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■江戸艇 〜舞台裏〜■

斎藤晃
【6542】【翠嶂・白雪】【茶道翠嶂流師範代】
 時間と空間の狭間をうつろう謎の時空艇−江戸。
 彼らの行く先はわからない。
 彼らの目的もわからない。
 彼らの存在理由どころか存在価値さえわからない。
 だが、彼らは時間を越え、空間をも越え放浪する。

 その艇内に広がるのは江戸の町。
 第一階層−江戸城と第二階層−城下町。
 まるでかつて実在した江戸の町をまるごとくりぬいたような、活気に満ちた空間が広がっていた。

【江戸艇】舞台裏


 ■Opening■

 なんかムシャクシャする。
 それは、そんな他愛もない理由だ。人はそれを八つ当たりとかストレス発散とか呼んだりするのかもしれない。
 後に――ムシャクシャしてやった、今は後悔している――となったとしても、先に立たないのが後悔なのである。
 とにもかくにも。
 翠嶂白雪は叩き心地のいいぬいぐるみにジャブを繰り出すかのごとくそれに拳をたたき込んでいた。
 ドスドスドス……。
「ひどい……」
 ぬいぐるみ代わりが抗議の声をあげる。
「なんか言った?」
「何にも言ってません」
 そうだろうとも。だってぬいぐるみだもん。白雪の幼なじみ白梅剣菱とはつまりはそういう役所の人物であった。


 事の起こりは諸用で出かけた週末の公園。イチャイチャカップル多発にそれでなくても機嫌が下降線気味だった白雪に、隣を“たまたま”歩いていた男――剣菱が、それらに触発されたかの如く「俺たちもボート乗ってみない?」なんてアホな事を言い出した事に端を発する。
 もちろん白雪は、冗談でしょ? 何バカ言ってんの? 何でこれと? 何の罰ゲーム? と思ったから、すぐさま返事代わりの一発を彼の側頭部にお見舞いした。
「ぐはっ」
 一撃を食らった剣菱はそのまま横に吹っ飛んだ。いつものことなので特に問題はないはずだった。
 ただ、ちょっと不幸なことがあった。彼の吹っ飛んだ先に女の子が立っていたのだ。彼は勢いよくその女の子とぶつかってしまった。
 女の子の被っていた帽子が池に落ちる。
 泣き出した女の子に、ぶつかったのは奴だ、と思いながらも少なからず罪悪感的なものを感じて白雪は渋々、女の子の帽子を取りに行く剣菱のボートに、一万歩も譲って同乗することにしたのであった。
 しかし、それにしても納得がいかない。そもそも全ては剣菱のアホな発言のせいである。しかも結果的に彼の思い通りになっているのだ。
 更に付け加えるなら、運動神経が断裂しまくっている剣菱が速やかにボートを女の子の帽子に向けて漕げるわけもなく、白雪のムシャクシャが臨海点を超えるのに、そう時間はかからなかった。
 そんな感じで冒頭に戻る。


 ドスドスドス……。
 そのたびにボートは大きく揺れた。
 櫂を掴んだまま無抵抗の剣菱は白雪にボコられながらも、女の子の帽子へ向けて賢明にボートを漕ぎ続けた。これは余談だが、後に彼はこの時のことを『ゆきりんとボートに乗れてハッピーわず』とツイートしている。彼の生命存続のためにも白雪には見つからないことを祈っておこう。
 閑話休題。
 やがてボートは水面に浮かぶ帽子の傍まで近づいた。
 白雪が帽子に手を伸ばす。
 ボートが白雪の体重にそちらへと傾いた。
 反対側へ行ってバランスをとればいいのに剣菱は、白雪が落ちないようにと彼女に近づいた。
 白雪がこっちにくるなとばかりに男に拳を突き出す。
 半ば条件反射的なそれにボートは再び大きく揺れた。
 そして当たり前のように事態はそうなった。
「あっ!?」
 それは、白雪と剣菱と女の子の3人の口から同時に発された。
 ボートは裏返り2人の体が池へと投げ出される。
 その時だ。
 白雪と剣菱の視界が真っ白に解けたのは。
 目を開けていられないほどの光に目を閉じて、何かにぶつかるような痛みを覚えながら目を開けた時、彼らの視界に広がったのは……。
「ここは……?」



 時間と空間の狭間をうつろう謎の時空艇――江戸。
 彼らの行く先はわからない。
 彼らの目的もわからない。
 彼らの存在理由どころか存在価値さえわからない。
 だが、彼らは時間を越え、空間をも越え放浪する。

 その艇内に広がるのは江戸の町。
 第一階層――江戸城と第二階層――城下町。
 まるでかつて実在した江戸の町をまるごとくりぬいたような、活気に満ちた空間が広がっていた。





 ■Welcome to Edo■

 目を開ける。
 濡れてない。
 水面のあったはずの場所には板の間がある。柔らかい感触に白雪は顔を上げた。下敷きにしていた剣菱の背中にはまるで気づかぬ顔でそれを踏みつけながら立ち上がる。
 そうして記憶を反芻しながら辺りを見渡した。
 少なくとも公園の池の中などではなさそうだ。
 風情のある庭。歴史を感じさせる縁側。実家で茶道の師範代をしている白雪にとって、それは我が家とさほど変わらない作りのように見えたが、決定的に違う部分もあった。
 普通の家なら、必ずと言っていいほど天井にぶら下がっている照明器具がない。かといって、寺や神社のように天井が高いわけでもない。
 白雪はなんとはなしにそちらに足を進めて、それからハッとしたように部屋の隅に置かれた、これまた時代を感じさせる鏡面に立ち止まった。
 そこに映る自分に絶句する。
 着物は普段から着ている。しかし、こんな着方をしたことはない。帯を前で結んだり、こんなに衣紋を抜いたり。
 だが、こういう姿を見たことがないわけでもない。
 確か江戸時代の花魁なんかがこういう格好をしていただろうか。
「ううっ……、雪、大丈夫か……?」
 縁側で伸びていた剣菱が意識を取り戻したのだろう上体を起こしながらきょろきょろと白雪を探していた。
 白雪は改めて剣菱を見て目を見開く。
 着流しに二本差し。月代はないがポニーテールがまるでしがない貧乏浪人を思わせた。
「江戸……時代?」
 白雪は呟きながら頬をつねってみた。痛い……夢ではないのか。
「え? 江戸? 何が?」
 まだ状況を把握出来ていない顔の剣菱がようやく気づいたように辺りを見回し、呆然としたように声をはりあげる。
「タイムスリップ!?」
「うるさい。黙れ」
 白雪はぴしゃりと言った。タイムスリップ、と言うのは簡単だ。しかし、それでは説明の出来ないことがある。
 服が替わっているということだ。
 誰かの体に意識が入ったというなら、髪型も江戸風になっているはずだろう、しかし自分の髪は長さも含めて変わっていない。ところが間違いなくこれは自分自身の体と確信すれば、服が替わっている事が理屈に合わないではないか。
 だからタイムスリップではない。
 とすれば、何であるのか。
 白雪は暫し考えて、剣菱の顔を見て、考えるのをやめた。
 いつの間にか履いていた二本差しを抜いて、キランと光る刃に気圧されたように尻餅つき「本物だ……」とか呟いている彼を見ていると。
 理由はいろいろあったが一言で言えば、どうでもいいことのように思えたからだ。
「何か、怖いな……」
 とか言いながら、刀を仕舞おうとして、刃の部分が腕より長いのに、鞘に仕舞えずにいるアホな姿に、どうやって出したんだか、と気が抜けてくる。
 その一方で彼がいてくれてミジンコの涙ほどには心強いとか感じている自分に気づいて白雪は何となく剣菱の頭をはたいた。
 それがどう作用したものか、その拍子に剣菱は鞘に刀を収めることに成功した。
 とにもかくにも、何とかなるだろう。彼を見ているとそういう楽天的な気分になってくる。
 ならなかったら、彼で憂さを晴らせばいい。
 人生前向きに。
 などと、改めて鏡を覗くと、なんだか満更でもない自分と出会って白雪は気分が高揚してくるのを感じた。この歳になって朱地の着物というのも、なんだか気恥ずかしいが翡翠の刺繍が見事だったし、コスプレと思えば楽しいものだ。
 結構似合ってるんじゃないか、と煽りのポーズなどとってみたりして。
「わっちは白雪太夫でありんす」
 などとなりきってみたり。
「ちょ、おま…!」
 白雪の言に一人遊びをしていた剣菱が慌てて割って入った。
「太夫ってわかってんのか!? 花魁っつったら娼婦だぞ! 売春婦!! 今すぐやめろよな」
「……はあ〜? 言うことはそれだけかっ!?」
 綺麗とか、可愛いとか、似合ってるとか、他にいくらもあるだろう、のに。
「俺は雪がその辺の男と……うっ、これ以上言いたくない。考えたくもない!!」
「だったら、考えるな。っていうか、考えるな」
 白雪はグーで剣菱の顔面を殴る。
 畳の上に大の字に転がった剣菱は追いすがるように白雪の着物の裾を掴んだ。
「かくなる上は、俺が雪を買っ……」
 ぐーりぐーりぐーり……。
 白雪は剣菱の頬を踏みつけて、二度と戯言がほざけないように念入りに滲った。
 その時だ。
「雪…さん?」
 声をかけられ振り返る。
 奥から現れたのは白雪と同い年くらいだろうか花魁姿の女性だった。
「えぇっと……?」
 もちろん初対面だ。どうして彼女は自分の名前を知ってるんだろうと首を傾げていると、彼女がさりげなく視線を白雪の足下に向けながら言った。
「わっちは椛でありんす」
「ああ……」
 どうやら剣菱が雪と呼んでいるのを聞いたのだろう。
「私……わっちは白雪。よろしくね、椛さん」
 白雪が笑みを返す。
「……いいんでありんす?」
 椛が遠慮がちに尋ねる。剣菱を足蹴にしていることを指しているようだ。
「ああ、これはいいのいいの」
 白雪は手を振って請け負った。
 そこへ遣り手ばばあがやってくる。
「椛、お座敷にあがる時間だよ」
 遣り手ばばあとは、遊女たちを仕切っている中年の女のことだ。この遣り手は名を梅といった。しゃがれたばばあだがよくわからない迫力のある女性だった。
「おや、お前さんは?」
 梅が白雪に気づく。
「わっちは白雪でありんす」
 白雪は愛想笑いなどして答えてみた。梅の眉間に不審そうな皺が寄ったが、椛がそっと白雪の袖を掴んで親しげに言った。
「お雪ちゃんも一緒に」
 と梅に微笑んで、白雪を見る。その眼差しが、どこか縋っているように見えて白雪は反射的に頷いていた。
「そうかい」
 梅は予定がどうのとか、まぁ、いいかなどと呟いている。
 だからそれに異を唱えたのは畳に這い蹲った剣菱だった。
「こんな真っ昼間からぁ!?」
「なんじゃ、この男は」
 梅が、たった今剣菱に気づいたみたいに驚きながら彼を見下ろすし、それを踏みつけている白雪を見た。
「迷子みたいでありんす」
 白雪は、あら、はしたないわね、私、みたいにほほほと微笑みつつ、そっと剣菱の顔から足をどけた。
「ここは、おめえさんみたいなのの入ってくる場所じゃない。ほら、出ていった出ていった」
 煙管で叩きながら追い立てる梅に剣菱が庭先に転げ出される。
 薄暗い室内と違って、明るい外に出た剣菱に梅が眉をひそめた。
「……ん? おぬし、その髪……若いのに白髪か?」
「地毛です!」
 剣菱が憤然と答えると、梅はまぁええわと言って懐から一枚の紙を取り出した。
「これを踏みんさい」
「え? これ?」
 剣菱は紙をのぞき込む。そこには余程絵心のないものが書いたらしい、へのへのもへじに毛が生えたような絵だ。片隅に『ゐゑす』と書いてある。
「…………」
 これがかの有名な踏み絵というやつだろうか。
「そういうしきたりなんじゃ」
 梅の言に剣菱は戸惑う。なんだか怖そうだ。罰が当たりそうで。とはいえ、これをイエスと呼ぶ方が冒涜に値するくらいの絵なのだが。
 すると白雪がそそと梅の傍に寄り言った。
「これを踏めばよろしいの?」
 頷く梅に、にじりにじりにじり……。紙が破けんばかりの勢いで踏みつける。破けたって気にしない。
「…………」
 剣菱は呆気にとられたままだ。
「ほれ、おぬしも」
 梅が促す。ものすごい剣幕で。江戸時代、踏み絵をパス出来なかったらどうなるのか。
「…………」
 剣菱は意を決して目を閉じると足をあげた。目を閉じたので、たぶんこの辺、的な場所に足をおろす。たったそれだけの動作のはずだったのに、振り上げすぎた足に、持ち前の複雑骨折した運動神経をフルに発揮して剣菱はバランスを崩すと、後ろに転んだ。
「む? さてはお主バテレンの!?」
「ふぇ?」
 打った尻をさすっている剣菱に梅の煙管が振りおろされる。
「天誅!!」
「ぎゃー!」
 眉間で受け止めつつ剣菱は慌てて反転すると、這う這うの態で逃げだした。
「待て、こら!」
「あははははははは、バカな奴〜」
 白雪がそれを指さして笑う。
「ちぇーっすとーーーっ!!」
 梅の声が青い空に高らかに響き渡った。



 ◆◆◆



 遊郭といえばなんとなく夜のイメージがあったが、江戸の町には治安維持の目的から各所に木戸が設置されているため深夜の往来が出来ない仕組みになっていた。そのため、遊郭唯一の出入口である大門も割と早いうちに閉じてしまう。
 必然的に昼から遊郭はやっているのだそうだ。
 というわけで。
 白雪は椛とお座敷にあがることになった。
 といっても、白雪には全てが初体験。まさか本当に男の相手をとドキドキしていたら、そういうものでもないらしい。遊女の待機所にあたる置屋から呼ばれている揚屋までの道すがら椛がここでのしきたりなどを話してくれた。ちなみに置屋から揚屋まで歩くことを花魁道中という。白雪のイメージと少し違うそれに首を傾げていると、そういつもいつも派手に行われるものではないのだという。客が自らの財力をアピールするなど、特別な時に華々しくやるくらいで、普段は質素なものなのだそうな。
 それでも、多くの客の注目を集めていることには変わりないが。
 そして、揚屋と呼ばれる茶屋では酒宴が催されるのだという。客の相手と言っても椛の話を現代風に言い換えるなら、宴会コンパニオンのそれに近い感じがして白雪は少し安堵したものだった。
 ところで、どうでも言い話だがこの時点で白雪は剣菱のことを綺麗さっぱり忘れていた。



 ▼▼▼



 その頃、梅に追い払われなんとか逃げきった剣菱は、羅生門河岸にいた。最下級の局女郎が集う通りだ。客の手を掴んだら何があっても離さないことから、その名が付いたと言われる。
 彼の懐具合では白雪の揚代など到底支払えなかった。高嶺の花というやつなのだ。
 とはいえ、全く相手にしてもらえなくたって、彼にとって白雪はただの幼なじみなどではない。男扱いされないどころか、クッション並の扱いであったとしても、或いは道ばたを歩く蟻くらいにも視界に入ってなかったとしても、彼は白雪のことを大切に思っていたのである。
 だからこんな所を歩いているのは、安い遊女で手を打つためなどでは断じてなく、ただ単純に天下無敵の迷子なのであった。
 一体、白雪はどこの茶屋に連れ込まれてしまったのか。そして今頃どんなことをさせられているのか。想像したくない。でも、想像してしまう。
「うわぁぁぁぁぁぁ!! ダメだ、雪ぃ〜!!」
 突然わめきだした剣菱に格子の向こうの遊女たちが、冷たい視線を送っていた。



 ▲▲▲



「?」
 今、誰かに呼ばれたような気がしたが。
 茶屋に訪れてすぐ、椛が舞を舞うのを客と一緒に見学して、客が椛の馴染みさんだったようで椛を残し人払いされたので控えの間でお茶など啜ってのんびりしていた白雪は背後の窓を見やって不思議そうに首を傾げた。
「気のせいか」
 しかし、部屋を出ていく時の椛の様子がおかしかったな、と思う。ここに来る時も一緒に来て欲しいと袖を掴んでいたし、今思えば何かを怖がっているようにも見えた。
 白雪は茶を飲み干すと、やっぱり気になって椛の様子を見に行くことにする。変なことの最中じゃありませんように、とドキドキしながら白雪は椛の部屋の障子戸の前に膝をついて耳をそばだてた。
「さすがは越後屋さんだ」
 という声がした。
「いやいや三河屋さんには負けますよ」
 などと揉み手でもしてそうな声が続いた。
 白雪は客の顔を思い出す。確か、どす黒い何かがいっぱい詰まってそうな腹を抱えたたぬき親父が2人いた。ゲジマユの方が越後屋さん。似合わないバサバサまつ毛の方が三河屋さん。
「では、そのように」
 と、恐らくは三河屋さんらしい声に、何の話をしているんだろう、と白雪が更に戸に耳を近づけた時、唐突に障子戸が開いた。
「お前は!?」
 ゲジマユ越後屋の誰何の声。
「……あはは」
 白雪は2人にひきつった笑みを返す。
「お雪ちゃん……」
 と驚いたような声が越後屋の隣に侍っている椛の口から漏れた。
「貴様、聞いていたのか?」
 ゲジマユに尋ねられ白雪は視線を移ろわせた。
「いいえ、今通りかかったばっかりで」
 肝心なところは全く聞いていない。しかし戸の前に膝をついて明らかに聞き耳を立てている風の白雪に彼らが信じてくれるとも思えなかった。
 案の定、彼らは信じなかった。
 逃げ腰の白雪の腕を掴んで三河屋が言った。
「こいつを使う、というのはどうだ?」
 そのまま越後屋の前に引き出された白雪は困ったような顔で越後屋を見ている。これって、かなりやばい状況なのでは。
「なるほど、それはいい」
 越後屋は小さく頷いた。
「成功した暁には椛共々見受けしてやろう。失敗したときは2人とも……」
 越後屋はにやりと笑っただけでそれ以上言わなかった。しかし後に続くだろう言葉は容易に想像出来て白雪は息を呑む。
 一体、何をさせられるというのか……。



 ◆◆◆



 白雪のピンチに剣菱はまだ道に迷っていた。それほど広い敷地ではないにも関わらず、梅に見つかっては追いかけ回されなどして、彼は同じ場所をぐるぐるぐるぐる回ることを余儀なくされていたのだ。
 しかしこの世にも捨てる神あらば拾う神あり。
「何しとんねん?」
 髪を振り乱して服もドロドロにして、あたかもぼろ雑巾みたいになっていた剣菱に小さな女の子が声をかけてきた。おかっぱ髪だが、一丁前に前結びの帯。
 遊女見習いの禿だった……が、剣菱には残念ながらそんな知識はない。
 こんな小さな子まで娼婦を、などと勝手に勘違いして同情などしていると、禿の幼女――楓は「けったいな奴やなぁ」と剣菱を横目で見やりながら言った。
「さっきから、ずっと同じとこ回って、もしかして迷子かいな?」
「え? ああ……雪を探してるんだ」
「雪? 人探しかいな」
 ここは江戸時代っぽくて、江戸っぽいのに、楓は関西弁だった。日本各地から売られてくるのだから、そういうこともあるだろう……とまた涙を誘われつつ剣菱が頷くと、楓が尋ねた。
「どこの遊女かわからへんのか?」
「うーん……」
 もはや、どこの置家にいたかもわからない剣菱であった。ただ……。
「椛って女の子がいた」
「ああ、椛姐はんのとこか。したらこの時間は茶屋に出とるさかいこっちや」
「案内してくれるの?」
「義を見てせざるは勇なきなり、やで」
 花魁とはただの娼婦に非ず。廓に入れば芸事・読み書きだけではなく、俳句、川柳、歌などあらゆる教養を身に付けさせられる。そうでなければ、武家や豪商の相手など出来ないからだ。
 よって幼女といへど剣菱より言葉をよく知っている。
「…………」
 とはいえ剣菱の方は楓の言った言葉を知らなかった。だから、意味もわからないし、それがこの状況にあってるのかどうかの判断も当然出来なかったのである。
 とにもかくにも2人は連れだって歩き出す。
「その雪って人はお兄はんのえぇ人なん?」
 楓が生意気にも小指を立てて尋ねた。
「え? いや……うん。そうだ」
 剣菱は見栄を張った。白雪に知れたら命はないかもしれないが、彼はあまり深く考えなかった。
 遊郭でのしきたりなどを教えてもらいながら楓の案内で、ようやく剣菱はその茶屋にたどり着く。
 ここに白雪がいる。
 楓の話によれば、いきなり娼婦まがいの事をさせられるわけではない、とわかったが、彼は白雪を助け出す気満々であった。
 そもそも揚代も払えないくらいの彼に見受けなどもっての他である。そんな彼が白雪を助け出す方法は一つしかない。
 彼は刀の柄を握りしめた。
 やる気だ。
 しかも裏口から、などではない。
 正面から正々堂々と。
「アホやな」
 楓がバカに付ける薬もないとばかりに首をすくめていた。
 剣菱が茶屋へ足を踏み入れようとする。
 と。
 鼻腔をくすぐるお茶の香りにふと足を止め剣菱は背後を振り返った。
 町人風の男が彼の後ろを小走りに通り過ぎようとしていた。
「!?」
 剣菱は目を見開いた。
 男装をしているが、それは紛れもなく白雪だったからだ。
「雪っ!?」
 思わず呼び止めた剣菱に雪は振り返ると慌てたように剣菱の口を塞いだ。
「バレたらどうすんのよ!!」
「おまっ……何、その格好」
「うるさい。黙れ。つべこべ言わずについてこい」
 白雪は口早に言って剣菱を連れて大門へと歩き出す。
「…………」
 厳しい監視の目がある大門を、2人はまるで男友達を装って出ることに成功した。
「ふぅ〜、助かったわ。ありがとう。じゃぁ、ね」
 白雪はひらひらと手を振ってさっさと行こうとする。
「え? 雪? おい、どういうことだ!?」
 剣菱は慌ててその後を追いかけた。



 ◆◆◆



 隣にぴったりくっついて、何があったんだと鬱陶しいほどの視線を送ってくる剣菱に、白雪が折れるのには、そう時間はかからなかった。
「なんかよくわからないけど、火付けすることになったのよ」
 観念したように白雪が白状すると、剣菱が「火つけ?!」と大声をあげそうになる。息を吸い込むそれに咄嗟に白雪は彼の口を塞ぎながら言った。
「大きな声出さないでよ」
 そうしてゆっくりと手を放す。
 剣菱は訳知り顔になって往来の人々を目で追うと、声を潜めて言った。
「それってつまり放火だろ?」
「そうね」
 白雪は肩を竦めてみせる。
「そうね、って、何考えてるんだ!?」
 剣菱の叱責に白雪が睨み返す。
「うるさい。黙れ。わかってるわよ。でも、椛が人質にとられてるの」
「椛? って、あの子か」
「そうよ」
 椛が人質で、白雪は放火犯で……あっという間にキャパが溢れた剣菱は、今度はおろおろし始める。
「ど、どうしよう、どうしよう……」
 明らかな挙動不審に往来の人々が剣菱を振り返った。目立ってどうするとばかりに白雪は剣菱の耳を掴みあげると人気のない細道へと入っていく。
「それをこれから夜になるまでに考えるの」
 放火をする時刻はあらかじめ指定されていた。
「ああ…そうか。あ、警察に行ったら?」
「警察なんてあるわけないでしょ? 江戸なら、町奉行とかそんな感じじゃない?」
「なるほど。じゃぁ、そこに」
「ダメよ」
「何でだ?」
「確たる証拠がないと信じてもらえるわけないし、椛さんがって言ってるでしょ……」
「ああ、そっか…」
「それに……実はよくわからないの」
 白雪はお手上げとばかりに肩の辺りで手の平を太陽に向けて見せた。
「わからないって?」
「奴らの目的」
「は?」
 剣菱はハトが豆鉄砲でも喰らったかのような間抜けな顔で白雪を見返していた。
「何の為に火を付けるのか、よ」
「なんで?」
「奴らは私に話を聞かれたと思いこんでるけど、実は殆ど聞いてないの」
「…………」
 剣菱が白雪をまじまじと見返す。単純に相槌の言葉を探しているだけだったのだが、白雪にはそうは見えなくて。
「ムカつく」
 取り敢えず鳩尾にワンパン。
「ぐへぇっ」
「とにかく、動機から洗って物的証拠を押さえないといけないわけ。それも、暮れ六つまでに」
「わかった。俺も行く」
 やる気満々の剣菱を。
「……別にいいわ」
 白雪がばっさり切り捨てる。
「なんでだよ!」
「足手まといだから」
「なんでだよ!」
「頭脳面でも肉体面でも役に立ちそうな気がしないからよ」
 白雪はきっぱりと言い切った。うぐっと詰まった柊がさっき覚えたばかりの言葉を口にする。
「むっ…ぎをみてせざるはゆうなきなり、だぞ」
 彼はこの言葉を困ってる人がいたら助けましょう、くらいの意味で使っていた。
 だが白雪は当然この言葉の意味を知っていた。
「そんな言葉、よく知ってたわね……」
 感心したように剣菱を見上げる。
「ふっ…俺を今までの俺様と思うなよ」
 剣菱は調子に乗った。
「……まぁ、盾くらいにはなるか」


 ▼▼▼


「それは?」
 剣菱が尋ねる。
「ここの屋敷の倉に火を付けろと言われたの」
 白雪は地図を広げて何度も場所を確認していた。
「ふーん」
「誰の屋敷なのかしら?」
「とりあえず行ってみるか」
「ええ」
 屋敷の裏手にいた二人は表に回ってみることにした。
 どうやらお店らしい。
「米問屋みたいね」
「お米屋さん?」
 店には当たり前だが看板がかかっていた。
「や…あと…こす?」
 剣菱が首を傾げる。
「…………」
 白雪は彼の呟きも耳に入らない態でその看板を見上げていた。
「どうした?」
 剣菱の声にようやく白雪は言葉を口にした。
「越後屋だ」
 どうでもいい話だが剣菱は看板を右から読んでいたのだ。
「それがどうかしたのか?」
 剣菱が尋ねる。
「犯人の男が越後屋なの」
「え?」
 白雪は茶屋でのやりとりを思い出した。最初に椛に紹介された時も、あの三河屋も、間違いなく彼を越後屋と呼んでいた。
「つまり自分の倉に火を付けろってこと?」
 首を傾げる白雪に。
「わかった! 保険金詐欺だ!」
 剣菱が鬼の首でもとったような顔で言った。
「ここが江戸時代なら、それはないわね」
 剣菱にしてはかなり頑張った答えだったろうが。
「…………」
「とりあえず、中に入ってみましょう」
 2人は再び裏手にまわって庭から中へ潜入。火付けを頼むだけあってか、不用心にもあっさり入ることが出来た。
 火を点けろと言われた倉へまわる。
「倉の中は空みたいね。少し心が軽くなったかしら……でも……」
 木造の家が並ぶ江戸の町、火を消す方法といえば破壊消火で、風が吹けば江戸中が火の海になりかねない。
「動機は大体わかったわね」
「え? どういうこと?」
「自分で考えたら?」
「…………」
 剣菱はバカみたいな顔――もといバカの顔で白雪に説明を求めるように見ていた。白雪は小さく息を吐く。
「つまり、倉を燃やせば、中にある米はどうなる?」
「え? 空だったけど……」
「米俵があったとしたら?」
「燃える」
「そう。米問屋といえば米は商品でしょ」
「あ、商品が燃えちゃう。……でも、米はなかったよ」
「うん、忘れてたわ」
 そこで白雪は日本海溝よりも深いため息を吐き出した。
 普通の人なら子供だって一から十で足りるのだが、剣菱には一から百二十まで説明しなければならないことをすっかり失念していたのだ。
 白雪は痛むこめかみをそっと押さえた。
「とにかく、越後屋には自分の倉を焼かねばならない理由があるってこと」
 米問屋の倉庫に火を点けて米の価格を高騰させようとでもいったところか。では、三河屋?
 とにもかくにも証拠をゲットしたら奉行所に投げ文をして椛救出に向かう計画を立てた2人は越後屋の屋敷の中への潜入を敢行した。
 越後屋と三河屋の悪巧みとなれば、どちらかが裏切らぬよう連判状の類があってしかるべきだと思ったからだ。2人は手分けして探す。
 しかし証拠らしい証拠は見つけられないまま、時間だけが過ぎていく。世の中そんなに甘くはないということか。これが時代劇なら……気持ちばかりが焦る。
 かくして白雪が床の間で文箱を漁っていた時だった。
「曲者!!」
 という声に振り返ると、越後屋の用心棒らしい男が5人、白雪を取り囲んでいた。
「きゃーっっ!!」
 思わず悲鳴をあげてしまった白雪に、用心棒らが固まった。
 男装中だった白雪を男と思っていたのだろう。ところがあがったのが黄色い声でびっくりしたのである。
 そんなことはつゆ知らず、白雪は今のうちにと隙をついて外へ出ると一目散に走り出した。
 白雪の声に飛び出してきた剣菱が慌てて白雪を追いかける。
 白雪は人通りの多い雑踏を駆け抜けた。
 用心棒どもは剣菱には目もくれずその存在にも気づかなかったようで、剣菱を追い越すと白雪に肉薄すると、瞬く間に白雪を取り囲んだ。
「手こずらせるんじゃないよ」
「女盗人だったとはな」
「だったら…何よ?」
 白雪は自分を取り囲む男どもを気丈に睨み付けた。
「いやいや、楽しませてもらおうと」
 1人の男がそう言うと他の4人から下卑た笑いが広がった。
 白雪は息を呑む。
 じりじりと縮まる包囲網。
 万事休すか。
 男が白雪に襲い掛かる。
 白雪は思わず目を閉じた。
 その時だ。
「雪!!」
 剣菱が男と白雪の間に割って入ったのは。
 はぁはぁと荒い息を吐いている。運動神経が人よりちょっと足りなくても、努力すれば追いつけるのだ。うさぎと亀の亀みたいに。
「なんだ、てめぇ!?」
 用心棒の男どもがいきり立つ。
 剣菱は白雪を自分の背中に押しやって左手で鞘を掴むと、親指で鍔を弾いた。ジャキンと乾いた音をたててハバキが外れる。わずかに見える刃が陽光を照り返した。
 剣菱は斜に構える静かに柄を握る。
 用心棒たちの間に緊張が走った。
 それは剣菱が無造作に刀を抜くだけでよかった。
「雪は渡さない」
 重低音を響かせた剣菱に、男どもは怖気づくと「に…二度とくるんじゃねぇぞ!!」とか、負け犬の遠吠えを吐きつつ蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「ふんっ」
 と鼻を鳴らし、別に何も切っていないのだが、まるで血肉でも払うように刀を一度軽く振ると、流れるような所作で刀を鞘に納め、背後の白雪を振り返った。
 白雪の無事を確認するように見つめて、それから、良かったとばかりに抱き寄せる。
 珍しく格好いい、とちょっと見直して白雪は素直に剣菱の腕の中に収まる。
 野次馬たちがひゅーひゅーと2人をはやし立てた。
 彼らの冷やかしにはっと我に返った白雪は、格好いいと思ってしまった自分に腹立ち剣菱を押し飛ばす。
「調子に乗んな!!」
 と殴る蹴る。明らかなる八つ当たりであった。
 しかし。
 そんなことをしている場合ではない。茶屋では今も椛が人質になっているのだ。
 そこではたと気づく。
 証拠はなくとも証人があるではないか。椛が。
 椛を救出すればいいのではないか。
 早速二人は遊郭に戻った。茶屋にもぐりこむのに男装は不便と白雪は再び花魁姿に戻る。
 戻ってきた白雪に越後屋が怪訝な顔をした。
「椛さん、逃げるわよ」
 白雪の言葉に三河屋が椛を盾にとる。
 こうなっては剣菱も白雪も不用意に手が出せない。剣菱のハッタリも役に立たないだろう。
 と、そこへ梅がやってきた。
「また、お前かっ!?」
 剣菱が邪魔しにきたと思って?まえにきたのだ。
 白雪は反射的に嘘八百を並べたてた。
「違うの、梅さん。そいつら、椛さんという人がありながら、私にまで手を出そうとしたの!」
 白雪の言に梅がカッと目を見開く。
「何? 一妓一客の禁を犯したのかっ!?」
 遊女と客は疑似夫婦。故に一妓一客。遊女の浮気はともかく客の浮気は決して許されることはない。それがここのしきたりであった。
「ちっ…違う……」
 たじろぐ越後屋と三河屋に梅が言った。
 剣菱を取り押さえるために連れてきていたらしい男衆に向けて。
「仕置きじゃ!!」

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 随分と長い間越後屋と三河屋の断末魔の叫びが廓内に響き渡っていた。
 とにもかくにも。
「ありがとう」
 椛が二人に微笑んだ。

 その瞬間、世界が白く光り輝いた。
 ここへ訪れた時と同じように。

 住人の「ありがとう」それが帰るための合言葉。



 ◆◆◆



 冷たい水にぷかぷかと浮かぶ感触。
 水を吸ってずるりと重い着物に池の底へ引きずり込まれそうな感覚に白雪はハッとした。
 剣菱を浮き輪代わりにしているが、その剣菱も今にも池に沈みそうなのだ。
 慌てて白雪は裏向けになったボートにしがみついた。
 剣菱も意識を取り戻したようで、突然の状況に慌てふためいている。
 完全に溺れてあっぷあっぷしている剣菱の姿を眺めながら白雪はぼんやりこの状況を考えていた。
 つい先ほどまで江戸の世界にいたはずだ。
 でも、江戸の世界に行く直前まではボートに乗っていた……というかボートから池に投げ出されたところだった。
 これは、その続きのようで。
 では、江戸の世界はやっぱり夢だったのか。しかし夢ではない。何故なら今、自分も剣菱も着物を着ているからだ。
 椛は無事、奉行所に行き越後屋の悪事を告発出来ただろうか。
 まぁ、出来なかったとしても、奴らは二度と大門をくぐることは出来ないだろう。彼女の安全は保障されているはずだった。
 ありがとうと言っていた。きっと大丈夫に違いない。
 ボート小屋の主が白雪と剣菱に気づいて救出にやってきた。
 助けられるままに身を任せ。
 女の子に帽子を返し、救急車に乗せられひと段落すると、警察の事情聴取を受けることになった。
 剣菱の二本差しが本物だったからだ。銃刀法違反による現行犯逮捕。
 要領の悪さは相変わらずだ。
 話しても信じてもらえないだろう、自分でも何が起こったのかよくわからない。
 ただ、いつの間にか懐に入っていた江戸艇パスポートとやらを見ながらこう思うだけだった。

 夢じゃなかったんだな……。




■大団円■


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【6496/白梅・剣菱/男/24/フリーター兼ギタリスト】
【6542/翠嶂・白雪/女/24/茶道翠嶂流師範代】


異界−江戸艇
【NPC/江戸屋・楓/女/9/子役】
【NPC/江戸屋・椛/女/20/若い女役】
【NPC/江戸屋・梅/女/52/老婆役】


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■         ライター通信          ■
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 ありがとうございました、斎藤晃です。
 楽しんでいただけていれば幸いです。
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