■警笛緩和■
水綺 浬 |
【2793】【楷・巽】【精神科研修医】 |
赤い夕日が朧気に浮かぶ。今にもそのまま消えるかのように。
左手には幅三十メートルの川が海へと緩やかに流れていた。日に照らされて小さく波打つたび、星のように輝く。それを遠目に土手を歩いていると、連続した水音が耳に入ってくる。音を辿れば、十代の少年が黒い学生服を身に纏い、小石を川へ投げていた。
水面を小さな欠片が五回も飛び跳ねていき、そして沈む。
赤く陰るその後姿。悲哀に満ちて、瞳に映る。
おもむろに私の足は少年へと引き寄せられていた。
「何してるんだ?」
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警笛緩和 - 差し込む光 -
赤い夕日が世界を染め、影が長く伸びる。もうすぐ闇の深遠に入ろうとしていた。
左手の川は海へと緩やかに流れていた。太陽に吸い込まれるように。
今日は連続した水音が耳に入ってこない。少年の黒い学生服は見当たらなかった。そう毎回会えるわけではない、と思いつつ、少し淋しさも覚えて。恩人宅から自宅へと土手を歩いていた。
以前出会った場所から数分行った先に、一人ぽつんと川下へ視線を飛ばしている少年がいた。また会えたのだ。足取りが自然と軽くなる。
見知った少年の背中。僅かに前とは違う何かを感じる。後姿に柔らかい雰囲気が零れ出ているのだ。
何か良いことがあったのか、それとも――と精神科医の視点で呟く。
川原にいた少年が土手にいることも関係あるのだろうか。そう思いながら巽は祐に近づいていく。
気配を察したのか少年はゆっくり振り向いた。今日はそれほど警戒した表情もしていなく、ただ無表情なだけだった。
「やあ、また会ったね」
本を二〜三冊抱えて帰宅する巽。難しそうな本のタイトルを一瞥して。
「……あんたか」
「少しは元気が出たかな?」
僅かに目を細めて優しく声をかける。
「元気か。頻繁に出るものじゃないしな。出ても出なくても今が一番いい」
ふっと巽は微かに微笑む。滑らかな水面、波のたたない今こそが祐にとって良いのだ。祐は自分を見失っているわけでもなく、自分の感情を抑え込んでいるわけでもない。警戒心が素直さを隠している。本人は気づいているのだろうか。
「きみは以前、こう言ったね。「オレは一族からやっかい者扱いされてる」って」
少年はじっと身じろぎせずに何も言わない。次の言葉を待っていた。
「俺も……似たような境遇だったんだよ」
同時に巽は目を伏せる。
「どういうことだ?」
目を薄く開く。こうやって他人に話せるようになったのも恩人である先生のおかげだ。
「俺は、七歳まで父から虐待を受けていた」
「……へ?」
巽の言葉の重みを飲み込むのに時間を要した。
虐待――。
祐よりも酷い目にあっていた、そのことに驚愕する。
「暴力の日々はいつ終わるんだろうと幼いながらに考えた」
職を失い、酒の毒に呑まれた父。豹変したそこから始まった負の連鎖。断ち切ろうとも、すべがなかった。何度問うても答えがない、流砂に足が絡められ落ちていくだけ。
『どうして……』
複雑にループしていく、心の叫び。
永遠に続きそうで、でも――――
「オレよりもむごい」
口について出たそれに巽は頭を左右に振る。漆黒の髪がふわりと重なった。
「いや、変わらない。言葉の暴力でも力の暴力でも心に刻まれるのは同じだ。体の傷は癒えても、心の傷は数年経ってもえぐられ続けるから」
そう、いつも見る悪夢のように。繰り返し繰り返し巻き戻す、同じシーンを見ては涙を流す。
今でさえ、心の奥深くに残っている傷跡。その上に真新しい傷がつくこともある。
「ある日、虐待は突然終わった……父が家族を殺めることで。俺は母に庇われて運良く助かったが、母と祖母は……助からなかった。それ以来、俺は生身のロボットのような存在になってしまった」
ぶるっと体が震える。まざまざと思い出せる光景。部屋一面の赤を、父を、信じられなかった。
表情には表れていないが祐はまだ、巽がトラウマから完全に脱していないことを悟る。
琥珀の瞳を見つめて。
「あんた、ロボットじゃないぞ?」
その台詞に巽ははっと顔を上げる。嘘やお世辞でもない瞳の色がそこにあった。
「ロボットなら呼吸すらしない。もちろん感情もない。けれど、あんたは人間だろ? 心が宿ってるだろ?」
巽は少し体の力を抜いて。
「理屈はそうだけれど……」
一度しっかり目をつむる。長いまつげの影が夕日に染まった頬に落ちた。
左腕の古傷を押さえる。
「でも逆のことを言われたことがある。中学二年の時「ロボットみたいな奴」とクラスメイトにからかわれたんだ。憤った俺は、彫刻刀で自分の腕を切った」
ロボットではないと証明するために。血が通った人間だと理解してもらうために。
「その痕は二度と消えることはない」
ぎゅっと左腕を掴む。傷跡を視界に入れるたび、あの頃のことが蘇えっていた。消えない体の傷と共に刻まれた心の傷。いずれ痕が消えたとしても、その時生まれた感情だけは巽の中で残り続ける。
「あんた、そいつに言われたからって認めるのか?」
長い沈黙のあと、祐は言った。
「え? 何を」
「そいつは「ロボットみたいな奴」だと言ったから、否定したんだろ?」
巽は静かに頷く。
「さっき、あんた自身で「生身のロボットのような存在になってしまった」と言った。矛盾してるぞ?」
「あ……」
はっとした。はっきりと認めてしまっている。そうなりたくなくても。
「もう一度言うからな」
銀の瞳が琥珀の瞳を射抜くように入り込む。
「あんたはロボットじゃない。ロボットのように感情表現があまり出来なくても、だ。――あんたは心が動いている」
祐の言葉が巽の中で染み渡っていく。奥深くまで、土が水を飲み干すようにゆっくりと。
「まあ、オレも矛盾ばっかりで人のこと言えないけどな……」
ぼそっと呟く。頭を右手でかきながら。
巽はふっと微笑む。祐自身が矛盾していても、その音が巽の中の水面に波紋を作った。この波が大きな変化に繋がる一つになりそうな、予感――。
夕日の下で巽に光が見える。もがき苦しんでも、いつも光を求めて手で掴みたい。ロボットのように生きたいわけでは決してないのだから。
*
「そんな俺に救いの手を差し伸べてくれた人がいる。俺と初対面にも関わらず、優しくて、温かくて……。きみもいつか、そんな人にめぐり会えるよ」
「会ってるよ」
「え?」
「会えてる。一番の友達、天理にな」
「天理君か」
遠い目で川面に映る夕日を眩しそうに見つめる祐。
「オレとは違って明るくて太陽みたいな奴だ」
「良かったね」
祐が心から信頼して尊敬していることがその瞳から知れた。とても良い友人を持っている。巽はとても嬉しかった。
「あんただって、こんな愛想のないガキのオレに手を差し伸べてくれてる」
「きみ……」
「な、なんだよ」
踵を返し、背中を向ける。耳は真っ赤になり恥ずかしがっていた。
ふふっと笑みをこぼして巽は続ける。
「今は少しずつ、表情も変えられるようになった。俺自身の感情が他人事のように感じられることもあるけれど」
「でも、あんたは笑えてるよ。少しうらやましいけどな」
「羨ましい?」
「ああ。自分の足で立ってるからな。地盤をしっかり固めて一人の人間として立っている」
「それは……。きみも、だよ」
「オレは違う」
一瞬哀しい色を宿らせて打ち消す。
「オレは、否定してるばかりだから」
祐は影でぎゅっと拳を作った。
そう言った背中は心なしか小さく見えた。形は違えど、巽と同じように抱えきれない荷物を背負っている。お互い、少しでも軽くなる日がくればいい、と願ってやまない。一日でも早く。
その時。足元に一つのボールが転がってきた。サッカーボールよりも一回り小さい透明なボール。軽くて今にも風に流れてどこかへ行きそうだった。
巽がそれを受け取ると、転がってきた先に親子が立っている。父と小学生ぐらいの娘。仲が良さそうな親子は手を振って小走りに近づいてきた。
「すいません」
頭を下げる父親とお礼を言う娘。
「あれ? お兄ちゃんたち、兄弟?」
意外な言葉に祐は目を丸くする。巽は僅かにまぶたを見開いただけにとどまった。
少女と同じ目線の高さに巽は腰を下ろす。
「なぜそう思うんだい?」
「え、違うの? だって……なんか雰囲気が……」
「そっか。でも違うんだよ。顔が似てないよね?」
優しい声音で話すと「あ、そうだよね」と返す。
親子はまたお礼を言って離れていった。
「なんで……兄弟に見えるんだ?」
訳分からない、と頭を左右に振る。
「年の離れた兄弟もいるからね。もしかするとあの子自身、そうなのかもしれない」
「……」
二人は仲良くおしゃべりしあう親子が帰路につく後姿を眺め続ける。
「それに……」
「それに?」
「俺たちの、鎖に絡め取られた過去のしがらみを感じたのかもしれない」
「もしそうだったら、勘が良いんだな」
夕日に溶け込む親子の姿を眩しそうに見送った。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 // PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
2793 // 楷・巽 / 男 / 27 / 精神科研修医
NPC // 魄地・祐 / 男 / 15 / 公立中三年
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■ ライター通信 ■
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楷巽様、発注ありがとうございます!
再びお会いできて嬉しいです。
サブタイトルはリプの一部に被っています。光が大きく広がっていくといいなあ、と願いを込めて。
少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
リテイクなどありましたら、ご遠慮なくどうぞ。
また、どこかでお逢いできることを祈って。
水綺浬 拝
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