■家庭教師がやってきた 3■
笠城夢斗 |
【4958】【浅海・紅珠】【小学生/海の魔女見習】 |
――あなたは俺が護ります。必ず。
そう聞かされてから、一ヶ月も経っただろうか――
竜矢が変わった。
ニュイシェンのことに関して、本家に強く意見を言うようになった。彼女を辞めさせろと言うのではなく、彼女の教育方針を遠まわしに批判する。
そのためもちろん竜矢が屋敷を留守にすることも多いのだが、その隙にニュイシェンが紫鶴の心をつかもうとしても無駄だった。
最近、竜矢はしっかりと紫鶴とコミュニケーションをとっている。
竜矢は紫鶴が生まれて間もない頃からずっと傍にいるのだ。その絆に、ニュイシェンがつけいる隙はない。
ニュイシェンの表情が冷たく凍る。
そして彼女は、次の手段に出た。
■■■ ■■■
「紫鶴……」
珍しく、凛々しい家庭教師が意気消沈して紫鶴の部屋にやってきた。
「シェン殿?」
勉強の時間だというのに、教科書を紫鶴の机に置いたまま、ニュイシェンはうつむいたまま。
「どうしたのだ? 何かあったなら言ってくれ、力になるから――」
紫鶴はニュイシェンが好きだった。どれほどスパルタ教師であろうとも。
「紫鶴……」
ニュイシェンはか細い声で言った。「私は……竜矢に嫌われているのね……」
「え……」
紫鶴はつまった。
確かに、竜矢はニュイシェンの言動にいい顔をしない。しかし――
「き、気にすること、ないと……思うぞ」
しかしニュイシェンは悲しい顔で首を振る。
「言っても、いいかしら? 紫鶴」
「――うん、何でも聞く」
「私……」
ニュイシェンは、吐息のように囁いた。
「彼のことが……好きなの……」
その一瞬。
紫鶴の心臓が、止まった。
「その彼に嫌われているなんて。ああ――」
ニュイシェンは両手で顔を覆った。
「―――」
何も言えずにいる紫鶴の前で、
「ごめんなさい、今日はもう授業をできそうにない。自習でいいわ。ごめんね」
ニュイシェンは逃げるように紫鶴の部屋を出て行く。
紫鶴は呆然と、独り部屋に残された。
――彼のことが好きなの。
「シェン殿が……竜矢のことを?」
ぽつりと、言うつもりもなかった言葉が落ちる。
何故だろう。
心が冷え切っていた。どこかが凍ってしまっていた。
そしてふと気がついた時――
「………っ」
紫鶴は泣いていた。ぽろぽろと頬に涙の雫。
「な……んで……」
分からない。なぜ、分からない……
そして次の日。
ニュイシェンはとどめの言葉を、紫鶴に告げた。
「竜矢に告白しようと思うの。紫鶴、手伝ってくれる?」
紫鶴は固まった。
気がつけば机に向かい、震える手で便せんに文字を書き殴っていた。
友人のロザ・ノワール宛へ。
――どうかこの苦しみから助けてくれと。
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家庭教師がやってきた 3
「姫! 今日はバスケでもいかがですか?」
如月竜矢[きさらぎ・りゅうし]は明るい笑顔で、庭から彼の主たる少女を呼んでいた。
屋敷の中にいた葛織紫鶴[くずおり・しづる]は窓から世話役の姿を見下ろして、
「やる! ちょっと待っていてくれ!」
「紫鶴!」
鋭い声が飛んだ。
紫鶴は振り向いた。――そこに、一ヶ月と少し前に自分の家庭教師としてやってきた女性がいる。月女神[ユイ・ニュイシェン]。彼女は厳しい顔で、
「今は地理の授業中よ」
と言った。
「だって竜矢は午後から出かけるんだ。今の内に」
「次期当主のあなたに遊んでいる暇などないのよ!」
「遊びじゃない、スポーツだ。体を動かすと脳の働きにもいいと竜矢が言った」
紫鶴はニュイシェンを信頼している。
だが、竜矢に対するそれとは比べ物にならないことを、無意識に思い出していた。――友人たちが思い出させてくれた。
「シェン殿はスポーツは教えてくれない。だから竜矢に教えてもらわないと」
「当主にスポーツなど必要ありません」
「いいや。だって剣舞は体を動かすものなのだから」
紫鶴は剣舞の舞姫である。葛織家は剣舞で成り立っている退魔師の家系だ。剣舞ができないなどもってのほかである。
じゃあ、と紫鶴はニュイシェンが止めるのも聞かず外へ飛び出した。
「竜矢――!」
「遅いですよ、姫――」
仲のいい2人の笑い声が聞こえる。
ニュイシェンはきつく、拳を握った。
――あなたは俺が護ります。必ず。
そう聞かされてから、一ヶ月も経っただろうか――
竜矢が変わった。
ニュイシェンのことに関して、本家に強く意見を言うようになった。彼女を辞めさせろと言うのではなく、彼女の教育方針を遠まわしに批判する。
そのためもちろん竜矢が屋敷を留守にすることも多いのだが、その隙にニュイシェンが紫鶴の心をつかもうとしても無駄だった。
最近、竜矢はしっかりと紫鶴とコミュニケーションをとっている。
竜矢は紫鶴が生まれて間もない頃からずっと傍にいるのだ。その絆に、ニュイシェンがつけいる隙はない。
ニュイシェンの表情が冷たく凍る。
そして彼女は、次の手段に出た。
■■■ ■■■
「紫鶴……」
珍しく、凛々しい家庭教師が意気消沈して紫鶴の部屋にやってきた。
「シェン殿?」
勉強の時間だというのに、教科書を紫鶴の机に置いたまま、ニュイシェンはうつむいたまま。
「どうしたのだ? 何かあったなら言ってくれ、力になるから――」
紫鶴はニュイシェンが好きだった。どれほどスパルタ教師であろうとも。
「紫鶴……」
ニュイシェンはか細い声で言った。「私は……竜矢に嫌われているのね……」
「え……」
紫鶴はつまった。
確かに、竜矢はニュイシェンの言動にいい顔をしない。しかし――
「き、気にすること、ないと……思うぞ」
しかしニュイシェンは悲しい顔で首を振る。
「言っても、いいかしら? 紫鶴」
「――うん、何でも聞く」
「私……」
ニュイシェンは、吐息のように囁いた。
「彼のことが……好きなの……」
その一瞬。
紫鶴の心臓が、止まった。
「その彼に嫌われているなんて。ああ――」
ニュイシェンは両手で顔を覆った。
「―――」
何も言えずにいる紫鶴の前で、
「ごめんなさい、今日はもう授業をできそうにない。自習でいいわ。ごめんね」
ニュイシェンは逃げるように紫鶴の部屋を出て行く。
紫鶴は呆然と、独り部屋に残された。
――彼のことが好きなの。
「シェン殿が……竜矢のことを?」
ぽつりと、言うつもりもなかった言葉が落ちる。
何故だろう。
心が冷え切っていた。どこかが凍ってしまっていた。
そしてふと気がついた時――
「………っ」
紫鶴は泣いていた。ぽろぽろと頬に涙の雫。
「な……んで……」
分からない。なぜ、分からない……
そして次の日。
ニュイシェンはとどめの言葉を、紫鶴に告げた。
「竜矢に告白しようと思うの。紫鶴、手伝ってくれる?」
紫鶴は固まった。
気がつけば机に向かい、震える手で便せんに文字を書き殴っていた。
友人のロザ・ノワール宛へ。
――どうかこの苦しみから助けてくれと。
■■■ ■■■
ノワールは自分の保護者である紫音・ラルハイネに頼んで、紫鶴の友人たちを集めてもらった。
場所は紫鶴邸のいつものあずまや。
もちろん紫鶴にも来てもらい、話し合いの場とする。
紫鶴は茫然自失で、声をかけてもぼんやりと返事をするだけだった。あの快活な姫の影がどこにもない。
「よっす、ノワールもお久ー……」
久しぶりの顔が紫鶴の前に現れた。
浅海紅珠[あさなみ・こうじゅ]。紫鶴とノワールの関係をつなげるのに一役買った少女である。
それからアレーヌ・ルシフェル。
サーカス団の友人2人に用事ができてしまったため、今回特別に紫鶴に会いにやってきた。
あとは黒冥月[ヘイ・ミンユェ]、黒榊魅月姫[くろさかき・みづき]、榊船亜真知[さかきぶね・あまち]のいつもの面子である。
まず紅珠が、久しぶりに見る紫鶴の憔悴気味に驚いた。
「おい、大丈夫かよ?」
「うん……あれ、紅珠殿……今日は雨か?」
思いっきり晴天である。全然大丈夫そうじゃない。
「とりあえずお茶でも飲んで落ち着こうぜ?」
慌てた紅珠がお茶を用意させようとして、竜矢がその場にいないことに気づいた。
しかしそこは心配無用。
「ハーブティーと茶器を揃えてきましたわ。紫鶴様、どうぞお飲みになって」
亜真知がちゃっかりとその両手に道具を揃えていた。竜矢がいないことを、事前に紫音に聞かされていたからだ。
魅月姫が茶器を並べるのを手伝い、亜真知はカモミールティーを淹れた。
いい香りがあずまやに広がる。目の前に置かれたティーカップに、紫鶴はぽつりと「素敵なハーブティーだな……」と言った。
まだ正気は残っているようだ。
カモミールティーは精神安定の効果がある。
紫鶴は緩慢な仕種でそれを飲んだ。
隣席のノワールが、ぎこちない手つきで紫鶴の髪を撫でる。いつも無表情なノワールが、今回ばかりは少しだけ不安そうな顔をしていた。
ノワールとは反対側の紫鶴の隣席に座ったのは、冥月だった。お茶を飲み、
「けっこうなお手前だ」
「ありがとうございます」
亜真知はにっこりと微笑む。
「な、紫鶴」
紅珠は身を乗り出して話しかけた。
「まずは1から話してみろよ。全部聞いてやるから」
「ええ、それがいいですわね」
「でも……」
紫鶴は目を伏せる。「下らない話……」
「下らなくはないわ、紫鶴。現にあなたは今苦しんでいるでしょう」
魅月姫が凛とした声で紫鶴の背中を押す。
そして冥月が、
「紫鶴、拙くていいから、今お前の心に浮ぶ言葉を全て口にしてみろ。恥しくても支離滅裂でも、悲しい事や酷い言葉でも構わんから」
と優しい声音で言った。
アレーヌはあまり興味のなさそうな顔で、ただお茶を飲んでいた。
紫鶴が口を開くのに、大分間があった。その間、うつむき、しきりに手と手を膝の上で小さく動かす。
「……紫鶴……」
ノワールが囁いた。
紫鶴はぽつりと言った。
「竜矢が……最近どこか変わって……」
――彼が変わったこと自体は、紫鶴も感じていた。
「それで……シェン殿が竜矢のことを好きだと言って……」
それで、何でか泣けてきて
シェン殿が竜矢に告白すると言って
手伝ってと言われて
それで、苦しくてたまらなくなって
何で苦しいのか分からなくて
それでノワール殿に手紙を書いて
「シェン殿は……竜矢に嫌われているのが嫌だって……」
竜矢がシェン殿を嫌っているのは何となく分かる
私は竜矢もシェン殿も好き
でも……
でも……
手伝いたいとは思わなかった
何で? どうして?
2人とも好きなのに……!
「……っ分から、分からない……!」
首を激しく横に振って、紫鶴は頭を抱えた。
冥月がひそかにニュイシェンの顔を思い浮かべ、くくっと笑う。
(……焦っているな)
紅珠が歌い始めた。彼女はその歌声に精神安定の力を乗せていた。
荒れていた紫鶴がだんだん落ち着いていく。
聞いていた面々は、それぞれに感想を抱く。
(いずれは直面する問題と思っていたけれど、この様な事態で表面化するとは……)
魅月姫は眉をひそめる。
「もしこれが竜矢で、彼があたふたしているところなら面白そうだから放っておくのだけれど」
ぼそっとつぶやいた言葉に、ぎょっと周りが引いた。
魅月姫は気にしなかった。続けて思考にふける。
――今回の当事者は紫鶴だ。
(このままでは心が壊れてしまう、それでなくても深い傷を残す……)
そんな魅月姫の隣で、亜真知は同じ女として憤りを感じていた。
(今度はその手ですか、趣味がよろしくありませんわね)
アレーヌが、ようやく口を開いた。
「姑息な手段ですわね」
紫鶴が、少しだけ顔を上げた。
「姑息……? 何が……?」
「紫鶴ー。あのさ、その、シェン先生っての? おかしすぎると思わねえ?」
紅珠は相変わらず身を乗り出したまま、紫鶴の方をまっすぐ見て言った。
「おかしい……」
「普通はそーゆー相談は姉妹とか友達とかにすんの。これは大人が子供に、特に先生が生徒にもちかける相談じゃない。……少なくとも常識的にヘン」
「相談……」
「竜矢に告白するとかさー。もーそんなこと生徒に相談してどうすんだっての」
紅珠は種族的に、恋に生きて愛に死ぬようなタイプである。この手の話には真剣だった。
「シェ、シェン殿は別にヘンじゃない……」
変なのは私なんだ、と紫鶴はまた激しく首を振る。
「す、好きなシェン殿のために、何かしてあげるのが嫌だなんて」
「……自分で自分を傷つけようとするな、紫鶴」
冥月が紫鶴の肩を抱いた。「今はな、皆お前の苦しみを取り除くために来ているんだ。お前が苦しむところは見たくない」
「だって……」
冥月は直接教えることはしない。自分で気づかせる方針でいた。
(下手に他人が教えると2人の近すぎる関係や未熟な心で逆に拒む危険もあるからな)
自分で少しずつ気付き膨らませ育てさせるべきだろう、と。
特に紫鶴は、まだ若すぎるから。
(とは言え……感情の一線を越えるのは難しいか)
内心で嘆息する。
さて……
冥月はテーブルについている他の友人たちを見た。彼女たちは、紫鶴に何を言う?
亜真知が姿勢を正した。
紫鶴に向かってにっこり微笑み、
「紫鶴様はノワール様の事がお好きでいらっしゃますわね。それにここにいらっしゃる皆様方の事もお好きだと思いますが、竜矢様の事もお好きなのでしょう?」
「竜矢……のこと……は……」
ああほら、言えなくなっている。
さっきのように軽く「シェン殿も竜矢も好き」と言えなくなっている。
混乱し始めた紫鶴に、続けて優しく。
「竜矢様とご一緒の時はいつもどの様なお気持ちですか、ご自分の心に問い掛けてみるのも良い事ですよ」
「どんな……気持ち……」
視線が泳ぐ。
どんな気持ちなんて、そんなこと決まっている。
魅月姫が紫鶴にまっすぐ向き直った。
「紫鶴、これはあなたの心の問題。あなたは竜矢の事をどう思っているのかしら。あなたの思いつく限りの言葉で教えてくれるかしら」
問われて、紫鶴は一生懸命言葉を探した。
「りゅ、竜矢を……嫌だと思ったことは……一度も、ない……」
「ええ」
「竜矢は、いつもいつも傍にいてくれて……」
「ええ」
「竜矢が……いれば、寂しく……なくて……」
「ええ」
「……竜矢がいなくなるのは、怖い……」
「ええ」
「……竜矢に依存してるってシェン殿に言われたけど、私は……竜矢から離れたくない」
「ええ」
「……いつかは離れなきゃいけないことは分かっているけど……!」
感情が荒ぶった。紫鶴は乱れた髪を気にせず顔を上げた。
切ない表情で。
「でも……本当は、離れたくない――」
私は子供なのだろうか、とつぶやきが落ちた。
亜真知がそっと囁いた。
「好きにも色々とありますが、紫鶴様が苦しく思っている事も好きという気持ちから来るものです。それも特別な好きです」
優しく、いつしくむように。
紫鶴が色違いの両眼に不思議そうな色を見せた。
「特別な……」
「そのお気持ちを無理に胸の内に抑え込む事はありません。胸を張って対抗しちゃいましょう」
「………」
「竜矢を思う心を大切にしなさい。それはあなたを強くしてくれます」
魅月姫が言葉を重ねた。
冥月が苦笑した。紅珠が拳を固める。
「そうだぜ紫鶴! 今時歳の差なんて関係ないって!」
「と、歳の差?」
だいたいな、と紅珠は人差し指を立てた。
「恋ってのは1人じゃできない。……嫌われてるってわかってる時点で、そいつの恋は成立しないんだよ。そいつに教えてやれ、相手の幸せには何がベストか考えるのが一番いいって」
こ、い
紫鶴の心に、ダイレクトに飛び込んできた言葉。
「……まだそこまで自覚させなくてもいいと思うけれど」
アレーヌが吐息をついた。ティーカップを静かに置く。
そしてようやく紫鶴の方を見て、
「あなたにも譲れないものがあるのではなくて?」
「譲れないもの……」
「嫌だと思うのなら手伝わなければいいのだわ。あっちは大人、まだ子供のあなたの手を借りられなくとも、自分でできるでしょう」
「まあそうだな。シェンには姉妹もいることだし」
冥月は足を組んでわずかに笑った。「シェンが万が一本気なら、今の紫鶴のように苦しんで自分で答えを出せばいい」
「シェン殿が私の……ように?」
「お前は分からなくていい、紫鶴」
「で、でも……!」
「お前は今、自分のことで手が一杯だろう。まずは自分の心に整理をつけろ。でなくては他人の心まで背負えない」
そう言って、冥月は紫鶴の肩をぽんぽんと叩いた。
「ふう……それにしても、本当に姑息な手段」
最初につぶやいた言葉を、もう一度アレーヌはつぶやいた。
紫鶴にはその意味が分からない。分からないが――……
「……竜矢とシェン殿が結ばれてしまったら……私は喜べるだろうか」
「それはあなた自身が知っているでしょう、紫鶴」
魅月姫がそっと言葉を添えると、こくんと紫鶴はうなずいた。
「喜べ、ない……これは、いけないことだろうか……」
「大丈夫だって! ほら、さっきそっちのねーちゃんが言ったみたいに堂々と胸を張って対抗しちまえ!」
紅珠がにっと笑う。
「シェン殿の敵にはなりたくない……」
できれば味方でいたいのに、と紫鶴はつぶやく。
「ではあなたの心、譲ってもいいのかしら?」
アレーヌが肩をすくめた。「いいのだったらそれでいいけれど」
「―――」
「もう一度言います。竜矢を思う心を大切にしなさい。あなたを強くしてくれる」
魅月姫が凛とした声で言う。
「竜矢を、思う、心」
「特別な心のはずですわ」
亜真知が優しい微笑みで言う。
「特別な、心」
「ぜってー手放しちゃいけないぜ」
紅珠が力む。
「手放しちゃ、いけない」
「簡単に譲れないものでしょう」
アレーヌが軽く他人事のように。
「……譲れない、もの」
冥月がそっと紫鶴の頬を撫で、ノワールが乱れた紫鶴の髪を梳いた。
「私は、私は――」
紫鶴はぎゅっと目をつむった。
魅月姫はニュイシェンの顔を思い出し、
(さて、シェンには一度とびきりの『釘』をしっかりと刺した方が良いかしら)
と胸中で思う。
「さて、一興興じるかな」
冥月は携帯電話を取り出した。手早くプッシュして、誰かにかける。
他の面々が不思議そうにしていると、やがて携帯電話は誰かにつながった。
「――ニーハオ、シェン」
その言葉に、皆が驚く。
冥月の唇に、いたずらな笑みが浮かぶ――
「まあ簡潔に話すとだな。お前が竜矢に告白するという件、どうすればいいか紫鶴が私たちに相談してきてるんだよ」
「――うん? そりゃあもちろん私たちは紫鶴の気持ちを尊重させるさ。何かを言い含めるなんて、とんでもない」
「それにしてもお前、あんなへたれのどこに惚れたんだ? ん?」
「動機が弱いな。まあそれが恋かもしれん。ははは、へたれに惚れても恋は恋だ。お前もかわいいところがあるんだな」
「で、どう告白したい? 相談に乗るぞ?」
「ん? 直球ストレートすぎだろう。それじゃあ紫鶴が手伝うまでもないな」
「紫鶴はお前のために考え込んでいるんだぞ?」
ははは、と乾いた笑いでねちっこくいじめる。
「なに忙しい? ああそう、シン クー ラ(ご苦労様)」
ぷちっと携帯電話は切れた。
くすくすと、魅月姫や亜真知、にやにやと紅珠が笑っている。
それから冥月は再度、携帯電話をかけた。影からスピーカーを取り出し、携帯電話とつなぐとことんとテーブルに置いて、
トゥルルルル……
『はい、如月――』
紫鶴がびくっと反応した。
間違いない、それは竜矢の声だ。
「竜矢。あのな」
冥月は足を組み替えながら、電話の向こうに語りかけた。
『冥月さん? どうかなさいましたか』
「ニュイシェンが今後、お前に色仕掛けをしかける可能性がある」
突然言われた言葉に、竜矢は面食らったようだった。
『色仕掛け? まさか』
「可能性は高い、気をつけろ」
『そんなことをする必要がどこに……』
「紫鶴とお前の仲を引き裂くためにだ、当然だろう?」
紫鶴が目を見張った。
竜矢が口をつぐんだ。
「対策を練っておけ。それとも、告白されたら受けるか?」
『まさか!』
竜矢が激しく言い返してきた。『そんな馬鹿なことするわけないでしょう!』
「あ、そう。何で断るんだ?」
『そんな罠と分かっているものに引っかかっている暇はありません。俺には姫がいるんです』
「紫鶴? 紫鶴もお前離れした方がいい頃じゃないのか?」
『それでも』
竜矢はしかめっ面をしているかのような声で言ってきた。
『たとえ離れても、俺の生涯は姫のためにあるんです。姫付きになってからそう決めましたから』
紫鶴が何とも言えない表情でスピーカーを見つめ、それから両手で顔を覆った。
ノワールが優しく紫鶴の背を撫でる。
冥月はふふっと笑った。
「へたれなりに、相変わらず熱いな、お前は」
『へたれなりに姫を護る決意はあるんですよ――姫が大切ですから』
「そうだな」
冥月は珍しく竜矢を認めた。
そして、数言交わして電話を切ると、紫鶴に向かって、
「だとさ」
「うっひゃー! 竜矢のやつ、やるぅ!」
紅珠が手をばしばし叩きながら喜んだ。
亜真知が嬉しそうな顔をして、
「紫鶴様。よき贈り物を頂きましたね」
「まあ、竜矢にしては合格点ね」
魅月姫がくすっと笑う。
「……何ですの、迷う必要もないですわね」
アレーヌがつまらなそうに言う。
あずまやが優しい空気に包まれる。
やがて顔を上げた紫鶴は、真っ赤な目をして言葉を紡いだ。
「みんな……ありがとう……」
■■■ ■■■
夜になり、ニュイシェンが紫鶴邸に帰ってきた。
「ウォー フイ ライ ラ(ただいま)」
「お帰り」
紫鶴は笑顔で出迎える。
「紫鶴。ちゃんと勉強した?」
「したぞ。でも今日は友達も来ていたから――」
「もう! 私の許可なく友達を呼んではいけないと言ったでしょう!」
「人間関係を養うのも当主にとって必要なことだと聞いた」
「必要な時に私が呼ぶわ。これからは勝手なことをしてはだめよ」
切れ長の目がお子様を叱るように光っている。
紫鶴は謝らなかった。ただ、ひとつだけ思う。
――やっぱりこの人を嫌いにはなれない。
どうしてだろう。なぜか、なぜか――
それでも、言う言葉は決めていた。
「シェン殿」
「なあに?」
「この間言っていた竜矢に告白するという件だが」
ニュイシェンの指先がぴくりと動く。彼女は笑顔を保っていた。
「ああ、あれ。ごめんなさいね、突然。驚いたでしょう――」
「私は手伝えない。すまない」
紫鶴はきっぱりと言った。
ニュイシェンは悲しそうな顔になり、
「どうして? あなたが味方になってくれれば何より心強いのに」
「私にとって竜矢は大切な存在なんだ。あなたが自分で竜矢にアプローチして、竜矢とどうにかなるというなら私にはどうしようもない。だけど自分から2人の縁を結ぶことはどうしてもできない」
途端に、麗しい家庭教師の表情が一変する。鬼のような形相で、
「今日来たお友達に何かを吹き込まれたのね。そうでしょう。分かっているの? 竜矢はいずれあなたとは別れるのよ」
「分かっている」
――それでも。
「分かっていても、譲れないものはある」
――竜矢は自分を、見ていてくれると言ったから。
ニュイシェンが唇を震わせた。
紫鶴邸のドアが開き、
「ただいま帰りました」
と世話役の青年の声がする。
「お帰り!」
紫鶴はそちらに向かって駆けた。
家庭教師に背を向けて、自分に生涯を賭けてくれると言ってくれた青年に向かって、満面の笑顔で飛びつくように駆けていった……
―続く―
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1593/榊船・亜真知/女/999歳/超高位次元知的生命体・・・神さま!?】
【2778/黒・冥月/女/20歳/元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒】
【4682/黒榊・魅月姫/女/999歳/吸血鬼(真祖)/深淵の魔女】
【4958/浅海・紅珠/女/12歳/小学生/海の魔女見習】
【6813/アレーヌ・ルシフェル/女/17歳/サーカスの団員/空中ブランコの花形スター】
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■ ライター通信 ■
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浅海紅珠様
お久しぶりです、笠城夢斗です。
今回はシリーズノベルにご参加くださり、ありがとうございました。
お届けが遅くなって本当に申し訳ございません。
紅珠さんの恋愛への熱さ、紫鶴に分けてやりたいです。歳上の紫鶴が子供のようでしたね。
これからも仲良くしてやってください。
また、隙を見て来てくださると嬉しいです。
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