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■青春流転・陸 〜穀雨〜■

遊月
【7401】【歌添・琴子】【封布師】
 桜舞い散るその下で、死装束にも似た衣装を纏う彼は、今にも消えてしまいそうに見えた。
「私は、片方だけを選べませんでした。どちらも切り捨てることができなかった。……だから、せめて」
 彼は微笑む。これ以上ないほどに美しく、透明な笑みだった。
「納得のできる選択をしたかったのです。それはきっと、どちらをも裏切る行為なのかもしれないと、わかっていても」

◇青春流転・陸 〜穀雨〜◇


 いつか見たときと同じように咲き誇る桜を、歌添琴子は眺めていた。
 散っているはずなのに花が尽きることはない、不可思議な桜。それを共にここから眺めた人物を想い、琴子は物憂げに溜息を吐いた。
 ここは以前ソウに招かれ、お茶をした場所だ。『本邸』に足を踏み入れて以来、一日の大半をここでソウと語らって過ごす日々が続いている。ソウ曰く、本邸とこの空間は容易に繋げることが出来るらしい。
 ソウは琴子を一族の関係者に極力会わせたくないらしく、今のところそれらしき人物を見かけることはあっても言葉を交わすことはない。
 けれどソウが何くれとなく気遣ってくれるため、特に不自由は感じなかった。あの日――琴子がこの『本邸』に来ることを承諾した日に言っていた通り、ソウは出来る限り琴子と共に時間を過ごしてくれている。
 彼と共にいられるのは嬉しい。――それが、期限のあるものでなければどんなに良かったかと、ふとしたときに思ってしまうけれど。
 と、琴子の耳に微かな足音が届く。その主が誰かは、見ずとも分かった。
「琴子さん」
 名を呼ぶ声に、自然と笑みが浮かぶ。
「ソウ様」
「お待たせして申し訳ありません。……許可は無事頂けました。材料や道具の方も好きに使って構わないそうです。大概のものは揃っているはずですが、足りないものがあれば仰ってください」
「わかりました。……有難うございます」
 琴子の礼に、ソウは柔らかに微笑む。
 『本邸』に来て数日。二人で過ごす際に飲むお茶は琴子が淹れるようにしていたのだが、どうせならお茶菓子も自作して用意したいと思い、その旨を伝えたところ、ソウが台所の使用許可を取りに行く流れとなったのだった。
「他にも何かありましたら、遠慮せずにどうぞ。……私の都合でこのように不自由なところに来ていただいたのですから、出来る限りのことはさせていただきます」
「いいえ、私自身の意思でここに来ることを決めたのです。ソウ様がそのように気を遣われることはありません。私はただ、穀雨までの時を共に楽しく過ごせたらと思っているだけなのですから」
 琴子の言葉に、ソウは一瞬瞳を揺らがせた。それはすぐに何事もなかったかのように消え去ったけれど、琴子はその変化を見逃さなかった。どこか苦しげで――泣きそうな、瞳の色を。
 けれどそれについて言及することなく、琴子はソウに自分の隣に腰を下ろすように勧めた。桜を眺めながらの語らいは、既に習慣のようなものになっている。特別なことなどなくても、ただこうして穏やかな時間を過ごせるだけで、琴子は嬉しかった。

◇ ◆ ◇

 さしたる変化もなく、日々は過ぎていった。
 あえて言うならば、お茶菓子を琴子が自作するようになったことが変化として挙げられるが、それ以外は取り立てて変化はない。しかし穀雨が近づくにつれ、ソウが琴子の元――というよりソウの自室から離れる時間が増えてきていた。
 聞いてみたところ、穀雨に行われる『儀式』の準備等が本格化しているらしい。それはすなわち、この日々の終焉も近づいているということ。
 それを残念に思うと同時、その日が過ぎ去ったら自分はどうなるのだろうと琴子は思う。ソウは『儀式』が終わったあとのことに言及したことがなかった。故に、自分の行く末の判断すら琴子には出来ない。彼に問うてみればよいのだろうとは思うが、何故かそう出来なかった。それは、不安のような、恐れのような――自身にも把握できない感情のために。
 考えに没頭していた琴子は、誰かがこの部屋に近づいてきていることに気づき、意識を切り替えた。聞き慣れた足音ではない――ソウではない。そもそも彼がこの部屋を出て行ってからそう時間は経っていない。それならば、誰が――。
 考えがまとまる前に、すらりと戸が開く。
「こんにちは。お邪魔するよ」
 そんな言葉と共に室内に入ってきたのは、琴子の見知った人物だった。
「……式様?」
 それは一度だけ相見えた、ソウの一族の『当主』――…式、だった。
 彼は琴子に笑みを向けると、後ろ手に戸を閉める。
「ソウ様なら、いらっしゃいませんけれど……」
 『儀式』について当主と打ち合わせることがあるのだと言って出て行ったはずなのだが……すれ違ったのだろうか。
 そう考える琴子に、式は朗らかに告げる。
「ああ、知っているよ。今『私』と話しているからね」
 琴子は驚きに目を見開いた。何でもないことのように告げられたその言葉のおかしさに気づかないはずがない。殆ど無意識に問いを口にした琴子に、式はやはり何事もない素振りで答える。
「それは、どういう……」
「今こうして貴女と話している私は、影のような――写し身のようなものなんだよ。ソウに知られずに貴女に接触するには、この方法が最も適していたからね。……別に、貴女に危害を加えるつもりはないから、そう警戒しないでくれるかな」
 意識せず身を固くしていた琴子は、自身を落ち着かせながら改めて式を見た。
「何の、御用でしょうか」
「警戒しなくて良いと言っているのに……まあ、それは置いておこう。こうして貴女に会いにきたのは、貴女に言わなければならないこと――いや、知らせておきたいことがあったからなのだけれど」
「……?」
 式の思惑が読めず、琴子は僅かに首を傾げた。『知らせておきたいこと』――わざわざソウのいない時に琴子の元を訪れたということは、ソウに聞かれたくない内容だということだろう。しかし、たった一度会ったきりの琴子に、そうまでして伝えたいことというのがまったく予想がつかない。
「ソウに気づかれて戻ってこられたら困るからね、単刀直入に言おう。どうやらソウは貴女に伝える気がないようだし。……穀雨に行われる『儀式』――『降ろし』が、ソウに与える影響についてだ」
 微笑む式は底知れぬ雰囲気を纏っていた。故に、琴子は彼がそのことについてどのように思っているのか、類推することすら出来ない。
「『降ろし』が終わればソウは、――この世からいなくなる」
 時が、止まったような心地がした。
 何か口にしなければと思うものの、何を言えばいいのかがわからない。
 そんな琴子の様子を見て、式はくすりと苦笑した。
「……ソウは、全てが終わるまで貴女に隠しておくつもりだったようだけど、それは、フェアじゃないと思ってね。賭けをするなら公平に、というのが私の持論だから」
「……賭け……?」
「そう、賭け。どうやらソウは、思っていた以上に君に入れ込んでしまったらしいからね」
 それはどこか、自嘲の混じる声音だった。
「……『例外』が続いたから、こうなる可能性は考えていたんだよ。それでも全てが滞りなく遂行されるなら――『私』の望みが叶うなら、それで良いと思っていたのだけどね。……ソウは『青春』の『封破士』だ。そして同時に『器』でもある。『降ろし』が済めば、ソウは『ソウ』でなくなる。そのことに、『私』は何の感慨も抱かない。何故ならそのための――そのためだけに作り出した存在なのだから」
 貴女も、と式は静かに続ける。
「薄々、感づいてはいたのだろう? ソウは人間じゃない。『私』がただ一つの願いのために作り出した、ヒトに似て非なるもの。長い時の中、『青春』の『器』としてのみ存在してきた、――『紛い物』だよ」
 瞬間、琴子は激情に視界が眩むような感覚を覚えた。
 確信はなくとも、もしかしたら、とは思っていた。けれど、式の口にした形容は、まるで『ソウ』という存在そのものを否定するような、そんな響きがあった。だからこそ自分はこんなにも憤りを覚えているのだと、琴子はどこか冷静に判断する。
 ふと、式が琴子から視線を外し、どこか遠くを見るように目を眇めた。
「ああ、ソウが戻ってくる。ここに来た目的は果たせたから、私は戻るとしようかな。……それではね。次に会うのは『儀式』の場だろうけれど、貴女が何を選ぶのか――賭けの結果を、楽しみにしているよ」
 その言葉を残し、式は煙のように掻き消えたのだった。


 戻ってきたソウと言葉を交わす間、琴子は己の内に滾る感情を、彼に気づかれないよう抑え込まなければならなかった。
 式が、ソウによって隠されていたのだろうことを教えてくれたのには、感謝の念を抱く。けれど、それと同じほど、己には制御できない憎しみが湧き上がった。
 以前の対面で、式はソウのことを『可愛い可愛い我が子たちの1人』だと言った。それに対するソウの言もまた、彼らの関係が親子に近しい情愛を孕んでいるということを示しているように感じた。
 なのに、式はソウの親のような存在でありながら、ソウに犠牲を強いて、それを止めようともしないのだ。
 今、ここに――自分の前に存在する『ソウ』は、琴子にとってかけがえのない、ただ1人のひと。奪われたくない唯一。
 その彼を、失うことなど――例え彼がそれを受け入れていても、許容できるものではない。
 ……けれど、自分に彼が止められるとは思えない。
 自惚れでなく、ソウが自分を大事に思ってくれているのだろうことは、ここに来てからの日々でわかっている。それでも、彼の『覚悟』を――己の存在が覆せるとは、どうしても思えなかった。
 それは直感であり、確信だった。
 だから琴子は、当主の訪れも、知らされた内容も――ソウに告げることは、しなかった。

◇ ◆ ◇

 ――そして、ついに訪れた、『儀式』の日。
 『儀式』には、琴子も参加する必要があるのだということは事前に聞いていた。しかしやはりソウは詳しいことを説明することなく、ただ居てくれれば良いと――琴子は何をせずとも良いと、そう言った。
 普段から静けさに包まれていた邸内は、その日、不気味なほどに静まり返っていた。……まるで誰もいなくなったようだと、琴子はぼんやりと思う。
 ソウは『儀式』の際の正装をするために出ており、部屋には琴子一人きりだった。
(ソウ様が、戻っていらっしゃったら――)
 それは『儀式』の始まりと同時に、ソウと出会ってからの日々の終わりを意味する。
 無意識に、小さな溜息をつく。
 わかっていたことではあるが、やはり終わりなど来なければ良いと思ってしまう。
 けれどそれが避けられないのであれば、自分は自分の出来ることを、精一杯やるだけだ。
 琴子は膝に置いた己の拳を、固く握り締める。
 式の訪れから今日まで、思い悩む時間は充分にあった。……もう、心は決まっている。
 戻ってきたらしいソウが、戸の向こうから入室の許可を求めたのに了承を返せば、音を立てずに戸が開く。
 そうして現れた彼が纏う衣装を目にした瞬間、思わず琴子は息を呑んでいた。
 和装であるという点では、いつもと変わりはない。しかし意匠は大分違い、どこか神職に就く者を連想させる衣服だった。
 白と、青。
 目に鮮やかなその色に、何故か不安が掻き立てられた。どうしてか、その衣服が――死装束に通じるような気がして。
 そうであったとしても不思議ではない。……『儀式』の末にソウがどうなるかを考えれば。
 目を伏せ、動揺を鎮めるために、一度だけ深呼吸をする。
「どうかなさいましたか?」
 気遣うように声をかけてくるソウに笑みを返して、琴子は立ち上がった。
「いえ、少し……緊張してしまっているのでしょうか。でも大丈夫ですわ。心配なさらないで」
「それなら、よろしいのですが……どうかご無理はなさらないでください」
「はい。心配してくださって有難うございます」
 琴子を気遣う様子を見せながらも、ソウは琴子を連れ立って部屋を出た。『儀式』の刻限が迫っているのだろう。
 ソウは邸の奥へ奥へと進んで行く。肌に触れる空気が、だんだんと密度を増している気がして、琴子は無意識に浅く呼吸していた自分に気づいた。
 やがて、ソウは壁一面の姿見の前で立ち止まった。僅かに振り向いて琴子を安心させるかのように微笑み、また前を向き、何事かを呟きながら姿見の中心に手をかざす。
 瞬間、姿見が淡い青に発光した。ソウが手をかざした部分から、ゆっくりと波紋が広がる。
「……手を、」
 請われるままに手を差し出せば、ソウはその手を取り再び微笑んで――姿見に、身を沈めた。半ば予想していたとはいえ、驚きに息を呑む琴子もまた、同じように姿見に沈むことになる。
 姿見の表面を通り抜ける瞬間、思わず目を閉じた琴子は、次に目を開いた際に眼前に広がった光景に、言葉を失くした。
 絶え間なく降る花弁が、まるで吹雪のようだった。正面に映るのは、堂々たる風体で佇む桜の大木。
 そしてその大木を中心に――地面に魔法陣を連想させる紋様が、広がっていた。
「――…ここが、『儀式』の場です」
 ぽつりと言ったソウは、そのまま桜の下へと向かっていく。
 桜の幹の向こうから式が現れ、しかしこちらには寄ってくることなく、意味ありげな微笑だけを向けて紋様の外に立つ。
 ――さあ、賭けの結果を見せてもらおうじゃないか。
 そんな風な声が聞こえた気がして、琴子は繋がれた手に力を込めた。ソウが振り向くことはなかったが、僅かに握り返してくれた。
 桜のすぐ傍に着いて初めて、ソウは立ち止まった。琴子からは背しか見えず、表情をうかがうことは出来ない。
 ソウは桜の木を見上げ、どこか感慨深げにゆっくりと息をついた。そして琴子を振り返る。
 琴子は、無意識に息を呑んだ。
 桜舞い散るその下で、死装束にも似た衣装を纏う彼は、今にも消えてしまいそうに見えた。
「私は、片方だけを選べませんでした。どちらも切り捨てることができなかった。……だから、せめて」
 彼は微笑む。これ以上ないほどに美しく、透明な笑みだった。
「納得のできる選択をしたかったのです。それはきっと、どちらをも裏切る行為なのかもしれないと、わかっていても」
 壊れ物に触れるような手つきで、ソウは琴子の手を取った。――桜の痣の浮かぶ手を。
 自分より僅かに温度の低いソウの手に、琴子は何故か泣きだしそうな心持ちになった。それはその冷たさが先を暗示しているかのようだったからかもしれないし、以前同じように触れたときのことを想起したからかもしれなかった。
「『我儘』など――そう思えるような自分の『願い』など、抱く日は来ないと思っていました。けれど、貴方に会って。『望み』を、『願い』を、知りました。まるで『ヒト』のように……何かを欲する自分に、戸惑うこともありましたが――」
 そこで一度言葉を切り、ソウは苦笑を浮かべ――切なさと愛しさとをないまぜにしたような、そんな瞳で琴子を見つめた。
「以前、『貴方でなければよかった』と言ったことを、謝らせてください。――貴方と会えて、良かった。始まりも、関わり続けた理由も、決して純粋な、自然なものではなかったけれど、それでも。……貴方で、よかった」

 貴方を愛せて、よかった。

 そう囁いて、ソウは琴子の手に――そこに浮かぶ桜の形の痣に、唇を落とした。

 ――…ひかり、が。
 ソウを包むのを、琴子は見た。風もないのに、彼の青銀の髪が宙を舞う。
 同時に自分の身に襲い掛かった圧力に、琴子は膝をつく。ともすれば失いそうになる意識を必死で繋ぎ止め、ソウを見上げた。
 何かが自分の中から失われていく感覚がする。光が強まるのに比例して、その『何か』が徐々に削ぎ落とされていくような、そんな感覚。
 哀切を湛えた紫水晶の瞳が、琴子を見下ろした。
 ソウが口を開く。音なく告げられた言葉はしかし、琴子に読み取ることは出来なかった。
 彼を包む光が一段と増し、その姿を捉えることができなくなったからだ。
 その間にも、何かが失われる感覚は続いている。――その失われる『何か』の正体に気づいた琴子は、ひたすらに唯一つを想う。願う。
(消えないで)
 『儀式』の流れを止められないだろうことは、最初からわかっていた。何かを決意したようなソウの様子に、それを悟らざるをえなかった。
 式から『儀式』の末にソウがどうなるのかを聞いたときから、決めていた。
 自分はどうなってもいい。ソウが消える『儀式』の結末を防ぐことが出来るのなら。
 『喰われる』詳細はわからない。ソウが消えることになる、その仕組みも。
 『器』に――『ソウ』に向けた心こそが必要だったのだと、ソウは言った。
 つまり『喰われる』のは、このソウに向けた感情――もしくはそれに類するもの。
 それならば、彼を大切に思う――それ故に失いたくないと、消えないで欲しいと願う、その想いごと喰われることで、ソウが消えることを防ぐことは出来ないかと、そう考えたのだ。
 確証なんてない。ただの希望、願望に近いとわかっている。それでも。
 僅かなりと可能性があるのなら――それに賭けたいと、思ったのだ。
 ……彼の心を守りたい。それが全て。
 今も鮮明に思い出せる、握っていてくれた手、向けてくれた優しい笑み。そして交わした言葉の数々。
 それが、琴子の勇気となり力となる。
 喰われても、心根は残りまた芽吹くと――そう信じられるのは彼が居るから。
(――…消えないで)
 ひときわ強く想った瞬間、琴子の視界を光が灼き尽くした。

◇ ◇ ◇

(……ああ、そんな顔をしないでください)
 薄れゆく意識の中、視界を掠めた琴子の表情に、ソウは思う。
 もう、彼女に何を伝えることも叶わないけれど、ただ一つ、伝えられるなら。
(――幸せに)
 自分が絶やした可能性、あるはずだった縁が、彼女を幸せにしてくれるといい。
 出来る限りのことはした、つもりだ。
 本来ならば彼女の心全てを喰らうはずだった『儀式』。それを変えたのは、ただの自分の我儘だ。
 『例外』が続いた中、さらに『例外』を作ることに、躊躇しなかったわけではなかった。
 それでも、彼女には、生きて幸せになって欲しかったのだ。
 心を喰らえば、それはすなわち魂が失われるのと同義。身体は生きていても、心がなければそれは死んでいるのとどう違うのだろう。
 ……違いなど、ない。
 それに罪悪を感じたことはなかった。後悔も。――否、近しいものを感じても、それは『当主』の願いを叶えるという己の意志に勝ることはなく。
 だからきっと、今回も――『朱夏』も『白秋』も『玄冬』もそれを為せずに終わった末であっても、自分だけは、それを為して終わるのだと思っていた。
 けれど。
 『苗床』たる者に、自分は心を寄せてしまった。
 大切だと、愛しいと、――幸せに、生きて欲しいと。
 そう、願ってしまったから。

 けれど、願ってしまったからこそ、心を寄せてしまったからこそ、自分は自分の役目を放棄できなかった。
 『当主』の願いは、自分の抱いた願いと同じであったのだから。
 ただ、共に――幸せに、いたかっただけなのだ。
 その想いに、咎はない。それでも、理を覆すことは、罪以外の何物でもなかった。
 その罪の代償を支払うのは、自分だけでいい。彼女にはその咎が及ばないようにと、己の領分を越えていることを承知で、当主に協力を願った。
 存外あっさりと了承を得て、少しばかり訝しんだが――当主が約定を違えることはないと知っているから、彼女が害される心配はない。

 どちらか一方を選び取れなかった事実は、きっとどちらをも傷つける。
 知っていて尚そうした自分に、安らかな終わりなど似合わないと思っていたけれど。
 まるで眠りに落ちるような終わりに、苦笑する。
 二度と覚めぬ眠りだとわかっていながら――否、だからこそ、抵抗もせずそれに身を任せた。

 思考がぼやけていく。『自分』というものが消失していく感覚が強まる。
 何かを思うことも、想起することも出来なくなるのだろうと考えながら――最後に浮かんだのは、伝えることなく終わった言葉。 
 どんなに思いが募っても、決して伝えてはいけないと自分に課した、抱いてはならなかった想い。願い。

(――…私も、)

(貴方のことを愛しいと、思っていました)

(叶うのならば、夢を、)

(共に在れる未来を、見たかった)

 その思考を最後に、僅かに残った意識も手放した。

◇ ◆ ◇

『……愚かな』
 涼やかな声が、辺りに響いた。耳に直接届くのではなく、頭の中に響くような、そんな声だった。
 ふ、と身体が軽くなるのを、琴子は感じた。
『愚かとしか言いようがない。この器の主も、――…お前も』
 言葉と共に、紫水晶の瞳が式を映した。式がはっと息を呑む。
 ソウであってソウでない者がそこにいた。以前一度だけ――三度目の邂逅の際に合間見えたソウの雰囲気に似ている。あれは限りなく別人に近いけれど、紛れもなくソウだった。しかし、今目の前にいる『ソウ』は、外見以外は本当に別人であるのだと――直感した。
 姿も声もソウであるのに、気配が彼ではないのだと雄弁に語っている。身を包む燐光が、彼をこの世在らざるものに見せていた。
 ふらり、と式が彼に向かって足を踏み出すのを、琴子はぼんやりと見ていた。
「……青春」
『近づくな』
 淡々と告げられた言葉に、式が肩を震わせた。その歩みが止まる。
『その不安定な気を纏ったままこちらに近づくな。均衡が保てなくなる。――…力持つものとして、感情に引き摺られるなとあれほど言ったというに、それすら忘れたか』
 溜息をついて、式に『青春』と呼ばれた彼は、静かに琴子へと視線を向けた。
『……大事無いか』
 気遣う言葉に、琴子は特に異常はないと告げる。『青春』の声が聞こえる寸前まで己の身にかかっていた、抗いようのない圧力はもう感じられない。
『この器の主は、汝に全て――己に関わる全てを忘れ、幸せに生きて欲しいと願った。だが、この器の主に躊躇いの念が在った故か、それとも汝の想いの強さ故か……それは叶わなかった。呪は不完全に終わり、汝の記憶は失われず残っている』
 汝が望むのなら、と、『青春』は続けた。
『この器の主が願ったように、汝の記憶を消し去ることも出来る』
 どうするかを問うてくる視線に、琴子は迷うことなく首を横に振る。そんなこと、望むはずがない。
 ひとつ、ゆっくりと息を吐いて、『青春』は呟くように告げる。
『この器の主は、全てを汝に話したわけではない。告げずにいた事実の中には、汝が己の選択を後悔するやも知れぬこともあるだろう。それでも、汝はそれを選ぶか』
「――…はい」
 ソウが何を告げずにいたのか、琴子にはわからない。それが琴子に知られると都合の悪いことであったから告げられなかったのか、それ以外の理由があったのかも、わからない。
 引き返す機会は無数にあった。けれど、わからないことばかりの中で、それでも自分はソウを選んだのだ。
 意思のこもった琴子の瞳に何かを見出したのか、納得したように僅かに頷いた『青春』は、立ち尽くしていた式に視線を向ける。
『……もう、わかっているのだろう』
 ぴくり、と式の肩が跳ねた。
『朱夏に始まり、白秋、玄冬――そして私。全ての季節が巡って、いい加減思い知っただろう。幾らお前が望もうと、理を覆すことは出来ない。時が戻ることもない。何度も……気が遠くなるほど何度も繰り返し、それでもお前は認めなかったが――今度こそ』
 聞きたくない、とばかりに耳を塞ごうとした式の手を掴み、突きつけるように『青春』は告げた。
『別離の時が、来たのだ。他も…朱夏も白秋も玄冬も、皆別れを告げて在るべき場所へと――輪廻の中へと戻っていった。最後まで足掻きたかったのか、それ以外の理由からかは知らぬが、私を再び現世へと引き摺り戻したことについてはもう何も言わぬ。ただ、これが本当の最後だと――その事実から、目を逸らさぬのなら。……この“器”に私は長く留まれぬし、留まるつもりもない。本来あるべき主に返した後は、もう解放してやるがいい。この器の主にも、お前と同じように失うことを哀しむ者が居るのだから』
 ちらりと琴子を見遣った『青春』が、また式に視線を戻す。そうしてふっと淡く微笑した。
 式の耳元で何事かを小さく告げて、それからゆるりと瞳を閉じる。
 彼の身を包んでいた淡い燐光が空気に溶けるように消え去り、その身体から力が抜けた。
 それを予想していたように抱きとめた式が、ゆっくりと地に横たえる。
 思わず駆け寄った琴子の耳に、囁くように零された言葉が届く。
「……ソウはもう、『封破士』でも『器』でもない。私に必要だったのは、『封破士』であり『器』であるソウだった。だから、ソウはもう私にとって必要な存在じゃない」
 淡々とした声音だった。何の感情も読み取れない、声。
 式は立ち上がり、ソウの傍らから退いた。代わりに琴子がそこへと膝をつく。
「直に目も覚めるだろう。……貴女がソウを――その存在を望むというのなら、止めはしない。連れて行くといい。ソウがどこでどう生きようと、私はもう看過しない――そう、伝えて」
 そう言って、式はその場から立ち去った。
 琴子はそっと、ソウの手を取る。
(……あたたかい)
 いつかと同じように伝わる体温に、安堵する。
 己の手には、もう桜の痣はない。
 桜の花弁が散っている。絶え間なく落ちるそれが、地面を絨毯のように覆っていく。
 まるでソウが、花の褥に横たわっているようだった。
(生きている……終わる、ことなく。共に在ることを――その未来を、願うことが出来る……)
 つぅ、と一筋涙が頬を伝う。それは哀しみによるものではなく――。
 ふと、硬く閉ざされていたソウの瞼が僅かに痙攣した。声無く見つめる琴子の目の前で、その瞳がゆっくりと開かれる。
「……琴子、さん…?」
「…っ……!」
 衝動のまま、琴子は彼に覆い被さるようにして抱きついた。
 祝福するように、花吹雪が舞っていた。

 

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【7401/歌添・琴子(うたそえ・ことこ)/女性/16歳/封布師】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、歌添さま。ライターの遊月です。
 「青春流転・陸 〜穀雨〜」にご参加下さり有難うございました。お届けが大変遅くなりまして申し訳ありません。
 
 これまでの集大成とも言える最終話、いかがだったでしょうか。
 明かされたこと、伏せられたままのこと、選び取ったもの、失われたもの、色々ありますが、とりあえず『青春流転』はこれにて終幕となります。
 とはいえ、生ある限り、ソウと歌添様、2人のお話はまだまだ続いていくことでしょう。
 最終話までお付き合いくださり、ありがとうございました。

 ご満足いただける作品に仕上がっているとよいのですが…。
 リテイクその他はご遠慮なく。
 それでは、書かせていただき本当にありがとうございました。