■真夜中の仮面舞踏会 序章 《業火》■
工藤彼方 |
【8114】【瀬名・夏樹】【女子高生】 |
ある夜のことである。
都内にある、とある小さなオルゴール博物館が火が出た。
その時間帯は、当然、博物館は閉館しており、セキュリティも作動していたはずだった。防犯カメラのデータにも、不審者の姿は映らなかった。
火の手の勢いは強く、小さくも5階建ての建物は全焼。
100年から200年前に作られた、アンティークのシリンダーオルゴールやディスクオルゴールたちが悉く失われたのだった。
だが、その事件のあと、博物館の人たちは首を傾げたのである。
建物の焼け跡からは、黒くなった陳列台やドアが発見されるばかりで、炭になったはずのオルゴールたちの残骸はただの一片も発見されなかった。
木が燃えて灰になったというのはわかる。
だが、金属製のシリンダーやディスクまでもが姿を消しているのは何故だ?
まるで建物から忽然と姿を消したように。
そして消えたのは、オルゴールばかりではなかったのである。
博物館には、オルゴールを体内に仕掛けられた人形たちが陳列されていたのだ。
手紙を書く道化師。
物憂げな表情でアコーディオンを弾く男。
花籠を抱えて薔薇を売る花売りの少女。
そう、彼らもまた――。
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真夜中の仮面舞踏会 序章 《業火》
【1.変わらぬ日常 美香の憂鬱】
『……肌にまだ、残っている気がする』
人気もない夜道を歩きながら、そんなふうに自分の首元から立つ匂いを気にしていた頃があった。
それがいったいいつの昔のことだったのか、今の美香は思い出そうとは思わない。
日ごと夜ごと、まといつく湯気と、妙にケミカルな甘ったるい匂いのする液体の滑りに塗れても、仕事上がりに首筋にパフュームをひと吹きふた吹きして、それを自分の身体への一日が終わった合図にする。ただ、その後に残るのは、世間が良しとする道から大きく外れたことを代償に得た、乾いた自由と孤独感だった。
ネオン街からも遠く離れ、美香が歩道を歩く大きな幹線道路を行き交うのはハイヤーと長距離トラックぐらいだ。
ぬめぬめと黒光るアスファルトを舐めていくヘッドライトの明かりを見つめて美香は思った。
私はこの道。あの車は男たち。
重く熱い車体とタイヤに敷かれ、削られ、ガソリン臭い荒い吐息を吐きかけられ。
だが、それも、ほかならぬ私が選んだのだ。
ザラついた感傷は、いつも不意打ちのように襲ってくる。
どこまで続くともわからないアスファルトの道の行く先を眺めて、美香は思った。
私はやがて、何をどれだけ悔いるのだろう。
自分のハイヒールの硬い音をどこか遠くで聞きながらそう思った美香だったが、そんな物思いは長くは続かなかった。
「えっ……何あれ」
思わず上げた声は裏返っていた。
見たのだ。行く手に見えるビルの谷間に、赤く燃え上がる炎の舌が閃いているのを。
建物の密集地帯での火事。
それが、草木も眠る時間帯のことであれば、通報する者もおらずに大惨事になるだろうことは想像するにたやすかった。
駆け出しながらもショルダーバッグの中を震える手で手探り、携帯を取りだした美香が、通話ボタンをどうにか押すことが出来たのは、たった三桁の電話番号を何度か押し間違えた後のことだ。
「あの…っ すみません、火事が! 火事なんです!」
受話器の向こうで場所を問う署員の言葉に、とっさに目の前に見える歩道橋の側面に書かれた地名を告げる。
後は何を話したのか美香にもよく解らなかった。
視界に映る火の手は音もなくその腕を凶暴なまでに広げ、夜空を赤褐色に焦がし始めている炎を見ては、何も考えられなかった。
歩道を走る間に、何度か足をくじいた気がする。
そんなことを思ったのは、炎上するビルの前へとたどり着いてからだった。
とっくに切れてツーツーという音が鳴っている携帯電話を耳に押しつけたまま、息を切らせる美香の眼前で、炎に包まれた細長いビルが、渦巻く黒煙を噴き上げながら黒々とした影を天に向けて伸ばしていた。
【2.目撃者五月の証言】
そーなんだよね。
あの夜さ、俺、ちょうど寝るトコねぇなって思ってて。
ま、そんなのいつものコトなんだけど。とにかく探してたワケよ。ちょろっと俺に洗脳されてくれそうなヤツってのをさ。
これが意外とさ、ちょっといいベッドで寝てそうなオッサンとかが、意外に夜中の公園にいたりすんの。ホント。ウソつかない。
なんつーの? 仕事帰りに飲んだくれて、家族に合わせる顔がないなーとか考えているうちに、公園のブランコで寝ちゃってたりさ。長年独身貴族をやってて、家に急がなくてもいいヤツとかさ。そんなのがポツポツごろごろしてんだよね。ほら、家に帰りたくないオトーサンとかも駅のベンチに転がってたりするじゃん? あんな感じそういう感じ。
あ、モチロン、泥酔しちゃったおねーさんでもオッケ。てか、なお良い歓迎博覧会。
で、俺としちゃぁ駅のオッチャンの方が見つけやすいんだけど、駅員とか他の客の目があるからさ、そうも公然と洗脳作業いっきまーすってワケにはいかねぇから。うん。
地道に人目のないトコで、ターゲット捕捉!ファイヤ!ってやってるワケよ。
で、その夜なんだけど。
俺、腹減ってたんだよね。家に上がり込ませて貰うついでにタダ飯も食えそうな獲物ちゃんを狙って、俺の狩り場になってる公園っつーか、うん、そんな巡航エリアをブラブラしてたんだよね。
なんだけど、こーゆー日に限っていないのいないでやんの。
選り取り見取りって日もあれば、こういう日もある明日は明日の風が吹く、なんて風には割り切らんない気持ちでさぁ。つまんないし腹減るしでブランコ乗ってお月様見てたんだよねー。
そうしたらさ、まだ夜明けじゃないって時間だよ? なのに、空が明るいの。
ビルの向こうが一箇所だけ、夕焼けか朝焼けかって感じに明るくて、なんだアレって感じ。
でさ。
俺、閃いたんだよね。
俺こと五月サマがアレがなんだか確かめてやる、ってさ!
【3.スーパー高校生ふたり それぞれの事情】
「んじゃ、俺、アガリまーっス。お疲れさんッス!」
そう店の暖簾に声を掛けてバイト先を後にしたのは、とうに午前を回った時刻だった。
「うわぁ、これじゃ絶対終電に間に合わねぇ……」
走ってもとうてい間に合わないだろうことは腕時計を見ただけでわかった。
しょうがねぇな、とボヤく。
「走って帰っかぁ」
家に帰っても待つ人がいるわけではない。
なんでこんなに帰りが遅いのか、と叱ってくれる家族はいない。
気楽な身分ではあったが、その代わりに、食っていかねばならないという生活の重圧が常にのし掛かる。
それゆえに、このような時間まで大人に混じって立ち働いていた九郎だった。
バイト先から家までは電車で8駅分もの距離がある。
家に近い近所でのバイトというのも考えたのだが、今日日、高校生のバイト代を弾んでくれるような店はそう無い。
賄い飯が旨いらしいのと、高校生アルバイトに破格の給料を出してくれるというのを聞いて、今の店を選んだ九郎だったのだが、こうして終電を逃すと少し憂鬱な気分になる。そう、少し。
この「少しだけ」というのには理由があった。
普通の人間がこの辺りの8駅分の距離を走って帰ったならば、帰り着くのは下手をすれば夜明け近くになるだろう。
だが、九郎は違った。
古流柔術の達人であり、体得している古武術の力をもって飛躍的に身体能力を上昇させることが出来る九郎にとって、長距離を驚くべき俊足で駆け抜けることはそう難しいことではない。
気という気を集め、流れを生み出して全身の細胞を活性化させる。九郎が精神を集中させることで、筋肉組織の細胞も一瞬にして覚醒する。
数十キロの距離をものの1時間ほどで走破することも可能だった。
店から少し離れた路地の陰で、九郎は丹田に力を篭めた。
腰を落とし、腕を緩く広げる。
瞼を伏せ、口を窄めて、腹の息をゆっくりと吐ききる。
新たな呼気を鼻から肺へと呼び込みながら、周りの気脈を探る。
ごみごみとして澱んだ街中にも、冷えた夜気に混じって微かな気の流れはある。
周囲を流れる気を助けに、九郎自身が持つ莫大なエネルギーを体内に循環させ、――そして訪れる、内的な爆発。
見る者が見れば、九郎の身体の周りを、密度の濃い気が周囲の空気を圧迫するように取り囲んで包んだのが見えただろう。そして、それが九郎の身体から発散されたものだということも知れたはずだ。
バイト先の暖簾を出た時とはまるで違うオーラを纏って、九郎は顔を上げた。
大通りを走れば人目に付く。
そこらの車よりも速く走る少年の姿は、少し目立ちすぎる。
そんな面倒を避けるべく、九郎は裏道を走り出した。
九郎の走りに音はない。
道の両側に並ぶうなぎの寝床のような店兼自宅の商売屋の軒先を、九郎は影の如く風の如くひた走った。
立ち並ぶ建物の凸凹のシルエットの向こうに炎に包まれた建物が見えだした時、九郎の耳に届いた声があった。
「たーすーけーてぇぇぇー……」
「だーれかぁあぁぁぁー……」
風に運ばれたせいか、少々間延びして聞こえるその声は、しかし、まごうかたなく助けを呼ぶ声だ。
途端に、九郎の眉間に刻まれた皺が深まる。
「畜生がぁッ!!」
九郎は駆けた。
車道を走る長距離トラックの傍らを抜け、タクシーとスポーツ・カーとバイクとアメ車を運転席で目を向くドライバーを余所に牛蒡抜きにして、近付くほどに炎のごうごうという唸りが聞こえてくる、火の手の元たる建物の敷地へと疾風の如くに滑り込んだのだ。
「たーすーけーてぇー」
風のまにまに流されて間延びしたと思われた声は、声の主を目の前にしても間延びしたままだった。
細い身体をした少女らしき姿が、口元に両手をあてて「たーすーけーてー」と大声を上げていた。燃え上がるビルを背景に背負って。
そして彼女の周りには輪を描いて人だかりが出来ていた。
近所に住んでいる住人なのだろう。その誰もが、火の明るさと騒ぎに叩き起こされ寝間着のままに飛び出してきたという恰好だ。
「たーすけてぇぇぇー」
緊張感のないSOSを叫ぶ少女と、火事よりも彼女を見守る人だかり。
何も知らぬ者が見たならば、深夜のゲリラ路上パフォーマンスかとでも思ったことだろう。九郎はつかつかと少女の元へと歩み寄った。
自然と寝間着姿の人だかりは割れて、道をつくった。
「火の原因はあんたか?」
開口一番、九郎は少女に唐突な問いを投げた。
「は!? 俺なわけねーじゃんか! 俺は第一発見者ー」
自分のことを「俺」と言った少女の声は、高めの声とはいえ間違いなく男の声だった。
「第一発見者? あんた、何モンだ。ここに住んでたのか」
「住んでねぇよ! な、何モン? 何モンだって、俺は……俺は、何だろう、五月っていう、けど。…散歩してただけだよ。なんだよ……」
第一発見者と答えたことで終わりかと思いきや、いきなり素性を問われて面食らった五月がしどろもどろにそう答えると、九郎は彼へとぶしつけな視線を向けたまま、
「そうか……。じゃぁな」
低くぶっきらぼうに言うと背を向けて歩き出した。
拍子が抜けたのは五月の方である。
「え、そんだけかよ。ちょっとおまえ、俺だって聞きたいことあんだよ」
待てって、と手を伸ばした五月の目の前で、唐突に九郎が振り向く。
思わず額をぶつけそうになって五月は慌ててつんのめった。
「急に止まるんじゃねぇっ!!」
喚いた五月の眼前で、九郎は顔色一つ変えずに言う。
「……生き物、見かけなかったか?」
「は?!」
「……生き物、見かけなかったか」
「……おまえ、人の話聞いてないだろ……」
「あ、ダメだ」とばかり額に手をあて呻いた五月だったが、
チラと視線をあらぬ方へと流すと、小さく咳払いした。
「……あぁー、生き物、ね。……見たけど」
半ば気の抜けたような間延びした調子で言い、白々しいそぶりで指をさして見せた。
五月の指さす先には、薄手のロングコートを身に纏った女性、美香の姿。
「……」
九郎は、真剣そのものの――見ようによっては何を考えているのかよくわからない表情を微塵たりとも崩さぬままに、五月と美香を交互に見た。それから美香へと向き直る。
「……火の原因は、あんたか?」
さきほど五月に問いかけた時と同じ調子で、同じ質問を投げかけた。
「うわぁー。そこツッコミ入れるトコじゃねぇのっ!?」
五月が両手で頬を挟んで、うわぁうわぁと騒いでいるのだが、どうやら九郎の耳には入っていないらしい。
だんまりを決め込んでいる美香へと九郎がさらに近づき、
「火の原因はあんたか?」
剣呑な目つきにも見えないことはない九郎がなおも繰り返す台詞は、ある意味不気味だ。
美香が相変わらず黙ったまま首を横に振ると、九郎はまたもや「じゃぁな」と告げて再び歩き出した。のだったが。その背に剛速球の甲高い声が激突した。
「あぁーっ!? 何してんのよ、あんたっ!!」
九郎が、そして他の面々もつられて振り返ると、そこには制服姿の女子高生が仁王立ちしていた。
ただし、虎模様の手足に耳と尻尾がおまけがついた。
「うわっ。 夏樹、なんでこんなとこにいるんだよ!」
叫んだのは九郎だった。『火の原因はあんたか』しか喋れないんじゃないかと心密かに思っていたらしい五月が、驚愕の眼差しで九郎の横顔を見つめている。
「私はふつーに試合の練習帰りよっ! 言ったでしょ! 試合前なんだって。後輩を仕上げるのに時間が全然足りないんだってば。じゃなくて、あんたこそなんでこんなとこにいんのよ!」
「ふつーって遅すぎくねぇ? 俺は……俺も帰りなんだけ……」
ど、と言い終わらぬうちに、夏樹はくるりと身の向きを変え、呆然となりゆきを見守っていた五月と美香のふたりへと身振り手振りを交えて言い出した。
「どうもこんばんはー! お騒がせしちゃって、そこのお姉さん、と、えーと」
「コスプレ女子高生がいる……」
五月がぼっそり呟くと、その横っ面を張る声が”コスプレ女子高生”の口から飛んだ。
「コスプレ違う! これ自前!! てことで、みなさんもっぺんこんばんは!! そこのお姉さんもそこのお嬢さんもごめんなさいねー! ウチの九郎がおっかしな言いがかりをつけやがりまして!」
「俺だって『お嬢さん』じゃねぇっ!」
吠え返したのは五月だ。
どこから見ても――胸さえ見なければ、少女にしか見えないという外見だけに、しょっちゅう性別を間違われる五月である。が、普段はそれを逆手にとって洗脳ターゲットのハントに役立てている。少女のような外見は警戒心をさほど抱かせずに接近するのにちょうど都合が良いのだ。
だが、今は話がまた別だ。年下の高校生少女に「お嬢さん」と呼ばれ、彼女を「コスプレ女子高生」と呼んだことに対して間髪入れずの報復をされ、してやられてぶすくれる五月の顔を見てどう思ったのか、夏樹はなおも言う。
「お姉さんもお嬢さんもたいそうご気分を悪くなさったかと思います、が! そこは私、瀬名夏樹に免じて許してやってちょうだい! ほら、九郎っ! あんたもごめんなさいはっ!?」
夏樹が九郎の背を叩いて促すと、九郎は不意に夏樹の顔をまじまじと見てぼそりと呟いた。「まさか……」
「なによ」
「この火の原因、おまえなん……」
「どアホか!?」
九郎が仕舞いまで言い終えぬうちに、夏樹は虎爪が長く伸びる両手を振りかざし、掴みかからんばかりの勢いで睨み付けた。
「……あー……やっぱそんなわきゃないか……」
「あったりまえでしょうが!!」
ポリポリと項を掻いて、九郎は喚く夏樹に背を向ける。
そんな九郎が何気なく前を見ると、野次馬人間の人だかりが遠巻きに自分たちを見てざわざわひそひそと話し合っていた。
「なんや、コスプレねーちゃんがおるで」
「違うってば。ぜったい特撮モノのロケだよ、これ」
「へぇぇ、こういうのって結構大がかりなんだなー」
寝間着姿の爺さん父さんおばちゃん兄ちゃんたちが、好き放題言う中へと、一喝。
「そこっ!! コスプレねーちゃん違う! コスプレ女子高生よ!!」
夏樹の大音声が飛ぶ。
「あほっ!! おまえがボケ倒してどうすんだっ」
どっと湧く観衆を前にしてふんぞり返る夏樹へと、思わずそんな渾身のツッコミを入れた五月だったが、次の瞬間には、肩を夏樹の腕にぐっと抱き込まれていた。
頬をよせて、ごくごく低く落とした囁きが五月の耳元を打つ。
「……シッ。これでいいのよ。この方が都合がいい」
驚いて目を見開いた五月は、夏樹の横顔を見た。
「そうか……おまえも……」
夏樹の横顔は告げていた。
”普通の人間じゃない”と。
東京の闇に潜む、異形のひとりである、と。
五月は思わず、自分の肩を抱く夏樹の腕を見た。肌から直に生えた獣毛。
それまで虎模様のロンググローブを着けているものだと思っていたそれは、たしかに獣人のそれだった。
異形の能力は、人間の諸能力を遙かに凌駕する。その点で、異形にとって普通の人間とは恐るるに足らない存在である。
だが。
異形の絶対数は不明であり、潜在的には人間以上に多く存在する可能性も否定出来ないとはいえ、表向きは人間ほどに社会的に認知された存在ではないのだ。
であれば、一般人の前ではそれと知られぬ方が、面倒なことにはならない。
異形は異形の棲まう闇に、隠れていなければならない。
夏樹の横顔はそう語っていた。
【4.幕開け】
夜闇を劈く悲鳴が上がったのはその時だった。
五月たちが背にしている建物の方からの声に、何事かと振り向くと、炎上するビルの入り口に炎の渦が出来ていた。漏斗状の、まるで竜巻のような火の渦は、地面から垂直に伸びているのではなく、ぽっかりと口を開けたエントランスから五月たちの方へと向かって、つまり地面とは水平方向に伸びている。
そして渦の中心には、炎の竜巻の中にいましも引き摺りこまれていく美香の姿があったのだ。火事現場を遠巻きに見守っていた群衆からも動揺の悲鳴が上がる。
「おねーさんっ!!」
真っ先に叫んだのは五月だった。
どれほどの勢いの熱風が彼女を取り巻いているのか、彼女は地に着かぬ脚をバタつかせてもがいているのが見えた。が、その姿も見る間に炎の腕に絡め取られて見えなくなっていく。金切り声のごとき悲鳴も炎の唸りに紛れて切れ切れになっていく。
「いけねぇっ!! 喰われた!!」
言うや否や、時折爆発音を上げては長い火焔を噴き上げる炎の間へと猛然と駆け入っていく五月の後を、九郎と夏樹が間を置かずに追って駆け出す。
「人食い火事だなんて聞いてないわよ!! あんたが何か探してたってんじゃなかったの?」
「俺が来た時にはもう燃えていた。……その、上の窓に、猫が……いた……気が、したんだ……」
それを探していたのか、と隣を走る夏樹が横目を送る。
少しの沈黙ののち、それが少し困ったような、しょうがないわねとでもいうような優しい眼差しに変わったのに、九郎は気付いたのかどうか。
「夏樹、あの火の中に入れるか?」
低く言って、前方にうねるの炎の塊を指さした。
「ごく普通の『火』には見えないんだが」
大丈夫そうか、との問いを含んだ言葉だ。
「行ける」
夏樹がそれに短く答えた。
気付いた時には脚が宙に浮いていた。
何かに背中を掴まれて引きずられていると思った時には、目の前が赤銅色と黒色の炎で覆われていた。踊り上がる炎の隙間から、今し方まで見ていた少年たちの姿が小さく見えたが、それもほんの僅かの間のことだった。
何千何万もの針で肌を刺すような痛みに、「もう駄目だ」と思ったのだ。美香は。
「あなた、何……?」
誰なのかという問うべき言葉もろくに出てこなかった。
ぼう、と遠のく意識の中で痛みと熱風とに目を瞑ったところまでは覚えている。
なのに、不意、嘘のように体中の痛みという痛みが消えて、灼けつく熱さも遠のいた。
だんだんと自分の身体を何かが覆っているのだということと、自分の背中を支えているのが誰かの腕らしいということに気付いて顔を上げると、そこには見知らぬ青年の姿があったのだ。
燃えていた建物の内部らしい。絨毯敷きの床の上に美香と青年は折り重なっていた。
「何、って。名は黒瀬というが、ただの通りすがりだ。通りすがりだが、火事に好かれた貴女を見過ごすことはちょっと出来なかったというか、ね」
そう言って笑う青年の頬や、レザージャケットから覗く首筋には、赤く腫れたような筋が幾つも浮かび上がっている。お世辞にも綺麗と言えるものではなかった。
「あなた、酷い火傷……」
思わず頬へと手を伸ばしかけて、触れれば酷く痛むだろうと遠慮がちに指を引いた。
「大丈夫だ。この手のことには慣れている」
気にしなくていい、と言う青年の視線が、不意、美香の頭を越えた何処かを見るように逸れたのに気付いた。
こつ、という小さな、ごく小さな足音。
誰か、いる。
美香は肩越しに振り返った。
プラチナブロンドの髪を背の中ほどまで波打たせた少女が、二人の方へと歩いてくるところだった。
白いブラウスを着て、ベルベットのビスチェで腰を絞ったその下に裾の広がったスカートを身につけるその少女の歩き方は、どこかたどたどしい。
どうにも覚える違和感に首を捻った美香だったが、すぐにその違和感の理由に気がついた。彼女の顔も、指も、瞳も血を通わせていない。
それが布や木や陶器で出来ているのだということに気付いて、思わず固唾を飲み込む。
「……人形が、動いてる」
小さく呟いた美香の傍らで、青年が口元に人差し指をあてて見せた。
「……『呼ばれた』のは、あなた?」
少女人形が言った。少女らしく高い声だったが、人のそれとは違い、喉のあたりでふいごを鳴らしているような空気を孕んだ声だった。
「あなたが『呼ばれた』の?」
少女人形は布で出来た小さな手を伸ばし、美香の顎へと指をかける。
言葉とは裏腹に、非難するようでも哀れむようでもない感情の見えない平板な声。
ガラスの光沢で出来た眼球が、クル、と動いて美香の瞳を見つめた。
「異形でも能力者でもないあなたがなぜ、ここに呼ばれたのかしら……」
美香にしてみればわけのわからない話だった。
呼ばれた、と言われても、自分は呼ばれたつもりはないし、自分は火事を見かけたから消防車を呼んだまでのことで、こんな恐ろしい目に遭いたいとは思っていななかった。今もたまたま「通りすがり」だったらしい青年がいてくれたから助かったようなものの、彼がいなかったら自分は火だるまになっていたことだろう。
そしてまた今、自分はこの人形に何をされようと言うのか。
青年の助言通りに黙っていることにした美香だったが、人形の沈黙がやけに長く感じる。時間にしてはそれほど長い時間ではなかったのかもしれないが、美香としては耐えられなくなったころ、美香の瞳を覗き込んでいた少女人形がいっそう顔をよせた。
美香の胸中の思いは、少女人形にも伝わったのかもしれなかった。
「あなたはまっぴらごめんと思っているのかもしれないけれど。わたくしにはわかりました。あなたがここに『呼ばれた』わけを」
吐息もかかるほどの――人形も呼吸をするならば、だが――近さで、人形は長い睫を瞬かせた。
「あなたは『思い出』に縛られた人。止まらない時間の中で、あなたの心は囚われたまま。――わたしたちと、一緒。」
少女は身を屈めた。そして肉感に乏しい細い腕を美香へと伸ばす。
布地で出来た赤子ほどの小ささの手が、美香の指を握った。
「美香、ようこそ、私たちのオルゴールの館へ」
告げてもいないのに自分の名を呼ぶ人形を、美香はそれも有り得るのかもしれないと思った。
なにせ、人形がこうして人間のように動いて喋っているくらいなのだから。
「夏樹って言ったっけ? これ、俺、無理!」
無理、という言葉にことさら力を篭めて五月が叫んだ。
五月は人の思考を侵食し、いわゆる洗脳する能力の保持者であるが、もう一つの能力として咆哮の如き大音量の叫びで物質にある程度の影響を与えることが出来る。たとえば、音波で障害物を破壊する、だとか。
それゆえに、火のまわりが薄いあたりの壁を壊して内部への突入を試みる、などということも考えていたのだ。
だが、壁面はゆらぎもしなかった。
「私も、ちょっと……」
一方の夏樹も、立ちはだかる炎の壁に立ち往生していた。
美香を飲み込んだ建物は、それきりで炎の渦を仕舞いこみ、それまで大口を開けていたエントランスに燃えさかる炎の壁を立てたのだったが、炎の性を持つ夏樹は元来炎に強い。火の中を歩くのはそよ風の中を歩むのにも似ていて、だから難なく美香の元へ辿り着く、はずだったのだ。
だが、今、夏樹の腕を彩る紅の妖虎の毛並みは毛先が焼け焦げ、露わになっている腕や膝にも薄らと火傷が窺える。
夏樹が火傷した肌を押さて呻いた。
「これ、本当に火なの……?」
夏樹の炎の性と同調しない火は、もはや火ではない。そんな感覚が言わせた言葉だった。夏樹の言葉に九郎が訝しげに顔をしかめた。
「触れたら熱い。火傷もする。だが、火じゃない……。どういうことなんだかサッパリだが。なんにしても全身火傷を覚悟で強行突破、と行くか? ――消防車なんかに消せるわけもない」
九郎がそう言ったのには理由があった。
どこからか近付いてくる消防車の鐘とサイレンの音が聞こえてきたのだ。
「あ、俺、ここに来たときあのおねえちゃんを見たんだけど、なんか電話してた、っぽかった」
「……ということはあの人が呼んだかもしれないということか。まあ、当然だよな。延焼するようならあの辺りの野次馬連中と周りの住人を避難させられるからそっちで頑張ってもらいたいが。この火を消そうとして動かれると、このあと犠牲者が」
「わんさと出るかもしれないし、ついでに俺らが面倒なことに巻き込まれるかもしれないってことだよなー」
五月の言葉に頷いた九郎が、皆の意向を問うように二人を見回す。
「……どうする?」
五月と夏樹が顔を見合わせ頷いた。
「乗りかかった船なんで」
「強行突破、でしょ」
<序章 了>
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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6855/深沢・美香/女性/20歳/ソープ嬢
7578/五月・蠅 /女性/21歳/(自称)自由人・フリーター
2895/神木・九郎/男性/17歳/高校生兼何でも屋
8114/瀬名・夏樹/女性/17歳/高校生
(※以上受注順)
NPC1381/黒瀬・アルフュス・眞人/男性/32/代行者
NPC/クリュティエ/女性/???/オルゴール人形
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■ ライター通信 ■
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たいへんお待たせしました。<序章>でございます。
夏樹さんはきっと世話女房気質なんだと思います…思いました。
そして普段は快活でお祭り系ツッコミ体質でも裏では違う顔を見せる人なのだろうと、設定を見ながら考えていた工藤であります。
今後火焔を背負う虎女として舞われるのではないかな、と思いますが、それ以前に次章にご参加頂けるかどうか、ですね…。よろしければ次回もご参加くださいませ。
今回はご参加くださいましてありがとうございました!
★もし引き続き<第一章>にご参加くださる場合は、<序章>で頂いたプレイング内容も反映させていただこうと思っていますが、館内探索+あと二人ほどのオルゴール人形に接触することになると思いますので、何をしたいかを補足としてお書きください。オルゴール人形に対してどういう態度を取るかがポイントになります。が、まだ彼らが出て来ていませんので、「おまかせ」でもけっこうです。
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