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■江戸艇 〜舞台裏〜■

斎藤晃
【6206】【シャナン・トレーズ】【闇医者】
 時間と空間の狭間をうつろう謎の時空艇−江戸。
 彼らの行く先はわからない。
 彼らの目的もわからない。
 彼らの存在理由どころか存在価値さえわからない。
 だが、彼らは時間を越え、空間をも越え放浪する。

 その艇内に広がるのは江戸の町。
 第一階層−江戸城と第二階層−城下町。
 まるでかつて実在した江戸の町をまるごとくりぬいたような、活気に満ちた空間が広がっていた。

【江戸艇】舞台裏


 ■Opening■

「ふむ……」
 シャナンは腕組み何ぞして感慨深げに息を吐いた。顔には微塵もそんな表情は読みとれなかったが、三点リーダーの辺りに切なげな色が滲んで見える。
 しかし彼は感慨に耽っているわけでも、寂しげに黄昏ているわけでもなかった。彼の内心はこの難題に如何に立ち向かうかでいっぱいだったのである。将棋で言うなら相手の王手に対抗しうる次の一手を何が何でも導き出さねばならないといったところだ。ここで『参りました』と投了するわけにはいかない。机をひっくり返してでも勝たねばならぬのだ。それはそんな使命感と決意に満ちた顔なのであった。たぶん。
「そんな残念そうな顔をなさらないでくださいまし。このシヴにお任せいただければ必ずや満足のいくものをご用意いたしますわ!!」
 シャナンの内心を知ってか知らずか拳を握ってシヴが言った。たとえ正義が潰え様ともシャナンに勝利の美酒を。
 そんなやる気のシヴを押し退けるようにして、シャナンはその娘に向かって言った。
「任せろ」
 と。







 ■Welcome to Edo■

「助けてください」
 と、その娘がシャナンに声をかけたのは京風料理茶屋嘉乃庵の店先での事だった。少しふくよかで笑顔の可愛い娘である。
 両国から隅田川を少し下ったところに、くだんの嘉乃庵は立っていた。老舗らしい風情あるたたずまいで店の入口には見事な松が客を出迎えている。
 暖簾の出ていないその店にしかしシャナンは何の頓着もなく入っていった。
 そんなシャナンに娘は何を思って声をかけたのか。
 もちろんというべきか、シャナンは娘に目もくれることなく華麗にスルーして店内へと進む。彼の代わりにシヴが娘を見やったがそれだけだった。シヴが三和土から奥へと声をかける。
「すみませーん」
 すると、先ほど華麗にスルーされた娘がシャナンの着物の袖を引っ張って言った。
「お願いします」
 それは大した力ではなかったが、シャナンはあっさりバランスを崩すと見事なもんどりを打って倒れた。かくも彼は貧弱な男なのだ。
「シャナン様!?」
 シヴが「なんですの!? 不躾な!!」とヒステリックな声を娘に浴びせながら慌ててシャナンを助け起こす。
 娘は内心で選択を誤っているのでは、という後悔の色を若干目の奥にしのばせながら「お願いします」と続けた。今更後には引けぬ。そんな気負いすら感じられる言だった。
「何なんだ」
 ぶつぶつと、うった尻を痛そうにさすりながら立ち上がったシャナンが、漸く娘の存在に気づいた、みたいな顔で娘を一瞥して「断る」と返す。
「俺はここに究極の海老懐石を食べに来たのだ」
 すると娘は瞼をそっと伏せて言った。
「残念ながら食べられません」
「なにぃ!?」
 声を裏返させるシャナン。
「どういうことですの?」
 シヴが尋ねた。
「店の主が心労で倒れたからです。それに食材の海老も入らなくて……」
 だから暖簾を出していなかったのか。定休日でないのなら、シヴは合点がいったように頷いた。
「そうか、わかった。失礼したな」
 シャナンはさっさと踵を返す。
「そんな、待って下さい。助けてくださいよ」
 娘はシャナンに縋りついた。
「ふっ、海老もない、料理も出ない料理茶屋に用などない。次に行くぞ」
 シャナンはシヴに目配せする。
「はい」
 何かあったのだろうか、という彼女の好奇心は少なからず疼いていたが、シヴはあくまで主人であるシャナンの意に沿う女中である。ここはグッと堪えていると娘はシャナンの袖を引いて「そんな!!」と目を潤ませた。
 シャナンは面倒くさそうに袖を払いながら「そうだ」と右手の拳で左手の平を叩く。
「金もあるしこのまま京まで上って海老づくしを堪能するというのはどうだ?」
「まぁ、素敵ですわ」
 シヴは飛び上がって笑顔で賛同してみせた。とはいえ京の町は内陸であり海は遠い。そこまで京料理にこだわる必要があるだろうか。メインはなんと言っても海老である。
「あ、でも。それでしたら、京まで行かずともお伊勢さまにお参りに行かれてはどうでしょう? 伊勢の海老と言えば有名ですわ」
「おお! 伊勢海老か」
 表情には全く出ないが明らかに彼の碧眼が伊勢海老に変わった。
 シヴは意気揚々と懐を確認する。確か、残金は……。
「まあああっっ!?」
「どうした?」
 シヴはがっくりとうな垂れて答えた。
「お金がありませんわ」
「なにぃ!?」
 シャナンが眉尻をあげる。
「もしかして、さっきの……」
 シヴはこの店に向かう道中を思い出した。男にぶつかったのだ。どうやらあの時スられたらしい、とシヴは思った。既にここまで来る間に使い切ったという可能性には全く思い至らなかった。
 そんなシヴとシャナンのやり取りを見ていた娘がここぞとばかりにキランと目を輝かせる。
「助けてくださったら、海老づくし懐石を心行くまでご馳走しますわ」
 娘の言にシャナンは手のひらを光速にも負けない速度で返すと真顔で応えたのだった。
「義を見てせざるは勇なきなり。聞こう」


 ◆◆◆


 シャナンとシヴは【櫻の間】と書かれた部屋に案内された。八畳ほどの部屋に重厚そうな座卓が一つ、床の間には桜川の掛け軸、丸窓にはどこからともなく桜の花びらが舞い、その向こうからはカコーンと獅子脅しが風情ある音を響かせていた。
 娘の向かい側、ふかふかの座布団に並んで座り、出されたお替りの茶の湯を啜ってまったりする2人。ちなみに1杯目は茶菓子と一緒にシャナンの腹の中に消えていた。シヴの分の茶菓子も、である。シヴがシャナンに餌付けしたからだ。余談はさておき。
「実は……」
 娘は前置きもそこそこに話し始めた。
 京風茶屋嘉乃庵が自称ライバル西京風茶屋杜野屋に突然幕府御用達の看板を奪われたのは数日前のことだった。最初は料理にハエが入っているなどの難癖から始まり――ちなみにここでシャナンがハエ如きで料理を捨てるなどあり得ないと憤慨し大いに話の腰を折ったりしたのだが、とにもかくにもそんな風にして――店の信用を落とされ、御用達の看板まで取り上げれてしまったのだった。それをちゃっかり引き継いだのが杜野屋である。
 その裏では、杜野屋が私腹を肥やさんとする悪代官をそそのかし『杜野屋も悪よのぉ』『いえいえお代官さま程では』『はっはっはっ』『うわっはっはっはっ』などと言葉をかわし合っていた……かどうかは実は定かではない。しかし、これほどスムーズに看板の掻け替えがあったところをみると杜野屋の背後に大きな影があると思われた。ちなみに、代官とは幕府直轄の領地を君主の代わりに統治する役人のことで、当然江戸ではなく任地にいるものであり、不正を行えば即罷免、雑用も多く多忙を極め、悪事を働く暇のある代官など稀であった。つまりこの辺りのくだりはヲタク文化に染まりきったシヴの脚色という名の妄想である。簡単に言えば、その方が面白いじゃないか、ということである。
 それはさておき。
 看板を奪われたぐらいで主が寝込むようなことはなかった。また一からコツコツとやっていけばいい。美味しいものを作っていればまた客は集まってくるはずだ。
 しかし地に落ちた信用の前に、客どころか、海老の仕入れまで拒否されるようになってしまったのだった。もちろん信用だけが問題ではなかった。表向きはそう言って断られるが、その実、杜野屋が海老を生簀ごと買いつけてしまったからだったのである。食材が手に入らなければ料理を出すことも出来ない。信用回復どころではなくなってしまったのだ。
 かくて嘉乃庵の主は海老の買い付けに奔走し心労で倒れたのだという。
 ちなみに杜野屋といえばシャナンらが先刻立ち寄った店であった。最近お江戸茶屋百選に名を連ねたばかりの新進気鋭の料理茶屋というので早速行ってみたが長蛇の列に朝から一刻も並んで食べた特製海老天丼は天ぷらの油切れが悪く、カリッというよりはぎとぎとねとねとしていて、素材の味を台無しにしていたガッカリな店だった。もちろん、油が胃にもたれ半分以上を残してしまったシヴの分までシャナンが完食したが。
 なるほど、あの店があの程度の味で百選に名を連ねていた理由がわかった気がした。金で枠を買ったのだろう。
 つまり海老を仕入れられるようにし、幕府御用達の看板を取り戻し、奴らの悪事を暴けばいいというわけか。
「なんて悪どいんですの!」
 シヴが憤る。
「ふむ……」
 シャナンは沈うつな面持ち(無表情なのでシヴ目線)で腕を組んでいる。
 シヴはシャナンを元気付けるように言った。
「そんな残念そうな顔をなさらないでくださいまし。このシヴにお任せいただければ必ずや満足のいくものをご用意いたしますわ!!」
 だがシャナンはずっと別のことを考えていた。
 海老の生簀を買いつけ江戸前中の海老を独占するとは、是非自分にも分けて……ごにょごにょごにょ。シャナンは脳裏でパチパチと算盤を弾く。海老づくし懐石をただで好きなだけ食べさせてくれる、と娘は豪語していた。
 シャナンは拳を握るシヴを制するように座卓に身を乗り出すとかくして娘に向かって言ったのだ。
「任せろ」




 ◆◆◆ ◆◆ ◆




「まぁ、本当に生簀なんてあるんですのね」
 海の中に竹で作った柵がある。その中を覗き込むようにしながらシヴは関心したように言った。娘の話を聞いている間はシャナンがあまり興味ないように見えたので今ひとつ乗り気でなかった彼女だが、元来好奇心旺盛でちょっぴり無謀なところがある彼女なのだ。日本のヲタク文化にどっぷりハマり、勧善懲悪な時代劇の世界という偏った知識の上で彼女がやる気を出すということは、つまりはそういうことであった。『私、シャナン様のお庭番として頑張ります!』――閑話休題。
「うむ。ここに海老が……」
 垂れる涎を手の甲で拭いながらシャナンは海老の生簀の主人を探す。
 2人は江戸前にある海老の生簀場に来ていた。何故ここに来たのかというと、別段策があってのことではない。海老の生簀を覗いて見たかっただけである。あわよくばなんて下心も大いにあったりなどして。
「ここまで新鮮なら生でそのまま頂いてもいいわけで」
 ぶつぶつと呟いていると、そこに生簀の主――柊が現れた。思っていたよりも若い男だ。怪我をして引退した父の後を最近継いだばかりらしいが、幼少の頃から父を手伝っていたとあって、年長の部下たちからも信頼篤い。
「何の用だ?」
 柊がシャナンをまじまじと見ながら言った。漁師志望にも見えなければ、料理人にも見えない。
 一方シャナンはといえば何度も言うが策があってここにきたわけではない。
「……工場見学みたいなものだ」
「こうじょうけんがく?」
 柊は不思議そうな顔をしている。それについてシヴが補足を加えようとした時だ。男の野太い悲鳴があがったのは。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 という声に駆けつけてみると、桟橋で男が足に碇に突き立てていた。大腿部を押しつぶす重石に太ももは今にも千切れそうだ。うっかり足の上に落としてしまったのだろうか。
「大丈夫かっ!?」
 柊が碇を男の足から抜いた。シャナンやシヴらが止める暇もない。へしゃげた足は血まみれで、破れた動脈から心拍に合わせてピュー、ピューと噴水のように血が飛び出した。柊が慌てて首にかけていた手ぬぐいで押さえたが見る見る内に赤く染まり屁のツッパリにもならない。
「うぉぉぉぉぉぉ」
 男は痛みにもがく。シャナンは「どけ」と柊を押しやり男の足に手を翳した。
「!?」
 瞬く間に血が止まる。
「実は俺は非合法の医者なのだ」
 シャナンが言った。
「あんた……医者だったのか」
 柊は目を丸くしてシャナンを見返した。柊の知識では残念ながら非合法という意味を解することは出来なかったが、それだけで十分だったろう。髪の色は見たこともない色だが、総髪といえば確かに医者に多いと聞く。
「こりゃ助かった、ありがてぇ」
「治療費はそうだな……1000万円で手を打とう」
 シャナンが言った。
「1000万……えん?」
 柊が首を傾げる。日本で円の単位が使われたのは明治時代である。しかし何となく感じるところがあったのか。
「……金はねえ」
 柊は肩を落とし悔しそうに首を振った。それから苦しそうな男を見やり、シャナンに縋るような視線を向ける。
「何とかなんねぇか?」
「まぁ、でしたらこういうのはどうでしょう。嘉乃庵に海老を卸していただくというのは」
 シヴが言った。
「嘉乃庵に?」
 柊は意外な名前を聞いてシヴを見やり、それからシャナンを見下ろした。
 シャナンが何か言いたげに口を開いたが、それよりわずかに早いシヴの「ね、シャナン様」と有無も言わせぬ力強い口調に押されて「うむ」などと頷いてしまう。
「…………」
 そうこうしている内にも男の足の傷はどんどん癒えていった。
「どうだ?」
 促すシャナンに柊は意を決っする。
「……わかった」
「まぁ! これで一つ問題が片付きましたわね! さすがですわ」
 シヴが手を叩いて喜んだ。
「こっちもいきなり杜野屋さんに言われて……俺も親父の後を継いだばかりで焦ってたんだろうな。払いもいいしでつい受けちまったが……」
 苦しそうに柊は首を振り、それからパンと景気でもつけるように足を叩いた。
「あんたはこいつの恩人だ」
 怪我をしていた男が申し訳なさそうに柊を見上げる。
「俺も男だ。二言はねぇ。今まで通り海老を卸させてもらうと伝えてくれ」
 柊は晴れ晴れとした顔で笑ってみせた。
「うむ。ついでにと言ったらなんだが……」
 シャナンは生簀の方を見やる。
「ああ、うちに金はねぇが、海老だけはいっぱいある。欲しいだけ持って行きな」
 柊が言った。
「何っ!? いいのか!?」
 シャナンは目を輝かせた。
「おうともよ! 嘉乃庵で料理してもらうといい。あそこは江戸の中でも海老を一番美味しく食べられる店だ」
 そう言って柊は活きのいい海老を選んで箱藁に並べてくれた。
 シャナンは意気揚々と、あれもこれもと頼んだが……食べるのであれば、それこそ生簀中の海老を全部この場で平らげ尽くしただろうシャナンも、持ち帰るとなっては話が別だった。貧弱な彼が持てる海老の量など高が知れていたのである。しかも軽いダンボールや発泡スチロールならともかく木箱なのだ。
「本当にそれだけでいいのか?」
 柊が聞いた。あれもこれも、と言っていたのに、いざ持ち上げれば持ち上がらず、結局、木箱一つになってしまっていたのだ。しかも中身は半分しか入っていない。
「う…うむ……」
 シャナンは自分の非力さを呪いながら頷いた。いっそここに嘉乃庵の主を連れてきて、この場で料理してもらおうか。
「私もこれが限界みたいです……」
 というシヴは木箱を二つ積み上げて持っていた。もちろん中身はぎっちり詰まっている。
「嘉乃庵の旦那にもよろしく伝えてくれ」
 柊が2人を送り出した。
「ああ」
 かくてシャナンとシヴは持ちきれる目一杯の海老を持って嘉乃庵へ向けて歩き出したのだった。
 しかしそこへ、そんなやり取りを見ていたのか杜野屋の息がかかっているらしい三下どもが、シャナンに肩をぶつけられたと難癖をつけてきた。
「まぁ、なんですの!?」
 怒ったシヴが海老の木箱を置いて三下に食って掛かる。
「うるせぇ!」
 三下は怒鳴ってシヴを威嚇した。別の三下が、シヴの置いた木箱を拾って言った。
「いいものが落ちてたぜ」
「まぁ!?」
 シヴが怒って三下から木箱を取り返そうとする。
 その背後では、最初にシャナンにぶつかってきた三下が、慰謝料とばかりにシャナンから木箱を取り上げていた。
「こら! くそっ!! 返せ!!」
 シャナンは激怒した。
 食べ物の恨みは恐ろしい。
 しかし、彼は貧弱だった。火事場のくそ力を駆使しても越えられない壁があったのだ。
 それはもう喧嘩にもならない一方的なそれでシャナンとシヴはあっさり海老を奪われてしまったのだった。
「ぐぬぬぬぬぬ……杜野屋絶対に許さん……」
 呪詛の声を通りを抜ける風がゆるりとさらっていった。


「私にお任せくださいまし!」
 とシヴは力強く言った。シャナンのお庭番として杜野屋に潜入するのだ。
 表向きは、女中として紛れ込み、海老を横流す。
 平たく言えば力で勝てぬなら、頭で勝とうということであった。
 早速杜野屋に潜入したシヴはその度胸とふてぶてしさで、何の疑いもかけられることなくキッチンにたどり着いた。軒先に、先ほどの木箱が積んである。何人もの女たちが手際よく海老の下ごしらえをしていた。何食わぬ顔で紛れ込み、並んで海老の皮を剥きながらシヴはそろりそろりと木箱の方へ近づく。
 そして、作業する女たちの目を盗んで木箱を取ると、素早く裏手に出た。
 そこには既にシャナンが待機している。
 シヴはシャナンに木箱を手渡した。
 シャナンは木箱を手ぬぐいで覆って外へ出る。シャナンが持てる木箱には限界があった。そしてシャナンが杜野屋と嘉乃庵を往復する体力にも限界があった。
 そんなこんなで木箱一つ分の海老を持って嘉乃庵へ戻ってきた2人である。
 シヴが生簀での出来事を話すと、娘は喜んで2人に何度もお礼を言った。
 店の主はまだ回復していないので、代わりに娘がその海老を料理してくれるという。
 櫻の間で娘の海老料理を食べた。娘は、この店の主が作る海老料理の方が遥かに美味しいというが、少なくとも杜野屋の海老天丼よりは格段に美味しかった。
 そのままお腹いっぱいで眠ってしまったシヴに、娘が布団を敷きますね、と寝床を用意してくれる。
 今日一日歩き回ったのだ。シヴも疲れたのだろう。
「寝顔は可愛いな……」
 呟いてシャナンは、すやすやと寝息を立てているシヴの前髪に指を絡めてみた。
 明日も忙しくなりそうだ。
 取り敢えずは海老を仕入れられるようになったが、自分から海老を奪った杜野屋のやり口を見ていると、明日にもあの三下連中が柊のところに押しかけないとも限らない。三下が柊らに襲い掛かったら……それはともかく、生簀を壊しにでもかかったら。シャナンは想像しただけで眩暈を覚えた。生簀が壊れたら中の海老が海に逃げてしまうではないか。
 なんとしてもそうなる前に、決着をつけなければ。
 シャナンは思った。
 まだ、この店の海老尽くし懐石を堪能していないのだ。
 明日朝一でけりを付ける。



 シャナンが静かな決意に燃えていた頃、シヴは夢の中にあった。
 東京某所にあるバイト先のメイドカフェ。そこでシヴは着替えをしていた。その時だ。視界が強い光に覆われ、世界が真っ白に解けたのは。
 気がつくとシヴはテレビの中でしか見たこともないような豪商の屋敷の奥の間にいた。いつの間にかメイド服は和服に変わっている。夢かと思って頬をつねってみると痛い。夢ではないのか。辺りを見渡した。一体ここはどこだろう。
 不安はすぐに消えた。
 目の前に見知った無表情を見つけたからだ。もしかしたら内心彼はパニックを起こしていたかもしれない。見知らぬ景色に恐れ慄いていたかもしれない。だが、彼はいつもと変わらぬ無表情だったから、シヴはそれ以上不安にかられることはなかった。
 不安がなくなれば次に芽生えてくるのは好奇心だ。
 江戸時代っぽい世界。自身の洞察力をもってすれば、これが本物の江戸時代でないことはすぐにわかった。夢でもなく、タイムスリップでもないこの状況。よくわからないが楽しまない手はないと思えた。
 程なくして、自分の立場は知れた。老舗の大店に務める女中だ。和風メイドのようなものだろう。何とも自分に相応しいと思った。
 彼はといえばその大店の放蕩息子で、こちらも彼らしいといえば彼らしい。
 大店の番頭がやってきて、シヴに踏み絵を迫った。これが噂の踏み絵というやつか。へのへのもへじに毛が生えたような幼稚園児以下の絵の横にゐゑすと書いてある。偶像崇拝もどうかと思ったが、それ以前の問題でシヴは何の躊躇いもなく踏みつけた。
 彼も同じだろうと思ってふと見ると、彼は絵を踏むことなくじっと絵に見入っている。それほど感じ入るような絵だろうか。
「シャナン様?」
 と声をかけると彼は「切支丹に売れば幾許かになるんじゃ……」などと呟いていた。その表情からは推し量れなかったが、彼はナチュラルにこの世界に溶け込んでいるようだった。
「…………」
 それから番頭はお説教を始めた。ろくに働かないシャナンに旦那様がどれほどお嘆きか、と概ねそんなような内容だった、と薄っすら記憶なのは、馬耳東風で天井を見上げていたからだ。電気がないのは当たり前か、見事な欄間にどうしてこんな時にデジカメがないのだ、とシヴは嘆いていた。
 気づくと番頭の説教は終わったのか、目の前に金子が置かれていた。
「この仕入れ用の金で、この店に相応しいものを仕入れてみせろ」
 と、番頭が言う。
「断る」
 出来る限り働きたくないシャナンのそれは即答簡潔明瞭であったが、番頭は眉尻をあげて詰め寄った。
「行って来い」
 有無も言わせぬ押しに負けたシャナンは渋々小判の束を手にとると店の外へと放り出される。
 そのお目付け役としてシヴもシャナンと共に仕入れに出ることになった。
 無表情ながらも全身から面倒くさいオーラを出していたシャナンは宛てもなく歩き出しながら番頭の愚痴を始めたが、やがて。
「金があるなら仕事より美味い物を食いに行くべきではないかっ!」
 と言い出した。
「賛成ですわ!」
 シヴは二つ返事で賛同した。せっかくよくわからない世界に来たのだから楽しまなくては。帰れないかも、という不安は全くない。世の中なんとかなるものだ。万一帰れなかったとしてもシャナンもいる。世の中なるようになるものだ。どこまでもポジティブシンキング。今も楽しく、未来も楽しく。
 かくて2人は八百善の江戸流行料理通やお江戸茶屋百選をゲットし、食い倒れるほど食べ歩くことにしたのだった。
 海老料理に定評のある店を探す。特に好物のエビフライはさすがになさそうなので海老の天ぷらをメインに歩き求めた。
 通常の胃袋しか持ち合わせていないシヴはすぐにお腹いっぱいになったが、向かいの席で全くスピードの衰えることなく次から次へと食べていくシャナンを見ているだけでシヴはほっこりした気分になったものだ。
 自分の分の海老も彼にあげると子供のように喜んでみせたりして。
「そういえば、子供の頃もいつも食べることばっかりでしたわね」
 シヴは思い出してクスリと笑った。あの頃も彼はこんな風に気持ちいいほどの食べっぷりだったのだ。
「そうだったか?」
 丼が空になってようやく茶を啜りシャナンが顔をあげる。
「えぇ。キッチンに忍び込んで、夕食の材料を食べてしまったり」
 それはシヴが幼い頃、長期休暇に家族旅行した時のことだ。その旅行先でシヴまだ幼いシャナンに出会ったのである。シヴの滞在中、2人は悪戯の限りを尽くしたものだったが。
「……どうせ食べるんだから、いつ食べてもいいじゃないか」
 シャナンが拗ねたようにそっぽを向く。無表情だが、仕草の端々に内心がかろうじて見てとれるのも昔と変わらない。
「って、同じこと言ってましたわ」
 シヴが微笑むとシャナンは嫌そうに視線を彷徨わせた。
「…………」



 胡蝶が夢か、我が胡蝶の夢なのか。
 それはまるで“胡蝶の夢”のように。
 どちらが夢でどちらが現実か。




 翌朝。
 明け六つの鐘と同時に、シャナンとシヴは杜野屋へ向かった。
 悪代官との密談がしていることだろう、とはシヴの脳内だけの話である。
 シャナンとシヴは杜野屋の裏にある勝手口から庭へと入ると。昨日シヴが潜入していたのが功を奏したのか、中で迷子になることもなければ、他の者たちに見つかることもなく主の部屋へ辿り着くことが出来た。
 シャナンとシヴが襖を開け放つと、杜野屋の狸親父は帳簿の確認をしているところだった。
「何者だ?!」
 狸親父の誰何にシャナンは懐からそれを取り出して言い放つ。
「杜野屋、貴様の横暴もこれまでだ!」
 シャナンがそうして狸親父の前に掲げたものは、彼が夜なべをして作った丸に三つ葉葵の印籠だった。
「…………であえぇ!!」
 狸親父が声をはりあげると、昨日の三下どもが駆けつけてきた。
 そしてあっさりぼこられた。
 シャナン様のお庭番と意気込むシヴだが、一応、女の子なわけで、シャナンが庇ったりする一場面もあったりなかったりしつつ、力の差は歴然とあり過ぎた。
 万事休す。
 どうやってトンズラしようかとシャナンがあれこれ考えている時。
「杜野屋の旦那!」
 聞いたことのある声にシャナンが振り返ると、そこに柊が2人の男を連れて立っていた。
「何の用だ?」
 狸親父が眉尻をあげる。昨日シャナンに海老を渡していたことを知っているのだろう、だから、柊がこれから言わんとしていることにも想像がついているはずだ。故に、それは殺気を孕んだ視線だった。
「海老の仕入れのことだ」
 そう言って柊は袖から小判を取り出すと狸親父の足元へ放った。
「金は返す」
「なにぃ!?」
 狸親父がいきり立った。
「私を敵に回すとどうなるか…、お前たち、こいつらの体に教えてやれ!」
 狸親父が顎をしゃくると、7人の三下どもが柊らを取り囲んだ。
 多勢に無勢だ。
 三下どもが柊らに殴りかかる。
 シャナンは柊の後ろに隠れた。もちろん、ただ隠れるためだけではない。
 殴られ傷ついた彼らを片端から癒していくためだ。
 殴られる。癒す。蹴られる。癒す。
 三下どもは業を煮やしたように長どすを抜いた。
 斬る。癒す。刺す。癒す。エンドレス。
 半ゾンビ状態の柊らを三下どもは気味悪がった。
「おらおらおら、来いや!」
 と威嚇する柊に、完全に怖気づいた三下どもが「ば…化け物だぁぁぁ!!」「来るなぁぁぁ!!」などと口々に叫びながら逃げ出すと。
「んで、あんたを敵に回したらどうなるって?」
 柊が凄んでみせる。
 杜野屋の狸親父は半歩後退り膝を折って両手をついた。
 うな垂れる狸親父にシャナンがふんぞり返って言い放つ。
「二度と、海老の生簀や嘉乃庵にちょっかいだすな!!」
 貧弱だが、こういう時の威圧感だけは時々ものすごい。
「わ…わかった。すまない。もうしない」
 狸親父が土下座で謝る。
「これにて一件落着ですわね」
 どこに隠れていたのかシヴが言った。
 柊と挨拶を交わして。
 かくて、シャナンとシヴは嘉乃庵へと帰ったのだった。
 すると、元気を取り戻した嘉乃庵の主が店先で2人を出迎えてくれた。
 是非、海老づくし懐石を食べて欲しいと。
 2人は【櫻の間】に通される。
 前菜が運ばれた。
 海老の小鉢だ。
 それを座卓の上に並べてから娘は2人の前に正座をした。
「ありがとうございました」
 その時だ。
 世界が白く輝いたのは。
 それは、この世界へやってきた時と同じであった。
 シャナンは嫌な予感がした。
 シヴもどこか薄っすらこんなオチを予感していた。


 シヴは着物姿でバイト先の更衣室に佇んでいた。
 そしてシャナンは桜吹雪の中空っぽの弁当を前に愕然としていたのだった。







 時間と空間の狭間をうつろう謎の時空艇――江戸。
 彼らの行く先はわからない。
 彼らの目的もわからない。
 彼らの存在理由どころか存在価値さえわからない。
 たが、彼らは時間を越え、空間をも越え放浪する。
 その時空艇−江戸が突如、東京の上空に出現し、何の理由もなく東京シティと同調した。
 たまたま偶然そこを歩いていた一部の東京人を、何の脈絡もなく時空艇−江戸に引きずりこんで……。
 戸惑う東京人の困惑などおかまいなし。
 しかし案ずることなかれ。
 江戸に召喚された東京人は、住人達の『お願い』を完遂すれば、己が呼び出された時間と空間を違う事無く、必ずや元の

世界に返してもらえるのだから。







■大団円■


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【8483/シヴ・アストール/女/19/メイドカフェ店員】
【6206/シャナン・トレーズ/男/22/闇医者】


異界−江戸艇
【NPC/江戸屋・柊/男/29/色男役】


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■         ライター通信          ■
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 ありがとうございました、斎藤晃です。
 楽しんでいただけていれば幸いです。
 ご意見、ご感想などあればお聞かせ下さい。