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■【ふじがみ神社】はた迷惑な夢の国■

夜狐
【8556】【弥生・ハスロ】【魔女】
 神社に、桜が咲いた。立派な古木に溢れんばかりに。花びらが雪のように降る如くに。立派な立派な、桜が咲いた。
 ――のは、ずいぶん昔のことで、その古木はとうに切られて久しいはず、なのだが。



「桜が咲いてるわね」



 桜は咲いていた。現実と季節と、色々な物理法則をぶっちぎりで無視して咲いていた。
 当たり前だ。あれは夢の中の世界。夢の中の世界の桜が、どういう訳だか現実の神社まで浸食している。

「ごめんなさいすみませんあたしが悪かったですそろそろ下してください佐倉先輩」
「しばらくそこで頭を冷やしなさい天然暴走トラブルメーカー」

 冷淡な声は木の根本。平謝りに謝る声は木の上から、それぞれ聞こえて来る。冷淡な方が嘆かわしげに、呟いた。

「全く。仮にも神様ともあろうものが、<夢魔>に憑かれるなんて前代未聞だわ…」


 夢魔、というものがある。一般的には魔物の一種として伝えられる名称だが、一部の錬金術師にとっては、「望んだ夢を見る為の道具」として伝えられてもいる、一種のマジックアイテム、ないしは使い魔的なもののことだ。対象へ憑依させて使うものなのだが、稀に暴走を起こすため、あまり好まれるものではない。
 ちなみにこの場で桜を咲かせている元凶は、後者の方である。絶賛暴走中の<夢魔>――それがこの、「あり得ない桜」の元凶であるらしい。
 ――そんな風に説明されたことを思い起こしながら、苛立たしげに腕を組む木の根元の少女。そのすぐ目の前、古木に体を預けて、一人の少年がぐーすか寝入っていた。

「しかもこんな肝心な時に、使えないバカは寝てるしね…全く」
「超絶憑依体質の先輩が<夢魔>に憑かれなかったのに、藤が先に憑依されるなんて珍しいね」

 ふと思いついた風な樹上の問いかけに、額をおさえて佐倉は応じた。吐き捨てるように容赦なく。

「このバカはね。あたしを庇って憑依されたのよ。どうしようもないクズだわ。アホだわ。救い難いと思ってたけど私の想像以上に救えないバカだったのねこのバカ。ダイバカ。」
「うわー助けたのにそこまで言われちゃ散々だよ先輩、いくら藤でも可哀想だよ」
「事実でしょうが。…こんな、わけのわからない事態、ただの憑依体質の私にどうしろって言うの。こういうときにこそ、このバカの方が必要なんでしょうに」

 溜息をついて、少女は少年の頭を叩いた。割と本気で叩いたように見えたが、少年が目を覚ます様子はない。樹上につりさげられた――どうやら木の根元の少女がやったらしいが――少女が、ううんと唸った。

「先輩ってツンデレ?」
「私は事実を指摘しただけよ。…それで響名。<夢魔>とやらはどうすれば除去できるの?」
「うーん、ホントなら夢の中に入る必要があるから、特別な魔法なり、能力なり、道具なり必要になるんだけどね。そんで夢を見てる本人をたたき起こすの。でもこの夢、現実側までバリバリ浸食してるからなぁ。多分この桜の咲いてるトコ…神社の裏に続いてるのかな?そっちの方行けば、寝てる本人たちもいるんじゃない?」
「またずいぶんと曖昧なのね」

 佐倉がまた、溜息をつく。樹上の少女、響名を見上げて、冷たい目をした彼女はこういった。

「――これはあなたの作った<夢魔>でしょう、響名」
「いや、あたしもまさかここまでとんでもない性能を発揮するとは」
「お黙りなさいこのへっぽこ錬金術師」

 ぴしゃりと言い置いてから、彼女はまた腕を組んだ。春の匂いがするやたらと優しい眠りを誘う風に抗うように、眉根を寄せてしかめつらをする。――元来、ありとあらゆるモノに憑依されやすい体質の彼女は、ここに居るだけで<夢魔>に誘われそうなのを懸命に堪えていたのだ。

「全く。神社の関係者がこぞって倒れたりしたら、誰がこの桜の説明をするのよ…。響名、あなた、ちゃんと責任とりなさいよ。とらないと後で酷いわよ」
「既にひどいことになってるよ…」

 縄でぐるぐるに縛られた上に桜の枝のひとつにつるされた、ミノムシのような恰好の少女・響名は、呻くように答えたが。
 ――どうやら佐倉には聞こえなかったようだ。彼女は、根元に倒れ込むようにして、眠ってしまっている。
 じたばたと暴れながら、響名は叫んだ。

「せめて縄を解いてから倒れようよ、せんぱーい!」




 少女の甲高い悲鳴を聞きつけたか、それとも場違いな桜の花に惹かれたか。神社に訪問者が訪れるまで、まだしばしの時間が必要だ。
そこは神様の夢の中


「助けてー誰かー」
 切迫感の欠けた悲鳴ではあったが助けを求めるものには相違ない。あら、と顔を上げて、弥生――弥生・ハスロは丘の上を振り仰いだ。額にじわりと浮かぶ汗をタオルで拭い、エコバッグを抱え直す。普段利用する場所から少し離 れた位置にあるスーパーまで買い物に出かけたその帰り道のことだった。
 興味のままにふらりと声のする方へと向かう。小高い丘には石段があり、その先には鳥居があった。
(こんなところに神社があったのね)
  声は神社の境内から聞こえている。神社からは真夏の、蝉の声降り注ぐ中には些かならず不似合な花の香りが鼻先をくすぐり、再度あら、と首を傾いで弥生はも う一度バッグを抱え直す。参拝ついでに誰ぞ本当に困っているのならば話くらいはと思って石段に足をかける――その瞬間だ。皮膚を撫でるような違和感。敵意や拒絶を感じる類のものではないのだが、弥生は眉根をぐっと寄せる。
(結界?)
 思った以上の厄介事だったかと身構えつつ視線を上げた彼女はそのまま目を瞠る。視線の先、境内の中に、堂々と咲き誇るのは、真夏の日差しの下で見るはずのない――桜だったのだ。そういえば神社に近付いた際に鼻先をくすぐった香りは桜のそれであったようにも思う。
「助けてー」
 境内から響いている少女の声だけは先程までと変わらない。しばし思案したものの、弥生はひとつ息をついて、せっせと石段を登り始め――ようやっと鳥居をくぐった先は木陰が多いせいかいくらか清涼な風が吹いていた。汗を拭って一息ついたところで、頭上から声をかけられる。
「あ、人だ!」
「あら」
 顔を上げれば恐らく先程からの悲鳴の主なのだろう。少女が一人、桜の老木の枝に吊り下げられている。大変、降ろさなきゃ、とナイフのひとつも無かったかと懐を探りつつ駆け寄り、更に弥生は気付く。老木の根元に折り重なるようにして、少年と少女が二人倒れ込んでいるではないか。いよいよ慌てて近付いてみれば息はしているようだが、何かが起きているのは確かなのだろう。
「これは一体…」
「大丈夫大丈夫。そこの二人はさくらちゃんの夢魔に取りつかれて、さくらちゃんの『夢の中』に閉じ込められてるだけだから」
 手際よく弥生が枝に絡んでいた縄を切ると、こちらもどうも慣れた様子で自身を縛る荒縄を解いて、何でもないことのように少女は肩を竦める。
「事情を聴いてもいいかしら」
 さて、そんなことを問いつつも最初に弥生が考えたのは、いつまでに帰れば夕飯の支度に支障が出ないだろうかという一点であった。




 他方その頃「夢の中」に居た二人は、途方に暮れていた。「現実側」では桜の根元で折り重なるように倒れていた少年と少女――和装の二人は、腕組みをしながら、「夢の中」の風景に頭を抱えていたのである。
 眼前にはいつも通りの、つまり現実側と同じ境内。桜の古木だけはこちら側でも立派に花を咲かせていたが、その枝ぶりの良い樹の上に、一人の青年が寝そべっている。
「さくら様ー、いい加減起きませんか」
 少女の方――桜花がうんざりしたような調子で、もう何度目かもしれない催促をするのだが、樹上からは呑気な欠伸だけが返ってくる。狐面を被った青年らしき人物は、薄紅の花弁の中に埋もれるようにしながら、裸足の肢を揺らしているばかりだ。
<だからさっきから言ってるじゃないか。美味しいものを供えてくれたら、目を覚ますって>
「…とは仰いますけど」
 嘆息する少女の前には様々な料理が並んでいた。和洋中にお菓子に果物、彼女が想像しうる範囲のものは提案してみたはずなのだ。加えて言えばここは「夢の中」であるから、イメージだけで幾らでも料理を出現させることはできる。にも関わらず、神様にはご納得いただけないらしい。
「これ以上、私にどうしろと仰いますか。あと藤、あなたも仕事しなさい」
 言葉は途中で隣の少年を詰る色を帯びる。水を向けられた袴姿の少年は、バツが悪そうに、しかし拳を握って主張だけはしっかりとした。
「が、頑張っただろ!」
「……『美味しいもの』というリクエストでカップ麺を想像して生み出すような馬鹿がどこに居るの」
「美味しいじゃん!!」
 いいだろ俺は好きなんだよー! 等と声が響いた丁度そのタイミングだった。弥生が「現実」から「夢」へ足を踏み入れたのは。彼女は辺りをぐるりと見渡し、樹上で興味深げに新たな訪問者を眺める「神様」と目が合った――合ったように、思う。実際は、「神様」の顔は狐面で半分隠れているうえに直視すればぼやけてしまうようで、はっきり見ることは叶わなかったが。
「――どちら様かしら」
 尖った声は少女の発したものだった。警戒されてるな、と弥生は苦笑して敵意が無いことを証明するために両手をあげ――ようとしたところで、手に抱えていたエコバッグに気付く。現実世界で手にした荷物を、どういう理屈だかそのまま夢の中まで持ち込んでしまったようだ。
 仕方が無いので片手を挙げて、彼女は笑みを浮かべた。
「通りすがりの魔女よ。境内で変な悲鳴あげてる女の子が居て、話を聞いたら放ってもおけないと思ってね」
『魔女…』
 期せずしてだろうが、少年と少女の声が重なる。とはいえその声のトーンはまるで違っていた。少女の方は怪訝そうに。少年の方は楽しそうに。
「そっか、じゃあお手伝いに来てくれたんだ。ありがとう! 俺、藤って言うんだ。こっちの愛想のない美人は俺の嫁で桜花ちゃ」
「誰が嫁だぶん殴るわよ黙りなさい。――佐倉桜花よ。あなたの言ってた『女の子』って、響名のことね? あの子ってば余計なことをするんだから…」
 腕組みをしていた巫女の少女が深々と嘆息するもので、弥生は慌てて手を振った。
「ああ、違うのよ。私が事情を聴きだしたの。彼女は『深入りすると危ない』って、引き留めてくれたわ」
 ちなみに彼女――響名の言葉は「どうせ藤と佐倉先輩が一緒に居るんだから、きっと二人がどうにかするよ」という信頼感なんだか責任放棄なんだか判断に困る内容が続くのだが、その点は伏せておいた方が良かろう、と弥生は出会ったばかりの桜花の眉間の皺を見ながらそう考えたのだった。歳の割に苦労の多そうな、あるいは気難しそうな性格が垣間見える。
「それに、私も…ちょっとね。神様のお手伝いできることがあるなら、是非にって強く言ったもんだから」
「…まぁ、そうね。あの馬鹿な後輩がそんな殊勝なこと言うとは思えないけど一応は信じておくわ。でも、魔女さんの出番なんてそうそう無さそうなんだけど」
 弥生があえて伏せた内容を薄々察してか、桜花はそんな風に告げて、樹上の青年へ視線を移す。つられて一緒に桜を見上げ、弥生は改めて見上げる満開の桜に、思わずと言った風な感嘆の息を漏らした。
 美しいものはそれだけでも魔性が、力が宿ると言う。弥生もそんな言葉を聞いたことがあった。
 これだけ立派な桜であれば、そりゃあ神様くらい宿るだろう。そう納得させるだけの、華麗な佇まいであったのだ。
「…そんなに褒められると照れるなぁ」
 のんびりとした声に、見惚れていた弥生は我に返る。声は樹上から、この「夢」に足を踏み入れて最初に弥生が見上げた、満開の桜に埋もれるようにして大ぶりの枝に寝そべる青年の方から聞こえた。和装の青年は狐面で顔を半ば隠し、けれどもどうやら笑っているらしい気配だけは漂ってくる。彼のくすくす笑いにつられるように桜の樹も震えた。
「あなたが神様?」
「さくら、と人には呼ばせているんだ。そう呼んでくれると嬉しい。君は?」
「ああいけない、自己紹介が遅れたわ。…弥生・ハスロです、神様…さくらさん? の方がいいかしら」
 いかに神様からの要望とは言えども、呼び捨てにするにはかなりの抵抗がある。弥生がそう呼ぶと、また樹上で笑う気配があった。
「弥生か、良い名前だね。春の先触れの名前だ」
「…さくら様」
 嬉しそうなさくらの声を、しかし冷たく遮ったのは桜花の鋭い呼びかけであった。彼女は冷たい視線を樹上へ向けて、重ねて告げる。
「無関係な通りすがりの方まで巻き込んでしまいましたし、お遊びはお仕舞にしましょう。夢から覚める時間ですよ」
「そうだよ、さくら」
 横から少年――藤も言葉を続ける。
「美味しいもんなら、目を覚ましてからだって食えるだろ」
「そりゃあそうだけどね。折角こんなに桜が咲いていて良い気分なんだから、旨い酒か、ご飯は欲しいだろ」
 その理屈は分かるような、さっぱり分からないような。
 事情が分からないままに弥生は神様を見上げ、それから桜の樹の下にずらり並んだご馳走に今更ながら気が付いた。何分「夢の中」なもので、焦点を合わせない風景やら事物はぼやけてしまってどうにも見えづらいのが難点だ。
「どういう状況なのかしら」
 首を傾げると、隣に来ていた藤がにこにこと人好きのする笑顔で答えてくれた。気難しそうな桜花と正反対の性格であるらしい。
「さくらの奴が、『美味しいものを食べさせてくれたら、目を覚ましてやってもいい』なんて遊びを提案するもんだからさ。ここ夢の中だから、想像さえ出来ればどんなご馳走でもこうやって生み出せるんだけど」
 説明しながらご丁寧に実演して見せてくれたのは、よく駄菓子屋でこの季節売っている、小学生でも買えるお安いアイスキャンデーだ。ラムネ味のそれが突然彼の手の中に出現し、それをぱくりと食べて「うんうん、この味だよなーこの季節は!」等と楽しげに彼は頷く。一口齧ってから、彼はアイスで樹上をぴしりと示した。
「でも、どんなご馳走を想像してみても、さくらの奴、うんともすんとも言わないんだよ」
 ふぅむと弥生は思案し、そして手にした重みにふと意識を向ける。夏野菜はそのまま焼いても十全に美味しい――季節の野菜はいつだってそうだが。
「ねぇ、神様って、お肉が駄目とかお魚が駄目とか、そういうルールがあるの?」
 生憎と彼女は多少の魔術に通じてはいても、神饌としてどういったものが相応しいのか、といった知識はあまり縁が無い。エコバッグの中身を思い起こしながら問えば、目の前の二人は一度顔を見合わせた後、
「さくら様は節操なしだから、樹木神の癖に何でも食べるわ」
「酒も日本酒からワインにウイスキーまで何でもござれだしなー」
「…要は、供える人間の気持ちよね。神様なんて大概そんなものよ、気持ちさえ籠っていれば何でもOK」
 あけすけな二人の言葉に、樹上から些か呆れた調子の声が降ってきた。
「……お前達は少し私を敬うことを覚えなさい、二人とも。一応神職なのに」


 弥生の提案はこうだ。現在彼女の抱えたエコバッグには、近隣の八百屋とスーパーを梯子して買ってきた夏野菜がたっぷりと詰まっている。
「目の前で作って差し上げたらどうかしら」
 夢の中だからと、手順を省略して二人は完成品だけを捧げていた訳だが、桜花に言わせれば「気持ちが大事」らしい。勿論既製品に気持ちが籠っていない、という訳でも無いが、折角だから神様の目の前で手ずから作ればどうだろうか、と考えたのだ。とはいえ弥生は、「神様」とこうして相対して、何かを奉じる、なんて経験が殆どなかった。
(…何せあまり良い感情を抱いていなかったから)
 それは無論のこと、過去のことではある。現在の弥生はそのことを多少なりと悔いているのだ。
(――別にこんな些細なことで贖罪が出来るなんて、思っている訳ではないけども)
 どうだろうか、と提案すると、先に頷いたのは藤の方だった。お気楽思考らしい彼は「面白そう!」と顔を輝かせる。
「なぁさくら、どーかな。俺と桜花ちゃんと弥生ちゃんでご飯作るっての」
「…そうだね。私は基本的に作ってもらった完成品しか目にすることが無いから、物珍しくはあるねぇ」
 ビンゴ、と楽しげに彼が笑う横、その頭を桜花が軽く小突く。
「藤、あなた手伝いなさいよ」
「え、俺!? …カップ麺と冷凍ご飯とチャーハンとお粥と味噌汁しか作れないよ」
「それだけ作れるなら充分じゃないかしら…」
 特に味噌汁は和食の基本だ。この年齢の男子高校生がそれを作れる、と自負するのも珍しい。感心する弥生を横目にちらりと見て、桜花が額を押さえた。
「材料は何が必要かしら。弥生さん、そのバッグの中身は? …使っても良いの?」
「うーん、そうね。…ま、大丈夫よ、買い足せば済むことだし」
 少し思案はしたものの、結局弥生は笑ってそう告げることにする。財布は痛むが、ここで彼らを見捨てることだけは出来ないし、それを考えれば多少の財布の痛みくらいは仕方のないことだろう。すると桜花は眉根を寄せて、それからこそりと耳打ちした。
「…目が覚めたら、うちの冷蔵庫から少し融通するわ。今日は買い物したばかりだから」
「別にいいのに」
「私が気になるのよ。…この量だとご家族が居るのね」
「そうよ。最近三人になったの」
 そのことを告げるのは、少しだけ晴れがましい気分になる。桜花は一度目を瞠ってから、僅かに口元を緩めた。
「それはおめでとうございます。…猶更早く済ませて、あなたを帰らせてあげないといけないわね」
「ふふ、ありがとう。ところで、何を作ればいいかしら。神様の好物とか、あるの?」
「特に好き嫌いはされないわ。何作ろうかしら」
 旬の野菜をずらりと並べ、彼女が一度目を閉じる。辺りの風景がふわりと歪んで、境内のど真ん中にこつ然とシステムキッチンが出現した。
 ――そういえば「夢の中」だと言っていたな、と今更実感する弥生である。
「とりあえずは材料並べて考えましょう。藤! トマト盗み食いしようとしないの!」
「えー、これはこのまま冷やして食おうよ。それが旨いよ」
 藤の言葉も尤もだと思えて、弥生は笑って、それから桜花に倣って目を閉じてみた。冷たい井戸水と氷もあれば良い。あとは多少の塩。
 イメージすると、目の前には思い描いた通りのものが現れていた。ボウルに触れればキンと冷たい水がたっぷりと張られて、その横に小ぶりの塩入れがある。その中へえいやとトマトを放り込む。
「さくらさん、それでも食べて待っててくださいな」
「ああ、いいね。この時期のトマトは美味しい」
 桜の樹から花が綻ぶような気配があったので、どうやら一先ずは、彼の興味と感心を得ることは出来たようである。


 さて、こうして調理が始まった訳であるが。何でも聞けば家事を殆ど一手に担っているらしい桜花は勿論、割と家の手伝いをしているという藤まで、「出汁の取り方」「包丁の扱い方」「各種野菜の取り扱い方」といった基礎部分がしっかり叩き込まれていたもので、
「……若いのに凄いね」
 思わず尊敬の眼差しを向ける弥生はと言えば、料理をこなせるようになってきたのは割と最近だ。鰹と昆布と干しシイタケの出汁の取り方なんて、彼らと同じ年頃の頃は考えたことも無かったように思う。弥生の賞賛を受けた二人はと言えば、何やら苦笑とため息をそれぞれに漏らしながら、
「…身近に食道楽が居ると、どうしてもね」
「そうなんだよなー。さくらは節操ないし、気持ちさえこもってればいいって言って何でも食べるけど」
「もうお一人の神様がね…」
 等と愚痴っていたので、どうやらこの神社のもう一柱の「神様」は些かならず気難しいお相手であるようだ。
 そんなやり取りをしつつ、境内のど真ん中、桜の木陰で出汁を引き、ネギと油揚げ、ワカメとお豆腐を用意する。味噌が無いな、と考え込んでいたら目の前にぽん、と弥生の使い慣れている自宅の台所にあるいつもの銘柄の味噌が出現したのは驚いた。桜花曰く、「使い慣れたものは夢の中に呼び出しやすい」らしい。
 その隣で、鼻歌を歌いながら藤がコンロの火を調節している。
 どんなものでも出現させられる「夢の中」でもある程度は限度があって、何でも「よく理解できていないもの」や「見たことが無いもの」は呼び出せないらしい。結果として、三人で頑張ってみたものの、便利な炊飯器は残念ながら呼び出すことが出来ず、「俺、土鍋があればコンロでお米炊けるよ」という意外な特技を申告した藤が白米を任されることになったのだ。その隣ではあく抜きを済ませた茄子を飾り切りにして、桜花が鍋に油を入れている。
「出来れば電子レンジも呼び出せれば便利よねぇ」
 嘆息しながら告げた通り、電子レンジは残念ながら呼び出せなかった。弥生も自宅で愛用している電子レンジをイメージしてみたりもしたのだが、出現したものは曖昧に輪郭がゆらゆらと蠢く物体だったので、使うのは危険だ、という結論に三人で至っている。
「茄子は電子レンジで一度暖めてから油に入れた方が、油をあまり吸わないのよ」
「あ、なるほど。今度やってみよう。桜花ちゃん詳しいわね」
「そうね、独学だけど勉強はしているわ。何だかんだ言って料理は好きだもの。美味しい美味しいって言って、食べてくれる人が居るものだから」
「…ああ、なるほど」
 二度目の「なるほど」は少し笑いを含んだものになった。弥生の笑みに気が付いたか、桜花は一度小さく舌打ちをする。
「……今のは藤には黙ってて。調子に乗るから」
「え、何。桜花ちゃん、俺の話?」
「黙ってご飯の用意をしてなさい、この馬鹿」
「俺仕事してるのにいきなり馬鹿呼ばわり!? 酷くね? 弥生ちゃん、何の話してたの? 教えてよ」
 どうでもいいがこの少年、明らかに年上の弥生を臆せず「弥生ちゃん」と呼ぶ辺り、図々しいと言うか良い度胸をしていると言うべきか。苦笑しつつも、弥生は何でもないわよー? と含みを持たせた口調で返す。
「何だよー、気になるなぁ」
 ぶつくさ言いつつ土鍋の見張りに戻る藤の頭上、待ちきれなくなったのか桜の枝からふわふわと空中を滑るように移動してきたさくらが、好奇心いっぱいの様子で弥生の前の鍋を覗き込んでいる。
「それよりご飯はまだかな。良い匂いがしてきた」
「うふふ、こちらはもう少しです。気になりますか?」
 弥生の問いには、うん、と素直にさくらが首肯する。
「料理を目の前でしてもらうのなんて随分と無かったからなぁ。包丁の音や匂いや、鍋の煮える音だけでも、随分と楽しくなるものだね」
「そうですね。そういったものも含めて、お料理の美味しさなんだと思いますよ」
 弥生の言葉に、ここまで殆ど表情を崩さなかった桜花が破顔する。
「本当にその通りね。朝早くにお鍋に火をかける音とか、パンを焼く音とか。食べ物ってそういえば味覚だけ愉しむものじゃあ、なかったんだわ」
「あー、だからさくらは、俺達の『お供え物』に全然興味示してくれなかったのか」
 桜花の言葉に、土鍋を火から降ろしながらこちらも納得顔で藤が答えたのだが、

「え、いや、私はそこまで考えてなかったよ」

 あっさり当の神様に否定された二人は「じゃあ何でですかッ」「何で駄目出しばっかりしてたんだよ!」とさくらに詰め寄っていた。






 さて、それでは、とコンロから降ろされ、十分な時間置かれた土鍋のふたを開いて、弥生はしゃもじを片手に目を閉じる。思い浮かべるのはいつもの食卓。幼子の賑やかな声と、そこで一緒に「いただきます」と手を合わせる大切な人の姿が足りないのは寂しかったが、目を開けば目の前には見慣れた彼女の自宅の食卓が確かに出現していた。ただし並んだ食器には見覚えが無いから、こちらは桜花と藤が生み出した「夢の産物」だろう。
「さっきまでの豪勢な食事に比べれば見劣りしますけど、どうぞ」
 炊き立ての白米を茶碗によそい、それから湯気を立てる味噌汁と、オクラと茄子は濃いめの味付けの揚げ浸し。キュウリはそのまま冷やしたものと、それとは別にタコと一緒に酢の物に仕立てたものが一品。先程からしっかり冷やして塩を振ったトマトも一緒に食卓に並べられた。
(ありゃ、思ったよりも地味な絵面になったわねー)
 弥生は苦笑したものの、さくらの感想はまた別だったらしい。彼は興味津々という様子で「すごいね」と感嘆の声をしきりに繰り返してから、
「ほらさくら様、ご飯が冷めてしまいますよ」
 桜花に指摘されてようやく思いついたように、食卓に座った。それから手を合わせて「いただきます!」と元気よく宣言し――それからぐるりと、場を眺める弥生たち三人を見渡す。不思議そうに首を傾げて彼は一言。
「ほら、一緒に食べるよ」
「へ?」
 予想外の提案にぱちくりと目を瞬かせる弥生を余所に、この神様との付き合いが長い少年少女は、それぞれに肩を竦めたり「はぁい」と呑気に返事をして、当たり前のように神様と同じ食卓に座る。それから、それこそ不思議そうに弥生の方を見た。
「弥生さん、どうぞ。見ているだけではつまらないでしょう。大丈夫、夢の中ですから、食べても太りませんよ」
「弥生ちゃん、座りなよ。あ、そうだ、弥生ちゃんの分のお箸も用意するから待っててね!」
「ええと、あの、よろしいので?」
 上座に座る神様に問いかけると、彼は彼で不思議そうに、当たり前のことのように。
「美味しいものはみんなで食べるのが一番だよ」
 あっけらかんとそんなことを言うもので。
「……そ、そういうことなら…」
 ――過去の自分に出会うことがあれば是非、「いずれ神様と食卓を囲む機会がある」と伝えたいものだ、と弥生は心密かにそんなことを想いながら、用意された箸を手に取る。
(さて、私はどんな顔をするかしらね…)
 多分今だって、自分は相当驚いた顔をしているはずである。それ以上に、――楽しい、と思えたのが不思議でもあった。
 そうして夏の日差しと満開の桜というミスマッチ極まりない風景の中、神様と一緒に味噌汁を啜る。
「ああ、これは美味しいね。お味噌はどこの?」
「ふぅん、ウチとは味噌が違うのね。今度試してみようかしら」
「おかわりー!」
「…少し遠慮したらどうなの、藤」
「あはは、まだあるから遠慮せずに…って夢だから、別に量とか気にしなくっていいのか。藤くん、まだ食べる?」
 食べ盛りだねぇ、と、弥生の顔は知らず綻ぶ。いずれは我が子もこんな風に食べ盛り、伸び盛りの時期を迎えるのだろうか――それこそ想像もつかない話ではあるが。
「神様にも、お気に召していただけましたか?」
 満足げに味噌汁を最後の一滴まで飲み干す神様の姿に思わず緩む口元を抑えつつ問えば、狐面の(食事中でもどういう理屈なのか、お面は外れなかった)神様は、お箸をおいて一言。
「――ご馳走様でした」

 その挨拶が合図だったようだ。
 ぱちりと何かが弾けるような音がして――弥生は、目を覚ました。



「弥生ちゃん、だいじょーぶー?」
 夏の日差しに眩暈を感じつつも身体を起こせば、どうやら弥生は境内の端で倒れ込んでいたものらしい。身体についた砂礫を払いつつ立ち上がると、心配そうな顔をした、さっきまで夢の中に居た少年少女と目が合った。
「藤君と、桜花ちゃん」
「そうよ」「そうだよー! 目が覚めたみたいで良かった!」
 確認するように名を呼べば、二人はそれぞれの調子で応じる。そして桜花が――夢の中と違い、現実の彼女は高校の制服姿だった――手を差し出す。そこにあるのは見慣れたエコバッグだ。
「…これ」
 中を覗いて、弥生は目を瞠る。
「さくら様から。『楽しかったから、お礼』だそうです」
 夢の中で確かに一度使い切ったはずのバッグの中身は減るどころか、明らかに増えている。更に、この季節には見られるはずのない桜の花が一片、バッグの中に忍び込んでいた。バッグを手渡した桜花は、それを見て「あら」と苦笑する。
「さくら様ったら、余程あのお味噌汁が気に入ったのね。…良かったら、現実側でも一度奉納してくださると嬉しいわ」
「え、お味噌汁を?」
「お味噌でもいいわよ」
 生真面目な調子の桜花の言葉は冗談なのか、本気なのか。今一つ読み切れず、弥生はふぅと息をついて、それから夢の中では桜の古木がそびえていた場所を再度振り返る。
 そこにはもう、あの立派な桜は無かった。既に切り倒されて久しいのだろう、古い切り株と注連縄だけが残されていた。これが現実の光景、ということなのだろう。
 蝉の声が降り注いでいる。境内には切り株だけではなく、幾つもの桜の若木が青々と若葉を茂らせていた。思ったよりも時間が経過していない、ということに気が付いて、弥生ははっと我に返る――そういえば今の時間は。
「いけない、お夕飯の準備をしないと!」
 慌ててバッグを抱えて石段を駆けだす弥生の後ろで、「またね」「気を付けて」という声と一緒に、くすくす笑う神様の声も聞こえた――ように思う。
(お夕飯は――お味噌汁と白米、それからキュウリの酢の物)
 さっき夢で食べたメニューを思い浮かべつつ、弥生は最後に一度振り返る。
 薄紅の、桜の花を想わせる和装の姿がちらと視界の端に映った、そんな気がした。




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  登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【 8556 / 弥生・ハスロ 】