■First Winter■
雨音響希 |
【6408】【月代・慎】【退魔師・タレント】 |
白い息を吐きながら、彼女は冷たい木のベンチに腰を下ろしていた。曇り空の下、吹いた風に身を縮め、マフラーに顔を埋める。
短いスカートのポケットから手探りでストラップを見つけ、携帯を取り出す。指先まで伸ばしていたセーターが鬱陶しかったが、手袋を忘れてきてしまった自分の敗因だ。
シルバーの二つ折り携帯電話を開き、右隅に表示された時刻を確かめると、彼女は深い溜息をついた。
学校でも評判の“王子様”と付き合い始めて2ヶ月、見掛け倒しの彼に飽き飽きしていた。
浮気はする、時間は守らない、約束も守らない‥‥‥
彼女の誕生日すらも忘れ、祝ってくれなかった彼は、後日友人に聞いてみたところ他の女の子と遊んでいたらしい。
2人でいる時は、甘い言葉を囁いてくれる彼。最初のうちはそれだけで良かった。浮気をしていようが、約束を破られようが、何時間も外で待たされていようが、あの人の彼女は私だけなんだと思うだけで幸せな気分になれた。浮気を怒って、もうしないと反省する彼の横顔を見るたびに、許してあげようという気になれた。
でも、もう限界―――――
唇を噛み締める。約束の時刻はとっくに過ぎており、それでも針は止まることなく進み続けている。
あぁ、どうしてあの時彼の思いを受け入れなかったんだろう。
後悔が胸を圧迫し、視界が揺れる。潤んだ瞳を急いで拭い、マスカラをつけていたことを思い出し、はっと顔を上げる。
傍らに置いたバッグから急いで鏡を探し、顔を確かめる。‥‥そこには今にも泣きそうな彼女が情けない顔でこちらを見返しているだけで、化粧は少しも崩れていなかった。
安堵したのも束の間、鏡の中の濃い化粧をした自分に嫌気が差す。
元々綺麗な顔立ちだった彼女は、幼い頃から初対面の人からの受けは良かった。華やかで明るく可愛らしい彼女は、男女を問わず人を魅了する力を持っていた。
けれど人を惹きつけられるのは外見だけで、彼女はいたって大人しく控えめな性格をしていた。
見た目だけと言われるようになったのは、中学の時から。学校で一番カッコ良いテニス部の先輩と付き合い始めて1ヶ月、彼が友人とそう囁き合っているのを聞いてしまった。
彼とは些細な口喧嘩で別れてしまった。派手好きで華やかな彼の性格とは、元から合わなかったのだ。
最後の彼の捨て台詞は、今も耳にこびりついている。『暗くて、つまらない―――』
だからこそ、高校に入って変ろうとした。髪も明るく染め、お化粧だって覚えた。ファッション雑誌を大量に買い込み勉強して、話題になるからとテレビにかじりついた。流行の服に人気のアイドル、話題の映画に美味しいお菓子。常に何人もの友達といれば、安心できた。
彼女や彼達との会話は、いつだって華やかなだけだった。友達と言いつつ中身は空っぽで、友情なんてものは欠片もなかった。それでも私は彼女や彼らと仲良くし、そのせいで暗くてつまらない私でも受け入れてくれた中学の頃の友達はことごとく去っていった。
寂しいと思う心は押し込めて、笑う。ただただ、馬鹿げた騒ぎに乗る。明るくしていれば自然と人は集まって、華やかに装っていれば決して離れては行かないから。孤独が何よりも怖かったから。
‥‥‥あの日―――私が2人の違ったタイプの男の子から告白された日―――私は本当の孤独から目を逸らし、目先の仲間を選んだ。
幼馴染の男の子を傷付け、王子様を選んだ。だから、きっとこれは‥‥‥罰なんだ‥‥‥
小学校の時から同じクラスで学び、家も近い事もあって家族ぐるみで付き合いのあったあの人。真っ直ぐで純粋で、決して飾らない人だった。私は彼に惹かれていた。けれど彼は、あまりにも地味な人だった。私の仲間とは相容れないタイプの、真面目で正義感溢れる熱い人だった。
私は、あの人の思いを拒んだばかりか、仲間から白い目で見られたくなくて、酷い言葉を言った。中学の時に付き合っていた彼が言った捨て台詞を、そのまま言ってしまった。
後悔した時にはもう遅かった。仲間の馬鹿笑いと、傷ついた顔で去って行くあの人。
今でもその背中が脳裏に焼きついている。
あの人を見た、最後の姿が―――
―――あの日からあの人は消えてしまった。家にも戻らなく、捜索願が出された。彼の足取りは、あの時からプツリと途絶えたままだ。
死んでいるかも知れないなんて、一秒だって考えたくなかった。だって、まだ謝ってもいないから‥‥‥
手の中で振動した携帯に、彼女はビクリと肩を震わせると反射的に通話ボタンを押した。冷えた機体を耳に押し付け、もしもし?と明るい声で話しかける。
「千里、あんた今どこにいるの!?」
「麻奈ちゃん、そんな怖い声でどうしたの?私は今、駿君とのデートの待ち合わせで‥‥」
「その駿が大変なんだよ!車に轢かれて、今病院に―――――」
スルリと、手から電話が滑り落ちる。アスファルトで跳ねた機体には構わず、頭を抱えた。
―――そう、あの日以来、私の周囲ではおかしな事が起こる。
私がダメだと思った人は皆、事故や病気になって病院に運ばれ、全員未だに意識が戻らないんだ―――
興信所の薄い扉を開けて散らかった中に滑り込むと、ソファーに座って煙草をふかしていた草間 武彦がヒラリと手を振った。低いテーブルの前には依頼書や報告書、伝票などが乱雑に積み重なっており、その傍には煙草の灰が点々と落ちている。
「丁度良いところに来てくれた。実はたった今依頼が入ってな」
彼はそう言うと、綺麗な少女の写真が片隅に挟まった書類を無造作に投げてよこした。
「名前は美影 千里(みかげ・ちさと)いたって平凡な都立高校生だ。で、次のが大貫 正也(おおぬき・まさや)こっちも千里と同じ高校で、2人は家族ぐるみの付き合いがあったそうだ」
大人しい好青年といった顔立ちの少年は、コレと言って特徴はなかった。どこにでもいる、普通の男子高校生だ。
「その他は今回の事件の被害者達。総勢8人、なかなか多いだろ?」
金髪の美少年に、赤毛の少女、綺麗な顔立ちをした青い瞳の少女―――カラーコンタクトだろう―――に、屈強な体躯の少年。みなバラバラな容姿をしているが、退廃的で享楽的な雰囲気は似た物を持っている。
「俺も詳しいことは分からないんだが、どうやらコトの原因は大貫正也にあるらしい。魔が彼を操っているのか、もしくは魔に心を喰われて狩人になっちまったか―――。操られているだけなら魔を倒せば事足りるが、狩人になっている場合は彼を倒すしかない」
確率は五分五分。もし後者の場合、後味の悪い事件になりそうだ。
「まずは正也を見つける事が先決だ。で、今回一緒に事件を担当するやつなんだが‥‥」
武彦は苦々しい表情で頭を掻くと、手強いぞとポツリと言葉を零した。
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First Winter
相変わらず煙たい興信所内で、月代慎はケホコホとかわいらしい咳をしながら窓を開けた。身を切るような冷たい風に草間武彦が文句を口にするが、こんなに煙草臭い室内に高校生のお姉さんを招くことはできない。
「学校帰りに来るってことは、制服で来るってことなんだから、ちゃんと考えてあげなきゃダメだよ!」
「でもあいつは……」
「そうですよお兄さん、慎さんの言うとおりです」
零と慎のダブルサウンドに、喉もとまで出かかっていた言葉を無理矢理飲み込む。何を言ったところで、二人は耳を貸さないだろう。
「月代は夜神と会ったことはないよな」
うん。と、屈託なく頷く。零が作ってくれたホットココアをひとなめしてから、首を傾げる。
「どんな人なの?」
手強いぞという呟きは聞いたが、それ以上の情報はなかった。
「夜神魔月、私立のお嬢様学校の高校二年生。夜神家23代目当主……候補だ。実際には夜神以外に当主候補はいないし、今の当主はご高齢で実際の実権はほとんど夜神が握っているようなものだし、当主と言って良いはずなんだが……」
魔月は頑なに“当主候補”と主張するらしい。どちらでも変わらないのにな。そんな武彦の独り言に曖昧に頷きはしたが、魔月がわざわざ“候補”とつける気持ちがなんとなく分かる気がした。
長い歴史を持つ一族であればあるほど、当主と当主候補の壁は高い。それこそ、相当な覚悟がなければ名乗ることは許されないのだろう。
「そう言えば、月代も退魔師だったよな。夜神はその世界じゃ有名らしいが、聞いたことはあるか?」
「名前くらいなら……」
通常とは違う魔を専門に扱っている家系と聞いたことがある。昼神家と夜神家の二家でやっと一人前にしかならないと、他の退魔師からは陰口を叩かれていたのもボンヤリ知っている。
昼神は昼間のみ、夜神は夜のみしか退魔の力を使えないらしいが、もしかしたらそれが限界だからなのかもしれない。半日でなければ人間の身体に収まりきらないほどの力を必要とするのではないかと慎は考えていた。
「そうか。まぁ、夜神の性格を一言で言うとすれば、性格に難ありの傍若無人俺様何様魔月様といったところかな」
慎はあまりにも酷い武彦の言い草に、笑いそうになる口元をキュっと引き締めると、持ち前の演技力を生かして非難するような険しい顔を作った。
「武彦さん、そんな酷いこと言っちゃだめだよ」
本音半分、いつの間にか興信所内に入ってきて般若のような顔で武彦の後ろに立つ女性―――おそらく彼女が夜神魔月本人なのだろう―――の殺気に気づいての咄嗟の建前が半分。
「いや、それが実際、一番酷いのは夜神のせいか……」
「あたしの性格がなんだって、武彦?」
あぁ、人間ってこんなに素早く顔色が変わるんだ。
さぁっと言う擬態語がピッタリと来るほど素早く、武彦の顔色が青へと変わる。振り向かなくても分かる殺気にやっと気づいたのか、パクパクと無意味に口を動かす様は、絶望的な表情と相まってさながら臨終間近の鯉のようだった。
(水をあげなきゃ……)
あまりにも可愛そうな表情に同情の念がわき、持っていたココアを武彦の前におく。
「慎さん、見ちゃダメです」
零が笑顔で慎の目を両手で隠し、世界が真っ黒なヴェールに包まれる。姉が五人もいる慎は、女性を怒らせたらどれほど怖いかをよく知っていた。
(武彦さんは命知らずだなあ)
「武彦! そこになおれ! 貴様はあたしのことをどう思ってるんだ! ほらそこ、足を崩さない!」
ピシっと何かが床を打つ音がするが、それが何であるのかは考えないし知りたくもない。慎は静かに両耳を塞ぐと、魔月の怒りが納まるまで大人しく待つことにした。 女性を一度怒らせた場合、お怒りが納まるまでは口答えなどしてはいけない。大体、今回の場合は九割方武彦の自業自得だし。
「で、ここはいつからペットを飼うようになったんだ?」
おそらく時間にして十分ほど、般若魔月様のお怒りは納まったらしく、零が入れた紅茶を飲みながらソファーにふんぞり返っていた。涙目の武彦がイスに正座をしながらシュンとしているのは、この際意識的に視界から排除しておく。
「え? 武彦さんペットなんて飼ってたの?」
キョロキョロと周りを探してみるが、犬猫の類は見当たらない。もっと小さい、例えばハムスターやウサギなんかがこの雑多極まる興信所にいるとは考えられないし、かといって水槽も見当たらない。
もしかして、魔月は虫でも見つけて皮肉で“ペット”と形容したのではないかと足元を注視するが、よく考えれば今は冬だ。もし虫が生息しているとしても―――深く考えたくはないが、草間興信所には武彦と零以外の生命体が生活しているだろう。それほど汚い―――まだ越冬のための深い眠りについているだろう。万年金欠の草間興信所は、いつ来ても薄ら寒い。
ペットとは何かを考えながら顔をあげれば、魔月の銀色の瞳が真っ直ぐに慎を見つめていた。
「……もしかして、ペットって俺!?」
「なかなか賢いペットだ」
自身を指差し、冗談だよねと言いたげに首を傾げたが、アッサリと魔月は肯定した。それどころか、小型犬でも撫ぜるかのようにわしゃわしゃと慎の髪をかき乱す。
「チワワっぽいけど、手触りはヨーキーだな」
ヨーキー、すなわちヨークシャーテリアはチワワ同様に小型の愛玩犬で、絹のような手触りが特徴的だ。 つまり、魔月は慎の髪が絹のようだと褒めてくれたのだ、多分。
「ポチ、お手」
「だから、犬じゃないってば〜!」
そう言いつつ無意識に出された手に手を乗せてしまうのは、末っ子の悲しい性……と言うよりは、無理なこと以外は適当に受け入れて流してしまったほうが楽だと知っているからだ。
「ポチ、名前は?」
「月代慎」
「月代……」
魔月の銀の瞳が鋭く光ったように感じ、慎は身を強張らせた。いくら表の宗家とは違い、存在自体を知られていないと言えど、存在している限り誰かしら知っている人がおり、何かの弾みで噂が漏れ出さないとも限らない。
「……じゃあ、ジョンってところかな」
「何で!?」
ポンと頭に手を置かれ、慎はソファーからずり落ちそうになった。
「ポチよりはジョンって感じだからだ。不満なら、ションにしてやっても良い」
「ヤだよ!」
じゃあジョンで決定だな。そう言ってケラケラ笑う魔月に深い疲労感を感じながら、慎は胸元に下がった十字架を弄ると誰にも聞こえないくらい小さく溜息をついた。
「ところで武彦、今回の依頼について助っ人を用意したと聞いたけど、そいつはどこにいるんだ?」
武彦が慎を指差す。魔月の銀の瞳が慎を見て、すぐに遠くを見る目つきに変わる。慎の右を見て、左を見て、上を見て下を見て、最後にもう一度慎を見た後で武彦に向き直った。
「悪いが幽霊はパートナーにしない主義なんだ」
「どうして月代がパートナーだという考えにはならないんだ」
ゲッソリと言う言葉がピッタリな顔で武彦が胸ポケットから煙草を取り出し、すかさず零に取り上げられる。
「武彦、貴様は馬鹿か? 子供がなんの役に立つんだ」
口調と共に、雰囲気もガラリと変わる。全身から発せられるオーラは強く、自然と慎の表情も引き締まる。
「月代はただの子供じゃない。この事件を解決できる能力がある人物だと判断した」
「……つまり、貴様はこの子供が今回の件であたしの足を引っ張らないだけの能力があると踏んでいるんだな」
「そうだ」
睨みあう両者の間で、慎は今後の立ち振る舞いについて考えていた。
退魔師でそれなりに歴史のある家系の当主候補としての魔月の考えは、十分に理解できた。魔という普通の範疇から逸脱した存在と日々戦う者にとって、少しの判断ミスは直接死に繋がる危険がある。ゆえに考え方や行動には石橋を叩いて渡るくらいの慎重さが必要になる。
慎は瞳に宿る芯の強さと思慮深さ以外は歳相応の見た目をしており、低い身長とも相まって誰が見ても小学生くらいだと推定するだろう。事実11歳なのだから、間違っていない。魔月が不安を露にするのには、十分すぎるほど納得していた。
けれど、慎は退魔師であり、その件に関してはプロだ。いくら討伐対象の魔が違うと言っても、魔を討伐する過程まで違うとは思わない。
「確かに俺は子供だし、お姉さんが頼りないって思うのは分かるんだ。でも……俺、正也さんを助けたい」
真っ直ぐに魔月の銀の瞳を見上げ、口元を引き締める。鋭い視線が突き刺さるが、ここで負けてしまえば魔月は絶対に慎を認めてくれないだろう。じっと見つめあう時間が過ぎ、最初に口を開いたのは魔月だった。
「あんたは、正也を助けたいと思っているのか? 千里ではなく?」
「もちろん、千里さんも助けたいと思ってるよ。でも、千里さんを本当に助けるためには正也さんも助けなくちゃダメなんだ。だって、そうじゃなかったら千里さんはこれから先ずっと前に進めなくなっちゃうから」
先ほどまで険しい顔で慎を見ていた魔月が、姿勢を正す。慎がただ足手まといになるだけの子供ではないと悟ったのか、その顔は凛とした仕事人の顔になっていた。
「きっと、正也さんは千里さんのことが本当に大切だったんだ。だってそうじゃなかったら、正也さんを振った千里さんが被害者になってないのはおかしいよ。千里さんがダメだと思った人が被害者になってるってことは、正也さんは今でも千里さんを大切に思ってるんだよ」
「それならどうする? 正也も千里も助けるために、次にやるべきことはなんだ?」
不敵に口角を吊り上げ、挑戦するように微笑むが、目だけは少しも笑っていない。
(俺の力を試してるんだ……)
奥歯をキュっと噛み締め、武彦から教わった魔の知識を総動員して解決策を模索する。
「正也さんが魔狩人になる前に見つけなくちゃならないから、時間との勝負になると思うんだ。お姉さんは、正也さんを探すのになにか考えってある? 例えば夜神家特有の能力があるとか……」
「夜神の能力で近くにいる魔を感知することはできるんだけど、それが正也に憑いている魔かどうかは特定できない」
「……そんなにこの近くにいる魔って多いの?」
「魔は常にどこかで生まれ、漂っているものだ。全ての魔を倒すことは、この世に存在する砂を一粒残らず集めることと同じくらい無理な話だ。そしてどんなに些細な魔でも、人の心に憑くことは可能だ。まあ、時間はかかるかもしれないが、力のある魔から虱潰しにあたるしかないだろうな」
「それじゃあお姉さんが魔を探している間、俺は千里さんに会いに行こうかな」
「千里の電話番号なら分かるから、明日にでも会えるように連絡しておこう」
武彦がそう言って席を立ち、乱雑なデスクの上から携帯を探し当てると事務所から出て行く。外でボソボソと喋っている声が聞こえてくるが、具体的になんと言っているのかはわからない。
「今回の魔に関しては、お姉さんよりも全然知識も経験もないのは分かってるんだ。俺の力じゃ倒せないってことも、ちゃんと分かってるよ」
中途半端に手を出すよりも、魔月に任せたほうが良い分野があるということは、慎もきちんと理解していた。例えば戦闘になった場合、魔月でなければ魔を倒せないのだろう。
「でも、どうしても……千里さんも、正也さんも助けたいんだ。俺の力で少しでも助かる道ができるなら、協力したいと思ってる」
「……もし、正也を救うことができなかったら? タイムオーバーで正也が魔狩人になっていたら、どうする?」
唇を噛み、暫し目を瞑る。考えたくはない事態だったけれども、最悪の場合を想定しておくのは退魔師としては当然のことだった。何事も、上手くいくことばかりではないことは、慎も分かっていた。それどころか、人生は上手くいかないことのほうが多いということも理解していたし、上手くいかないからこそ面白いと思えるほど達観した考えも持っている。
魔月がどのような人生を歩いてきたのかは分からないが、楽な道ばかりを歩いてきたのではないことは容易に想像ができる。それは慎だって同じだ。
「倒す……それ以外に道はない、そうでしょう?」
ふわり。突然微笑まれ、慎は目を大きく見開いて固まった。こんな表情もできるんだと感心したのが半分、黙っていれば綺麗な顔をしているだけに、これだけ穏やかに微笑まれて魅入ってしまったのが半分だ。
「子供だって侮って悪かったな。確かにあんたはこの道に関してはプロだ。一目置いてやっても良い」
置いてやっても良いと来た。流石は傍若無人俺様何様魔月様だ。
「月代、明日の放課後ってことで話をつけておいたぞ」
そう言って武彦が外から戻ってくると、両手を擦り合わせながら身を縮める。すかさず零が淹れたてのコーヒーを出し、コップをカイロ代わりにして冷え切った指先を温める。
「分かった。ありがとう」
「それにしても武彦、こんな賢いペットをどこで見つけてきたんだ?」
ワシャワシャと慎の頭を撫ぜながら、魔月が首を傾げる。どうやら魔月の中のカテゴリーでは、慎はペットの域から脱出できていないらしい。
校門の前で千里が出てくるのを待ちながら、慎はずり落ちてくるサングラスと格闘していた。
このサングラスはここに来る前、千里の写真を取りに行った興信所で武彦に渡されたものだ。年代を感じる古いサングラスはやけに大きく、小顔の慎がつけると不恰好で目立った。そもそも、タレントとしての顔もある慎を気遣っての優しさなのだろうが、前を通り過ぎる生徒達の視線は痛い。
自宅から自分のサングラスを持って来れば良かったと後悔し始めた時、慎の前にふっと影がさした。
「えっと……月代慎……君?」
躊躇いがちにかけられた声に、サングラス越しに上目遣いで見上げて微笑む。 写真で見るよりも大分綺麗な千里は、写真写りがあまり良くないタイプなのだろう。
「初めまして。草間興信所から来ました」
ペコリと丁寧に頭を下げ、サングラスを取ってにっこりと微笑む。 魔月のような一癖ある人物は別だが、ほとんどの女性はこの丁寧な挨拶と無邪気な笑顔で大抵のことは許してしまう。千里も後者の人間だったらしく、表情が綻んだ。
「草間さんから聞いてるよ。とりあえず、喫茶店にでも入ろっか」
「うん!」
無邪気に笑う。この方がやりやすいと判断したのももちろんだが、八割方はおやつの時間を目指して着々とすいてきていたお腹に何か甘いものを入れたいという、純粋な喜びからだった。
学校から程近い喫茶店は小さいながらもお洒落で、元はケーキ屋さんだったと千里が解説をいれる。確かに、入ってすぐのところにある大きなショーケースはケーキ屋で見るそれと同じであり、中のケーキも充実していた。
「慎君はどれが良い?」
「うーん……どれにしようかなあ」
キラキラを目を輝かせながら、色とりどりのケーキを眺める。チーズケーキに、イチゴのショートケーキ、チョコレートケーキにリンゴのタルト。暫く考えた後で、イチゴのショートケーキを指差す。千里も同じ物を頼み、二人は一番奥の席に腰を下ろすと運ばれてきたケーキに舌鼓を打った。
舌触りの良いクリームは甘すぎず、しっとりとしたスポンジは口の中で溶けてしまうほどふわふわだった。イチゴも酸っぱさがなく、一緒に頼んだココアも程好い甘さで美味しかった。
半ば忘れかけていた目的を思い出したのは、美味しいケーキを食べ終えて満足した後だった。
「千里さんは、正也さんのことが大切?」
唐突な質問に戸惑ったように、千里の大きな目が見開かれると視線が宙を漂う。ふっと遠い目をした後で、手元のココアに落とされる。千里も甘いものが大好きらしく、飲み物とは慎と同じココアだった。
「もし、私が“私のことがダメだ”って思ったら、正也君は私のところに来るのかな」
「こないよ。正也さんは、千里お姉さんを傷つけるようなことはしないよ。だって、正也さんは千里お姉さんのことが大好きだから」
「でもね、私……私、本当に酷いことを言ったの。もし慎君が好きな子に酷いことを言われても、その子を好きでいられる?」
考える。もし自分に好きな人がいて―――それこそ、命をかけても良いくらい好きな人がいたとして―――その人に、酷い言葉を言われたら? きっと、凄く落ち込むだろう。悲しくて辛くて、涙を流すかもしれない。暫くその人の顔を見られないかもしれない。
「……分からない」
結局、慎の中で答えは出なかった。それほど好きになった人がいないから、上手く想像ができなかった。
「俺は分からないけど、正也さんは本当に、本当に千里お姉さんのことが好きなんだよ。きっと、今もずっと好きなんだよ」
千里の目から大粒の涙がこぼれる。慎は慌てて立ち上がると、千里の隣に立って頭を撫ぜた。
「泣かないで〜! 俺まで悲しくなっちゃう……」
ポケットからハンカチを取り出し、頬を伝う涙を拭く。千里の涙が納まるまでの間、慎はずっと隣に立って頭を撫ぜていた。
メニューにはなかったものの、お店側に無理を言ってホットミルクを作ってもらった。真っ赤な目を擦る千里の前に置くと、慎重に言葉を選びながら問いかけた。
「千里お姉さんは、最近苦手に思う人っている?」
「一人だけ……」
その人の名前は? その問いに、千里はなかなか言おうとしなかった。随分迷った後で、慎の耳元に口を寄せるとそっとその名を囁いた。
千里からもらったプリクラを頼りに、町を捜し歩く。常世姫と永世姫にも捜してもらっているが、まだ発見の一方は入っていない。
万が一正也と鉢合わせした時のために、草間興信所に連絡を入れておいた。千里が苦手だと言っていた“間宮浩二”の名前と、外見の特徴を教えておく。武彦はすぐに魔月に連絡を入れると言っていた。
小さなプリクラに視線を落とす。上半身しか写っていないため、顔の特徴以外は千里から聞き出していた。間宮浩二の身長は180cmほど、筋肉質で大柄。日本人男性の平均身長よりも10cm近く高いため、見つけやすい。
金髪の髪に、耳にはたくさんのピアス、目は青い色をしていた。地の色でないことだけは確かなのだが、カラーリングにカラーコンタクトをしているのかどうかは分からなかった。最近のプリクラでは、髪や目の色を変えることが出来る。そう思うと、プリクラを頼りに人を捜すことは年々難しくなってきている。
ふっとすれ違った顔に見覚えがあり、慎は足を止めた。プリクラをしまい、代わりに武彦から預かっていた写真を取り出す。黒髪の青年は、穏やかそうという以外にはこれと言って特徴のない顔をしていた。
「……正也さん!」
声をかけるつもりはなかったし、声をかけるべきではないということも分かっていた。それなのに呼びかけてしまったのは、なぜなのか慎にも分からなかった。
通り過ぎようとしていた正也が立ち止まり、振り返る。慎に向けられているにもかかわらず、その目はどこか遠くを見ていた。
「君は誰? どうして俺の名前を知っている?」
「ち、千里さんに……捜してもらうように、頼まれて……」
ふぅん。興味なさそうに呟く顔は、口角が不自然なほど吊りあがっていた。口元だけの笑いは、遊園地のピエロにも似ていた。
「名前は?」
「月代慎……」
「慎君、ね……」
いつの間にか、周囲に人はいなかった。 慎の窮地を知ってか、常世姫と永世姫が戻ってくる。二人がひらひらと舞うたびに、金銀の鱗粉が風に乗って揺れる。慎は目の前にいる正也が、魔憑人なのか狩人なのか分からなかった。
「……もし、君が無残な形で死んだら……千里ちゃんは悲しむかな」
冷や汗が背中に流れる。霊力の解放も脳裏を掠めたが、もし正也が魔憑き人であった場合、憑いている魔だけを倒せるかどうかは分からない。最悪、正也の器を壊してしまうかもしれない。
「ねえ、君はどうやったらもっともっと千里ちゃんを苦しませることが出来ると思う? 未来永劫、ずっと苦しむんだ……永久に、変えられない過去に苛まれ……千里の心は壊れる」
ケタケタと、耳につく笑い声が響く。今なら突き飛ばして逃げることも出来る。でも、その後逃げ切れる自信はなかった。もし捕まってしまえば、慎が退魔の力によって正也を殺してしまうだろう。
(どうしよう……どうしよう……)
答えの出ない問いを繰り返す。正也の手が慎の喉元に迫り―――ふわりと、風に乗って甘い良い香りがした。
「激撮、路地裏の恐怖。いたいけな美少年を襲う怪しい影……なんてタイトルがつきそうだな」
高い位置でポニーテールに纏められた漆黒の髪が、風に揺れる。整った顔立ちの中で、口元だけが楽しげに歪められていた。
「ポチ公、ちゃんとマテしとかないと危ないだろ?」
「……ポチ公って、俺のこと!? ジョンじゃなかったの!?」
「なんだ、ジョンがお気に入りだったのか」
ならジョンにしてやろう。そんな俺様なセリフに、慎はガクリと肩を落とした。こちらの要望を聞いてくれるのであれば、本名で呼んでほしい。
「夜神……魔月」
「低級魔の分際で呼び捨てるな。様をつけやがれ」
魔月が手を前に突き出せば、地面から巨大な対の刀が現れた。それは真っ直ぐに魔月の手の中に納まる、バチバチと青い光を放電した。
正也の注意が魔月に移ったのを確認してから走り出す。常世姫と永世姫も遅れずに慎についてくると、魔月の背後に回った。
「お姉さん、正也さんは……」
「まだ魔憑きだ。でも、もう少しで狩人になるだろうな」
「そんなことも分かるの?」
「んー、予想だとあと三分ってとこかな。魔がすぐ後ろに見えてる」
目を細めながら正也の背後を見ていた魔月が「好都合だな」と低く呟くと、左手に持っていた刀を慎に渡した。
「 ? なんで……」
「自分の身は自分で守れ、少年」
タンと高く跳躍する魔月を目で追う。すでに日は没し、白月が空に浮かんでいた。
「よそ見すると危ないぞ少年」
ふっと目前に迫った影に、咄嗟に魔月から受け取った刀を構える。鈍い衝撃に尻餅をつき、目を開ければサバイバルナイフを持った正也の姿があった。 目は虚ろで、だらしなく開いた口からは透明な液体があごを伝って地面に落ちている。その顔には、写真で見た正也の面影はなかった。
「決定的瞬間、路地裏恐怖映像〜いたいけな美少年を襲う悪夢〜ってとこかな。その画、第三者から見れば犯罪だぜ?」
からかうような声と共に、正也の胸から雷を帯びた刀の切っ先が突き出る。 正也が倒れ掛かってくる前に身を引いた慎は、急いで立ち上がると魔月に非難の目を向けた。
「何で……何で殺したの!」
正也の背中から抜き取った刀を手に、魔月が一気に間合いを詰める。避けることも反撃することもできないまま、慎の腹部に刀が突き刺さる。体の中を冷たい刃が通り抜ける感覚はすれども、痛みは一切なかった。
「……と、言うわけで、この刀は魔関係のモノしか斬れない」
お腹から生えている刀を見おろす。自身の腹部に刀が刺さっている光景は見ていて楽しいものではなかったが、なかなか興味深いものではあった。
「……怒鳴ってごめんなさい」
「別に気にしてない。それより、刀を返せ」
突き刺さっていた刀を抜く。今ならちょっとだけ戦国武将の気持ちが分かる気がした。
「正也さんは、どうなるの?」
「憑いてた魔は滅したから、後は魔が憑いてた時の記憶があればこっちで色々手を打って、記憶がなければそのまま帰宅させる。こっから先はあたしたちの仕事じゃない」
地面に置き去りになっていたバッグの中から携帯電話を取り出し、魔月はどこかに電話をかけ始めた。
「大貫正也に憑いていた魔は滅しました。場所は―――」
うつぶせのまま倒れこむ正也を仰向けに返す。倒れた時に鼻を打ったのか赤くなっていたが、規則的な寝息は気持ち良さそうだった。
「心配しなくても、そのうち起きる」
「助けられたんだよね……良かった」
きっと、千里も喜んでくれるだろう。そして出来ることなら、仲直りをしてほしいと思う。せっかくこれだけ強く想い合っているのだから。
「ところでジョン、人間の名前はなんて言うんだ?」
「月代慎。あと、俺は元からにんげ……」
「そうか……あたしは他人の名前は覚えない主義なんだが、あんたの名前は覚えてやっても良い」
「う……あ、ありがとう……?」
正直、反応に困る。でも一応、慎はお礼を言っておいた。
「そろそろうちの者が正也を回収しに来る」
腕時計に目を落とした魔月が、クルリとこちらに背を向けて歩き出す。慎も慌てて立ち上がると、魔月のピンとした背中に声をかけた。
「お姉さんは、これからどうするの?」
「あたしは次の魔を退治しに行く。あんたは早く帰りな、ジョン」
後姿が見えなくなるまで見送ってから、慎は小さく溜息をついた。
結局最後まで、魔月が慎の名前を呼ぶことはなかった。
END
◇★◇★◇★ 登場人物 ★◇★◇★◇
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
6408 / 月代・慎 / 男性 / 11歳 / 退魔師・タレント
NPC / 夜神・魔月
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