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■フェードアウト■

北嶋さとこ
【7266】【鈴城・亮吾】【半分人間半分精霊の中学生】
 踏み切りの音だ。電車の音だ。
 夕闇に浮かび上がる店内は、オレンジ色とこげ茶色が混ざり合って、まるで一昔前の小説の挿絵の様だった。窓から差し込むのは夕日と電車の灯り。車輪がレールを跨ぐ度に、食器は小さく音を立てた。踏み切りのベルの音が妙に響く。
 もしもそこに近すぎるのならば、耳をふさぎたくなるだろう。だがしかしここは屋内であり、レールからもそれなりに離れている。その音達は寧ろ眠気を誘った。一人しか居ない店員が、食器を拭いている。一定間隔で響く、列車の音。木製のテーブルからする木の香り。この店独特の空気に飲まれた客は、知らず知らずの内に欠伸をして、夢の波に身を委ねた。


 かあん かあん かあん かあん かあん かあん
 がたん ごとん がたん ごとん がたん ごとん


 不意に風を感じて、顔を上げた。
 すっかり暗くなってしまった空。時計のない部屋。ランプすらも付いていない。暗闇に慣れない目を擦り、おそらく閉店時間を過ぎてしまったのであろう店内を見回す。

 足音。
 木製の床を踏みしめる足音がした。
 奥の方からだ。
 客が反射的に視線を向け、椅子から勢いよく立ち上がる。何が歩いた? 何が居る? 何が光った? ……答えは一つしかないだろう。
 先ほどまで目を伏せて穏やかに食器を磨いていた店員が、ぼんやりとこちらを見つめている。片手には鈍く光る包丁。目をいつもより大きく見開き、確実にこちらを見つめている。

「おはようございます?」

 彼もしくは彼女の言葉が終わるか終わらないかの内に、客は音を立てて立ち上がった。椅子を倒し、半ば転びかけながら走り、テーブルを押しのけ、カウンターを横切り、扉に手をかけた。踏み切りの音。電車の音。そして、足音。何もかもが近づいてくるような錯覚。
 全ての音が集まって絡まってそして爆発するように解けた時、外へ飛び出した客は、『どこか』に立っていた。
フェードアウトブラック


 かあん かあん かあん かあん かあん かあん
「おはようございますか?」

 壁を吹き飛ばすような勢いで扉を開けた亮吾の目の前には、月も星も無い暗く濁った黒い空と、いつもと変わらぬ街の景色が広がっていた。勢いをつけて飛び出した分、足を止めたと同時に前のめりになる。紫色の雲がまるで生き物のようにぐにゃりぐにゃりと蠢き、遠くに見えたと思った直後に目の前全体へ広がった。
「何だよ……」
霧のようになった雲を払う事も出来ず、ただ現状を把握しようと頭を抱える。後ろを振り返れば店員の包丁。目の前を凝視すれば薄暗い町並み。紫色の霧は空に上り、生暖かい肌触りを残して飛び去っていった。
「何なんだよ……!」
亮吾を突き動かしたのは、理性よりも本能だ。店員の足音、妙に響く軋んだ足音がひとつ響いた瞬間、彼は店から駆け出した。
 ここはどこだ。さっきまではただの喫茶店に居たはずだ。あれはなんだ。店員だ。様子がおかしいだけの店員だ。この景色はなんだ。いつもの町並みだ。だがあの空はなんだ。あんな色をした空なんて、現実には存在しえない。
 真っ黒になった頭の中に、突如として文章が浮かぶ。それは言葉の形をとっておらず、文字通りの文章であった。

 『私は二度死んだ。一度目は昨日のことだった。二度目は今日の事だった。
  理解もしていたし、受け入れるつもりであったが、後ろに立たれた時、後悔した。
  逃げ切る事など出来ない。影は自分自身である。
  高鳴る胸を押さえて街へ出よう。それはきっと私を待っていてくれている筈だ。
  両手を掲げた私の上へ降る星空は、間違いなく私の身体を圧し潰した。
  赤。赤だ。赤だ。赤がある。赤をくれ。』

タイプライターで文字が一つ一つ打たれていくように、声の無い朗読をされるように、テンポ良く浮かぶ言葉達。両腕で頭を抱えたその格好のまま、深く息を吸い込む。現状を把握しなければ。現状を把握せよ。把握せよ。把握せよ。一体何が起きたのか。これから何が起きようとしているのか。亮吾の影は黒くない。時間が経った後の血の色をしている。歪み過ぎた現実に、心身が付いて行けない。


 瞬間、踏切の鐘の音が響いた。反射的に顔を上げる。後ろから、店員の足音。目の前には、人影がぽつりぽつりと。青年が二人だ。
「ここはどこですか。何があったんですか!」
人々へと駆け寄るよりも先に、戸惑いの結果が喉の奥から飛び出す。彼らは顔を上げた。薄暗い町の中、人は何故だかモノクロームのフィルターを通したように、白と黒と灰色だけで彩られている。否、まだ一つだけ色がある。ぎらぎらと光を放ちそうな程見開かれた赤い目だ。息を詰まらせ、思わず一歩あとずさる。
「あの、俺があの店にいた間に、何が」
搾り出すような声、言葉を全て言い終わらない内に、片方の青年が腕を振り上げた。振り下ろされる拳を間一髪で避けた亮吾は、もう一人の青年が振り回した腕を避けて、一目散に駆け出した。踏切の鐘の音。店員が一歩近づく。彼らには間違いなく敵意、殺意と言ってもいい、それが感じられた。

「畜生、訳が解らねぇ!」
 二人の青年が上半身をぐらりと傾け、こちらへと向き直る。間違いなくこちらを追って来ている気配。振り返る間もなく、亮吾は走った。空からばらばらと氷が降ってくる。紫色の氷が降ってくる。踏切の鐘の音。
 何が起こっているのか。現状を把握せよ。解答は、逃げ切れ、それだけだ。
 追って来る青年達の奇声が聞こえる。何かの言葉かもしれないし、ただの呻き声かもしれない。五十音の内のどれにも当てはまらない発音。紫の氷は降っているだけで、不思議と亮吾へ当たる事は無かった。

 何度も街の道を横切り、角を曲がり、青年達から距離を取る。引っ切り無しに響く踏切の鐘。
 大分走り、息も荒くなったところで、不思議と周りの音が静かになった。紫色の氷は道路の上で解けてぐしゃぐしゃになっていた。肩で息をしながら、建物の壁に背を預ける。汗をかいたらしい。背中が冷たい。
「何でこんな事に?」
 そうひとりごち様とした瞬間、かつ、と音が聞こえた。一番近くの、先ほどとは逆方向にある角。建物と建物の間、暗い闇の中。白いワンピースを着た黒髪の女性が、そっと顔を出した。目が虚ろだ。どこを見ても居ない。右足が機械になっており、鳥のそれのように鍵爪が付いている。右手には包丁。亮吾は息を飲んだ。さっと悪寒が走る。先ほどまで後ろから追って来ていた店員が、進行方向からやってきた。長い長い瞬きをし、錆びた蛇口を無理やり捻るようにしてこちらに顔を向ける。それは亮吾を見ていただろうか。視線は間違いなく交差していたのだが。

 逃げろ! 本能が叫ぶ。二歩目の足音がしない内に、彼は駆け出した。青年達の居た大通りを避けて、別の道へ。店員の大きく見開かれた目が追って来る。今にも肩に手を乗せられそうな程それは近くに居る。溶け残っていた紫色の氷ががしゃがしゃ鳴る。

 真っ直ぐ道を通り過ぎ、次の角を曲がる。直後、亮吾は少女と衝突した。何か冷たいものとぶつかった感触だった。少女は小さく悲鳴を上げた。その傍には、母親だろうか、女性が佇んでいる。
「あ、あの、」
「わ! お母さん、お母さん、やっと見つけたよ!」
白と黒だけで出来た親子。少女がぴょんと飛び跳ね、明るい声を上げて、亮吾の声を遮った。
「お兄ちゃんだよ! 私のお兄ちゃんだよ!」
微笑んでいる母親へ、少女が嬉しそうに喋りかける。当の亮吾はぎょっとした。この様な妹が居た記憶は、無い筈である。
「お兄ちゃん、やっと見つけた。お兄ちゃん。私のお兄ちゃん!」
少女の手が亮吾の腕を掴んだ。暖かい様で冷たい手。細く華奢な指達。少女はぐるんと顔を上げた。さらりと揺れる前髪。開かれる両目。いや、両目ではなく、それが刳り貫かれた赤い眼窩。
「帰ろう! お家へ帰ろう!」
母親は微笑んでいた。少女の目から薔薇の花びらが落ちた。ひらひらではなくぼとぼとと落ちた。かあん、と、踏切の鐘。
 彼の感情の描写など必要あるまい。亮吾は思い切り彼女の手を振り払い、別の道へと駆け出した。少女の手のあった場所には、小指と薬指と中指だけが残っている。それはぶすぶすと音を立てながら溶けた。黒い色をしていた。軽く腕に食い込んでいる爪だけが残る。白い色をしていた。
「お兄ちゃん、どこに行くの? お兄ちゃん!」
少女の声。指の無い腕を振り回し伸ばし、母親の手を引いてこちらへ駆けて来る。
「知るかよ! お前らなんか、知るかよ!」
腕に残った爪を引き抜き地面へ投げ捨てながら呟く。止まるわけには行かない。

 曲がろうとした角の遠い先に白いワンピースがはためいていた。道を変え、大通りに出る。遠めに人影を見つけ、踵を返して別の道へ。踏切の鐘の音。自分の呼吸と、心臓の鼓動。空と紫色の雲が見下ろしている。何度か足が絡まり、転びかけた。踏切の鐘の音。入ろうとした裏通りには男性が倒れていた。腹の辺りから赤いものを流していた。
 叫び声は言葉にならない。手をついた壁から腕が伸びる。走るしかなかった。ビルの上から誰かが飛び降りてきた。それは地面で砕けて、破片は黒く焼けて消えた。踏切の鐘の音。窓に映った自分が視界に入る、その後ろには店員がじっと立ってこちらを見つめている、振り返る暇も勇気も無い、自分の足音が自分の声と呼吸に消されていく。ガラスの割れる音、何かが地面に落ちる音、人と何かがぶつかる音、機械の唸り声、誰のものだかもうわからなくなった悲鳴。
 逃げ込もうとしたコンクリートの建物、階段の上から男性が駆け下りてくる。窓から飛び出して、路地裏を走った。信号機のランプは全部赤。時々赤い液体がぼたぼたと垂れていた。ポストが瞬きをした。曲がった角の上に、足から吊るされた子供が居た。彼はにやりと笑うと、足首を残して地面に落ちた。砕け散った何かは、サイコロに似ている。からんからんと言う音を立てて転がるそれを横目に、亮吾は走りつづけていた。サイコロの目は全部同じ数だ。踏切の鐘の音。


 一体どのくらいの間走り続けただろう。亮吾は行き止まりに居た。目の前に聳え立つ壁には、カラスの首が隙間無く埋まっていた。それは上を向いていたり下を向いていたり、嘴が欠けていたり目が飛び出していたり、兎に角滅茶苦茶で、それでもその黒い瞳はしっかりと亮吾を見据えていた。時折一羽だけがカアと短く鳴いた。
 亮吾はおそらく自分の呼吸でさえも自覚出来なくなっていたであろう。声をあげる事はもう出来ない。彼が背負っていた疲労感はどれくらいのものだっただろう。四肢の感覚すら曖昧になっているかもしれない。踏切の鐘の音。

 店員がやってきた。かつかつと音を立ててやってきた。一本道の行き止まり。逃げる場所などもうどこにも無い。白いワンピースの店員を見て、カラスの首は歓喜の声を上げた。カアと言う声が一つ響くたびに、空からは首の無いカラスが落ちてきた。それは地面に落ちてから翼を広げ、足をしきりに動かし、ぴょんぴょん飛び跳ねたりしていた。


「おはようございましたか?」
 静かな声だった。カラスの鳴き声の中、一つだけ響いた白い音。その声の向けられた先、亮吾はカラスの海に溺れながら立っていた。ひゅうう、ひゅうう、と、息の音。店員が一歩歩くたび、彼は一歩後ろへ下がった。
「おやすみなさいでしたでしょうか?」
包丁がぎらぎらと光っている。踏切の鐘の音。それに負けないくらいのカラスの鳴き声。店員は包丁をゆっくりと持ち上げた。亮吾は一歩後退しようとしたが、背中側からカアと言う声が響き、びくりと身体を震わせた。
「ありがとうございましたか?」
彼は、ああ、と、小さな悲鳴を上げた。なくなってしまいそうな声だ。世界でたった一つ浮き上がり、空に溶けてしまいそうな。

 包丁が首元へと突きつけられる。尖った刃が、ゆっくりと肌に触れる。冷たい感触。それはじわりじわりと喉へ突き刺さり、同じようにしてぬくもりを広げていった。呼吸をするごとにそれは口の中や胸の奥へと流れ込んでいって、痛みよりも安らぎを注ぎ込んでくれた。店員が歩く。包丁が首を通り抜ける。冷たさと暖かさがゆっくりと亮吾を包んでいく。かつん、と、乾いた音。カラスの首と首の間に、包丁の先が届いたのだ。
 視界が霞む。息は出来ない。店員がまた長い瞬きをする。声を出そうとすると、空気だけが弾ける。足元ではカラスが踊る。

「おやすみなさい」
 それが最後に聞こえた音だった。瞼を瞑る感覚は無かった。目の前が黒く染まっていくのは解ったのだが。



 とん、と、肩に手が置かれる。亮吾は勢い良く顔を上げた。ぼんやりとした景色がはっきりしてくるにつれて、彼は自分がテーブルに突っ伏して眠っていた事に気付いた。
「大丈夫ですか、お客さん」
店員がぱちくりと瞬きをして、肩から手を離した。
 酷い汗だ。亮吾はゆっくりと辺りを見回して、喉にそっと触れてみた。傷など無い。痛みも、冷たさも。窓の外は夕方の空を映している。太陽がある。空は赤い。白いワンピースの店員は、トレイを片手に立っている。その顔には微笑があった。
 差し出されたグラスの水を一気に飲み干し、亮吾は席を立った。会計を済ませ、心なしか早足で店を出る。店員は小さく手を振り、「またいらしてくださいね」と笑った。踏切の鐘は鳴っていない。

 夢か。夢だ。
 冷たい風が通り抜ける。
 彼はそのまま呆けた表情で立ち尽くしていたが――店員がドアを閉める為に一歩踏み出すと、その足音に驚いたようにだっと駆け出した。
 夜はまだ、……まだ遠い。


おしまい

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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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PC/鈴城・亮吾/男性/14歳/半分人間半分精霊の中学生

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ライター通信
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始めまして、北嶋哲也です。発注ありがとうございました。
「どうしようもない悪夢」とのことで、悪夢悪夢と呟きながら執筆させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか。
夢と気付いていないと言う事は、おそらく自分の能力の事も忘れているだろうと考慮して
とにかく逃げる、そしてこちらは景色の描写に徹するという方法を取ってみました。
少しでも「悪夢っぽいなあ」と思っていただければ幸いです。
では、またお会いできましたら宜しくお願い致します。北嶋でございました。