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■桜媛奇譚―飽贄の章―■

綾塚るい
【3626】【冷泉院・蓮生】【少年】
 真新しい注連縄が張られた「波の鳥居」の向こうに、一本の桜の古木があった。
 雄滝村の御神体である桜の古木。
 周囲の木々が色づき、その葉を枝から落としているにも拘らず、御神木だけは枝をしならせて紅色の花を咲かせている。
 まるで御神木の周囲だけ、時が止まっているようだった。
 その神木の傍らに、長い黒髪の少女が佇んでいた。少女は無表情のまま、抑揚のない口調で呟く。
「二の祀り、飽贄が始まる……」

 夏に執り行なわれた御縄の儀。
 次いで催されるのは飽贄の祀り。

 御流神社の神を癒す為に、神楽殿で舞を献上し、供物を捧げて翌年の豊穣を祈願する祭祀。
 やがて御鈴の音が風に乗って聞こえてくると、少女は空を振り仰いだ。
 恐らく、神楽殿で女性達が神楽舞の稽古に勤しんでいるのだろう。
 自らの心に落ちる闇とは正反対に、晩秋の空は高く澄み渡っている。視界に映し出される空と同じくらい、御鈴の音色は澄み切っていた。
 優しい音だと思う。
 舞を舞う人間の心根が伝わってくるようで、少女はゆっくりと視線を落とすと、己の両の手のひらを眺めた。
「壊してしまえば、全て終わる。終わらせられる……」
 そうでしょう? 言うと、少女は木の幹に額をあてがった。
 少女の言葉に呼応するかのように、周囲の木々がざわめき始めた。
桜媛奇譚――飽贄の章・壱――



■ 露月王 ― 初秋 ―  ■

 夏を経て、少しづつ秋の気配が漂い始める。
 依然日差しの強さは変わらないものの、そこにうだるような暑さは無く。傍らを掠めてゆく風は冷涼で、随分と過ごしやすくなっていた。
 まだ紅葉には早いが、秋特有の陽光を受けた木々は、夏とは違った艶やかな色彩を帯び始めている。
 その光の中で、一人の女が静かに呂の鳥居を見上げていた。
 赤とも黒ともつかない不思議な色合いの長い髪に、紅の瞳。均等の取れた顔立ちは、ややきつい印象を受ける。だが、女の身の内から出る圧倒的な存在感の方が、より周囲に畏怖の念を抱かせた。
 参道に植えられた木々がざわめいている。
 木々が葉を揺らし枝を枝垂らせる様は、まるで女に敬意をはらい、頭を垂れているようにも見える。だが女はそれをまるで意に介さず、不愉快そうに表情を歪ませた。
「嫌な土地だこと……」
 吐き捨てるように女が呟く。
「この私が春の眷属を助けるなど……そうは思わなくて? 蔓王」
 煩わしげに鳥居から視線を背けると、女は蔓王の名を呼びながら、参道の一点を見据えた。
 程なくして、女が視線を向けた場の空気が歪み始める。歪みは次第に大きさを増し、波紋の形状を成してゆく。
 女が無言でそれを見つめていると、やがて波紋の中央から一筋の風と共に蔓王が姿を現した。
「……お久しぶりです。露月王姉さま」
 蔓王は真顔のまま女へと静かに頭を下げる。だが、露月王(つゆつき)と呼ばれた女は不機嫌なまま端的に言葉を放った。
「一体これは何なの?」
 露月王の射抜くような視線に、蔓王が思わず閉口する。

 村の中核を成す三つの鳥居と神社。そしてその最奥に在る神木桜。
 呂の鳥居とそこに張られた注連縄を一目見ただけで、露月王はそれが何を意味しているのかを理解していた。
「人間に関わると、ろくな事にならないという典型を見ているようね」
 蔓王に呼ばれて来てみれば、とんでもない災厄が自分を待ち構えていたものだと、露月王は鼻で笑う。対して、蔓王は切実に露月王へと嘆願する。
「夢の外は夏のままですが、夢内には秋が訪れます。姉さまの支配下に入りますので、僕はこの夢の中には留まれません。お嫌かもしれませんが……」
「解っているのなら、何故この私を呼んだの」
「…………」
 蔓王が人間に親しみを抱き、自ら近づこうとするのに対し、露月王は必ず一線を引いて接した。
 人間は常に二つの事物を比較し、物事に優劣をつけることを好む。力を有するものに迎合し依存もするが、事が及んで集団化すると途端に手のひらを返して敵意をむき出しにする。そんな人間の性質を、露月王は酷く嫌っていた。
 だから、蔓王が神木桜に宿る神を助けたいと思い、村人たちの苦しみに心を痛めていると解っていても、露月王がそれに感化される事は決してない。
 神と人間は決して相容れない存在(もの)だと、露月王は心のどこかで割り切っていた。
 露月王は一度深い溜息を吐くと、俯いている蔓王の顎に人差し指を当てて己の方へ顔を向かせた。
「いいこと? 夢へ入り込んだ人間達に危険が及ぶようであれば助けてあげる。でもそれだけ。私は一切関わらない」
「……はい。皆さんには、僕から姉さまの事を伝えておきます」
 蔓王の言葉を聞くと、露月王は再び溜息をつきながら空を仰いだ。
 木々の合間から覗く空は何処までも青く澄み渡り、木漏れ日が揺らいで大地に細やかな陰影を作っている。あと数ヶ月もすれば、この世界は艶やかな錦の色に染め上げられるだろう。
「本当に……嫌な土地だこと」
 美しいのは表面上だけだと告げる露月王に、蔓王は返す言葉を見い出せなかった。



■ 承前 ― 晩秋 ― ■

 御流神社の御縄結いが終わった後、夢を渡った五人は雄滝村にある一軒の空き家へと身を寄せていた。
 三室しかない平屋ではあるが、呂の鳥居のすぐ近くに建てられている所為か、屋根や土壁に綻びもなく、他の民家と比べればまだましな造りだ。
 そんな平屋の土間にある連子窓から、芳賀百合子は随分と長い間外の光景を眺めていた。

 村の木々が艶美な色合いを呈し始める、晩秋。
 秋の深まりと共に風は冷たさを増し、それに揺られて、色づいた木々が葉を参道へと落としている。その所為か、質素極まりない村の雰囲気が一転し、どこか華やいでいるようにも見えた。
「紅葉はきれい。でも……冬が来るの、嫌だな」
 ぽつりと呟き、百合子は微かに視線を落とした。
 夏に川辺で水遊びをした。それをつい昨日の事のように思い出せるのに、季節は音もなく過ぎ去ってゆく。
 殊に秋から冬へと移り変わる時期は、自分一人が取り残されているような心持になって、漠然とした焦燥感に苛まれる。百合子はそれが好きではなかった。
 百合子は瞳を閉じると、心の中に在る感情の一切を払拭するかのように、一度大きく深呼吸をした。その時。
「百合子さんじゃないですか。こんな所でどうかしたんですか?」
 そんな穏やかな声が聞こえて思わず振り返ると、そこには、きょとんとした様子で百合子を見つめる樋口真帆の姿があった。


 水を飲む為に土間へ足を運んだ真帆は、障子戸を開けた先に百合子の姿を見つけると笑顔を向けた。
 ふらりと部屋を出たまま戻ってくる様子もなかったから、てっきり百合子は外へ出たのだとばかり思っていた。一体何をしていたのだろうと不思議に思いながら、真帆は靴を履いて土間へ降り立つと、百合子の傍らまで歩み寄った。
 百合子は曖昧な微笑みを浮かべながら、連子窓の向こうに見える景色を指差してくる。
「何となくね、秋だなぁって……思ってたの」
 土間の連子窓は参道に面している。そこから臨めるのは御流神社へと続く道筋だ。
 紅葉の舞い散る中、村の子供達が参道を走って神社へ向う姿が視界に入り込む。雨歌の元へ遊びにいくのだろうか。
 木枠に細い枝を差し込んでいるだけの連子窓からは、当然のように外気が流れ込んできて、真帆は思わず己の頬に両手を当てた。
「随分と寒くなりましたよね」
「うん。夢の外はまだ夏だなんて、嘘みたいだね」
「……そういえば、蔓王さんはもうこの夢の世界には居ないんでしょうか」
「夏の気配はもう無いから、多分」
 真帆の言葉に、百合子が頷く。

 夏から秋へと移り変わる頃、蔓王が全員の前に姿を現した事があった。
 夢とはいえ、夏が去ればこの場に留まる事は出来ない。そう言って自分達に頭を下げる蔓王の姿はとても痛々しく見えた。だからこそ、心配しないでと笑顔で蔓王を見送ったが、やはり不安が無いといえば嘘になる。
 そんな気持ちを察したのか、百合子が真帆へと笑顔を見せた。
「でも蔓王のかわりに秋の神様が私たちを護ってくれてるって、言ってたし」
「露月王さん、でしたっけ。まだ一度も姿を見せてくれませんよね。どんな方なんでしょうか」
 飽贄の祭りが執り行なわれるのは明後日だ。けれど依然として露月王が自分達五人の前に姿を現す事は無かった。
「……露月王も神木桜の神さまも、どこにいるのかな」
 何事も無く、ただ静かに時が流れてゆく。
 この静寂が一体いつまで続くのか。誰もがそれを思いつつ、口に出せずにいた。

 百合子と真帆の間に沈黙が流れた時。
「二人とも、ここに居たのか」
 背後からそう声をかけてくる者があった。
 二人が同時に振り返ると、開け放たれた障子戸の奥から、榊紗耶がこちらへ向って歩いてくるのが見えた。紗耶は静かな口調で二人を促してくる。
「奥に、皆揃っている。そろそろ始めるから……」
「あ、はい! 百合子さん行きましょう」
 真帆の呼びかけに、百合子も慌てて頷いた。

 飽贄の祭りの前に一度全員で集い、互いが持ちうる情報を交換し合おうと言ったのは紗耶だった。
 蔓王が居らず、露月王も自分達の前に姿を現さない今、頼れるのは同じ境遇にある五人だけだ。
 夢見の力で「自分達はこの村の住人だ」と村人や夢主に思い込ませてはいるものの、実際は御縄の儀で村の在りようを垣間見たに過ぎない。
 この先何が起こっても柔軟に対応する術を持つ為には、何より互いが協力し合う事を考えなければならないと紗耶は考えていた。
「少しでも、見えないものが見えてくるといいけれど……」
 何かを為せるのならと、蔓王と約束した。その思いが紗耶を駆り立てていた。
 百合子と真帆が土間からこちらへ上がってくるのを見届けると、紗耶はそのままゆっくりと踵を返して奥の部屋へと歩き出した。


*


 始まりは『伊の鳥居』。
 そこから長い参道を経て御流神社の『呂の鳥居』へ辿り着く。
 鳥居を抜けた奥には拝殿が置かれ、拝殿から橋を渡った先に在るのが神楽殿。
 神楽殿から本殿までは山道になっており、蛇行しながら山を登っていかなければならない。
 御縄結いの儀式で山を登った時は、道の両脇に置かれた石灯籠に火を灯しながら向ったからかなりの時間を要したけれど、実際の距離はどれくらいだろう。
 やがて『波の鳥居』と本殿を抜けると、その先には御神体である桜の木が祀られている――。


 奥の部屋に集った五人は、藤宮永を中心にして円陣を組むように座り込んでいた。
 藤宮永と冷泉院蓮生の二人もまた、男子禁制のきまりを反故に、蔓王の力を借りて御神木のもとへ行った。だが、実際に拝殿を抜けて波の鳥居までを歩いたわけではないから、その道程を知らない。だからこそ、まずは村の地図を紙に書き出し、その全貌を掴もうということになったのだ。
 簡略化した地図だが、漠然と頭の中で捉えるよりも視覚的に捉えた方が、全体像を掴みやすい。
 やがて、一通り村の地図を書き終えた頃、蓮生が地図を眺めながら呟いた。
「……拝殿から神木桜まで、随分長い道程だったんだな」
 永は筆を置くと、蓮生の言葉に頷いて返す。
「そのようですね。私達は夏神様の力をお借りしましたから、神木桜まで一瞬で辿り着けたのですが……」
 改めて地図に視線を落とした永は、ふとあることに気付いて顔をしかめた。
 その様子に、紗耶が首を傾げる。
「永さん、どうかしたのか?」
「いえ。奇妙な村だと思ってはいましたが、こうして地図にしてみると、それがいっそう際立つと思いまして」
 永に言われて、全員が半紙に描かれた地図へと視線を落とす。
 永が再び口を開いた。
「まず『伊の鳥居』から神楽殿までの道程ですが、建物を除外すると一直線上に道が出来ています」
 永は、半紙に記された地図をゆっくりと指し示しながら話を続ける。
「ですが神楽殿を抜けた途端、急激に道が蛇行し始める。この境が極端過ぎるのですよ。どこか、違和感を感じてなりません」
 確かに神楽殿を境にして、それまで直線だった参道が歪みを帯びる。
「そういうものだ」と言ってしまえばそれまでの事だが、ともすれば見過ごしてしまいがちな村の構造に、永は疑問を抱いた。
 そんな永に対し、真帆が顔を上げて一つの推測を呈してくる。
「神楽殿から奥は山に入るからじゃないですか? 流石に、山道に逆らって真っ直ぐにご神木のある場所まで登って行くのは難しいと思います」
 地形上やむを得ないのではないかと言う真帆の言葉に、永は考え込むように沈黙した。


「道は別として、ご神木である桜……不思議な桜だったな。声が聞こえないといっていたか」
 そう言ったのは紗耶だった。
 真夏であるにも拘らず、神木桜は満開に咲き誇っていた。だが、一緒に行った百合子がどんなに呼びかけても神木が言葉を返してくれる事は無く、そこに神の不在を知ったのだ。
 本来あるべき場所から離れた神は無事で居るのだろうか。

 室内に、束の間の沈黙が訪れた。
 ややあって、永は村の地図を眺めながら思案げに腕を組むと、その沈黙を破った。
「桜さんが仰るには、この村では、あえて姫神の力を神社の内に封じ込めているそうです。ですが蓮生さんが村長(むらおさ)から聞いた話と、桜さんの話は些か食い違うのです」
「食い違い、ですか?」
 真帆の問いかけに、蓮生は全員を見渡しながら村長から言われた事を口にする。
「大昔、神木桜の根元で村の男が殺されたと聞いた。血の穢れに触れた神木姫神がそれを怒って村に旱魃を招いていて、村人達は姫神の怒りを静めるために、神木桜を祀っているって……」
 神の力を故意に封じているという桜。
 怒りに駆られて雨を降らせない神に祈りを捧げているという村長。
 何故二人の話が食い違っているのか。
 元々村に住んでいるわけでもない五人が、それを考えたところで答えなど出るはずもない。

 永は組んでいた腕を緩めると、やがて全員へとこう告げた。
「とりあえず飽贄の祀りは明後日ですし、短い期間ですが各自で色々と調べてみましょう。神木桜から離れてしまった姫神の事。三つの祀りの真に意図するところ。ほんの些細な事でも、知りえた情報は共有しておいた方が良いでしょう」
 永の言葉に、全員が同意を込めて頷いた。
「私と真帆さんは神楽の練習もあるし……自由に動ける時間は少ないけれど」
「はい。でも少しでも合間を見つけて、村の方々から情報を得てみます」
 紗耶と真帆が交互にそう告げる。
 次いで言葉を発したのは蓮生と百合子。
「俺は、神楽を見せてもらおうと思うけど、直接参加するわけではないから、何か手掛かりになるようなことが分らないか、巫女の桜やこの村の自然と話してみようと思う」
「うん。私は神楽に参加しないし、時間もあるから……」
 ここに来た理由は、祭りを楽しむ為ではない。哀しみの念に捉われ続けている神木桜の神を救い出す事だ。
 限りある時間の中で少しでもこの夢をよい方向へ持って行きたいと思う気持ちは、全員同じだった。
「飽贄の祀り……神の心を癒す為という話ですが、果たして本当に神の心は癒されるのか。囚われの姫の御機嫌伺いにしか思えません。捕らえた側の自己満足ですか、ね」
 永は独り言のように呟くと瞳を閉じた。

 村の祀り神。
 旱魃から逃れる為に神へ縋る村人達。
 その神の言葉を聞き、神哭の祀りで神の力を解き放つ役割を担う巫女。
 それぞれがどのようにして動き、何を為そうとしているのか。
 見えそうで見えない真実を見定める為に、夢を渡った五人が動こうとしていた。



■ 巫女の命脈 ■

 飽贄祭前日――。
 正午を少し回った頃、冷泉院蓮生と芳賀百合子の二人は、平屋から出て村の中を歩いていた。
 既に太陽は高い位置にあり、落葉で彩られた参道を眩いばかりに照らしている。反面、風はどこか冷々としていて、百合子は無意識に己の肩を両手でさすった。
 それに気づいた蓮生が、百合子へと声をかける。
「寒い?」
「あ、ううん。お日様が出てるし、大丈夫だよ」
 蓮生の言葉に、百合子がほわりとした笑顔を向けてくる。

 最初に外へ出ようと百合子へ声をかけたのは、蓮生の方だった。
 目覚めた時、既に永の姿は何処にもなかった。真帆と紗耶も神楽の練習で朝早くから舞殿へ出向いており、必然的に百合子と蓮生の二人が残されたのだ。
 部屋に籠もって思考を巡らせているだけでは何の手がかりもつかめない。殊に蓮生と百合子は人外のものの声を聞く事に長けていたから、その力を駆使して神木桜から抜け出した神を探し出せないだろうかと思ったのだ。

 木々が風に揺られてざわめいている。
 それは川の流れる音に似ていて、蓮生は思わず瞳を閉じると、植物の奏でる音色に耳を傾けた。
 夏と秋では葉擦れの音が微妙に違う。秋が深まるにつれて力強さは失われてゆき、軽く乾いた音へと変わるのだ。やがて葉が全て散り落ちると、周囲は独特の静寂に包まれ、そこに冬の訪れを知る。
「不思議だな。あれほど暑かったのに、何をしなくても必ず季節は巡るんだ」
「うん。植物の、命の色をみているみたい……」
「……命の色か」
 冬が訪れる直前に見せる木々の紅葉。
 それは春のおぼろげな色彩とは異なり、自分達がこの場に生きていたのだということを周囲に知らしめる、燃えるような艶やかさ。木々が見せる今年最期の命の色。
 だからだろうか、秋の色彩はよりいっそう見るものの脳裏に焼き付けられる。

 蓮生は再び瞳を開くと、木々を見上げた。
「神木桜はどうしているだろう……冬になっても、きっと花をつけたままだ」
 盛夏の頃に見た神木桜は、強烈な存在感を放ちながら花を咲かせていた。
 あの木に神は宿っていない。
 再び姫神が戻ってくるまで、あの神木は時を止めたままなのだろうか。
 それを思うと、やはり蓮生には姫神の所在が気がかりでならなかった。
 傍らを歩く百合子も同じ事を考えていたらしく、蓮生の言葉に頷いてくる。
「苦しんだりしていないと、いいけど……」
「注連縄が張られている以上、桜の神が呂の鳥居を越える事は出来ないと思う。だから多分、呂の鳥居の外に居る木々に話を聞いても、抜け出した神が何処にいるのかまでは解らないような気がする」
「そう、かもしれないね。でも今は神木桜の所に行くの、無理だよね。神楽殿で舞の練習をしている人がたくさん居るから、蓮生さん見つかっちゃう」
 表向き拝殿より先は男子禁制の地だ。夜であれば人目を忍んで神木桜の元まで赴く事もできるだろうが、流石に白昼堂々と神楽殿を抜けるのは難しい。
「桜の神に会えたら聞いてみたいんだ。血に穢された事を怒っていると聞いたけれどまだ怒っているのか、村人が注連縄で神の力を封じているというのは本当なのか」
 姫神が神木桜から抜け出したのは、夢で見たあの少女――雨歌か桜――を助けようとしているからなのか。
 手がかりを見つけるために外へ出てみたものの、拝殿より奥へは行くことが出来ない。かといって参道を往復し続けたところで、何も見出せない。
 どうしたらいいか束の間思案し、蓮生は何気なく視線を参道脇へと向けた。
「……そういえば」
 御縄の儀式があった日、巫女の資格を持つという子供に出会ったのは確かこの辺りだったはずだ。
 蓮生はそれを思い出すと、おもむろに足を進めた。百合子が慌てて蓮生の後を追ってくる。
「どうしたの?」
「前に、雨の日に生まれた子供に会ったんだ。巫女の資格を得た子供は一つ所に集められてる。もしかしたら彼女達から何かを聞き出せるかも知れない」
 蓮生はそれだけ告げると、参道から逸れた道の先にある、一軒の屋敷へと向かった。


*


 程なくして二人の眼前に、社殿に似た造りの屋敷が姿をあらわした。
 参道からでは木々に隠されて全貌を捉える事は出来ないが、こうして目の前に立つと、その広大な敷地面積に圧倒させられる。
「すごい、大きなお屋敷だね。やっぱり巫女は別格扱いなのかな」
 檜造りだろうか。柱の一本一本がどっしりとした重厚さを持ち、古くはあるものの、つぎはぎの痕や崩れなど微塵もない。
 荘厳と形容するにふさわしい建造物だが、それは質素な村の中にあって明らかに異質だった。
「……何でだろう、変な感じがする。……少し、怖い」
 百合子の胸内に、呂の鳥居を見た時と同じ、得体の知れない不安が積もってゆく。
 いつしか、風の音が止んでいた。

 蓮生もまた、百合子の呟きを聞きながら同様の空気を感じ取っていた。
 屋敷全体――否。屋敷の奥深くから、言い知れぬ負の感情が伝わってくる。それが周囲の木々に伝播して、自分の感覚的な部分に訴えかけてくるのだ。
「微かに不浄を感じる……でも、屋敷の中には人の気配がない。妙に静かだ」
「もしかしたら、みんな神楽殿に行っているのかな。飽贄の祭りで神楽を舞うのは女性だもの。巫女になる子たちなら、きっと参加するはずだから……」
「でも、それにしても静か過ぎる」
「……うん」
 耳が痛くなるような静寂だった。
 何故巫女の住まう場所から不浄なものの気配を感じるのか、蓮生には理解できなかった。けれどここで引き返せば、何の手がかりも得られずに終わってしまうような気がして、蓮生は百合子へと問いかけた。
「どうする?」
 危険がないとは言い切れない。
 だが、たとえ自分に危害を加えようとする存在が居ても、蓮生がそれに対して反撃を仕掛けることはまずない。相手を傷つけようという意思を持たないからだ。
 何事もなければそれで良いが、万が一の事があった時、百合子にまで害が及んでしまう可能性は十分にある。蓮生はそれを恐れた。
 百合子は一瞬口篭り、ややあって真顔で蓮生の言葉に頷いて来た。
「私も行く。大丈夫、自分の身はちゃんと自分で護るよ」
 どうやら蓮生の考えていた事は百合子に悟られていたようだ。少しだけ微笑を浮かべた百合子に、蓮生もまた笑顔を返した。


*


 案の定、外から声をかけても屋敷内からは誰も出てこなかった。
 重々しい両開きの板戸には鍵がかけられておらず、蓮生と百合子は微かな罪悪感を抱きながらも、無断で敷居をまたいだ。

 冴え返った空気が屋敷内部を支配しているが、不思議と嫌悪感はない。
 広い三和土から一段あがると、衝立障子の向こうに取次ぎの間があり、その奥に下座敷へと続く蔀戸(しとみど)が見えた。
 板敷きの回り廊下が外と面しているおかげで、かろうじて周囲を見渡すことが出来るが、屋敷内は薄暗く、夜は明かりを灯さなければ漆黒の闇に覆われるだろう。

 百合子は三和土から回り廊下へ上がると、脱いだ靴を手に取り、そのまま衝立障子の奥を覗き込んだ。
 取次ぎの間だけでもかなりの広さだ。
 下座敷から上座敷へ向うにしても、屋敷自体の構造が判然としない上に、この薄暗さである。下手をすれば屋敷内で迷子になるのは目に見えていた。
「廊下伝いに進んだ方が良いかな」
 百合子の言葉に蓮生が頷く。
「闇雲に動くのはまずいと思う。出来るだけ不浄な気配だけを追う事に集中した方がいい」
 言われて、百合子は静かに瞳を閉じた。
 神霊的なものが居るのであれば、屋内外を問わず百合子はそれを感じる事が出来る。少しでも屋敷内やその周囲から感じ取れるものはないかと、百合子は精神を集中させた。

 苦しんでいる存在があるなら、自分の呼びかけに答えて欲しい。
 不浄を溶かすだけの力を持ち合わせてはいないけれど、寄り添う事は出来る。痛みを分かつ事ならできるから――。
 思いながら、百合子が不浄な気配の在処を探っていた時だった。

――タスケテ……

 男とも女とも知れない低い声が百合子の脳裏に響き渡った。一人ではない。複数の声が入り混じり、轟音となって屋敷奥から反響してくる。
「どこにいるの?」
 返事はない。
 だが言葉の代わりに、力強い御鈴の音が一度鳴り響いた。
 咄嗟に蓮生と百合子は互いの顔を見合わせる。
 音は一定の拍子を取って屋敷奥から響いてくるようで、二人を奥へ誘い込もうとする明確な意志が感じ取れた。
 ここへ来て欲しい。
 自分達の存在に気づいて、救い出して欲しい。
 懇願に近い感情が御鈴の音に込められているような気がして、二人はどちらからともなく足早に歩き出した。
「回り廊下のずっと向こう……外に、誰か居る。泣いてる……すごく辛そう」
 廊下を行きながら、百合子が苦しげに呟く。
 現実に生きようとする意志が弱い分、百合子は己と霊的なものとの間に境界を持たない。自分に語りかけて来る存在があれば、何の迷いもなく真っ直ぐに受け入れ、他者が持つ感情を共有する。
 何がそんなに辛いのか。
 何を悲しんでいるのか。
 百合子が問いかけても、それは負の感情を伝えてくるばかりで、明確な言葉を返しては来ない。
 御鈴の音色と共に、自分の内に入り込んでくる得体の知れない悲しみをもてあまして、百合子はそれ以上言葉を紡ぐ事が出来なかった。
 自分のものではない涙が百合子の頬を伝う。
「……大丈夫か?」
 百合子の異変に気付いて、すぐさま蓮生が問いかける。百合子は止め処なく溢れてくる涙を拭いながら、無言で蓮生に頷いた。


 回り廊下を突き当たった先にある板戸を開けた瞬間、一際大きく御鈴が鳴り響いた。
 蓮生は誘われるようにしてその室内に足を踏み入れると、やがて眼前に広がる光景に目を見張った。
「なんだ、これ……」
 全面板張りの大広間。その最奥には庭を眺望する為の高舞台が取り付けられている。
 否。庭というのだろうか。
 高舞台からは階段が降ろされ、その一寸先に古びた木造の鳥居が建てられていた。
 鳥居の真正面に置かれていたのは巨大な慰霊塔。
 その塔を中心に、小ぶりの石塚が無数に並び、一つ一つに小さな御縄がかけられている。
 長い歳月によって風化し、既に原型を留めていない石塚もあれば、まだ造られて間もないものもある。
 そこから感じ取れるのは絶望と怨嗟。人間の抱く負の情念が凝って、不浄に近い空気を作り出していた。

 高舞台に進み出た蓮生が呆然としながらその光景を眺めていると、傍で百合子が擦れたような声を出した。
「……お墓」
 百合子の言葉に、蓮生が思わず振り返る。百合子は蓮生の隣に立って、怯えたように石塚を眺めていた。
「ここ、たぶん巫女だった人達のお墓……」
「……巫女の墓?」
「だって、それ以外考えられないもの。巫女が住む屋敷に、何の関係もない村の人達の塚を造る訳がないよ」
 石塚は人目を憚るかのように、屋敷の最奥に造られている。少なくとも一般村民のものではないのだろう。だが例え巫女のものだとしても、普通に生をまっとうした者達の墓とは考え難い。
 蓮生は身の毛立つほどの悪寒を感じながらも、百合子と共に高舞台から降りて鳥居の前に立った。
「貴方達は何故こんなところに居るんだ。何故苦しんでいる? 教えてくれないか。ここで一体何があった?」
 少しでもこの塚に眠る者達から何かを聞き出せないか。彼らの魂を救えないか。思いながら、蓮生が鳥居を潜り抜けようとした時だった。

「お止めなさい」
 突如、屋敷内から凛然とした声が響き渡り、蓮生の行動を戒めた。
 静かだが、どこか鋭さを含む口調。反論の余地を与えない物言いに、蓮生と百合子は思わず声のした方へと視線を向けた。
 いつからそこに居たのだろう。見慣れない和服を身に纏った女が一人、高舞台から怪訝そうに二人を見下ろしていた。
 赤とも黒ともとれる色彩の長い髪。鮮血のように赤い瞳。
 百合子はその女の姿を見留めると、驚いたように口を開いた。
「……露月王?」
 百合子は過去に一度だけ露月王に出会ったことがある。やはりその時も、秋の夢に紛れ込んだ自分を露月王が助け出してくれた。
 露月王の身の内から溢れる存在感と、鮮やかな赤い瞳を忘れられるはずがない。
「やっぱり、ここに来てくれていたんだ」
 百合子は安堵にも似た笑顔を露月王に向けた。

 だが名を呼ばれた露月王は、百合子を一瞥しただけでそれに答えず、均等の取れた顔を嫌悪で歪ませたまま言葉を放った。
「己がどのような存在なのか、二人とも自覚なさい。そんなものに不用意に近づけば、取り返しのつかない事になってよ」
 突き放すような物言いだった。
 蓮生にとって露月王は初対面の相手だ。だが、目の前のこの光景をみて「そんなもの」と切って捨てる露月王の物言いに、蓮生は思わず反論した。
「でも苦しんでいる。助けを求めているのに、それを無碍には出来ない」
 誰にも傷ついて欲しくはない――。
 それは蓮生が常に抱いている感情だった。
 その考えが、時に仇となる事を知っていても、僅かな望みを捨てたくはない。苦しんでいる存在があるのだとしたら、少しでも手助けをしたい。救い出してあげたい。そう思うことが何故いけないのか。
 だがそんな蓮生に対し、露月王はどこまでも冷酷に対峙する。
「無駄よ」
「やってみなければわからない!」
 珍しく声を荒げた蓮生に驚いて、百合子がびくんと肩を震わせる。露月王は双眸を細めて蓮生を見据えた。
「今は諦めなさい。これは祈雨ごとに堕ちて行った人間の魂。断片を救いあげたとしても、根幹を絶たなければ同じことが繰り返されるだけ。まずは姫神を見つけなさい」
「……祈雨ごとに、堕ちた魂?」
 意味が分からず、蓮生は露月王の言葉に眉をひそめた。
 露月王は真っ直ぐに蓮生を見つめると、その言葉の意味を端的に口にする。
「巫女の命を神前で断ち切り、神の涙雨を請う。それがこの村に継がれる祈雨の実態」
「!?」
「巫女はあくまで姫神に捧げる贄に過ぎない。鳥居の御縄で姫神を閉じ込めているのは、肝心の姫神がこの地から離れてしまっては、贄を捧げたところで涙雨を降らせてはくれないからよ」
 傍らで、百合子が息をのむのが解った。
「……巫女は、殺されちゃうの? 雨を呼ぶ為に?」
 露月王は口を閉ざしたままで百合子の言葉に返さない。そこに肯定の意を見い出した蓮生は、青ざめながら眼前にある無数の石塚へ視線を向けた。
「この塚から不浄が滲み出ている理由は、それなのか?」
 祈雨の度に殺され、この場所に埋葬され続けて来た歴代の巫女達の悲しみ。
 村に住む全ての人間がこの事を知っているかは解らない。だが少なくとも、桜や雨歌、ここに居る子供達は知っているはずだ。
「桜は……自分が殺されると知っていて、それを受け入れているのか?」
「こんな小さな村では、逃げ出してもすぐに見つかるでしょうね。たとえ逃げ遂せたとしても、代わりに別の人間が殺されるだけのこと」
 生き延びたとしても、その先に幸せが待っているとは限らない。恐らく、他人を犠牲にしたことを一生悔恨し続ける人生が待ち受けているだけだ。
「……そんな事、あっていいはずがない。間違ってる」
 声が震える。
 知らされた真実はあまりにも凄惨で、己の内から沸きあがる感情が怒りなのか、悲しみなのか、蓮生自身判断する事が出来なかった。


 やがて沈黙を続けていた露月王が、二人へと言葉を紡いだ。
「戻りなさい。ここはお前達のような気質を持つ人間が、長く留まれる場所ではないのだから」
 露月王にしては、穏やかな物言いだった。
 清浄な空気を纏う蓮生。聖も邪も受け入れてしまう百合子。そんな二人が不浄に満ちた場所に居続ければ、正常な精神を保つことが出来なくなることを、露月王は知っていたのかもしれない。
 だが二人は、その場に立ち尽くしたまま動くことすら出来ずにいた。

――この祈雨の祀りで、桜が殺される――

 助けたいのであればまず姫神を見つけろという露月王の言葉が、二人の脳裏に木霊していた。



■ 解き紐 ■

 静かに、緩やかに。けれど確実に時は流れる。
 その流れの中で人間は様々なものを見、経験し、成長してゆく。
 けれど生まれ落ちた瞬間から、死ぬ為だけに生かされ、他者のために贄となることを義務付けられて来たら、己の生に楽しみを見出すことなど出来るだろうか。
 常に儚げで消え入りそうな雰囲気を持つ桜。
 肉体の脆弱さから巫女の道を外れた、明るく奔放な雨歌。
 祈雨の祭りによって与えられる「死」と「生」が両者を隔てているから、酷似した容姿でありながら二人はまるで異なる気質を持つ。

 己と最も近しい人間の命とひきかえに生き長らえても、きっと雨歌は喜ばない。
 川辺で水遊びをした時、ことさら雨歌が祈雨の祀りに嫌悪を示したのは、その所為だったのか――。
 平屋へと戻る道すがら、百合子は黙したままこれまでの事を思い返していた。


 秋鳥の囀りが周囲の木々に木霊して、百合子の耳に届く。
 手に触れるもの、聞こえるもの、全てが生々しくて、これが夢の中だと言うことをつい忘れてしまいそうになる。
「これ、夢なんだよね」
「……ああ」
 確証が欲しくて、隣を歩く蓮生に問いかければ、静かな声で返事が返ってくる。
「でも、実際に起こったこと、なんだよね」
「……そうだな」
 この『夢』は過去に実際起こった出来事だ。自分達は今、その軌跡を追っているに過ぎない。
 抗っても抗いきれない未来への道筋を、ただひたすら歩んでいるだけ。
「祈雨の度に、人の死を見せられ続けてきた姫神は、何を思っていたんだろうな」
「……うん」
 蓮生の言葉に、百合子が頷く。
 姫神が贄を望んでいたとは、到底思えなかった。
 そうでなければ、こんな惨い悪夢を姫神が見続けているはずがない。
 ではどうして、姫神はいつまでも悪夢に囚われているのだろう。
 もしかしたら止めたいのではないだろうか。祈雨の度に人が殺されてゆく、この村の風習を。
 その為の最善の策を、姫神はずっと探し続けているのではないだろうか。
「……神さまが、人間の為にしてくれること。人間を助ける為に……」
 百合子が独り言のように呟く。それが蓮生の耳に届いたのだろう。平屋の戸を開けながら、蓮生が不思議そうな表情で百合子を見つめてきた。
「どうした?」
 問われて、百合子は困ったように口を開いた。
「姫神が夢を繰り返し見ているのは、桜を助けたいからなのかなって。だとしたら、どういう方法で助けようとするかなって……考えてた」
 巫女達を救いたくても、鳥居内に縛られていては充分に力を使うことが出来ないはずだ。
 そこから必然的に導き出される答えを、百合子は知っていた。だが確信を持てず、言葉にする事は躊躇われる。
「俺も姫神は、桜か雨歌を助けたかったんじゃないかと思っていた。助けようとして、助けられずに……ずっとあがき続けているんじゃないかと」
「…………」
 焦りは心の余裕を奪う。そして限界まで精神的に追い詰められると、半ば強引にでも自分の願望を叶えようとする。それは人間でも神でも同じ。
 焦った姫神が何か恐ろしい事をしてしまう前に、百合子はどうにかして姫神と接触出来ないかと考えていた。


 平屋へ上がりそのまま奥の座敷へ足を運ぶと、不意に二人へ話しかけてくる者がいた。
「お早うございます……というには少し時が絶ち過ぎましたか。お帰りなさい」
 百合子が顔を上げると、卓袱台の前に座って村の地図を眺めている永の姿が視界に入った。
「……永さん」
 知った顔を見つけて、百合子は思わず安堵に似た吐息を零した。
 それと同時に、今まで抑えてきた感情が沸きあがってきて、思わず泣き出してしまいそうになる。
 百合子の傍らで、はやり蓮生も暗い表情をしていたのだろう。二人の異変に気づいた永が、神妙な口調で問いかけてくる。
「どうしました? 二人とも顔色が優れないようですが……」
 一瞬、百合子と蓮生は互いの顔を見合わせたが、直ぐに永へと向き直った。
「桜が……」
 そう呟き、百合子が言葉を濁す。
「桜さんがどうかしましたか?」
 二の句を告げられず、百合子が俯く。
 蓮生は無言で百合子の肩に手を置くと、百合子のかわりに低く硬質な声で永へと告げた。
「……桜が、殺される」


*


 陽が傾き始めていた。
 まだ夕刻というには早い時間だが、冬が近づくにつれて日照時間も短くなる。障子を透かして居間へ入り込んでくる陽光は、既に朱色を帯びていた。
 そんな中、百合子と蓮生は、先程見聞きした事をそのまま永へと伝えた。
 永は正座をしたまま、障子の向こうにある景色を見つめ、時折深い溜息を零している。
 朱色に染まった光が、三人を包み込む。それはまるで血の色のようで、これから起こるであろう惨劇を想起させた。
「秋の神様……露月王に会ったの」
 血の気の引いた顔で百合子が話すのを、永は無言で聞いていた。
「巫女の命を神前で断ち切る事で、姫神の涙雨を請うんだって、露月王が……」

 姫神が外へ出られないよう鳥居内に封じ込めるのが一の祀り、御縄の儀。
 封じ込められた姫神の力が極限まで満ちるのを待つ二の祀り、飽贄の儀。
 姫神の前で巫女を殺し、神の力と涙を村へ解き放つ三の祀り、神哭の儀。

 巫女の命を代償に、姫神の涙は雨となって大地を潤し、村を潤す。殺された巫女の屍は屋敷の最奥へと埋葬され、人目につくことは無い。それが村で行われる祈雨の真相。
 今回の祈雨が成功してしまえば、桜もまた骸となってあの石塚に埋葬されてしまうのだろうか。
 蓮生が、百合子のかわりに話を続ける。
「露月王が、巫女の命を救いたければ姫神を探せと言っていたんだ。でも流石に、白昼堂々と拝殿の奥へ行くことは出来ない」
「……確かに。あの注連縄がある以上、姫神様が呂の鳥居の外に居るとは考え難いですからね」
 永はそう呟くと腕を組んで考え込んだ。何か思うところでもあるのだろうかと、蓮生と百合子が永を見つめる。
 永は視線を外へ向けたまま、微かに顔をしかめた。
「姫神様は、蔓王のように実体を持っているのでしょうか」
 独り言にも似た永の問いかけに、百合子が思わず両手を握り締める。
 桜は春に属するもの。当然、四季を司る蔓王達より姫神は格下になるはずだ。蔓王でさえ長時間実体を保つことの出来ない場所で、姫神が実体を持てるとは思えない。
 実体を保てない神が何かの為に動こうとする時、どういう行動に出るかを百合子は知っていた。
「……依代」
 視線を伏せながら、百合子が静かに言葉を放つ。
「よりしろ?」
 意味がわからず、蓮生が百合子に疑問を投げかける。百合子は頷くと、淡々とした口調で言葉を返した。
「簡単に言うとね、人間の体に神さまが乗り移ること。自分の体を貸して、神様の言葉を代弁したりするの。普通は巫女がその役割をするのかな。だから巫女に降りれば、神さまは自由に動ける」
「つまり巫女の資格を持ってる誰かに、姫神が入り込んでいるという事か?」
「うん。でも誰でも依代になれる訳じゃないよ。ちゃんと神さまの声を聞くことが出来るひと。その力に耐えられる精神と身体を持っていないと、心が壊れちゃうから」
 あたかも当然のように話す百合子に、蓮生はやや驚いた表情を浮かべた。
「……随分詳しいんだな」
 百合子は微かに困ったような笑顔を見せると、
「私も巫女筋だから……そういうこと、少しわかるの」
 弱々しい口調で蓮生にそう告げた。

 雨の降る日に生まれた子供達を「巫女」と一括りにしてしまうのは簡単だが、実際は生贄の対象とされているに過ぎない。全員が姫神の声を聞けるわけではないのだろう。
 純粋無垢な魂と身体を持ち、神の意志を解し、それ相応の霊力を内に持つ人間――。
「……私は、姫神は雨歌さんを依り代としているのではないかと、思っています」
 一瞬の間をおいて、永が一つの推論を呈す。
 それは百合子も同じ考えだった。隣に座っている蓮生も無言のまま、永の言葉に反論を投げかけることは無かった。もしかしたら三人とも一様に同じ結論を抱いていたのかもしれない。
「以前、桜さんが姫神に会ったことのある口振りで、話をされていました。彼女に問えば、確証が取れるはずです」
 永はそれだけ言うと、考え込むようにして沈黙した。

 長い時の中で、数多の人間の死を見せ続けられた姫神は何を想い、何を考えて雨歌を依り代としたのだろう。
 そうしてこれから、何を成そうとしているのだろう。
 幾重にも絡みついた紐が少しづつ解かれてゆくように、見えなかった真実が少しづつ、自分達の目の前に姿を現し始めたような気がした。





<飽贄の章 ―壱― 了>



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】


【1711/榊・紗耶(さかき・さや)/女性/16歳/夢見】
【3626/冷泉院・蓮生(れいぜいいん・れんしょう)/男性/13歳/少年】
【5976/芳賀・百合子(ほうが・ゆりこ)/女性/15歳/中学生兼神事の巫女】
【6458/樋口・真帆(ひぐち・まほ)/女性/17歳/高校生*見習い魔女】
【6638/藤宮・永(ふじみや・えい)/男性/25歳/書家】



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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、綾塚です。この度は『桜媛奇譚――飽贄の章・壱――』をご発注くださいまして、まことに有難うございました。 そして、またもや私事で恐ろしいほど遅延してしまい……深くお詫び申し上げます。

 三連作の二話目前半になります。本来ならこのノベルで飽贄全てを終わらせるはずだったのですが、私の体調不良及び頂いたプレイングから判断して、飽贄に入る前にワンクッション置かせて頂きました。飽贄の祀り前日の出来事です。
 祀りに直接参加する方と、見学なさる方・参加しない方とで大別しております。一本の筋を軸に、雨歌寄りの話と桜寄りの話で作り上げていますので、前回同様、他のPC様のノベルをお読みいただくと大体の全貌がつかめるのではないかと。
 ただこれは毎回思うことなのですが……書き手は全てを把握して書いているものなので、真っ白な状態のプレイヤー様にお読み頂いて、果たして理解して頂けるかどうかという不安が頭の中に渦巻いています…(すみません。私の文章力の問題です…)ご不明な点や不可解な点がありましたら、遠慮なくご一報くださいませ。
 それでは、少しでもお気に召して頂けましたら幸いです。