■First Winter■
雨音響希 |
【7403】【黒城・凍夜】【何でも屋・暗黒魔術師】 |
白い息を吐きながら、彼女は冷たい木のベンチに腰を下ろしていた。曇り空の下、吹いた風に身を縮め、マフラーに顔を埋める。
短いスカートのポケットから手探りでストラップを見つけ、携帯を取り出す。指先まで伸ばしていたセーターが鬱陶しかったが、手袋を忘れてきてしまった自分の敗因だ。
シルバーの二つ折り携帯電話を開き、右隅に表示された時刻を確かめると、彼女は深い溜息をついた。
学校でも評判の“王子様”と付き合い始めて2ヶ月、見掛け倒しの彼に飽き飽きしていた。
浮気はする、時間は守らない、約束も守らない‥‥‥
彼女の誕生日すらも忘れ、祝ってくれなかった彼は、後日友人に聞いてみたところ他の女の子と遊んでいたらしい。
2人でいる時は、甘い言葉を囁いてくれる彼。最初のうちはそれだけで良かった。浮気をしていようが、約束を破られようが、何時間も外で待たされていようが、あの人の彼女は私だけなんだと思うだけで幸せな気分になれた。浮気を怒って、もうしないと反省する彼の横顔を見るたびに、許してあげようという気になれた。
でも、もう限界―――――
唇を噛み締める。約束の時刻はとっくに過ぎており、それでも針は止まることなく進み続けている。
あぁ、どうしてあの時彼の思いを受け入れなかったんだろう。
後悔が胸を圧迫し、視界が揺れる。潤んだ瞳を急いで拭い、マスカラをつけていたことを思い出し、はっと顔を上げる。
傍らに置いたバッグから急いで鏡を探し、顔を確かめる。‥‥そこには今にも泣きそうな彼女が情けない顔でこちらを見返しているだけで、化粧は少しも崩れていなかった。
安堵したのも束の間、鏡の中の濃い化粧をした自分に嫌気が差す。
元々綺麗な顔立ちだった彼女は、幼い頃から初対面の人からの受けは良かった。華やかで明るく可愛らしい彼女は、男女を問わず人を魅了する力を持っていた。
けれど人を惹きつけられるのは外見だけで、彼女はいたって大人しく控えめな性格をしていた。
見た目だけと言われるようになったのは、中学の時から。学校で一番カッコ良いテニス部の先輩と付き合い始めて1ヶ月、彼が友人とそう囁き合っているのを聞いてしまった。
彼とは些細な口喧嘩で別れてしまった。派手好きで華やかな彼の性格とは、元から合わなかったのだ。
最後の彼の捨て台詞は、今も耳にこびりついている。『暗くて、つまらない―――』
だからこそ、高校に入って変ろうとした。髪も明るく染め、お化粧だって覚えた。ファッション雑誌を大量に買い込み勉強して、話題になるからとテレビにかじりついた。流行の服に人気のアイドル、話題の映画に美味しいお菓子。常に何人もの友達といれば、安心できた。
彼女や彼達との会話は、いつだって華やかなだけだった。友達と言いつつ中身は空っぽで、友情なんてものは欠片もなかった。それでも私は彼女や彼らと仲良くし、そのせいで暗くてつまらない私でも受け入れてくれた中学の頃の友達はことごとく去っていった。
寂しいと思う心は押し込めて、笑う。ただただ、馬鹿げた騒ぎに乗る。明るくしていれば自然と人は集まって、華やかに装っていれば決して離れては行かないから。孤独が何よりも怖かったから。
‥‥‥あの日―――私が2人の違ったタイプの男の子から告白された日―――私は本当の孤独から目を逸らし、目先の仲間を選んだ。
幼馴染の男の子を傷付け、王子様を選んだ。だから、きっとこれは‥‥‥罰なんだ‥‥‥
小学校の時から同じクラスで学び、家も近い事もあって家族ぐるみで付き合いのあったあの人。真っ直ぐで純粋で、決して飾らない人だった。私は彼に惹かれていた。けれど彼は、あまりにも地味な人だった。私の仲間とは相容れないタイプの、真面目で正義感溢れる熱い人だった。
私は、あの人の思いを拒んだばかりか、仲間から白い目で見られたくなくて、酷い言葉を言った。中学の時に付き合っていた彼が言った捨て台詞を、そのまま言ってしまった。
後悔した時にはもう遅かった。仲間の馬鹿笑いと、傷ついた顔で去って行くあの人。
今でもその背中が脳裏に焼きついている。
あの人を見た、最後の姿が―――
―――あの日からあの人は消えてしまった。家にも戻らなく、捜索願が出された。彼の足取りは、あの時からプツリと途絶えたままだ。
死んでいるかも知れないなんて、一秒だって考えたくなかった。だって、まだ謝ってもいないから‥‥‥
手の中で振動した携帯に、彼女はビクリと肩を震わせると反射的に通話ボタンを押した。冷えた機体を耳に押し付け、もしもし?と明るい声で話しかける。
「千里、あんた今どこにいるの!?」
「麻奈ちゃん、そんな怖い声でどうしたの?私は今、駿君とのデートの待ち合わせで‥‥」
「その駿が大変なんだよ!車に轢かれて、今病院に―――――」
スルリと、手から電話が滑り落ちる。アスファルトで跳ねた機体には構わず、頭を抱えた。
―――そう、あの日以来、私の周囲ではおかしな事が起こる。
私がダメだと思った人は皆、事故や病気になって病院に運ばれ、全員未だに意識が戻らないんだ―――
興信所の薄い扉を開けて散らかった中に滑り込むと、ソファーに座って煙草をふかしていた草間 武彦がヒラリと手を振った。低いテーブルの前には依頼書や報告書、伝票などが乱雑に積み重なっており、その傍には煙草の灰が点々と落ちている。
「丁度良いところに来てくれた。実はたった今依頼が入ってな」
彼はそう言うと、綺麗な少女の写真が片隅に挟まった書類を無造作に投げてよこした。
「名前は美影 千里(みかげ・ちさと)いたって平凡な都立高校生だ。で、次のが大貫 正也(おおぬき・まさや)こっちも千里と同じ高校で、2人は家族ぐるみの付き合いがあったそうだ」
大人しい好青年といった顔立ちの少年は、コレと言って特徴はなかった。どこにでもいる、普通の男子高校生だ。
「その他は今回の事件の被害者達。総勢8人、なかなか多いだろ?」
金髪の美少年に、赤毛の少女、綺麗な顔立ちをした青い瞳の少女―――カラーコンタクトだろう―――に、屈強な体躯の少年。みなバラバラな容姿をしているが、退廃的で享楽的な雰囲気は似た物を持っている。
「俺も詳しいことは分からないんだが、どうやらコトの原因は大貫正也にあるらしい。魔が彼を操っているのか、もしくは魔に心を喰われて狩人になっちまったか―――。操られているだけなら魔を倒せば事足りるが、狩人になっている場合は彼を倒すしかない」
確率は五分五分。もし後者の場合、後味の悪い事件になりそうだ。
「まずは正也を見つける事が先決だ。で、今回一緒に事件を担当するやつなんだが‥‥」
武彦は苦々しい表情で頭を掻くと、手強いぞとポツリと言葉を零した。
|
First Winter
煙草の煙が充満した興信所内で、黒城・凍夜は夜神家23代目当主の到着を待っていた。
「23代目当主と言っても、正式には夜神家魔狩人討伐人第23代目当主候補だ。ただ、当主候補は他にいないし、彼女の能力はかなり強く、周りからは既に23代目当主と認められている」
「そうなのか」
「自分では当主候補と名乗っているから、当主としては呼ばないほうが良いかも知れないな。おそらく、当主候補だと訂正されるだろうしな」
これから来る少女が当主だろうが当主候補だろうが、凍夜には関係の無い話だった。 自分で当主候補だと言っているのならば、こちらとしてもその意思を尊重する。その意思を否定すべき理由はどこにもない。
「で、その当主候補はどんな人なんだ? 手強いんだろう?」
「あぁ。物凄くな。 名前は夜神・魔月、歳は17だ。都内の私立女子校に通っている。俺でも名前を聞いた事があるくらいのお嬢様進学校だ。見た目は‥‥‥」
武彦がそこで言葉に詰まり、部屋の隅で静かに佇んでいた零に助けを求める視線を向ける。
「見た目はとてもお綺麗ですよ。すらっとしていて、スタイルも良いです。笑うと可愛らしいんですけれど、普通にしているとクールな感じなんです」
「まぁ、そう言うことだ。頭は良いし、スポーツも抜群、欠点なんてないように振舞っている。‥‥‥昼間はな」
「昼間は?」
「そのところは本人から直接聞いてくれ。‥‥‥もっとも、本人が話すかどうかは分からないけどな」
「話さないって分かってんだから、そう言えよな。そんなくだらない質問されたりしたら、あたしが面倒だろ?」
不意に凛と透き通った声が聞こえ、凍夜は振り返った。 気配すらさせずに入って来たセーラー服姿の少女は、太もも近くまである髪を頭の高い位置で一つに結んでおり、スラリとした身体には外の冷気がまだ纏わりついていた。
「あんたが今回のパートナー?」
武彦や零が言った通りの美少女は、凍夜を頭の天辺からつま先まで眺めると肩を竦めた。
「ま、合格点だな。見た目は問題ない」
「見た目?」
「そ、見た目。あたしと一緒に仕事するヤツは、それなりに顔立ち整ってないとな。あんたはとりあえず合格」
零がいそいそと紅茶を入れ、魔月の前に差し出すと「ゆっくりして行ってくださいね」と声をかける。ニコニコと愛想の良い零とは対照的に、武彦はなるべく早く帰って欲しそうな気配を滲ませている。
「武彦から粗方話は聞いたと思うから、とっとと本題に入っても良いだろ?下らないお喋りは時間の無駄だ」
「夜神、こっちは黒城・凍夜と言って‥‥‥」
凍夜の紹介をしようとした武彦の言葉を煩そうに遮り、テーブルの上に投げ出された写真に手を伸ばす。紅茶のカップを片手にドカリとソファーに座り、長い髪を鬱陶しそうに払うと長い脚を組む。
「紹介は必要ない。あんたの名前を知らなくても、仕事は出来る。そもそも、あたしはあんたに興味は無い。あんただってそうだろ? なら、下らないお喋りの時間はなしにしよう」
魔月の言い方に多少ムっとするが、武彦が小声で「な、手強いだろ?」と囁いたのに気づき、感情を押し殺す。
彼女は自分が嫌いだからこうして振舞っているのではなく、普通の状態でこうなのだ。興味のある相手以外は誰でも平等に“あんた”であり“紹介は無駄な時間”なのである。 極端と言えば極端だが、それは彼女の性格的な問題であり、凍夜にはどうしようもない部分だった。
そもそも、仕事に支障が出ない分には個人の性格に口を出す気は毛頭ない。
「それで、あんたはどう動くんだ?」
突然の切り出しに、凍夜は一瞬答えに詰まった。
「素性を隠して千里に近付こうと思っている」
「随分呑気な方法を取るんだな」
「それが一番確実で安全な方法だ。魔月はどう思うんだ?」
「‥‥‥あのさ、あたしのこと下の名前で呼ぶのやめろ。ただの仕事のパートナー如きに下の名前で呼ばれるの、嫌いなんだ。下の名前以外なら、あんたでもお前でも何でも良いけどな」
銀色の瞳が不機嫌に揺れる。心の底から拒絶しているらしい魔月を前に、凍夜は分かったと頷いた。
「夜神って呼ぶのはどうなんだ?」
「問題ない。夜神で良い」
不機嫌だった瞳の色が薄れていく。 成り行きを見守っていた武彦がほっと安堵の溜息をつくのを聞きながら、凍夜は目の前にいる少女が武彦が言ったとおりの手強い相手であると言う事を痛感した。
魔月の中では凍夜は今回の仕事のパートナーであり、それ以上でもそれ以下でもない。必要な協力以外は凍夜と関わりを持ちたくないと思っているような雰囲気すらも滲み出ている。
「あたしの考えを聞いたところで、あんたとは相容れない。根本的な物の考え方が違うからな」
「どういうことだ?」
「あんたの案なら、あんただけでやれる。でも、あたしの案はあんたの協力が必要だ」
魔月が何を言わんとしているのか分からず、凍夜はただ押し黙った。
「あたしは極力あんたとは関わりになりたくない。だから、あんたの案で成功する見込みがあるなら賛成だ」
成功するんならな。 魔月がポツリと呟き、カップをテーブルの上に置く。
「魔憑き人でも魔でも、見つけたら連絡してくれ」
立ち上がった魔月がカップを零に手渡す。
「連絡先は?」
「武彦のところ。武彦は随時あたしに連絡してくれ」
「あぁ、分かった」
「零、この仕事が終わったら、買い物に行こう。春物を買いたい」
「この間、魔月さんに似合いそうな綺麗なワンピース見つけたんですよ」
魔月の表情が柔らかく変わり、零と歳相応の女の子らしい会話をすると別れを告げ、ドアノブに手をかける。
「夜神‥‥‥」
「なんだ?」
「根本的な物の考え方が違うって言うのは、どう言う事なんだ?」
「完璧を目指すか、妥協するかの違いだ」
「俺は妥協など‥‥‥」
「最良の完璧と、ただの完璧は別物だ」
魔月はそれだけ言うと、スルリと興信所から出て行ってしまった。
「今のが夜の性格だ。‥‥‥おそらく昼に会う機会はないだろうが」
武彦の呟きに反応し、顔を上げる。 しまったと言うように渋い顔をした武彦が、このくらいなら話しておいても良いかと独り言を吐くと溜息混じりに言葉を紡いだ。
「夜神は、昼の間は魔狩人討伐人次期当主候補ではないんだ。ただの夜神・魔月になる」
「どこが違うんだ?」
魔狩人討伐人次期当主候補も、夜神・魔月も同じ人物ではないか。 そんな凍夜の問いに、武彦は答えなかった。
「そこのところが、夜神が候補をつけて名乗る理由なんだろうけどな」
*
千里に近付くのは、さほど難しくなかった。千里と付き合うのはもっと簡単だった。 彼女は見た目ではなく内面を見てくれる相手を欲しており、その要求に応えさえすれば簡単に心を開いてくれた。
華やかな外見に反して繊細でおっとりとした雰囲気の千里は、仮の付き合いをするのに苦にならない相手だった。むしろ千里に駄目だと思わせようと厳しくするたびに罪悪感が生まれるほど、千里は良い子だった。
凍夜に微笑みかける千里を見るたび、魔月の顔がちらつく。 嫌悪とも敵意とも取れるほどに厳しい顔つきで凍夜に対していた魔月は、零と話す時には信じられないほど穏やかな微笑を浮かべていた。 横顔をチラリと見ただけだったが、零の言うとおり可愛らしい笑顔だった。
魔月はどうしてあんなに頑なな態度を取っているのだろうか。性格だからと言ってしまえばそれでおしまいだが、何かもっと深い事情があるように思う。彼女の心をあれだけ閉ざしてしまった理由がある、凍夜にはそう思えてならなかった。
しかし、それを直接聞いたところで魔月は答えてくれないだろう。答えてくれないどころか、あからさまな嫌悪と共に凍夜との関係を絶つだろう。 彼女は自分の中に入って来た人には心を許すが、それ以外の人は頑なに拒絶する。まして土足で入り込もうとする人など、論外だ。
考え込んでいる凍夜を見上げ、千里が寂しそうな顔をして俯く。 最近こういう顔をする事が多くなった。きっと、凍夜が浮気をしていると思っているのだろう。事実凍夜は千里の友人に見せつけるように女性と街中を歩いた事がある。勿論、その女性はこちらが雇った人であり、何の関係も無い人だが。
背中にチリリと痛みが走り、凍夜は咄嗟に振り返った。 姿は見えないものの、宙を漂う殺意は容易に消えるものではない。
そろそろ相手が動き出すかも知れない。 凍夜はそう思うと、どうしたのと声をかける千里に笑顔を返しながら、魔狩人討伐人次期当主候補の事を思い出していた。
*
月夜をバックに現れた魔月は、瞳の奥の警戒心や嫌悪感は消えていないものの、随分機嫌が良さそうだった。
「今日は機嫌が良さそうだな」
思わずそう零した直後、後悔した。 あんたに関係ある?だから何? 前回会った魔月だったなら、氷のような冷たい視線と共にそう返していても不思議ではない。 しかし今日の魔月は凍夜のそんな“無駄なお喋り”にも目くじらを立てることはなかった。
「テストがオール100だったんだ。いつも一つくらい99とか98とかが入るんだけどな」
「それは凄いな‥‥‥」
名門私立女子進学校で全教科満点を取る生徒など、一体どのくらいいるのだろうか。進学校でなくとも、全教科満点はかなり難しいだろう。
「あんたは今日は不機嫌そうだな」
「そんなことはない」
「そうか? じゃぁ、嘘か本当か調べてやる」
「‥‥‥調べる?」
「夜神家魔狩人討伐人次期当主候補の力なめんなよ。もし嘘をついていた場合は‥‥‥」
魔月の銀色の瞳が怪しく輝き、白く細い手を胸の前で合わせると何かを探るように目を細めて凍夜を見つめる。
本当に出来そうな様子を前に、困ったような顔をしていたのが伝わったのか、魔月がふわりと表情を和らげると笑い出した。
「流石に夜神家魔狩人討伐人次期当主候補とは言え、人の心を調べる事は出来ないな」
「そうか」
「騙して悪かったな。でもなんか今日のあんた、様子がおかしいからさ」
それはこちらの台詞だった。 興信所で会った時は笑顔はおろか無駄な話さえも拒否していたのに、随分な変わりようだ。
零に向けていた笑顔とは別種の笑顔ではあったが、可愛らしい表情である事に変わりは無かった。
「正也に苛立ってるのか?」
一瞬言葉を失う。 本当に人の心が分かるのではないかと疑いたくなるほどに魔月の指摘は核心を突いていた。
「なら、それはお門違いだ。‥‥‥あんたは魔を知らないから仕方がないのかも知れないけどな」
「魔なら知っている」
「あたしが討伐している魔は、あんたの知ってる魔とは違う」
それ以上の説明はないまま、魔月が両手を前に差し出し、掌を地面に向けると目を閉じた。 一瞬の黄金の光りの後に両手には巨大な対の刀が握られており、セーラー服の胸元の赤いリボンが風にはためいた。
魔月が闇に目を凝らすこと数秒、凍夜にもドロドロとした重苦しい気配が感じられた。 闇から現れた少年は、写真で確認したそれと同じだった。
「大貫・正也だな?」
「えぇ、そうですけど。貴方達は誰です?」
「美影・千里と言う子を知っているか?」
「千里の事を知らないはずないじゃないですか。それより、貴方は誰です?」
穏やかな声に反して、正也の表情は固まったままだった。 背後で魔月が「やっぱり」と言って舌打ちする声が聞こえて来る。
「夜神、魔を探すのと正也の相手をするの、どっちが良い?」
「あんたのが正也に近いんだからあんたが戦えよな。 そもそも、あんたに魔を倒す事は無理だ。魔を倒せるのは夜神か昼神、もしくはどちらかの家と繋がりの深い者にしか出来ない」
先ほどまでの友好ムードは何処へやら、魔月は苛立たしげにそう言うと深い溜息をついた。
「ま、あんたが自殺希望者だって言うんなら、魔に行っても良いけどな」
腹の立つ言い方だったが、ここで言い争っていても何も良いことはない。 ぐっと堪え、正也を睨みつける。
「それよりあんた、武器ナシでやるつもり?」
「素手で十分だ。‥‥‥容赦はしない」
「‥‥‥狩人になっているから、容赦はする必要はない。ただ、いくら狩人って言っても、身体は生身の人間と変わらないんだぜ? それと、狩人になってる以上、魔能力ってのがある。魔能力は、魔法と思ってくれて良い。それを素手で?」
あんたがどれだけ強いのかは知らないけど、狩人をなめてないか? 顔を顰めながらそう言った魔月が、ふっと何かを思い出したように顔を上げると盛大な舌打ちをした。
「あんた、頭の回転遅いだろ?」
「何でそんな話が出てくるんだ」
あからさまに不機嫌な声を出してしまい、凍夜は小さく悪態をついた。 どうも魔月をいると調子が狂う。
「魔に憑かれていようと魔に心を奪われていようと、まだ魔でない以上、物質的な身体は大貫・正也のものだ」
「それがなんなんだ」
「‥‥‥どうやらあたしはあんたのこと、過大評価しすぎていたようだな」
心底嫌悪するような声に、凍夜は狩人を気にしながらも振り返った。 軽蔑するような冷たい視線が突き刺さり、思わず目を逸らす。全ての感情を失ったような無表情の中、両の銀瞳だけが素直に感情を語っている。
「武彦が紹介したやつだし、あんたは随分強いようだ。期待していたんだが、失望したよ」
魔月が地を蹴り、一気に狩人との間合いを詰める。 狩人が薄く微笑みながら空を手で撫ぜる。指先から鋭い風が吹き付け、凍夜は顔の前で腕をクロスさせると衝撃に耐えた。
「別に、あんたの戦いにおけるポリシーをどうこう言うつもりはない。派手に暴れようと、相手を切り刻もうと、あたしの知ったことじゃない。勝手にすれば良い」
風が止み、対の剣を地面に突き立てて衝撃に耐えていた魔月が立ち上がる。
「ただ、あたしの前でそんなことはさせない。特にこの戦いでは、あんたにそんなことさせるわけにはいかない」
「‥‥‥何故だ?」
「狩人に人としての心は無い。もう元の大貫・正也には戻れない。‥‥‥でもな、身体はまだ正也のものだ。魔に堕ちていない今なら、救える」
「身体を救ってどうする? そもそも、身体を傷付けずに戦うことなど‥‥‥」
「‥‥‥あんたはどうしてこの依頼を受けた? 誰のために受けた? 何のために受けた?」
空気は冷たいのに、吹く風は生ぬるい。 魔月が狩人の気配を探るべく神経を研ぎ澄ませながら、それでも目と声だけは凍夜に向けている。
「正也を救いたいとは思わなかった、千里を救おうとも思わなかった、次に起こるかもしれない不幸を未然に防ごうとしただけ。違うか?」
「それの何がいけない?」
「それが何の解決になるって言うんだ? あんたは確かに未来を救ったかも知れない。でも、結局今は救えないままだ。今を生きる人間は、未来を生きる可能性がある。未来を生きる時、今は過去になる」
未来は今と過去の積み重ね。現在と過去がなくして、未来は来ない。
「魔憑きの時なら、正人はまだ救えた。でも、今はもう正人に未来は無い。 千里は正人がいなくなった事を自分のせいにしている。これからもずっと、彼女は心の奥深くで自分を責め続けるだろう。 正人にだって家族はいる。突然の正人の不幸に、家族はどれだけ心を痛めるのか?」
魔月の言葉に熱が入る。 直感的に凍夜は、魔月は過去に家族のことで何かあったのだと思った。
凍夜に向けていた軽蔑の視線は、凍夜ではない誰かに向けた殺意の視線に代わっている。
「正人も千里も、被害を受けた人も、これから受けるかもしれない人も、今も未来も救える道はあったはずだ!」
怒鳴り声と言うにはあまりにも綺麗な、凛と澄んだ声だった。
冬独特の冷たさも、先ほどまで感じていた生ぬるい風も、全て消え去る。 月明かりが雲に隠れ、遠くにある街灯の明かりがほの暗く周囲を照らす。
魔月の銀の瞳を見つめたまま、凍夜は動けないでいた。 彼女の素直な感情の爆発に、何故か胸が痛んだ。
「‥‥‥けれど、正人は罪を犯した」
罪は罰せられるべきだ。 凍夜のそんな主張に、魔月が刹那だけ寂しそうな瞳をした。
雲が風に流され、月光が再び地上を柔らかく照らすまでのほんの一瞬の繊細な表情は、直ぐに硬く拒絶するような表情に取って代わった。
「犯したのは正人じゃない。魔だ」
「魔にとり憑かれ、罪を犯した時点でそれは正人の罪だ」
「魔にとり憑かれる精神状態は、誰にだってある。あたしにも、そしてあんたにもだ。 魔がとり憑き、それに抵抗して敗北した、その罪は正人のものかもしれない。けれど、弱さは罪になるのか?」
魔月の持つ対の刀に淡い光りが宿り始める。 パチパチと静電気のような音が弾け、ふわりと柔らかな風が巻き起こる。 魔月の長い髪が揺れ、リボンがハラリと解ける。
狩人の気配に魔月が素早く反応し、右の刀を振り上げる。刀の切っ先が鋭く光り、振り下ろせば雷が真っ直ぐに伸びる。狩人が反応して右に避け、大振りのためにがら空きになった魔月の真横につけると腕を振り上げる。 咄嗟に魔月を突き飛ばそうと走った凍夜だったが、反転した彼女に逆に押し飛ばされた。
左手に持った刀が雷を帯びたまま狩人の腹にのめりこみ、甲高い断末魔が正人の口から吐き出される。声は黒い靄を帯びており、空へと上っていく途中で霧散する。
黒い靄を吐き出し終わった正人がグッタリと魔月に身体を預け、彼女が重みに耐えかねてよろめくと地面に尻餅をつく。長い黒髪がアスファルトの上に広がり、刹那それが血のように見える錯覚。凍夜は頭を振ると魔月に駆け寄った。
「大丈夫か?」
「尻餅くらいで死ぬようなガラスの身体はしてないから平気だ」
正也の身体を起こしてみれば、魔月の刀が刺さったはずの場所に傷は無い。
「昼夜神の力は、魔を滅する力。人を滅する力はない」
「昼夜神? そう言えばさっき、昼神と言っていたが‥‥‥」
「夜神の対の存在が昼神。昼神の23代目次期当主候補、昼神・聖陽はあたしの対」
魔月が皮肉げに笑い、胸元に手を当てる。
「聖なる陽と魔の月って、名前も対みたいになってるからおっかしいよな」
渇いた笑い声が虚しく木霊する。 暫しそうしていた魔月がふと真顔に戻り、セーラー服のポケットから小さな鈴を取り出すと一度だけ振った。 リンと、か細い音は冷たい冬の夜空に吸い込まれ、どこからともなくスーツ姿の男達が現れる。
「大貫・正也の魔は滅しました。後のことは頼みましたよ」
「はい、23代目当主様」
「‥‥‥まだ“候補”です」
威厳に満ちた様子でそう言い、魔月が凍夜の腕を取る。 凍夜の腕から正人を受け取ったサングラスの男性が、部下に簡単に指示を出し、自身は胸ポケットから携帯を取り出すとどこかへかけ始めた。
「あの人達は?」
「夜神家の者だ」
「正也の身体をどうするんだ?」
「家族に返すに決まってるだろ」
「家族に返すって言ったって、どう説明するつもりだ?」
「警察や病院に事情を知っている人がいる。彼らと相談して、家族には魔の事は隠して伝える。どう言う死亡理由をでっち上げるのかは、彼らの仕事だ」
「‥‥‥嘘を教えるのか?」
「真実を教えられるのか? 息子さんは魔にとり憑かれ、狩人となってしまい、仕方なく滅しました? そんな馬鹿な話を信じるやつがいるか」
苦々しく吐き捨てた魔月が、ハタと立ち止まると凍夜を見上げた。 不意に何かを思い出したような、無防備な表情だった。
「そう言えばあんた、あたしが突き飛ばした時怪我しなかったか?」
「あぁ、平気だ」
「そうか、良かったな」
「この近くにいい喫茶店を知ってる。どうせだから、息抜きにでもどうだ?」
魔月の表情が拒絶に変わり、軽蔑するような視線を向ける。 表情がコロコロと変わる魔月は、言葉を発さずとも気持ちを雄弁に語っている。
「息抜きなんてしてる場合じゃない。あたしは今回の結果を重く受け止める必要がある」
銀色の瞳が刺すように鋭い。 地面に対の刀を突き刺せば、巨大なソレはズブズブと音を立てて地に呑み込まれて行く。
「夜神家次期当主候補として、あたしに求められる事は最良の完璧。今回は最低限の事をやっただけに過ぎない。‥‥‥それは、成功とは言わない」
「随分厳しいんだな」
「あんたの内に潜む冷酷さは、別に嫌いじゃない。でも、あんたとあたしは相容れない。魔狩人討伐人であるあたしは魔のみを滅し、人を救う必要がある。いくら全てを滅した方が早かろうと、楽な事は出来ない。 夜神家魔狩人討伐人次期当主候補の名は、決して妥協を許さない」
「‥‥‥夜神は、俺が千里と付き合い正人を誘き出すと言う作戦を立てた時、何故拒否しなかった?」
魔月にはこうなる事が分かっていたはずだ。だからあの時、“随分呑気な方法を取るんだな”と言ったのだ。
「極力あんたと関わりになりたくないから、あんたの案で成功する見込みがあるなら賛成だと言ったはずだ」
「夜神の言う“最良の完璧”は無理だと気づいていたんだろ?」
「武彦の押すあんたに賭けていた。もしかしたら、あんたならやってくれるかも知れないと思ってな」
「‥‥‥本当に、俺に期待していたからなのか?」
慎重に尋ねる。凍夜は魔月の瞳に浮かんだ残酷な色に、気づいていた。
魔月は完全な真実を言っているわけではない。確かにそれは真実の一部なのだろうが、大部分の真実は胸に秘めたまま、凍夜には知らせずに別れようとしている。
「‥‥‥あんたは本当に煩いな。あたしがそう言ってるんだ、そうですかと頷いてそれ以上は何も聞かなければ良いものを、鬱陶しいな」
低い声、歪んだ笑顔、全身を包み込む拒絶の雰囲気、凍夜に向けられた明らかな敵意。
魔月の理性と良心によって隠されていた本当の感情は、あまりにも冷たいものだった。
「夜神は俺の事が‥‥‥」
嫌いなのか? そんな疑問は喉元で引っかかった。
「‥‥‥あんたみたいなのに‥‥‥は、殺されたのよ‥‥‥」
ポツリと呟かれた声は、今にも泣きそうなほど弱々しかった。
誰が殺されたのか、聞き返そうと顔を上げてみれば、形だけの笑顔を浮かべた魔月が立っていた。
「それじゃぁ、あたしはもう帰らないと。あんたも喫茶店なんて寄ってないで、真っ直ぐ家に帰ったらどうだ?」
最近じゃ男でも夜は物騒だからな。 そう言ってヒラリと手を振ると、魔月は夜の街に駆け出して行った。
END
◇★◇★◇★ 登場人物 ★◇★◇★◇
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
7403 / 黒城・凍夜 / 男性 / 23歳 / 退魔師 / 殺し屋 / 魔術師
NPC / 夜神・魔月
|