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■フェードアウト■

北嶋さとこ
【7707】【宵待・クレタ】【無職】
 踏み切りの音だ。電車の音だ。
 夕闇に浮かび上がる店内は、オレンジ色とこげ茶色が混ざり合って、まるで一昔前の小説の挿絵の様だった。窓から差し込むのは夕日と電車の灯り。車輪がレールを跨ぐ度に、食器は小さく音を立てた。踏み切りのベルの音が妙に響く。
 もしもそこに近すぎるのならば、耳をふさぎたくなるだろう。だがしかしここは屋内であり、レールからもそれなりに離れている。その音達は寧ろ眠気を誘った。一人しか居ない店員が、食器を拭いている。一定間隔で響く、列車の音。木製のテーブルからする木の香り。この店独特の空気に飲まれた客は、知らず知らずの内に欠伸をして、夢の波に身を委ねた。


 かあん かあん かあん かあん かあん かあん
 がたん ごとん がたん ごとん がたん ごとん


 不意に風を感じて、顔を上げた。
 すっかり暗くなってしまった空。時計のない部屋。ランプすらも付いていない。暗闇に慣れない目を擦り、おそらく閉店時間を過ぎてしまったのであろう店内を見回す。

 足音。
 木製の床を踏みしめる足音がした。
 奥の方からだ。
 客が反射的に視線を向け、椅子から勢いよく立ち上がる。何が歩いた? 何が居る? 何が光った? ……答えは一つしかないだろう。
 先ほどまで目を伏せて穏やかに食器を磨いていた店員が、ぼんやりとこちらを見つめている。片手には鈍く光る包丁。目をいつもより大きく見開き、確実にこちらを見つめている。

「おはようございます?」

 彼もしくは彼女の言葉が終わるか終わらないかの内に、客は音を立てて立ち上がった。椅子を倒し、半ば転びかけながら走り、テーブルを押しのけ、カウンターを横切り、扉に手をかけた。踏み切りの音。電車の音。そして、足音。何もかもが近づいてくるような錯覚。
 全ての音が集まって絡まってそして爆発するように解けた時、外へ飛び出した客は、『どこか』に立っていた。
フェードアウトシュトレームング


 かあん かあん かあん かあん かあん かあん
「おはようございますか?」


 打ち鳴らされる鐘、時報・警報・がんがんと頭に響くのは踏み切りの音。しかしそれは他の音を寄せ付けまいとしている静かな音でもあった。ここは私の涙する世界。私の泣き声を聞いて。いや、違うかもしれない。ようこそ、私の世界へ。両手を広げ、歌うような表情をした、踏み切り。走りながら、宵待・クレタ(よいまち・くれた)は考えていた。この世界に響き渡る音、それはどこかで聞いたことのある懐かしい音、一体どこで聞いたのだろうかと。ああ、踏み切りは何を伝えようとしているのだろう。逃げなさい、逃げなさい、と叫んでいるのか。ここに居て、ここに居て、と喚いているのか。脳の隙間にまで響くような鐘の音は、嫌でもクレタを走らせた。止まってはいけない、止まってはいけない! それだけはしっかりと伝わってきたのだ、何故か。
 走る彼の隣には、轟音を立てながら列車が走っている。暗い空、月明かりの下、延々と続く車両、壁のような列車。がたんごとん、がたんごとん。踏み切りの音と列車の音が踊っている。夜空の下を舞っている。止まってはいけない、止まってはいけない! ただそれだけを叫びながら。後にも先にも、車両が途切れる様子は無い。この音達は、ずっとずっと舞いつづけるのだろうか。


「……。……、音……、……か」
 クレタは漸く走るのを止め、ふうと息をついた。不思議と苦しくない。ぽつりと呟いた言葉は、電車の音に巻き込まれて消えていく。がたんごとん、がたんごとん。かあんかあんかあんかあん。どこか、記憶に無いほど昔に聞いたような覚えのある音。

 胎児が胎内で聴くというその音を、再現した音を聞いたことがある。

 それに似ている? 似ているのか? 細い血管を、物凄いスピードで駆け抜ける血液。真黒い目玉、ただ栄養を貰って生まれるべき時を待つ胎児。真っ赤な子宮。踏み切りが鳴る、赤いライトがぱちぱちと瞬きをするように付いては消えて。血液の流れ。“ブラッドフロウ”。それは遠い遠い思い出に残る、永遠に忘れることの出来ないであろう音。決して目に見えて残っているわけではなく、しかし消え去ることも無く。今も自分の心臓から流れ出しているのは血の流れだ。この手を、この足を、この心を、生かすために動く心臓、そして流れる血。
 高い夜空で、月に吊るされた星がごぉんと鳴る。つられて、夜空に吊るされた星星がそれぞれの音を出していく。ぉおおおおん。ごぉぉおおおおん。密やかに広がる波紋のように。空の風にぶつかって、何度となく音を出す。
 列車の汽笛が聞こえた。



 赤い空間、胎動する地面。クレタはどこか知らない場所に立っていた。重力が随分と妙な場所だ。一歩踏み出そうとすると、足が重くて動かない。だが、ふわりとした身体は決して凍り付いているわけではなく、一度足が地面から離れれば全ての重さを忘れてしまう。いつのまにか四方を取り囲んでいる壁、触れてみればそれはどくどくと脈打っていた。薄い皮、その先に見えるは赤い血管。ふわりふわりと移動して、別の壁を見てみれば、オレンジ色の肉の隙間に、青い血管がうっすらと見て取れる。みゃあおと言う猫のような声に上空を見上げてみれば、真黒い目をした何かがこちらを見つめていた。口も顔も手も足も無い、なんだか妙ないきものがある。それは丸い目でこちらを見つめながらもう一度みゃあおと鳴いた。薄い皮、その先に見えるは赤い血管。オレンジ色の肉の隙間に、青い血管がうっすらと見て取れる。清潔な子宮。どくん、どくん、と、鼓動が聞こえる。
 ふと、思い出すように。クレタが真黒い目と視線を合わせれば、あの踏み切りの音が再び聞こえて来る。いや、聞こえていない振りをしていただけだったか。胎児は……みゃあおと鳴いた。口も無いのに。その丸い目からは感情は一つも汲み取れないのに、何故か今にも涙が零れてきそうだった。それだけ、このいきものの鳴き声は悲しくて。

「あえてよかった。クレタ。宵待」
 黒い目が細められる。
「あえてよかった。あえて、よかった。本当に……」
 踏み切りの鐘の音をBGMに、口も無いいきものはなんどもその言葉を繰り返した。彼の声は、やはりどこか懐かしい物で……なんとなく、どこかで会ったことがあるような気がしていた。クレタは瞬きをし、壁際から離れ、いきものに近づいた。
「本当に、あえて、よかった。クレタ。宵町、クレタ」
 いきものは小さな心臓を必死に動かし、生きようとしていた。赤い身体にぽちぽちと空いた穴のような目は、必死に何かを訴えている。胸が一杯になったのは、クレタだったのだろうか。
「もう、私は、看取られる事もない。みんながしあわせに生きて行けるなら」
 いきものは最後にそれだけ喋った。口も無いのに。命の灯火を守るだけで一杯一杯なのに。
 クレタは黙ったまま彼を見つめていた。何か言いたい、だけれども何も言えない。どうすればいいのか解らない、と言うのが、彼の正直な心情であったろうか。何時の間にか重力はいつもの慣れたものに戻っている。壁はどくどくと今でも脈打っていた。いきものは、目を閉じようとしていた。クレタは一瞬躊躇いながらも、声を出そうと唇を開きかけ――



 列車の汽笛が聞こえた。
 そこは黒い地面の夜。空では星がゆらゆらと揺れている。電車が目の前を通り過ぎていて、踏み切りの鐘が鳴っていた。“ブルートシュトレームング”とは、“ブラッドフロウ”と言う意味だ。電車が通る。延々と通る。あのいきものの名前は、ミャアオと言った。がたんごとん、がたんごとん、通り過ぎる列車。ミャアオの名を教えてくれたのは、おそらくクレタの記憶だ。
 線路から離れようと、クレタはいつのまにか見つめていた、もしくは見つめられていた夜空から目を離した。が、行けそうな場所はどこにもない。後ろにはなんだかよくわからないものが居た。黒い体、赤い目をした、たぶん、ネズミに近いもの。それは身体の変化を落ち着けようと蠢いている。目の前には黒いコンクリートで作られた道路が真っ直ぐに伸びており、右手には列車が走っている。左手には、いつのまにか森が広がっていた。黒い森だ。それは一目見ただけでとても恐ろしい物の様に感じられた。何の気配も無かったが、ただ恐ろしいと。

 ごうごうと音を立てて走る電車、多分この電車には運転席が無くて、変わりに自分の何か心身の一部――角、? 角か? 角が生えているのではないだろうか。永久に走りつづける列車は、角によって操られていて、それを止める術は殆ど無いように感じられる。そして、森の奥から音も無く表れた白い影、あの包丁を持った店員が自分を追いつづけなければいけない理由も、自分にあるのかもしれない。


「ブルート、ブラッド。イヒテーテズィー、イヒテーテズィー。もしかしたら。おはようございました」
 店員は に と笑った。
「ミャアオはだいじょぶです。みんながしあわせにならないと、いけないから……」


 クレタに恐怖心は無い。むしろ、会うべき人に会ったと言う安心感のような物がある。これから起こるべきことが起こることを望み、それを受け入れようとしている。流れる電車。通り抜ける血液の流れ。踏み切りの警告は誰のものだったのか。――警告ではない。……泣き声だ!!
 ゆらりと店員が一歩近づく。クレタは片手を上空に翳し、あるべき場所へと光の棘を作った。それが地面に降り注ぐ前に、店員はもう五歩は進んでいた。棘が地面に刺さり――いや、棘は地面に食われ――、一瞬の光が二人を照らす。突き出された包丁を避け、再び棘を作り出す。今度は間髪入れず発射、店員の白いワンピースの裾が斬られ散った。しかし、包丁をとめることは出来ない。店員が突き出した包丁、いや包丁が勝手に突進したのか、それはクレタが見を翻した直後に足の先へ傷を付けた。鮮血がほんの少しだけ散り、黒い地面へ染みを作る。痛みは無い。手をなぎ払うように振り、前方へ棘を飛ばす。店員は避けることなくそれを受けた。肩から背中にまで突き刺さる棘、吹き出る血液。店員は に と笑った。

 棘が消え、ワンピースに幾つもの丸い水玉模様が出来た瞬間。森の上から落ちてきたガラスが、黒いアスファルトに当たって砕け散った。列車の汽笛が聞こえた。店員がひたりひたりと近づいてくる。クレタは飛び退き、素早く棘を飛ばした。膝を追って身体をぐにゃりと曲げそれを避けた店員は、小さくかぁと鳴いた。突如、背後で翼のはためく音。カラス。一羽の大きなカラスが、クレタの頭上でぎゃあぎゃあと喚きながら爪を翳していた。突然の出来事に、思わず腕を振ってそれを追い払おうとするクレタ。カラスは器用にそれを避け、再びぎゃあぎゃあと喚いていた。気配と空気の歪みを感じ振り向けば、包丁が右腕に突き刺さる瞬間で――走る激痛。傷は熱い。悲鳴こそ上げなかったものの、突然の痛覚に目を見開くクレタ。ほぼ右腕を貫いた包丁が抜かれたとき、不自然なほどの大量の血が一瞬だけ流れ落ちた。カラスはいなくなっていた。
 
「イリオーソ……ナハト……。亡きあなたの為の……パヴァーヌ?」
 店員は身構えることも無く、ぼそぼそと何かを呟いている。クレタが光の棘を降らせても、一瞬身体をびくりと震わせただけで、首から肩から血を流しながら、やはり に と笑っていた。



 腐ったハトが居た。目玉を剥き出しに、地面に横たわっていた。翼も羽毛もほぼ抜け落ちて、所々が白骨化している。まるで……屍骸の模型のように、プラスチックで出来た偽者のような、本物だった。ハエはたかっていないし、腐臭もしないけれど、本物であることがよく解った。灰色のアスファルトの上、夏の陽炎を遠くに、雑草が生えた空き地の前で、じっと横たわっているハト。
「おかあさん」
 泣きそうな声でそう泣いた。嘴を頼りなさげにかちかちと鳴らして、もうなくなった心臓を愛でるように涙を流し。
「ぼくは、ここにいるんだよ」
 ひらひらと蝶が舞う。白い蝶だ。青い空に不釣合いなほど白い蝶だった。
 風景。中央に一羽の腐ったハト、続くアスファルトの道、右手に空き地、空は青く、白い蝶が舞う景色。通る人は誰も居ない。鮮やかな色で塗られた風景画のようにも見えた。空き地の雑草と青が特に瑞々しい。
「あいしていると、いっておくれよ」
 涙声で訴えるハト。道路にはいつのまにかスプレーで『I LOVE YOU』と描かれていた。それでもハトは泣いている。風景の左側には、ビルが立ち並んでいた。排気ガスの匂いが漂ってきそうな街。そこでは何も作られていない。蝶はいつのまにか灰色になっていた。青に馴染まない灰色。雲ひとつ無い青い空は何の変わりもなく平然と空として振舞っている。蝶は二匹になっていた。灰色の蝶。アゲハ蝶らしい。
 蝶がハトに留まる。二匹とも、ハトに留まる。
 ハトはこの世の物とは思えない悲鳴を上げた!
 ……それきりだった。ハトは嘴をだらしなく開けっ放しにして、ずっと横たわっていた。蝶は羽を広げたりたたんだりして、休むフリをしている。空は青いままだったし、空き地には誰も居なかった。ビル街が騒がしくなってくる。ごおおん、ごおおん、と、大きな機械が動く音。がやがやと喧騒が聞こえ始め、ハトの姿が翳んでいく。がたんごとんと列車の音が聞こえてきて、クレタは漸く自分のことを思い出してきた。



 光が弾け、棘が飛び交う。店員はそれを飛んで避け、次々に包丁での斬撃と突きを繰り出した。かする傷からは血が飛び、時には抉られたような深い傷が残る。突き降ろされる刃を避け、棘を横飛びで避け、舞うように戦いつづける二人。
「死なないで!」
 誰かの声。なんだかわからないもの、あのネズミのような化け物は、死んでいた。

 空を、白い龍が飛んでいる。白い鳥も飛んでいる。どこを目指しているのかは解らない。重い空の重い空気を掻き分け、どこかに向かって飛んでいる。星が揺れて波紋を作っても、彼らは飛ぶことをやめなかった。月の光に照らされた龍と鳥。何か、あるべき場所、するべきことを見据えたような目をしたふたり。彼らは夜空を抜けて、青い空の世界へ辿り着いた。眼下には島がぽつぽつと浮かび、青い海が広がっている。冷たい潮風に乗り、ふたりはどこまでも進んでいった。
 星がゆっくりと揺れる。クレタの光の棘が空へと吸い込まれるように飛んでいく。包丁が皮膚を切り裂けば、棘が足へ突き刺さる。細かい血の跡は、戦いを始めた場所から今のこの場所までずっと続いていた。電車が横を過ぎていく。踏み切りの音、踏み切りの泣き声。

「帰りなさい、夢に飲まれてしまう前に。あの世界へ引きずり込まれてしまう前に!!」
 その声は誰に届いたのだろう。


 どこかで、みゃあおと猫のような鳴き声が聞こえた。クレタは戦っていた。戦っていたのだが、ふとした時から手を止め足を止め、何かに耳を澄ますように、何かに目を凝らすように、じっと立ち尽くすようになった。店員は彼に合わせるようにして動きを止めていった。
「あえてよかった。クレタ、宵待。きみにあえて、本当によかった……」
 どこかから声が聞こえて来る。
「あえてよかった。きみにあえて、よかった」
 それはとても悲しそうな声をしていた。
「本当によかった。きみにあえて。きみにあえて……」
 最後に見えたのは、赤いあの部屋と、一羽のハト。そして、誰かが筆を動かすように、一つの文章が綴られていった。『I LOVE YOU』。白いインクで書かれた文字。丸い黒い目がじっとクレタを見つめている。感情の無い、泣きそうな目。
「……ありがとう」
 口も無いのに、そう言った。命も無いのに、そう言った。それが誰の声だったのかは、今はもう解らない。

 すうと身体が浮かぶような感覚、目の前が真っ白に染まっていく。空へ吸い込まれる……白い空へ。雲を飛び越え、世界を見下ろし、どこかにあったのだろうか、何かを探す様に視線を泳がせる。
「……。……、音……、……か」
 クレタは最後にそれだけ呟いた。眩しくない光が辺りに満ちて、ゆっくりと上空へ昇っていく。手を伸ばせば、見えない何かに手が届きそうな気がした。




「お客さん? 朝ですよ」
 肩を叩かれ、クレタはゆっくりと瞼を開けた。どうやら、机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。
「大丈夫ですか」
 顔を上げれば、店員が心配そうな瞳をこちらに向けている。クレタが頷くと、彼もしくは彼女は安心したように頷いた。

 店を出て、店員のお礼の言葉を背に受けながら、帰り道を辿る。朝の光は、少し眩しすぎる。曇り空、雨が降ると厄介だから、薄曇くらいの空が丁度いい。そんなことを考えながら、アスファルトの道を歩いていく。背後では、踏み切りが何も言わずに立っていた。喫茶店の扉に吊るされた看板が、風に揺れてかたりと音を立てた。不図として片手を翳し、手のひらを見つめる。手首に指を当ててみれば、どくどくと脈が動きつづけていて。
 どこかで、みゃあお、と声がした気がした。クレタがそれに振り返ったかどうかは、私は知らない。



おしまい

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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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PC/宵待・クレタ(よいまち・くれた)/男性/16歳/無職

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ライター通信
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宵待クレタさん、はじめまして! 北嶋でございます。
フェードアウトにご参加いただき、誠にありがとうございました!
サブタイトルはドイツ語で「Flow」の意味を持っています。
プレイングの「血の流れ」のあたりから想像を膨らませ、
このような夢の世界をえがかせて頂きました。
どこかワンシーンだけでも気に入ってくださった所があれば幸いです。

宵待さんはなんとなく他人と思えないです。
私も似たような身でして……と、私の話は置いておいて。
これからもお会いできましたら嬉しいです。
またどこかで再会できることを願っております。北嶋でした!