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■時間軸の向う側〜何を望むか■

夜狐
【8636】【フェイト・−】【IO2エージェント】

 あなたに、変えたい過去はある?
 未完成の、隻眼の悪魔を従えた女性は、悲しげに、物憂げに問うた。
「あたしはね、無いの。今が割と幸せだから。でもね、あたしの大好きな人は――」
 不可逆の疵を、過去に負った。消せない罪を沢山抱えている。それを変えられるかもしれないのならば。

 変えたい、と望むのは、そんなにも罪深いだろうか。

時間軸の向う側〜いつかの場所で



 コードネーム”フェイト”へIO2からくだされた通達は当然と言えば当然のものであり、当事者すらも反発を見せず素直に従った。減給三か月、および1週間の自宅謹慎処分。むしろクビにされなかっただけマシと言えばそうかもしれない。
 独断で事件の主犯格と接触し、その人物を見逃すような真似をした訳だから、処分の甘さはむしろ温情とさえ言えただろうが、IO2という組織の都合上、そのエージェントを容易にクビには出来ない――という事情もあったかもしれない。
 どちらにせよ、”フェイト”というコードネームを名乗る青年、本名・工藤勇太は、その日、暇を持て余して自宅でもある職員宿舎、自室のソファに身を預けている所だった。律儀で真面目な彼は外出する、という考えが浮かばなかったものらしい。否、先の事件のことを想えば、外出して気晴らし、という発想も浮かばないのかもしれなかった。

 事件のあらましを語れば、ものの三行で報告書は終了する。
 時間干渉が可能な魔道具を、未完成ながら作ってしまった魔導錬金術師の響名。
 その響名の夫であり、そして魔道具を完成させるための「最後のパーツ」の持ち主でもあった藤代鈴生。
 結局、響名はその魔道具を完成させることは叶わず、魔道具――「ルンペルシュテルツキン」という童話の悪魔から名を取ったそれは、勇太の手によって破壊されるに至った。
 それだけだ。起きた事実は、ただそれだけ。

 それでも勇太はソファの上で、天井をぼんやりと見上げながら思う。自分の成したことは、果たして正しかったのだろうか。響名は、自分が作ってしまった魔道具が招いた悲劇を――過去に遡って鈴生の眼球の片方を奪い、その結果として彼の才能を歪めたことを悔い、それを「無かったこと」にするために魔道具を完成させようとしていた。
 痛みを得た過去を。悔いを残した「いつか」を。否定し、無かったことにしようとする。その行いを否定した勇太は、否定をしたことそのものは悔いてはいないし、魔道具を破壊したことについても、後悔はしていない積りだ。
 だがやはり、不安はある。他に選択肢があったのではないか。彼らが悩まず、傷まず、響名の後悔をそのままにしないような、そんな言葉や行動があったのではないかと。
(駄目だな。…そういう人間の感情が、響名さんのあの『魔道具』みたいなものを生んでしまうんだ)
 首を横に振った丁度その折だった。彼の、私用の情報端末に通知が表示される。
 メッセージ機能のみの簡素な交流用アプリケーションに、「東雲名鳴」の名前が表示されていた。

<勇太、謹慎喰らったって聞いたけど暇してるんなら酒でも飲もうぜ。スズも一緒だ>

 しばらく勇太はメッセージを書いては消し、書いては消し、悩んでから、一行送信をする。

<また昼間から飲んでるの、藤代さんは>

 我ながらくだらない文面だとは思ったが、他にどう言葉を綴りようもなかったのだ。すぐに返信が届く。
<相変わらず硬いな、いいじゃねーか。付き合えよ>
 文面から察するに、横から鈴生が入力しているのだろうか。
<どうせ男しかいねぇし遠慮するなって>
<男だけって…。響名さんは>
<あれ? 話してなかったか? 愛弟子なら、今頃オーストリアに着いた頃だぞ>
 オーストリア。
 思わず勇太はその単語を見直し、先日の事件を思い返し、それから、
<え? あの、藤代さんの所に帰って来たんじゃなかったんですか?>
 ――先日の事件の直後。残念と安堵の入り混じった声をあげ、破壊された「ルンペルシュテルツキン」の破片を抱き締めて泣き崩れる響名の下へ、煙草をくわえて鈴生がやってきて、その身体を抱き締めた所までしっかり勇太は見ている。良かった、一先ずこの夫婦は、どこかに悔いを抱えながら前を向いて歩きだすんだろうな、と何となくそう思い込んでいたのだが、
<…オーストリア?>
<おう。俺の魔道具がウィーンで見つかってなぁ。人間の生命力を燃料に使う”劇場”って、大物な上にロクでもねぇ代物だ。それ聞いた愛弟子が『あたしが行って壊してくるわ』って引き受けてくれたんで、任せた>
 勇太は額を抑え、一度端末を机に置き、天井を仰いで深呼吸をしてから言葉を選ぶ。
<いいんですか>
 折角再会できたのに。あるいは、また彼女を手放していいのか。そんな色々な感情を織り込んだそのひとことが、どれだけ画面越しに相手に伝わったものやら分からない。ただ、多分今頃、鈴生が肩を竦めているんだろうなと、そんなことを想った。
<いいんだよ。一所で大人しくしてるなんて、俺の嫁のガラじゃねーや>
 俺はそういうとこに惚れたんだからなぁ、と。
 付け加えられた一文の惚気に、勇太は嘆息した。徹頭徹尾、在り方の理解できない夫婦ではあるが、そこに確かな絆があることを理解できないほどに、勇太は鈍感では無かった。

 結局、昼日中からの飲酒に抵抗を示した勇太に、鈴生と名鳴が妥協する格好で、夕方にでも顔を合わせよう、と会話はそこで終わる。端末を閉じてアプリケーションを終了し、勇太はソファにまた背を預け、天井を見上げた。先程まで渦巻いていた感情は霧散したが、代わりに奇妙な徒労感があった。とはいえ。響名と鈴生は、まるで当たり前のように、二人なりの形での夫婦生活を続けていくようだった。未来へ向けて。過去の諸々を超えて。そこには悔いが残り続けるのだろうが、だが――
(先に在る物を、とっくに見据えてるんだなぁ)
 ――二人揃ってあの性格だ。人を食ったような言動の鈴生と、トラブルをまき散らすのが趣味の様な顔をした響名と。傍目に見ている限り彼らの神経は太いんだろうな、と、諦めを込めて勇太は首を横に振る――あの調子で何れ、IO2を相手にまた何かやらかさなければいいのだが。現場で彼らを取り押さえる立場には、勇太はなりたいとは思わない。
 まだ待ち合わせの時間までは随分な余裕がある。部屋の掃除は謹慎の一日目に終えてしまっていて、暇潰しになることも思いつかない。
 そうすると自然と、勇太の瞼は重たくなる。
(うーん)
 常であれば、あれをやらねば、これを片づけなければと思案する彼の思考は、しかしこの日ばかりは「ま、いいか」とゆるりと眠りに溶けて行った。



 ふ、と意識が目覚めたのは、耳に入った声が契機であった。女が啜り泣いているような声。勇太は瞼を押し開け、ゆっくりと身を起こす。見渡すと、目の前には見慣れぬ風景が広がっていた。
 それが、血だ、と気が付いて、一息に目が覚める。
 壁に飛び散っているのは、模様と見えたが、よくよく見れば乾いた血痕だ。それも多量の。これだけの血を流せば人が死ぬだろうと確信できる程のものだ。慌てて辺りを見渡す。
 自室ではなかった。それは確かだ。素朴、とさえいえるような丸太づくりの質素な小屋の中であろうと知れる。ただ人が生活していた気配だけはあって、彼の視線の先には薬缶の置かれた小さなコンロ、流し台、何度も洗われた形跡のある傷のあるまな板が並ぶキッチンがあった。
 それから視線を動かし、部屋の中央、女の鳴き声が聞こえてくる方へと目線を動かす。そして微かに目を瞠った。
 人影は二つあった。ひとつは幼い子供。そしてその子供をかき抱くようにして泣くのは女だ。勇太には見覚えがあった。小柄な体躯、これといって目を惹く容姿ではないが、平凡な茶色の髪を肩のあたりで切り揃えた女。
「響名さん…!?」
 今の彼女より幾らかは若いようにも、思える。勇太が愕然としてその名を呼ぶが、女は反応を返さず、代わりに彼女の隣にあったモノが面を上げた。それまで勇太の視界には入っていなかった「それ」に今更気が付いて、いよいよ勇太は驚愕に立ち尽くす。のっぺりとした顔立ち、感情を窺わせない無機質な姿。
「…ルンペルシュテルツキン――」
 それは数日前に壊した魔道具、その筈だった。
 壊れた筈のヒトガタの魔道具は、そこにぽつねんと立ち、片側だけの眼球を勇太に向けている。勇太を認識していない響名と違い、どうやらその魔道具だけが、時間へ干渉する能力ゆえにか、勇太の存在を感知している様子だった。とはいえ、何を語るでもなく、何を訴えるでもなく、ただそこにぼんやりと立つだけの魔道具は、すぐに視線を逸らしたが。
 そしてようよう、彼も気付いた。
(ここは…過去か)
 然程の驚きは、無かった。
 IO2にも報告はしていないし、勇太自身も制御できないため、普段意識に昇らせることは無かったのだが、彼には、「時間転移」の能力がある。否、「あった」と言うべきかもしれない。
(随分長いこと発動してなかったからなぁ。能力(ちから)自体、消えたのかと思ってた)
 複数の能力を抱えていると、そういうこともある。他の能力に統合されたりして、発現しなくなる能力、というのが無いではない。頭をかいて、勇太は改めて辺りを見渡す。
 部屋の中央で、響名が抱き締めていた少年が、解放されて彼女を見上げている。その片目がガーゼで覆われていることに気付き、勇太は得心した。あれは、鈴生か。とすれば、ここは。
(…響名さんの、後悔の中心…)
 己の造った魔道具が時間を超えて、過去の鈴生から眼球を奪った――その直後か。
 静かにはらはらと涙を零す響名を、今はまだ幼い鈴生は、片側だけの眼球で見上げている。
「どうして泣いてるの」
 声は子供らしからぬ、感情の揺れをおよそ見せぬものであった。彼がどんな境遇で育ったのかを、勇太は知らない。ただ、
(…両親は彼を生贄にしようとして…でも、逆に彼が助かって、両親が死んだ、って)
 彼が昼日中からワインを傾けつつ、教えてくれた話だ。

 ――ルンペルシュテルツキンは。彼の眼球を奪った悪魔は。彼と一年、共に過ごし、彼に知識を与えて去って行ったのだと勇太は知っていた。

(じゃあ、ここは…その時間軸の風景、なのか…)
 どうやら勇太はこの時間に対して干渉は出来ないらしい。半端な形で力が発現したものだ、と思いつつ、二人を見守る。どうして泣いているのかと問われた響名が、口を開くところだった。
「…あなたに謝らないといけないから…色々」
 この先、彼の、鈴生の才能は歪んだ形で発露することになる。勇太は知っているし、ここにいる響名も恐らく時間を超えて来たから知っているのだろう。ああ、彼女の後悔はそこにもあるのか、と、今更ながら勇太は思い知って、俯いた。その後悔を打ち消すチャンスを、砕いたのはほかならぬ自分であった。
 泣く女を前に、何を言われているのか彼は理解していないのだろう。鈴生はしばらく彼女を見上げ、それから、片側だけの眼球を細めた。小さな、異様に細い手。生贄として育てられたのならば、まともな育てられ方をしていなかったとしてもおかしくはない。骨の目立つ小さな手を伸ばして、彼は、響名におずおずと触れる。
「…ありがとう」
「どうして」
「わからないけど。…うれしかった、から?」
 語彙は豊富ではないらしく、それ以上は言葉に出来ない様子で彼は首を傾げる。響名は目線を落としてから、もう一度、彼を軽く抱きしめた。
 その姿が、ゆっくりと霞みはじめる。
 ――時間干渉の限度を迎えたのだろう。現代時間軸へと帰還が始まったのだ。その隣のルンペルシュテルツキンだけが、ただ当たり前のように、そこにあった。その姿を、感情の薄い片目で見遣りながら、子供姿の鈴生が問う。
「また、会える?」
 響名は、答えなかったが、首を横に振った。歯を食いしばってから、唸るように告げる。顔を覆って、嗚咽の隙から絞り出すように。
「会うべきじゃなかったんだわ…!」
 その声を残して、響名の姿は消えた。それを見送り、鈴生はしばらくぼんやりと虚空を見上げ、それから隣のルンペルシュテルツキンに顔を向ける。それが魔道具であり、ヒトではないことを、彼は彼なりに理解しているのだろう。応えが無いことを察している風に、独白のように問うた。
「どうすれば、また、会えるの?」
 ルンペルシュテルツキンは。道具であるそれは、少年の言葉を、己に対する命令として受け取ったのかもしれなかった。無言のままその場に座り、それから「それ」は指先で床に文字列を刻み始める。それがどういう内容を示している物か、勇太には理解が出来なかったし、この頃の鈴生にも恐らく理解は出来なかっただろう。ただ、彼はそれをじっと、食い入るように眺め続けた。

 ――いずれの未来で、彼は大成する。
 絶大な効果を誇る、魔道具の作成者として。ただし代償に多くの命を吸い上げ、無数の悲劇を生み出す錬金術師として。


 そこまで見守ったところで、不意に勇太は眩暈を覚えて目を閉じた。瞼を開くと、そこは見慣れた天井だ。壁掛けの時計を見遣るとどうやら数時間、寝入っていたらしい。
 待ち合わせの時間が近いことに気が付いて慌てて立ち上がり、彼はその拍子に落ちたものに気が付いた。
 数日前、彼が「ルンペルシュテルツキン」を壊したあの現場で、鈴生に手渡された眼鏡だ。人間の認識能力では感知できない筈の、複数の時間軸を視認できるようにする、という代物で、そして鈴生が作る物が全てそうであるように、絶大な代償を要求する魔道具である。それが何か大きな力を加えられたかのようにひしゃげ、潰れて、勇太の目の前に転がっていた。拾い上げてグラス越しに部屋を見遣るが、最早、そこには何も重なっては見えなかった。

 代償は――未来か、過去か、どこかで得る、自分の可能性。あるいは能力(ちから)。鈴生はそう説明していたか。

 胸中に、その言葉がストン、と落ちたのを勇太は自覚する。さっきの幻視にも似た過去の映像は、恐らく、最後の最後、代償として失われていく勇太の「時間転移」の力が発現した残滓であったのかもしれなかった。
(まぁ、そうだなぁ――当然、か)
 代償としては大きい、が。一度、過去の改変で後悔を消すという、響名の行為を、自分は否定したのだ。当然の代償と言えば、そうなのかもしれなかった。勇太は苦笑だけを落として、壊れたそれを、机の上にそっと置いた。最早ただの壊れた道具で、ゴミ箱に放らなかったのはただの感傷だった。
 それを自覚しながら、まずは着替えを取りにクローゼットへ向かう。端末には新しい通知が数件届いているのが見えた。
(そうだね)
 後悔を抱えて、それでもこうして、知己を得た人とお酒を飲もうと走り回る程度には、今、自分は未来を見ているのだ。
 そして、多くの人がそうであるように。そうやって時間は巡っていくのだろう。
 勇太は目を閉じ、垣間見た夢のような過去の影を振り払った。いずれ酒の席ででも、鈴生に問うことはあるかもしれないが、最早それは酒の肴以上のものにはなるまいと、そんな確信だけが残っていた。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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