔をしながら独り言を零す。
「……妙ですね。それでは神木桜は禍を招く神として捉えられている事になる。桜さんは、そのような事は一言も仰っていませんでしたが」
「…………」
「村の造りといい、祀りのしきたりといい……どうにも腑に落ちないことが多すぎます」
 永はそこまで言うと、鳥居内から外へ抜け出して周囲を見渡した。
 どうしたのだろうかと蓮生が永の様子を眺めていると、永は灯火を掲げながら虚空に向って言葉を放った。
「……蔓王さん。いらっしゃいますか?」
 永が呼んだのは蔓王だった。
 そういえば、御縄の儀式以来、蔓王の姿を見ていない。一体今、どこで何をしているのだろうかと蓮生が疑問に思った時だった。

 不意に、前方から一陣の澄んだ風が流れ始めた。
 村の空気よりも一段と清浄な気配が周囲を取り巻いてゆく。蓮生と永がそれを感じながら前方を見つめていると、俄かに眼前に広がる景色が揺らぎ、波紋の形を作り始めた。
 まるで見えない水の壁が自分達の前に現れたようだった。蓮生が思わず瞳を凝らすと、やがてその波紋の中からゆっくりと蔓王が姿を現した。


 名を呼ばれて姿を現した蔓王は、二人を交互に眺めた後で複雑そうな笑顔を見せる。
 蓮生は突然現れた蔓王へ言葉を紡いだ。
「蔓王……今までどこにいたんだ?」
「申し訳ありません。僕はこの鳥居より奥へ入る事が出来ないのです……」
「……鳥居を取り巻いている穢れが原因?」
 蔓王が蓮生へ頷き、言葉を返そうとした時だった。
 傍らに立っていた永が一歩進み出ると、端的に蔓王へと用件を述べた。
「夏神様。咲かずの桜樹、今は何処に? 拝見したいのですけれど」
 村へ来てから、まだ一度も神木を見て居ない。神木は本殿にあると聞いたが、今どのような状態に在るのか見ておく必要があると、永は考えていた。
 そんな永に、蓮生がぽつりと呟く。
「多分、無理だと思う」
「何故です?」
「拝殿より先は男子禁制の聖地。神木があるのは拝殿を越えた本殿よりもさらに奥にあるって村長が言っていた。……だから、俺達男は見ることが出来ない」
 禁を犯して神木の元へ行くのは村のしきたりに反する。それに今は、女性達が波の御縄結いの為に本殿へ向っているはずだ。鉢合わせてしまう可能性も十分にあった。
 けれど永は真顔で蓮生に向き直ると、きっぱりと言い放った。
「ですが拝殿の外に居るだけでは埒があきません。考えているだけでは、事は進まないのではありませんか?」
「…………」
 永は沈黙する蓮生から視線を外すと、蔓王へ顔を向ける。
「夏神様。可能であれば案内して頂けませんか」
「……僕自身は参れませんが、お二人だけを樹の元へお送りする事は可能です……蓮生さんはどうなさいますか?」
 蔓王が、蓮生と永を交互に見遣りながらそう問いかける。永は既に御神木の元へ行く決心がついているようだったが、蓮生は依然沈黙したままだった。
 そんな蓮生を見て、永は微かに溜息をつくと再び蓮生へ声をかけて来た。
「もし躊躇いがあるのであれば、私一人で参りますが……」
 確かに躊躇いはある。男子禁制の場所へ向い、神木桜に宿る神の機嫌を損ねてしまったら、村はさらに酷い状況に陥るのではないかと、蓮生は心配だった。だが、それと同時に神木桜に聞いてみたい事もあった。
 まだ血に穢された事を怒っているのか。村人が注連縄で神の力を封じているというのは本当なのか。
 それを考えると、永の言うとおりこのまま拝殿に居続けたのでは埒が明かないような気がする。
 蓮生は意を決すると、永と蔓王を見つめながら頷いた。
「……俺も行く。俺も、神木の様子が気になるから」
「決まりましたね」
 永は蓮生に笑顔を見せると、蔓王を見遣る。
 蔓王はそれに頷くと、ついと右手を二人の方へ差し出しながら言葉を紡いだ。
「では、お二人とも目を閉じていて下さい」
 蔓王に言われるまま、二人はゆっくりと瞳を閉じた。瞬間、周囲を強い風が取り巻き、二人は風に体が浮遊するような感覚を覚え、身構えるように己の顔を両腕で覆い隠した。



■ 神木桜 ■

 気がつけば風は止み、浮遊する感覚も無くなっていた。
 瞳を開くと、周囲には深淵の闇が広がっており、どこに何があるのかさえ解らない状態だった。
 踏みしめる砂利の感覚や葉擦れの音から、ここが外なのだということはわかる。だが、本当に神木のある場所へ辿り着けたのかどうか、この暗がりの中では二人には解らなかった。

 永が手にしていた蝋燭に再び灯りを点すと、ほんのりと柔らかい炎が揺らぎ、僅かに周囲を照らし出した。
「蓮生さん、大丈夫ですか?」
 永は手にした灯火を掲げながら、一緒に飛ばされたはずの蓮生を探して辺りを見渡す。
 やがて近くで蓮生の気配を感じてそちらを見遣ると、
「大丈夫だ。暗くてよく解らないけれど……本当にここに神木があるのか?」
 言いながら自分に歩み寄ってくる蓮生の姿があった。

 風に乗って、祝詞を唱える女の声が聞こえてくる。
 永が心を落ち着けながらその声に耳を澄ましていると、どうやら祝詞は自分達の背後で唱えられているようだった。
 次第に目が闇に慣れてきたのか、永は自分達の背後に小さな社殿がある事に気付いた。
 社殿を挟んだ向こう側から、微かな明かりが漏れており、何人もの女の声が聞こえてくる。
「……恐らくここは本殿の奥なのでしょう。社殿の向こうで女性達が波の御縄結いを行っているようですね」
「それなら、御神木は一体どこに……」
 ここが本殿の最奥であるなら、神木は自分達の前面にあるはずだ。永は再び灯火を前方に掲げると、思わず瞳を見開いて、視界に映し出されたものを凝視した。
「…………あれではありませんか?」


 闇の中、蝋燭の光に照らされて姿を現したのは、枝に満開の花を咲かせた桜の巨木だった。
 初めて見た時、御神木は一つも花をつけていなかった。だが、今二人の目の前にある御神木は、見事なまでに紅色の花をつけている。
「……これが、神木桜? 本当に?」
 蓮生は呟きながら、半ば誘われるようにして御神木へと近づいた。
 巨大な幹の根元から上を見上げると、まるで桜の花弁に抱かれているような心持になる。蓮生はそっと御神木に触れると、瞳を閉じた。
 御神木は、一体どんな気持ちで花を咲かせているのだろう。
 己の身の内に、いまだ抑えきれないほどの怒りを抱えているのだろうか。
 蓮生は心配しながら、古木に語りかける。だが、蓮生の心の声に、古木が返事を返してくる事は無かった。
「うつろだ……声が聞こえない」
 古木が答えたくないのか、それとも答えられないのか。判然とせず、蓮生は幹へ額を押し当てると、さらに深く古木の心を探った。
 蓮生が呼びかければ、他のどの植物達も必ずその呼びかけに答えてくれる。蓮生が持つ清浄な神気は、精霊や神にとって心地の良いものだからだ。
 だが、どれほど蓮生が古木に語りかけ、その心に触れようと思っても、古木からは何も感じ取る事が出来なかった。
「……居ないんだ」
「居ない、とは?」
 蓮生の言葉を、永が反芻する。
 蓮生は永に解るよう、古木に触れたまま話を切り出した。
「今、この木には神が宿って居ない……きっとこの中から抜け出している。主である神がこの木から抜け出した時、時間の流れが止まった。だから、夏なのに桜が咲いているんだ」
 だから声が聞こえない。返事を返してくれない。
 蓮生は確信を持ってそう言葉を紡いだ。
 恐らく抜け出した季節が春なのだろう。
 何故神が木から抜け出したのか、真相はわからない。だが封じられているという永の言葉が真実なのだとしたら、神はまだ村内に留まっているはずだ。
 無事で居てくれればいいと思いながら、蓮生は幹から手を離すと、再び御神木を見上げた。


 蓮生の言葉を聞きながら、永もまた御神木を見上げていた。
 蓮生は、神木に神が宿っていないという。だとすれば一体今どこに居るのか。そう思ったとき、ふと桜の顔が脳裏を過ぎった。呂の鳥居で会話をしたとき、桜は神を見た事があるような事を言っていた。だとすれば、桜は間違いなくこの神木に関する事を知っているはずである。
 永は考え至ると、無言で懐に入れていた懐紙を取り出し、携帯していた筆で文字を綴り始めた。
「……永さん? 一体何を……」
 だが永は蓮生へ言葉を返さず、心を集中させて文字を綴る。懐紙には『護』という文字が認められていた。
「……それは何?」
「お守りです。御神木の為に」
 永はそう告げると、書き上げたばかりの文字を木の人目につかぬ場所へと置いた。
 今すぐに己の文字が効力を発揮する事はないかもしれないが、それでも、何もせずに神木桜を放置しておくよりはましだろう。
 蓮生と永は、静かにその場に佇んで、古木に宿っていた神の事を考えていた。




<桜媛奇譚―雨歌の章― ・ 終>






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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】


【1711/榊・紗耶(さかき・さや)/女性/16歳/夢見】
【3626/冷泉院・蓮生(れいぜいいん・れんしょう)/男性/13歳/少年】
【5976/芳賀・百合子(ほうが・ゆりこ)/女性/15歳/中学生兼神事の巫女】
【6458/樋口・真帆(ひぐち・まほ)/女性/17歳/高校生*見習い魔女】
【6638/藤宮・永(ふじみや・えい)/男性/25歳/書家】



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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、綾塚です。この度は『桜媛奇譚――雨歌の章――』をご発注くださいまして、まことに有難うございました。 そして、自分の予想をはるかに上回る文章量になってしまい、日程調整がつかず遅延してしまいました事を深くお詫び申し上げます。

 三連作の一話目になります。今回はお選びいただいた選択肢によって、得られる情報が異なっております。大まかに女性陣は村の地理、男性陣は村の祭祀に関する情報が手に入っていると思いますので、他のPC様のノベルをお読みいただくと話が繋がる場合がございます(ただしPC様はその内容を知り得ませんのでこの点だけはご了承下さい)
 それにしても、設定が設定だけに複雑怪奇になってしまい……さらに連作ゆえに謎を謎のまま伏線として多々残しておりますので、不可解な点が万歳だと思います(すみません…)。あまりにも謎だという点がありましたら、遠慮なくご一報くださいませ。
 それでは、少しでもお気に召して頂けましたら幸いです。