夕刻。
「これは‥‥」
顔を出したばかりのお月様に、目を奪われてしまいました。大きな真円。ぽってりとした、ひと雫紅を落としたような、暖かな色。
―に〜‥‥
足元に擦り寄ってきたぶち猫を、抱き上げました。
「リリティア、シエルと一緒に、メッセンジャーをお願いできますか?」
ふにふに、とローブに押し付けてくる頭を撫でてから、リリティアをそっと床に下しました。さて、羊皮紙とペンを用意しなくては‥‥
●
呼ぶ声を、聞いた気がしたのです。
「イチゴ?」
静かな夜でした。白猫のイチゴが、カリカリと木の扉を掻いています。
「外に出たいの?」
イチゴ色の瞳を見返してから、扉に手をかけました。
「‥‥あぁ‥‥」
その感覚を、何と表現したら良いのでしょう? 少し、ひんやりとした、とても、近しくて懐かしい気配。それが、体と心をまるごとくるみ込んで、外へと私をいざなったのです。
「あなた、が?」
からり、と。扉を明けると、正面に真円が見えました。暖かな色の月影が、辺りに満ちています。
日頃慣れ親しんだ精霊の気配が、今夜は一段と身近で。私に寄り添ってくれているような、私を呼んでいるような、そんな気がしたのです。
―てってって‥‥
イチゴが、家を出、道を曲がりました。姿が見えなくなったのは、ほんの少しの間。すぐに戻って来ると、その後ろには、見覚えのある猫さんを連れていました。
「あなたは、リディーさんの‥‥」
リリティアさんの首を飾るリボンには、小さく畳んだ紙が結ばれていました。
「あら、素敵‥‥です」
そっと外させて頂いて、広げると、あの方らしい、整った文字が目に入りました。
「喜んで、ご招待に預かりますね」
―ぅな〜‥‥
微笑かけると、リリティアさんは一言お返事くださって、次の方へメッセージを届けに行かれました。
「あなたも、行くの?」
その背中を、イチゴか追いかけて行くのを見送って、扉を閉めました。お茶、お菓子‥‥お料理は、ライラさんが抜群にお上手なのですけれど‥‥さて、何を持って行きましょう。
●
「シエル殿、レドバリー」
淡い銀色に照らされた道。先を行く二匹の猫に、声を掛けたのさね。
「ちょっと、待ってくれ」
―てくれ〜♪
横では、クラウディウスがあたしの真似をした。銀色の羽と髪とが、ひらひら、きらきらして、綺麗さね。
ぴた、と立ち止まった猫達が、振り返る。かすかに急かすような視線に、苦笑が漏れたんだ。
「荷物が多いんだ。落としたりでもしたら、だいなしになるのさね」
抱えた籠には、焼きあがったばかりのケーキ。先程出来上がって、さて、誰を招待しようか、シェアト姉には、是非食べてもらいたいが‥‥と思っていた所に、シエル殿が招待状を持ってきてくれたのさね。素敵なタイミングだな、と外に出たら、満月じゃないか。ひんやりとした夜気に映える、冴え冴えとした銀。シェアト姉や、リディエール殿の綺麗な髪を思わせるような光が溢れていたのさね。
―る〜♪ るる〜♪
今夜のクラウディウスは、一段とご機嫌なのさね。やはり、月のエレメンタラーフェアリーだからかな。
「さ、行こうか」
まだ暖かいケーキの籠を抱えなおして、再び歩き出したんだ。
●
「今日も良いお月様ですねぇ〜」
ほわほわ、ほえほえ。
「さっきより、ひんやりですねぇ〜」
夕方、お山の近くに見えたお月様は、ほんわり、もったり‥‥欠片を食べたら甘そうな、そんな色でした。でも、高い所へ昇るにつれて、段々と、きらきら‥‥金色から、銀色に変わっていったのですね。月や星を眺めるのが大好きなので、つい、長い間見とれてしまっていたのです。
「お月様には兎さんがいるそうですけど、あんなちいさいところにどうやって暮らしてるんでしょう?」
それに、満月ならばともかく、三日月の日は‥‥もしかして、兎さん、爪先立ちになっているんじゃないでしょうか?
考え込んでいた所に、リリティアさんとイチゴさんがお迎えに来てくれました。
「道は‥‥こっちですね? え、違うのですか‥‥ああ〜そうでした!」
てってって。
『今晩は。お月様の下で、お茶やお菓子を持ち寄ってお茶会をしませんか? 飲み物かお茶請けを何か一品、お持ち下さい。暖かなハーブティーを淹れてお待ちしております』
歩きながら、届けてもらったカードを声に出して読んでみました。
「『‥‥リディエール・アンティロープより』‥‥きゃ〜」
―どったーん!!
「あぅぅ‥‥痛いです」
石ころさん、こんな所で、お休みしないで欲しいのですけど。おでこと、膝と‥‥あう、肘も痛いのです。
たっとこたっとこ。
駆け寄って来たリリティアさんとイチゴさんが、心配そうに見上げてくれました。
「だ、大丈夫ですよ〜。慣れてますから〜」
それに、今日はいつもより少ないんです。朝起きて一回、お昼に二回、さっきもお月さまを見ながら一回‥‥なんと! まだ五回目なのです。昨日は十三回でしたから、これは、きっと良いことに違いありません。
「石ころさん、次は気をつけてくださいね?」
ぺったりと座ったまま、振り返って、お願いしておきます。石ころさんは、ますます明るくなってきたお月様の光に照らされて、ぴかぴか光っているようにも見えました。
「‥‥あ、もしかして、石ころさんも痛かったですか? 痛かったですよね‥‥あぅ、ごめんなさいです」
自分の失敗を、人のせいにしてはいけません。ごめんなさい。ぺこん、と頭を下げてから、立ち上がりました。
「お待たせしました。それでは、行きましょう‥‥え? こっちじゃなくて、そっち? ありがとうございます」
道に迷ってしまいそうになるのも、お月様の魔法でしょうか?
●
庭にテーブルセットを出して、ランタンを控えめに灯して、ドライフルーツを小皿に盛って。淹れたてをお出ししたいので、お湯はまだ沸かさず、準備まではしっかりと。
「そろそろ、いらっしゃる頃合いですね」
煌々と辺りを照らす白銀の光。庭の木立も、草も、花も。昼間とは少し違った表情をみせています。
月と、私。その間には、何もありません。あまりに明るいので、手を伸ばしたら届いてしまいそうです。
「‥‥‥‥」
こうして、静かに向き合っていると、なぜでしょう。懐かしいような、少し悲しいような、そんな気分になるのは。さらさらと、傍を流れる水の音が、心に寄り添い、そして、小さな‥‥小さな漣を、立ててゆきます。
お月様を見つめ、その光に照らされている体を感じ、それを取り囲む世界を想う。そのうちに、己という存在が、世界に溶けて消えてゆくような、世界の全てに広がってゆくような‥‥自分の境界が、曖昧になってくような。
今、この美しい月を、ジ・アースに住む、どれだけに人が見上げているのでしょう。親しい人、知っている人、そして、数多の見知らぬ人。遠く離れた親しい人も、すぐ傍にある見知らぬ人も、この光源を媒介に、繋がってゆくような気がいたします。
ふと、僅かにまみえた事があるだけの、ある方の事が思い出されました。かの人も、この月を見上げておられるかも知れません。‥‥そうして、かすかにであっても、繋がっていると‥‥私は、思いたいのかも、知れません。
●
角を曲がると、リディーさんのお家です。庭先に人影を認め、声を掛けようとして‥‥息を、呑みました。
ああ、なんて‥‥。
お綺麗な方だとは、常日頃思っていました。しかし、魅入られたように月を見上げる姿は、全身に月影をまとって、ぽつり、と立っている佇まいは、なんというか‥‥ジャパンで聞いた、御伽噺の姫君のようで。今にも、月に帰ってしまいそうで。
姫君、などと言ったら、困らせてしまうかも知れませんね。女性に見えた訳ではないのです。しかし、男性にも見えなくて‥‥性別を超えた、美しいもの。そう、まるで天使のような‥‥
―にゃあ。
月光の魔法を解いたのは、シエルさんの鳴き声でした。
「こんばんは、シェアト姉。‥‥どうかしたかい?」
ライラさんが、シエルさんとレドバリーさんの後から、いらっしゃいました。
―ばんは〜♪
嬉しそうに飛んで来るのは、クラウディウスさん。
「あ、シェアトさん、ライラさん。いらっしゃいませ」
振り返って穏やかに微笑むのは、いつものリディーさん。それが、ほんの少しだけ残念で、でも、とてもほっとして。
「こんばんは。お招きありがとうございます」
●
「満月の夜は、街が迷路になるのですね〜。でも、イチゴさんとリリティアさんは迷わないのです。すごいです」
あたしと、シェアト姉より少し遅れて、リーラル殿がやってきた。4人揃った所で、お茶会が始まったのさね。
‥‥まあ、実際に席に着くまでには、リーラル殿の土で汚れたスカートや、擦り剥いた膝や、つーっと、一筋血の流れているおでこに皆して驚いて、慌てて傷の手当をしたり、服の汚れを拭ったり、という一幕があったのだが‥‥。
ともあれ、席に着いた頃には、月は大分高く上っていたのさね。雲ひとつ無かった夜空に、微かに、薄雲が棚引き始めていてね。いささか強かった月光を、やんわりと抱きとめてくれていたのさね。まるで、月が薄絹を纏っているように見えたのさ。そう言ったら、シェアト姉が、
「素敵な表現ですね。ライラさんは、吟遊詩人にもなれそうです」
と言ってくれたのさね。お世辞にしても褒めすぎだろうと思ったのだが、本職の人に言われると、照れくさいけど嬉しいものだな。
「でも、こんなに美味しいケーキを焼けるのですから、やはりお菓子職人になって頂きたい気も‥‥」
「本当に美味しいのです〜」
「まだ、焼きたてなのですね。我ながら、良い時にお誘い出来たようで、嬉しいです」
「ありがとう。喜んで貰えたのなら、嬉しいのさね。沢山あるから、余った分は持って帰って欲しいのさね。1、2日置いたものには、また別の味わいがあるんだ」
今日のメニューは、ウェルシュケーキとナッツのケーキ。ウェルシュケーキは、この辺りでは珍しいかな? 故郷ウェールズの味を、皆に知って欲しいと思ったのさね。
「リディエール殿のハーブティーも、良い香りなのだね。シェアト姉の林檎のコンポートも、優しい味で大好きなのさね」
「あら、ありがとうございます」
「ハーブティーが終わったら、今度はジャパンのお茶を淹れましょう。シェアトさんとリーラルさんが、それぞれ奮発して下さったのですよ」
「ノルマンで、ジャパンのお茶の飲み比べか。贅沢なのさね。嬉しいな」
ジャパンのお茶はさっぱりとしていて、意外とノルマンのケーキにも合うのだよな。
●
「猫さん達にもお裾分けなのです」
庭の隅で、ころころと絡まりあっては転がっている、四匹の猫さん。シェアトさんがミルクと蜂蜜を持ってきて下さったので、お願いして、平皿に少し分けてもらいました。
「美味しいミルクですよ」
席を立って、猫さんたちに歩みよ‥‥きゃあ〜!
―どったーん。
「あぅぅ‥‥八回目なのです」
「リーラルさん!」
「だ、大丈夫ですか?」
皆さんが、駆け寄ってきてくれました。
「‥‥あらら、お皿はどこですか?」
うつ伏せに倒れたまま、ぺたぺた、と回りを手で探ってみましたが、見つかりません。ま、まさか割ってしまったのでしょうか? 借り物なのに、どうしましょう‥‥。
「皿より、自分を心配しなくては‥‥ミルクだらけなのさね」
ライラさんが、布を差し出してくれました。ミルクだらけ‥‥ああ、どおりで、さっきから甘い匂いがすると‥‥。
―にゃ〜‥ごろごろ‥‥
あら、リリティアさん。
ぺろん。
頬に、ざらざらした、暖かい感触が。
ぺろぺろ。
今度は、髪ですか?
ぺろり。
ローブまで。
気づいたら、猫さん皆に囲まれていたのでした。
「あ、ありました〜」
ぺたり。お皿は、私の頭の上に、逆さまに被さっていました。割れていなくて、よかったです。お皿を取って、起き上がりました。
―に〜‥‥
あら、レドバリーさんは、どうしてそんなに残念そうなのですか?
「皆さん、きれいにしてくださってありがとうございます。後は、自分でやりますね」
優しい猫さんたちです。きちんとお礼を言わなくては。
●
少し、雲が出てきましたか。それが、するすると流れてゆく様子は、お月様が白い波の上を漂っているようにも見えました。
「なんだか、月が船のように見えるのさね」
おや、ライラさんも同じように、思われたようです。
「懐かしいな。‥‥子供の頃の話でもしようかね」
そう言いながら、丁寧に、空になったカップにお茶を注いで下さいました。ジャパンの上質な緑茶は、二番煎じでも、美味しく頂けるのですね。
「船の中で育ってね、皆、自分の子供の様に可愛がってくれてね‥‥」
記憶を辿っておられるのでしょうか。目を細めて、くすり、と微笑まれました。
「こんな夜に、甲板に出るとね、微かな星の光は、全て月に隠れてしまっていてね。月と、海と、空しか無いんだ。季節と時間によっては、明星も見えるけどな、それだけだ。世界に、自分しか立っていないような気分になるのさね。それが、怖い反面、少し大人になったみたいで、どきどきしてね。今思えば、夜中だって、誰かしら見張りがいた筈だから、影で見守られていたんだろうけどな」
今頃、船の皆は、この月の下で何をしているのだろうね、と呟かれました。
「皆さんも、ライラさんの事を思い出されているのかも知れません」
シェアトさんの声は、夜気に広がって、しん、と心に染渡ってくるようでした。いつもとは少し違ったお洋服は、収穫祭に合わせて誂られたのでしょうか。優しい色のケープと、裾の長いワンピース。シェアトさんには珍しくブーツを履かれています。髪に巻いたリボンが動くたびに揺れて、可愛らしくも神秘的ですね。
その時。
―がしょんっ!
しん、とした空気を、破裂音が破りました。
「あぅぅ‥‥」
呆然と、手元を見つめるリーラルさん。落としてしまったカップが、テーブルの上で真二つになっていました。
「ご、ごめんなさい」
あわあわと立ち上がり、周囲が「あ‥」と思った時には、勢い余って後ろにひっくり返り、後頭部をしたたかに打ちつけ‥‥
私が慌てて抱き起こし、シェアトさんが心配そうに声を掛け、ライラさんは布を濡らしに、水場へ走って行かれました。
「あわ〜、お星様が見えるのです〜」
「お、落ちついてください‥‥」
今夜は、お月様が明るくて、お星様は見えません!
「慣れているので、大丈夫です〜。このお星様達は、お馴染みさんの仲良しさんです」
それは、不味いのですってば!
しかし、その言葉通り、ライラさんが戻っていらした頃には、ご自分で服の埃を払って、きちんと席についておられました。これは、ご本人より周りが早く慣れなくてはなりませんね‥‥。お怪我が無くて幸いでした。
‥‥さて。
どれ位、話し込んでいたのでしょうか?気が付くと、お月様は私達の真上に来ていました。
辺りを見回すと、庭の菜園の収穫用に置いておいた籠、その中で、リリティア、シエル、イチゴさん、レドバリーさん、そして、クラウディウスさんが眠っていました。ネコ玉に潜り込んだクラウディウスさんは、シエルの尻尾を枕にして、イチゴさんの背中にうつ伏せています。
「そろそろ、お開きでしょうか?」
シェアトさんの声には、ほんの少し、名残惜しげな響きがありました。
「秋の夜は、長いのですから、もう少し‥‥もう少しだけ、お話をしませんか?」
昔の話、今の話、これからの話‥‥
「はい‥‥」
「そうだ、シェアト姉の、子供の頃の話も聞きたいな」
「私の、ですか?」
「ああ」
「リディーさんの故郷のお話も聞きたいです〜」
くすり。
「おやおや、まだ、話しの種は尽きそうにありませんね」
ドライフルーツが無くなりそうなので、少し、足しておきましょう。お湯も、もう一度沸かした方がよさそうですね。
お月様の元でのお茶会は、もうしばらく、続きそうです。
●
それは、今も何処かの山の端に昇り、何処かの海原に落ち、何処かの野原を、森を、街を、旅人を、照らしている。
薄藍の空に浮かぶ白い月が、誰も居ない小さな庭を見下ろしながら、ゆっくり、ゆっくりと‥‥朝日に役目を譲る頃、人々は、明け方の夢を見る。
昨夜の、会話の欠片を、その胸に抱きながら。
〈終〉
●マスターより
いつもお世話になっております。紡木です。
月というものは、毎日形を変えるだけではなく、一晩のうちにも、随分と姿を変えるものです。ふと眺めている間にも、刻々と変わり行く様子は、楽しくもあり、また寂しくもあり。この季節特に美しいその姿を、お茶会をしながら皆さんに愛でて頂けていたら良いな、と思います。
それでは、またお会いできる事を願って。この度は、発注誠にありがとうございました。
※この文章をホームページなどに掲載する際は、必ず以下の一文を表示してください。
この小説は株式会社テラネッツが運営するオーダーメイドCOMで作成されたものです。
|