■古書肆淡雪どたばた記 〜マダムLのチョコレートレシピ■
小倉 澄知 |
【8636】【フェイト・−】【IO2エージェント】 |
その日、古書肆淡雪からは甘い香りが漂っていた。
甘さの中に苦みもある、どうもチョコレートの香りのような感じだ。
だが古書店店主はいつも通り……いや、いつもより心なしか困ったような顔で佇んでいるのみ。別に彼が何か作っているというわけではないらしい。
古書店内から香っているのは確かなのだが、出所ははっきりしない。
貴方が店主、仁科・雪久へと香りについてさりげなく問うてみると彼は困ったように1冊の本を取り出してきた。
途端に甘いチョコレートの香りは先ほどより強く。
「……これは、マダム・リサという人物が書いたものでね。チョコレートレシピの載ってる本なんだ」
初心者向けのショコラショーをはじめ、トリュフにオランジェット、ガナッシュや生チョコ、チョコムースやガトーショコラ、フォンダンショコラなんてものもある。
彼曰く「チョコレートマニア垂涎の本」で「マダム・リサの魂が宿っていると噂される本」なのだそうな。
それがどうしたのか? とばかりに貴方が視線を向けると雪久は更にこう語った。
「どうやらそろそろチョコレートレシピを試してみてほしいらしくてね……そういう時はチョコレートの香りを漂わせるんだよ」
意志ある本とでもいうべきか。魂が宿っているという噂は嘘では無かったのか。長い事チョコレートレシピを試す者がいないと、レシピの料理をつくってくれとばかりに、こうしてチョコレートの香りを漂わせるのだという。
モチロン、ただちょっと香りを漂わせるだけなら「良い香り」で済む。
しかし、放置しておくとこのチョコレート臭はずっと続く。それは流石に厳しい。ご近所からの視線も険しくなるし、古書店の営業上も問題が出るのだ。
「で、まあ、最初のうちは私が時々レシピを見てお菓子を作っていたのだけれど、この本、流石に私ではもう飽きてしまったらしくてね。新しく誰かにお菓子を作って貰いたいみたいなんだけれど――」
台所は貸すから、作ってみないかい? と雪久は貴方へと訊ねる。
勿論雪久も多少は手助けをすると言う。
「終わったらちょっとここでお茶会をしていってもいいしね」
どうだい? と雪久は貴方に本を差し出した――。
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古書肆淡雪どたばた記 〜マダムLのチョコレートレシピ
どう考えても、美味しい匂いがしていた。
「仁科さんいつからチョコレート屋さんになったの?」
あまりの良い香りに、古書店の扉をあけたフェイト・− (フェイト・ー)が開口一番そんな冗談を口にする程に。
一方古書店店主仁科雪久はちょっと困ったように笑みを返す。
「いや、一応まだ古本屋を廃業したつもりは無いんだけど……」
ふんわり漂う甘くてほろ苦いチョコレートの香りは食べられないのが不思議な勢いで、任務帰りだったフェイトがつい立ち寄ってしまうほどにリアルなチョコレートっぷり。
「あ、そうだ!」
そして困り顔のだった雪久はフェイトの顔を見てポン、と手を叩く。
「……ちょっと手伝ってもらえないかな?」
「流石仁科さんとこの本だな〜」
一頻り事情を聞いたフェイトはふふ、と笑った。極力堪えようとしたものの、やはり相変わらずな古書店店主と、彼を振り回す愉快な本についつい笑みがこぼれてしまう。
各地で発生している、ヒトとヒトならざるものの諍いなど冗談のようにここは平和だ。
その上雪久はちょっと肩身が狭そうに縮こまっているし。
「ご、ごめん……うちの本、ちょっと我が強くてね……」
彼の微妙な言葉にフェイトはついつい吹きだした。我が強い本って凄まじい言葉である。
しかしながらフェイトは笑いすぎて噎せながらにも頭を下げる雪久へと手で顔を上げるようジェスチャーで伝える。ようやく咳き込むのが止まったところでフェイトは今度はにっこりと笑む。
「俺で良ければ作りますよ」
「ホントかい? ありがとう、助かるよ」
雪久も笑顔を返し、本を差し出す。差し出された本は古びてはいるが装丁も上品で、何より普通なら漂う古書の匂いがなく、甘くて素敵な香りがする。
早速フェイトは本のレシピをチェック。台所に置かれた材料も確認する彼は「やっぱり基本は大事かな」などとすこし楽しそうな雰囲気。
「しかし手慣れた感じだね」
雪久の問いかけにフェイトはエプロンを身につけつつも答える。
「今は仕事が忙しくてキッチンに立つ事がなくなっちゃったですけど、昔は自炊してたんですよ」
あまりお菓子は作った事はなかったけど、と続けつつも、久しぶりの台所はなんだかわくわくする。
隣に立った雪久も手伝うつもりらしくエプロンを身につけ問うた。
「もしかして弁当男子だった?」
「そうです! 高校の時は毎日のように作ってましたもん」
あまりお菓子は作った事はなかったけど、と述べつつも早速チョコレートを刻みはじめる。
作るのはトリュフとガトーショコラの二品。基本をしっかり押さえていれば作りやすいものだが、慣れないうちは意外と難しい。ガトーショコラのメレンゲなんかは初心者の懸案事項と言っても良い。
「へぇ……器用だなぁ。私が高校の頃は……」
手慣れた様子に感嘆しつつ、雪久も思いだしたように語る。
「……購買部で買った菓子パン食べてた、かな?」
「体に悪いですよ」
今の彼からは考えられないとフェイトがついついツッコミをいれる。
「そうだよねぇ……でも若さに任せて菓子パンだったんだよねぇ……」
今は間違っても出来ないなぁ、等と雪久は笑った。
二人で台所に立ちそんなたわいない会話をするうちに、フェイトは過去の事を思い出す。
高校の頃、それ以前の事。それは久しぶりの台所が記憶を蘇らせたのかもしれない。
「よし、焼けた!」
オーブンから取り出したガトーショコラは良い香り。ケーキクーラーに載せつつ見るにふっくら焼き上がりどうやら懸案だった基本――メレンゲ作りも上手く行った模様。
「こっちも良く出来たみたいだよ」
雪久もトリュフの様子を見て述べる。その時フェイトは初めて自分が作った以外の何かも置いてある事に気づく。
「それ何ですか?」
「まあそれはおいといて……お茶の準備をするから出来たら席についてくれるかな」
にこにこ笑って濁しつつ、雪久はお茶の準備をてきぱきすすめていく。思いっきり流された。
三人分のお茶と、そしてガトーショコラにトリュフが並べられ、三人目の席には先ほどの古書が置かれている。
(仁科さんは毎年、この本のレシピを試してたんだなぁ……)
改めて考えると結構大変だろうという事はフェイトにも分かる。それに、恐らく世話しなきゃいけない本は、これ以外にもたくさんあるはずだ。
「仁科さん、結構負担になってたりしませんか?」
「何が」かは伏せつつ問いかける。雪久自身がどう思っているのかすこしだけ不安があった為かもしれない。だが雪久はあっさり答える。
「うん。結構この本たちの世話ってやっかいなんだよね……」
「でも手放さないんですよね?」
重ねた問いかけに雪久は困ったようにぐるり、と室内を見渡す。フェイトもつられたように周囲に視線を投げかけると、いつものように取り囲むように本棚が並び、ぎっしりと本が詰まっていた。
――もしかして、これ全部が「我が強い本」だったりするんだろうか?
「そりゃあ、世話できる人が欲しいと買い取りにきたら手放すけれど……大体、無理なんだよねぇ……」
がっくりと肩を落とした雪久にフェイトもついつい納得しつつ……同時にきっと「買い取りたい人」がいないのではなく「お世話できる人」がいないんだろうなとぼんやり考える。
そしてぼんやりしてたら不意打ち気味に問い返された。
「フェイトさんは、つらい事ないかな?」
「結構昔は辛い事って多いなって思ってたけど、それは今になってもそうで……」
ぽろり、とフェイトの口から零れる。
決して言わないつもりだったにも関わらず口に出てしまったのは、少々気が緩んだ為かもしれない。
思い出せば思い出す程に、過去の出来ごとは辛い事も多かった。
成長して大人になって、色々な事が出来るようになったなら、世の中のどんな困難も渡っていけると思っていた。
だけれど、目前の現実は今も変わらず厳しく、そして辛い。
足を止めてしまいそうな時だってある。それでも――。
「でも、自分で選んだ道だから……辛い事があっても前に進める」
フェイトはきっぱりと雪久の目を見つめ述べた。
「凄いね」
決意の籠もったフェイトの視線に、雪久は穏やかな視線を向け、そして申し訳なさそうに「私はちょいちょい休んでのんびりしているからなぁ」と笑う。
「辛くても進めるのはホント凄い事だよ。でも、しんどい時は、周りを頼ったり、少し休んで考えたりしてもいいと思うんだ。で、休んだりするには甘いものが一番……と私は思うね」
にっこり笑って差し出される、オレンジ色の何か。
「これ、さっきの……?」
受け取ってよくよく見ると、煮込んだオレンジを乾燥させ、チョコレートをかけたもの――オランジェット。
「そう。いつもお世話になってるのに、何もお礼が出来ないのも申し訳ないし。折角だから作ってみました」
くすくす笑う彼は楽しそうだ。
口に放り込むとチョコレートの甘さの中に、オレンジの酸味と皮の仄かな苦みが広がる。ちょっと大人の味、かも知れない。
「初心は……ある意味私と一緒かな?」
雪久は自分がこれらの本を古書店という形で管理するのには、本達から人々をある程度守るという意味も含まれるかもしれないと語った。同時に、その逆も。
恐らくフェイトが今の仕事を選んだのと同じように、雪久も古書店店主である事を自らの意志で選んだのだろう。
更に、彼は最後にこう続けた。
「それに、もしかしたら、この店を続けることで、私の仕事が君たちの助けになる日も来るかもしれない……なんて思ってる」
「……えっ?」
フェイトは口に運ぼうとしていたティーカップを手にしたまま小さく尋ね返す。だが雪久は答えない。
彼には未だIO2の仕事の話はしていなかったはずだ。
守秘義務だってあるし、フェイトにも職業人としての矜持もある。間違っても漏洩などはしない。
IO2はそもそもが非公開組織だ。バックに各国の政府クラスが絡んでいる為組織としての力は絶大だが、一般人がその存在を知るわけが無いのだ。
フェイト自身もそういった理由により表向きは警察組織のものとして扱われている。
IO2は超常現象のたぐいをヒトの法のうちで管理すべく動いているのだ。
だがそれは、ある意味で雪久と本との関係と似ているかもしれない。
――協力者なのか。それとも?
フェイトの表情に緊張が走ったのを見て取ってか雪久はへらりと笑った。
「なーんてね。こんな呪われっぽい本達だって色んな事に役立つよ? 凄いレシピとか載ってたりするから、近所のおばちゃん方とかにね――」
たわいない雑談がはじまり、フェイトもそれ以上ツッコむ事も出来ず、いつもの会話へと戻っていく。
(……気のせい、だったのかな……?)
すこしだけ疑問も残しつつも、のんびりとした会話と、のんびりとしたお茶を楽しむうちに、気づけばあれだけ強く漂っていたチョコレートの香りも綺麗さっぱり無くなっていた。
フェイトが帰ろうと店の外に出た頃には、仕事の帰りに寄ったこともあってとっぷりと暗かった。
「大分遅くなっちゃったね。ごめん」
「いえ……なんだか気分はすっきりしました」
改めて決意を口にしてみて、なにか迷いがふっきれたような気もする。
「ちょっと休みたくなったらいつでもおいで。ただ……ゆっくりできるとは限らないけれど」
述べた雪久の片腕には「我の強い本」ことマダム・リサのチョコレートレシピが抱えられている。ついついフェイトの表情が綻んだ。
確かにゆっくりはできないかもしれない。
それでも――。
それでもこの古書店で起きる出来事は、どこかのんびりしていて、同時にハチャメチャで、普段とは違った気分にさせてくれる。
そして、学生時代に帰ったような懐かしさも。
辛い事は多かった。だけれど、辛い事ばかりじゃない。
今だって、やっぱり辛い事ばかりじゃない。
「また来ますね!」
フェイトは雪久へと手をふり、元気な笑顔で店から遠ざかる。
明日からの仕事は、また新たな気分で挑めるはずだ。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
8636 / フェイト・− (フェイト・ー) / 男性 / 22歳 / IO2エージェント
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■ ライター通信 ■
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お世話になっております。小倉澄知です。
というわけで、フェイトさんのお仕事に関するお話もほんのり入った感じです。
この度は発注ありがとうございました。もしまたご縁がございましたら宜しくお願いいたします。
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