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■悪魔契約書―帰郷―■

川岸満里亜
【6424】【朝霧・垂】【高校生/デビルサマナー(悪魔召喚師)】
「入るよ、お姉ちゃん」
 呉・苑香はゆっくりとドアを開けた。
 机に突っ伏して眠っていた水香が、唸りながら身体を起こす。
「もう夜中の2時だよ。そろそろ布団に入って寝ないと」
「うん……」
 水香は近頃こうして研究室に篭っていることが多い。そのまま朝を迎えてしまうことも。
 だけれど、研究は何も進んでいないように見える。
「お姉ちゃん、一つ聞いてもいい?」
 自室に向う姉に、苑香が問いかける。
「何?」
「お姉ちゃんは……」
 共に姉の部屋に入り、ドアを閉めながら苑香は聞いた。
「誰でもいいの?」
「……何が?」
 寝間着を引っ張り出す姉に、苑香はこう言ったのだ。
「時雨が動きさえすれば……水菜が動きさえすれば、中の魂は誰でもいいの? 時雨の魂は高貴な人物でさえあれば、誰でもいいの?」
「そんなの……あたりまえじゃん」
 水香は何の表情も浮かべずに答えた。
「誰でもよかったよ。ペットを選ぶのと同じ感覚。愛情や用途の対象として、適した魂であれば、どんな魂でもよかった」
 だけど……と水香は続けた。
「やっぱ情はあるかな。ずっと一緒に暮してきたしね」
 出来ることなら、今の魂のままがいい。
 それが水香の気持ちであった。

**********

 ジザス・ブレスデイズは、都内のホテルを転々と移動していた。
 どうやら、現在の自分の力では対処できない相手が、この東京へと現れ自分を付けているようだ。
 仕掛けてはこない。自分と弟の接触を狙っているのだろう。
 弟――フリアルの魂は、新たな命となり、この世界で生きている。
 彼の魂を探り出す手段は、敵側にはない。
 自分と自分の世界との唯一の交信アイテムであった『悪魔契約書』は夏に、水菜と接触を果たした仲間の手から人間へと渡り、そのまま失ってしまった。
 弟の今の主、水香との約束の日は明日だ。
 水香の持つ本を手に入れ悪魔と交信をし、向こうの状況を知り、タイミングを合わせてフリアルを送る――。
 邪魔が入る前に、スムーズに行なえるか?
「状況はかなり厳しいが、失敗は許されない」
 瞬く東京の夜景を見ながら、ジザスはつぶやいた。

 水菜もまた、友人宅の窓から、外を見ていた。
 月の光が照らし出す、静かな街の夜を。

 時雨もまた、呉家の自室から、窓の外を見ていた。
 薄曇の空を。
 東京の淡い星空を。
『悪魔契約書―帰郷―』

「ファイ、まだ水菜ちゃんに教えたい事、遊びたいこと一杯あるですよ」
 銀色の髪の少女が、金色の髪の少女の手をぎゅっと握っている。
 黒い瞳で、青い瞳を覗き込みながら、言葉を続ける。
「だから、だから……こっちにいて欲しいです!」
 金色の髪の少女、水菜は何も言わない。
 ただ、悲しげな顔で、銀色の髪の少女――広瀬・ファイリアを見ていた。
「お別れにしないで欲しいです……っ!」
 ファイリアの言葉に、水菜は目を伏せた。
 気持ちが同じであることは、お互いわかっている。
 水菜がここでの生活を本当に楽しんでいることも。
 だから、留まるという選択が、幸せな選択であることも。
 だけれど、それは、記憶がなければ、だ。
 過去の記憶も、過去に関わる人もいなければ。
 昨日……一昨日、それ以前。
 半年前の二人は、何も知らなかった。
 ここでの生活を楽しみながら、会いたいときにはいつでも会えると思っていた。
 幸せな日々が、ずっと続くと――そう、信じていたかった。

 呉・水香、苑香姉妹の家に、事情を知る者達が集まっていた。
 今日は、約束の日だ。
 ジザス・ブレスデイズと名乗った男が、呉家を訪れるはずだった。
 しかし今朝、事前に連絡先として渡された番号に、水香は電話をかけたのだが、ジザスが出ることはなかった。
 何かあったのかもしれない。
 そんな不安が渦巻いていた。
「来なきゃいいって思うけど……結局、避けて通れない問題だからね」
 時雨を隣に従え、水香は居間の上座に座っていた。
 水菜は、ファイリアに庇われるように、入り口付近に座っている。隣に、阿佐人・悠輔の姿もある。
 蒼王・翼は、腕を組んだまま、壁に寄りかかっている。周囲の風の声を聞いているようだが、今はまだ、何事もないようだ。
 朝霧・垂は、窓際に立っている。後ろに、ケルベロスを従えた姿で。
「お茶いれました」
 アリス・ルシファールと、苑香が居間に姿を現し、皆に茶を配る。
「さて、申し遅れましたが、僕はシシト・ウォルレントと申します。水香さんの研究に興味があり、先日から顔を出させていただいている者です」
 皆が揃ったところで、トールギストのシシトが挨拶をする。
 信用できる人物かどうかは、翼の能力で判断することができる。翼が頷いてみせると、皆はシシトを歓迎した。
「では、ジザスさんが来る前に、確認しておかなければならないことがあります、ね?」
 アリスが、水香を見た。
 水香は小さくため息をついた後、目を合わせずに、ゴーレム達に聞いたのだった。
「あなた達はどうしたい?」
「行かないですよね。ここにいるですよねっ」
 即座にファイリアは、水菜に訴えかけた。
 水菜は視線を落とし、黙っていた。
「私は……」
 口を開いたのは、時雨だった。
「兄と共に、行きます」
 それは、皆が予想していた答えだった。
 彼がジザスが言うような、優しい人物であったのなら、そしてジザスの話が真実であるなら、当然の選択だろう。
 だけれど……。
「それは、本心ですか? あなたの意思ですか?」
 アリスはあえて聞いた。
 前世は終わった人生だ。
 時雨には、今の人生がある。
 それを捨てて、昔の人生を取り戻したいのか?
「今のあなたには、今の繋がりがあります。必要としてくれる人もいます」
「はい」
 時雨は、アリスの言葉に、静かに答えた。
「私の命は、ここにあります。水香様も、ご家族も大切な存在です。しかし、私の命には、他にも大切な守るべき存在が、いるのです。その人々は、場所は違えど、いまだ同じ時間を生きています。ですから、私は昔暮していた世界へ帰ります」
 迷いのない言葉だった。
 水香は僅かに苦笑した。
「私が行くなと命令したら、意思がどうあれ、ゴーレムのあなたは逆らえないわ」
「行くなと仰ってくださるのですか?」
 まるで、止めてほしいというような言葉だった。
「迷惑、かけます」
 水菜が言葉を発した。
「私達がいると、お母さんに迷惑かけます。だから、お母さんが命令しても、時雨お兄さんはきっと行きます。お母さんの命令より、お母さんの命を守ることが優先だからです」
「迷惑なんかじゃないです。お母さんも、水菜ちゃんにいてほしいと思ってるですっ」
 ファイリアが叱るように、水菜に言った。
「水菜さんも、行くのですか?」
 アリスが水菜に尋ねると、水菜は目を伏せて、頷いた。
「お兄さん達と一緒に行きます」
「ダメです! 行かないでくださいですっ」
 ファイリアが水菜の手をぎゅっと握った。
 水菜は俯いたまま、ファイリアの手に手を重ねた。
「ですけれど、行く方法は……」
 アリスは、水香の手の中の、悪魔契約書を見た。
 魂のみ送るには、血が必要なようだ。
 しかし、肉体ごと送るには、同等の生命力――つまり、人の命が必要なようだ。
 他に、方法はないものか。
 一同は考え込む。
 皆、自分だけなら行く方法も無きにしも非ずなのだが……。
「おっす、アリスちゃん! ひっさしぶりー!!」
 バンと襖が開いたかと思うと、突如満面の笑顔の女性が現れた。
 一同、放心して注目する。
「……」
「あ、あれ?」
 集まった人々と、暗い雰囲気にその黒髪の女性は、笑顔を苦笑へと変える。
「せ、先輩!?」
 固まっていたアリスが、飛び上がるように立ち上がった。
「あ、アリスちゃん……。久しぶりにこっち来たんで、驚かしたろと思ってシグナル辿って来たんやけど……なんか、深刻な話ししてたん?」
「はい。あ、ええっと、私の先輩の神城・柚月さんです。心強い味方です」
 アリスは、仕事の先輩である柚月を皆に紹介した。
「どうもー。可愛い後輩がいつもお世話になっとります」
 ぺこりと柚月は頭を下げたのだった。

「それなら直接乗り込んで、大元の元凶を断てばええのとちゃうのかな?」
 事情を聞いた柚月は開口一番そう言った。
「いつ誰が、どこで、どうやってー!」
 即座に水香が大声で返す。
「ええっと、なるべく早めに、行くのはここに集まった人達やろ? どこってのは、魔界の城? 手段は強襲でも、暗殺でも状況に合わせてってところやな」
「あ、あのねー! 私は普通の人間よー! 大体それは犯罪よ犯罪!」
「お姉ちゃん、落ち着いて。世界が違えば法も違うし……」
 ぎゃあぎゃあ騒ぎ出す姉に近寄って、苑香が宥める。
「でも先輩、魔界に行く手段ですけれど……」
 アリスが水香の持つ悪魔契約書をちらりと見る。契約書の説明も受けていた柚月は首を横に振った後、こう言ったのだ。
「その本は使わんで、魔界へのゲートを開けばええと思う。悪魔契約書の術式を私がエミュレートしてゲートを構築、アリスちゃんの謳術で術式の増幅させば、1度に5,6人は送れるやろ」
「あ……確かに。先輩とならできますね」
「エミュレートなので悪魔契約書本来の影響は受けへんよ」
 エミュレート……模倣するということだ。
 しかしそれには問題がある。
「エミュレートする能力を持っていても、一度は契約を見なければダメなのでは?」
 そう言ったのは、翼だ。
 悪魔契約書の中を実際に見たことのある翼は知っている。
 この本に方法など書かれていない。
 悪魔と契約をし、実際に技を行なうのは異世界にいる悪魔なのだ。
 だから本の手段を模倣するためには、最低でも一度、契約を実行する必要がある。
「つまり、その手段をとるのであれば、魂のみ行くのなら、最低1人の血の契約。肉体ごと行くのなら、最低1人分の生命エネルギーが必要になるってことだ」
 翼の言葉に、一同沈黙する。
 恐らく翼は、自身の能力で魔界に行くことができる。
 またシシトは血の契約で自身のペルソナを送り込むことが出来るだろう。
 時雨……フリアルは魂を戻したとして、即座に戦力になるのだろうか?
 水菜……ミレーゼは復活させたとしても、普通の人間の姿で復活するはずだ。戦力にはならない。
 そして、ジザス。彼に従う者達――。彼等にどれだけの策があるというのだろう。
「もうすぐ、時間よ」
 苑香が言った。
「とりあえず、あの男の意見を聞いてみようか」
 言って、水香は顔を見ずに、時雨の指をぎゅっと掴んだ。

**********

 ジザス・ブレスデイズは約束の時間に遅れることなく、呉家を訪れた。
 苑香の案内で、ジザスは皆が集まる居間へと通された。
「悪魔契約書を貸してください」
 水香の姿を見るや否や、ジザスはそう言った。
 息を切らせており、余裕のない表情だ。
 ……まるで、追われているかのような。
 即座に翼は周囲の風の声を聞く。
 呉家の前のとおりに、怪しい人物はいない。
 少し先の川沿いには、散歩をする人々や、子供達の姿が多く見られるが、これといって不信な人物はいないようだ。
「仲間と連絡を取り、早急にフリアルを送ります」
「い、いきなりすぎるッ!」
 言って、水香は悪魔契約書を抱え込んだ。
「一週間も時間を与えただろ。もう、一刻の猶予もない」
 部屋に入り込み、水香に近付くジザス。
「待って。まずは話を聞かせて。……追っ手がいるんなら、私が対処するから」
 垂が水香の前に立ち、ジザスを阻む。横にケルベロスを従えた姿で。
 ケルベロスを間近にしたジザスは一瞬を細めた後、周囲を見回すと大きく息をついた。
「……失礼、周りが見えていなかったようです。どうやら、先日お会いした時より更に、優秀な方々を集めたようですね。水香さん」
「と、とにかく座ってよ」
 水香の言葉に、ジザスは首を横に振る。
「先ほども申し上げましたが、時間がありません。そちらの女性が仰るように、私は追われています。狙われているのは、私とフリアル両方です。両者が揃った今を敵は逃さないはず。……しかし、これだけの能力者が集っているというのなら、好都合かもしれませんね」
「どういう意味?」
 垂の言葉に、ジザスは薄い笑みを浮かべた。
「悪魔契約書での移動には、対価が必要になる。つまり、私を追っている者の命を対価に、この姿で私自身も移動できるということだ」
 一同、息を呑んだ。
 それは、これから現れるだろう人物を、殺すということだ。
「……聞きたいことが、いくつかある」
 睨み据えながら、垂が言った。
「もし、貴方達の故郷が既に存在しない場合でも、行動を実行すると言うの? また、その場合、復讐の為に争いを好まない優しい弟に戦いを強いるの?」
「属国と化しているけれど、国は存在している。フリアルは確かに争いを好まない優しい弟だった。しかし、我等が受けた仕打ちを知って尚、彼自身が剣を取らないと思うか? 優しいからこそ、フリアルは肉親の為に、戦うと私は思う」
「では……故郷を取り戻し、貴方の状態を元に戻したとして「フリアル」が水香の元へ帰ると言った場合、どうするの?」
「国の状態次第だ。私が止めなくとも、国が不安な状況下でフリアルが私欲に走るとは思えない」
「わかった」
 言って、垂は時雨を見て問う。
「どうする、時雨」
 水香は不安そうに時雨を見上げた。しかし、止めはしなかった。
「帰ります。……私が病に倒れてから、何があったのか、もっと詳しく教えてください」
 時雨の言葉に、ジザスは満足そうに頷いた。
「戻ってから話そう。私も全てを把握しているわけではないんでね」
 頷いた後、時雨は水香を見た。悲しげな目で。
「水香様、この体お借りしていってもよろしいでしょうか?」
「……えっ? だ、ダメよ、私の最高傑作よ! 私のものなんだからっ!」
 時雨がぎゅっと水香の手を握った。
「必ず、無傷で返しますので」
 時雨の真剣な瞳に、水香は戸惑う。
「今まで働いてくれたお礼に、あげようよ、お姉ちゃん」
 苑香が姉の背を肘で突いた。
「わかっ、た。必ず、無傷で返して」
 水香の言葉に微笑んで頷くと、時雨は水香と手を離し、垂の隣――ジザスの前へと出た。
「何者かが近付いてくる。どうする?」
 風の声を聞いた翼が、言葉を発した。
「とりあえず、庭へ出ましょう」
 アリスが窓に近付き、開け放った。
 靴のある者はそこから。無いものは玄関から回って庭に出た。
「先輩、ゲートを開く準備を!」
「分かってるって」
 アリスと柚月は、庭の端へと飛んだ。
「私も時雨と共に行ってくる」
 垂は水香の頭に、ぽんと手を置いた。
「傷一つも……はどうかわからいないけど、彼が帰還を望んだ時は、何が何でも連れて帰ってくるからさ」
「……うん。お願い」
「了解」
 垂はケルベロスと共に、時雨の後を追う。
「水菜、あなたも行くの?」
 水香の言葉に、水菜はこくりと頷いた。
「ミレーゼは残っても構わない」
 しかし、ジザスはそう言ったのだった。
「国で復活させたとしても、人の姿のままだからな。ここで幸せに暮らしているのなら、今はまだ戻らずともいいだろう」
「で、でも……」
「じゃあ、やめるです! 行かなくてもいいなら、行く必要ないですっ」
 ファイリアがぎゅっと水菜の手を引っ張った。
「ファイリアさん……でも、私がいると……」
「奴等が危険視しているのは、私とフリアルだ。私とフリアルがこの世界から消えれば、転生したお前には手を出してはこないだろう」
 そう言ったジザスの眼は心なしか優しかった。
「来るよ! 行け、ケルベロス!」
 突如、垂が叫んだ。
 ケルベロスが跳び、垣根を飛び越えた。
 ギィィィィィぃ――
 鼓膜が引き裂かれるような奇妙な音が周囲に響き渡る。
「耐性のない者は下がれ! 洗脳されるぞ」
 ジザスが耳を塞ぎながら、叫んだ。
「二人は中へ! 水菜も早く!」
 悠輔が水香と苑香を部屋の中に入れる。続いて、水菜の手を引いて、ファイリアが部屋へと入る。
 垣根が弾き飛び、男が姿を現す。
 弾き飛ばされたケルベロスは、即座に起き上がり、唸り声を上げている。
「ケルベロス、戻って」
 垂は一旦ケルベロスを下がらせる。
「お前か……ディッセル」
「お久しぶりです、ジザス様」
 ジザスの言葉に、薄い笑みで男は答えた。
「誰?」
 垂がジザスに訊ねる。
「義弟だ。拘束してくれ」
「その必要はありませんよ。もうされてますから」
 翼が風を操り、垣根を破壊する。
 見れば男は天使型の人形――アリスの駆動体6体に、包囲されていた。
「この下等生物ばかりの世界で、こんな短期間に随分と優秀な能力者を集めたものです。しかし……」
 男は目を細めて続けた。
「皆さんは知っていますか? この男が謀反を起こし、我等の国を衰退させたことを」
「貴様なにを……それは、貴様等の方だ!」
「いいえ、私は国を追われたあなた方を始末しに来たのです。皆さんは彼に騙されて片棒を担がされているのですよ」
「黙れッ!」
 ジザスは印を結び、術を発動したようだが、ディッセルという人物には全く効果がないようだ。2人の能力の差だろう。
 男の言葉は、皆を混乱させた。
 男の言葉が虚偽だと言い切れるか?
 否。
 どちらの言葉が真実であるかは、誰も知らない。
「あなたが仰っていることは、嘘です。兄は国を愛していました。私の死後、兄が行動を起こしたのであれば、それは国の為です」
 言ったのは時雨であった。
 途端、男は目を見開いて笑みを浮かべた。
「お前が、フリアルか」
 空気が震えた。
 またあの音が周囲に響き渡る。
 時雨が耳を塞ぎ、蹲る。
 男が真空の刃を生み出し、時雨に向けた瞬間、アリスの駆動体が一斉に男の首に刃物を突き出した。――少しでも動けば、首が落ちる。
 刃は翼が消滅させる。
「綺麗なお嬢さん達に、汚い仕事はさせられませんね。――ヴァーユ!」
 シシトが精神を集中し、自身のペルソナを呼び起こす。瞬時に、真空派を放つ。
 男の身体が裂け、駆動体が赤く染まる。
 ジザスは頭を振りながら、窓に近付き、手を伸ばした。
「悪魔契約書を」
 抱え込み動かない水香の手から、苑香が本を取り上げて、ジザスに手渡した。
 外を見せぬよう、悠輔がそっと苑香の前に立つ。
「我はジザス・ブレスデイズ。悪魔族の王よ、我が呼び声に応え、我を祖国へ導け……対価は、この者の命だ」
 言って、ジザスは懐から取り出したナイフを、血に染まった義弟の胸に突き刺した。
 その様子に、皆、歯噛みした。これが正しいのか――誰も、断言はできない。
 それでも、柚月はジザスの行動、一挙一動を注意深く見ていた。
 空間が歪む。
 術の発動を確認すると、ジザスは、苑香に悪魔契約書を返した。苑香の手から再び水香の手に悪魔契約書が戻る。
「行くぞ、フリアル」
 言って、ジザスは義弟の遺体を歪んだ空間に放り込んだ後、時雨に手を差し出した。
 時雨が兄の腕を掴む。
 男の生命エネルギーで二人、共に通れるようだ。
「私も、行く」
 二人に続く為、垂は自らの血と、ケルベロスの生命力を使う覚悟であった。
 その肩を、柚月が掴む。
「任しとき、完璧にエミュレートしてみせるで〜」
 軽くウィンクして、柚月はアリスと頷き合う。
 柚月の口から、日本語ではない言葉が紡ぎだされる。
 まるで、メロディのような言葉――呪文。
 旋律と共に、空間が歪みだす。
 続いてアリスの口からも。
 澄んだ声。空気に溶けるような音。
 二人の声が調和し、ジザスと時雨が進む空間が更に大きくゆがんだ。
「じゃ、行ってくる!」
 部屋の前に立つ悠輔に手を上げて、垂は迷うことなく時雨に続いた。
「僕も付き合おう」
 言って、翼も後に続いた。
「私らもいかなあかんなー。垂ちゃん達、帰ってくる手段ないし」
「そ、そういえばそうですね」
 一瞬、呪文を止めて言った柚月の言葉に、苦笑しながら、アリスは返事をした。
 アリスとしては、気にかけている水菜がこちらの世界にいる状態では、迷うところではあるが――。
 シシトも迷っていた。水香の研究に興味がある。
 しかし、時雨という生命体や、彼の世界にも興味がある。
「……とりあえず、僕の一部、ペルソナだけ行きますか――」
 シシトがそう決断したその時だった。
 猛スピードを出す車の爆音が聞こえた。
 普通の車の音だ。
 ただ、スピードが速いだけで……。
 そう、皆が思っていた。
 しかし、次の瞬間。
 激しい衝突音が響いた。
 柚月とアリスはゲートの維持を一瞬忘れる。しかし、今ゲートを閉じるわけにはいかない。皆が無事向こうの世界にたどり着くまでは――。
 シシトは、瞬時に、部屋へと駆け寄った……半壊した部屋へ。
 トラックが、呉家に突っ込んでいた。

 悠輔は、傍にいた苑香を庇い、跳んだ。
 割れた窓ガラスの破片が、身体を切裂いた。
 ファイリアは咄嗟にぎゅっと水菜に抱きついていた。水菜は大切な母親を突き飛ばしていた。
 その二人の元に、トラックは突っ込んだ。
「ファイリア、水菜!」
 流れる血に気付かず、悠輔は跳ね飛ばされた二人に駆け寄った。
「ファイ、平気、です。水菜ちゃんが、強い、力で……」
 兄に手を引かれ、ファイリアは瓦礫の下から起き上がる。
 瞬発力ならば、水菜はファイリアよりずっと強い力を有している。
 母水香を突き飛ばした後、水菜はファイリアを庇ったのだ。
「水菜、ちゃん、水菜ちゃん……」
 泣き出しそうに震えながら、ファイリアは瓦礫を払って、水菜を呼んだ。
 水菜は動かない。
「水菜ちゃん、水菜ちゃんーッ」
「煩い!」
 叫ぶファイリアを怒鳴ったのは、水香だった。
「私の水菜が、こんなことで、壊れるわけないでしょ!」
 言って、水香が屈んだ。
「ショートしただけよ……」
 そして、水香が水菜の顔に手を置いた。
「……水菜、あなたは立派なゴーレムだわ。時雨れに続く、私の傑作よ。でも、あなたの本当の心の一番は、私じゃないのよね?」
「お、母さん……」
 目を覚ました水菜は、首を小さく横に振った。
「それは、私が植えつけた心よ。いいのよ、もう。あなたを開放してあげるわ」
 水香は悪魔契約書を開いた。
 そして、心配そうに、愛情が篭った目で水菜を見を見た。悠輔とファイリアの前で。
 水香が目を瞑る。
「この魂との契約を解除します」
 水香の口から出た言葉は、それだった。
「!?」
 驚きのあまり、ファイリアは直ぐには言葉が出なかった。
「な、なんでなんで? 水菜ちゃんは、ここにいたいって思っていました。それなのに、何、でッ! 水菜ちゃん、水菜ちゃん!!」
 叫びながら、ファイリアは意識を失っていく水菜を揺すった。
「兄弟と一緒にいる方がいいに決まってるじゃない。……私の為に、危ない目に合うのなら、本当に大切な人の為に危ない目にあった方がいいでしょ」
 水香が小さく呟いた。
 その言葉に、切れ切れの声で水菜はこう答えたのだった。
「幸せ、感じた、心、本当。だから、呼んでくれた、命をくれた、お母さん、大切。この世界で、一番大切。それはずっと変わらない。ずっと、ずっと……」
 水菜はそのまま、動かなくなった。

「……さて、この男はどうしますか?」
 トラックを突っ込ませた男を捕らえ、シシトが皆の前に突き出す。
「魔界へ、連れて行って。こっちの法では裁けないし、殺す、とかできないし」
 低く、苦しげな声で男を見もせず、水香が言った。
「う、ううううう……」
 ヘルメット等、対策はとっていたようだが、男は軽く怪我をしている。
 普通の人間とさほど変わらない人物のようだ。
「あなたは、こちらの世界の人間ではありませんね」
 シシトの言葉に、男は答えなかった。
 シシトは笑みを浮かべながら、ペルソナ「ジン」を憑依する。
 左手で、男のヘルメットを砕く。
 現れたのは、20代前半の青年だった。
 シシトは、左手を男の首へと当てた。
「もう一度聞きますね。あなたは、こちらの世界の人間ではありませんね?」
「……あ、ああ……」
 掠れた声で、男は答えた。
「目的は何ですか?」
「……契約書。余計な、ことを、させない、ために……」
 どうやら、先に攻めてきた男の目的は時雨の魂だったが、この男は、水香の持つ悪魔契約書の入手、もしくは破棄を命じられていたらしい。
「では、あなたの主は誰ですか?」
 その問いには、男は答えなかった。
 歯を食いしばり、唾を飲んだ。
 覚悟は出来ている……ということだろうか。
「では、僕と一緒に帰りますか。あなたの世界へ」
 目を鋭く光らせながら、微笑み、シシトは男を締め上げながら、外へと引きずり出す。
「水菜ちゃん、水菜ちゃん、水菜、ちゃん……」
 泣きじゃくる妹の肩に、悠輔が手を置いた。
「お前も行って来い」
「お……兄ちゃん」
 ファイリアは涙が零れ落ちる目を、悠輔に向けた。
「向こうで水菜に会ったら、千羽鶴の残りを仕上げて願いが叶うのを祈っていると伝えてくれ」
 涙を拭いて、ファイリアは頷いた。
「でも、水菜ちゃん、ファイのこと覚えてるですか?」
「覚えてるさ、必ず。いいか、ファイリア」
 手を伸ばして、ファイリアの頭を撫でながら、悠輔は優しく、力強く言った。
「どんな結果になっても後悔しないようにしろ、力も自分が必要と思えば自由にしていい」
 こくりと、ファイリアは頷く。
「ファイ、行って来るですっ!」
 大切な兄の手をぎゅっと掴んだ後、ファイリアは外へと飛び出した。

**********

 荒廃した台地が広がっていた。
 風が淀んでいる。
 空気に苦味がある。
 まるで、毒が漂っているかのように。

 大地に降り立った翼は、即座に風に問いかける。
 欲している情報は膨大だ。
 しかし、東京のようにスムーズにはいかない。
 この世界の風は、世界を統べる者達により、操られている。
 故に、翼が得られる情報は、限られている。
 まずは、国の状態を知ることが最優先か。
 このジザスも城を追われてからは、自身の目で城内の状況を見てきたわけではないはずだ。
 彼の把握している事柄が、全て真実とは限らない。
 情報が必要だ。
 翼は意識を集中させ、風の声を聞いていた―ー。
「ここは、どこですか?」
 時雨がジザスに問う。
「シズリーの丘だ。拠点からは少し離れているが、やむを得ない。本来ならお前の魂だけを仲間の所に送る予定だったんだが……色々事情が変わったからな。
 私の存在に気付き、刺客が現れるかもしれない。十分注意してくれ」
「わかりました」
 言った時雨は悲しげな目をしていた。
 風の声を聞いていた翼には、理由が分かる。
 この場所は、昔、とても美しい丘であった。
 しかし、今はその面影が全くないのだ。
「ええっと……何て呼べばいい?」
 垂が時雨に訊ねた。
「時雨と呼んでください」
「わかった。じゃ、時雨。行くんだよね、“仲間”の所に」
「はい」
 強い瞳で時雨は頷いた。
「召喚獣は隠してくれ。行くぞ」
 ジザスが歩き始め、時雨と垂が続いた。
 その後に、翼が続く。

 淀んだ風が語った。

 元凶は誰だ。
 真実とは何だ。
 全てが虚偽だ。
 そこには何も存在しない。
 お前は、誰だ。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【2863 / 蒼王・翼 / 女性 / 16歳 / F1レーサー 闇の皇女】
【7164 / シシト・ウォルレント / 男性 / 21歳 / トールギスト】
【5973 / 阿佐人・悠輔 / 男性 / 17歳 / 高校生】
【6029 / 広瀬・ファイリア / 女性 / 17歳 / 家事手伝い(トラブルメーカー)】
【6047 / アリス・ルシファール / 女性 / 13歳 / 時空管理維持局特殊執務官/魔操の奏者】
【7305 / 神城・柚月 / 女性 / 18歳 / 時空管理維持局本局課長/超常物理魔導師】
【6424 / 朝霧・垂 / 女性 / 17歳 / 高校生/サマナー(召喚師)】

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■         ライター通信          ■
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ライターの川岸です。
「悪魔契約書―帰還―」にご参加いただき、ありがとうございます。
以後、しばらくの間、魔界を中心に物語は展開されると思います。
個室の大改造等行ないますので、続きの受注開始まで少しお時間を頂くことになると思いますが、引き続きご参加いただけたら幸いです。

今回のノベルで、人間界の姿のまま魔界に着いた人物は蒼王・翼さん、朝霧・垂さんと、ジザスと時雨です。
広瀬・ファイリアさん、アリス・ルシファールさん、神城・柚月さんは、後ほど訪れ合流をすると思われます。
シシト・ウォルレントさんは、人の姿で行っても構いませんし、ペルソナを送っても構いません。現在、魔界の人間を一人捕縛しています。
阿佐人・悠輔さんは、呉姉妹の護衛の為、残りました。
まだ魔界に到着していない方は、もう1行動とってから向うことも、行くのを止めることも可能です。

それでは、少し間があいてしまうかもしれませんが、どうぞまたよろしくお願いいたします。