■小さな悪魔の物語■ |
夜狐 |
【3826】【アリサ・シルヴァンティエ】【異界職】 |
――悪魔に「年齢」という概念は希薄である。子ども、大人、といった年齢の別もない。
だが、稀にではあるが、消滅した悪魔の残した力の破片から、新しい悪魔が生じることはある。
「人間で言うと転生、に概念としては近いかなぁ」
説明しながら依頼主――幼い少年の外見をしているが、実年齢百歳近い人物は何やらがさごそと荷物の中からひとつのアイテムを取り出した。
少年の小さな手のひらに収まるほど小さなそれは、ガラス製の棺、のように見える。透明な中身にはぐるぐると、黒と金色の混ざった渦みたいなものが見えた。ゆらゆらと揺れるそれは、魔力に聡い者であれば、すぐに「魔力の塊だ」と知れるだろう。
「これはね、この間【レガスの一族】の誰かが捕獲した、生まれたばっかりの悪魔だよ。まだ人間の言葉をやっとカタコトで喋れるようになった程度で、知識も自分の力の遣い方も何も分かってないんだ。
――キミ、この子に『人間の世界』を教えてやってくれない?」
彼が何やら呪文を呟くと、棺の蓋がガタガタと揺れて、やがてひょこりと小さな小さな、手のひらサイズの「悪魔」が現れる。まるで妖精みたいな小さな人影は、黒い髪に金色の目をして、背中には腐りかけた黒い翼が生えていた。その翼の禍々しさがなければ、妖精と言われても信じたかもしれない。
有害ではないのか。あなたの表情から不安を見てとったらしい依頼主が、ほんの少し微笑んで見せた。
「…うん?大丈夫だよ。確かにこの子は悪魔だけど、僕の知っている悪魔の破片から生まれた子だ。
……彼はとても人が好きだったから。
きっとこの子も、人を好きになってくれるって、そう思う」
そう言われてしまっては頷くより他にないようだ。あなたが渋々了承すると、彼は付け加えて、こうも言った。
「あのね、本当に出来れば、出来ればでいいんだけど。
――この子が人を好きになってくれるような、何かいいものを見せてあげて欲しいな」
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小柄な黒っぽいヒト型のそれは、掌に乗せてみれば、まぁ、小人かフェアリーであると主張できなくもない容姿をしていた。尤も、今アリサの掌の上で興味津々、という視線を来客へ遠慮なく注いでいるのは妖精でもなければ小人でもなく。――本来教会とは縁遠いはずの悪魔、なのだが。
「アリサさん、そちらは…?」
問われれば、アリサとしては極力嘘もつきたくないので、こう応じるしかない。
「…お預かりしているお客様です。お気になさらず」
これで押し通そう、とアリサは内心でため息をつく。小さく「悪魔」を促すと、小柄な彼はよいしょ、とアリサの肩に腰を据えたようだった。頬をくすぐるように馴染みのない、淀んだような魔力が漂ってくるのは――目を瞑るしか無かろう。今はそれよりも、とアリサは意識を切り替えた。
目の前に今居るのは、教会に駆け込んできた一人の女性である。妙齢の彼女は明後日に結婚式の本番を控え、狼狽えた様子でアリサの下へ駆け込んできたのだ。
何でも、明後日の結婚式について、重大な報告があるらしい。
(式を直前に控えた花嫁さんは皆さん、不安でいらっしゃるから)
アリサはそう構えているので落ち着き払ってはいるものの、眼前の明後日の花嫁は服の裾を掴んだり、伸ばしたり。アリサの差し出したお茶が冷めてしまうのに、手も付けずにいる。
「どうされたんですか?」
アリサがそっと促すと、ようよう彼女は口を開いた。俯いたまま、呻くように。
「…ハンカチを失くしてしまったんです…」
「あら、それは大変」
ぱちりと瞬いたアリサを余所に、肩に乗った小さな悪魔は首を傾げたようだった。ハンカチ?と反復する声が耳に届くが、さて置き。
「どうしましょう、アリサさん…。ハンカチを失くすなんて、私、もしかして結婚するべきじゃないんじゃないかって。うまくいかないんじゃないかって、心配で…。神様が、私に、彼の為にも身を引くべきだって言ってるんじゃないかって思えてしまって」
すっかりしょげ返る花嫁の言葉に、アリサは少し眉をあげた。ゆっくりと静かに、しかししっかりと目の前の女性の眼を見て、
「――そんなことは決してありません。ハンカチ、一緒に探してみましょう? それか、今から代わりを用意しましょう。…大丈夫。そこに愛があるなら、例えハンカチが仮のものでも、神様はきちんと祝福をくださいますから」
もう一度ハンカチを探してみる、と、少しだけ気を取り直した様子で立ち去る女性を見送り、アリサは嘆息する。結婚式は明後日だ。今から代替のハンカチなんて、用意が出来るだろうか――思案していると、肩でごそごそと悪魔が身じろぐ気配がした。慌てて、アリサは肩へと視線を向ける。
「ごめんなさい、忘れていた訳ではないんですよ?」
「別にいいけどー。アリサの邪魔しちゃ駄目、ってヨルにも散々言われて来たもん」
言いながらむくれている表情はまさに子供のそれだ。アリサは苦笑しながら、肩に乗るその悪魔の頭を軽く撫ぜた。
――教会付きの診療所を預かる医師兼、生命や豊穣、結婚を司る神の神官を務めているアリサが、今現在、おおよそ縁遠い「悪魔」というものを預かっているのには一応、理由がある。
生後3か月の子供を預かって欲しい、と、少しばかり離れた町の孤児院から依頼書が出ていたのだ。1日か2日、親代わりの孤児院の主が不在になるため、との理由が添えられていた。報酬は大したものではなかったものの、孤児院の手伝いになるのなら、とアリサがその依頼を引き受けたのが一昨日。
そして「生後3か月の子供」が、「生後3か月の悪魔」であることを知ったのは昨日のことである。
依頼主の少年は「ヨル」と名乗っていたが、彼女の形を見てその職業を薄々察したものらしく、しかし悪びれもせずにこう言っていた。
――だって「悪魔の面倒見てください」なんて、依頼書に堂々と書けないだろう? 誰が見ているか分からないのに。
(…詐欺じゃないでしょうか、これ)
今もってアリサの中ではそんな疑念が晴れないが、とはいえ一度引き受けたお仕事である。人並に責任感の強いアリサは放逐も出来ず、こうして教会の中で、「生後3か月の悪魔」の面倒を見る羽目に陥っていたのであった。
「ね、それよりアリサ。ハンカチって何のことなの?」
等と、昨日の依頼を引き受けるに至るひと悶着を思い出していたアリサは、小さな悪魔の声に我に返る。
「ああ、ハンカチですか? そうですね…」
生まれて間もない故にあまり知識も多くは無いらしい悪魔にどう説明したものか。柔らかな日差しの降る教会の廊下を歩きながら、彼女は言葉を繋ぐ。
「結婚式の日に、花嫁が手縫いで刺繍をしたハンカチを新郎に贈るんです。…サムシングフォーもそうだけど、そうすると幸せな花嫁になれる、という言い伝えがあるんですよ」
尤も、ハンカチを贈る風習はここより東の方に伝わるものだ。何でも新郎が東の出身で、花嫁は彼の郷里の風習に合わせて贈りものをしたかったのだと言う。新郎には内緒で、と頼まれれば、アリサが否を言える訳も無い。苦労して東方に伝わる図案について資料を取り寄せ、あまり刺繍が得意ではないと言う花嫁を祈る様な気持ちで見守ること1か月。ようやっと完成したハンカチは、花嫁にとってもこの上なく大切なものであったはずだ。
彼女の労を知るからこそ、アリサは思わずため息をつきたくなる。が、すぐに気を取り直して、アリサは部屋へと戻ることにした。彼女の労苦に見合う「代わりのもの」があるとは、到底思えない。それでも、
(大事な結婚式に、花嫁の心が曇ることがあってはいけないもの)
アリサはそう気合を入れ直していたのだが、
「そうだ、ねぇ、アリサ」
悪魔の言葉に、その場で頽れそうになった。
「愛、って、なぁに? 美味しいの?」
――生後3か月で常識は無いはずだ、と彼女に悪魔を預けた少年は申告していたが、それにしたってあんまりな一言だった。
「愛とは何かですか…」
珍しくもアリサは言葉に詰まりつつ、部屋の中で整理の行き届いた引出の中身を確認する。皺をきっちりと伸ばして畳まれたハンカチは幾らかあるが、これは代替品には決してならないだろう。
「うん。ヒトの感情の一種っていうのは、前に何かで読んだけど、具体的にどういうものなの?」
「具体的…」
更に言葉に詰まる。アリサは眉間に皺を寄せてしばし悩んだが、うまく言葉にはならない。
「綺麗なものだし、素敵なもの…だと、思います。…出会った男女を互いに結び付けて、家族を創り、また新しい命を繋いでいくものだもの」
けれどもアリサのそんな、浪漫を含んだ言葉は悪魔には響かなかったらしい。戸棚の時計の上にちょこんと腰を下ろした悪魔は不思議そうに首を傾げるばかりだ。では、とアリサは時計を見ながら、顔を上げた。
「愛は素晴らしいものですよ。儚いものだと言う方も居るけれど、私はそう信じています。…丁度今からお客さんが来ますから、一緒に話を聞いてみましょうか?」
きっとこの悪魔にも、何か伝わるものだあるはずだ、と信じて。
結婚式を執り行うことの多いアリサの下へ訪れる来客は、女性の方が割合としては多い。結婚した後でも、時折、何かと相談や、報告のためにアリサを頼ってくれる人もちらほらと居る。
「私の式のことなのだけれど、子供達の都合がやっとつきそうなの。予定が空いているか、確認して貰えるかしら」
ハンカチを失くした花嫁の後にやってきた来客は、初老に差し掛かろうという女性であった。髪にも白いものが目立つが、教会の椅子に腰を下ろす所作はしっかりとしたものだ。はす向かいに座り、アリサは彼女の言葉に笑みを浮かべる。
そこに、ねぇアリサ、と、すっかり耳に慣れてきた悪魔の声がこそこそと囁きかけて来た。
(このお婆ちゃんも、結婚式をするの? 花嫁さん?)
不思議そうな問いかけに、アリサも小さな声で返す。
(そうですよ。…結婚した時に色々と事情があって、結婚式は出来なかったんだそうです)
――そんな老婦人に、すっかり自立して、自身も家族を持つに至った息子や娘達が、還暦祝いとして結婚式を「贈る」ことにした、というのが事の経緯である。
「来月ですね。ええ、勿論大丈夫です。――この季節なら天気も落ち着いていることが多いし、良い式になりそうですね」
「花嫁はこの通り、お婆ちゃんだけどもね。…ふふ、今更こんな風にあの人と改めて愛を誓うなんて、何だか少し恥ずかしいわ」
でも悪い気はしないわね、と、微笑む老婦人は少女のような表情だ。ああ、いいなぁ、とアリサは羨望も込めて吐息をつく。
愛は目に見えない。音も、温度も、匂いもしない。
それでもこうして微笑む「花嫁」を見る時、アリサはそこに「愛」があることを確信するのだ。きっと結婚式は、そうやって、目に見えず、音も聞こえず、触れることも出来ないものを確かめる為にあるのではないかと、アリサは漠然とそんなことを考えている。
(でも、それをこの悪魔に分かって貰えるかしら…)
アリサ自身ですら言葉に出来ないものを、理解してもらえるのだろうか。
次の来客は、アリサが結婚式を以前執り行った女性。離婚してやる、と悔しそうに涙目で駆け込んできたから何事かとアリサは肝を冷やしたが、よくよく聞けば料理の味付けで対立しているのだと言う。――実は結婚直後の夫婦の間では意外とよくある出来事なので、アリサは内心で胸をなでおろした。
愛情は目に見えない。形にならない。
だから、ささいなことで「そこにある」ことを忘れてしまうのだ。
「…ほら、結婚式の時の絵です。依頼していたものが仕上がったので、お持ちしようと思っていたところでした」
折よく、教会にはこの女性が結婚した時の絵が届けられたところであった。幸せいっぱい、という表情の花嫁を描いたそれを広げて見せると、それまで拗ねたようにむくれていた女性が、ふ、と口元を緩める。まだ記憶も鮮やかな結婚式の日の話をするうちに、彼女はどうやら怒りを納めたらしかった。苦笑しながら、帰るわ、とアリサに告げて席を立つ。
「…落ち着かれました?」
「うん。絵、ありがとう。記念に絵を残す意味なんてよく分かんなかったけど、案外…そう、良いものなのね、これ」
そんなやり取りを、小さな悪魔はアリサの肩の上で、首を傾げながら、それでもじっと聞き入っている様子だった。
診療所へ運び込まれる怪我人たちを叱り飛ばしたり、治療したり、病人のお世話をしたり。その傍らで教会を訪れる未来の花嫁たちの話を聞きながら、あっという間にその日は夕暮れになっていた。アリサの肩の上をすっかり定位置にしていた悪魔がひとつ伸びをする。体躯は小さいし、神様から力を借りる類の治療魔術とは大層相性が悪いらしいが――何でも「聖なるもの」全般が苦手なのだそうである――存外に器用な悪魔は途中から、アリサの横で包帯や湿布を用意したり、お茶を淹れるのを手伝ってくれたり、猫の手程度にはアリサの助けにもなってくれた。
(…お世話をしてほしい、なんて言われて頼まれたけれど。別に誰かが面倒を見なくても大丈夫だったんじゃないのかしら)
そんな疑念を抱きつつ、アリサは、その日最後の教会の訪問客へと、視線を戻した。
目の前に居るのは、朝、ハンカチを失くして教会へ青い顔で駆け込んできたあの花嫁である。相変わらずの暗い顔に深いため息で、――矢張りハンカチは見つからなかったらしい。つられてため息をついてしまいそうな自分の気持ちをぐっと抑えて、アリサはどんな言葉をかけたものか、とお茶を差し出しながら少し思案し、
「ねーねー、アリサー」
本日何度目か分からないが、気の抜けた声で呼ばれて思わず脱力する。
振り返ると、いつの間に肩から飛び降りていたのだろうか。アリサの丁度目線の辺りで、小さな悪魔がふよふよと浮いていた。小柄な体躯にはいささか大きすぎる白い布を被って顔だけ出しているので、何だか空中に、出来の悪いお化けが浮かんでいるようにも見える。
「どうしたの?」
お客様の前ですからね、と少し嗜めるように付け加えつつ、アリサはふ、と、彼が抱えた布に視線を落とした。瞬きを一つ。
「…あら、これ…どこで?」
「アリサの部屋の箪笥の隅っこに仕舞ってあったよ。『愛』って、やっぱりよく分かんないけど、今日見た人達の持ってたフワフワしたものと、同じものが纏わりついてた」
あれが『愛』かなぁ、と、自己申告によれば「人間の感情を食べる」という悪魔が思案げに呟くのを余所に、アリサは彼の持ってきた白い布を持ち上げる。
不器用な刺繍には見覚えがあった。
「あ、アリサさん、それ――」
「…ええ。…本番で使うハンカチではなくて、先週、練習で作ったものですよね」
本番で使う方は布ももう少し上等だし、刺繍だってあと少し、もうほんの少しくらいはサマになっていた記憶がある。が、アリサはもう一度、ハンカチに触れて丁寧に皺を伸ばした。練習用に作ったものとはいえ、間違いなく、ここには心が籠っている。――感情を食べる悪魔のお墨付きだから、きっと。
「これで代用しましょうか」
多分、これ以上の代替品は出てこないだろう、と確信が出来た。勿論、本来使うべきだったハンカチが見つかるのが一番なのだろうが、きっとこれでも十二分に、神様は新しい家族になる花嫁と花婿を祝福してくださるはずだ。
アリサの言葉に、涙目の花嫁が大きく頷く。
その後ろで、やっぱり小さな悪魔は、よく分からない、というような顔をしたままだったけれども。
小さな悪魔はその日の夜には、依頼主が引き取って行った。アリサが彼の姿を次に見たのは、翌々日の結婚式の現場だ。不器用な刺繍のハンカチを贈られた花婿が、感極まって涙目で花嫁を抱き締めている。そんな幸せな風景を微笑みながら見守っていたアリサの視界の端に、結婚式にはそぐわぬ黒い人影がちら、と見えたのだ。
黒髪の少年――例の依頼主だった。その頭の上にはちょこん、と小さな悪魔も乗っている。幸せそうな人々に遠慮するかのように遠目にではあったが、アリサが小さく手を振ると、悪魔も手を振ってくれた、ように見えた。
「よく分かんないけど、『愛』って凄いんだってことは分かった!」
「愛、ねぇ。また、妙な知識をつけてきたもんだ。悪魔の癖に」
「ねーヨル、ところで何でさっきから、レシィの寝顔眺めてるの? それも愛?」
「ホントに余計なこと覚えて来たねお前」
「違うの?」
「さて、どうだかね。僕は専門家じゃないから知らないよ。…まぁ、色んな形があるからね」
アリサが依頼を終えた夜、遠い町のどこかでそんな会話があったとか無かったとか、アリサにはあずかり知らぬ話である。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【 3826 / アリサ・シルヴァンティエ 】
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