天高く、馬肥ゆる秋とはよく言ったもので。
「‥‥我ながら‥‥いい出来‥‥だな」
肩より長い黒髪を結わえていた紐を解きながら、神楽坂紫翠は満足気に頷いた。料理中は邪魔になるからと、ひとつにまとめていたのだ。
テーブルに並べられているのは、三段重ねのお重、その各段である。言うまでもなく、中身はしっかりと詰まっている。輝かんばかりの出来栄えに加え、高グレードなラインナップである事から、彼がいかにこの弁当の作成に力を入れたかがひしひしと伝わってくる。
「‥‥問題は‥‥これをどうするか‥‥だが‥‥さて‥‥」
外したエプロンを椅子の背もたれにかけて、静かに考え込む。
彼は食欲の秋を食欲の秋たらせる為だけに、作った。自分で食べる為に。――つまり、間違いなく数人分はあろうかという弁当を完成させておきながら、その実、「どこで誰と(もしくはひとりで)食べるのか」という重要な部分を決める事をすっぽりと放棄していた。
で、そんな重要な事を今更考えているわけなのだが。
「‥‥ふむ‥‥隣りは、何をする人ぞ?」
つい、と視線を動かした先は、リビングを通り越した向こうにある窓の外。からりと良く晴れた、青い空。まさに高い天である。
やや遠くで「ポンッ」だの「パンッ」だのと、響いているのが何となく聞こえてくる。
秋に付属するものは食欲だけではない。スポーツもまた、秋を彩るものである。
やがて紫翠は、粗熱の取れたお重を重ねて蓋を閉め、丁寧に包み始めた。
『おおっと、赤組の大将が白組大将に突撃したぁー!!』
「行けー! そのまま鉢巻き取っちゃえー!」
「絶対取られるなよー! ほらっ、後ろにも来てるーっ!!」
頭上に何本も渡された万国旗や、ずらりと並んだテント、グラウンドを囲むように並べられた生徒用の椅子と、その更に外側を囲む保護者席。目玉競技のひとつである騎馬戦の盛り上がりようが生徒・親ともに半端ではなく、実況をしている放送委員もまた例外ではない。あまりに大きな声を出しすぎてマイクがハウリングを起こしているが、それゆえの耳の痛さすらもどうでもよくなっているらしい。
紫翠が向かったのは小学校の運動会だった。花火やスターティングピストルの音に誘われてやってきたのだが、そういえば運動会が開催されるという話をどこかで耳にしたような気がしないでもなかった。
こんなによい天気の日に運動会ができるなんて、幸せな子供達だ。そんな風に思いながら、両手を組み合い力勝負になっている双方の大将の姿を鑑賞しつつ、お重を広げるのに丁度よい場所を探す。困った事に、敷物を持ってくるのを忘れた。芝の生えている辺りなら腰を下ろせるかと考えたのだが、緑に覆われている場所は同じように考えたらしい父兄によって既に埋め尽くされている。
「‥‥地べたで‥‥我慢するか‥‥それとも‥‥一旦、戻るか‥‥?」
できる事ならどちらもごめんこうむりたい。
立ち止まって迷っていると、近くの父兄席で手招きする人がいた。
「そんなところにボーっと突っ立ってたら邪魔になるでしょ、ほら、こっち!」
言われて近寄っていくと、それまで紫翠がいた場所を、次の競技に参加するらしい生徒が駆け抜けていく。
「‥‥確かに‥‥邪魔だった‥‥ようだな」
「そうよー。感謝しなさいよね、お兄さん」
「何!? お兄さんなのか、キミ!」
自慢げに胸を張るふくよかな奥方と、その隣でカメラ係に従事している旦那さん。驚いた旦那さんは、もったいないだのなんだのとぶつぶつ呟き、それでも赤組大将だという息子のシャッターチャンスを逃すまいと、紫翠の事は後回し。
「あなたは‥‥いいのか?」
横にずれて紫翠の為に場所を空けてくれた奥方に、一応確認をとる。
「今から見るわよ、勿論ね。お兄さんも一緒に応援してちょうだい。赤よ、赤!」
「‥‥了解した」
ふと手元を見てみれば、手作りらしき赤い旗を押し付けられていた。いつの間に、と視線を元の位置に戻すと、奥方は既に息子の勇姿に夢中になっていた。
これも何かの縁だ。大きな声を張り上げる事はあまり得意ではないが、あまり広くはないレジャーシートに自分を迎え入れてくれた礼はしなければならない。膝立ちになり、天に達するほど手を高く伸ばし、赤い旗を優雅に振り続けた。
「何これ、マジうめぇっ!」
見事に白組大将の鉢巻を奪った赤組大将は、昼休みまであと少しだというのに、箸を手にしていた。つついているのは、紫翠が持ってきたお重の中身だ。比較的凝った料理ばかりが詰まっていたせいか、少年が見た事も味わった事もないものが含まれていたらしい。物珍しさに目を輝かせながら、ものすごい勢いで胃におさめていく。
「こら! 次の競技が終わったらお昼なんだからそれまで我慢しなさい。あんたが行かないと応援始まんないんでしょ」
「へいへい、行ってきますよ。――お姉さん、また後で食わしてね♪」
「ふふふ‥‥息子よ、その人はお姉さんではなく、お兄さんなんだよ‥‥」
咀嚼しつつ立ち上がった少年は、丸めて置かれていたいわゆる学ランを手に取ると、ばさりとはためかせるようにして袖を通した。
「‥‥いよっ‥‥大将‥‥」
紫翠はそんな彼を囃したが、口調のためかあまり囃しきれていない。けれど少年は振り返り、白い歯を見せて笑うと、びしっと親指を立てた。紫翠も同じく親指を立てて返す。
少年の周囲に、赤い鉢巻の仲間が集まっていく。これから彼らは、午前中最後の競技を応援しに行くのだ。大将たるあの少年に合わせて、両手をかざし、腹の底から声を張り上げ、仲間の士気を高めて、自軍の勝利を願う。そこには、大人の世界――ましてや芸能界という特殊な世界に漂いがちなどろどろとしたものは微塵も存在せず、だからこそ美しい。
少年達を見送る、眼鏡の奥の瞳が細められたのも、陽光の眩しさのせいだけではないだろう。
あの純粋さは、自分からはもう失われているものなのか? ――否。決してそんな事はないはずだ。
「来た甲斐は‥‥あった‥‥か?」
スポーツの秋の体現を観察しながら、自分は食欲の秋を体現しよう。この小学校を訪れたのはそんな軽い気持ちからだった。けれど今、翡翠は初心を思い出した。好きだから、演奏をして、演技をして、それらを仕事に選んだのだと。そこに在ったのは純粋な想いで、少年達の姿と重なる。
「‥‥明日から‥‥また‥‥頑張れそうだ、な‥‥」
大変な時もある。つらい時もある。だが想いがあるからこそ、前に踏み出せる。
トラック内に広がる勇姿に、大歓声が上がる。
一生懸命な子供達にまた目を細め、翡翠は自作の玉子焼きを一口かじると、その出来に深く頷いた。
※この文章をホームページなどに掲載する際は、必ず以下の一文を表示してください。
この小説は株式会社テラネッツが運営するオーダーメイドCOMで作成されたものです。
|