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■First Winter■

雨音響希
【3689】【千影・ー】【Zodiac Beast】
 白い息を吐きながら、彼女は冷たい木のベンチに腰を下ろしていた。曇り空の下、吹いた風に身を縮め、マフラーに顔を埋める。
 短いスカートのポケットから手探りでストラップを見つけ、携帯を取り出す。指先まで伸ばしていたセーターが鬱陶しかったが、手袋を忘れてきてしまった自分の敗因だ。
 シルバーの二つ折り携帯電話を開き、右隅に表示された時刻を確かめると、彼女は深い溜息をついた。
 学校でも評判の“王子様”と付き合い始めて2ヶ月、見掛け倒しの彼に飽き飽きしていた。
 浮気はする、時間は守らない、約束も守らない‥‥‥
 彼女の誕生日すらも忘れ、祝ってくれなかった彼は、後日友人に聞いてみたところ他の女の子と遊んでいたらしい。
 2人でいる時は、甘い言葉を囁いてくれる彼。最初のうちはそれだけで良かった。浮気をしていようが、約束を破られようが、何時間も外で待たされていようが、あの人の彼女は私だけなんだと思うだけで幸せな気分になれた。浮気を怒って、もうしないと反省する彼の横顔を見るたびに、許してあげようという気になれた。
 でも、もう限界―――――
 唇を噛み締める。約束の時刻はとっくに過ぎており、それでも針は止まることなく進み続けている。
 あぁ、どうしてあの時彼の思いを受け入れなかったんだろう。
 後悔が胸を圧迫し、視界が揺れる。潤んだ瞳を急いで拭い、マスカラをつけていたことを思い出し、はっと顔を上げる。
 傍らに置いたバッグから急いで鏡を探し、顔を確かめる。‥‥そこには今にも泣きそうな彼女が情けない顔でこちらを見返しているだけで、化粧は少しも崩れていなかった。
 安堵したのも束の間、鏡の中の濃い化粧をした自分に嫌気が差す。
 元々綺麗な顔立ちだった彼女は、幼い頃から初対面の人からの受けは良かった。華やかで明るく可愛らしい彼女は、男女を問わず人を魅了する力を持っていた。
 けれど人を惹きつけられるのは外見だけで、彼女はいたって大人しく控えめな性格をしていた。
 見た目だけと言われるようになったのは、中学の時から。学校で一番カッコ良いテニス部の先輩と付き合い始めて1ヶ月、彼が友人とそう囁き合っているのを聞いてしまった。
 彼とは些細な口喧嘩で別れてしまった。派手好きで華やかな彼の性格とは、元から合わなかったのだ。
 最後の彼の捨て台詞は、今も耳にこびりついている。『暗くて、つまらない―――』
 だからこそ、高校に入って変ろうとした。髪も明るく染め、お化粧だって覚えた。ファッション雑誌を大量に買い込み勉強して、話題になるからとテレビにかじりついた。流行の服に人気のアイドル、話題の映画に美味しいお菓子。常に何人もの友達といれば、安心できた。
 彼女や彼達との会話は、いつだって華やかなだけだった。友達と言いつつ中身は空っぽで、友情なんてものは欠片もなかった。それでも私は彼女や彼らと仲良くし、そのせいで暗くてつまらない私でも受け入れてくれた中学の頃の友達はことごとく去っていった。
 寂しいと思う心は押し込めて、笑う。ただただ、馬鹿げた騒ぎに乗る。明るくしていれば自然と人は集まって、華やかに装っていれば決して離れては行かないから。孤独が何よりも怖かったから。
 ‥‥‥あの日―――私が2人の違ったタイプの男の子から告白された日―――私は本当の孤独から目を逸らし、目先の仲間を選んだ。
 幼馴染の男の子を傷付け、王子様を選んだ。だから、きっとこれは‥‥‥罰なんだ‥‥‥
 小学校の時から同じクラスで学び、家も近い事もあって家族ぐるみで付き合いのあったあの人。真っ直ぐで純粋で、決して飾らない人だった。私は彼に惹かれていた。けれど彼は、あまりにも地味な人だった。私の仲間とは相容れないタイプの、真面目で正義感溢れる熱い人だった。
 私は、あの人の思いを拒んだばかりか、仲間から白い目で見られたくなくて、酷い言葉を言った。中学の時に付き合っていた彼が言った捨て台詞を、そのまま言ってしまった。
 後悔した時にはもう遅かった。仲間の馬鹿笑いと、傷ついた顔で去って行くあの人。
 今でもその背中が脳裏に焼きついている。
 あの人を見た、最後の姿が―――
 ―――あの日からあの人は消えてしまった。家にも戻らなく、捜索願が出された。彼の足取りは、あの時からプツリと途絶えたままだ。
 死んでいるかも知れないなんて、一秒だって考えたくなかった。だって、まだ謝ってもいないから‥‥‥
 手の中で振動した携帯に、彼女はビクリと肩を震わせると反射的に通話ボタンを押した。冷えた機体を耳に押し付け、もしもし?と明るい声で話しかける。
「千里、あんた今どこにいるの!?」
「麻奈ちゃん、そんな怖い声でどうしたの?私は今、駿君とのデートの待ち合わせで‥‥」
「その駿が大変なんだよ!車に轢かれて、今病院に―――――」
 スルリと、手から電話が滑り落ちる。アスファルトで跳ねた機体には構わず、頭を抱えた。
 ―――そう、あの日以来、私の周囲ではおかしな事が起こる。
 私がダメだと思った人は皆、事故や病気になって病院に運ばれ、全員未だに意識が戻らないんだ―――



 興信所の薄い扉を開けて散らかった中に滑り込むと、ソファーに座って煙草をふかしていた草間 武彦がヒラリと手を振った。低いテーブルの前には依頼書や報告書、伝票などが乱雑に積み重なっており、その傍には煙草の灰が点々と落ちている。
「丁度良いところに来てくれた。実はたった今依頼が入ってな」
 彼はそう言うと、綺麗な少女の写真が片隅に挟まった書類を無造作に投げてよこした。
「名前は美影 千里(みかげ・ちさと)いたって平凡な都立高校生だ。で、次のが大貫 正也(おおぬき・まさや)こっちも千里と同じ高校で、2人は家族ぐるみの付き合いがあったそうだ」
 大人しい好青年といった顔立ちの少年は、コレと言って特徴はなかった。どこにでもいる、普通の男子高校生だ。
「その他は今回の事件の被害者達。総勢8人、なかなか多いだろ?」
 金髪の美少年に、赤毛の少女、綺麗な顔立ちをした青い瞳の少女―――カラーコンタクトだろう―――に、屈強な体躯の少年。みなバラバラな容姿をしているが、退廃的で享楽的な雰囲気は似た物を持っている。
「俺も詳しいことは分からないんだが、どうやらコトの原因は大貫正也にあるらしい。魔が彼を操っているのか、もしくは魔に心を喰われて狩人になっちまったか―――。操られているだけなら魔を倒せば事足りるが、狩人になっている場合は彼を倒すしかない」
 確率は五分五分。もし後者の場合、後味の悪い事件になりそうだ。
「まずは正也を見つける事が先決だ。で、今回一緒に事件を担当するやつなんだが‥‥」
 武彦は苦々しい表情で頭を掻くと、手強いぞとポツリと言葉を零した。
First Winter


 その夜、千影は妖の領域である異界を散歩していた。
 首からぶら下がった携帯電話を胸元で跳ねさせながら、スカートのレースを靡かせる。髪に絡まったグリーンのリボンがヒラヒラと揺れ、ふっと千影の鼻先を美味しそうなにおいいが通り過ぎた。
 炭のにおいの中、食欲をそそるような香ばしいにおいが漂っている。ピタと足を止め、すんすんと鼻を動かす。目を閉じ、においに全神経を集中させる。―――間違いない、コレは千影の大好物のにおいだった。
 どこからにおって来ているのか、誰が焼いているのか。千影の興味が異界からにおいへと移ったとき、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「チカ、シシャモ焼けてるぞ」
 遠くまで響くような凛と澄んだ声に、千影の目が輝く。
「武彦ちゃんだっ!」
 武彦がシシャモを焼いていて、そして千影の名前を呼んだということは、つまり焼いているシシャモは千影のものということだろう。
 異界への興味が一気になくなり、すぐさま元の世界へと舞い戻る。境界線をスキップで飛び越え、今日も宝石を撒き散らしたように光り輝く東京の上空へと現れると真っ直ぐに草間興信所を目指した。
 服についた鈴をチリンと鳴らしながら、シシャモの香ばしい匂いを胸いっぱいに吸い込む。丁度良い焼き加減になっていることだろう。思わず口の中に唾液がたまる。
「シシャモだ〜♪」
 トンと軽く屋上に降り立ち、期待を込めた眼差しで武彦を見上げる。武彦はすぐさま紙皿にシシャモを移すと、持っていたミニ団扇でパタパタと扇いだ。
 千影は猫舌だった。普段は翼の生えた黒い子猫の姿でいることからも、千影が猫舌だということは周知の事実だが、如何せん大好物のシシャモを前にすると、自身の舌事情など忘れてしまう。つい先日も武彦が「熱いからよく冷ましてから食べるんだぞ」と言っていたのに、我慢しきれずにパクリと食べ、口の中を火傷した。
 当然主は怒っていたが、その怒りの矛先は武彦にも向いた。主曰く、千影は子供なのだから、冷ましてから食べさせるという程度の配慮のなかった武彦のせいでもあるとのことだった。若干八つ当たり気味ではあるが、武彦だって千影が無類のシシャモ好きであり、また、外見年齢以上に精神年齢が幼い事は知っていた。つまり、飼い主からそう言われてしまえば「すまん」と言わざるを得ないわけで、彼は「次回から気をつける」と約束したのだった。
 早く食べたい気持ちで羽をパタパタさせるが、武彦は念入りに冷ましていた。また火傷をさせて、飼い主から怒られるのは御免だった。
「この間の事件の礼だ」
「武彦ちゃん、忘れてなかったんだね」
 おそらくもう温い程度になっているであろうシシャモを受け取り、小さく「いただきます」と両手を合わせてから食べる。外はそうでもないけれど、中はやはり少しだけ熱い。もっとも、火傷をするほどではないため、ハフハフと口の中で冷ましながら食べる。
 カペリンでは満足できない千影も、シシャモなら大満足だった。それにこのシシャモはかなり高いものだろう。味や食感が安物のシシャモとは全然違う。
「ところで……こっちにまだあるんだが……」
「たべるっ!」
 桐箱に目が輝く。あれはデパートの高級品だろう。武彦はかなり奮発してくれていたらしい。
 ピっと手を上げて元気よく言うが、武彦は直ぐには焼いてくれなかった。薄い色の入ったサングラスを持ち上げ、煙草を口の端に挟みながらシニカルに笑う。
「手伝って欲しい事があるんだ。……もちろん、チカ好みの面白い話だ」
 “面白い話”その言葉に、千影はシシャモを出された時かそれ以上に目を輝かせた。にっこりと微笑み、大きな目を細める。
「どんなはなし〜?」
 シシャモを食べる手は休めずに、耳だけは武彦の話に集中する。
 武彦は千影の興味が十分向いたことを見てから、桐箱からシシャモを取り出すと、七輪の上に乗せた。


 ごちそうさまでした。と、お行儀良く両手を合わせて紙皿を武彦に返した千影は、先ほどの話を脳内で反芻すると、人差し指をあごに当て、目だけを上に向けて「んー」と小さく呟いた。
「うんと、聖陽ちゃんのオトモダチの魔月ちゃん! …違う? 武彦ちゃんのオトモダチ?」
 友達の友達は友達と言う、友達百人どころか全人類が友達になれそうな謎持論を持っている千影は、春の出来事を思い出すとポンと手を叩いた。
「魔月ちゃんって、黒髪のポニーテールの魔月ちゃん?」
「あぁ。……一度会ってるはずだよな?」
「うん! チカのオトモダチだよ♪」
 友達の友達は友達で、さらに一度会って話した事がある。だから結局、魔月はオトモダチ。―――またしてもそんな謎持論を繰り広げ、千影は“オトモダチが困っているなら助けなきゃ”と言う思考を展開しだした。
 武彦としては大いにツッコミを入れたいところではあったが、やる気を出してくれているのだからわざわざ削ぐこともないだろう。第一、武彦がどれほど根気良く理論的に話をしたとしても、千影の独自解釈で超展開を繰り広げる可能性が高い。
「武彦ちゃん、千里ちゃんの写真はある?」
「あぁ、コレだ」
 差し出された写真を、大きなグリーンの瞳でジッと見つめる。
 写真の中の女の子は、確かに綺麗だった。ニンゲンの感覚で言うなら、美少女という枠内に入るほどの外見をしていた。でも、千影の目から見ればソレだけ。ただ綺麗なだけなら、お人形と変わらない。聖陽のように、身体の内側からキラキラのオーラを出していなければ、ニンゲンとして綺麗とは言えない。
「それじゃあチカ、行って来るね」
 千里の顔を頭の中にインプットして、千影は写真を返すと夜の街に飛びた―――とうとして、武彦に腕を掴まれた。
「ちょっと待て、どこに行くんだ!?」
「千里ちゃんのところだよ。だって、千里ちゃんがダメって思った人のところに正也ちゃんは来るんでしょ? 探すよりも手っ取り早いよ」
「魔月は待たないのか?」
「……武彦ちゃん、魔月ちゃんのことそんな“かしょうひょうか”したら可哀想だよ」
 “かしょうひょうか”すなわち“過小評価”は、最近覚えた言葉だった。新しい言葉を使うときは、いつだって少し大人になった気がして胸を張る。
「魔月ちゃんなら、ちゃんと“わかってる”からだいじょうぶだよ」
 にっこりと微笑んで、トンと屋上から降りる。背中の羽を羽ばたかせながら上空を滑空し、眩い夜の街に視線を向ける。
 薄暗い公園に、闇夜に輝くコンビニ、夜を否定するかのように輝くライブハウスのネオン。カーテンの引かれていない窓から零れ落ちるオレンジ色の光に、今だにお仕事が終わらず帰れないビルの明かり。等間隔に並んだ街灯の下、俯きながら歩く千里の姿を見つけ、千影は緩やかに下降すると路地裏に降り立った。
 頭のリボンを揺らしながら、ふわりと少女の姿から黒猫の姿に変わる。背中の羽を羽ばたかせ、高く跳躍すると塀の上に乗る。長い尻尾を靡かせながら走り、千里の隣まで来るとタイミングを見計らって飛びついた。
「きゃっ!?」
 突然の襲撃に驚いた千里がその場に尻餅をつき、持っていたバッグが地面に落ちる。バッグの口は開いており、中身がアスファルトの上に散乱する。携帯、お財布、メモ帳、定期入れにお化粧ポーチ……。千影はウサギのストラップのついた携帯をくわえると、タンと勢いをつけて塀の上に上った。
「やっ……待って猫ちゃん! 私の携帯……!」
 千里が慌てた声で言い、散乱した小物を無造作にバッグに詰め込むと千影の後を追って走り出す。薄暗い路地裏でいくつも角を曲がり、住宅街を抜けて人気の無い公園のある場所を目指す。千里に捕まらないような速度で、けれどこちらを見失わないよう気をつけながら走る。何度か後ろを振り返って確認したが、千里はめげることなくきちんとついてきていた。
 最後の角を急いで曲がり、黒猫から少女へと姿を変える。千里の携帯はポケットにしまい、初めからここにいたような様子でベンチに座る。
 疲れた様子の千里が公園に走りこんでくると、周囲を見渡す。暗がりに目を凝らそうと必死になっている彼女に、千影は穏やかな笑顔を浮かべながら近づくと、首を傾げた。
「こんばんわ。なんだか困ってるみたいだけど、どうかしたの? なにか探しもの?」
「えっと……あの、黒い猫が来ませんでしたか?」
 いくら千影の見た目が可愛らしい少女で、普通のニンゲンであればあまり警戒心を抱かないような外見をしているとは言え、今は夜だ。真夜中の公園でベンチに座っていた少女に、警戒心を抱かない人間はまずいないだろう。
 こちらを探るような目をしていた千里だったが、千影の穏やかな笑顔と凛と響く甘い声に少しだけ肩の力を抜いた。
「黒猫ちゃん? そう言えば、さっき走ってきたよ。黒猫ちゃんが、どうかしたの?」
「私の携帯を持って行っちゃって……」
「そう、それは困ったね。チカで良ければ、お手伝いしてあげる」
「でも……」
「一人で探すより、二人で探したほうが早いよ」
 千里はどうしようか迷っているような素振りを見せていたが、最終的には「お願いします」と言って頭を下げた。
 それほど広くは無い公園を、二人で手分けして探す。勿論、千影は必死に探すフリをするだけだ。千里が探しているものは、千影のポケットに入っている。
「……ねぇ、千里ちゃん。本当に探しているモノは何?」
 手を止めずに、声だけを千里に向ける。千里が茂みの中でビクリと肩を震わせるのが分かったが、千影はさらに言葉を続けた。
「何で私の名前を……」
「月夜の晩に、おんなのこが一人で公園にいる。……おかしいよね?」
 千里が後退る。けれど千影は逃がすつもりは無かった。
 顔をあげ、妖艶に微笑む。エメラルドグリーンの瞳が闇で輝き、千里が硬直する。あまりにも妖しく輝く瞳に、金縛りにあってしまったかのように動けなくなってしまった。
「千里ちゃん、最近悩み事があるんだよね?」
「別に……悩んでることなんて……」
「周りでおかしなコトが、いっぱい起こってる。千里ちゃんは、とっても困ってる」
 ゴクリ。千里が息を呑む音が静寂に沈む世界で大きく響く。
「ねぇ、千里ちゃん。アナタさえ願えば、チカは助けてあげる事が出来るんだよ。―――チカは、千里ちゃんの味方だよ」
 先ほどまでの笑顔から一変、無邪気に微笑むとポケットから携帯を取り出した。千影の手の中で、ウサギのストラップが揺れる。千里の目が携帯へと向けられた瞬間、千影は爪を長く伸ばすと目を細めた。
「そう、何でも叶えてあげるよ? アナタの魂と引き換えに……」
 殺気を放ち、地面を蹴る。腕を振り上げながら襲い掛かろうとしたとき、背後に鋭い殺気を感じて振り返った。
「やっと出てきたね、ヘンタイさん」
 千影は放心したように座り込む千里に携帯を返すと、「動いちゃダメだよ」と笑顔で告げて男に向き直った。
 ドロリと濁った目に、薄く開いた口の端からは一筋の涎が垂れている。右手に持った包丁は大きく、普通のニンゲンなら刺されれば命は無いだろう。
「嫌がるおんなのこに付き纏うのは“すとーかー”だよね? チカ、すとーかーは嫌いなんだ。だから……本気でいくよ」
 不敵に微笑み、地を蹴って走る。振り下ろされた包丁を避け、右手に回ると爪で包丁を弾き飛ばした。包丁は高く上空に飛び、回転しながら地面に刺さった。
「正也君!」
 千里が悲鳴にも似た声で叫ぶ。ピクリと正也の動きが止まり、千影は鋭い爪を彼の喉元に突きつけると刺さった包丁を抜き、遠くへ投げた。
「千里ちゃんの声に反応したってコトは、まだ正也ちゃんのココロが残ってるって事だよね? 千里ちゃんのこと、見えてる?」
 チラリと視線を向ける。写真で見たときよりも随分か細くなっている千里は、やたらと濃いメイクをしていた。メイクを濃くしなければならない理由があるのだろう。例えば、眠れないためにクマが出来てしまっているとか。
 きっとメイクを落とせば、心配と憔悴でボロボロの顔をしているのだろう。正也の目が微かに揺れ、一瞬だけ千里に向けられる。
「ふぅん、やっぱりまだ正也ちゃんのココロは残ってるんだね。……アナタ、元に戻りたい?」
 正也は動かなかった。けれど濁った瞳の奥底に、ほんの微かに宿った光が肯定しているように見えた。
 千影は「そうだよね、戻りたいよね」と小さく納得したように呟くと、爪は下ろさずに千里を振り返った。
「でも、アナタだけ選択権があるのはズルイよね。だって、アナタは“かがいしゃ”だもの。だからチカね、“ひがいしゃ”の千里ちゃんにも選ぶ権利をあげる」
 千影は無邪気な笑顔で、首を傾げた。
「千里ちゃんはどうしたいの? チカに望めば、何でも叶えてあげるよ? 勿論、対価は要らない。チカにとっては、壊すのも、助けるのも、一緒だから」
 千里は迷っている様子だった。どうして迷っているのか、何に悩んでいるのか、千影には分からなかった。でも、たとえどちらになっても千里の決断を支持するつもりでいた。
 だってそうでしょう? 助けるのが絶対に正解ってわけじゃないもの。もし助けた場合、千里ちゃんは正也ちゃんの未来に責任を持たないといけない。だって、生きていて欲しいって願ってしまったんだもの。
「……元の正也君に、戻って欲しい。もう前みたいにはなれないかも知れないけど、でも……」
「だって、魔月ちゃん」
 千影は正也の向こう側、暗く沈んだ闇に向かってそう声をかけると爪を下ろし、後ろに下がった。
「久しぶりだな。えっと……聖陽のオトモダチの……」
「千影だよ」
「そうか。その後聖陽とはどうだ?」
「んー、一回夜に一緒に遊んだよ♪」
 目を丸くしながらも、魔月は「そうか、遊んだのか」と言ってケラケラ笑うと正也に突き立てた刀を抜いた。
 魔月の刀は魔しか斬れないと知っていたからこそ、千影は腹部から切っ先を突き出したままの正也を見ても驚かなかった。しかし、千里はそんなことは知らないため、背後でバタリと音がした。ショッキングな映像に、千里は意識を保っている事が出来なかった。
「あれれ、千里ちゃん眠っちゃった……」
「ウチのモンに後処理させるから、そのままで良い」
 魔月は携帯を取り出すと、どこかに電話を掛けた。簡単なやり取りの後に終話ボタンを押し、千影に向き直ると暫く考え込むように銀の瞳を細め、ポンと一つ手を打った。
「もしかして、シシャモ娘?」
「ふぇ? チカ、シシャモは好きだけど、シシャモじゃないよ?」
「いや、聖陽がこの間珍しく電話掛けてきて、すげー真剣に“魔月……シシャモは七輪で焼くのが一番美味しいのか?”とか聞いてきてさー」
「チカは七輪で焼いたシシャモ、好きだよ」
「ふっ……それなら、聖陽にそう言ってやんな。武彦に聞きゃあ、電話番号知ってるからさ。今日の礼も、聖陽に請求してくれ」
「今日の対価は、武彦ちゃんにもう貰ってるの」
 そういえば、あのシシャモは美味しかった。口の中に広がった甘美なシシャモの味を思い出し、千影はトロンとした目で微笑んだ。まさに恍惚の表情そのものだった。
「ま、とにかく今日は助かった。あたしはこれからまだ仕事があるけど―――女の子が夜に一人って危ないシチュエーションだが、あんたなら大丈夫だろ」
「うん、チカ、夜はオトモダチなんだ」
「そうか。沢山オトモダチがいて羨ましい限りだ」
 魔月は小さく微笑みながらそう言うと、ヒラリと手を振って夜の街に溶けて行ってしまった。
 残された千影は、足元に転がった千里を覗き込み、頬についた涙の後を指で拭いながら小さく呟いた。
「魔月ちゃんだって、チカのオトモダチなのにねー」



END


◇★◇★◇★  登場人物  ★◇★◇★◇

【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】


 3689 / 千影・ー / 女性 / 14歳 / Zodiac Beast


 NPC / 夜神・魔月