しまった、と思うより先に、視界がぐにゃりとひしゃげていた。狭霧雷は歪んだ世界に耐え切れず膝をつき、普段感じる以上の重みを訴えてくる頭部を手で押さえた。熱かった。頭だけでなく、自分の体のどこもかしこも熱を発しているのがわかった。
心配そうに同僚が駆け寄ってくる。大丈夫かと言っているようだが、すぐには答えられない。
そうこうしているうちに、病院へ連れて行ったほうがよいのではという声が上がる。冗談じゃない、と雷は奥歯を噛み締めて立ち上がった。
「いえ、心配には及びません。疲れが出ただけでしょう。幸いにも明日は休暇をもらっていますし、一晩よく寝れば大丈夫です」
彼のトレードマークとも言える微笑を浮かべつつ、仕事に戻ろうとする。だが歪んだ視界はますます歪むばかり。よろめいて壁に手を突いてから、雷は改めて同僚に呼び止められた。肩を貸すというのを丁重に断って、代わりに早退させてもらう事にした。
壁に体を預けながら鈍重に歩いているうちに思い出したのは、数日前酷い咳をしていた、先程とは別の同僚の姿。原因はそれだと察しがつく。とはいえ、疲労が積もり積もっているのは事実であるし、ついでにここしばらくはあまり寝ていない。抵抗力が落ちていたであろう自分が悪いのだから、同僚を責める事はできない。
「‥‥治るといいんですが」
明日には大事な約束が入っている。その為に有給休暇を申請して、受理してもらう為に根を詰めて仕事して。なのに、「風邪を引きました」はないだろう。遠足の前日に張り切って準備をしていたら当日朝に熱を出す子供そのものだ。
約束をどれだけ自分が楽しみにしていたかを思い知らされて、雷は困ったように口元を緩ませながら、タクシーの後部座席にもたれた。そんなに柔らかくないはずのシートに、とっぷりと沈み込んでいくような感覚が彼を襲う。別々に暮らしている双子の妹を呼んで介抱してもらおうかとほんの一瞬考えたが、それだけはすまいと、一旦は携帯電話に伸ばした手を引っ込めた。意地もある。
タクシーを降り、どうにか自宅に辿りつくと、すぐにベッドへ向かった。几帳面に整えられている布団の上へ、文字通りに倒れこむ。
そこでとうとう、意識が途切れた。
どれほど時間が経ってからの事だろうか。首元を触られる、ややくすぐったい感触で、雷は深かった眠りから徐々に連れ戻されていく。
額にひんやりとした物が乗っているのがわかる。氷同士がぶつかる軽やかな音が聞こえる事から、濡らしたタオルだ、とぼんやり考える。
「うーん‥‥少しはマシになってる、かな」
覚えのある声を聞いてだるい瞼をこじ開けると、視界のほとんどが声の主の顔だった。
「‥‥咲、さん‥‥?」
一応驚いたのだが、熱で関節のきしむ体ではそれらしい反応を示せない。だが言いたい事は彼女――東雲咲にも伝わったようで、ほんのりと頬を赤らめている。そして体を離しながら視線を逸らすと、スカートのポケットから鍵を取り出してみせた。先日から付き合い始めたとはいえ、雷は咲にはまだ合鍵を渡していない。他に誰かいただろうか? と考えてようやく、万が一の時はと例の妹に合鍵を渡してあった事を思い出した。
「学校終わって帰ろうとしたら、校門の所でバイクに乗って待っててさ。倒れてそうな気がする、って言うんだよ。半信半疑だったんだけど、中に入ってみたら本当に倒れてるなんてね。びっくりした。双子ってすごいね!」
落ち着かないのか、咲は早口でまくし立てた。鍵をポケットに戻し、取り出し、また戻す。そうするうちにもまだ喋る。
おかげで、前のめりに倒れていたはずの雷が、何故きちんと布団の中にいたのかが判明したのだけれども。――獣化して運んだのだそうだ。高校を卒業してまだ半年ほどの女の子が、10歳近くも年上の成人男性を運ぶには、それが一番手っ取り早かったのだろう。想像してみれば男としてあまりにも情けない光景で、雷の眉間にわずかだが皺が寄る。
「あっ、苦しい!? ごめん、喋りすぎたか」
氷枕を変えてくる、とやや乱暴な動作で雷の頭の下からそれを引き抜くと、咲は小走りでキッチンに向かっていった。
衝撃で額からずり落ちたタオルを元の位置に戻す雷だったが、早くも眉間の皺はなくなっていた。
次に目を覚ました時には、視界の隅に咲の後頭部が見えた。雷の横たわるベッドに背中を預け、真剣に何かの本を読んでいる。垣間見える図などから察するに、おそらくは、学校で使っている参考書なのだろう。
頭の下には氷枕の感触が戻っている。額のタオルも、寝ている間に何度か変えられたらしく、ひんやりしている。布団の外に出ていたような気もする腕も、しっかりと中にしまわれている。本来なら課題を片付けているであろう時間を自分の世話に費やしてくれたのだと思うと、申し訳ない反面、やはり嬉しくもある。
悟られないよう、静かに手を伸ばしてみた。関節のきしみは大分軽くなっている。そのまま、ぽすんっ、と咲の頭に不意打ちした。かなり集中していたらしく、ものすごい顔で雷のほうを振り向いた。
「びっくりした‥‥。いつから起きてたわけ?」
「‥‥数分前ですけど」
「まったくもう、脅かさないでよね。えーと、顔色は大分よくなったかな。あ、そうだ。ねえ、体温計ってどこにある? ちょっと探してみたんだけど見つからなくて」
「それなら‥‥向こうのキャビネットの中に、救急箱がありますから‥‥」
「救急箱の中、ね。ちょっと待ってて、とってくる」
言うなり、彼女は立ち上がった。歩き出そうとして、しかし、後方から引っ張られて立ち止まらざるをえなかった。服の裾を雷が掴んでいた。
「何、どうしたの」
咲は目を丸くして驚いたが、雷本人にとっても、それは想定外の行動だった。用事があるわけでもないのに。あったとしても、呼び止めればよかっただけなのに。つい、手が動いていた。
雷の戸惑う様子にくすっと笑って、咲は自分の服を掴んでいた手をとった。ベッドの縁に腰を下ろし、氷枕と濡れタオルと汗のせいで湿り気のある彼の髪を優しく撫でた。
「具合悪いと、心細くなったり、寂しくなったりするよね。誰かに傍にいてもらいたくなる。‥‥そういう事でしょ? よしよし、愛い奴め」
撫でるだけでなく、もつれた髪を梳く事もあった。ゆるやかに。何度でも。
「‥‥すみません。この様子だと、明日は無理かもしれません」
「いいよ別に。ずっと看病しててあげようじゃない」
「ですが」
「明後日からまた仕事なんでしょ。きっちり治しとかないと」
咲が重心を上半身へ移した。雷に覆いかぶさるような格好で。
「それに‥‥これでも精一杯心配してるんだから」
雷の手を包んでいる彼女の手に力がこもる。
「‥‥風邪、うつりますよ」
「うつったら、散々看病させた後でうつし返してあげる」
「それは大変そうですね‥‥」
大変そうだがその実、看病されるよりもするほうが性に合っていると思いながら、雷は空いているほうの手を出し、朱の差す頬に添える。そして頬から耳へ、耳からその後ろ側へと手の位置をずらしていきながら、少しずつ確実に、自分のほうへと引き寄せていった。
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